卷之二百八十二 志第卅九

職官三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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民部省

民部省。【〇日本書紀を按ずるに、民官は天武天皇の朱鳥元年に初めて見える。】卿一人、位階は正四位下。天下の戸口・名籍・賦役、孝子・義夫への優遇や賦役免除、家人・奴婢、橋・道・渡し場、用水路・池・山川、藪沢・田野に関する事務を掌る。その下に二寮を置き、主計寮・主税寮という。およそ戸籍は六年に一度作成し、常に五比(五回分)を保存し、それより古いものは順次廃棄する。ただし庚午年籍だけは廃棄しない。租庸調の法により、田租・絹・絁などの諸物産を徴収し、課役の民を記録する。【令義解による。】図牒によって国郡の境界を明らかに記録したものを民部省図帳という。【職原抄による。】大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録三人(正八位上)を置く。史生十人(【続日本紀にいう、和銅六年に六人を加えたと。○延喜式・伊呂波字類抄では、いずれも二十人とする。字類抄にはさらに書生五人とある。】)、省掌二人(【続日本紀にいう、承和八年に扶省掌二人を置いたと。○伊呂波字類抄では省掌四人とする。】)、使部六十人(【○延喜式・伊呂波字類抄では、いずれも三十人とする。】)、直丁四人を置く。【令義解による。】桓武天皇の延暦九年、他の諸司に比べて事務がとりわけ多忙であったため、大丞一人を加え置いた。【続日本紀・類聚三代格による。】後世には大輔・少輔ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

主計寮。頭一人(従五位上)。調および雑物の計算・集計、国用(国家経費)の見積り、勘へ(計算の照合)や誤りの検察を掌る。【令義解・令集解による。】助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)、算師二人(従八位上)を置き、調庸の用度を勘計する事を掌らせる。史生六人(【令義解による。続日本紀にいう、和銅元年に四人を加え、以前と合わせて十人となったと。○延喜式では十一人とする。】)、寮掌二人(【続日本後紀による、承和八年に置いたとする。】)、使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人を置く。【令義解による。】桓武天皇の延暦九年、少允・少属各一人を加えた。【続日本紀による。】後世には助に権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

主税寮。頭一人(従五位上)。倉廩の出納、田租・舂米(つきまい)・碾磑(水車による製粉)の事を掌る。助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允一人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)、算師二人(従八位下)を置き、租税の勘計を掌らせる。史生四人(【令義解による。続日本紀にいう、養老六年に二人を加えたと。○延喜式では七人とする。】)、寮掌二人(【続日本後紀による、承和八年に置いたとする。】)、使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人を置く。【令義解による。】清和天皇の貞観元年、「主税寮の史生の労は、十年をもって限りとする」と定めた。【三代実録による。】後世には助に権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

兵部省

兵部省。【令義解による。】もとは上代の物部氏・大伴氏の二氏が掌った職である。【日本書紀・古事記・旧事本紀による。】天武天皇の時代に兵政官を置いた。【日本書紀による。】大宝令の制定に及んで省と改め、卿一人(正四位下)を置き、内外の武官・兵士の名帳、考課・選叙・位記、朝集・禄賜・仮使、兵器・儀仗、城隍・烽火、兵士の徴発の事を掌らせた。その下に五司を置き、兵馬・造兵・鼓吹・主船・主鷹という。およそ内外の官司から差し出される兵衛は、本省がこれを検校・訓練し、等級に応じて処分する。老年で衰弱し宿衛に堪えない者、また位階による蔭位を詐称した者、賤人でありながら身分を偽った者などは、みな勘検を経て、はじめて放免される。衛士が京師に至るときは、必ずまず武具を検閲し、国郡の武器の備えについては、毎年その帳簿を勘校する。【令義解による。】およそ内外の武官の考選・叙位・除目、季禄・馬料などの類は、すべて式部省の例に準じる。【延喜式による。】大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録三人(正八位上)を置く。史生十人(【続日本紀にいう、和銅元年に六人を加えたと。日本後紀にいう、大同四年に四人を加えたと。○延喜式では二十人とし、両書が加えた数の合計と一致する。】)、書生十人(【類聚三代格にいう、弘仁四年に置いたと。○本書にいう、史生の員数が少なく書写の労が多いため、式部省の例に準じて書生を置いたと。】)、省掌二人(【類聚国史にいう、天長七年に扶省掌二人を置いたと。延喜式に載る人数も同じ。】)、使部六十人(【○延喜式では三十人とする。】)、直丁四人を置く。【令義解による。】後世には大輔・少輔ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】健児の始まりは詳らかでない(【〇日本書紀を按ずるに、皇極天皇元年に健児の語が初めて見える。しかし当時はまだ職名として立てられていなかったのであろう。】)。おそらく大宝令以後に置かれたものである。聖武天皇の天平十年にこれを停止した。廃帝(淳仁天皇)の天平宝字六年、あらためて伊勢・近江・美濃・越前の四国の郡司の子弟や百姓を選んで健児とし、死亡・欠員・老病の者があればこれに代えた。その履歴・等級は、毎年朝集使に付して兵部省に送らせた。【続日本紀による。】桓武天皇の延暦十一年、次のように制した。「今、諸国の兵士を停止する。その兵庫・鈴蔵および国府などは、健児を差し出して交代で守衛させるのがよい。」そこでその人数を定め、大和・河内・摂津・山城・伊賀・参河・伊豆・甲斐・安房・若狭・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊・淡路・阿波・土佐は各三十人、和泉は二十人、伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前・越後・播磨は各百人、尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・長門・讃岐は各五十人、遠江は六十人、武蔵は百五人、下総は百五十人、常陸・近江は各二百人とした。【類聚国史による。】醍醐天皇の延喜の制で、健児の数を定め、各国三百人以下二十人以上とし、それぞれ差をつけた。みな兵部省に隷属させた。【延喜式による。】残りは兵志に見える。

