卷之二百七十八 志第卅五

氏族十二

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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中臣氏は、臣姓で、右京を本貫とする。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の七世孫である鏨著大使主の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、「鏨著」は「米餅搗」と訓・義ともに同じであろう。】

猪甘部氏は、首姓で、和泉を本貫とする。天足彦国押人の後裔である。【姓氏録による。】

椋椅部氏は、首姓で、和泉を本貫とする。孝霊天皇の皇子・吉備津彦命の後裔である。【姓氏録による。○続日本後紀によれば、仁明天皇の時代に外従五位下倉橋部直氏嗣がいた。直姓の出自は詳らかでないが、ひとまずここに付記する。】

古氏は、和泉を本貫とする。孝霊天皇の皇子・稚多祁古命の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、稚多祁古とは稚武彦のことである。】

葛野氏は、臣姓で、左京を本貫とする。孝元天皇の皇子・彦太忍信命の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、外従五位下葛野臣広麻呂がいた。【続日本紀による。】

鵜飼部氏は、首姓で、和泉を本貫とする。武内宿禰の子・許勢男柄の後裔である。文武天皇の時代に、美濃各務郡の人・鵜甘部目都良売がいた。【姓氏録による。文武天皇以下は東大寺正倉院文書による。】

韓海部氏は、首姓で、摂津を本貫とする。武内の子・平群木菟の後裔である。仁賢天皇の時代に、韓白水郎𤳉がいた。【姓氏録による。仁賢天皇以下は日本書紀による。○「白水郎」と「海部」は訓読が通じ合う。】おそらく同族であろう。

下神氏は、摂津を本貫とする。葛城襲津彦の子・腰裙の後裔である。【姓氏録による。】

池後氏は、臣姓で、河内を本貫とする。天彦麻須命の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、これはおそらく開化天皇の皇子・彦坐命のことであろう。それゆえここに序する。】

大伴氏は、連姓で、河内を本貫とする。天彦命の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、「天彦」はおそらく「彦坐」、あるいは「大彦」の誤りであろう。今はひとまずここに序する。】

壬生部氏は、公姓で、河内を本貫とする。崇神天皇の後裔である。【姓氏録による。】称徳天皇の時代に、外従五位下壬生公少広がいた。【続日本紀による。】嵯峨天皇の時代に、上野甘楽郡大領壬生公郡守がいた。【日本後紀による。】清和天皇の時代に、上野群馬郡の人・壬生公石道が朝臣を改め賜った。【三代実録による。】同じ頃、僧円仁がいたが、下野都賀郡の人で壬生氏を称し、崇神天皇の皇子・豊城入彦命を出自とする。【明匠略伝による。】円融天皇の時代に、若狭権目壬生公公忠がいた。一条天皇の時代に、筑後少目壬生公氏善がいた。【除目大成抄による。】また宿禰・連・直などの姓を称する者があるが、これもおそらく豊城入彦の後裔であろう。孝徳天皇の時代に、茨城国造壬生連麻呂、那珂国造壬生直夫子がいた。【常陸国風土記による。】聖武天皇の時代に、外従五位下壬生部直三穂麻呂【続日本紀による。○「壬」は「大」とも作る。】、駿河少領壬生直信陀理がいた。【東大寺正倉院文書による。○郡名は欠けている。○本書には、同じ頃また少外記壬生使主宇太麻呂が見えるが、おそらくこれも同族であろう。付記して参考に備える。】称徳天皇の時代に、常陸筑波郡の采女壬生直小家主が連姓に改め、後に宿禰を賜り、常陸国造に任じられた。【続日本紀による。○「小」は「子」とも作る。】仁明天皇の時代に、相模大住郡大領壬生直広主がいた。【続日本後紀による。】陽成天皇の時代に、甲斐巨麻郡の人で左近衛将曹の壬生直益成が、本貫を山城愛宕郡に改めた。【三代実録による。】鳥羽天皇の時代に、相模権少目宿禰弘重がいた。鳥羽天皇の時代に、伊勢少目壬生宿禰為由がいた。【除目大成抄による。○日本書紀には、持統天皇の時代に兵衛生部連虎が見える。続日本紀には、光仁天皇の時代に外従五位下生部直清刀自が見える。日本後紀には、桓武天皇の時代に常陸の人・生部連広成が見える。「生部」と「壬生部」は訓・義がおそらく同じであり、あるいは同族であろう。ひとまずここに付記する。】

