卷之二百八十三 志第卌
職官四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶弾正台。尹は一人で従四位上、風俗を取り締まり、内外の不正を糾弾することを職掌とする。朝臣の不正については、五位以上は弾奏(天皇に奏上して弾劾)し、六位以下は担当官司に移して取り調べさせる。【令義解】ただし太政大臣は弾劾できない。尹に不正があれば、弼以下が共同で奏上して弾劾する。台の中での不正は互いに弾劾し合い、弼以下は毎月京中を巡回し、忠以下は毎日京城の内外を視察する。【延喜式】官の苛政による冤罪を訴え出た者については、取り調べて妥当と判断されれば奏上し、そうでなければ弾劾する。式部省とともに朝廷の衣冠・礼儀を正し、衛士府とともに死刑囚の処刑を決定する。もし冤罪が明白な場合は、処刑を停止して奏聞する。【令義解・延喜式を参照】廃帝(淳仁天皇)の天平宝字三年、尹の位階が低く人々が敬い畏れないという理由で、従三位官に昇格させた。称徳天皇の天平神護二年、中壬生門に二本の柱を立てた。一本は官司に抑圧され屈服させられた者のため、もう一本は百姓の冤罪のためのもので、いずれも弾正台にその訴状を受理させた。【続日本紀】桓武天皇の延暦十一年、新たに弾正弾例八十三条を定めた。淳和天皇の天長九年、弾正台が毎月京中を巡回検分し、あわせて諸司・諸院・諸家、および内外の主典以上の違犯を調べ、式部省・兵部省の二省に直接移牒して、考課・禄を減らし奪うことを制度とした。【類聚国史】弼は一人で正五位下。【令義解】嵯峨天皇の弘仁十四年、弼がただ一員であるために政務が滞ることが多かったので、大弼・少弼各一人に分けて置いた。大弼は従四位下、少弼は正五位下とした。【類聚国史・類聚三代格、官職秘抄後付・職原抄を参照】大忠は一人で正六位上、少忠は二人で正六位下、内外を巡察し不正を糾弾することを職掌とし、その他は神祇官の大祐に準ずる。大疏は一人で正七位上、少疏は一人で正八位上。【令義解】弘仁四年、少疏一人を加えた。【類聚国史】巡察弾正は十人で正七位下、内外を巡察し不正を糾弾することを職掌とする。【令義解】弘仁四年に二人を減らし、十四年にまた二人を減らした。淳和天皇の初年に至って、巡察弾正は次第に減らされて二人となり、あらためて巡察大属・少属各一員を置いた。大属は正八位上、少属は大初位上。【類聚国史・類聚三代格】巡察史生二人、【類聚三代格。○考えるに、本書の寛平八年の条に、官司を併合・削減し、廃止された官司の重要な業務や番上の給与などを整理した際の記事に、巡察弾正の田についての言及がある。寛平以後は巡察の記事が見当たらない。よってこの職はおそらく寛平の頃に廃止されたのであろう。】史生六人、【令義解・延喜式による。日本後紀によれば、大同四年に二人を減らし、弘仁二年に旧数に復した。○令集解には弘仁四年とあるが、今は後紀および類聚国史に拠る。】台掌二人、【類聚国史。大同五年に置いた。三代実録によれば、貞観三年に台掌を補佐する者二人を置いた。】使部三十人。【○延喜式には十五人とある。】直丁二人。【令義解】仁明天皇の承和六年の勅で、弾正台と検非違使とはともに不正の糾弾を職掌とするが、犯人が逃亡し弾正台では追捕しきれない場合は、台と検非違使とが協議のうえ検非違使を派遣して逮捕させることとし、これを恒例と定めた。【続日本後紀】これ以後、不正を糾弾し逮捕する権限はすべて検非違使庁に帰し、風紀を正す弾正台の職務は衰えてしまった。【職原抄】
¶衛門府。もともと上代には大伴・久米の二氏が職掌としていた。もとをたどれば二氏の祖である天押日命・天津久米命が、天石靫を背負い弓矢を執って天孫を護衛し、その部下の兵を天靫負部と称し、子孫が代々その職を世襲した。久米氏が衰えるに及び、大伴氏と佐伯氏がともにこれを職掌するようになった。【古事記・日本書紀・姓氏録を参照】皇極天皇の時代に、衛門府の名が初めて見える。【日本書紀】大宝令の制定は、おおむねその制度に従ったものである。また旧来の呼称により靫負府ともいう。【靫負府については日本後紀による】督一人を置き正五位上とし、諸門の警備、出入りの礼儀を職掌とし、時を定めて担当区域を巡回検分し、不法者を戒め、また隼人の門籍・門榜のことをつかさどる。宮門の開閉は必ず時刻を定めて行うが、理門だけは閉門の制限を受けない。夜間は火を灯して出入りする者を誰何し、官人はみな門籍を身に着け、物を持ち出す際にはみな門榜を用いる。門籍を持たない者は、必ず中務省が名を記録して衛門府に送るのを待つ。勅により夜間に門を開く場合は必ず重ねて奏上し、それを聞いた後に開く。仗を執って京中の道を巡行し、夜の鼓が鳴り終わってから暁の鼓が鳴るまでは、人の通行を禁じる。佐一人は従五位下。【令義解】桓武天皇の延暦十八年、督を従四位下に、佐を従五位上に昇格させた。【日本後紀】大尉二人は従六位下、少尉二人は正七位上、大志二人は正八位下、少志二人は従八位上。【令義解】医師一人は正八位下、元正天皇の養老三年に置いた。【続日本紀・令義解。○考えるに、令義解には衛門府および兵衛府の医師が載っているが、正史の記述と一致しない。おそらく後人が追記したものであろう。】門部二百人、衛士を率いて諸門を守ることを職掌とする。物部三十人、臨時に勅を奉じて罪人を処罰することを職掌とする。【門部・物部の職掌はいずれも令集解による】使部三十人、【類聚三代格によれば、延暦十四年に十人を減らした。】直丁四人、衛士。【令義解】桓武天皇の延暦二十四年、衛士四百人のうち七十人を減らした。【日本後紀。○考えるに、大宝の衛府の制では、衛門が首位にあり、左右衛士がこれに次ぎ、左右兵衛がさらにこれに次いで、これを五衛とした。大同年間に近衛府を置いて天子の親衛とするに及び、その地位は最も尊く、衛門・兵衛の上位に置かれた。衛府の制度はこれによって旧来から大きく変わった。今はまず五衛を述べ、次に近衛を述べることとし、一貫して旧来のままとし改めない。】平城天皇の大同三年に廃止され、衛士府に併合された。【日本後紀】
