卷之二百八十 志第卅七
職官一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶職官の制度は、その由来がまことに古い。太古、天照大神が高天原を統治されていた頃、八十万の神々が心を一つにして相和し、それぞれの職掌を担って天業を助け支えた。職官の原型は、ここに見ることができる。天孫が葦原中国に降臨するにあたり、天照大神は天児屋命・天押日命ら諸神に命じて、道すがら天孫を護衛させた。以後、神々の子孫は代々その職を継承し、天子を輔佐した。文官・武官が世襲の職となる制度は、これより興った。太祖(神武天皇)が中原を平定するに及び、功臣を国造・県主に封じ、封建の制度がここに始まった。内外の臣僚は皆、世官世職として相承け相継ぎ、至尊お一人にお仕えした。名分が明らかであったので、統治の礼が正しく行われた。長い年月を経て、時に弊害がなかったわけではないが、英明な君主が相次いで現れ、綱紀を引き締めたので、国内は安寧を保ち、兵勢は盛んであった。四方の夷狄・蛮族に至るまで、来朝し貢物を捧げぬ者はなく、これは実に国体が尊厳であり、法制が一定していて、みだりに動かすことのできないものがあったからである。中宗(天智天皇)が大化の政を輔けるに及んで、旧弊を改め、遥かな郡県の制を併せ、八省百官を創設し、天下の耳目を一新した。数百年にわたる隆盛の治世をもたらしたその功績は、実に盛んなものであったと言えよう。ただ当時は令の文がようやく草創されたばかりで、職員の制はまだ完備していなかった。文武天皇の朝に至って大宝令が修められ、官制が大いに備わり、ついに永世の典章となった。しかし弘仁年間に蔵人・検非違使が置かれてより、侍従・衛府・弾正らの諸職は次第にその権限を失っていった。荘園が盛んに興ると、国司の政は天下に行われなくなった。譜第・門閥による選任が重んじられるようになると、官はその人を得なくなった。朝廷の政治が緩み、盗賊が横行するようになると、武士の権力が興った。保元・平治の乱以後は、大勢が一変し、土地・兵馬の権はことごとく覇府(幕府)に帰し、大宝の官制はすべて有名無実のものとなった。世の道の移り変わりは、まことに嘆かわしい限りである。ただ国体の厳粛さ、君臣の分だけは、万世にわたって変えることのできないものである。それゆえ武人が天下の権を欲しいままにしても、その望むところは征夷の号にとどまった。摂関の職のような、なお藤原氏でなければ断じて就くことのできないものについて、大姦巨猾の者もあえて僭望の心を起こさなかったのは、実に名分が存していたことによるのである。しかしながら官制の弊害は、日を追って久しいものとなっていた。それゆえ名と実とが食い違い、あちこちで紛乱し、職掌が明らかでなく、管轄が行われなくなり、政教はこれによって衰え、諸々の事業はこれによって滞ったのも、また勢いとして必然であった。後世、善政による安定を志す者は、もとより神聖な建国の趣旨に立ち返り、時に応じて損益し通用させ、永久の法制を打ち立てないわけにはいかない。今、旧史を考証し、諸書を参照して、官制の沿革の由来を著す。その順序については、一に大宝令を基準とする。令に定めのない官で所属先のあるものは、たとえ正官ではなくとも、長く踏襲されて正官同様に扱われているものは、順を追って補い加える。その廃置が一定せず、附属関係が詳らかでないもの、および一時の便宜によって設けられ、まもなく廃されたたぐいのものは、すべて篇末に付す。選叙・考課などについても、同様に類をもって付け加える。ここに職官志を作る。
¶太古、天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、八十万の神々は大いに恐れ、天の高市に集まった。天児屋命に祝詞を宣べさせ、天太玉命に和幣を作らせ、天鈿女命に神楽を掌らせ、神々はそれぞれ奔走してその職を供進し、祈請を行った。【日本書紀、古語拾遺。】天照大神が瑞殿にお戻りになると、大宮売命を御前に侍らせ、豊磐間戸神・櫛磐間戸神に殿門を護衛させた。【古語拾遺。】天孫が葦原中国に降臨するにあたっては、経津主命・建御雷命が将帥の任を負い、夷賊を平定した。天照大神はそこで五部の神に詔して天孫に陪侍させ、それぞれその職を奉じさせること、天上の儀式そのままとした。また天忍日命・天津久米命に命じて戎衛(軍事警護)を掌らせた。職官の制度は、実にここに源を発する。そして名分が一たび定まると、二度と乱れることはなかった。【日本書紀、古事記、古語拾遺を参照。】太祖(神武天皇)が中州を平定し、橿原宮に御座した。天富命は天璽の鏡剣を奉じて正殿に安置した。天種子命は神代の故事・天神の寿詞を奏上した。道臣命・大久米命は大伴・来目の二部を率いて宮門を守衛した。【大久米命以下の事は、諸書によって考証したものをここに記す。詳細は兵志に見える。】可美真手命は内物部を率いて儀衛にあたった。四方の国人が来朝し、天位の尊さを目の当たりにした。朝廷百官の制度は、ここに至って初めて整った。思うに神聖の道は、祭祀と軍事とを重んじる。歴代の祖宗はこの点に最も心を用いられた。それゆえ太祖が東征するにあたっては、天神を祭り祈り、道臣命が上将として斎主を務めた。綏靖天皇が即位するにあたっては、神八井耳命が皇兄として忌人となった。中臣・斎部の祖が祭祀を掌り、大伴・久米の祖が兵政を掌ったのは、いずれも天照大神が命じられたことであり、代々宰輔の職にあった。この時代は神代からまだ遠くなく、祭祀と政治は一体であり、神に仕え民に臨む官が相連なっていた。おおよそ内外を総攬し、天下を統御する所以は、みな神を敬い武を尚ぶ意に基づかないものはなかった。後世に至って、神祇官が百官の首位に置かれたのも、またその遺意によるものである。【日本書紀、古事記、旧事本紀、古語拾遺、職原抄の大意を概括する。】