鴨部氏は、摂津を本貫とする。崇神天皇の後裔である。【姓氏録による。】

佐自努氏は、公姓で、河内を本貫とする。豊城入彦命の後裔である。【姓氏録による。】

我孫氏。【○あるいは「阿比古」、また「網引」とも書く。】公姓で、和泉を本貫とする。また姓を持たない者もあり、摂津を本貫とする。いずれも豊城入彦の子・八綱田の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、遠江浜名郡少目我孫公島道がいた。【東大寺正倉院文書による。】称徳天皇の時代に、備後蘆田郡の孝子網引公金村がいた。【続日本紀による。】光孝天皇の時代に、侍医阿比古氏雄がいた。【三代実録による。○除目大成抄によれば、後冷泉天皇の時代に河内大目阿比古宿禰吉則がいた。鳥羽天皇の時代に讃岐少目我孫宿禰吉友が、高倉天皇の時代に伊勢少掾我孫宿禰重吉がいた。宿禰の出自は詳らかでなく、付記して後考を待つ。】

秋原氏は、我孫公を出自とする。仁明天皇の時代に、河内の人・我孫公諸成、および阿比古道成らが秋原朝臣の姓を賜った。【続日本後紀による。】

伊気氏は、河内を本貫とする。豊城入彦の四世孫・荒田別の後裔である。【姓氏録による。】

孔王部氏は、首姓で、河内を本貫とする。安康天皇の後裔である。【姓氏録による。】

酒人小川氏は、真人姓で、右京を本貫とする。継体天皇の皇子・菟王の後裔である。【姓氏録による。】

御原氏は、真人姓で、左京を本貫とする。敏達天皇の皇子・彦人大兄王の後裔である。【姓氏録による。】

成相氏は、真人姓で、右京を本貫とする。敏達天皇の皇子・難波王の後裔である。【姓氏録による。】

茨田氏は、真人姓で、左京を本貫とする。敏達天皇の皇子・大股王の後裔である。【姓氏録による。○本書では敏達天皇の孫とするが、今は日本書紀に従う。】

池上椋人氏は、左京を本貫とする。敏達天皇の孫・百済王の後裔である。【姓氏録による。○「孫」は「子」とも作るが誤りである。】

倭川原氏は忌寸姓で、河内を本貫とする。武甕槌神の十五世孫・彦振根命の後裔である。【姓氏録による。】

矢作氏は、連姓で、河内を本貫とする。経津主命の後裔である。【姓氏録による。】廃帝の時代に、甲斐都留郡散位矢作部宮麻呂、下総相馬郡の人・矢作真足らがいた。【東大寺正倉院文書による。】清和天皇の時代に、都留郡大領矢作部宅雄、同姓の少領毎世が連姓を賜った。【三代実録による。○按ずるに、続日本紀によれば、称徳天皇の時代に矢作造辛国が宿禰を賜り、間もなく元の姓に復した。除目大成抄によれば、後冷泉天皇の時代に近江少掾矢作宿禰延清がいた。いずれも同族であろうか。ひとまずここに付記する。】

春日部氏は、村主姓で、山城を本貫とする。津速魂命の三世孫・大田諸命の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、山背愛宕郡の人・春日部村主麻夜売がいた。【東大寺正倉院文書による。○本書には「村主」を「主村」に作るが誤りであり、今これを訂正する。】称徳天皇の時代に、因幡の人で外従五位下春日戸村主大田、およびその子で本国博士の人足がいた。【続日本紀による。○東大寺正倉院文書によれば、文武天皇の時代に美濃味蜂間郡春部里の人・春部黒麻呂がいた。その同籍に春日氏がある。「春日」はおそらく「春日部」と同じであろう。また三代実録によれば、清和天皇の時代に上総夷灊郡の節婦春日部直黒主売がいた。しかしいずれも出自が詳らかでなく、ひとまずここに付記する。】