¶隼人司。正一人は正六位下、隼人を検校し歌舞を教習することを職掌とする。【令義解】隼人とは、火闌降命の子孫であり、犬のように吠えて宮墻を守衛する役目を代々務める者である。【日本書紀】朝廷の即位・大嘗祭などの大儀の際には宮門に分かれて陣を張り、天皇の行幸で国境や山川・道路の屈曲する地を通過する際、また行幸先で宿泊する際には、みな犬のように吠えて警衛にあたる。大朝会では風俗歌舞を奏して朝儀を助ける。【延喜式】その他は兵志に詳しい。佑一人は正八位上、令史一人は大初位下。【令義解】史生二人、【日本後紀。大同四年に置いた。○延喜式には五人とある。】使部十人、【類聚三代格によれば、延暦十四年に四人を減らした。○延喜式には四人とある。】直丁三人、隼人。【令義解】桓武天皇の延暦二十四年、隼人の男女各四十人を半減した。平城天皇の大同三年、詔により司を廃止し、衛門府に併合した。府が廃止されるに及んで兵部省に所属を改め、佑一人、使部二人を減らした。【日本後紀】大同四年、勅により「定員の隼人に欠員がある場合、今後は京畿の隼人をもってこれに補うべきである。その衣食の支給は、特に衛士に準ずる。女は補充の対象としない」とされた。【類聚三代格】陽成天皇の元慶元年、佑一人を再び置いた。【三代実録・類聚三代格。○職原抄によれば、佑は後世六位に昇格したという。】使部四人、直丁一人、大衣一人。【類聚三代格】
¶左右衛士府。督は左右各一人で正五位上、宮中の警備、隊仗の検校、衛士の配置、担当区域の巡検、大がかりな儀仗の設営、行幸の際の先駆・後殿を職掌とする。佐は各一人で従五位下。【令義解】桓武天皇の延暦十八年、督を従四位下に、佐を従五位上に昇格させた。【日本後紀】大尉は各二人で従六位下、少尉は各二人で正七位上、大志は各二人で正八位下、少志は各二人で従八位上、医師は各二人で正八位下。【日本後紀によれば、延暦十八年に医師を各一人減らした。類聚三代格によれば、仁和元年に諸衛の医師の判補を停止し、みな奏任に昇格させた。】使部は各六十人、【○類聚三代格によれば、延暦十四年に各六十人と定めたという。これによれば本書に載せる延暦の制は、令の旧文そのものではない。】直丁は各三人、衛士。【令義解】延暦二十四年、左右衛士各六百人のうち各百人を減らした。平城天皇の大同三年、太政官の奏上により衛門府を廃止して本府(衛士府)に併合した。衛門府の職務は、すべて衛士府に担わせることとした。ただし靫負の名は年月を経て久しいため全廃することができず、そのまま左右靫負府と号した。その門部は衛士府に配分され、主帥六十人を廃し、衛士を減らして五百人とし、新たに門部百人を置いた。ここにおいて衛門と衛士とが合一した。嵯峨天皇の弘仁二年、詔により衛士・兵衛をともに旧の員数に復した。【日本後紀】ほどなく大伴宿禰真木麻呂らの奏上により、左右衛士府を改めて左右衛門府とした。【令集解・日本後紀を参照】宇多天皇の寛平三年、員外舎人百人を定めた。【類聚三代格】延喜年間には、督・佐各一人、【○職原抄には権佐各一人とある。】大尉・少尉・大志・少志各二人が置かれた。【○拾芥抄・官職秘抄および秘抄頭注によれば、少尉は後世に増員された。近衛天皇の久安年間に各二十人と定められ、後白河天皇の保元三年にさらに各五人増員された。土御門天皇の頃には、さらに数倍に達したという。】府生は各四人、医師は各一人、門部は各六十六人、衛士は各六百人で、諸宮城門、および八省院・大極殿・豊楽院などを分担して守った。朝廷に儀式や会合があるたびに、督・佐は装束を整え仗を帯びて、配下の衛士を率い宮門に列をなして陣を張り警衛にあたった。兵衛・近衛もみな同様であった。また佐・尉・志・府生各一人と火長九人をもって京中の不正を検察させたが、これがいわゆる検非違使である。【延喜式】当時、衛門府の職務は内外の不正を検察し、あわせて追捕の任にもあたっていた。しかし後に検非違使の権勢が大いに盛んになるに及んで、衛門・兵衛はいずれもその職務を失ってしまった。【延喜式・職原抄の大意を参照】
¶左右兵衛府。【○考えるに、日本書紀によれば左右兵衛の名は天武天皇の時代に初めて見える。】督は各一人で従五位上、【○考えるに、続日本紀によれば和銅年間には左右兵衛率があり、いわゆる督という名はまだ無かった。天平宝字年間に至って督の名が初めて見える。おそらく大宝の制ではもとは率であったのが、後に督に改められたのであろう。今はひとまず疑いを存しておく。】兵衛の検校、閤門の配置分担、時を定めての巡回検分、行幸の際の前衛・後衛への分担、および兵衛の名帳・門籍のことを職掌とする。佐は各一人で正六位下。【令義解】桓武天皇の延暦十八年、督を従四位下に、佐を従五位上に昇格させた。【日本後紀。○職原抄には権佐各一人とある。】大尉は各一人で正七位下、少尉は各一人で従七位上。【○職原抄には、大尉は従六位下、少尉は正七位上とある。これはおそらく延暦年間に衛門府に準じて昇格させたためであろう。拾芥抄・官職秘抄および秘抄頭注によれば、後世に大尉・少尉は増員された。近衛天皇の頃に各二十人と定められ、後白河天皇の頃にさらに各五人増員され、土御門天皇の頃にはさらに三、四倍に達したという。】大志は各一人で従八位上、少志は各一人で従八位下。【日本後紀によれば、延暦十八年に少尉・少志各一人を加え、位階を衛門府に準じさせたという。】医師は各一人で従八位上。【令義解】元正天皇の養老五年に置いた。【続日本紀】府生は各四人。【延喜式】番長は各四人、兵衛は各四百人。【令集解によれば、大同三年に兵衛を各百人減らし、日本後紀によれば、弘仁二年に旧数に復したという。】宇多天皇の寛平三年、兵衛の数を減らして各二百人とした。員外舎人各二百人を定めた。【類聚三代格】使部は各三十人、【類聚三代格によれば、延暦十四年に各十人減らし、日本後紀によれば、大同三年に二十人減らしたという。】直丁は各二人。【令義解】
