卷之二百七十九 志第卅六

氏族十三

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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出自不詳

高橋氏・茨城氏は、天武天皇十二年に高橋公・茨城公がともに真人の姓を賜った。【日本書紀による。】

三野氏。元正天皇の時代に、三野真人三島が従五位上を授けられた。廃帝の時代に、三野真人馬養がいた。桓武天皇の時代に、陰陽助の路三野真人石守が「父・馬養の姓には路の字がついていない。石守だけが路三野と称している。路の字を除いてほしい」と申し出て、これが許された。【続日本紀による。】

佐保氏。聖武天皇の時代に、高橋王が佐保真人の姓を賜った。【続日本紀による。】

奈良氏・内氏【○一本には「宇智」に作る。】・美和氏【○一本には「神」に作る。】・志紀氏は、孝謙天皇の時代に、正五位下大井王が奈良真人の姓を賜った。等美王は内真人を、壬生王・岡屋王はともに美和真人を、平群王・常陸王はともに志紀真人を賜った。【続日本紀による。】

仲氏。廃帝の時代に、従四位下仲真人石伴がいた。【続日本紀による。】

田中氏。光仁天皇の時代に、田中真人広忠がいた。【日本霊異記による。】

清海氏・志賀氏・浄額氏・清岳氏・室原氏・美海氏・長井氏・岡原氏・長谷氏・山科氏・河上氏は、桓武天皇の時代に、左京の人・駿河王・広益王らが清海真人の姓を賜った。池原王・島原王は志賀真人を、真原王・真貞王は浄額真人を、坂野王・石野王は清岳真人を、十二月王・小十二月王は室原真人を、田辺王・高槻王は美海真人を、船木王は長井真人を、永世王・末継王は岡原真人を、田村王・小田原王は長谷真人を、八上王・八島王は山科真人を、永嗣王は河上真人を、それぞれ賜った。【日本後紀による。】

御中氏。桓武天皇の時代に、大学頭御中真人広がいた。【日本後紀による。○按ずるに、日本紀略によれば、嵯峨天皇の時代に散位従四位下御息真人広越がいるが、おそらく別人ではないだろう。「中」と「息」のいずれかに誤りがあると思われる。】

高澄氏。平城天皇の時代に、右京亮高澄真人名守がいた。【日本後紀による。】

畝火氏。嵯峨天皇の時代に、畝火真人菟原がいた。【日本後紀による。】

春岡氏。嵯峨天皇の時代に、春岳真人広海が外従五位下を授けられた。【類聚国史による。】陽成天皇の時代に、越前介春岡真人冬道がいた。【三代実録による。】

宗高氏・真春氏。仁明天皇の時代に、右京の人・正六位上春男王が宗高真人の姓を賜った。長谷王らは真春真人を賜った。【続日本後紀による。】

大和氏・栗前氏・常道氏。仁明天皇の時代に、従八位下大和真人耳主、従五位下栗前真人永子、従五位下常道真人兄守がいた。【続日本後紀による。】

豊島氏。後一条天皇の時代に、太宰少監豊島真人時道がいた。【類聚符宣抄による。】後冷泉天皇の時代に、太宰大監豊島真人則方がいた。鳥羽天皇の時代に、豊島真人兼人がおり、これも少監となった。【除目大成抄による。○本書によれば、鳥羽天皇の時代に陸奥大目壬生真人季松がいるが、これも出自が詳らかでない。ひとまずここに付記する。】

高円氏は、朝臣姓で、正六位上広世の後裔である。もとは母の氏を冒して石川朝臣と称していた。廃帝の時代に、従五位下石川朝臣広成が高円朝臣の姓に改め賜った。【姓氏録による。続日本紀もあわせて参照した。○姓氏録では本姓を皇別に列しているが、広世がどの天皇の後裔であるかは分からない。それゆえ今はここに序する。】

土左氏。元正天皇の時代に、夫人土左朝臣宮子が従二位を授けられた。廃帝の時代に、参議土左朝臣御楯がいた。【続日本紀による。】

家原氏。ある説では宣化天皇の第二皇子の後裔であるといい、ある説では漢の主・劉秀の後裔であるという。いずれも詳らかでない。朝臣姓を称する者があり、【三代実録による。】宿禰姓を称する者があり、【文徳実録による。】連姓を称する者がある。元明天皇の時代に、左大臣多治比真人島の妻・家原音那が連姓を賜り、その一族の従七位上河内大真らもともに連姓を賜った。【続日本紀による。】文徳天皇の時代に、左京の人・主計頭家原連氏主、同姓の主税助氏雄らが宿禰を賜った。【文徳実録による。左京の人であることは三代実録による。】清和天皇の時代に、氏主が主税頭に任じられ、同姓の主計頭縄雄らとともに朝臣を賜った。【三代実録による。】

富紀氏。聖武天皇の時代に、故入唐判官富紀朝臣馬主が従五位下を贈られた。【続日本紀による。】

食氏。孝謙天皇の時代に、食朝臣息人が従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

三始氏・伴田氏。称徳天皇の時代に、三始朝臣奴可女、伴田朝臣仲刀自がともに従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

大屋氏。もとは寺間といった。称徳天皇の時代に、大和の人・従七位下寺間臣大虫らが大屋朝臣の姓を賜った。【続日本紀による。】

若狭遠敷氏。光仁天皇の時代に、若狭遠敷朝臣長売が正五位上を授けられた。【続日本紀による。】

春岑氏。嵯峨天皇の時代に、右京の人・出臣広津麻呂らが春岑朝臣の姓を賜った。【日本後紀による。○「出」の下に脱字があると思われる。】

清科氏。淳和天皇の時代に、清科朝臣笠主が従五位下を授けられた。【類聚国史による。】清科氏はここに初めて著れ、後一条天皇の時代に、陰陽大属清科行国がいた。【小右記による。】堀河天皇の時代に、従五位下清科行頼がいた。【中右記による。】