兵馬司。正一人(正六位上)。軍馬の畜牧、郵駅の公私の馬牛に関する事を掌る。佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。使部六人、直丁一人。【令義解による。○続日本紀によれば、和銅六年に権官として史生四人を充てたという。】平城天皇の大同三年、左右馬寮に併合された。【官職秘抄後附による。】

造兵司。正一人(正六位上)。兵器の製造、および工戸の戸口・名籍の事を掌る。佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)、雑工部二十人を置く(【令義解による。○類聚三代格によれば、大同三年に才長上二員を停止したという。三代実録にいう、元慶元年、山城の雑工戸を旧に復したことにより、遠江の雑工戸二十烟を停止したと。】)。史生二人(【日本後紀による、大同四年に置いたとする。】)、使部十二人、直丁一人、雑工戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、鍛戸・甲作・靫作・弓削・矢作などを合わせて四百六十戸、これを雑戸とし調役を免ずる。爪工・楯縫などを合わせて七十二戸、これを品部と名づけ徭役を免ずるという。】聖武天皇の天平十六年、この司を廃した。【続日本紀による。】その後復置された。宇多天皇の寛平八年に至り、兵庫寮に併合された。【類聚三代格・官職秘抄後附による。】

鼓吹司。正一人(正六位上)。鼓吹の調習を掌る。【令義解による。】鼛鼓(がいこ)をもって役事を鼓し、晋鼓をもって金奏を鼓し、鼓角を教習することは、十月に始まり二月に終わり、三月朔日にこれを本司の庁庭で試みる。【令集解による。】佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。【令義解による。】史生二人(【日本後紀による、大同四年に置いたとする。】)、使部十人、直丁一人、鼓吹戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、大角吹は二百十八戸、戸ごとに九月から二月まで学習する。これは品部に準じ、調を免ずるという。三代実録にいう、元慶四年、兵部省が「山城の鼓吹戸はおよそ七十五烟あり、調・徭・雑役を免じて鼓角を学習させているが、国司が二烟を除棄した。もとのように増し置かれたい」と言上し、これを許したと。延喜式にいう、山城七十五烟、摂津二烟、河内二十三烟を兵庫寮に隷属させ、旧に比べて百十八戸を減じたと。】桓武天皇の延暦十五年、吹部三十四人を定め置き、雅楽寮の雑色生に準じて、その勘籍を許した。【日本後紀による。】十九年、当司は「吹角・鉦鼓はいずれも軍旅に用いるものであるが、今は吹角の長上三人がいるのみで、鉦鼓の師がいない。鉦鼓の長上を立てて生徒を教習させたい」と言上し、これを許した。【令集解・類聚三代格による。】宇多天皇の寛平八年、廃されて兵庫寮に併合された。【類聚三代格・官職秘抄後附による。】

主船司。正一人(正六位下)。公私の舟楫・舟具に関する事を掌る。これはもと上代の船氏が掌ったものである。【「上世」以下は日本書紀による。】佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)、使部六人、直丁一人を置く。船戸は、およそ所在の官船をすべて分番して看守する。【令集解による。○令集解を按ずるに、船守百戸は津国にあり、これを品部とする。十戸をもって一番とし役し、調・徭を免ずるという。】後世に至ってこの司は廃され、再び置かれなかった。【官職秘抄後附による。】

主鷹司。はじめ仁徳天皇の時代、百済の酒君に鷹を養わせ、鷹甘部を定めた。主鷹の官はおそらくここに起こる。【「初仁徳」以下は日本書紀による。】大宝の制で、正一人(従六位下)を置き、鷹犬の調習を掌らせた。佑一人(【○本書には位階が欠けており、一本にはこの三字がない。】)、令史一人(少初位下)を置く。【令義解による。】史生二人(【日本後紀による、延暦十五年に置いたとする。】)、使部六人、直丁一人、鷹戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、鷹養戸十七戸は倭・河内・津にあり、これを品部と名づけ調役を免ずるという。】廃帝(淳仁天皇)の天平宝字八年、放鷹司を廃して放生司を置いた。【続日本紀による。○これによれば、主鷹司はまた放鷹司とも称したのである。】その後、主鷹司が復置された。【日本紀略による。○本書によれば、本司が復置されたのは、おそらく桓武天皇の延暦年間のことであろう。】後世に至って、本司の所在は見られなくなった。【官職秘抄・職原抄による。】

刑部省

刑部省。【令義解による。】もとは上代の物部氏が掌った職である。【日本書紀による。○本書を按ずるに、天武天皇の時代に刑官があったが、おそらくこの職であろう。】大宝令の制定に及んで、卿一人(四品、正四位下)を置き、獄を鞫し刑名を定め、疑獄を裁決し、良賤の名籍、囚禁・負債の事を掌らせた。その下に二司を置き、贓贖・囚獄という。およそ罪囚で徒罪以上の者は本省に送り、衛府が捕えた罪人で京師に本貫のない者もまた省に送る。大辟(死罪)を決するに、五位以上で在京の者は少輔以上が監決し、在外の者は次官以上が監決し、その他はすべて少輔・次官以下が監決する。およそ犯罪で議すべき者は、大輔・少輔・判事が太政官で議定する。大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞二人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録二人(正八位上)、史生十人を置く。【令義解による。】