¶左右近衛府。もとは中衛と近衛とに分かれていた。聖武天皇の神亀五年、初めて中衛府を置き、大内裏の守衛を職掌とさせた。大将一人は従四位上、少将一人は正五位上、将監四人は従六位上、将曹四人は従七位上。府生・番長各六人、中衛三百人。【東舎人と号した。】もとからあった五府とあわせて六衛と称するようになった。【○本書が中衛府の官属を定めたとするのは、この年の八月の事である。類聚三代格によれば、この年の七月に大将・中将各一人、少将二人、将監・将曹各四人、医師二人、府生・番長各六人、中衛四百人、使部三十人を置いたという。これによれば、七月中に中衛府を置き、八月に至ってあらためて定めたということになる。】これより先、元明天皇の即位の年に、授刀舎人寮を置いた。また騎舎人があったが、聖武天皇の天平十八年に改めて授刀舎人とした。これらはいずれも令の規定外に新設されたもので、天子の親衛であった。孝謙天皇の天平勝宝八年、勅により中衛府に授刀舎人の考選・賜禄・名籍のことを職掌させた。中衛・授刀はそれぞれ元の名称を保ち混同しなかったが、舎人の定員はそれぞれ四百人と定めた。廃帝(淳仁天皇)の天平宝字三年、授刀衛を置いた。督一人は従四位上、佐一人は正五位上、大尉一人は従六位上、少尉一人は正七位上、大志二人は従七位下、少志二人は正八位下とした。称徳天皇の天平神護元年、授刀衛を改めて近衛府とし、大将一人は正三位、中将一人は従四位下、少将一人は正五位下、【○類聚三代格には二人とある。】将監四人は従六位上、将曹四人は従七位下とした。医師一人、府生・番長各六人、近衛四百人。【医師以下は類聚三代格による。】中衛大将を正三位に昇格させ、近衛と対等とした。【中衛大将を昇格させた以下は日本紀略による。】また外衛府を置き、大将一人は従四位上、中将一人は正五位上、少将一人は従五位上、将監四人は従六位上、将曹四人は従七位下とした。【○考えるに、本書では外衛大将は天平宝字八年に初めて見える。おそらく一時的な権置であったのが、この時に正官として定められたのであろう。】光仁天皇の宝亀三年、外衛府および内豎省を廃止し、その舎人を近衛府・中衛府、および左右兵衛府に分配した。【続日本紀】桓武天皇の延暦十一年の勅により、近衛・中衛両府の大将をともに旧に復して従四位上官とした。【日本紀略。類聚三代格によれば、延暦十四年に近衛・中衛二府の使部を各二十人と定めたという。】延暦十八年、さらに近衛大将を従三位に昇格させ、中将一人を加え、中衛大将を正四位上官に昇格させた。【日本後紀】平城天皇の大同二年、近衛を改めて左近衛とし、中衛を右近衛とした。【日本紀略】これより後、官名や兵数には時に応じて変遷があったが、六衛であることは変わらず、あるいは四衛二府とも称した。【続日本後紀】後にはまた衛門・兵衛を外衛と称し、二府(左右近衛)は常に天子の親衛として、その地位は四衛の上に置かれた。【続日本後紀・西宮記・職原抄】大将は各一人で従三位、中将は各一人で従四位下、少将は各二人で正五位下、将監は各四人で従六位上、【○官職秘抄によれば、将監は後世に各十余人にまで増員されたという。】将曹は各四人で従七位下。【大将以下の員数はいずれも延喜式により、位階はいずれも拾芥抄・職原抄による。○考えるに、大将の位階は大同以前にはしばしば昇降があった。従三位と定められたのは、おそらく大同年間に左右府に分けた時のことであろう。しかし正史は欠落しており、諸書にも明文が無いため、今は考証できない。】府生は各六人、医師は各一人、番長は各六人、近衛は各三百人、駕輿丁は各百人。【延喜式。○考えるに、日本後紀によれば左右近衛の衛士は各四百人であった。大同三年に各百人を減らし、使部三十人のうち各二十人を減らした。弘仁元年、詔により旧数に復した。今は延喜式に拠るが、その数はなお大同年間に減らされた数と同じである。とすれば弘仁以後にまた減省があったことが知られる。】宇多天皇の寛平三年、員外舎人各二百人を定めた。【類聚三代格】後白河天皇の保元元年、左右の中将・少将をそれぞれ各四人と定めたが、その後さらに増加し、四人にとどまらなかった。【官職秘抄・職原抄後付】また権官もあわせて置かれた。【職原抄】
¶左右馬寮。頭は各一人で従五位上、馬の調教・飼養、天子の乗具の供進、穀草の配給、および飼部の戸口・名籍のことを職掌とする。【令義解】諸国の御牧には牧監・別当を置いてこれを主管させ、毎年駒の貢進を検分して良否を定める。【延喜式】助は各一人で正六位下、大允は各一人で正七位下、少允は各一人で従七位上、大属は各一人で従八位上、少属は各一人で従八位下、馬医は各二人で従八位上。【令義解】史生は各二人、【類聚三代格によれば、大同四年に各二人加えたという。○延喜式には各四人とある。】騎士は各十人、【延喜式】馬部は各六十人。【○延喜式には各十五人とある。また馬部三十人は、負名入色の者を採って充てるという。】使部は各二十人、直丁二人、飼丁。【令義解】上代には馬飼首・馬飼造などの氏があり、代々馬政を職掌としていた。【日本書紀】大宝以後、その部属はなお馬飼造と称し、およそ四百六十余戸が左右の馬寮に分属し、伴部と呼ばれた。【令集解】これはすなわち古の品部の遺制である。元明天皇の和銅四年、従五位下葛木王を馬寮監に任じたが、後に廃止されて置かれなくなった。【続日本紀】後世に至って左右寮御監を置き、近衛大将二人にこれを兼ねさせ、左右それぞれその官のとおりとした。【西宮記・多良問答】天子が御馬を御覧になる際には、左右の馬寮の頭が御馬の名を御監に奏し進め、御監がこれを執奏する。【西宮記】近衛天皇の久安四年、左右の允を二十五人と定めた。【百錬抄。官職秘抄頭注・拾芥抄にはいずれも、保元三年に各三十人と定めたとある。】
