卷之二百八十一 志第卅八

職官二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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神祇官

神祇官は、上代においては中臣・忌部の二氏が掌り、代々輔相(ほすけ)の職とされた。【古語拾遺、職原抄。】その後、祭祀と政治は次第に分離した。【日本書紀大意。】孝徳天皇の時、小華下忌部首作賀斯を神官の頭とし、もっぱら王族の叙位および宮中の礼儀・婚姻・卜筮の事を掌らせた。これがこの官の始まりである。【古語拾遺。○日本書紀を按ずるに、継体天皇元年・皇極天皇二年に、いずれも神祇伯が見えるが、おそらく後から追記されたものであろうから、ここでは採らない。】大宝令の制定に及んで今の名に改め、伯一人(従四位下)を置き、神祇の祭祀、祝部・神戸の名籍、大嘗祭の鎮塊、御巫の卜兆などの事を掌らせた。【令義解。】詳しくは神祇志に見える。大副一人(従五位下)、少副一人(正六位上)は、いずれも伯の次席である。大祐一人(従六位上)、少祐一人(従六位下)は、いずれも官内の糺判、文案の審署、宿直の勾検・違失を掌る。大史一人(正八位下)、少史一人(従八位上)は、いずれも受け付けた事案の上申・抄録、文案の勘署、公文の検閲・違失の読み合わせを掌る。【令義解。】史生四人【続日本紀、養老四年に置く。】は、公文の書写、文案の施行を掌る。【令義解。】神部三十人、卜部二十人、【令集解、類聚三代格、宝亀六年。卜部二十人のうち二人を選び定めて亀卜の長上とする。○延喜式にいう、およそ卜部は三国の卜術に優れた者から取り、伊豆五人、壱岐五人、対馬十人とする。もし在京の者を取る場合は、技芸が抜群でなければみだりに充ててはならない。】神琴生二人、【類聚三代格、宝亀四年に置く。後に絶える。承和十四年、一人を補い復した。】使部三十人、【○延喜式には十五人とある。】直丁二人。【令義解。】後世、大副・少副にはいずれも権官を置いた。【職原抄。】堀河天皇の時、花山天皇の皇子清仁親王の玄孫顕広王を伯とし、これより子孫が相承して、ついに世襲の職となり、他氏には任じられなくなった。【白川家系図、職原抄。】

およそ官はみな四等に分けられ、長官・次官・判官・主典という。長官は、神祇官では伯といい、太政官では大臣といい、八省では卿といい、台(弾正台)では尹といい、職では大夫といい、府では督、また大将といい、寮では頭といい、司では正といい、太宰府では帥といい、鎮守府では将軍といい、国では守という。次官は、神祇官では副といい、太政官では納言【大納言・中納言。】といい、八省では輔といい、台では弼といい、職では亮といい、府では佐、また中将・少将といい、寮では助といい、太宰府では弐といい、国では介という。判官は、神祇官では祐といい、太政官では少納言・弁といい、八省では丞といい、台では忠といい、職では進といい、府では尉、また将監といい、寮では允といい、司では佑といい、太宰府では監といい、鎮守府では軍監といい、国では掾という。主典は、二官(神祇官・太政官)では史といい、八省では録といい、台では疏といい、職では属といい、府では志、また将曹といい、寮では属といい、司では令史といい、太宰府では典といい、鎮守府では軍曹といい、国では目といい、その他もみなこれに準ずる。長官は官中の大事を裁決するにあたり、判官の審議・詳細な検討を待たない。これを総判という。判官は官内の小事を扱う。これを糺判という。判官・主典および史生の職掌は、諸司みな神祇官と同様である。【令義解、倭名抄、職原抄を参照。】

太政官

太政官は、すなわち古代の大臣・大連の職である。武内宿禰・大伴武持以来、大臣・大連が並んで大政を掌ってきた。【職原抄。】孝徳天皇の制度改革により、あらためて左右大臣を置いた。天智天皇が初めて太政大臣を置いた。【日本書紀。】大宝令の制定に及んで、太政大臣一人(正従一位)を定め、その職は四海の模範となり、国家を治め道を論じ、陰陽を整えるものとし、適任者がいなければ欠員とした。左右大臣各一人(正従二位)は、多くの政務を統理し、綱紀・要目を総攬することを掌り、あわせて弾正台が不当な行いを糺すのを助けた。

およそ上から下へ及ぼす場合、天子が発するものを詔といい、大事に用いる。【また詔書ともいう。】勅といい、小事に用いる。【また勅旨ともいう。】三后・太子が発するものを令という。【また令旨ともいう。】太政官が諸司に下すものを符という。下から上へ達する場合、大事を論奏といい、次を奏事といい、小事を便奏という。三后・太子に対しては啓という。諸司が太政官に、また下級の官司が上級の官司に申し上げる場合を解という。諸司が互いにやり取りするものを移といい、内外の主典以上が諸司に申すものを牒といい、内外の雑任以下が諸司に申すものを辞という。【令義解。】

太政官は八省・諸国を総統し、天下の政事はすべてここで決せられる。詔勅を発し官符を下すので、都省と称された。【令義解、職原抄。】およそ大祭祀、国用の見積もり、官員の増減、流罪・除名の裁断、国郡の廃置、兵馬の徴発、蔵物の使用、勅授による外位・五位の授与、律令に定めのない事項で議すべきものは、みな論奏とする。【令義解。】およそ諸王が太政大臣に任じられた場合は、親王を左右大臣にすることはできない。諸臣が太政大臣に任じられた場合は、諸王を左右大臣にすることはできない。親王が左大臣に任じられた場合は、諸王が右大臣になることができるが、諸臣は親王と並んで位に就くことはできない。【延喜式。】太政大臣は百官の上に位し、左右大臣がこれに次ぎ、あわせて三公と称された。天子を輔導し、天下の大政を行うものである。【令義解、職原抄の大意を参照。】当初、天智天皇以後、太政大臣はみな皇太子がこれを務めた。【日本書紀、公卿補任。】あるいは親王が官事を知る場合は、必ずしも本官を置かなかった。称徳天皇が僧道鏡を寵愛し、太政大臣を授けるに及んで、臣下が本官(太政大臣)に任じられるのはこれが初めてである。【続日本紀、公卿補任。】その後、藤原朝臣良房が太政大臣として摂政となり、その子基経もまた左大臣として摂政となり、万機はすべて関白基経に委ねられた。これより摂政・関白はついに官名となり、大権はことごとくそこに帰した。およそこの職に昇る者は、たとえ左右大臣であっても、なお太政大臣の上に位し、一座、また一上(また一人)と称された。位が人臣を極めることをいうのである。源頼朝が兵馬の権を執るに及んで、摂政・関白・三公は、名ばかりで実は廃れ、王政はふたたび天下に行われなくなった。【三代実録、職原抄、東鑑を参照。】