大判事二人(正五位下)。鞫状を案覆し、刑名を断定し、もろもろの争訟を判ずることを掌る。中判事四人(正六位下)、少判事四人(従六位下)を置く。【令義解による。】その後、中判事を省き、大判事一人、少判事二人と定めた。【類聚三代格による。○本書を按ずるに、年月は詳らかでない。】宇多天皇の時代に至って、大・中・少判事各二人があった。寛平四年、中判事を停止し、大・少判事各一人とした。【本朝文粋・官職秘抄による。】醍醐天皇の延長四年、大判事一人を加え置いた。【官職秘抄による。】後世にはまた省いて一人とし、中判事一人を置いた。【職原抄による。】大属二人(正七位下)。判文を鈔写することを掌り、その他は神祇官の史に準ずる。少属二人(正八位下)を置く。【令義解による。】史生四人(【日本後紀による、延暦十八年に置いたとする。】)、大解部十人(従七位下)を置き、争訟を究問することを掌らせる。中解部二十人(正八位下)、少解部三十人(従八位下)を置く。省掌二人、使部八十人(【○延喜式では三十人とする。】)、直丁六人を置く。【令義解による。】もともと朝廷が解部を置いたのは、いつ始まったか詳らかでない。持統天皇四年、解部百人を本省に併せた。【日本書紀による。】大宝に至って六十人と定めた。【令義解による。】平城天皇の大同三年、ことごとく停廃された。【類聚国史による。】刑部省は八省に列し、断獄・刑法・訴訟を掌り、実に重職である。【令義解・職原抄の大意による。】弘仁以後、その権は検非違使に移り、本省は名のみあって実がなくなった。【職原抄による。】清和天皇の貞観七年、当省は「これまでの例では刑部省を訓じて訴訟司としている。そもそも名が正しくなければ事は従わず、名によって実を招き、事によって象を効すものである。判断の職を、どうして訴訟司と称してよかろうか。刑部省を訓じて判法司とされたい」と言上し、勅してその号を改め定訟司とした。【三代実録による。】後世には大輔・少輔ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

贓贖司。正一人(正六位上)。簿斂・配没、贓贖・闌遺雑物の事を掌る。【令義解による。】およそ没官の物は、諸司に分配する。兵器は兵庫に送り、文書は図書寮に送り、財物は大蔵省に送り、家人・奴婢は官奴司に送る。およそ諸国の贓贖は本司に納め、囚人の衣糧・薦席・医薬、および獄舎の修理などの用に充てる。【令集解による。】佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。使部十人、直丁一人を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、刑部省に併合された。【令集解・類聚三代格による。】

囚獄司。正一人(正六位上)。罪人の囚禁、徒役の功程、配流・決杖の事を掌る。【令義解による。】およそ衛府が捕えた罪人、もろもろの解司が送った犯徒以上の者は、みな本司がこれを禁囚し、徒人を役して道橋を造作させ、宮辺の汚穢を掃除させ、婦人はこれを縫作・春米(米つき)に配する。【令集解・延喜式による。】佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。【令義解による。】史生二人を置く。【日本後紀による、大同四年に置いたとする。】物部四十人を置き、罪人を決罰することを主当することを掌らせる。物部丁二十人を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、物部はこれ伴部の一色であり、式部の補任は衛門府の門部と同じであるという。また物部丁はいずれも仕丁に充てるという。】使部六人を置く。【延喜式による。】物部とはすなわち物部連の支族であり、その本宗は上代に兵刑を典掌した。大宝以後、本宗はすでに衰え、その支族はなお刑部に隷属して賤役に服した。天長年間に至って、この職務に就く者がいなくなり、異姓の者を選んでこれに充てるようになった。【日本書紀・姓氏録・旧事本紀・令義解・類聚国史・延喜式の大意を参酌する。】