豊任氏。【○「任」は一本に「住」に作る。】淳和天皇の時代に、豊任朝臣綿成がいた。【類聚国史による。】仁明天皇の時代に、豊任朝臣永貞がおり、ともに従五位下を授けられた。【続日本後紀による。】

清庭氏。淳和天皇の時代に、清庭朝臣真豊が外従五位下を授けられた。【類聚国史による。】

永道氏。淳和天皇の時代に、従五位下永道朝臣末継がいた。【類聚国史による。】

滋岳氏・刀伎氏。文徳天皇の時代に、上総少目刀伎直雄貞、陰陽博士門人らが滋岳朝臣の姓を賜った。【文徳実録による。】清和天皇の時代に、左京の人・刀伎直永継らが、さらに滋越朝臣を賜った。【三代実録による。】朱雀天皇の時代に、暦博士刀伎直浄浜がいた。【外記日記による。○日本書紀によれば、持統天皇の時代に礪杵道作・礪杵刀伎がいる。音訓が通じ合うので、おそらく同族であろう。】

御常氏。清和天皇の時代に、伊勢前大掾御常朝臣氏雄がいた。【三代実録による。】

春淵氏。もとは文部谷直といった。光孝天皇の時代に、左京の人・右大史文部谷直忠直、弟の式部少録永世らが春淵朝臣の姓に改め賜った。忠直は自ら孝元天皇の後裔で安倍朝臣と同祖であると言うが、姓氏録には見当たらない。しかし坂上大宿禰の一族に文部谷直がある。おそらく同族であろう。【三代実録による。】

中原氏。もとは十市首といった。ある説では安寧天皇の皇子・磯城津彦命の後裔であるというが、詳らかでない。【○按ずるに、旧事本紀によれば、天降五部人のうちに十市首の祖・富富侶がいる。これがあるいはその先祖であろうか。】朱雀天皇の時代に、左少史十市部宿禰春宗がいた。【朱雀天皇以下は九条年中行事・殿記による。】春宗の子で大学博士の有象、および同姓の助教以忠らは、円融天皇の時代に中原宿禰の姓に改め賜り、間もなく朝臣となり、子孫は代々文職を任じられた。【中原系図による。○按ずるに、三代実録によれば、陽成・光孝両朝に助教中原朝臣月雄がいる。おそらく同族であろうが、当時はまだ姓氏を改めておらず、あるいは後から書き加えたものかもしれない。ひとまず付記して参考に備える。】二条天皇の時代に、右兵衛中原安頼が平氏を冒した。【磯部信貞訴状による。】おそらく同族であろう。

諸会氏。天武天皇十二年に、諸会臣が宿禰に改め賜った。【日本書紀による。】

酒波氏。皇孫が筑紫に天降り、初めて大嘗祭を行った際に酒波などの職を定めて、その事に供させた。【台記が引く天神寿詞による。】本氏はおそらくここに出るのであろう。聖武天皇の時代に、酒波人麻呂が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】後宇多天皇の時代に、外従五位下酒浪宿禰光貫がいた。【除秘抄による。】

川原田氏。聖武天皇の時代に、駿河目川原田宿禰忍国がいた。【東大寺正倉院文書による。】

平野氏。称徳天皇の時代に、従六位下平野阿佐美がいた。朱雀天皇の時代に、陰陽大属平野宿禰茂樹がいた。【朱雀天皇以下は外記日記による。宿禰の姓は吏部王記による。○拾芥抄に平野朝臣がある。】

稲蜂間氏。廃帝の時代に、外従五位下稲蜂間連中村女の親族である稲蜂間首醜麻呂らが連姓を賜り、間もなくいずれも宿禰に改め賜った。【続日本紀による。】

甲可氏。【○按ずるに、姓氏録附録に早可氏があり、一本には甲可に作る。おそらくこれであろう。権記によれば、一条天皇の時代に早可千秋がいる。拾芥抄には平野補田上御網代司とあるが、これもおそらく甲可の訛りであろう。】孝謙天皇の時代に、近江甲可郡大領甲可臣乙麻呂がいた。【東寺文書による。】醍醐天皇の時代に、伊勢大目甲賀宿禰於雄がいた。【除目大成抄による。】村上天皇の時代に、近江の人・甲可公是茂がいた。【朝野群載による。○按ずるに、日本書紀によれば、敏達天皇の時代に鹿深臣がいる。「鹿深」と「甲可」は訓読が通じ合うので、おそらく同族であろう。続日本紀によれば、聖武天皇の時代に田可臣真束がいるが、「田」はおそらく「甲」の訛りであろう。あわせて付記し、後考を待つ。】

真苑氏。嵯峨天皇の時代に、従五位下真苑宿禰雑物がいた。【類聚国史による。】

吉原氏。嵯峨天皇の時代に、紀伊の人で紀直の祖・刀自売の子である嗣宗が、「およそ人の子は皆父の姓を承けて公民となる。嗣宗だけは本貫がない。母の氏の居地により藤代の姓を賜りたい」と申し出た。勅により吉原宿禰を賜った。【日本後紀による。】

井原氏。淳和天皇の時代に、外従五位下井原宿禰継足がいた。【類聚国史による。】醍醐天皇の時代に、式部少録井原好風がいた。村上天皇の時代に、左少史井原連扶がいた。【類聚符宣抄による。】

安原氏。淳和天皇の時代に、外従五位下安原宿禰諸勝がいた。【類聚国史による。】清和天皇の時代に、河内丹比郡の人・太宰大典安原宿禰臣雄らが、本貫を右京に移した。【三代実録による。】

安道氏。淳和天皇の時代に、安道宿禰嗣雄が外従五位下を授けられた。【類聚国史による。】

有道氏は、丈部を出自とする。仁明天皇の時代に、常陸筑波郡の人・正六位上丈部長道、同姓の左近衛福道らが有道宿禰の姓を賜った。【続日本後紀による。○按ずるに、姓氏録によれば、天足彦国押人・武内宿禰、および鴨武津身の後裔に、いずれも丈部氏がある。有道氏がどの一族に出るかは詳らかでない。】