¶左右兵庫寮。天武天皇の時代に兵庫職があった。【天武以下は日本書紀による】大宝年間に至って寮と改めた。頭は各一人で従五位上、兵庫の儀仗・軍器の出納・曝涼、および受け渡し事務の点検などを職掌とする。【令義解】朝廷の大儀や宝幢の構築などの際には、鉦鼓を分配して儀式の節目とする。諸国で製作される器仗は、甲・刀・弓矢・胡籙などそれぞれ定数がある。兵部省がその見本の仗を受け取り、寮の官人とともに検閲して等級を定め、天覧が終わった後に収納する。【延喜式】器械は三年に一度修理する。破損して出し入れするものは、その都度修繕する。助は各一人で正六位下、大允は各一人で正七位上、少允は各一人で従七位上、大属は各一人で従八位上、少属は各一人で従八位下。【令義解】史生は各二人、【日本後紀・令集解によれば、大同四年に置いたという。】使部は各二十人、【類聚三代格によれば、延暦十四年に各十四人減らしたという。】直丁は各二人。【令義解】後に司と改められた。【○年月は不詳。】宇多天皇の寛平八年、左右兵庫・造兵・鼓吹の四司を併合して兵庫一寮とした。その工部および大角・小角・鉦鼓の長上各一人、もとの左右の使部十二人は、みな本寮に所属させた。【考えるに、延喜式には工部二十人、鼓吹生三十四人、雑工戸・鼓吹戸とあるが、これらはおそらくすべてこの時に所属させられたものであろう。】醍醐天皇の昌泰元年、頭・助・大属・少属各一人、史生四人と定め、兵部省に隷属させた。ほどなく被管に改め、後にまた旧に復して管隷とした。【類聚三代格・延喜式・官職秘抄後付・職原抄を参照】弩師一人、弩の技術の伝習を職掌とする。【類聚三代格によれば、延喜三年に置いたという。】
¶内兵庫司。正一人は正六位下、左右兵庫寮の頭を兼務する。佑一人は正八位上、令史一人は大初位下、使部十人。【類聚三代格によれば、延暦十四年に六人と定めたという。】
¶左右京職。【○日本書紀によれば、京職大夫の名は天武天皇の時代に初めて見える。】大夫は各一人で正五位上、左右京の戸口・名籍、百姓の教化養育、担当区域の糾察、孝義の者の推挙、田宅・雑徭、良賤の訴訟、市場の度量、倉廩の租調、兵士の器仗、道橋の過所、遺失物、僧尼の名籍などを職掌とする。管轄する司は二つで、東西市司という。京中では坊ごとに長を一人、四坊ごとに令を一人置き、戸口を検校し姦非を督察し、賊徭を催促させる。【令義解】嵯峨天皇の弘仁十三年、大夫を従四位下官に昇格させた。【類聚三代格】亮は各一人で従五位下、大進は各一人で従六位下、少進は各二人で正七位上、大属は各一人で正八位下、少属は各二人で従八位上。【令義解】史生は各十一人、【延喜式。○考えるに、京職の史生は令には載っていない。続日本紀によれば、和銅元年に左右京職の史生を各六人加え、養老元年にさらに各四人加えたという。最初に置かれたのがいつであるかは詳らかでない。】職掌は各二人。【令集解・類聚国史によれば、弘仁十年に置いたという。】坊令は各十二人で、正八位下で清廉剛直で実務に堪える者を用いてこれに任じた。使部は各三十人、【○延喜式には十五人とある。】直丁は各二人。【令義解】桓武天皇の延暦十七年、太政官が「左右京の各条ごとに坊令一人を置き、担当区域を督察させているが、俸禄が無いため、補任にあたって競って逃避しようとする者が多い。少初位下に準じて禄と職田を給し、その身を優遇して職務に励むよう勧めたい」と奏上し、許可された。【類聚国史】淳和天皇の天長二年、右京職が「令には『坊令を取る際、当坊に人がいなければ、隣の坊から取る』とあるが、延暦以降は広く京畿の人から取るようになった。今、令の条文に従えば任用できる人材が乏しくなるので、前例どおり行いたい」と言上し、許可された。左京もこれに準じた。清和天皇の貞観二年、勅により「諸々の勘籍の人を、まだ一度も選考を経ないうちに坊令に昇任させることを禁止する」とされた。【類聚三代格】貞観四年、左京職が「皇親の住居は街衢が隣り合い、卿相の家は坊里に入り乱れている。親王および公卿で職事三位以上の者は家司を保長とし、無品の親王は六位の別当を保長とし、三位以下五位以上の者は事業を保長とすることを請う。そうすれば隣保が互いに保証し合い、姦悪の風がやむであろう」と言上し、許可された。右京職もこれに準じた。【三代実録】久しくして令が行われなくなった。醍醐天皇の昌泰二年、勅により「貞観の格は廃れて行われていない。これはいたずらに条例を設けるだけで、罪科を定めなかったことによる。重ねて貞観の保籍の制に従い、諸院諸司では六位の院司の官人を保長とし、保内を粛清し姦非を糾察させるべきである。ただし保に長がいない場合は、隣接する保の長に兼督させる。保長本人が外吏に転任した場合、あるいは家を売って移住した場合は、京職が保内で職務に堪える者を選んでこれに代えよ。その他はすべて以前の格のとおりとする。もし保長が職務を怠り、また保の人が命令に従わない場合は、違勅の罪に科し、決して寛宥しない」とされた。【類聚三代格】後世、大夫・亮にはともに権官が置かれた。【官職秘抄・職原抄】
¶東西市司。正は各一人で正六位上、財貨の交易、器物の真偽、度量の軽重、売買の見積もり、不正の禁察を職掌とする。上代には商長首という氏があり、この職を掌っていたという。【上世以下は姓氏録による】市を開くにあたっては、月の前半は東市、後半は西市とし、正午に人が集まり夕方に散じ、各店には標札を立てて商品名を掲げる。官は季節に応じて三等に分けて価格を定め、不正な取引や粗悪な品を扱った者は罰として品物を没収し、十日ごとに一冊の帳簿を作り、市にある記録を照らし合わせて、季ごとに京職に申告する。佑は各一人で従七位下、令史は各一人で大初位上。【令義解】史生は各二人。【続日本紀によれば、和銅五年に置いたという。日本後紀によれば、大同四年に各一人減らしたという。○延喜式に載る数は、和銅の時に置かれた数と同じである。】価長は各五人、物部は各二十人、使部は各十人、【○延喜式には各六人とある。】直丁は各一人。【令義解】