大藏省

大蔵省。【令義解による。】上代、朝廷は斎蔵を置き、忌部氏にこれを掌らせた。履中天皇の時代に至って、さらに内蔵を立てた。雄略天皇はまた大蔵を建て、秦公酒を長官とし、東西の文氏に簿籍を勘録させ、秦・漢の二氏を主鑰とし、三蔵を検校させた。【古語拾遺・姓氏録による。】天武天皇の時代に至って、大蔵省があった。【日本書紀による。】大宝令の制定は、その制度を踏襲した。卿一人(正四位下)を置き、諸国の調物の出納、および銭幣・金銀・珠玉、銅鉄・骨角・羽毛・漆、帳幕・権衡・度量、売買・估価、四方からの貢献雑物の事を掌らせた。その下に五司を置き、典鋳・掃部・漆部・縫部・織部という。【令義解による。】およそ諸神の祭祀、朝廷の礼儀、釈奠・仏会に用いる幄幔・禄料・布施、諸司の春夏の季禄・時服、節会の給禄、蕃客への賞賜などの類は、みな本省がこれを頒給する。【延喜式による。】大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録二人(正八位上)、史生六人を置く(【続日本紀にいう、和銅六年に史生六人を加えたと。日本後紀にいう、大同四年にさらに八人を加え、以前と合わせて二十人となったと。○延喜式に載る数もこれと合う。】)。大主鑰二人(従六位下)、少主鑰二人(従七位下)、蔵部六十人を置く。【類聚国史にいう、延暦十七年、蔵部の員数を四十人と定めたと。】価長四人を置く。【令義解による。○類聚三代格を按ずるに、価長は今の員数四人であるが、以前から補されるのは二人のみであったという。貞観二年、式部は令に基づいて加補したが、かえって職事を害した。十三年、省は二人を減ずるよう請うたという。また伊呂波字類抄を按ずるに、四人とする。】桓武天皇の延暦十八年、大・少主鑰各一人を省いた。平城天皇の大同三年、大丞・大録各一人を加えた。嵯峨天皇の弘仁二年、縫殿寮の官人三十人を分けて本省に配し、幄幔を縫作させた。【日本後紀による。】典履二人(正八位上)を置き、靴履・鞍具を縫造することと、百済手部を検校することを掌らせる。百済手部十人を置き、雑縫作を掌らせる。【○令義解を按ずるに、大蔵・内蔵にはともに典履があり、職掌が相似ている。ただ内蔵は供御のためであり、大蔵は賜与を掌るためであって、掌るところは全く異なるという。】典革一人(正八位上)を置き、雑草を染製することと、狛部を検校することを掌らせる。狛部六人を置き、革を染めることを掌らせる。省掌二人(【○延喜式には扶省掌二人を載せる。】)、使部六十人(【○延喜式では二十人とする。】)、直丁四人、駆使丁六人、百済戸・狛戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、忍海戸・竹志・宮郡などの狛人、大狛染部を合わせて六十二戸、これを品部とし調を免ずる。紀伊の狛人・百済人・新羅人を合わせて三十人、雑徭を免ずる。百済手部十戸、百済戸十一戸は、ともに雑戸とし、調を免ずる。衣染・飛鳥鞜縫・呉床作・蓋縫・大笠縫・橋作などを合わせて百五十一戸、これを品部とし、雑徭を免ずるという。ただ百済手部の十人のみが考課を得るという。】平城天皇の大同元年、典履二人、百済手部十人、典草一人、狛部六人、狛戸を、内蔵寮に隷属させた。【類聚国史・令集解による。】後世には大輔・少輔ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

典鋳司。正一人(正六位上)。金銀銅鉄の鋳造、瑠璃の塗飾、および玉作・工戸の戸口・名籍の事を掌る。佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)、雑工部十人、使部十人、直丁一人、雑工戸を置く。【令義解による。】光仁天皇の宝亀五年、廃されて内匠寮に併合された。【官職秘抄後附による。】

掃部司。もとは上代の掃部連が掌った職である。初め彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊が海浜の宮でお生まれになったとき、天忍人命が産室に奉仕し、箒を作って蟹を掃い出したので、蟹守と号した。蟹守とはすなわち掃部である。その子孫は代々この職を掌り、掃部氏となった。【「即上世」以下は古語拾遺・姓氏録による。】大宝に至って司として立てられた。正一人(正六位上)を置き、鋪設・灑掃、薦席・牀簣、蒲・藺・葦簾などの事を掌らせた。佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生二人(【日本後紀による、延暦十八年に置いたとする。延喜式では五人とする。】)、掃部十人、使部六人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁一人、駆使丁二十人を置く。【令義解による。】嵯峨天皇の弘仁十一年、公卿が次のように奏上した。「掃部・内掃部の二司は異なるとはいえ、その掌るところを顧みれば、ただ鋪設のことに過ぎません。しかるに公会の臨時の座を設けるにあたり、両者は互いに譲り合い、しばしば怠慢を招いております。しかも司が多く事は少なく、実に穏当ではありません。臣らが思いますに、政は簡要を期し、事は沿革を貴ぶべきものです。両司を併せて一つとし、掃部寮と号し、宮内省に属させて、その職務を担わせられたい。その官員はすべて主殿寮と同様とされたい。」この奏上は許可された。【類聚国史・令集解による。】これより後、頭・助・允・属は、みな主殿寮と同様となった。後醍醐天皇の時代に至ると、助には権官があり、六位の諸大夫がこれに任じられた。允には大少があり、いずれも六位の侍がこれに任じられた。【職原抄による。○伊呂波字類抄には寮掌があるとする。】

漆部司。【令義解による。】初め日本武尊が牀石足尼に漆を取らせ塗り干させたことにより、命じて漆部の官に任じたという。【伊呂波字類抄が引く本朝事始による。】その後、漆部造があり、おそらくその職を掌った。【姓氏録による。】大宝の改制で、正一人(正六位下)を置き、雑塗漆の事を掌らせた。佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)を置く。漆部二十人を置く(【○令集解を按ずるに、漆部二十人のうち、その七人は伴造とし、年を経れば役を免ずる。漆部十戸は品部とし調役を免ずる。漆部・伴部はともに考課を得るという。】)。使部六人、直丁一人を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、詔して内匠寮に併合させた。【令集解・類聚三代格による。】

縫部司。正一人(正六位下)。衣服を裁縫する事を掌る。おそらく上代の衣縫造が掌った職である。【「上世」以下は姓氏録による。】佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)を置く。縫部四人、使部六人、直丁一人、縫女部を置く。【令義解による。】大同三年、縫殿寮に併合された。【令集解・類聚三代格による。】

織部司。上代は服部連が掌った職である。允恭天皇の時代、初めて司を置き、諸国の織部を総領させた。【「上世」以下は姓氏録による。】大宝の制で、正一人(正六位下)を置き、錦・綾・紬・羅を織ることおよび雑染の事を掌らせた。佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)を置く。【令義解による。】史生二人を置く(【日本後紀による、大同四年に置いたとする。○延喜式では四人とする。】)。挑文師四人(大初位下)を置き、錦・綾・羅などの文様を挑むことを掌らせる。挑文生八人、使部六人を置く(【○延喜式では四人とする。】)。直丁一人、染戸を置く。【令義解による。】大同三年、挑文師二人を省いた。【令集解・類聚三代格による。】ほどなく司は廃され、縫殿寮に併合された。【類聚三代格による。】