時統氏は、伊枳速日命の後裔である。仁明天皇の時代に、丹後の人・久美公金氏が時統宿禰に改め賜った。【続日本後紀による。】

笠品氏。もとは清友宿禰といった。仁明天皇の時代に、左京の人・右馬権大允清友宿禰真岡らが、太政大臣橘朝臣清友の名を避けて、笠品宿禰に改め賜った。【続日本後紀による。】

朝宗氏。文徳天皇の時代に、朝宗宿禰吉継が外従五位下を授けられた。【文徳実録による。○拾芥抄に朝宗朝臣がある。】

大窪氏・有宗氏。元正天皇の時代に、唱歌師大窪史五百足がいた。【続日本紀による。】清和天皇の時代に、右京の人・主計算師大窪峯雄らが有宗宿禰の姓に改め賜った。【三代実録による。】朱雀天皇の時代に、右少史大窪宿禰則善がいた。【東大寺雑録・後撰和歌集による。】

滋世氏。もとは於公といった。清和天皇の時代に、右京の人・左弁官史生於公浦雄らが滋世宿禰の姓に改め賜った。【三代実録による。】

惟良氏。陽成天皇の時代に、木工権助惟良宿禰安宗がいた。【三代実録による。】

浅井氏。陽成天皇の時代に、左近衛将曹浅井直筑紫雄がいた。【三代実録による。】一条天皇の時代に、下野介浅井宿禰季好【除目大成抄による。】、近江筑摩長浅井当宗がいた。【権記による。】

川前氏。後冷泉天皇の時代に、能登介川前宿禰兼清がいた。【除目大成抄による。】

八島氏。高倉天皇の時代に、和泉目八島宿禰末国がいた。【除目大成抄による。】

神社氏。元明天皇の時代に、従五位下神社忌寸河内がいた。聖武天皇の時代に、神社忌寸老麻呂がいた。【続日本紀による。聖武天皇以下は万葉集による。】

板安氏。元正天皇の時代に、板安忌寸犬養がいた。【続日本紀による。】

河上氏。聖武天皇の時代に、従五位上薩妙観が河上忌寸を賜った。【続日本紀による。】

長井氏。桓武天皇の時代に、左京の人・正七位上維敬宗らが長井忌寸の姓を賜った。【続日本紀による。】

豊山氏。桓武天皇の時代に、摂津の人・従七位上乙麻呂らが豊山忌寸の姓を賜った。【日本後紀による。】

中篠氏。桓武天皇の時代に、肥後の人・中篠忌寸豊次らが、本貫を左京に改めた。【日本後紀による。】

並槻氏。桓武天皇の時代に、外従五位下並槻忌寸荻麻呂がいた。【日本後紀による。】

善原氏。桓武天皇の時代に、善原忌寸依が外従五位下を授けられた。【日本後紀による。】朱雀天皇の時代に、能原恒典がいた。【類聚符宣抄による。】

粟田氏。淳和天皇の時代に、従八位上粟田忌寸豊長がいた。【類聚国史による。】

当野氏。文徳天皇の時代に、当野忌寸平麻呂が外従五位下を授けられた。【文徳実録による。】

榎原氏。清和天皇の時代に、従六位下榎原忌寸金吉がいた。同じ頃、摂津豊島郡の人・民部少録榎原忌寸良員が、本貫を左京に移した。【三代実録による。】

余奴氏。垂仁天皇の六世孫・乎波智君の妃を阿那爾比弥といい、余奴臣の娘である。この人が継体天皇の外祖母にあたる。【釈日本紀が引く上宮記による。】

小緑氏は、臣姓である。孝徳天皇の時代に初めて見える。【日本書紀による。】

丹波氏は、臣姓である。孝徳天皇の時代に初めて見える。【日本書紀による。】

倉氏。孝徳天皇の時代に、倉臣小屎がいた。【日本書紀による。】

津氏。斉明天皇の時代に、小山下津臣傴僂がいた。聖武天皇の時代に、備中都宇郡の人・津臣益麻呂がいた。【日本書紀による。聖武天皇以下は東大寺正倉院文書による。】

胆香瓦氏。天武天皇の時代に、胆香瓦臣安倍がいた。【日本書紀による。】

逢氏。天武天皇の時代に、逢臣志摩がいた。【日本書紀による。】

鹿島氏。持統天皇の時代に、鹿島臣様樟がいた。【日本書紀による。】

高桑氏。文武天皇の時代に、豊前中津郡の人・高桑臣姪売がいた。【東大寺正倉院文書による。】

螺江氏。元正天皇の時代に、唱歌師螺江臣夜気女がいた。【続日本紀による。】聖武天皇の時代に、越前敦賀郡主帳螺江比良夫がいた。【東大寺正倉院文書による。】嵯峨天皇の時代に、螺江部継人がおり、後に従五位下に叙せられ、貞江連となった。【類聚国史による。○按ずるに、「螺江」と「貞江」は訓読が通じ合う。】朱雀天皇の時代に、神祇大史貞江康平がいた。【外記日記による。】

小田氏。聖武天皇の時代に、小田臣根成が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】村上天皇の時代に、備中小田郡の人・小田臣豊郷、および同郡大領小田遂津がいた。【類聚符宣抄による。】堀河天皇の時代に、采女小田朝臣幸子がいた。【朝野群載による。】

神宅氏。聖武天皇の時代に、出雲秋鹿郡の人・神宅臣金太理がおり、本国の風土記の撰に加わった。【出雲風土記による。】

常氏・半布氏・横田氏・伊奈利氏。聖武天皇の時代に、駿河安倍郡散事常臣子赤麻呂、半布臣足島、横田臣大宅、伊奈利臣牛麻呂がいた。【東大寺正倉院文書による。】

並栗氏。聖武天皇の時代に、山背久世郡列栗郷の人・並栗臣手巻がいた。【東寺文書による。】

桃尾氏。孝謙天皇の時代に、伊賀阿拝郡柘植郷長桃尾臣井麻呂がいた。【東大寺古文書による。郡名は和名抄による。】

裳咋氏。光仁天皇の時代に、裳咋臣足島が外従五位下に叙せられた。【外記日記による。○按ずるに、本書には敢臣の一族で誤って母の姓を冒し裳咋臣となった者があり、後に元の姓に復したとある。しかし本氏がどこから出たものかは実のところ分からない。】