内大臣一人(正従二位、【職原抄、官職難儀。○諸書には内大臣の位階を確かに示すものはなく、おそらく正官ではないためであろう。官職難儀には、正従二位を相当とするとある。今はひとまずこれに従う。】)は令外官である。孝徳天皇が内臣を置き、中臣連鎌足をこれに任じた。天智朝に至って内大臣に昇進し、位は大織冠で、左右大臣の上に班し、朝政を輔け支えるその任はきわめて重かった。光仁天皇の時、藤原朝臣良継および魚名は、いずれも内臣を経て内大臣に昇進し、鎌足の故事に倣ったが、位は左右大臣の下に班し、その権勢は天智天皇の時とは異なっていた。常置の官ではないため、廃置は一定しなかった。【職原抄、公卿補任、続日本紀。】

また准大臣がある。一条天皇の寛弘年間に、初めて藤原伊周をこれに任じた。位は大臣の下、大納言の上にあるため、准大臣と称し、また儀同三司とも称した。これ以後、朝廷は常にこの官を置き、公卿の中で昇進が滞り三公に進めない者を処遇するのに用い、位は内大臣との上下が一定しなかった。【職原抄、官職難儀。】

大納言四人(正三位。【○四人とあるのは下文の慶雲年間に人数を省いたという記述と合わないが、本書はおそらく旧文によって改めなかったのであろう。】)は、政務全般への参議、上奏・宣旨の取次、侍従としての意見具申を掌る。大臣が欠けたときはその官事を代行する。【令義解。】当初、天智天皇が御史大夫を置いた。天武天皇元年、今の名に改めた。【公卿補任。】文武天皇の慶雲二年、勅していう、「大納言の職は大臣に匹敵し、位は諸卿を超える。任は重く事は密であるのに、官員が不足している。よろしく二人に減じ、中納言三人を置いてその欠を補うべし」と。【続日本紀。】淳和天皇の天長五年、権大納言を置いた。【公卿補任。】宇多天皇は制していう、「大納言・中納言はいずれも三人を超えてはならない」と。【官職秘抄、寛平遺誡を引く。】しかしその制は一定しなかった。高倉・安徳の両朝に至っては、大納言八人、中納言十人があった。後鳥羽天皇の建久年間、大納言六人、中納言八人と定めた。後醍醐天皇もまたその制に倣ったという。【公卿補任、官職秘抄、職原抄。】

中納言三人(正四位上、令外官【続日本紀。】)は、その創設の詳細は不明である。持統天皇の時、すでに中納言があった。【○伊呂波字類抄を按ずるに、天武天皇の時に中納言があったとする。しかし史書に見えるのは持統紀が最初である。職原抄・帝王編年記などの諸書は、これにより持統天皇六年を始置とする。ただし弘仁歴運記には、置かれた年は未詳とある。その説が正しいので、今はこれに従う。】文武天皇の大宝元年、廃止された。慶雲二年、再び置かれ、大納言の補佐として、上奏・宣旨の取次と諮問への対応を掌らせた。【続日本紀。】孝謙天皇の天平勝宝八年、権中納言を置いた。【公卿補任。○伊呂波字類抄は元年とする。官職秘抄・職原抄にいう、天暦以後、権官は次第に増え、承安元年には十人に至った。建久年間に八人と定めた。後醍醐天皇もまたその制によったが、結局一定しなかった。】廃帝(淳仁天皇)の天平宝字五年、従三位官に昇格した。【続日本紀。】

参議八人(正四位下【○拾芥抄・多々羅問答には従四位上とある。】、令外官)は、官中の政務への参議を掌る。【職原抄。】文武天皇の大宝二年、従三位大伴宿禰安麻呂ら五人に朝政に参議させたのが、参議の始まりである。【続日本紀。】平城天皇の大同元年、六道観察使を置いて参議に兼任させた。まもなく八道に増員し、参議の名を廃して観察使と称し、国郡の政治を監察させた。嵯峨天皇の弘仁元年、観察使を廃して参議を復活させた。参議を八人置いたのはこれに始まり、これにより八座と称した。【日本後紀、日本紀略、公卿補任、職原抄、文徳実録を参照。○公卿補任を按ずるに、和銅二年、長屋王を非参議とした。非参議はこれに始まる。また按ずるに、大同元年、藤原葛野麻呂を権参議、吉備泉を准参議としたことが、いずれも公卿補任に見える。ひとまずここに付記する。】陽成天皇の元慶六年、式部省が言上していう、「参議の官は、考課・禄賜に定めがなく、官位も明確でなく、それが定まった職事官でないためである。願わくは新たに官位・考課・禄賜等の式を定め、職事官とされたい」と。【菅家文草。】しかしその議はついに実行されなかった。【職原抄。】

少納言三人(従五位下)は、侍従の員に属し、上奏・宣旨の小事、鈴印の出納・伝達などを掌る。飛駅の鈴函を扱い、あわせて官印を監督する。【令義解。】平城天皇の大同三年、少納言を一人増員し、翌年さらに一人加えた。【日本後紀。】嵯峨天皇の弘仁四年、公卿が言上していう、「職員令を検討するに、少納言三員、中監物四員、少監物四員とある。しかし大同年間に事務が繁多であったため、令の定員の外に少納言一員、中監物一員、少監物二員を加えた。古今で事情が異なり、増減は時に応じるべきものである。願わくは加えた分を省いて減らし、もっぱら令の条文によられたい」と。これを許した。【類聚国史。】少納言はもともと要職であったが、嵯峨天皇が蔵人を置くに及んで、その権限はしだいに蔵人に移り、少納言はただ鈴印などの事のみを掌るようになった。【職原抄。○続日本紀、延暦四年、藤原乙叡が権少納言となったが、権官はこれ以外に見えない。】

大外記二人(正七位上)、少外記二人(従七位上)は、詔奏の勘案、公文の読み合わせ、文案の勘署、遺漏・違失の検出を掌る。史生十人、【令義解。】使部四十三人。【延喜式。】桓武天皇の延暦二年、太政官が奏していう、「外記という官は、近年職務が繁多である。詔勅や格式はこれによって出される。願わくはその官品を進め、大外記を正六位上、少外記を正七位上とされたい」と。これに従った。【続日本紀、類聚三代格。○職原抄にいう、大外記は近世五位に昇進したとある。ひとまずここに付記する。】太政官の中には実質三つの局があり、少納言局・左弁官局・右弁官局がこれである。【職原抄。】後世、左大史が左右両局の事務を兼ね掌り、これを官務と称した。外記の筆頭が少納言局の事務を執り行い、これを局務と称した。それで両局と号された。【令義解、職原抄を参照。】少外記は後世に権官二人を置き、大外記は清原・中原の両氏の世襲の職となった。【伊呂波字類抄、職原抄、清原系図、中原系図。】