宮內省

宮内省。天武天皇の時代に宮内官があり、卿・大夫などの職を置いた。【「天武」以下は日本書紀による。】大宝の制で省と改めた。卿一人(正四位下)を置き、諸国の調雑物・舂米・官田の出納、および食膳に供する諸方の口味を奏宣する事を掌らせた。官田は畿内に分置し、省は翌年に植える色目・町段の多少を見積もる。式に依って功を料り、官に申して支配し、歳の終わりに収穫の多少を校量し、考課に付して褒貶する。【令義解による。】氷室の多少・厚薄を奏し、氷の様を進める。【延喜式による。】その下に一職を置き大膳といい、四寮を置き木工・大炊・主殿・典薬といい、十三司を置き正親・内膳・造酒・鍛冶・官奴・園池・土工・采女・主水・主油・内掃部・筥陶・内染という。大輔一人(正五位下)、少輔一人(従五位下)、大丞一人(正六位下)、少丞二人(従六位上)、大録一人(正七位上)、少録二人(正八位上、【○類聚三代格にいう、一人を増したと。しかし年月は未詳であるという。】)、史生十人(【続日本紀にいう、和銅六年に十人を加えたと。類聚国史にいう、貞観十四年に二人を省いたと。○延喜式では十八人とする。】)、省掌二人、使部六十人(【○延喜式では二十人とする。】)、直丁四人を置く。【令義解による。】後世には大輔・少輔ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

大膳職。大夫一人(正五位上)。諸国の調雑物、膳羞・葅醢・醤鼓・未醤の調製、肴果・雑餅の食料を掌り、膳部を率いてその事に供する。亮一人(従五位下)、大進一人(従六位下)、少進一人(正七位上)、大属一人(正八位下)、少属一人(従八位上)、主醤二人(正七位、雑醤・豉・未醤などの調製を掌る)、主果餅二人(正七位下、果子・雑餅の調製を掌る)を置く。【令義解による。】史生四人を置く(【続日本紀による、和銅六年に置いたとする。日本後紀にいう、大同四年に四人を加えたと。○延喜式では八人とする。】)。膳部百六十人を置き、庶食の調製を掌らせる。【令義解による。】職掌二人(【続日本後紀による、承和二年に置いたとする。】)、使部三十人(【○延喜式では十五人とする。】)、直丁二人、駆使丁八十人、雑供戸を置く。【令義解による。】上代には鵜甘部首・江首・我孫公などの姓があり、おそらくこの職に供奉した。【姓氏録による。】大宝以後、その部属はなお品部と号し、本職に隷属した。これがすなわち雑供戸である。【令集解による。○本書にいう、鵜飼・江人・網引などを合わせて二百七十四戸、これを品部とし調・雑徭を免ずる。網引とはすなわち我孫であるという。】平城天皇の大同三年、主醤・主果餅を廃した。【類聚三代格・類聚国史による。】ほどなく、その政務が職に帰し事務がさらに煩雑となったため、少進・少属各一人を加えた。【日本後紀・類聚三代格による。】後世には大夫および亮ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】また御厨子所別当一人を置き、四位の殿上人をこれに任じて、御膳・酒肴類を供進することを知らせた。【拾芥抄による。】後に内蔵頭をもって別当に補し、【職原抄による。】膳部滝口二十人を預けた。これはすなわち鵜飼・江人・網代の属をいう。【河海抄による。】

木工寮。頭一人(従五位上)。工作・営構および採材の事を掌る。初め孝徳天皇の時代に将作大匠があった。【「初孝徳帝」以下は日本書紀による。】大宝の制で、おそらく今の名に改めたのであろう。助一人(正六位下)、大允一人(正七位下)、少允二人(従七位上)、大属一人(従八位上)、少属一人(従八位下)を置く。【令義解による。○少属は、延喜式では二人とする。】史生四人を置く(【続日本紀による、養老六年に置いたとする。○日本後紀を按ずるに、延暦二十五年、造宮職を停止して木工寮に併合したことにより事務が繁多となったため、史生六人を加え、以前と合わせて十二人となったという。これによれば、これより前に二人を加えたことになる。大同四年に至って四人を省いた。弘仁三年、さらに六人を加えた。九年、六人と定めた。延喜式では十一人とする。】)。算師四人(【延喜式による。】)、寮掌二人(【類聚国史による、承和二年に置いたとする。】)、工部二十人(【○延喜式では五十人とする。】)、使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人、駆使丁を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、木工の長上十七人を減じて八人とした。鍛冶の長上二人を一人に減じた。仁明天皇の承和元年、本寮の長上工十四人を割いて、造瓦の長上一人を置いた。【類聚三代格による。】二年の制で、寮中の長上雑工は、その才技に従い、それぞれ品数がある。従来の考文では、長上木工とまとめて注し、品色を分けていなかった。これより後は、長上および工の品はその人を選び、色ごとに弁別して、欠員に応じてこれを補うこととした。木工八人、土工二人、瓦工二人、轆轤工一人、檜皮工二人、鍛冶工二人、石灰工一人とする。【続日本後紀による。】後世には頭・助ともに権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。】