¶崇神天皇が四道を経略するにあたり、将帥の任はすべて皇族の近親者が務めた。その後、辺境に事があれば、あるいは皇子に、あるいは大臣に命じ、出でては将、入っては相となり、文武の任はいまだ分かれていなかった。【日本書紀。】思うに当時の制度では、およそ人民で王事に奉仕する者を品部の民と称した。各部に長を立てて統率させ、朝廷に奉仕させた。天子はそこで氏を定め姓を賜り、それによって身分・系統を区別し、臣・連・伴造と号した。その種類は非常に多く、総称して八十伴緒といい、また百八十部ともいった。今でいう百官のようなものである。臣・連で政を執る者を大連・大臣と称した。大連はおそらく垂仁天皇の時に始まる。【○按ずるに、日本書紀では垂仁朝に大連物部十千根とある。姓氏録には、建真利根命が垂仁の時に石作大連の姓を賜ったとある。旧事本紀もまた垂仁朝に大新河命が初めて大連を賜ったとする。これによれば大連はこの頃に始まったようである。しかし職原抄・歴運記はいずれも、仲哀天皇の時に大伴武持を大連としたという。二説が一致せず、いずれが正しいか明らかでないので、今は仮にこの朝に係けておく。】大臣は成務天皇の時に始まり、以後これに従って官名とした。【日本書紀、古事記、旧事本紀。】およそ大小の臣下は、みな官姓を世襲し、代々その職を修めた。それゆえ中臣連・斎部首が祭祀を供進すること、物部連・大伴連が武事を掌ること、膳臣・多米連が膳羞(食事)を掌ること、水取造が水漿を掌ること、酒部君が醸酒を掌ること、服部造が衣服を掌ること、車持公が車徒を掌ること、爪工連が蓋を造ること、玉作連が玉を攻(みが)くこと、鏡作造が鏡を造ること、石作連が石を攻くこと、土師臣が凶儀(葬送)を掌ることに至るまで、また掃守連が掃除にあたること、船史が船賦を掌ること、蔵部が府庫を掌ること、文首が記載を掌ること、商長首が貿易を掌ること、訳語(をさ)が通訳を掌ることに至るまで、姓と官とに違いはなかった。女官で御饌を供する者を采女といい、男子で天皇の側近くに仕える者を舎人といい、吠える犬に代わって宮門を守衛する者を隼人といい、外国に使いし賓客を接遇する者を吉士といった。【○按ずるに、隋書・東国通鑑によれば、吉士はもと新羅国の官名である。思うに国家が三韓を平定した際、蕃人(帰化人)を用いて外国のことを掌らせ、官名はそのまま改めず、その職を奉じて朝廷に仕えさせたのであろう。王仁・阿直岐らがみなこれにあたる。また国人で吉士となった者もあり、子孫がそれによって姓としたのが、難波吉士などである。また姓氏録によれば、蕃別(渡来系)には史を姓とする者が多いが、これもみなその掌るところを姓としたものであろう。】田部を管掌する者を田部連、山部を管掌する者を山部公、海部を管掌する者を阿曇連、屯倉を管掌する者を屯倉首といった。下って狗・馬・鳥・獣のたぐいに至るまで、みな馬飼・鳥養などの諸部があって、その事を掌った。そのほか日祀部・楯部・神弓削部・神矢作部・大刀佩部・武部・佐伯部・倭文部・宍人部・衣縫部・舂米部・猪名部・刑部のたぐい、品部は非常に多く、今ここにすべてを記すことはできない。【日本書紀、古事記、姓氏録、古語拾遺、令義解。】
¶そもそも国郡を治め人民を牧するための制度である封建の制は、実に太祖(神武天皇)に始まる。太祖はすでに中原を平定すると、功臣を分封して国造・県主とした。成務天皇の朝に至って大いに建置が行われ、国郡の造長・県邑の稲置を定め、中央を守る藩屏とし、楯矛を賜ってその標識とした。ここにおいて封建の制はますます整い、みな世官世職として、大罪でもない限り廃黜されることはなかった。【日本書紀、古事記。「皆世官」以下は、旧事本紀・続日本紀を参酌した。】仲哀・応神天皇以後、時に応じて増置された。国造の数はおよそ百四十四で、島にある者を島造と称した。【旧事本紀。】崇神天皇が豊城入彦命に命じて東国を治めさせ、景行天皇が彦狭島命に十五国を都督させたような例に至っては、いずれも皇子・皇孫が任にあたり、管轄が非常に広大で、通常の国造とは比較にならなかった。しかしこれも永世の制度ではなかった。【日本書紀。】神功皇后が三韓を平定して後、内官家を定め、日本府を任那に建て、行軍元帥を置いて韓地を鎮撫した。その威霊の及ぶところ、実に海外を震動させた。【日本書紀、古事記。】それゆえ五経・暦・医の博士、採薬師・画師・楽人ら、【画師については姓氏録による。】いずれも三韓から貢がれた者であり、朝廷もそれに従って姓を賜り、その職を世襲させた。【「朝廷」以下は姓氏録を参酌した。】日本府は後世、筑紫に移された。これがすなわち筑紫太宰府である。【日本書紀。】
¶およそ太祖から中宗(天智天皇)に至るまで、官職の制度は、大連・大臣、臣・連・伴・造、百八十部、国造・県主、および山海の官、田牧の司、鎮蕃の宰、内外大小の官員に至るまで、その建設・措置は備わらないものがなかった。それゆえよく国家を経営し組み立てて、数千年にわたる隆盛の治世をもたらすことができたのである。ただ時代が経るにつれ、世官の家がその職を失ったり、貴族大姓が必ずしもその人にふさわしくなかったりすることがあった。法制が乱れ、積年の弊害が生じるに及んでは、変通せざるを得なかった。そこで大化の改新が行われ、八省百官を建て、国司・郡領を置き、封建の制を一変させて郡県の治とした。しかし中臣・斎部が神祇を掌り、大伴・佐伯が衛府を掌り、高橋・阿曇が内膳を掌り、国造・県主が郡領となるたぐいは、名は変わっても実は変わらず、いわば封建と郡県の制を併せ用いたものである。これは古今を斟酌し、法度を損益して、時宜に応じた措置を施したものである。【日本書紀、古事記、姓氏録、続日本紀の大意を参酌した。】
¶推古天皇十一年、初めて冠位を制定し、全部で十二階とした。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智といい、冠位の制度はこれに始まる。孝徳天皇が即位すると、法制を一変させた。大化元年、左右大臣・内臣を置き、ともに大政を執らせ、上古の大連の号を廃した。【日本書紀、職原抄。】二年、国司・郡司(すなわち郡領である)、主政・主帳、坊令・坊長を置いた。また総領(また大宰ともいう)を置いて数国を統轄させた。【「また置く」以下は続日本紀・常陸国風土記を参照した。】三年、冠位の制度を改め、全部で七色十三階とした。大織・小織・大繍・小繍・大紫・小紫・大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒という。建武五年【○原注に、初位は一名を立身という、とある】、十九階に増やし、大織から小紫までの六階はすべて旧号のままとし、以下を大華上【○華とはすなわち錦のことである。それゆえ本書では孝徳天皇から天智天皇の初年にかけて、しばしば両方の呼び方が通用している。】・大華下・小華上・小華下・大山上・大山下・小山上・小山下・大乙上・大乙下・小乙上・小乙下・立身とし、これによって詔して八省百官を置いた。天智天皇の甲子の年、さらに二十六階に増やした。大織から小紫まではまた皆旧のままとし【○本書では「繍」を「縫」に作るが、縫はすなわち繍のことである。】