左右大弁各一人(従四位上、【○日本書紀および采女竹良碑によれば、天武朝にすでに大弁官があった。しかし史書にはその始まりが載っておらず、ひとまずここに付記する。】)は、左弁官が中務・式部・治部・民部を管轄し、庶務の受付、官内の糺判、文案の署名、遺漏の検査、諸司の宿直・諸国の朝集を掌る。右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内を管轄し、その他は左と同じである。【令義解。】およそ諸司が言上する庶務は、弁官がみな太政官に申し上げる。もし複数の事案を申し上げる場合は、それぞれ神事を優先する。【延喜式。】左右中弁各一人(正五位上)、左右少弁各一人(正五位下)は、職掌はいずれも大弁と同じである。左右大史各二人(正六位上)、左右少史各二人(正七位上)、左右史生各十人。【令義解、続日本紀にいう、和銅五年、左右史生を各六人増やした。日本後紀にいう、大同四年、さらに各四人を加えた。○延喜式には各十八人、権官各二人とある。】左右官掌各二人は、訴訟人の取次、使部の検校、官府の守衛、庁事の設営などを掌る。省掌・台掌・職掌・府掌・寮掌・国掌の職掌もみな同様である。左右使部各八十人、【○延喜式には各三十人とある。】左右直丁各四人。【令義解。】光仁天皇の時、中弁・少弁にそれぞれ権官を置き、八弁と称した。後に一人を省いて七弁と称した。【官職秘抄、職原抄、小槻氏系図を参照。】

巡察使は、諸国を巡察することを掌り、常置の官ではない。臨時に、内外の官の中で清廉・公正で知られた者をこれに任じた。およそ巡察の事項、および使者の人数は、みな臨時にその都度定めた。【令義解。】天武天皇十二年、東海・東山など六道に使者を遣わし、判官・史各一人が国郡司の治績を巡察した。持統天皇八年、諸国に巡察使を遣わし、巡察使はこれに始まる。【日本書紀。】その後、朝廷は常に使者を遣わして風俗を尋ね訪ね、政治の実績を検察させ、各道に一人ずつ置いたので、八使と称した。【続日本紀、類聚三代格。】天長年間以後、朝廷はしだいに民政を怠るようになり、もはや使者を任じなくなったようである。【日本紀略。○本書には天長二年に使を任じたのを最後に、それ以後は史書に見えない。】

中務省

中務省は、卿一人(正四位上)が、侍従としての意見具申、儀礼の補佐、詔勅文案の審署、事案の受理・復奏、宣旨による労い、上表の奏進、国史の監修、および女王・内外命婦・宮人などの名簿、位階・考課の記録、諸国の戸籍・租調帳、僧尼の名籍の事を掌る。その配下の職として、一に中宮職、六に左右大舎人寮・図書寮・内蔵寮・縫殿寮・陰陽寮があり、司が三つ、画工司・内薬司・内礼司がある。大輔一人(正五位上)、少輔一人(従五位上)は、いずれも卿の次席であるが、諫言はしても意見具申(献替)はしない。大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)は、宮人の考課などを掌り、その他は神祇官の祐と同様である。大録一人(正七位上)、少録三人(正八位上)、史生二十人。【令義解、続日本紀にいう、和銅六年、史生十人を加えた。類聚国史にいう、大同三年、十人を省いた。三代実録にいう、貞観十六年、六人を省いた。○延喜式には二十人とある。おそらく令の旧制に復したのであろう。】後世、大輔・少輔にはいずれも権官を置いた。【官職秘抄、職原抄。】

侍従八人(従五位下)は、常侍としての諫言、拾遺補闕を掌り、征伐のたびに兵三千人以上を発する場合は使者に充てられ、勅を宣べて慰労し送り出した。【令義解。】そのうち三人は少納言を兼ねる。前に見える通りである。【令義解、職原抄を参照。】後冷泉天皇の永承元年、一人を加えた。その後、官員は日々増え、土御門天皇の時には二十人に至った。【官職秘抄。】また次侍従・出居侍従があり、いずれも令外官である。文徳天皇の仁寿元年、従四位下道野王ら二十余人を次侍従とした。【○続日本紀を按ずるに、称徳天皇の景雲四年正月、次侍従以上を東院で饗宴したとある。これによれば、その設置は仁寿以前であることは明らかである。しかし今は詳しく考証できない。】正四位下高枝王ら二十余人を出居侍従とした。【文徳実録。】清和天皇の貞観五年、次侍従十三人を補任し、まもなく四人を補った。【西宮記。】醍醐天皇の延喜年間、次侍従の定員を百人、正侍従八人と定め、これも定員内であるという。【延喜式。】

内舎人九十人【続日本紀。】は、舎人は上代に置かれた、左右近侍の官である。【日本書紀。】文武天皇の大宝元年、初めて内舎人九十人の定員を定め、【続日本紀。】帯刀して宿衛し、雑事に奉仕し、天子の行幸には前後を分かれて護衛することを掌った。【令義解。○類聚国史にいう、大同二年、内舎人に闈司に代わって奏事させた。また監物とともに諸司の雑物の出納にあたらせた。弘仁二年、内舎人の奏事を停止し、もとのように闈司に奏事させた。】平城天皇の大同三年、内舎人を減じて四十人と定めた。【類聚国史、類聚三代格。】近衛天皇の久安四年、六十人と定め、その後さらに増えて百余人に至った。【百錬抄、官職秘抄。】五位以上の子孫で、性質・見識が聡明で、容儀の優れた者を選んでこれに充てた。【令義解。】大臣の子であってもこれに任じられた。後世、大臣は臨時の内給・成功などの功によって、家臣を推薦して内舎人としたので、その選考はついに卑しいものとなった。【官職秘抄。】

大内記二人(正六位上)は、詔勅の起草を掌る。およそ禁中の記録の事も同様である。中内記二人(正七位上)、少内記二人(正八位上)は、職掌はいずれも前と同じである。【令義解。】平城天皇の大同元年、中内記を廃し、少内記を正七位上の官に昇格させ、さらに史生四人を置いた。【日本後紀、類聚国史。類聚三代格を参照。○大同四年、二人を省いた。】後世、大内記は五位に、少内記は六位に昇進した。【職原抄。○本書には大内記一人とある。】

大監物二人(従五位下)は、出納の監察、管籥の請け渡しを掌る。中監物四人(従六位上)、少監物四人(正七位下)は、職掌はいずれも前と同じである。【令義解。】文武天皇の大宝元年、下物職を置いたが、これがこの官である。【続日本紀。令義解古本の傍訓を参照。】平城天皇の大同四年、中監物二人、少監物二人を加えた。嵯峨天皇の弘仁四年、旧に復した。この事はすでに前に見える。【日本後紀、類聚国史。】中監物は、後世に廃止されて置かれなくなった。【○延喜式には中監物が載っているが、官職秘抄には載っていない。すると、その廃止は延喜以後、正治以前であることは明らかであるが、その年月を的確に指摘することはできない。】監物にはまた主典があり、令外官で、いつ置かれたかは詳らかでない。平城天皇の大同三年、廃止された。【日本後紀。】後に再び置かれ、従七位上とした。【官職秘抄、職原抄。○拾芥抄には大初位上とある。】史生四人。【令義解。○延喜式には八人とある。】