大炊寮。【令義解による。】初め成務天皇の時代、小長田命が御飯を調え進めた。天皇はその香美を愛でて、詔して多米連の姓を賜い、大炊の事を掌らせ、あわせて御田の職を兼任させた。子孫は代々その事に供奉した。【政事要略が引く多米宿禰本系帳による。姓氏録を参取する。】大宝の制で、寮として立てられた。頭一人(従五位下)を置き、諸国の舂米・雑穀を、諸司の食料に分給する事を掌らせた。助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生四人を置く(【続日本紀による、養老二年に置いたとする。○延喜式では五人とする。】)。大炊部六十人を置く(【○令集解を按ずるに、大炊戸二十五戸、これを品部とし雑徭を免ずるという。】)。使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人、駆使丁三十人を置く。【令義解による。】後世に至って、助には権官があり、允には大少があって、いずれも六位の者をこれに任じ、掃部寮の例と同様であった。【官職秘抄・職原抄による。○伊呂波字類抄にいう、寮掌二人とする。】

主殿寮。頭一人(従五位下)。御輿輦・蓋笠・繖扇・帷帳の供進、湯沐・洒掃、および灯燭・松柴・炭燎の事を掌る。助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生五人を置く(【延喜式による。○日本後紀を按ずるに、大同四年、主殿の史生二員を加えたという。すると史生は大同以前に置かれたことになるが、それがいつであったかは未詳である。】)。殿部四十人、使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人、駆使丁八十人を置く。【令義解による。】陽成天皇の元慶六年、主殿寮は次のように言上した。「職員令を検するに、殿部四十人は、日置・子部・車持・笠取・鴨の五姓の人をこれに充てるとあります。今その氏族は、あるいは一族すべて絶え、あるいは寮に直に仕える心なき者もあり、そのため雑事を差し役するのに、常に人数の少なさに苦しんでおります。公事を済まそうとして、仮に異姓の者を補ってまいりました。功を積み労を成した者を式部省に移すと、省は考帳に載っていないとして、常に却下しております。承和六年に補されたところの異姓の白丁五人のほかに、異姓の者を色に入れて十人を加え補うことを請います。その残りの二十五人は、五姓の人が現れるのを待ってこれを補います。」これに従った。【三代実録による。】主殿頭は後世に至り、小槻氏が代々その官を世襲した。助には権官があり、允には大少があって、その例は掃部寮と同様であった。【職原抄による。】

典薬寮。【令義解による。】古くは薬師・薬使主などの諸氏があり、おそらくこの職を掌った。【姓氏録による。】天武天皇の時代に外薬寮があった。持統天皇の時代に医博士・呪禁博士があった。【日本書紀による。】大宝に至って本寮を置き、頭一人(従五位下)を置いて、諸薬物による疾病の治療、および薬園の事を掌らせた。【令義解による。】およそ行幸には侍医が薬生を率い、御薬を齎して従駕する。【延喜式による。】五位以上の者が疾病にかかれば、奏して医師を遣わし治療にあたらせる。【令集解による。】毎年、諸司の料の雑薬を頒給する。【延喜式による。】助一人(従六位上)、允一人(従七位上)、大属一人(従八位下)、少属一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生四人(【日本後紀による、延暦十五年に置いたとする。】)、医師十人(従七位下、疾病の治療および診候を掌る)、医博士一人(正七位下、薬方・脈経を掌り医生を教授する)、医生四十人を置く。【令義解による。】女医博士一人(正七位下、【続日本紀による、養老六年に置いたとする。位階は職原抄による。○拾芥抄では従七位下とする。】)を置く。針師五人(正八位上、諸瘡病の治療および補瀉を掌る)、針博士一人(従七位下、針生を教えることを掌る)、針生二十人を置く。按摩師二人(従八位上、諸傷折の治療を掌る)、按摩博士一人(正八位下、【○伊呂波字類抄では二人とする。】按摩生を教えることを掌る)、按摩生十人を置く。呪禁師二人(正八位上、呪禁を掌る)、呪禁博士一人(従七位上、呪禁生を教えることを掌る)、呪禁生六人を置く。薬園師二人(正八位上、薬性の色目を知り、薬園の諸草を種採すること、および薬園生を教えることを掌る)、薬園生六人を置く。【令義解による。】寮掌一人(【三代実録による、貞観四年に置いたとする。】)、使部二十人(【○延喜式では十人とする。】)、直丁二人、薬戸・乳戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、薬戸七十五戸、乳戸五十戸は、いずれも品部とし調・雑徭を免ずるという。】元正天皇の養老三年、本寮の乳長上は、初めて笏を把ることを許された。【続日本紀による。】嵯峨天皇の弘仁十一年、本寮は次のように言上した。「孝徳天皇の朝に、大山上和薬使主福常が乳術を学習し、初めて乳長上の職を授けられました。それより以後、子孫が相継いでこの事に供承し、今に至るまで絶えておりません。ただ終身在職するため懈怠を招きやすく、その一族の中で有能な者を簡んで補し、六年をもって限りとされたい。」この奏上は許可された。【類聚三代格による。】淳和天皇の天長二年、乳長上を改めて乳師とした。【類聚国史・類聚三代格による。○伊呂波字類抄では乳師一人とするが、これがそれである。】宇多天皇の寛平八年、内薬司を停止し、侍医四人、女医博士一人、薬生十人を本寮に隷属させた。【類聚三代格・官職秘抄後附による。】世官の制が興って以来、和気氏・丹波氏が代々典薬の職を世襲した。【職原抄・和気氏系図を参取する。○和気・丹波の両氏を按ずるに、代々典薬を掌った。両氏の系図によれば、和気氏は村上天皇の時代の時雨が典薬頭となったのに始まり、丹波氏は康頼が針博士・医博士となり、その子重明が典薬頭となったのに始まる。康頼は円融天皇の時代の人である。】またも乳牛院があり、別当・乳師預を置いた。【西宮記による。】後世には助に権官があり、允には大小があり、侍医・医博士・女医博士・針博士はみな権官を置いた。【官職秘抄・職原抄による。○伊呂波字類抄では侍医五人、権官三人とする。】