足羽氏。光仁天皇の時代に、足羽臣黒葛が従五位下を授けられた。【続日本紀による。】朱雀天皇の時代に、大蔵少録足羽豊連がいた。【外記日記による。】後一条天皇の時代に、典薬属足羽千平がいた。【小右記による。○拾芥抄に足羽朝臣がある。】

横江氏。光仁天皇の時代に、越前敦賀郡の人・横江臣成人がいた。【日本霊異記による。】

加祐氏。淳和天皇の時代に、外従五位下加祐臣真柴がいた。【類聚国史による。】清和天皇の時代に、内匠大允賀祐臣祖挺がいた。【三代実録による。】醍醐天皇の時代に、太政官史生賀祐継成がいた。【類聚符宣抄による。】

良氏。淳和天皇の時代に、和泉国司良臣豊田麻呂がいた。【政事要略による。○拾芥抄に良朝臣がある。】

前田氏。文徳天皇の時代に、筑前上座郡大領前田臣市成が政績があったので、仮に外従五位下を授けられた。【文徳実録による。】

若宮氏。清和天皇の時代に、伊勢少目若宮臣秀雄がいた。【三代実録による。○万葉集に若宮年魚麻呂がある。おそらく天平年間の人で、これもきっと同族であろう。】

桜井田部氏・穴門国造は、いずれも邇伎都美命の後裔である。【旧事本紀による。】応神天皇の時代に、桜井田部連男鉏がいた。【日本書紀による。】清和天皇の時代に、讃岐三木郡の人・桜井田部連貞相らが、本貫を右京に改めた。【三代実録による。○按ずるに、東寺文書によれば、光仁天皇の時代に大和少目桜井田部宿禰甲がいる。おそらく同族であろう。】邇伎都美命の四世孫・速都鳥命は、景行天皇の時代に穴門国造となった。【旧事本紀による。】仲哀天皇の時代に、穴門直践立がいるが、おそらく国造の一族であろう。【日本書紀による。】

栗隈氏。【○「隈」は一本に「前」に作る。】天智天皇の時代に、栗隈首徳方がいた。天武天皇十一年に、栗隈首が連に改め賜った。【日本書紀による。】村上天皇の時代に、左少史栗前宿禰扶茂がいた。【類聚符宣抄による。】

村国氏は、本貫はおそらく美濃であろう。【日本書紀・続日本紀による。】天武天皇の時代に、村国連男依がおり、壬申の功臣となって、村国氏はここに初めて著れた。【日本書紀による。】桓武天皇の時代に、美濃の人・村国連悪人がいた。【類聚国史による。】

舎人氏。天武天皇九年に、舎人造糠虫が連姓を賜った。【日本書紀による。○按ずるに、旧事本紀によれば、五部伴領のうちに舎人造がある。あるいは同族であろうか。】淳和天皇の時代に、筑前の人・舎人臣福長女がいた。【類聚国史による。】また大舎人部があり、孝謙天皇の時代に、常陸那珂郡の防人大舎人部千文がいた。【万葉集による。】

句筥作氏。天武天皇十一年に、句筥作造が連姓に改め賜った。【日本書紀による。】

財氏。天武天皇十一年に、財造が連姓を賜った。【日本書紀による。】聖武天皇の時代に、越前江沼郡主帳財造住田がいた。【東大寺正倉院文書による。】仁明天皇の時代に、加賀能美郡の人・財部造継麻呂がいた。【続日本後紀による。】朱雀天皇の時代に、小舎人財部保家がいた。【外記日記による。】後一条天皇の時代に、太宰大典財部宿禰恒孝がいた。【類聚符宣抄による。】

語氏。天武天皇十一年に、語造が連姓を賜った。【日本書紀による。】同じ頃、出雲意宇郡の人・語臣猪麻呂がおり、勇力が人に抜きん出ており、鰐魚を殺したことで名を著した。【出雲風土記による。】聖武天皇の時代に、出雲の人・語君小村、語部君瓔、および備中窪屋郡の人・語直蓑がいた。【東大寺正倉院文書による。】語部の一族は美濃・丹波・但馬・因幡などの国に居り、代々大嘗祭に供奉した。【貞観儀式・延喜式による。】

川内馬飼氏・菟野馬飼氏・娑羅羅馬飼氏は、もといずれも造姓であったが、天武天皇十一年に、ともに連姓を賜った。また川内馬飼首・倭馬飼造などの姓もあるが、いずれもその出自は詳らかでない。【日本書紀による。】

来目舎人氏。天武天皇十一年に、来目舎人造が連姓を賜った。【日本書紀による。】また久米連があり、元正天皇の時代に、正六位上久米奈保麻呂が連姓を賜った。【続日本紀による。】清和天皇の時代に、石見那賀郡権大領村部峯雄らが、もとの姓である久米連に復した。【三代実録による。】

益田氏。天武天皇の時代に、益田直金鍾がいた。【日本書紀による。「直」の姓は続日本紀による。】称徳天皇の時代に、越前足羽郡の人・従五位下益田縄手が連姓を賜った。【続日本紀による。】嵯峨天皇の時代に、外従五位下益田忌寸満足がおり、後に連姓となった。【類聚国史による。】

羽林氏。もとは録氏といった。【続日本紀による。○「録」は、日本書紀には「角」に作り、東大寺正倉院文書には「觮」に作る。字音はいずれも通じる。】天智天皇の時代に、小山上角福年がおり、陰陽の術に通じていた。【日本書紀による。】文武天皇の時代に、勅により僧恵耀が還俗し、もとの姓に復して録名兄麻呂と名のり、後に羽林連の姓を賜った。【続日本紀による。】