大主鈴二人(正七位下)は、鈴印・伝符、飛駅の鈴函の出納を掌る。【令義解。】およそ諸国に下す公文には、みな主鈴が印を押す。【延喜式。】少主鈴二人(正八位上)は、職掌は前と同じである。【令義解。】大典鑰二人(従七位下)、少典鑰二人(従八位上)は、管籥の出納を掌る。【○日本書紀を按ずるに、典鑰は持統天皇七年に初めて見える。】省掌二人、【令義解。】扶省掌二人。【三代実録、貞観十二年に置く。】使部七十人、【○延喜式には三十人とある。】直丁十人。【令義解。○本書の中務省の録以上は同じ司であるが、内記・監物・主鈴・典鑰は、それぞれ一つの司とされている。それで延喜式では内記以下を四局の官人と呼んでいる。】

中宮職。大夫一人(従四位下)は、出納・啓上・宣令を掌る。亮一人(従五位下)、大進一人(従六位上)、少進二人(従六位下)、大属一人(正八位下)、少属二人(従八位上)。【令義解。】史生八人、【延喜式。】職掌二人、【令集解、類聚三代格、弘仁九年に置く。】舎人四百人は、交代での宿直を掌る。【令義解。】使部三十人、【○延喜式には二十人とある。】直丁三人。およそ皇后および皇太后・太皇太后を、あわせて中宮と称する。【令義解。】それゆえ三宮の官属も、みなこの制に倣ったのであろう。【続日本紀、文徳実録、三代実録、類聚国史。○続日本紀を按ずるに、聖武天皇が実母の皇太夫人の宮職を中宮職と称したとあり、すると皇太夫人もまた中宮と称されたことになる。また本書を按ずるに、桓武天皇の即位に際し、皇太夫人高野氏のために初めて中宮職を置いたとある。しかし天平以降、中宮の官人はしばしば本書に見えており、今「始めて置いた」というのは疑わしい。思うに、この職は常置の官ではなく、中宮があれば置き、なければ廃した。おそらく「始めて置いた」というのは、皇太夫人のために初めて置いたということであって、この職自体がここに始まるという意味ではないのであろう。付記して考証に備える。】一条天皇が女御藤原彰子を立てて中宮としたに及んで、その位は皇后に次ぐものとなった。【栄花物語、日本紀略。】中宮の称は、もはや令制の旧のままではない。【官職秘抄、職原抄。○職原抄のある本にいう、天応年間に中宮を置いてより、三宮とあわせて四宮と称したという。これによれば、当時すでに四宮の称があったことになる。しかし天応年間の中宮とは、すなわち皇太夫人宮の称であって、これもまた三宮と同じものであり、別に中宮を置いたわけではない。本書の説はかなり疑わしい。あるいは一条天皇以後、特に中宮のためにその職を置き、四宮と称したのを、本書が誤って天応年間の事としたのであろうか。付記して後考を待つ。】後世、大夫・亮・大進・少進には、いずれも権官があった。【官職秘抄、職原抄。】

左右大舎人寮。天武天皇の時、大舎人はすでに左右に分けて置かれており、【天武天皇以下は日本書紀による。】大宝令の制もこれを踏襲した。頭各一人(従五位上)は、大舎人の名簿、交代での宿直、容儀・仮使の事を掌る。助各一人(正六位下)、大允各一人(正七位下)、少允各一人(従七位上)、大属各一人(従八位上)、少属各一人(従八位下)。大舎人各八百人、使部各二十人、直丁各二人。【令義解。】当初、天武天皇元年、詔していう、「初めて出仕する者は、まず大舎人となり、その後その才能を選んで然るべき職に充てよ」と。【日本書紀。】桓武天皇の延暦十四年の勅、「今後、左右大舎人は、蔭位による子孫をもってこれに補え。位子はその人材次第とし、容姿端正で書算に巧みな者を取り、みだりに雑色や畿外の人を補してはならない」と。【類聚国史、類聚三代格。】平城天皇の大同二年、令の定めに従って左右大舎人の定員を各八百人とした。これより先、半数に減らされていたためである。まもなく内豎を本寮に隷属させるのをやめ、各百人とし、【日本後紀、類聚国史。】上殿舎人と称した。嵯峨天皇の弘仁二年、上殿舎人百二十人は、もとの名の内豎に復した。【日本後紀。】三年、左右を併せて一つとし、頭・助以下はそれぞれ減員したが、ただ少属一員だけを加えた。【日本後紀、類聚国史。】嵯峨天皇の弘仁十年、内豎を再び置き、大舎人を半減して四百人と定めた。【令集解、類聚三代格。○類聚三代格には十一年とある。また延喜式にいう、史生四人とあるが、これはおそらく二寮が合併した後に置かれたものであろう。ひとまずここに付記する。】

図書寮。頭一人(従五位上)は、経籍・図書、国史の編纂、内典・仏像、宮中での礼仏、書写・装丁の工程の校閲、紙筆墨の支給の事を掌る。助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)。【令義解。】史生五人、【延喜式。】寮掌一人、【三代実録、貞観八年に置く。】写書手二十人、装潢四人、造紙手四人、【○類聚三代格、大同三年、造紙手は八人であったのを三人減らし、長上を一人に減じた。弘仁三年、一人を加えた。】造筆手十人、【○類聚三代格、大同三年、造筆手はもと六人であったのを、今は半分に減らした。】造墨手四人、使部二十人、【○延喜式には十人とある。】直丁二人、紙戸。【令義解。】後世、助には権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】

内蔵寮。【令義解。】履中天皇の時、大蔵の傍らに内蔵を建て、官物を蓄えた。阿知使主・王仁の二人にその出納を記録させ、これにより蔵部を定めた。【古語拾遺。】持統天皇の時、すでに内蔵寮があった。【日本書紀。】大宝令の制定に及んで、頭一人(従五位下)を置き、金銀珠玉、宝器・錦綾・彩色の敷物、諸蕃が貢献した珍奇な物、年ごとの御服の供進、および別勅による用物の事を掌らせた。助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)、大主鑰二人(正七位上)、少主鑰二人(正八位上)は、出納の担当を掌る。【令義解。】史生四人、【続日本紀、和銅元年に置く。日本後紀にいう、大同四年、案主二人を加え置いた。○延喜式には十人、伊呂波字類抄には八人とある。】寮掌二人、【三代実録、元慶四年に置く。】蔵部四十人。【○伊呂波字類抄には二十人とある。】価長二人、【○伊呂波字類抄には四人とある。】は、物価の均衡・売買を掌る。大蔵省・東西市の価長の職掌もみな同様である。典履二人(正八位上)は、靴・履・鞍の縫製、および百済手部の検校を掌る。百済手部十人、【○伊呂波字類抄には二十人とある。】は、種々の縫製の事を掌る。【令義解。】典韋一人、狛部六人、【令集解。】織錦綾羅手二十人。【類聚三代格。本書にいう、織錦綾羅手二十人は、神亀五年に置かれ、内蔵寮に隷属していたが、延喜十五年、本寮の所属に改められたという。】使部二十人、【延喜式には十人とある。】直丁二人、百済戸。【令義解、令集解。○令集解に古記を引いていう、百済戸十戸は左京および紀伊にあり、これを雑戸と名づける。】桓武天皇の延暦十八年、主鑰四人を廃し、少属一人を加えた。平城天皇の大同三年、太政官が内蔵寮の供御が繁多であることを理由に、少允一人を加えるよう奏請した。【日本後紀、令義解。○諸寮は大小に分けられ、小寮は大寮より一等位が低く、また少允を置かないが、内蔵寮がまさにそれである。今、少允を置いたということは、大寮に昇格させたことを意味する。職原抄に頭を従五位上、助を正六位下とするのは、これによって知ることができる。】これより先、典履・百済手部・典韋などの諸職は、大蔵省の所管であった。大同元年、本省の所属に改め、典履は三人であったのを、この時に二人に減じた。【令集解、類聚三代格。○令集解および三代格には、大同元年の典履はいずれも二人とあり、三人に増えたのはおそらく二年以後のことであろう。今はもとのままとする。】後世、頭・助にはいずれも権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】