、以下を大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建とし、「華」を改めて「錦」とし、錦から乙までは、それぞれ中の階を加えた。【「中」は本書に「十」あるいは「六」に作るが、いずれも誤りである。今、上文の趣旨によってこれを訂正する。】大建・小建はすなわち初位である。【日本書紀。】二年、内臣の中臣連鎌足を内大臣とし、大織冠を授け、その位は左右大臣の上に班した。【日本書紀、公卿補任、職原抄。】四年、大友皇子を太政大臣とし、御史大夫三人を置いた。まもなく冠位の事を宣行し、内位・外位に分けた。【日本書紀。○内外の位階を分けたことについて、本書は年月を記していない。本書を按ずるに、弘文天皇元年に内小乙位の阿曇連稲敷とある。天武天皇元年には、大錦下の沙宅紹明が卒し、外小紫を贈られたとある。これによれば、内外の位を分けたのは弘文天皇以前のことと知られる。しかしはっきりした証拠がないので、仮にここに係けておく。】弘文天皇元年、御史大夫を改めて大納言とした。【公卿補任。】天武天皇三年、兵政官長・大輔などの職を置いた。四年、詔して、およそ国司に任じる者は、畿内および陸奥・長門を除き、皆大山位以下の者を任じることとした。十三年、爵位を改め、階級を増した。明位二階、浄位四階、いずれも大・広があり、あわせて十二階とし、諸王以上の位とした。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、いずれも大・広があり、あわせて四十八階とし、諸臣の位とした。【日本書紀。】文武天皇の大宝元年春三月、新令に基づいて官名・位号を改め、二官を創立した。一つは神祇官で、専ら祭祀の典礼を修めるものである。一つは太政官で、三公が天下の機務を総覧し、八省および諸寮司はみなこれに隷属した。親王は明冠四階、一品から四品まで。諸王は浄冠十四階、正一位から従五位下まで、あわせて十八階。諸臣は正冠六階、正一位から従三位まで。直冠八階、正四位上から従五位下まで。勤冠四階、正六位上から従六位下まで。務冠四階、正七位上から従七位下まで。追冠四階、正八位上から従八位下まで。進冠四階、大初位上から少初位下まで、あわせて三十階。外位は直冠の正五位上から、進冠の少初位下まで、あわせて二十階。勲位は正冠の正三位から、追冠の従八位下まで、あわせて十二等。これより冠を賜ることをやめ、位記に改めた。まもなく勤位以下の号を改め、内外六位以下は一階を進めた。【続日本紀。】およそ内外の諸司は、職掌のあるものを職事官とし、職掌のないものを散官とした。五衛府・軍団、および武具を帯びる諸官を武官とし、その他は皆文官とした。京にある諸司を京官とし、その他は皆外官とした。内外五位以上は勅授、内八位・外七位以上は奏授、外八位・内外の初位は皆官判授とした。任官については、大納言以上、左右大弁・八省卿・五衛府督・弾正尹・太宰帥は勅任、その他の官は奏任、主政・主帳・家令などは判任とし、舎人・史生・使部・伴部・帳内資人などは式部が判補した。【令義解。】
¶はじめ天智天皇の時、詔して新令を作らせ、大宝・養老に至って大成した。後世の官制は、皆この令を基準とした。令に定めのない新設の官を、令外官といった。【続日本紀、類聚三代格、職原抄。】この秋、太政官が処分して、およそ遷任する者は、奏任以上は名籍を太政官に送り、判任は式部が銓衡した上で送ることとした。二年、初めて諸国司などに印鑰を賜った。【「二年」以下は濫觴抄による。】慶雲三年、七か条を制定した。その第三条、選叙の事にいう。「令によれば、諸々の長上官の遷代は、皆六考(六年の勤務評定)を限りとする。それ以外の官は、色別に二考を加え、十二考をもって選限とする。その期間はあまりに遠いので、それぞれ二考を減じて法制を定めるべきである。また蔭位によって出身する者は、特に別勅の処分および貢挙による者を除き、皆通常の選任の限りではない。律によって除名された者は、六年の後にはじめて叙位を聴す。令にはまだこのことが載っていないので、限が満ちた後の叙位の式を、議して令条とすべきである。」四年、兵部省は初めて五衛府の五位以上の朝参の日数を記録し、太政官に送ることとした。元明天皇の和銅元年、式部に命じて検覈させ、蔭位により出身した者で考課のない者を選に入れたり、白丁が名を冒して貢挙に預かったりするなどの弊害を改めさせた。また制した。「諸国の博士・医師の考選は、史生の例に准じ、考第はそれぞれ本色に従うこと。もし土地の人および傍国の者を採用する場合は、皆令の条文に従うこと。位子・貢人で貢するに堪える名籍は、皆本部が案を記し、用いるにあたっては式部が本部に下して追い召すこと。」二年に制して、内外諸司の考選の文書は、まず弁官に進め、本司に還し附し、式部・兵部に申し送るべきこととした。三年に制して、授位する者は前の考課と通算してはならないとした。五年、詔して、「これまで郡司・主政・主帳は、皆国司がかってに任命し、名帳を申し送っていた。今後は本人を実際に視察し、式に准じて試練を行った上で、はじめて補任すべきである」とした。六年、太政官が処分して、「諸司の功過は、皆弁官に申し送り、式部に下すべきである」とした。元正天皇の養老元年に制して、「造宮省を除き、令外の諸司の判官は、官の品の大小にかかわらず、令の定める員判官の例に准じるべきである。また一人で数官を帯びる場合、高官の上日(出勤日数)が少なく、卑官の上日が多ければ、上日の多い方によって禄を給すべきである。【「また一人」以下は令義解を参酌した。】令外の諸司の史生の一季の禄は、当司の主典より一等下げること。技能により特に勅がある場合を除き、皆この例に同じくすること」とした。翌年、太政官が処分して、「およそ主政・主帳が正式に任じられていたにもかかわらず、道理によって解任され、あらためて白丁とされる場合、前の功労がすでに廃され、後の苦労は実に多い。道理から考えると、まことに理に悖ることである。出身の法に従い、解任後もなお国府に上って、その功労を継続させるべきである。内外の散位も雑徭を免除すべきである」とした。三年、笏を執る制を定めた。「諸国の史生・主政・主帳・大毅・少毅、および神祇官の宮主、左右大舎人、寮別勅の長上、画工司の画師、雅楽寮の諸師、造宮省・主計寮・主税寮の算師、典薬寮の乳長上、左右衛士府の医師、左右馬寮の馬医などは、前後相継いで、皆笏を執ることを許す。初めて外六位・内外初位・勲七等の子で、年二十以上の者を位分資人とし、八年で交替させる」とした。この年、按察使を置き、三十余国を管轄させ、不正を糾弾し、姦詐を取り締まらせた。後にまた増置があったが、詳しくは食貨志に見える。七年、勅して、「按察使が治める国では博士・医師を補任し、それ以外の国の博士はすべて廃止する」とした。【続日本紀。】