大朽氏。持統天皇の時代に、伊勢大宮司大朽連馬養がいた。【二所大神宮例文による。】

椎野氏。もとは四比氏といった。元明天皇の時代に、四比信紗がおり、孝義をもって著れ、その事は列女伝に載る。聖武天皇の時代に、正七位下四比忠勇が椎野連を賜った。称徳天皇の時代に、右京の人・正七位上四比河守が椎野連を賜った。【続日本紀による。○諸本には「四比」を「昆」に作るが、誤りである。それゆえこれを訂正する。】

垣津氏。聖武天皇の時代に、坦津連比奈が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

長丘氏。聖武天皇の時代に、正六位下賓難大足が長丘連の姓を賜った。光仁天皇の時代に、左京の人・蓋田蓑がまた長丘連を賜った。【続日本紀による。○本書によれば、称徳天皇の時代に左京の人・壱難乙麻呂が浄上連の姓を賜ったとある。「壱」と「賓」は字形が相似ているので、おそらくどちらかに誤りがあるのだろう。ただしどちらが正しいか分からないので、ひとまずここに付記する。】

城上氏。聖武天皇の時代に、正六位下胛巨茂が城上連の姓を賜った。【続日本紀による。】

鴨田氏。廃帝の時代に、神部鴨田連島人がいた。【続日本紀による。】

高松氏。廃帝の時代に、備後介高松連笠麻呂がいた。【続日本紀による。】

清済氏。称徳天皇の時代に、雅楽大允清済連雷がいた。【続日本紀による。○「済」は一本に「湍」に作り、「雷」はまた「香」に作る。前出の百済の一族に清湍連があるが、これもおそらく同族であろう。付記して参考に備える。】

下井氏。称徳天皇の時代に、下井連立足が若狭守となった。【続日本紀による。】

忍海倉氏。光仁天皇の時代に、忍海倉連甑が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】また忍海山下氏があり、光孝天皇の時代に、忍海山下連氏則が石見介となった。【三代実録による。】

清岡氏。【○「清」は一本に「浄」に作る。】光仁天皇の時代に、侍医清岡連広島がいた。【続日本紀による。】

村上氏。光仁天皇の時代に、莫牟師村上造大宝がいた。【続日本紀による。】一条天皇の時代に、備前国掌村上連吉里がいた。【類聚符宣抄による。】

弘世氏。淳和天皇の時代に、弘世連弥足が外従五位下を授けられた。【類聚国史による。】醍醐天皇の時代に、兵部少録弘世連諸統がいた。【延喜格序による。】

豊井氏。淳和天皇の時代に、太政官左史生豊井連安智がいた。【類聚国史による。】

春宗氏。仁明天皇の時代に、外従五位下春宗連継縄がいた。【続日本後紀による。】

善根氏。仁明天皇の時代に、美濃方県郡権大領美県貞継が善根連の姓を賜った。【続日本後紀による。】

広江氏。仁明天皇の時代に、河内の人・大江乙枚が、はじめ母の氏を冒して広江連となった。【続日本後紀による。】

堅田氏。仁明天皇の時代に、紀伊那賀郡の人・堅田連石成がいた。【東寺文書による。】

新生氏。仁明天皇の時代に、鴨河の悲田預の僧・賢義が養育した孤児清継ら十余人に新生連の姓を賜り、本貫を左京に付した。【続日本後紀による。】

春海氏。陽成天皇の時代に、出羽権大目春海連奥雄、同姓の雅楽少允貞吉がいた。【三代実録による。】

漆沼氏。聖武天皇の時代に、出雲出雲郡漆沼郷の人・漆沼稲置知麻呂がいた。【東大寺正倉院文書による。郡名は和名抄による。】

佐嘉氏。景行天皇の時代に、佐嘉県主の祖・大荒田がいた。【肥前風土記による。】光仁天皇の時代に、肥前佐賀郡大領佐賀君児公がいた。【日本霊異記による。】

穂瓮氏。仁賢天皇の時代に、穂瓮君がいた。【日本書紀による。】

崗氏。仲哀天皇の時代に、岡県主の祖・熊鰐がいた。孝徳天皇の時代に、小乙上崗公宜がいた。【日本書紀による。】

下冰氏。皇極天皇の時代に、下冰君雑物がいた。【太子伝補闕記による。】また下火氏があり、聖武天皇の時代に、下火首君麻呂がいた。【東大寺古文書による。】

朝倉氏。孝徳天皇の時代に、朝倉君がいた。【日本書紀による。○名は欠けている。】聖武天皇の時代に、朝倉君時が外正五位下を授けられた。【続日本紀による。】孝謙天皇の時代に、上野防人朝倉益人がいた。【万葉集による。】桓武天皇の時代に、朝倉公家長が陸奥に糧を進めたことにより、外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

客氏。【○また客人にも作る。】元正天皇の時代に、正七位上山背甲作客小友ら二十余人が、「山背甲作」の四字を去り、客氏に改め賜った。聖武天皇の時代に、外従五位下客君狛麻呂が土佐守となった。廃帝の時代に、客人君智山、同姓の阿古万呂がいた。【続日本紀による。廃帝以下は法隆寺良訓補妄集による。】

気太氏。聖武天皇の時代に、外従五位下気太十千代らが君姓を賜った。【続日本紀による。】

在狭田氏。聖武天皇の時代に、在狭田君刀自売がいた。【東大寺古文書による。】

有度氏。聖武天皇の時代に、駿河有度郡少領有度軍がいた。【東大寺古文書による。○名は欠けている。】

濃宜氏。称徳天皇の時代に、大学少允濃宜公水通がいた。【続日本紀による。】

賀禰氏。光仁天皇の時代に、大学員外分賀禰公雄津麻呂が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。○「雄」は一本に「小」に作る。】