縫殿寮。頭一人(従五位下)は、女王・内外命婦・宮人の名簿・考課、および裁縫・組紐の事を掌る。助一人(従六位上)、允一人(従七位上、【○伊呂波字類抄には正七位下とある。】)、大属一人(従八位下、【○伊呂波字類抄には従八位上とある。】)、少属一人(大初位上)。【令義解。】史生四人、【延喜式。】染司二員、【令集解、類聚三代格。大同二年廃止。】使部二十人、【○延喜式には十人とある。】直丁二人。【令義解。】桓武天皇の延暦十八年、勅して允一人を加え、大寮に准じた。【令集解、類聚三代格。○職原抄には、縫殿頭を従五位上、助を正六位下とする。伊呂波字類抄には助を正六位上とし、その説はやや異なる。しかし大寮に昇格したことは疑いない。ひとまずここに付記する。】後世、助には権官があり、允には大少の別があった。【官職秘抄、職原抄。】

陰陽寮。天武天皇の時、すでにこの寮が置かれていた。持統天皇の時、陰陽博士があった。【日本書紀。】大宝令の制もこれに拠り、頭一人(従五位下)は、天文・暦数・災祥・吉凶を掌り、これを奏聞することを掌る。【令集解、令義解。】助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)。【令義解。】陰陽師六人(従七位上)は、占筮・相地を掌る。陰陽博士一人(正七位下)は、陰陽生を教えることを掌る。陰陽生十人。暦博士一人(従七位上)は、暦の作成および暦生を教えることを掌る。暦生十人。天文博士一人(正七位下)は、天文・気色をうかがい、異変があれば密封して奏上すること、および天文生を教えることを掌る。天文生十人。漏刻博士二人(従七位下)は、守辰丁を率いて、漏刻の時刻をうかがうことを掌る。守辰丁二十人は、漏刻をうかがって時刻通りに鐘鼓を打つことを掌る。【令義解。】史生四人、【延喜式。○日本後紀、大同四年、史生二人を加えた。しかし令義解には史生が載っておらず、おそらく脱文であろう。】使部二十人、【○延喜式には十人とある。】直丁二人。【令義解。】村上天皇の時、賀茂保憲が陰陽頭となり、天文博士を兼ねた。【扶桑略記。】保憲は暦道をその子光栄に伝え、天文を安倍晴明に伝えた。これより賀茂・安倍の二氏が、両道をそれぞれ分けて掌るようになった。【職原抄、帝王編年記。】後世、助には権官があり、允には大少の別があった。陰陽・暦・天文・漏刻の各博士にも、いずれも権官があり、五位の者をこれに任じた。【官職秘抄、伊呂波字類抄、職原抄を参照。】

内匠寮は、令外官である。【職原抄。】聖武天皇の神亀五年に置かれ、中務省に隷属した。【続日本紀、令集解。】頭一人(従五位上)は、元日の前日に、木工の長上・雑工を率いて大極殿の御座を装飾すること、および諸節会の前日に豊楽殿・小安殿・武徳殿・神泉苑などの設営を行うことを掌る。【延喜式。】助一人(正六位下)、【職原抄。】大允一人(正七位下)、少允二人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属二人(従八位下)。【続日本紀、職原抄。○本書には位階がみな欠けており、今はひとまず諸寮の例に従って補った。後考を待つ。】史生八人、【続日本紀、日本後紀にいう、大同四年、二人を省いた。○延喜式には七人とある。】寮掌一人。【三代実録、貞観五年に置く。】使部以下、種々の職人にはそれぞれ定員がある。【続日本紀。】桓武天皇の延暦十五年、織錦綾羅手二十人を割いて内蔵寮に属させた。平城天皇の大同三年、勅していう、「長上工二十人を置き、従八位官に准じ、番上工百人、使部一人とし、これを永例とせよ」と。【類聚三代格。】後世、助には権官が置かれた。しかし工匠の営作の事は、後にみな木工修理職の所管となり、内匠寮はしだいにその職を失った。【官職秘抄、職原抄。】

画工司。正一人(正六位上)は、絵画の彩色、司の事の判定を掌る。当初、推古天皇の時、黄書画師・山背画師を定めたが、おそらくこの職を掌ったのであろう。【推古天皇以下は日本書紀による。】佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)。画師四人、画部六十人、使部十六人、直丁一人。【令義解。】平城天皇の大同三年、内匠寮に併合された。【類聚国史、類聚三代格。】後世、画所が置かれ、別当五人、蔵人所の預などが置かれた。【拾芥抄。】

内薬司。正一人(正六位上)は、薬・香の供進、御薬の調合の事を掌る。佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)。侍医四人(正六位下)は、診察と薬の供進を掌る。【令義解。】常に禁中に侍し、天子が御殿にお出ましになるときは、小板敷に伺候して顔色をうかがうので、半昇殿と称された。【官職秘抄、職原抄。○伊呂波字類抄には侍医五人とある。】史生二人、【日本後紀。大同四年に置く。】使部十人、直丁一人。【令義解。】宇多天皇の寛平八年、典薬寮に併合された。【官職秘抄後附、類聚三代格。】

内礼司。正一人(正六位下)は、宮中の礼儀、非違の禁察を掌る。佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)。主礼六人は、非違の監察を分掌する。使部六人、直丁一人。【令義解。】平城天皇の大同三年、弾正台に併合された。【令集解、類聚三代格。】