¶聖武天皇の神亀五年、太政官が奏上した。「内位・外位は、古来別の号である。礼の等級は、同列に扱うことはできない。五位以上については、冠を並べて朝列に連なることを請う。明経・秀才で国用に堪える者は内位に叙し、その他は外位に叙すべきである。ただし外位で功労を積み、内位に入るべき者は、その当たる位階に叙すべきである。」詔してこれを許した。【類聚三代格。】また養老三年の格に基づいて、資人の考選を定めた。満八考を待って、はじめて当色を選ぶこととした。外位の資人は、十考をもって選を成すこととし、散位・勲位・位子・庶人などを通じて取ることを聴した。これにより京官五位以上に防閤を給することをやめ、特に馬料を給することとした。夏、阿倍朝臣帯麻呂ら諸人に外従五位下を授けた。そこで勅して、「今、外五位を授ける者は、どうしてこの階にとどめておくことがあろうか。その勤労に従って、当然内位に叙すべきである。努力を怠ってはならない」と仰せられた。秋、太政官が奏上した。「諸国の史生・博士・医師の員数を定める。考選・叙位の限度は、史生は大国四人、上国三人、中国・下国二人とし、六考をもって選を成し、限が満ちれば交替させる。博士・医師は八考をもって選を成すが、博士は三、四国につき一人を補い、医師は国ごとに補い、選が満ちれば史生と同様に交替させる。」天平三年、制した。「武官・医師・使部、および左右馬寮の馬医で武具を帯びる者の考選、および武官の解任は、旧例では皆式部が掌っていたが、事情として不便であるので、今後は兵部にこれを掌らせる。ただし本人は旧のままとし、寮において上下(勤務)させる。」まもなく畿内総管・諸道鎮撫使を置いた。大総管の制は、剣を帯び勅を待つ。副総管は大総管に同じくし、判官二人、主典四人を置く。鎮撫使は総管に同じく判官一人、主典一人を置く。内外の官で六位以下、兵術・文筆に通じた者をこれに充てる。大総管には傔仗十人、副総管には六人を給する。鎮撫使には三位には随身四人、四位には二人を給する。皆弓箭を執り、朝夕祗承させる。総管が事によって部内に入る際は、騎兵三十人を従えることを聴す。その職掌は、京畿の兵馬を差し発すること、徒党を集め党勢を張る者を捜索し捕縛すること、老人・幼児を劫かし貧しい者・賤しい者を略奪する者を取り締まること、時政を論じ人物を議すること、邪曲・冤枉、盗賊・妖言、衛府の兵器を執らぬ者の取り締まり、国郡司の治績の善悪を、即時に奏聞することである。まもなく武散位の定額員二百人を定めた。翌年、東海・東山・山陰・西海の四道に節度使を置き、各道に判官四人、主典四人、医師一人、陰陽師一人を置き、駅鈴各二個、白銅印各一個を給した。五年、制した。「諸国司が交替して京に向かうにあたり、あるいは後任がまだ到着していないのにすでに出発してしまい、あるいは交替しても解由(引き継ぎの証書)を付さない。これによって天平三年に朝集使に告諭したが、国司は寛縦であり、進んで遵行しようとしなかった。そのため遷任した者は官に居ることができず、職のない者は寮に直宿することを許されない。いたずらに月日を過ごすのは、どうして道理にかなうことであろうか。この事情をよく知り、遷替する者は必ず解由を付し、官庁に申し送ることとし、今後永く恒例とすべきである。」翌年、七十歳以上の者を郡司に擬することを禁じた。七年、初めて天下諸国の外散位・勲位の員数を定め、国ごとに差をつけ、それ以外は格に准じて資(資格)を納め功労を継続することを聴した。そこで制した。「畿内・七道の諸国は、国の擬(候補)を除いて、別に難波朝廷以来、譜第の重い者四、五人を選んでこれに副えるべきである。譜第はなくとも、身材が絶倫で勤労が抜群の者は、別状を副えて、皆朝集使に付して申し送るべきである。十二月一日を限って式部省に集めよ。」十一年夏、諸国の郡司の員数があまりに多く、百姓を侵し搾取しているとして、詔して、「旧数を減らし、新たな制を定めよ」とした。詳細は下に見える。秋、太政官が処分した。「式部省は、蔭子孫・位子について、年齢の多少にかかわらず、皆大学に下して専ら学問に励ませよ。」十四年、制した。「およそ郡司の少領以上を擬するには、国司から史生に至るまで、共に選定にあたり、必ずその郡で推服されている者を取ること。近隣の郡で評判の良い者は、司ごとに員数に応じて貢挙すること。もし情実によってみだりに挙げる者があれば、国司は事に応じて処断すべきである。また采女を貢する者は、今後は郡ごとに一人を貢すべきである。」十六年、これより先、太宰府を廃して鎮西府を置き、将軍・副将軍各一人、判官・主典各二人を置いていた。ここに至って太政官が奏上した。「将軍の官は従五位に准じ、判官は従六位に准じ、主典は従七位に准じ、季禄の月料を倍にし、京に入れる調庸の物をあわせて融通し、随時これを給せよ。」詔してこれを許し、府印・駅鈴を賜った。翌年、太宰府を復置し、管内諸司の印十二を給した。
¶天平感宝元年、勅した。「近年、国司が郡領を補任するにあたり、まず譜第の高下、身材の優劣、伯父・甥・年長・年少の順序を審査し、式部省に申し、省では口頭で問うてその優劣を較べ、しかる後に選任していた。あるいは譜第が軽くとも功労によって薦挙され、あるいは家門が重くとも劣っているとして黜退される。そのため端緒は一つではなく、その一族は多岐にわたり、子孫が繁殖して、訴えが絶えない。各々が自分の欲するところに従い、礼儀を顧みない。孝悌の道はすでに衰え、風俗は次第に薄くなっている。今後は前例を改め、建郡以来、譜第の重い者を選定し、嫡系が代々相継ぎ、傍系の親族を用いてはならない。争訟の源を塞ぎ、覬覦(非望)の望みを断つべきである。もし嫡子に罪があり、病によって任に堪えない場合は、今までのように代わりの者を立てよ。」孝謙天皇が即位すると、紫微中台を置き、その官員を定めた。令一人は正三位とし、藤原朝臣仲麻呂をこれに任じた。大弼二人は正四位下、少弼三人は従四位下、大忠四人は正五位下、少忠四人は従五位下、大疏四人は従六位上、少疏四人は正七位上とした。まもなく仲麻呂を紫微内相とした。