城部氏。嵯峨天皇の時代に、外従五位下城部公小野麻呂がいた。【日本後紀による。】

味部氏。嵯峨天皇の時代に、従七位上味部公広河がいた。【姓氏録による。○本書の巻末に、広河が治部少丞石河朝臣国助、大舎人大伴宿禰根守ら七人と並んで列せられており、おそらく当時姓氏録の撰に加わった者たちであろう。国助は類聚国史に見え、弘仁八年に従五位下を授けられたが、他の者はいずれも所見がない。それゆえいつの時代の人かは的確には分からない。しかし根守がなお大伴と称していることから、淳和天皇以前の人であることは明らかである。それゆえ今は嵯峨天皇の時代と定める。】また味真氏があり、仁明天皇の時代に、越前の人・造兵司味真公御助麻呂が、本貫を左京に移した。【続日本後紀による。○続日本紀によれば、孝謙天皇の時代に外従五位下甘味神宝がいる。「甘味」もまた一つの姓であろうから、ひとまずここに付記する。】

溝辺氏。欽明天皇の時代に、溝辺直がいた。【日本書紀による。○名は欠けている。】

許西部氏。文武天皇の時代に、筑前島郡の人・許西部直竜売がいた。【東大寺正倉院文書による。】

笠取氏は、直姓である。およそ大嘗祭には、本氏は代々殿部として蓋を執る職に供した。【三代実録・延喜式・外記日記による。】

出部氏。聖武天皇の時代に、出部直佩刀がいた。【続日本紀による。】

多褹氏。聖武天皇の時代に、多褹熊毛郡大領外従七位下安志託らが多褹後国造の姓を賜り、益救郡大領外従六位下加理伽らが多褹直の姓を賜った。【続日本紀による。】

能満氏。聖武天皇の時代に、多褹能満郡少領粟麻呂ら九百六十余人が、居地により能満直の姓を賜った。【続日本紀による。】

財田氏。称徳天皇の時代に、美作の人・財田直常人が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

凡氏。称徳天皇の時代に、周防凡直葦原がいた。【続日本紀による。】

苫編氏。神功皇后が韓国を征した際、船を淡路に泊めたとき、大仲子という者がおり、苫を織って屋を作り風雨を避けた。皇后はこれを嘉して、大仲子に苫編首の姓を賜った。子孫は代々播磨讃容郡仲川里に居った。【播磨国風土記による。】

額田部槻本氏。応神天皇の時代に、武蔵の人・額田部槻本首の祖・千熊長彦がいた。【日本書紀による。】

葛野城氏。応神天皇の時代に、葛野城首の祖・熊之凝がいた。【日本書紀による。】

狭丘氏。敏達天皇の時代に、狭丘首間狭がいた。【日本書紀による。】

室原氏。孝徳天皇の時代に、室原首御田がいた。【日本書紀による。】

韓鍛冶氏。元正天皇の時代に、近江の人・韓鍛冶百島、丹波の人・韓鍛冶首法麻呂、および播磨・紀伊二国の韓鍛冶らが、雑戸の号を除かれて、ともに公戸に従った。桓武天皇の時代に、播磨美嚢郡大領韓鍛首広富が外従五位下に叙せられた。その一族に坂本臣があり、称徳天皇の時代に、讃岐寒川郡の人・外正八位下韓鉄師毗登毛人、韓鉄師部牛養ら百二十余人が、坂本臣の姓を賜った。【続日本紀による。○按ずるに、続日本後紀によれば、承和年間に讃岐の人・坂本臣鷹野らが朝臣を賜わろうと願い、本貫を和泉に改めたという。紀角宿禰の後裔は上に見える。本氏はこれと同族ではないかと思われるが、まだ明証を得ていない。また養老年間に韓鍛冶らのうち公戸に従った者は七十一戸あり、そのなかに飽海漢人・忍海漢人などの一族があり、いずれも蕃別であるらしい。また日本書紀によれば、皇極天皇の時代に坂本吉士長兄がいるが、これも同族であろうか。あわせてここに付記し、後考を待つ。】

上原氏。聖武天皇の時代に、山背愛宕郡の人・上原首玉売がいた。【東大寺正倉院文書による。】

薗田氏。聖武天皇の時代に、鋳銭司判官薗田首八島がいた。【東大寺正倉院文書による。】

稲置代氏。聖武天皇の時代に、伊賀阿拝郡擬主帳稲置代首宮足がいた。【東大寺古文書による。】

英保氏。【○「英」は一本に「美」に作り、また「莫」にも作る。】光仁天皇の時代に、外従五位下英保首代作が周防員外掾となった。【続日本紀による。】醍醐天皇の時代に、勘解由主典英保時幹がいた。【類聚符宣抄による。】朱雀天皇の時代に、左近衛番長英保純行、および同姓の氏立がいた。【将門記による。】

刀佩氏。桓武天皇の時代に、刀佩首広刀自が従五位下を授けられた。【日本後紀による。】

刈田氏。仁明天皇の時代に、大学助教刈田首種継がいた。【類聚符宣抄による。】光孝天皇の時代に、右近衛刈田首貴多雄がいた。【三代実録による。○按ずるに、刈田首には紀朝臣の姓を賜った者、物部連の姓を賜った者があり、いずれも前に見える。しかし本姓の出自は実のところ詳らかでない。】三条天皇の時代に、刈田安正がいた。【朝野群載による。】

他戸氏。陽成天皇の時代に、出羽権大目他戸首千与本がいた。【三代実録による。】

田使氏。光孝天皇の時代に、備中津高郡の人・田使首良雄が、本貫を山城愛宕郡に移した。【三代実録による。】堀河天皇の時代に、田使道貞がいた。【外記日記による。】高倉天皇の時代に、田使俊行がおり、難波五郎と称した。【源平盛衰記による。】後醍醐天皇の時代に、美濃判官田使全職がいた。【光明寺残篇による。】

来熊田氏。仲哀天皇の時代に、来熊田造の祖・大酒主がいた。【日本書紀による。】

廬井氏。【○また五百井にも作る。】大友天皇の時代に、廬井造鯨がいた。【日本書紀による。】文武天皇の時代に、御野目五百井造豊国がいた。一条天皇の時代に、大和大掾五百井一蔭がいた。【東大寺正倉院文書による。】