式部省

式部省。卿一人(正四位下)は、内外の文官の名簿、考課・選叙、礼儀、位記の授与、勲績の校定、論功行賞、朝集・学校、策試による貢人の選抜、禄賜・仮使、家令の補任、功臣の家伝田の事を掌る。その配下の寮は二つで、大学寮・散位寮という。およそ考課の制度は、四善【一に徳義有聞、二に清慎顕著、三に公平可称、四に恪勤匪懈という。】と四十二最によって定められる。【神祇の祭祀が常典に違わないのを、神祇官の最とする。献替・奏宜(意見具申と上奏)が理にかなうのを、大納言の最とする。旨を承って違うことなく、応答が明敏であるのを、少納言の最とする。庶務を受け付けて処理が滞らないのを、弁官の最とする。侍従として復奏し、施行に支障がないのを、中務省の最とする。人物を銓衡し、才能を見出し登用するのを、式部省の最とする。僧尼の得度が道に適い、譜第(系譜)が乱れないのを、治部省の最とする。戸口に隠れがなく、倉廩が充実しているのを、民部省の最とする。武官を銓衡し、軍備を充実させるのを、兵部省の最とする。決断が滞らず、賞罰が理にかなうのを、刑部省の最とする。収蔵を慎み、出納を明らかにするのを、大蔵省の最とする。よく食料の生産に供し、諸部を督励するのを、宮内省の最とする。訪察が厳明で、糾弾が適切であるのを、弾正台の最とする。礼教を興し、盗賊を禁断するのを、京職の最とする。御膳を監造し、慎み深く過失がないのを、主膳の最とする。部を統率する方法があり、警護に失がないのを、衛府の最とする。音楽がよく調和し、調子を失わないのを、雅楽寮の最とする。僧尼を煩わせず、蕃客に居所を与えるのを、玄蕃寮の最とする。国用を見積もり、勘定・検査に明るいのを、主計寮の最とする。蓄蔵を慎み、出納に明るいのを、主税寮の最とする。馬の調教に習熟し、飼丁を失わないのを、馬寮の最とする。曝涼を慎み、出納に明るいのを、兵庫の最とする。朝夕常に侍り、拾遺補闕するのを、侍従の最とする。監察を怠らず、出納が明白であるのを、監物の最とする。宿衛に勤め、進退が礼にかなうのを、内舎人の最とする。職事の修理、外への申達が的確であるのを、次官以上の罪とする。清濁を分け、褒貶が的確であるのを、考問(考課を担当する者)の最とする。訪察が精密で、諸事に行き届くのを、判官の最とする。公務に勤め怠らず、職掌に欠けがないのを、諸官の最とする。記録に勤め、遺漏を隠さないのを、主典の最とする。記録が正確で、言葉と理が備わっているのを、文史の最とする。記録に明るく、勅旨を誤らないのを、内記の最とする。訓導に方法があり、生徒が学業を修めるのを、博士の最とする。占い・医術・卜占の効験が多いのを、方術の最とする。天体の運行を推測し、理を窮めて精密であるのを、暦師の最とする。市場の取引に乱れがなく、不正が行われないのを、市司の最とする。取り調べて実情を得、申し開きが明瞭であるのを、解部の最とする。礼儀を興し行い、武具を充実させるのを、太宰府の最とする。諸事に力を尽くし、管内を粛清するのを、国司の最とする。租税の徴収を助け、公平無私であるのを、国掾の最とする。防人の調練に習熟し、武装を充実させるのを、防人司の最とする。取り締まりに方法があり、通行人が滞らないのを、関市の最とする。】これによって官人の行い・能力・功過を定め、九等【一最以上あって四善を備えるものを上上とする。一最以上あって三善を備える、あるいは最はなくとも四善を備えるものを上中とする。一最以上あって二善を備える、あるいは最はなくとも三善を備えるものを上下とする。一最以上あって一善を備える、あるいは最はなくとも二善を備えるものを中上とする。一最以上ある、あるいは最はなくとも一善を備えるものを中中とする。職務がおおむね治まり、善も最も特に聞こえないものを中下とする。愛憎を任意にし、処断が理に背くものを下上とする。公に背き私になびき、職務を廃れさせるものを下中とする。官にあって諂い欺き、貪欲・汚濁の実態があるものを下下とする。】および十二考【初位以上の長上官の交代は、みな六考を限りとする。六考のうち中中であれば一階を進め、三考ごとに中上、また二考で上下、一考で上中であっても、それぞれ一階を進める。一考で上上であれば、二階を進めて叙する。舎人・史生・兵衛・伴部・使部・帳内・資人は、みな八考を限りとする。八考のうち中であれば一階を進め、四考が中で四考が上であれば二階を進め、八考すべて上であれば三階を進めて叙する。郡司・軍団は、みな十考を限りとする。十考のうち中であれば一階を進め、五考が上で五考が中であれば二階を進め、十考すべて上であれば三階を進める。外散位で分番して上下する者は、みな十二考を限りとする。十二考のうち中であれば一階を進め、六考が上で六考が中であれば二階を進め、十二考すべて上であれば三階を進める。】によって、昇進・降格・任用・免職を行う。【令義解。】およそ国家の典章は、みな本省が掌るところである。【職原抄。】朝廷で礼を失した者については、三位以下には少録を遣わし、四位には史生を遣わして教え糺し、五位にはその状況に応じて教え正させ、弾正台で礼を失した者にも、同様に教え諭させた。【令集解、延喜式。】貢挙の制度は、秀才・明経・進士・明法の四科によって、人材を選抜した。大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞二人(正六位下)、少丞二人(従六位上)は、いずれも勘問・考課を掌り、その他は神祇官の大祐と同様である。大録一人(正七位上)、少録三人(正八位上)。【令義解。】書生二十人、【類聚国史、類聚三代格。弘仁三年、書生三十人と定め、翌年十人を割いて兵部省に属させた。】史生二十人、【○類聚三代格を按ずるに、史生はもと十六人であったのを、大同四年に四人加えたとある。今の本書に二十人とあるのは、おそらく後人が大同の制によって改竄したものであろう。令の本文にはしばしばこの類があり、考証できるものは各条の下に注記した。】省掌二人、【○続日本紀、神護景雲二年十一月、任官した者の多くが出仕せず、省掌が代わって「唯(はい)」と返事をした。そこで式部省・兵部省の省掌に、初めて笏を持つことを許した。類聚国史、大同元年、六省の省掌はみな二省(式部・兵部)に準じて笏を持つことを許された。また延喜式には式部の扶省掌二人が載っている。】使部八十人、【○延喜式には三十人とある。】直丁五人。【令義解。】文武天皇の慶雲三年、詔していう、「令の定めでは諸々の長上官の交代は六考を限りとするが、それ以外の職はみな二考を加えて十二考を限りとしており、選考の期限が長すぎる。よろしく職の種類ごとにそれぞれ二考ずつ減らすべし」と。元明天皇の和銅六年、制していう、「式部省は人物を銓衡し優劣を昇進・降格させる、その任は他省より重い。まさに勲績を論じるにあたり、長官がいなければその事を議してはならない」と。【続日本紀。】後世、大輔・少輔にはいずれも権官を置いた。【官職秘抄、職原抄。】