¶摂津職。すなわち上代の津守連が世襲の職として、難波津のことを掌っていたものである。【姓氏録】天武天皇の時代に摂津職大夫を置き、国司の職務も兼ねさせた。大宝令の制定もまたその制度に従った。【日本書紀・令義解】大夫一人は正五位上、国中の祠社・戸口・簿帳、百姓の教化養育、農桑の勧課、担当区域の糾察、孝義の者の推挙、田宅・良賤の訴訟、市場の度量軽重、倉廩の租調・雑徭、兵士の器仗、道橋・津済の過所、上下の公使の郵駅伝馬、遺失物、船具の検校、および寺院・僧尼の名籍のことを職掌とする。亮一人は従五位下、大進一人は従六位下、少進二人は正七位上、大属一人は正八位下、少属二人は従八位上、史生三人、使部三十人、直丁二人。【令義解】難波はまた津国ともいい、仁徳・孝徳両天皇が都を定めた地であり、歴代の行宮もここにあった。そのため朝廷はこの職を置き、京官の列に加えて諸国と区別した。桓武天皇の延暦十三年、難波大宮を廃止し、職を改めて国とし、そのまま摂津と称し、ついに他の諸国と同等になった。【日本書紀・令集解・日本紀略を参照。延暦十三年の記事は類聚三代格・和名抄による。】
¶太宰府。主神一人は正七位下、大宰府管内の神祇の諸祭祀を職掌とする。帥一人は従三位で、九国三島を管轄する。【九国三島については令集解による。○考えるに、類聚三代格によれば、天長元年に多褹島を廃止し、その後二島と称したという。】筑前国を兼帯し、祠社・戸口・簿帳、百姓の教化養育、農桑の勧課、担当区域の糾察、孝義の者の推挙、田宅・良賤の訴訟、租調・倉廩・徭役、郵駅伝馬、烽候・城牧の過所、公私の馬牛、遺失物、および僧尼の名籍、蕃客の帰化・饗応のことを職掌とし、防人司もこれに属する。大弐一人は正五位上。【令義解】平城天皇の即位の年、従四位下に昇格させた。【日本後紀】少弐二人は従五位下、大監二人は従六位下、少監二人は従六位上、府内の裁判、文案の審署、過失・違犯の検察を職掌とする。大典二人は正七位上、少典二人は正八位上、神祇官の大史に準ずる職掌である。【令義解】大判事一人は従六位下、少判事一人は正七位上、犯罪の事実を調べて刑名を判断し、諸々の争訟を裁くことを職掌とする。大令史一人は大初位上、少令史一人は大初位下、判文の書写を職掌とする。大工一人は七位上、【○延喜式には主工とある。】少工一人は正八位上、城隍・舟楫・武器その他の営繕造作を職掌とする。博士一人は従七位下、経業を教授し学生を試験することを職掌とする。陰陽師一人は正八位上、占筮・相地を職掌とする。医師二人は正八位上、診断・治療を職掌とする。算師一人は正八位上、物数の計算を職掌とする。【令義解】嵯峨天皇の弘仁五年、一人を加えた。十三年、さらに一人を加え、税帳使に充てた。明法博士は、桓武天皇の延暦十八年に置いた。淳和天皇の天長二年、従七位下官と定めた。【類聚三代格】史生は、文武天皇の大宝三年にさらに十人を加えた。弩師は、廃帝(淳仁天皇)の天平宝字六年に置いた。【続日本紀。類聚三代格によれば、延暦十六年に弩師を廃止し、弘仁五年に史生一人を減らして弩師一人を置き、寛平六年にさらに一人を加えたという。】直府使部二百人、散仕百人、書生十人ほどは、平城天皇の大同二年に置いた。【類聚三代格】延喜の頃には、府掌・音博士・唐通事・傔仗、【続日本紀によれば、和銅元年に初めて太宰帥に傔仗八人、大弐に四人を給したという。】府衛・学授・蔵司・税倉・薬司・匠司・修理器仗所・守客館・守辰・守駅館などの職があった。【延喜式】そもそも朝廷が三韓を平定した当初、任那府を建てて宰を置き、諸蕃を鎮圧させた。欽明天皇の時代に至り、任那は新羅に滅ぼされ、歴代の朝廷はしばしば将を派遣して出兵させたが、ついに回復することができなかった。そこで筑紫に府を置いて海外の政務を掌らせた。これが太宰府であり、九国三島を総管し、西は三韓を統制し、南は南海の諸島を鎮撫した。およそ西海の大事はすべてここを通じて朝廷に上達され、まさに一大鎮であった。【日本書紀・続日本紀・姓氏録・職原抄の大意を参照】このことはまた兵志に詳しい。聖武天皇の天平十四年、藤原広嗣の乱を懲りて府を廃止した。翌年、筑紫鎮西府を置いた。将軍一人、副将軍一人、判官二人、主典二人。天平十七年、大宰府を再び置いた。【続日本紀】そもそも大宝令の制定にあたっては、府は筑前国を兼帯することとされていたが、その後、時に国司を置くこともあった。桓武天皇は国を廃して府に隷属させた。平城天皇の大同元年、管掌する事務が多いため少人数で対応せざるを得ないとして、大監・少監・大典・少典をそれぞれ一員増員した。【日本後紀】大同三年、府が「延暦年間に国を廃止して以来、調庸の未進や正税・器仗・戎具などの欠失がしばしば生じている。これはみな担当する専属の職員がいないため、互いに責任を押し付け合っていることによるものである。官人を分置して別当とし、その職務に専心させ、国務を全うさせることを請う。そうすれば国を帯びる実を失わず、永く欠員の患を絶つことができる」と言上し、許可された。あらためて筑前国司を置き、以前に増員した監・典を減らした。おそらくその後、府は国を兼帯・隷属することがなくなったのであろう。【類聚三代格・日本後紀】朝廷が政務を怠るようになってから、帥に任じられる者はみな親王であったため、実際に府に臨んで政務を執ることはなく、権帥や大弐がこれに代わった。権帥が任じられれば大弐は任じられず、大弐が任じられれば権帥は任じられなかった。補任される属官は監・典にとどまり、判事以下はみな廃されて補任されなくなった。【官職秘抄・職原抄を参照】鳥羽天皇の永久年間、藤原頼兼を少弐に任じた。その孫の資頼以後、この職を世襲し、官名をもって氏とした。【少弐系図】源頼朝が兵権を握るに及んで鎮西奉行を置き、さらに九州探題を置くと、少弐氏もこれに属した。そして探題が暗然として府帥の任に代わるようになった。【東鑑・帝王編年記の大意を参照】