大弘氏。聖武天皇の時代に、出雲飯石郡大領大弘造某がいた。【出雲国風土記による。】

県氏。文武天皇の時代に、御野加毛郡の人・県造紫がいた。【東大寺正倉院文書による。】光仁天皇の時代に、県造久太良が志摩守となった。【続日本紀による。】桓武天皇の時代に、美濃方県郡の人・県氏がいた。【日本霊異記による。】清和天皇の時代に、斎宮寮史生県造富世がいた。【三代実録による。】また川股県氏があり、仁明天皇の時代に、伊勢鈴鹿郡の人・川股県造藤継女がいた。【続日本後紀による。○除目大成抄によれば、一条天皇の時代に上野大掾県連乙長、肥前掾県宿禰長邦がいるが、いずれも出自が詳らかでない。ひとまずここに付記する。】

御山氏。光仁天皇の時代に、右京の人・従七位下燕乙麻呂が御山造の姓を賜った。【続日本紀による。】

清津氏。光仁天皇の時代に、左京の人・従六位下莫位百足、同族で右京の人・真士麻呂らが清津造の姓を賜った。【続日本紀による。】

広岡氏。光仁天皇の時代に、武蔵新羅郡の人・沙良・真熊らが広岡造の姓を賜った。【続日本紀による。】

湯原氏。【○「湯」は一本に「陽」に作る。】桓武天皇の時代に、左京の人・従六位下刃山甘次猪養が湯原造の姓を賜った。【続日本紀による。】

葛沢氏。桓武天皇の時代に、摂津の人・正八位上須美開徳が葛沢造の姓を賜った。【日本後紀による。】

素賀国造。太祖の時代に、従臣美志印命を国造とした。【旧事本紀による。】

波多国造。天韓襲命は、崇神天皇の時代に国造となった。【旧事本紀による。】

筑波国造。忍凝見命の孫・阿閉色命は、成務天皇の時代に国造となった。【旧事本紀による。】

春日県主。綏靖天皇の時代に、春日県主大日諸がいた。【日本書紀による。】

十市県主。孝安天皇の時代に、十市県主五十坂彦がいた。【日本書紀による。】

水沼県主。景行天皇の時代に、水沼県主猨大海がいた。【日本書紀による。】

嶺県主。雄略天皇の時代に、筑紫嶺県主泥麻呂がいた。【日本書紀による。】

小屋県主。光仁天皇の時代に、讃岐美貴郡大領小屋県主宮手がいた。【日本霊異記による。】

小竹田氏。天智天皇の時代に、淡海坂田郡の人・小竹田史身がいた。【日本書紀による。】

村田氏。天武天皇の時代に、村田史名倉がいた。【日本書紀による。】

高善氏。聖武天皇の時代に、出雲楯縫郡少領高善史某がいた。【出雲国風土記による。】称徳天皇の時代に、大和の人・高善毗登久美咩がいた。【続日本紀による。】

御井原氏。光孝天皇の時代に、判事少属御井原史浄氏がいた。【三代実録による。】

山部氏。景行天皇の時代に、山部阿弾古の祖・小左がいた。【日本書紀による。】

葛江氏。桓武天皇の時代に、播磨明石郡大領葛江我孫馬養がいた。【続日本紀による。】光孝天皇の時代に、従五位下葛江我孫良津、および同姓の伊予介良伴がいた。【三代実録による。】

磐城氏。天智天皇の時代に、淡海栗太郡の人・磐城村主殷がいた。【日本書紀による。】円融天皇の時代に、右馬大属石城村主保兼がいた。【類聚符宣抄による。】

利苅氏。聖武天皇の時代に、河内の人・利苅村主利苅女がいた。【日本霊異記・今昔物語による。】

樟氏。大友天皇の時代に、樟使主磐手がいた。【日本書紀による。】

簀秦恵師氏。嵯峨天皇の時代に、簀秦恵師笠麻呂が外従五位下を授けられた。【日本後紀による。】

箭栝氏。継体天皇の時代に、常陸行方郡の人・箭栝麻多智がいた。【常陸国風土記による。】

耳梨氏。孝徳天皇の時代に、耳梨道徳がいた。【日本書紀による。】

鰐積氏。天武天皇の時代に、鰐積吉事がいた。【日本書紀による。】

弟国部氏。持統天皇の時代に、飛騨荒城郡の人・弟国部弟日がいた。【日本書紀による。】陽成天皇の時代に、木工権大工弟国部高継がいた。【三代実録による。】

田原部氏。文武天皇の時代に、御野本簀郡の人・田原部小山がいた。【東大寺正倉院文書による。】

葛氏。元正天皇の時代に、大和の人・腹太得麻呂が葛氏に改めた。【続日本紀による。】

忍海漢人氏。元正天皇の時代に、伊勢の人・忍海漢人安得【○本書には「海」の字が脱けているが、今は下文によりこれを補う。】、同姓の麻呂がいた。【続日本紀による。】聖武天皇の時代に、忍海漢部真麻呂がおり、備中の人であった。【東大寺正倉院文書による。】

細川椋人氏。聖武天皇の時代に、右京の人・細川椋人五十君がいた。【東大寺正倉院文書による。】

漆島氏。聖武天皇の時代に、対馬史生漆島大名がいた。【東大寺正倉院文書による。】後冷泉天皇の時代に、宇佐宮貫首漆島清経がいた。【宇佐大鏡による。】

花口氏。聖武天皇の時代に、大倭葛下郡の人・花口宮麻呂がいた。【続日本紀による。】

薏原氏。聖武天皇の時代に、東大寺写経手薏原人麻呂がいた。【東大寺正倉院文書による。】

古仁氏。聖武天皇の時代に、古仁染思、同姓の虫名がともに外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