大辟氏は、山城を本貫とする。大田諸命の後裔である。【姓氏録による。】

大鹿氏は、首姓で、右京を本貫とする。津速魂の三世孫・天児屋命の後裔である。【姓氏録による。】敏達天皇の時代に、采女で伊勢の人・大鹿首小熊女がいて、夫人に立てられた。【日本書紀による。】孝謙天皇の時代に、伊勢の大鹿首【○名は欠けている。】が叙爵にあずかった。【続日本紀による。○按ずるに、本書には廃帝の時代に大鹿臣子虫が見えるが、その一族は分からず、ひとまず付記する。】後冷泉天皇の時代に、河曲神戸預大鹿武則がいた。【大神宮雑事記による。】一条天皇の時代に、文殿使部大鹿善忠・友忠がいた。【類聚符宣抄による。】後一条天皇の時代に、大鹿致俊がいた。【小友記による。】後鳥羽天皇の時代に、伊勢介大鹿俊光、総大判官代大鹿国忠がいた。【東鑑による。】また宿禰姓の者もあり、白河天皇の時代に、伊勢大掾大賀宿禰国親、同姓の権少掾則俊がいた。【除目大成抄による。】おそらく同族であろう。

中臣栗原氏は、連姓で、右京を本貫とする。天児屋の十一世孫・雷大臣の後裔である。【姓氏録による。】光仁天皇の時代に、右京の人・正六位上栗原勝子公が言うには、「先祖の伊賀都臣は、【○「栗」は「柴」とも作る。今、本書の一本および和名抄によってこれを訂正した。○按ずるに、伊賀都臣とは雷大臣のことである。】実は中臣の遠祖である天御中主尊の二十世孫・意美佐夜麻の裔である。【○按ずるに、意美佐夜麻とは臣狭山のことである。】伊賀都臣は神功皇后の時代に、百済へ使者として遣わされ、蕃国の婦を娶って日本大臣を生んだ。日本大臣は遠くその出自を思い、本朝に帰り仕えた。美濃不破郡栗原の地を賜ってそこに居住した。その後、居所にちなんで氏を名づけ、栗原勝と称した。伏してお願い申し上げますに、姓を改めて中臣栗原連を賜りたく存じます」と。これを許した。【続日本紀による。○按ずるに、本書によれば、これより先に外従五位下柴原勝・浄足が、ともに宿禰を賜っている。「柴」は「栗」とも作り、これもまた同族である。】桓武天皇の時代に、文章生中臣栗原連年足がいた。【経国集による。】

津島氏は、直姓で、摂津を本貫とする。雷大臣の後裔である。【姓氏録による。】

三間名氏は、公姓で、河内を本貫とする。雷大臣の後裔である。【姓氏録による。】一条天皇の時代に、博士美麻那宿禰直節がいた。【類聚符宣抄による。】あるいは同族であろう。

内原氏は、直姓で、河内を本貫とする。狭山命の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、狭山とはおそらく臣狭山のことであり、それゆえここに序する。】廃帝の時代に、紀寺の賤民真玉女ら五十九人を放って良民とし、内原直の姓を賜った。真玉女らは紀伊氷高郡の人で、内原直牟羅の子孫である。持統天皇の庚寅の年より誤って奴婢とされていたが、この時に至って旧に復した。【続日本紀による。】

波多祝氏は、大和を本貫とする。高皇産霊尊の孫・治方の後裔である。【姓氏録による。】

日置部氏は、和泉を本貫とする。天櫛玉命の子・天櫛耳命の後裔である。清和天皇の時代に、但馬美含郡の節婦日置部小手子がいた。陽成天皇の時代に、但馬気多郡の人で従八位上日置部是雄がいた。【姓氏録による。清和天皇以下は三代実録による。】

大辛氏は、右京を本貫とする。天押立命の四世孫・剣根命の後裔である。【姓氏録による。】

工氏は、首姓で、和泉を本貫とする。神皇産霊尊の後裔である。【姓氏録による。】

日下部氏は、首姓で、摂津を本貫とする。天日鷲命の六世孫・保都禰命の後裔である。【姓氏録による。】

物部氏は、首姓で、山城を本貫とする。神饒速日命の後裔である。また姓を持たない者もあり、右京を本貫として饒速日の六世孫・伊香色雄の後裔である。【姓氏録による。】

椋椅部氏。【○「倉橋部」とも作る。】連姓で、摂津を本貫とする。伊香色雄の後裔である。【姓氏録による。】孝謙・称徳天皇の間に、武蔵荏原郡の人・椋椅部刀自売、同姓で豊島郡上丁の荒虫、橘樹郡の人・弟女、および信濃水内郡の人・倉橋部広人がいた。【万葉集による。以下は続日本紀による。】仁明天皇の時代に、僧寿遠がいて、椋橋部氏を称し、これも武蔵の人であった。【続日本後紀による。】後一条天皇の時代に、尾張丹羽郡大領椋橋宿禰惟清がいた。【類聚符宣抄による。】あるいはみな同族であろう。【姓氏録による。○拾芥抄には倉橋部朝臣が見えるが、これも同族であろうか。】