正親司。正一人(正六位上)。皇親の名籍の事を掌る。およそ皇子・皇兄弟は、みな親王となる。【○女の皇子・皇姉妹は内親王となる。】皇孫以下は諸王となる。親王より五世を経れば、王の名を称するとはいえ、皇親の籍には在らない。【令義解による。】その姓を賜って臣となる者は、五世以上であれば同じく正六位上に叙し、七世以上で嫡を承ける者は正六位下に叙し、その他は庶人と同様とする。【延喜式による。】佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。【令義解による。】史生二人(【日本後紀による、延暦十五年に置いたとする。】)、使部十人(【○延喜式では六人とする。】)、直丁一人を置く。【令義解による。】後世に至って、五位の王氏をもって正とした。【官職秘抄・職原抄による。】

内膳司。これは高橋・安曇の二氏が世襲した職である。【令義解・日本書紀・類聚国史・姓氏録による。】高橋氏は、初め膳氏といった。景行天皇の時代、その祖磐鹿六雁が膳大伴部を率いて御膳を供奉し、膳職の長に任じられた。【政事要略が引く高橋氏文による。】安曇氏は、その祖を大浜宿禰とする。応神天皇の時代、海人の宰となった。それより以後、二氏の子孫はともに御膳の事を掌った。【本朝月令による。】大宝の令の制定に及んで、大膳・内膳を立て、そのまま二氏を内膳司に任じた。奉膳二人(正六位上)を定め、御膳を総監し、食を進めるにあたり先に嘗めることを掌らせた。【令義解による。】称徳天皇の神護景雲二年、「令に準じ、高橋・安曇の二氏で内膳司に任ぜられた者を奉膳とする。他氏でこれに任ぜられた者は、名づけて正とするのがよい」と勅した。【続日本紀による。】桓武天皇の延暦年間、安曇氏は罪を獲て流竄された。後世に至って、高橋氏のみがその職に供し、二度と正は置かれなかったという。【類聚国史・職原抄・拾芥抄による。】典膳六人(従七位下)を置き、膳を供し調和すること、庶味の寒温の節を掌らせる。令史一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生二人(【日本後紀による、大同四年に置いたとする。】)、膳部四十人を置き、御食の調製を掌らせる。使部十人(【○延喜式では六人とする。】)、直丁一人、駆使丁二十人を置く。【令義解による。】延暦年間、勅して、大膳職が所管する網曳長・江長各一人、および筑摩御厨長一人を、改めて本司に隷属させた。【類聚三代格による。】平城天皇の大同三年、内膳司の食長上一人、料理長上一人を停止した。【日本後紀による。】嵯峨天皇の初年、膳部四十人を加えた。【類聚国史による。】陽成天皇の元慶七年、本司の進物所などを停止し、近江員外贄人を置いた。【三代実録による。】後世には内膳に別当を置いて本司の事を知らせ、納言をこれに補した。【職原抄による。】また進物所を置き、近衛次将を別当とし、奉膳を預とした。【拾芥抄による。】

造酒司。正一人(正六位上)。醸酒・醸酢の事を掌る。これはもと上代の酒部公の職である。大宝の改制に及んでも、やはりその氏人をもって属官とした。【「上世」以下は姓氏録・類聚国史による。】佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)を置く。【令義解による。】史生四人を置く(【日本後紀による、延暦十五年に二人を置いたとする。類聚国史では、弘仁七年に二人を加えたとする。○延喜式もまた四人とする。】)。酒部六十人を置き、行觴に供することを掌らせる。使部十二人(【○延喜式では六人とする。】)、直丁一人、酒戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、酒戸八十五戸、これを品部とし調・雑徭を免ずるという。】淳和天皇の天長八年、本司の酒部氏人に欠員が多かったため、他氏の二十人をもってこれを補った。【類聚国史による。】嵯峨天皇の弘仁七年、当司は「大同二年、酒部二十人を減じました。しかし今は平城宮および皇后宮に分配しており、供奉に堪えません。もとのように補充されたい」と言上し、これを許した。【類聚三代格による。】

鍛冶司。【令義解による。】神代には天目一箇神がこの職を掌った。【古語拾遺による。】その後、倭鍛部・韓鍛部などの職があった。【日本書紀・古事記による。】大宝の制で司を立て、正一人(正六位上)を置き、銅鉄雑器の造作、および鍛戸の戸口・名籍の事を掌らせた。佑一人(従七位下)、大令史一人(大初位上)、少令史一人(大初位下)を置く。鍛部二十人、使部十六人、直丁一人、鍛戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、鍛戸三百三十八戸、これを雑戸とし調・徭を免ずるという。】聖武天皇の天平十六年、廃された。【続日本紀による。】その後復置された。平城天皇の大同三年、詔して木工寮に併合させた。【類聚国史・令集解による。】

官奴司。正一人(正六位上)。官戸・奴婢の名籍、および口分田の事を掌る。佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)、使部十人、直丁一人を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、詔して主殿寮に併合させた。【令集解による。】