野後部氏。聖武天皇の時代に、山城愛宕郡の人・野後部正月がいた。【東大寺正倉院文書による。】

汶旦氏。聖武天皇の時代に、周防史生汶旦才智がいた。【東大寺正倉院文書による。】

飽海氏。聖武天皇の時代に、飽海古良比がいた。【続日本紀による。】

麻柄氏。孝謙天皇の時代に、貢香水使麻柄全麻呂がいた。【東大寺正倉院文書による。】

今奉部氏。孝謙天皇の時代に、下野防人火長今奉部与曽布がいた。【万葉集による。】

将軍氏。孝謙天皇の時代に、写経手将軍水通がいた。【東大寺正倉院文書による。】

板振氏。廃帝の時代に、左兵衛佐板振鎌束がいた。【続日本紀による。】

高分部氏。光仁天皇の時代に、肥後八代郡の人・高分部福那理がいた。【続日本紀による。】

豊服氏。光仁天皇の時代に、肥後八代郡豊服郷の人・豊服広公がいた。【日本霊異記による。○和名抄によれば、八代郡に豊福郷がある。延喜式には豊向に作るが、豊服氏の出るところである。】

川部氏。光仁天皇の時代に、肥前松浦郡の人・外従五位下川部酒麻呂がいた。【続日本紀による。○東大寺正倉院文書によれば、和銅・天平年間に川造乙麻呂・友麻呂がいる。あるいはこれも同族であろうか。】

三村部氏。仁明天皇の時代に、常陸新治郡の人・三村部綿女がいた。【続日本後紀による。】

若杖部氏。清和天皇の時代に、石見の人・若杖部豊見がいた。【三代実録による。】

宮門氏。陽成天皇の時代に、宮門有常がおり、右京の人であった。【三代実録による。】

坂名井氏。光孝天皇の時代に、坂名井縄麻呂がいた。【三代実録による。】

雑田部氏。醍醐天皇の時代に、河内権大目雑田部良経がいた。【除目大成抄による。】

兄国氏。醍醐天皇の時代に、伊勢飯野郡句当兄国定輔がいた。【東寺文書による。】

比部氏。朱雀天皇の時代に、右衛門志比部貞直がいた。【朝野群載による。】

浮島氏。村上天皇の時代に、明経学士浮島仲陳がいた。【西宮記による。】

孫主氏。三条天皇の時代に、播磨赤穂郡の人・孫主利種、および有年荘司孫主良光がいた。【朝野群載による。】

負野氏。後一条天皇の時代に、美作栗栖荘司負野貞政がいた。【小右記による。○按ずるに、拾芥抄に槻田真人・大豆朝臣・大日子宿禰・大仁宿禰・神田宿禰・金集宿禰・狩宿禰・長部宿禰・赤坂宿禰・高室連・桃原連・散吉連・大弥県主・川津首・吾川直・絁直・狩忌寸などの姓がある。しかし古書にはこれらの姓がまだ見えないので、付記して後考を待つ。】

夷姓

元明天皇和銅三年に、陸奥の蝦夷らが「君の姓を賜り、同じく編戸としてほしい」と申し出て、これが許された。蝦夷が姓を賜ったのは、おそらくこれが始めであろう。元正天皇の時代に、陸奥蝦夷第三等の邑良志別君宇蘇弥奈らが、香阿村に郡家を建てて編民となることを願い出た。須賀君古麻比留らは、親族を率いて閉村に郡家を建て、百姓と同じくなることを願い出た。いずれもこれが許された。

和我氏は、君姓である。聖武天皇の時代に初めて見える。【続日本紀による。】

伊治氏。光仁天皇の時代に、伊治公呰麻呂が外従五位下を授けられた。【続日本紀による。】

浦上氏。桓武天皇の時代に、播磨夷第二等去返公島子が浦上臣の姓を賜った。【日本後紀による。】

爾散南氏。桓武天皇の時代に、爾散南公阿波蘇がいた。【類聚国史による。】嵯峨天皇の時代に、爾散南公独伎がおり、節会を聴くため入京することを許された。【日本後紀による。】

胆沢氏・盤具氏・大墓氏は、いずれも公姓で、ともに桓武天皇の時代に初めて見える。【類聚国史による。】

宇漢米氏【○「漢」は一本に「賀」に作る。】・浦田氏。桓武天皇の時代に、宇漢米公隠賀がおり、爵一等を授けられた。【類聚国史による。浦田氏については日本後紀による。】同じ頃、夷第一等浦田臣史閫那が外従五位下を授けられた。嵯峨天皇の時代に、播磨印南郡権少領浦田臣山人らが、特に節会を聴くため入京することを許された。【日本後紀による。】

遠胆沢氏は、公姓で、嵯峨天皇の時代に初めて見える。【類聚国史による。】

磐井氏・高城氏・小倉氏・石原氏・椋崎氏・遠田氏・意薩氏・真野氏・白石氏は、いずれも夷族である。嵯峨天皇の時代に、陸奥遠田郡の人・勲七等竹城公金弓ら三百九十余人が、「私どもはいまだ田夷の姓を脱していないため、永く子孫の恥を貽すことになります。旧姓を改めて公民としてほしい」と申し出た。そこで勅により、金弓、および勲八等黒田竹城公継足、勲九等白石公真山ら男女百二十余人には陸奥磐井臣を、勲八等竹城公多知麻呂・荒山花麻呂ら八十余人には陸奥高城連を、勲九等小倉公真禰麻呂ら十余人には陸奥小倉連を、勲八等石原公多気志ら十余人には陸奥石原連を、勲八等柏原公広足ら十余人には椋崎連を、遠田公五月ら六十余人には遠田連を、それぞれ賜った。【○続日本紀による。桓武天皇の時代に、陸奥遠田郡大領遠田公狎人が臣姓を賜ったが、これも同族である。】勲八等意隆公持麻呂ら六人には意薩連を、小田郡の人・意薩公継麻呂、遠田公浄継ら六十余人には陸奥意薩連を、真野公営山らには真野連を、白石公千島らには白石連を、それぞれ賜った。【日本後紀による。】

上毛野緑野氏。嵯峨天皇の時代に、出羽田夷置井出公呰麻呂らが上毛野緑野直の姓に改め賜った。【日本後紀による。】

都和利別氏。淳和天皇の時代に、筑後第五等夷都和利別公阿比登が従八位上に叙せられた。【類聚国史による。】

春永氏。仁明天皇の時代に、播磨飾磨郡の人・正七位下叫綿麻呂が春永連の姓を賜った。【続日本後紀による。】