¶廃帝(淳仁天皇)の天平宝字二年、仲麻呂を大保とし、官号を大きく改めた。太政官を乾政官、太政大臣を太師、左大臣を大傅、右大臣を大保、大納言を御史大夫、紫微中台を坤宮官とし、八省のうち中務を信部、式部を文部、治部を礼部、民部を仁部、兵部を武部、刑部を義部、大蔵を節部、宮内を智部、弾正台を糺政台、図書寮を内史局、陰陽寮を大史局、中衛府を鎮国衛とし、大将を大尉に、中尉を驍騎将軍員外将に、少将を次将に改め、衛門府を司門衛、左右衛士府を左右勇士衛、左右兵衛府を左右虎賁衛とした。これは実に仲麻呂の言に従い、唐の制度を採用したものである。孝謙上皇が僧道鏡を寵愛するに及んで、仲麻呂は疎んぜられ、これを怨んで謀反を企てたが誅殺された。そこで勅してことごとくその改めた官号を旧に復した。これより先、国司の交替は六考に改められていたが、この時に至って慶雲四年の四考の制に復した。天皇(孝謙)はすでに重祚しており(称徳天皇)、道鏡を法王とし、そこで法王宮職を置き、大夫・亮・大進・少進・大属各一人、少属二人を置いた。また法臣・法参議などもあった。名器の濫れようは、言うに堪えないほどであった。
¶光仁天皇が即位すると、天性寛大であり、細かい詮索を好まなかった。冗漫な官を省き、簡易な政化を重んじた。宝亀元年、令外官の員数が多く、いたずらに国用を費やしているとして、命じてことごとくこれを廃止した。二年、筑前国の官員を廃し、太宰府に隷属させた。太宰府が言上した。「日向・大隅・薩摩・壱岐・多褹の博士・医師は、一度任じられれば終身遷ることがない。そのため後進の学業に力が入らない。法制を改め、八年で遷替する例とされたい。」これを許した。四年、制した。「諸国の郡司で官物を焼いた者は、主帳以上、皆現任を解くこと。政務に従事して入京した者、および放火の賊を捕らえた者は、事情に応じて処分すること。譜第の輩で覬覦の心を懐き、故意の放火に関与した者は、一切選定してはならない。郡中で廉直・清潔で時務に堪える者を選んで任じるべきである。軍毅で火事を消さなかった者も、郡司に准じて解任すべきである。」五年、勅した。「近年、員外の国司の数は実に多い。煩わしさによる損失はあっても、教化の益はない。長らくその弊害を言われてきたが、道理からすれば廃止すべきである。担当の役所に命じて、歴任五年以上の者はことごとく解任し、その任期がまだ満ちていない者も、五年に満ちるごとに解任し、符(辞令)を待たずに退任させよ。」十年、太政官が奏上した。「諸国の博士・医師・史生は、神護二年に新例を建ててから、兼任・増員が行われた。そのため国によって基準が定まらず、任用が乱れている。国の大小に従い、大国五人、上国四人、中国・下国は各二人とし、遷替の法は四年を限りとされたい。博士・医師で別の国を兼任する者は、食料・救療の負担が非常に多い。それぞれの国に各一人を置き、皆六考をもって遷替すべきである。」これを許した。十一年、太政官が奏上した。「太宰府は辺境の要地に位置し、不慮の事態を警戒し蕃客を接待するもので、その職掌は他の道とは異なる。しかるに官人の交替は四年を限りとしている。人を送り迎えするのに道路が相望む有様であり、府や国が疲弊するのはこのためである。かつ給される厨物(食料)も過多であり、旧により充て給うと、蕃客のもてなしに欠くことがある。交代の料を停止し、歴任を五年に増やされたい。」これを許した。
¶桓武天皇が即位すると、まず内外の文武の員外の任を廃止した。しばしば国司を戒め勅して、その治績の良否を審らかにして、賞罰を行わせた。延暦元年、造宮省・敕旨省の二省、法花司・鋳銭司の両司を廃止し、二省の雑色・工匠・手は、才幹に従って木工寮・内蔵寮などに隷属させ、その他はそれぞれ本司に配した。【続日本紀。】十二年、勅した。「難波大宮はすでに廃されたので、摂津職を改めて国司とすべきである。その二季の禄の月料は、すべて停止せよ。」また勅した。「神亀五年の格を改める。外五位を貶め抑えることが甚だしく、条例として穏当でない。」十四年秋、衛門・左右衛士・兵庫・近衛・中衛などの使部を差をつけて減らし定めた。【類聚三代格。】冬、太政官が請うた。「三位以上の子孫、および四位・五位の子で、年が二十に満ちた者は、六考を満たすのを待たず、令に准じて蔭階に叙すべきである。」これを許した。十五年、皇親の一族が多く、進退に一定の基準がないとして、詔してこれを憐れみ恤んだ。その四世・五世の王、および五世王の嫡子で、年が二十一に満ちた者は正六位に叙し、庶子は一階を降して叙し、これを永世の制と定めた。【令集解。】十七年春、国司を戒め勅していう。「郡司にはもともと定員がある。今、一つの員が欠けるたびに、すぐに数人を擬している。正員のほかにさらに副の擬をおくのは、公家に無益であり、いたずらに私門を潤すだけである。百姓を侵し損なうことは、これより甚だしいものはない。吏務に堪える者を選んで正任に用い、それ以外は重ねて副を置いてはならない。」【類聚三代格。】また詔した。「昔、難波朝廷が初めて諸郡を置いた時、功労のある者を選んで郡領とした。子孫が相継いで、永くその職に任じてきた。【○本書には中間に欠文がある。今、日本後紀の残編、延暦十七年五月の勅を按ずるに、「風俗を撫で治めることは郡司に任されている。今、譜第を停止し、才能をよく選ぶべきである。しかし宿衛番上の者は、久しく使役に服し、大いに功績を上げている。本国を経ずに、式部省に命じて試験・選定させよ」とある。これも本文の趣旨と合致する。おそらくここで言っているのは、郡領の譜第が年を経て弊害を生じたという趣旨であろう。読者はあわせて考えるべきである。】今後は譜第による選任を停止し、才芸があって郡を治めるに堪える者を選んで任じるべきである。」【類聚国史。】まもなく勅した。「郡領はすでに譜第を廃したので、国造・兵衛もまた同様にこれを停止すべきである。ただし以前に国造に補任され、宿衛の功労のある者は、国造の名を除いて、あらためて兵衛に補すべきである。」これより先、慶雲三年に出雲国造に意宇郡大領を兼ねさせていた。それ以来、しばしば神事にかこつけて公務を怠り、民の害となっていたが、官を怠る咎めもなかった。そこで勅した。「旧制を改め、国造・郡領はそれぞれ別人に任じよ。」後にまた勅した。「筑前国の宗像郡大領が宗像神社の神主を兼ねることを停止せよ。」【類聚三代格。】十七年、勘解由使が奏上した。「遷任した国司および新任の者は、事務を分けて受領に引き渡す。この手続きが百二十日を過ぎて滞る者は、現任を解き、あわせて俸料を奪う。その遷替が期限を過ぎた者も、同様に俸を罰として奪う。官の倉に不足があり、引き延ばして期限を過ぎ、あるいは事情を知りながら許容し、限内に受け取る者がない場合は、法によって罪を科し、すぐにその贓物を徴収せよ。」【交替式。】十八年、勘解由使が近衛・衛門の位階を陞せることを奏請し、あわせて言った。「右兵衛府は禁衛の職であり、部を統べ警備することは、他の府と変わりがない。今、官員が少ないのに行うべき事は多い。少尉・小志を加え置いて、府の事務を治めさせたい。その官位の前後は、一に衛門府に准じるべきである。」いずれもこれを許した。【類聚三代格、日本後紀。】二十二年、勘解由使の菅野朝臣真道、次官の和気朝臣広世らが、諸国司交替式一巻を撰定し、奏上した。「五畿七道の朝集使にそれぞれ一本を写させ、府庫に蔵めさせたい。諸国にこれを遵奉させ、これに拠って勘案させ、疑いのないようにされたい。」勅してこれを許した。【交替式。】