大学寮。当初、継体天皇の時に百済から五経博士を招き、交代で赴任させた。孝徳天皇の時に至って、国博士があった。天智天皇が学職頭を置いた。天武・持統の両朝に及んで、大学寮および大学博士・音博士・書博士などの職があった。【日本書紀。】大宝令の制もこれに拠ったのであろう。頭一人(従五位上)は、学生の試験、および釈奠の事を掌る。およそ学官は九経を立てて学生に教える。周易・尚書・周礼・儀礼・礼記・毛詩・春秋左氏伝を、それぞれ一経とし、あわせて孝経・論語を習わせる。【令義解。】桓武天皇の延暦十七年、春秋公羊伝・穀梁伝の二伝を立て、それぞれ一経として学生に教授した。【令集解。】年末に博士・助教の講授の多少によって、考課の等級を定めた。【令義解。】紀伝・明経・明法・算を、四道という。【職原抄。】助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)。【令義解。】後世、助には権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】大学にはまた別当があり、慣例として式部少輔がこれを務めた。【延喜式。】醍醐・朱雀天皇以後は、常に親王・大臣がこれに補された。後醍醐天皇の時にはすでに廃れており、また学館院・奨学院・淳和院の別当があった。【職原抄。】学館院は、嵯峨天皇の橘皇后がその弟の右大臣氏公と議して建て、橘氏の子弟を教えた。【文徳実録。】奨学院は、在原朝臣行平が建てた。【日本紀略。】淳和院は、もと淳和天皇の離宮で、王子・源氏の子弟を教えた。【拾芥抄。】三院にはいずれも別当が置かれた。学館院は橘氏がこれを務め、奨学院・淳和院の両院はいずれも源氏の公卿の第一人者がこれを務めた。【職原抄。】醍醐天皇の時、奨学院を大学の南曹とした。【日本紀略。】村上天皇の時、橘好古が、学館院を大学に隷属させて別曹とすることを請うた。【日本紀略、西宮記。】淳和院は後に廃れたが、別当は名目だけ残った。【拾芥抄。】鳥羽天皇の時、右大臣源雅定が淳和院・奨学院両院の別当・源氏長者を兼ねてより、久我氏がこれを世襲し、他氏はこれに預ることができなくなった。【職原抄。】弘和三年に至り、後小松天皇が足利義満を両院別当・源氏長者としてより、別当は足利氏に移ったが、名目だけが存するのみであった。【公卿補任、足利家伝。】

博士一人(正六位下)は、経業の教授、学生の試験を掌り、【令義解。○伊呂波字類抄には明経博士とある。】すなわち明経道である。【職原抄。】助教二人(正七位下)は、博士と同じ職掌である。【○職原抄にいう、近世、博士は五位に、助教は六位に昇進したという。】得業生四人、【令集解、伊呂波字類抄。】学生四百人。【令義解。】後世、清原氏・中原氏が明経の職を掌った。【職原抄。】

音博士二人(従七位上、【○職原抄にいう、後世すべて五位に昇進した。書博士も同様であるという。】)は、音(漢字音)を教えることを掌る。【令義解。】音生。【伊呂波字類抄。】

書博士二人(従七位上)は、書を教えることを掌る。【令義解。】

算博士二人(従七位上。【類聚三代格にいう、貞観十三年、正七位下に昇進した。】)は、算術・孫子・五曹・九章・海島・六章・綴術・三開重差・周髀・九司を、それぞれ一経として算生に教えることを掌る。【令義解。】得業生二人、【伊呂波字類抄。】算生三十人、【令義解。○令集解にいう、天平勝宝元年、二十人に減じた。】史生八人、【延喜式。】使部二十人、【○延喜式には十人とある。】直丁二人。【令義解。】後世、三善氏・小槻氏がその職を掌った。三善氏は算術をつかさどり、小槻氏は会計や諸国の調賦をつかさどった。【官職秘抄、職原抄。】

文章博士一人は、令外官で、いつ置かれたかは詳らかでない。【○続日本紀を按ずるに、養老五年、文章博士従五位上山田御方ら四人があった。大宝元年、明法博士を六道に遣わして新令を講義させた。すると当時すでにこの二官はあったのに、令に載っていないのは、どういう理由か詳らかでない。】聖武天皇の天平二年、正七位下と定めた。嵯峨天皇の弘仁十二年、従五位下に昇進した。【類聚三代格。】平城天皇の大同三年、紀伝博士を置いた。【河海抄が格の文を引く。】仁明天皇の承和元年、勅して紀伝博士を廃し、あらためて文章博士一人を置いた。【類聚国史、日本紀略。】これ以後、文章博士が紀伝道を掌るようになった。【職原抄。○中右記・江家次第・左経記を按ずるに、承和以後もなお紀伝博士があり、文章博士と並んでいる。職原抄にこれがないのは、おそらく両道が混同されて一つになったためであろう。】文章得業生二人、【令集解。】文章生二十人。【類聚三代格、令集解。】当初、天平二年の制で、雑任および白丁から選んで文章生とした。弘仁十一年、あらためて良家の子弟で詩賦に長じた者を選んで補した。その学業が進んだ者は式部省が再試験し、俊士と称した。俊士の中で特に優れた者を秀才とし、俊士五人、秀才二人を置いた。淳和天皇の天長四年、試験の実施が不便であることから俊士を廃止し、もとの得業生に復した。【本朝文粋。○伊呂波字類抄にいう、文章博士二人を秀才と号し、文章得業生二人・文章生十八人を進士と号したという。】

明法博士二人(【○令集解・類聚三代格にいう律学博士とはこれのことである。】正七位下、令外官)は、聖武天皇の神亀五年に置かれた。【令集解、類聚三代格、職原抄。○集解・三代格にはいずれも神亀五年に置くとあり、今はひとまずこれに従う。しかし大宝元年に、すでに明法博士があったことは前に述べた通りである。】明法得業生二人、【伊呂波字類抄。】明法生十人。孝謙天皇の即位の年、二十人に増員した。【令集解、伊呂波字類抄。】後世、坂上氏・中原氏が代々明法の職を掌った。【職原抄。】

直講三人(正七位下。【令集解。○本書に天平二年の直講四人とあり、その一人は文章博士を兼ねたとある。これによれば、直講は文章博士を兼ねたのであろう。また職原抄には、直講は近世六位官に昇進したとある。】)は、令外官である。平城天皇の大同三年、直講博士一人を減じ、紀伝博士を置いて、その位を直講と同じくした。【類聚国史、令集解。○伊呂波字類抄には、一条天皇の正暦四年、初めて問者生十人を置いたとある。】

散位寮。頭一人(従五位下)は、文武の散位の名簿・朝集の事を掌る。助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)。史生六人、【日本後紀にいう、大同四年、史生二人を省いた。】使部二十人、直丁二人。【令義解。】宇多天皇の寛平八年、式部省に併合された。【官職秘抄、類聚三代格。】

治部省

治部省【○日本書紀を按ずるに、天武天皇の時に理官があったとあり、おそらくこの職であろう。】は、卿一人(正四位下)が、本姓・継嗣・婚姻・祥瑞・喪葬・贈賻、国忌・皇諱、および諸蕃の朝聘の事を掌る。その配下の寮は二つで、雅楽寮・玄蕃寮という。司は二つで、諸陵司・喪儀司という。およそ諸臣で三位以上の者は、みな嫡子が家を継ぐ。もし嫡子がなく、あるいは罪や病のある場合は、嫡孫または庶子・庶孫を立てる。四位以下は、ただ嫡子のみを立てる。五位以上の継嗣は、必ず陳牒を待ち、事実を確かめて官に申し上げる。京官三位以上の祖父母・父母および妻の喪、四位の父母の喪、五位自身の喪は、みな奏聞し、使者を遣わして弔う。親王・太政大臣・散一位の喪には、大輔をもって護送させる。左右大臣・散二位には少輔を、三位には丞をもってこれにあたらせ、いずれも土師氏が礼制を補佐する。【令義解。】蕃客が入朝すれば、領客使・掌客・共食などを差し遣わし、道中・在京および宴飲の事を掌らせる。【延喜式。】大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録三人(正八位上)。【○類聚三代格にいう、少録を一人省いたとあるが、その年月は欠けており、今は考証のしようがない。】史生十人、書生十人、【書生以下は類聚三代格によれば、承和二年、雅楽寮の雑色生十人を割いてこれに充てたという。】大解部四人(正八位下)、少解部六人(従八位下)は、系譜をめぐる争訟を聴いて、姓族の序列を定めることを掌る。省掌二人、【○延喜式には、扶省掌二人が載っている。】使部六十人、【○延喜式には二十人とある。】直丁四人。【令義解。】桓武天皇の延暦十八年、解部四人を省いた。【日本後紀。】その後廃止された。【○大同三年、刑部省の解部が廃止されたことを按ずるに、本省の解部の廃止もまたこの時であろうと思われる。】後世、大輔・少輔にはいずれも権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】