¶防人司。正一人は正七位上、防人の名帳、武具の教閲、および食料田のことを職掌とする。佑一人は正八位上、令史一人は大初位下、主船一人は正八位上、船楫の修理を職掌とする。主厨一人は正八位上、塩辛・漬物、醤・鼓・鮭・鯆などのことを職掌とする。【令義解】嵯峨天皇の弘仁十四年、主厨・主船を廃し、大主城二人を正七位上として置いた。仁明天皇の承和七年、主城を減らして一人、正八位上と定め、あらためて主厨・主船各一人を置き、主船に唐通事を兼掌させた。主厨の位階は旧のままとし、主船は正八位下とした。【類聚三代格】史生二十人。【令義解】そもそも天智天皇の時代に、防人を筑紫および壱岐・対馬に置いた。大宝令の制定に及んで、諸国の兵士を交代で番上させることとし、その後は筑紫の人を差し遣わすこともあれば、もっぱら東国の兵士を取ることもあった。【日本書紀・続日本紀・令義解】桓武天皇の延暦十四年、太政官は、防人の交替が一周年を期限としているために長く公役に苦しみ自らの家業を廃してしまうこと、またその費用がきわめて多いことを理由に、防人の停止を奏請した。その土地の兵士を差し当てて配置し守らせることとしたが、ただ壱岐・対馬だけは海を隔てて遠く、往復に煩わしさがあるため、旧のとおり防人を置いた。【続日本後紀】その後、防人についての記事は見られなくなり、司はついに廃止された。【○考えるに、延喜式には主船・主厨のほかに防人司の官員についての記載が見当たらない。官職秘抄に至っては全く載っていない。この司の廃止は、必ず延喜の前後にあったはずであるが、今のところ確定できない。】
¶国司・郡司は、すなわち上古の国造・稲置・県主が職掌としていたものである。そもそも太祖(神武天皇)が封建の制度を建てて天下を治めていた頃、国造はおよそ百四十四あった。【旧事本紀。○考えるに、本書の巻首には国造は百四十四とあるが、実際に載せられているのは百三十四であり、そのうち和泉・摂津など八国はおそらく後人が加えたものであろう。とすれば総数はわずか百二十六にとどまる。本巣・長狭・闘鶏などの国造で他書に散見するものは載せられていない。本書には脱漏誤りが甚だ多く、すべてを考証することはできない。今はひとまず疑いを残しておく。】孝徳天皇が制度を一変させてから、国には守・介・掾・目を置き、郡には郡領を置いた。畿内七道はおよそ五十余国であったが、後に六十六国二島、五百九十二郡と定められた。【日本書紀・令義解・延喜式の大意をまとめたもの】大国では、守一人は従五位上、祠社・戸口・簿帳、百姓の教化養育、農桑の勧課、担当区域の糾察、孝義の者の推挙、田宅・良賤の訴訟、租調・倉廩・徭役、兵士の器仗・鼓吹、郵駅伝馬、烽候・城牧の過所、公私の馬牛、遺失物、および僧尼の名籍のことを職掌とする。毎年その管下の郡を巡行し、風俗を観察し高齢者を見舞い、囚人の記録をとって冤罪を正し、政治・刑罰の得失を調べ、百姓の苦しみを知り、五教を篤くして農業を勧める。管内に学を好み道に篤く、孝悌忠信で清廉な行いが評判になって郷里に知られた者があれば、これを推挙する。不孝不悌で礼に背き常道を乱し、法令に従わない者は、これを罰する。郡領の能不能・善悪は考課の記録に入れ、褒貶の根拠とする。もし急を要する侵害行為で考課を待てないものがあれば、すぐに取り調べる。陸奥・出羽・越後などの辺要の地では、征討・斥候・饗給などのことも兼ねて職掌とする。壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅などの国では、鎮撫・防衛、および蕃客の帰化のことを総じて職掌とする。三関の国では、関の警備・関契のことを職掌とする。【令義解】淳和天皇の天長三年、中納言清原真人夏野が「今、親王を八省の卿に任じているが、その地位や名望はもともと高く、実際に職務に就いて政務を執ることがないため、官の職務が廃れて行われなくなっている。いくつかの国を選んで親王の任国と定め、親王自身は常に京師にとどまることとしたい。もし守に欠員が生じても、他の者を補任しないこととしたい。その封物は別倉に蓄え、無品親王の費用に充てたい」と奏上し、許可された。すなわち上総・常陸・上野を親王国と定め、大守と号し、勅任の正四位下官に昇格させたが、これは一代限りとし、永久の例とはしなかった。【類聚三代格】その後、これが踏襲されて例となり、親王は国に赴任せず、介に吏務を執らせたため、この三国では介のことを受領と呼んだ。【官職秘抄・職原抄。○考えるに、官職秘抄などの諸書によれば、三国の介を受領と号したという。受領とはすなわち国守のことをいい、左経記に「上野守辰重」と直書しているのがこれである。】介一人は正六位下、大掾一人は正七位下、少掾一人は従七位上、国内の裁判、文案の審署、過失・違犯の検察を職掌とする。大目一人は従八位上、少目一人は従八位下、事務の受理と上申、文案の勘署、公文の校訂を職掌とする。史生三人、博士一人、学生五十人、医師一人、医生十人。【令義解】およそ諸国の史生以上を国司という。【令義解・延喜式】聖武天皇の神亀五年、諸国の史生・博士・医師の員数と選任の期限を改定し、史生は大国四人、上国三人、中下国二人とした。博士は三、四か国ごとに一人置き、医師は国ごとに一人置き、その選任の期限は上に詳しい。廃帝(淳仁天皇)の天平宝字二年、勅により「国司の交替は四年を限りとしているが、交替の期限が短すぎて人民を疲弊させ、十分に徳化を施すことができない。六年に改め、三年ごとに巡察使を派遣して政績を調査させ、それに応じて昇進・降格を行わせる。また史生の交替が満六年を待つのは不便であるので、四年に改める」とされた。称徳天皇の天平神護二年、さらに博士・医師の兼任の例を建てた。兼務する国には、特に史生二人を加えて置いた。光仁天皇の宝亀十年、また史生の員数を改めた。大国五人、上国四人、中国三人、下国二人とし、交替の法は天平宝字二年の勅のとおり四年を限りとした。博士・医師は国ごとに一人とし、いずれも六年の考課をもって交替させることとし、これを恒久の制度と定めた。【続日本紀】諸国の介・掾・目・博士・医師などは、歴代にわたって新設・増員されたものが非常に多い。【続日本紀によれば、天平勝宝四年に佐渡に守・目各一人を再び置いた。天平宝字元年、但馬・肥前に介一人を加え、出雲・讃岐に目一人を加えた。宝亀六年、常陸に少掾・少目各二員を初めて置いた。参河・駿河・下野・越中・但馬・因幡・伯耆・美作・備中・阿波・伊予・土佐・豊前には大目・少目各一員を、伊勢・遠江・武蔵・下総・美濃・陸奥・越前・播磨・肥後には少目二員を置いた。延暦九年、越前・肥後に掾一人を加えた。類聚三代格によれば、延暦十七年に陸奥に少目一人、史生二人を加えたという。