尋来津氏は、首姓で、右京を本貫とする。伊香色雄の後裔である。【姓氏録による。】欽明天皇の時代に、物部尋来津首橘がいた。【中臣本系帳による。】

為奈部氏は、首姓で、摂津を本貫とする。伊香色雄の六世孫・金連の後裔である。【姓氏録による。】

大部氏は、首姓で、和泉を本貫とする。胆杵磯丹穂命の後裔である。【姓氏録による。○除目大成抄によれば、一条天皇の時代に信濃掾大部連衆延がいたが、その一族は分からず、それゆえここに付記する。】

島氏は、首姓で、摂津を本貫とする。正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の後裔である。【姓氏録による。】

真髪部氏は、和泉を本貫とする。天穂日命の後裔である。【姓氏録による。】

恵我氏は、山城を本貫とする。天穂日の後裔である。【姓氏録による。】元正天皇の時代に、正六位上恵我宿禰国成がいた。【続日本紀による。】嵯峨天皇の時代に、河内錦部郡の僧善議がいたが、もとの姓は恵賀連であった。【日本後紀による。】あるいはみな同族であろう。

薦集氏は、造姓で、大和を本貫とする。天津彦根命の後裔である。【姓氏録による。】天武天皇十一年に、薦集造のうちに連姓を賜った者がいた。【日本書紀による。】あるいは同族であろう。【○按ずるに、日本書紀欽明紀には薦集部首登弭が見えるが、その一族は詳らかでなく、ひとまずここに付記する。】

茨木氏は、造姓で、和泉を本貫とする。犬上氏は、県主姓で、大和を本貫とする。いずれも天津彦根の後裔である。【姓氏録による。】

葦田氏は、首姓で、大和を本貫とする。天津彦根の子・天麻比止津命の後裔である。【姓氏録による。】

忍坂氏は、連姓で、右京を本貫とする。火明命の後裔である。【姓氏録による。】孝徳天皇の時代に、押坂連がいた。【日本書紀による。○名は欠けている。】

凡海氏は、連姓で、右京を本貫とする。山代氏は、直姓で、山城を本貫とする。いずれも火明の後裔である。【姓氏録による。】

川内漢人氏は、摂津を本貫とする。火明の九世孫・否井命の後裔である。【姓氏録による。】文徳天皇の時代に、備中下道郡の人で大学助教の西漢人宗人が滋善宿禰の姓を賜り、左京に隷した。【文徳実録・三代実録による。】あるいは同族であろう。

山氏は、首姓で、摂津を本貫とする。火明の十一世孫・尾張屋主都久代命の後裔である。【姓氏録による。】

住道氏は、首姓で、摂津を本貫とする。素戔嗚尊の後裔である。【姓氏録による。】

野実氏は、連姓で、右京を本貫とする。大己貴命の後裔である。元明天皇の時代に、野見連諸上がいた。【姓氏録による。元明天皇以下は東大寺古文書による。】あるいは同族であろう。

三歳祝氏は、大和を本貫とする。大田田根子の後裔である。【姓氏録による。】

安曇氏は、連姓で、河内を本貫とする。于都斯奈賀命の後裔である。【姓氏録による。○于都斯奈賀は、宇都志日金拆のことではないかと思われる。説は神別安曇連の条に見える。】

葦田氏は、臣姓で、河内を本貫とする。都卑古命の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、「卑」は「早」とも作るが、おそらく誤りであろう。延喜式によれば、河内讃良郡に津桙神社がある。「津桙」と「都卑古」は音訓が通じ合い、おそらくこれが本氏の祖神であろう。】

新家氏。【○「家」はあるいは「屋」とも作る。】首姓で、河内を本貫とする。汙麻斯鬼足尼命の後裔である。【姓氏録による。○汙麻斯鬼は、汙麻斯魔尼の訛りではないかと思われる。旧事本紀によれば、宇麻志麻治命の後裔に新家連があり、おそらくこれも同族であろう。】