園池司。上代には園部氏があり、おそらくこの職を掌った。【「上世」以下は姓氏録による。】正一人(正六位上)。もろもろの苑池での蔬菜・樹果の種殖の事を掌る。佑一人(従七位下)、令史一人(大初位上)を置く。【○日本後紀にいう、大同四年に史生一人を省いたと。しかしその史生を置いたことについては、諸書に見えるところがない。】使部六人、直丁一人、園戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、園戸三百戸、これを品部とし調・雑徭を免ずるという。】宇多天皇の寛平八年、内膳司に併合された。【類聚三代格・官職秘抄後附による。】

土工司。正一人(正六位下)。土作・瓦埿を管掌すること、および石灰を焼くことの事を掌る。佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)を置く。泥部二十人、使部十人、直丁一人、泥戸を置く。【令義解による。】上代には埿部造があり、おそらくこの職を掌った。【日本書紀による。】大宝以降、泥部はなお伴造と称し、本司に隷属した。【令集解による。○本書にはまた、泥戸五十一戸、これを品部とし調・徭を免ずるとある。】後世に至って、この司は廃された。【官職秘抄後附による。○この司は延喜式に載らないことを按ずるに、その廃はおそらく延喜以前のことであろう。】

采女司。【令義解による。】采女は上代に置かれたもので、女官として御膳に供奉する者であり、采女臣が代々長官となった。【日本書紀・姓氏録による。】大宝の制で司を置き、正一人(従六位下)を置いて、采女を検校する事を掌らせた。佑一人(正八位上)、令史一人(大初位下)を置き(【令義解による。】)、采女朝臣をこれに任じた。【延喜式による。】史生二人(【続日本後紀による、承和八年に置いたとする。】)、采部六人、使部十二人を置く(【○延喜式・伊呂波字類抄では、いずれも六人とする。】)。直丁一人を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、詔してこの司を縫殿寮に併合させた。【類聚国史による。】嵯峨天皇の弘仁三年、復置された。【日本後紀による。】宇多天皇の寛平九年、「近年、諸国が点じて貢する采女は、一国で五、六人のこともあれば、一人も貢がないこともある。これは定まった規則がないためである。今より四十七人を定額とし、山城・大和・尾張・参河など三十三国には各一人を貢がせ、伊勢・讃岐など四国には各二人、近江・播磨の二国には各三人を貢がせよ」と勅した。【類聚三代格による。】

主水司。【令義解による。】これはもと上代の水取造が世襲した職である。【日本書紀・姓氏録による。】大宝の制で司として立てられ、正一人(従六位上)を置いて、祭祀・釈典・仏会、水漿・饘粥の供進、および氷室の事を掌らせた。およそ立春に先立って土王を視、京中の一井で天子の生気に当たるものを択び、牟義都首氏をしてこれを渫治し祭らせ、立春の日に汲んでこれを供する。中宮・斎王および親王の喪には、みな氷を供する。【令義解・延喜式を参取する。】氷室はおそらく古くは氷氏が掌ったものである。【姓氏録による。】佑一人(正八位下)、令史一人(少初位上)を置く。【令義解による。】史生二人を置く(【日本後紀による、大同四年に置いたとする。】)。水部四十人(【○延喜式では二十四人とする。】)、使部十人(【○延喜式では六人とする。】)、直丁一人、駆使丁二十人、氷戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、氷戸百四十四戸、これを品部とし調・雑徭を免ずるという。】嵯峨天皇の弘仁七年、当司は「水部の員数四十人は三官に供奉していますが、その数が少なく用を敷くに足りません。名員として雑色十二人を増し、その事に供されたい」と言上し、これを許した。【類聚三代格・令集解による。○延喜式を按ずるに、水部は四十人とする。おそらく弘仁以後に旧に復したのであろう。】仁明天皇の承和十一年、当司は「司家に印がなく、ただ白紙を用いております。事は軽疎に渉りますので、内膳・采女の二司に準じて、本司に印を給わりたい」と言上し、これを許した。【続日本後紀による。】後世に至って主水正清原頼業の子孫が、代々その官を世襲したという。【職原抄・清原氏系図による。】

主油司。正一人(従六位上)。諸国の膏油の調達を掌る。佑一人(正八位下)、令史一人(少初位上)を置く。使部六人、直丁一人を置く。【令義解による。】宇多天皇の寛平八年、内膳司に併合された。【類聚三代格・官職秘抄後附による。】

内掃部司。正一人(従六位上)。御牀・狭畳席・薦・簀・簾・苫の鋪設などの事を掌る。佑一人(正八位下)、令史一人(少初位上)を置く。掃部三十人、使部十人、直丁一人、駆使丁四十人を置く。【令義解による。】嵯峨天皇の弘仁十一年、掃部司に併合された。【令集解による。】

筥陶司。正一人(従六位上)。筥・陶器皿を掌る。佑一人(正八位下)、令史一人(少初位上)、使部六人、直丁一人、筥戸を置く。【令義解による。○令集解を按ずるに、筥戸百九十七戸、これを雑戸とし調役を免ずるという。】平城天皇の大同三年、大膳職に併合された。【令集解・類聚三代格による。】

内染司。正一人(従六位上)。供御の雑染の事を掌る。佑一人(正八位下)、令史一人(少初位上)、染師二人(少初位上)を置く。使部六人、直丁一人を置く。【令義解による。】平城天皇の大同三年、縫殿寮に併合された。【官職秘抄後附による。】