日本後紀によれば、延暦二十四年に山城・大和・河内・摂津に史生各一人を加えたという。大同三年、筑前に守・介・掾・大少目各一員を置いた。大同四年、佐渡・隠岐にそれぞれ一人を置いた。類聚三代格によれば、弘仁十二年に大和の史生二人を減らして博士・医師各一人を置き、十三年に対馬の史生一人を減らして博士を置き、十四年に新たに加賀に守・掾・大小目各一人、史生三人、博士・医師各一人を置いたという。天長七年、出羽に大少目・史生各一人を加えた。承和十二年、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の五国に医師がいなかったため、史生一人を減らして医師一人を置いた。嘉祥二年、周防に目一人を加えた。仁寿二年、甲斐に目一員を加えた。仁寿三年、駿河・安芸・紀伊に目各一人を加えた。斉衡元年、陸奥に少掾一員を加えた。天安二年、下野に掾一員を加えた。】また国掌を置いた。【三代実録によれば、貞観十一年に出羽国掌二員を置き、十二年に因幡・播磨・大和・美作・河内・伯耆・讃岐・上総の国掌各二員を置き、元慶二年に佐渡国掌二員を置いたという。○本書にはまた紀伊国掌の記載がある。類聚符宣抄には備前国掌が載っており、国掌の設置は数か国にとどまらなかったと思われるが、今は考証できない。】辺要の国には弩師を置き、【続日本後紀によれば、承和四年に陸奥が鎮守府に準じて弩師を置くことを請い、許可されたという。類聚三代格によれば、承和五年に壱岐の史生一人を減らして弩師一人を置き、貞観十一年に隠岐・長門に弩師を置き、十二年に出雲・因幡・対馬に弩師を置き、十三年に伯耆に弩師を置き、十七年に石見に弩師を置き、元慶三年に肥前に弩師を置き、四年に越後・佐渡に弩師を置き、寛平六年に能登に弩師を置き、七年に越前・伊予・越中に弩師を置き、昌泰二年に肥後に弩師を置いたという。承和から昌泰までに置かれた弩師は、いずれも史生一人を減らしてこれに充てたものである。】陰陽師を置き、【類聚三代格によれば、嘉祥四年に出羽が陸奥に準じて陰陽師を置くことを請い、考選・俸料は博士・医師に準ずることとして許可されたという。貞観十四年、武蔵の権史生を改めて陰陽師とした。十八年、下総の史生一員を減らして陰陽師を置いた。寛平三年、常陸の史生一員を減らして陰陽師を置いた。】訳語を置き、【日本後紀によれば、弘仁六年に対馬の史生一人を停止して新羅訳語一人を置いたという。○類聚三代格では弘仁四年のこととする。】守に傔仗を給した。【類聚三代格によれば、延暦十七年に陸奥守の傔仗二人を定め、天長五年に出羽守の傔仗二人を置いたという。】諸国にはまた検非違使、【文徳実録・三代実録】押領使・追捕使などを置き、【いずれも後述】姦悪の徒を取り締まらせた。【朝野群載・類聚符宣抄】諸国の按察使のように、官位が国守より上にある者については、その沿革は後に詳しく述べる。後世、守・介・掾にはいずれも権官が置かれた。守にはさらに遥授・兼任・受領などがあり、権官の多くは遥任であったが、守が遥授である場合には権官が受領となった。【江家次第。職原抄を参照】諸国にはまた大介を補任することがあり、朱雀天皇の承平年間、南海に盗賊が多く守・介では対応しきれなかったため、従四位下紀淑仁を伊予大介に任じ、あわせて海上の追捕の職務を掌らせた。【扶桑略記。○大介について、諸書には守とあるが、今は本書に従う。】大介はおそらくここに始まる。堀河天皇以後、大介はおおむね公卿が遥任する官となった。【中右記・東寺文書・出雲杵築社文書・常陸府中税所文書】そして国守もまた京師にとどまり、目代を派遣して国務を代行させた。目代は常に留守して政務を視るため、また留守職とも称した。【朝野群載・下総香取文書・淀姫社文書・平家物語・百錬抄・東鑑】さらに荘園が盛んになるに及んで、国郡の制度はついに大いに崩壊し、王政は再び行われなくなった。源頼朝が家人を守護・地頭としたことにより、国司はみなその職を失ってしまった。【愚管抄・神皇正統記の大意を参照】しかし諸国にはなお遥授の官が置かれ、目代は在庁官と称して朝廷の税務を掌った。その属吏には総検校・検校・税所・大帳所・朝集・健児、国掌所などの職があったという。【類聚符宣抄・朝野群載・東鑑・大隅国図田帳・禰寝文書・加茂別雷社文書・常陸府中税所文書・東寺文書】建武中興では、おおむね鎌倉の制度に倣って武人を守護に用い、大きい者は数か国を兼ねるに至ることもあった。公卿を用いる場合は国司と称した。しかし中興の制度はもとより一時の権宜から出たものであり、ほどなく武人がまた取って代わったので、官制と称するには足りない。【太平記・関城書裏書などの諸書の大意をまとめたもの】
¶上国。守一人は従五位下、介一人は従六位上、掾一人は従七位上、目一人は従八位下、史生三人、博士一人、学生四十人、医師一人、医生八人。【令義解】
¶中国。守一人は正六位下、掾一人は正八位上、目一人は大初位下、史生三人、博士一人、学生三十人、医師一人、医生六人。【令義解】清和天皇の貞観七年、公卿が「令を案ずるに、上国には介があり、中国には介がなく、下国には掾がない。今、甲斐などの国は、もともと上国でありながら介を置いていない場合や、国務が繁雑であるのに官員が不足している場合、あるいは長官に事故があって主典が代わって職務を執っている場合など、実情に照らして適切さを欠いている。上国で介を置いていない国、および中国にはすべて介を置き、下国には掾を置いて、実情に応じた変通を図ることを請う。ただし安房・若狭・佐渡・大隅・薩摩などの国は、中国・下国の名を有していても、介・掾の職を備えるに足りないので、この例には含めない」と奏上した。これにより、甲斐・能登・丹後・石見・周防・長門・土佐・日向の八国に介を置き、飛騨に掾を置いた。【三代実録】
¶下国。守一人は従六位下、目一人は少初位上、史生三人、博士一人、学生二十人、医師一人、医生四人。【令義解】