雅楽寮。頭一人(従五位上)は、文武の雅曲・正舞、および種々の楽の男女の楽人・音声人の名簿、曲の程度・試験の事を掌る。【令義解。】およそ節会・祭神・釈奠・饗宴・仏会などには、寮の属官が楽人を率いて事にあたる。【延喜式。】助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)。【令義解。】史生四人、【延喜式。○日本後紀、大同四年、史生一人を省いた。令義解には史生が載っていない。】歌師四人(従八位下)は、そのうち二人が歌人・歌女を教えることを掌る。歌人三十人、歌女百人、二人は臨時に声のよい者を選んで教えることを掌る。およそ雅楽の諸師の位は、みな楽師に準じる。舞師四人は種々の舞を教えることを掌る。舞生百人、笛師二人は種々の笛を教えることを掌る。【○本書の「二人」の下に欠文がある。前後の例から推すに、種々の笛を教えることを掌るなどの語があったはずなので、今これを補った。】笛生六人、笛工八人。【○本書にいう、笛工とは、この場の楽を奏でて笛を吹く者であるという。】唐楽師十二人は楽生を教えることを掌る。楽生六十人、高麗・百済・新羅の楽師各四人。楽生各二十人、伎楽師一人、腰鼓師二人、腰鼓生・伎楽生は、みな楽戸から選んでこれに充てる。使部二十人、【○延喜式には十人とある。伊呂波字類抄にはさらに寮掌二人とある。】直丁二人、楽戸。【令義解。】聖武天皇の天平三年、種々の楽生の定員を改め定め、唐楽生三十九人、百済楽生二十六人、高麗楽生八人、新羅楽生四人、度羅楽生六十二人、諸県舞生八人、筑紫舞生三十人とした。【続日本紀。】桓武天皇の延暦二十一年、歌師二人を省いた。【類聚国史。】二十四年、歌女三十人を省いた。【○本書にいう、歌女五十人、あるいは三十人という。令によれば歌女は百人であるが、それを五十人に減らしたのがいつであったかは詳らかでない。おそらく延暦年間の事であろう。正史が欠落しており、今は考証できない。】平城天皇の大同四年、楽師・歌師・舞師・笛師・唐楽師、および高麗・百済・新羅・度羅の楽師の定員を改め定めたが、みなもとのままとした。【○類聚三代格・令集解にはいずれも、度羅楽師二人はもとのままとするとある。これによれば令には度羅楽師があったはずで、今の本にないのは脱文であろう。新羅楽師は、日本後紀・類聚国史にはいずれも二人とあるが、誤りである。国史にはさらに横笛師二人が載っているが、おそらく衍字であろうから記さない。】林邑楽師二人を置き、伎楽師一人を加え、その他はみな廃止した。【日本後紀、類聚国史、類聚三代格、令集解。】嵯峨天皇の弘仁十年、また楽師の定員を改め定めた。舞師四人、新羅楽師二人。【類聚三代格、令集解。】仁明天皇の嘉祥元年、雅楽の種々の雑色生の定員を減らし定めた。倭楽生三十五人、【もとの数は百三十四人。】唐楽生三十六人、高麗十八人、百済七人、新羅四人、合わせて百人とし、もとの数百五十四人から減らした。文徳天皇の斉衡二年秋、五節舞師一人を省き、高麗鼓師を置いた。冬、新羅舞師を停止し、五節舞師を置いた。【類聚三代格。】後世、助には権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】また楽所があり、村上天皇の天暦二年に置かれ、【日本紀略。】音律に通じた公卿を別当とした。【職原抄。】

玄蕃寮。頭一人(従五位上)は、仏寺・僧尼の名籍、蕃客の辞見・宴饗の送迎、および在京の夷狄の館舎の事を掌る。助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)、史生四人。【令義解。】寮掌一人、【三代実録、貞観六年に置く。】使部二十人、【○延喜式には十人とある。】直丁二人。【令義解。】後世、助には権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】

諸陵司。正一人(正六位上)は、陵墓の祭祀、喪葬の凶礼、諸陵および陵戸の名籍の事を掌る。およそ皇陵には陵戸を置いてこれを守らせ、陵戸でない者は十年ごとに交代させた。【○延喜式のいわゆる守戸・守丁の類が、すなわちこれである。】陵域の内では、埋葬・耕作・放牧・樵採を禁じた。【令義解。】所管する陵墓は、醍醐天皇の時に、神代陵三、帝后陵七十三、皇子・皇女および貴戚の墓四十七があり、毎年十二月、諸陵墓に幣帛を奉った。【延喜式。】佑一人(従七位下)、令史一人、土師十人は、凶礼を補佐することを掌り、員外として臨時に選んで充てられる。【令義解。】およそ喪葬は、上代には土師臣が掌っていた。【日本書紀。】土師氏のうち年功・位の高い者を大連とし、次を小連とし、いずれも紫衣を着て刀剣を帯び、代々凶儀を執り行った。大宝以後は、その氏の人を本司に属させ、なお旧来の職を掌らせた。【令義解。○類聚三代格を按ずるに、延暦十六年、土師宿禰による凶儀の執行を停止したとある。】使部十人、直丁一人。【令義解。】聖武天皇の天平元年、司を寮に昇格させ、頭・助以下、大少允・大少属を置き、いずれも他の大寮と同様とした。【続日本紀、拾芥抄、伊呂波字類抄。○字類抄には大允を正七位上とする。】史生四人、【類聚国史、延喜式。○国史にいう、延暦二十一年に置くという。】使部はもとのまま、直丁四人。【伊呂波字類抄。】後世、助には権官が置かれた。【官職秘抄、職原抄。】

喪儀司。正一人(正六位下)は、凶事の儀式および喪葬の具を掌る。およそ三位以上の喪には、金鉦・鐃鼓、楯・竿・大角・小角などの行列の次第を、また五位以上の喪には、轜車の道具・帷帳の類を貸し出すことを、みな本司がその政令を取り仕切る。【令義解。令集解を参照。】佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)。使部六人、直丁一人。【令義解。】平城天皇の大同三年、鼓吹司に併合された。【令集解、類聚三代格。】