¶平城天皇が即位すると、やはり冗官を整理することを務めとし、併合・省略されたものが非常に多かった。【日本後紀、類聚国史、類聚三代格を参照。】大同二年夏、詔していう。「中衛府は職掌が近衛府と同じである。東西に分かれて陣を張り、朝夕公務に励んでいる。その厳粛さに特に異なるところはなく、名称も一つにするのが道理である。今後は近衛府を改めて左近衛とし、中衛府を右近衛とせよ。」【類聚三代格、日本紀略。】山陰道観察使の安倍朝臣兄雄が言った。「近年、諸国司の交替にあたって、彼此(前任・後任)が互いに論争している。あるいは新任者が道理に背くと言い、あるいは受領者が才を欠くと言う。それぞれ自分の見解を主張し、申請が紛糾している。今後は検査する日に対して、両者の言い分を記録し、解由状に記載せずとも、前後がともに署名し、期限内に上聞すべきである。これによって曲直が明白になり、割り切って処断でき、滞ることがなくなるであろう。」これを許した。他の道もまたこれに准じた。【類聚三代格。】国司の交替は、天平宝字以後、四考を限りとしていた。この冬、公卿が「令の条文の六考の制に復されたい」と奏請し、これを許した。【類聚三代格、日本紀略。】この年、春宮の職員を併合・省略し、監ごとに令史一人を加え置いた。三年春、詔した。「時に応じて制を定め、世を論じて法を立てるのは、いにしえより行われてきたことであり、今にわたって変わらない。損益変通は、常に一定のものではない。今、官司を減らして省くことで、吏員の冗漫・濫りを去り、政務の清潔・簡素をもたらしたい。」そこで画工司・漆部司・筥陶司・鍛冶司など十余司を併合・省略した。【類聚三代格、令集解。】もともと太宰府は筑前国を兼帯しており、その間の沿革は一様でなかった。延暦十六年に及んで、国を廃して府に隷属させた。その後、府の官人が国政をも執り行うこととなったが、互いに責任をなすりつけ合って吏務に力を入れず、諸事が滞り、租税の未納も非常に多かった。ここに至って太宰府の監・典を各二人に減らし、筑前国司として守一人、介一人、掾一人、大目・少目各一人を置くよう命じた。【日本後紀、類聚三代格。】まもなく太宰府および管内諸国の官人の歴任を五年に増やした。【日本後紀。】秋、太政官が奏上した。「宮中の禁衛を時に応じて巡検するのは、衛士府の職掌である。今、衛門の掌るところは、これと変わりがなく、別に官員を置く必要はない。衛門を廃して衛士に併せ、諸門の禁衛、出入の礼儀などの事は、すべて衛士府にこれを掌らせたい。」これを許した。そこで諸衛の兵士の数を改め定めた。詳細は兵志に見える。この年、図書寮の造紙・造筆・造帙、内蔵寮の典履・典華・造油絁・造御櫛御履、織部司の桃文師、縫殿寮の染師、内膳司の食料理長上、薬師寺・西大寺・法華寺・秋篠寺の木工長上、東大寺の別勅長上を、それぞれ差をつけて減らし定め、すべて整理の対象とした。翌年、職務の閑繁により、諸省・寮・司・台の史生の員数を定め、あるいは新設し、あるいは加置し、あるいは減省し、それぞれ差をつけた。【日本後紀、令集解。】また勅した。「兵部省が管掌する諸司の史生は、今後は兵部省が補任すべきである。」【類聚三代格。】
¶嵯峨天皇が即位すると、巨勢朝臣野足・藤原朝臣冬嗣を蔵人頭とし、また検非違使を置いた。この二つの職はここに始まる。【公卿補任、類聚三代格、職事補任。】弘仁二年、大納言の藤原朝臣園人が奏上した。「郡司には功労のある家柄の者を用いるべきで、それは民心の向かうところであり、実に他の者とは異なる。今、ひとえに才芸のみを取り、永く譜第を絶やしては、人情がこれに従わず、裁断にも人々が服さない。まず譜第を尽くし、その後に才芸を及ぼされたい。」これに従った。延暦の制は、ここにおいて行われなくなった。【類聚三代格、日本後紀。】十三年、これより先、三年に制していた。「郡司を選定するには、一に国の定めによる。もし人を得ずに選び、政績に効果が見られなければ、帳簿を扱った官吏は皆現任を解き、永く敍用しない。」これに至って、中納言の良峯朝臣安世が奏上した。「人を知ることの難しさは、いにしえの人もこれを病とした。今後はまず奏上した上で選定し、三年間さまざまな職務を経験させて、その能否を観察してから、選定を言上されたい。」これに従った。翌年、弾正台の官員を増減した。【類聚三代格。】
¶淳和天皇の天長二年夏、勅した。「近年、事によって使者を遣わすと、国司はしばしば従わない態度を取る。これは使者に威権がないからである。今後、巡察使・覆問使・検税使・交替使、畿内の校班田使、問民苦使などは、詔使・賑給使・検損田使・池溝使などに准じ、なお官使に準じて扱うべきである。」秋、太宰府が奏上した。「本府の雑務は繁雑であるのに、吏員が足りない。細かな事務は、ひとえに書生および名前を連ねた郡司に委ねている。弘仁三年より、郡司の選任は一に国の定めによっている。その後、書生などは競って本国に赴任し、府に留まることを望まなくなり、雑務はこれによって滞っている。府に直属する書生で、才能に応じて主帳以上の任に権(かり)に任じ、十員を限度とし、名前を連ねた郡司として、その功労によって譜第を継がせるようにされたい。」これに従った。三年、中納言の清原真人夏野の奏上により、上総・常陸・上野の三国を親王国と定めた。守を大守と呼び、勅授の官とし、位階を正四位下に陞せるが、一代限りとし、永久の例とはしないこととした。翌年、武部省(兵部省)が奏上した。「郡司で譜第がなく採用された者は、今後、功績を積んで二世以上になっても、譜第に預かることはできない。すでに二世以上を経ている者は、なお前例に従う。」これを許した。【類聚三代格。】