¶郡司。もとは国造にもとづく。【続日本紀・令義解】大化年間に国造を廃止して郡領を置いた。【郡領はまた郡司ともいう。】主政・主帳を置き、郡領は多く国造の子孫から採用した。【日本書紀・続日本紀】大郡は大領一人、少領一人、主政三人、主帳三人。上郡は大領・少領各一人、主政・主帳各二人。中郡は大領・少領・主政・主帳各一人。下郡は大領・少領・主帳各一人。小郡は郡領・主帳各一人。少領以上を郡司といい、性質・見識が清廉で実務に堪える者を選んだ。主政・主帳は、剛健で聡敏、書算に巧みな者を選んでこれに任じた。大領は外従八位上、少領は外従八位下とし、郡領を選ぶにあたって才能が同等であれば、まず国造の子孫を優先して採用した。【令義解】元明天皇の和銅六年、制により「大領・少領は終身を限りとし、交替する任ではない。罪や疾病がなければ、官を去らせてはならない」とされた。【続日本紀】聖武天皇の天平十一年、詔により「郡司の員数を減らす。大郡は大領・少領・主政各一人、主帳二人。上郡は大領・少領・主政・主帳各一人。中郡・下郡は大領・少領各一人。小郡は旧のとおりとする」とされた。【続日本紀】ほどなく勅により「郡司に不善の者があれば、終身の任にとどめてはならない」とされた。【類聚三代格】孝謙天皇の天平勝宝元年、郡領の人材の能否・親疏・長幼などを論ずる従来の例を改め、家柄・門地の重い者を選定して、嫡系がこれを相承することとし、傍系の親族を用いないこととした。【続日本紀】称徳天皇の神護景雲元年、勅により「郡司・主政以下は、初めて任官する際に位を一級叙することとし、これを恒例とする」とされた。桓武天皇の延暦元年、制により「主帳以上の員外の職は、喪に遭って解任された場合、再任してはならない。権任も同様とする」とされた。延暦十四年、勅により「術府舎人は軍毅への昇進を望んでいたが、今は兵士が廃止され、その望みはすでに絶たれた。書算に巧みな者があれば、主政・主帳とすべきである」とされた。【類聚三代格】嵯峨天皇の弘仁二年、上総海上郡に主政一人を加えて置いた。【日本後紀】弘仁五年、勅により「天平年間に郡司の終身の任、および同姓の者の任用を禁じた。しかし一郡の中には同姓の者が特に多く、実務に堪える能力を持ちながら選抜されない者がいることは、これ以上の憂いはない。同姓の者を主政・主帳に任じることを許すべきである」とされた。【類聚三代格】そもそも桓武天皇は家柄による選抜の制度を改め、もっぱら才能・実力のある者を採用して旧弊の是正に努めた。この頃に至って、また家柄を優先し、その後に技能を考慮する制度に改められた。【類聚国史・類聚三代格を参照】仁明天皇の承和元年、佐渡が郡司の実務に人手が不足していることを理由に、正員のほかに員外の権員を郡ごとに置くことを請い、許可された。承和十年、石見の美濃郡を分割して鹿足郡を建て、郡領二人を置き、うち一人は元の郡から割いて充てた。また武蔵の那珂郡、讃岐の大内郡の郡領をそれぞれ一人増員して置いた。【続日本後紀】清和天皇の貞観二年、安芸の佐伯郡に主政一人を初めて置いた。【貞観五年、主政・主帳各一人を加えた。】貞観四年、美作の久米郡、安芸の安芸郡に主政各一人を置いた。貞観八年、伊予の浮穴郡に少領一人を置いた。ほどなく阿波の名方郡に主政・主帳各一人を加えた。貞観九年、美作の苫東郡に大領、苫西郡に少領各一人を加えて置いた。【三代実録】貞観十六年、伊予の宇和郡を下郡として、大領・少領を置いた。【類聚三代格】貞観十八年、肥前の松浦郡を分割して上近・下近の二郡を建て、島司の郡領を置いた。【三代実録】陽成天皇の元慶四年、讃岐の那珂郡に主政・主帳各一人を加え、備前の磐梨郡に主政一人を置いた。翌年、赤坂郡に主政一人を加え、伊予の久米郡に大領・少領を置いた。元慶八年、喜多郡に少領を置いた。光孝天皇の仁和二年、さらに新居郡に主政一人を置いた。【類聚三代格】讃岐の諸郡では、主帳以上をそれぞれ権員一人増員した。【三代実録】宇多天皇の寛平六年、郡司が宿衛の官を兼ねることを停止した。寛平八年、阿波の名東・名西の二郡に主帳各一人を置いた。醍醐天皇の昌泰元年、それぞれ一人を加えた。【類聚三代格】荘園が盛んになるに及んで、領家はそれぞれ管理の役職を置き、荘司・園司と称した。【朝野群載・小右記・中右記・権記】郡司がこれを兼ねる場合は大荘司といった。【古事談・体源抄】その他、名主・郷主などの職があったが、これらはおそらくすべて荘司の属僚であろう。【東鑑・神鳳抄・今昔物語。○諸国にはまた保司があった。東鑑の文治二年、平康頼を阿波麻殖保の保司としたのが、保司の名が見える最初である。】これ以後、郡領についての記事は次第に見られなくなった。鎌倉幕府が地頭を置くに至って、荘司もまた衰えてしまった。【東鑑】
¶軍団は、国ごとにこれを置いた。大毅・少毅は、兵士の検校、武具の充備、弓馬の調練、陣列の点検を職掌とする。主帳・校尉・旅師・隊正、大毅以下の配置は、いずれも兵数に準じて定めた。【令義解】光仁天皇の宝亀十一年、肥前の兵五百人、豊後の兵六百人に、それぞれ軍毅二人を置いた。桓武天皇の延暦十一年、勅により「兵士を設けるのは、実に非常時に備えるためである。しかし国司や軍穀を不当に使役し、いたずらに公家の費用を浪費して奸吏を利するだけになっている。京畿および七道の諸国の兵士は、すべて停止・廃止して、労役を省くべきである。ただし陸奥・出羽・佐渡、および太宰府は、辺要の地にあって備えを欠くことができないので、そこにある兵士は旧のとおり配置する」とされた。嵯峨天皇の弘仁四年、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の合わせて十八団について、団ごとに兵士を五百人に減らして定め、宝亀の例に準じて団ごとに大毅・少毅各一人を置いた。弘仁五年、日向に軍毅一人を置いた。弘仁六年、陸奥に六団を定めて置いた。【○考えるに、本書によれば、陸奥にはもと名取・玉造の二団があり、今回新たに白河・安積・行方・小田の四団を加えて置いたという。】清和天皇の貞観十一年、長門が豊浦の軍毅二人を分けて配置し、下関に権軍毅・主帳各一人および兵士を置いて関の守備に充てることを請い、許可された。【類聚三代格】その他は兵志に見える。