¶仁明天皇の承和五年、勅した。「諸々の貢進する蔭子孫・位子などについて、式部省・民部省が名簿を照合する日には、姓名の上に合否を注記すべきである。両省の丞はその下に署名し、治部省・兵部省もこれに同じくせよ。今後、これを恒例とせよ。」翌年、制した。「令に定める帳内資人は、皆八年を限りとする。神亀五年の格には『外五位の資人は、十年で選を成す』とある。今後、外五位資人の選限は、令によって行うべきである。ただし神宮司・禰宜・祝・国造、外散位の郡司などは、この限りではない。」【続日本後紀。】十年、式部省が奏上した。「旧例では、諸々の勘籍(戸籍調査)を受けた人を、諸司の番上に補している。諸衛の舎人は、出身の難しいことは古来そうであった。限られた員数の外は、皆一度選に経て他色に補すべきである。」勅してこれに従った。その外考(考課)で坊舎人に補せられた者、および他邑に遷補された者で、道理により解任されたたぐいは、毎年四十人とし、特に中宮への出入りを許された者も、今後これに准じることとした。十四年、春宮坊が言った。「白丁は補うことができず、舎人に欠員が多い。旧例により、欠員を待って補われたい。」これを許した。【類聚三代格、類聚国史。】嘉祥二年、大宰府が言った。「諸道の官吏は、便宜によって政務を奏上し、あわせて国の煩いを省いている。ただ管内の官吏は都に上ることができない。長官もしくは次官のうち一人が、在任中に一、二度海路により入京し、雑務を弁済することを許されたい。」勅してこれに従った。【類聚三代格。】文徳天皇の仁寿三年、文章博士の菅原朝臣是善が奏上した。「文章生でまだ出身していない者が、及第の後、勘籍を経ずに考課の例に預かれるようにされたい。」これを許した。【文徳実録。】
¶清和天皇の貞観五年、太政官が処分した。「京畿七道の諸国が貢挙する位子は、今後、三度の勘籍を経るべきである。」七年、太政大臣の藤原良房ら十五人が奏上していった。「延暦より仁寿に至る六代の親王の年料の給分について、主典・史生などは、代ごとに各一人とし、互いに一代と称し、通算しないこととしていた。そのため、ある時は毎年給され、ある時は数年にしてようやく給される。あるいは省内の親王は給例に預からないなど、それぞれの言い分が異なり、訴えが間断なく起こっている。今、年中に支出される給分は、三官から諸司に至るまで、功労によって補われるべき者が多く、常に給分の不足に苦しんでいる。しかも親王の数は四十余りに及び、数年を経なければ、あまねく給することができない。すべての親王を総計し、代の区別なく、順に回してこれを給されたい。そうすれば順序が乱れず、先後の恨みもなくなるであろう。ただし特に勅によって別に給される者は、この限りではない。謹んで天裁を請う。」奏上を許可した。【三代実録。】十年夏、撰格所の要請により、朝集使が面前で陳述する制を改め、諸国司が在任中一度入京し、政務の滞りを奏上することを許した。ただし陸奥・出羽・太宰管内はこの限りではない。【類聚三代格。】大和国司が言った。「延暦十七年の勅に『諸国司は禰宜・祝などの考課を勘案せよ』とある。しかし今、神主は国司に隷属していない。そのため在任中の功過を検覈する由がない。神主の考課についても、実情に応じて褒貶を加え、善悪を明らかにされたい。」これに従った。冬、制した。「式部省は年末に、諸国の権任国司、ならびに史生・博士・医師の名簿を民部省に送ることとし、これを永例と定める。」十二年、制した。「諸国で正規の博士・医師でない者は、四年を任期の限りとする。ただし出羽および太宰管内の諸国は、五年を限りとする。また遥任の者は四年を経ること、および他人に譲る場合は、必ず六年を満たすこと。遥任の期間も計算に入れ、歴任の限りを終えさせよ。また諸衛府の官人・舎人で諸国の史生を兼任する者は、式部省から兵部省に移すべきである。また文官から武官に、武官から文官に遷る者は、式部・兵部の二省が互いに移し送るべきである。その他の司から兵部の管轄に遷る者も、また同様である。また諸国司以下が解退した後、解由の有無にかかわらず、勝手に他に赴いたり、あるいは逃れ避けて署名しない者は、公事稽留の罪を科す。その状況は、直接担当の司に下して勘奏させ、申請を許してはならない。もし前任者の執った文書を、後任者が記載しなければ、訴えを引き起こすことになるので、同罪を科し、その俸料を奪う。」十六年に至って、この制を重ねて申し渡した。【三代実録。】清和天皇は初め幼くして即位し、外祖父の太政大臣藤原良房が摂政となった。陽成天皇の時、良房の子基経がまた右大臣として摂政となり、良房の故事にならった。宇多天皇が即位した初め、百官に勅して、およそ万機の事は、まず関白の基経に諮ってから、その後に施行させることとした。摂政・関白はここに始まる。【三代実録、扶桑略記、政事要略。】寛平三年、勅した。「六衛府の官員数は、格の条文に載っている。しかし近年、特殊な技能によって節会・要籍・駆使などの事に供するとして、府ごとに申請し、ほとんど本数の倍になっている。今後は員外の舎人の数を減じ定めることを命ずる。」五年、近江国の奏請により、諸国の擬任郡司を停止し、内外の官に任じ、家令に補することとした。翌年、勅した。「諸国の郡司は、異能があるかないかにかかわらず、左右近衛・衛門・兵衛を帯びさせてはならない。」【類聚三代格。】その後、天皇(宇多)は菅原道真を登用し、大いに綱紀を振るった。しかし藤原氏が権力を独占してすでに久しく、朝臣の党与が非常に多かったため、天皇が譲位すると、道真はまず左遷された。【政事要略、大鏡、太平記、荏柄縁起を参照。】
¶醍醐天皇の時、諸国の百姓で財力のある者は、多くが衛府の舎人を帯び、王臣家の雑色となった。その威権をひけらかし、国郡を陵虐したが、国司はこれを制することができなかった。【類聚三代格。】延喜十三年、太宰大弐の源依が赴任しなかったことにより、官を奪われた。【日本紀略。】二十二年、国司で赴任しない者が多いとして、勅して検覈を加えさせた。理由なく京に留まる者は、皆解任することとした。【北山抄。】醍醐天皇の代には勅撰の格式が編纂され、そこに職制の条例が相当詳しく載せられたが【延喜式】、それでも積年の弊害を改めることはできなかった。もともと嵯峨天皇が蔵人を置いてから、少納言・侍従はその職を失い、検非違使を置いてからは、弾正・衛府・刑部・京職は皆その権限を失った。大宝・養老の制度は、ここに至って弊害を生じ始めたのである。摂関の制が興ってから、その職は常に藤原氏の三公が兼ねることとなり、代々これを踏襲して、正官同様に見なされ、万機の政はことごとくここに帰した。しかし三公はただ員数を備えるだけとなり、諸司百官も、おおむね旧来の規則を守り、先例を奉行するに過ぎなくなった。【政事要略、扶桑略記、職原抄の大意を斟酌した。】それゆえ選叙はただ譜第・門地を論ずるのみで、才能の有無を問わなくなった。姓の高下によって、位の内外を区別し、一官一職は皆品流に擬せられ、公卿もまたその父祖が歴任した官を先途(将来目指すべき地位)と称し、子孫がそれを得ることを、あたかも固有の権利のように考えた。【江家次第、大鏡、職原抄。】譜第のない者は、たとえ才能・技芸があっても、顕官に昇ることはできなかった。そのため豪傑の士は、京師に仕えることを楽しまず、しばしば国郡の間で跳梁した。平将門が検非違使になることを求めたが、朝廷がそれでもなおこれを与えなかったため、ついに天慶の乱を招いた。【今昔物語、将門記、外記日記、壒嚢抄。】譜第による選任がすでに重んじられ、公卿以下がついに世官となるに及んで、白河氏の神祇、小槻氏の左右史、賀茂・安倍二氏の陰陽、菅原・大江二氏の大学、和気・丹波二氏の典薬などに至るまで、皆その世職となり、他の姓の者は断じてこれに与ることができなくなった。【公卿補任、職原抄、譜家系図纂などの大意。】家柄・声望の高い者を殿上人と呼び、卑しい者を地下人と呼んだ。資格は一たび定まると、二度と移ることができなかった。たまたま勲功や特別の恩寵によって抜擢される者があると、人々は皆驚き疑い、これを典礼にもとるものとして非難した。【職原抄、小右記、平家物語。】そのため他氏の子弟で、才能はあっても譜第のない者は、あるいは世職の家に身を寄せ、その氏を偽り名乗って、出世を図ることさえあった。【朝野群載、中原系図、高階系図、清原系図、坂上系図、外記日記。】譜第・世職の弊害は、ここに至って極まった。当時、権貴の家、および宰吏の子孫は、争って荘園を占有し、天下には租税を納めない土地が多くなり、国郡の制度は大いに崩壊した。【小右記、中右記、神皇正統記。】
¶後三条天皇は政治に鋭意取り組み、まず摂関家の権力を回収し、荘園の弊害を矯正した。記録所を太政官の朝所に置き、自ら政務を裁決し、積年の弊害は次第に除かれていった。しかし在位が長くないまま崩御された。【愚管抄、中右記、神皇正統記。】白河天皇は最も仏教を偏愛し、造営を好んだため、国の財政は窮乏した。国司の選任・交替は、旧来の典章からかなり外れるようになった。財物を万石万匹も献上する者が、たやすく国司になることができた。父子三、四人が同時に任じられ、幼児までが任官することさえあった。【小右記、中右記、神皇正統記。】白河天皇および鳥羽天皇は相継いで院中で政務を執り、多くの荘園を置いた。それ以後、荘園が新たに設けられ、天下に乱立するようになり、国司の治める土地は全体の百分の一にも満たなくなった。【神皇正統記。】また公卿も多く欠国を請うてこれに補せられ、これを大介と呼んだ。【朝野群載、小山文書、尾張大国霊社文書、東寺文書、源平盛衰記。】身は京師にあって、吏を置いて国務を掌らせ、これを国司代と呼んだ。【東寺文書、杵築社文書、常陸府中総社文書、若狭守護職次第、下総香取明神祭礼図。】国守もまた赴任しない場合があり、僚属や家人を遣わして事にあたらせ、これを目代と呼んだ。民政は日ごとに弊害を増し、国郡はますます多事となった。【外記日記、中右記、東寺文書、肥前淀姫社文書、禰寝文書、神皇正統記。】もともと朝廷の官制は、文官・武官が職を分け、文を重んじ武を軽んじていた。その弊害が進むにつれ、公卿はただ礼節・儀容に習熟することのみを務めとし、もはや兵事を講じなくなった。六衛府の官人も、わずかに儀式の警護を供するだけとなった。しかし宰吏の子孫で国郡にある者は、一族が繁殖し、おおむね勇武を尚び、郷里で威を立て、武士と号し、源氏・平氏の二氏がその魁となった。そのため兵乱・盗賊が起こるたびに、朝廷は必ずこの二氏に追討を命じた。二氏の勢威はますます盛んとなり、土地・兵馬の権はついにこれに帰した。諸々の豪族はこれに服属し、ひそかに君臣の関係を成すに至った。【朝野群載、今昔物語、尊卑分脈、諸家系図纂を参照。】保元・平治の乱では、平清盛が戦功をもって朝廷に迫り、太政大臣に飛び越えて昇り、その子らもみな大臣・大将に列した。これ以後、皇威は大いに衰え、名器もまた軽んじられ、ついに武士が驕り高ぶる心を開かせることとなった。【保元物語、平治物語、東鑑、神皇正統記。】源頼朝が平氏を滅ぼすに及んで、朝廷の文弱の弊害を鑑み、関東に幕府を開いて、武断をもって政治を行った。天下総追捕使に自らなることを奏請し、国衙には守護を、荘園には地頭を置いて、天下を統轄した。ここにおいて国司・領家は皆その職を失い、将軍の家人は国郡に満ちるようになった。また右大臣藤原兼実・内大臣藤原実定ら十人を議奏官とし、朝政に参与し決定させることを請うた。朝廷の大事は、必ず武臣と議した上で施行することとなった。これ以後、大勢は一変し、征夷大将軍が独り天下の権を握り、私に僚属を置いて庶政を掌らせた。朝廷はいたずらに空虚な器を守るだけとなり、百官もみな名ばかりの存在となった。【公卿補任、平家物語、東鑑、神皇正統記、職原抄。】
¶後醍醐天皇の中興にあたり、京官の制度は皆前代のままとしたが、特に関白を廃止した。【公卿補任。】決断所を置いて公卿を頭人とし、訴訟の理非を論じさせた。記録所には武士を参直させ、大事があればすぐに天皇自ら臨んで決裁した。また武者所を置き、武士に命じてこれまでの主人筋から離れて直属させ、交代で京師を警護させた。【建武二年記、梅松論、太平記。】二人の皇子を出して東北を鎮撫させ、公家および武士にこれを補佐させた。【神皇正統記、太平記。】その国郡の制度は、公卿・貴族を任じる者を国司と呼び、武士を任じる者を守護と呼んだ。また国司と守護をあわせて置く場合もあり、国司はもとより兵備を兼ね、守護もまた吏務に通じていた。総じてその施策の意図は、文武を併せて一つにするところにあったのである。【太平記。】しかし賞罰は濫りで恩賞に不公平があり、統制の方法を誤ったため、巧言令色・権謀術数の徒がにわかに寵用されるようになった。一方で功績のあった将士は、かえってその職を失うことがあった。武士が憤り怨んで乱を思うだけでなく、公家にも失望する者が多く、天下はついにまた大いに乱れることとなった。【神皇正統記、梅松論、太平記。】
¶後村上天皇が即位するに及んで、准后の源親房(北畠親房)は、身は都の外にありながら、朝廷の官制が明らかでないことを憂えた。そこで大宝令が官を設けた趣旨に立ち返り、古今の沿革を考証して、職原鈔二巻を著してこれを天皇に奉った。しかし当時、朝廷は偏った地に安んじており、軍事・国事とも多事であった。職官の制度については、あらためて講じる暇がなかったという。【桜雲記、太平記。】