靫編氏は、首姓で、河内を本貫とする。神志波移命の後裔である。【姓氏録による。】

伯太氏は、首姓で、和泉を本貫とする。天表日命の後裔である。【姓氏録による。○「伯太首」の下に、一本には「神人」の二字がある。】

葛城氏は、直姓で、摂津を本貫とする。天神立命の後裔である。【姓氏録による。】

凡人氏は、和泉を本貫とする。神汙久宿禰命の後裔である。【姓氏録による。】

阿刀部氏は、摂津を本貫とする。山都多祁流比女命の四世孫・毛能志乃和気命の後裔である。【姓氏録による。】文武天皇の時代に、御野山方郡の人・阿斗部古都売がいた。【東大寺正倉院文書による。】

原氏は、造姓で、右京を本貫とする。饒速日の従者である天物部峴度造の後裔である。【姓氏録による。】

物集氏は、連姓で、右京を本貫とする。また姓を持たない者もあり、山城を本貫とする。国背宍人氏は、山城を本貫とする。いずれも秦主嬴政の後裔である。【姓氏録による。○「宍」はあるいは「穴」とも作るが誤りである。】

尾津氏は、直姓で、大和を本貫とする。漢主劉邦の五世孫・大水命の後裔である。

村主氏には二流がある。大和に隷する者は、漢主邦の裔孫・受王の後裔である。【○「受」の上に、本書には脱字がある。今はひとまず「裔孫」の語を補った。】山城に隷する者は、漢師建王の後裔である。【姓氏録による。】

高安氏は、忌寸姓で、河内を本貫とする。阿智王の後裔である。【姓氏録による。】称徳天皇の時代に、高安忌寸伊可麻呂がいた。【続日本紀による。】

志賀穴太氏は、村主姓で、左京を本貫とする。漢主劉恊の子・美波夜王の後裔である。【姓氏録による。】

漢人氏は、大和を本貫とする。漢人黒の後裔である。【姓氏録による。】

穴太氏は、村主姓で、山城を本貫とする。曹氏宝徳公の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、近江坂田郡主帳穴太村主麻呂がいた。【東大寺古文書による。】醍醐天皇の時代に、左京七条令穴太村主春真がいた。【東寺文書による。】一条天皇の時代に、正六位上穴太村主道忠がいた。【類聚符宣抄による。】また穴太史老がいて、孝謙天皇の時代に近江甲賀郡員外少目となった。【東寺文書による。】穴太宿禰愛親がいて、一条天皇の時代に豊後守となった。【朝野群載による。】いずれもその一族は詳らかでない。

牟佐呉氏は、公姓で、摂津を本貫とする。呉王子青清王の後裔である。【姓氏録による。】

高向氏は、村主姓で、右京を本貫とする。呉人小君王の後裔である。【姓氏録による。】

小豆氏は、首姓で、和泉を本貫とする。呉人現養臣の後裔である。【姓氏録による。】

筆氏は、右京を本貫とする。燕人衛満の後裔である。筆を作ることに優れていたため、これを氏とした。【姓氏録による。】

百済氏は、左京を本貫とする。百済牟利加佐王の後裔である。【姓氏録による。】

氐良氏は、公姓で、右京を本貫とする。百済王意利都解の四世孫・秦羅君の後裔である。【姓氏録による。○拾芥抄に寺宿禰が見えるが、おそらくこれは同族であろう。】

広幡氏は、公姓で、山城を本貫とする。百済津王の後裔である。【姓氏録による。】

長田氏は、使主姓で、河内を本貫とする。百済為君王の後裔である。【姓氏録による。】

舎人氏は、河内を本貫とする。百済利加志貴王の後裔である。【姓氏録による。】

大友氏は、史姓で、河内を本貫とする。百済白猪奈世の後裔である。【姓氏録による。】

船子氏は、首姓で、河内を本貫とする。百済久爾君の後裔である。【姓氏録による。】

新木氏は、首姓で、河内を本貫とする。百済伊居雷君の後裔である。【姓氏録による。】

豊村氏は、造姓で、河内を本貫とする。百済徳率古魯父佐の後裔である。【姓氏録による。】桓武天皇の時代に、豊村家長がいた。【日本紀略による。】

木氏は、勝姓で、山城を本貫とする。津留木の後裔である。【姓氏録による。○津留木について、本書はどの国の人であるかを記していない。山城蕃別の木の条には、百済人津留牙の後裔であるという。これによれば、「木」はおそらく「牙」の誤りであろう。それゆえひとまず百済の部に列した。】聖武天皇の時代に、山背愛宕郡の人・木勝族小玉売がいた。【東大寺正倉院文書による。】廃帝の時代に、紀勝賀田奈古がいた。【法隆寺良訓補忘集による。】

八股部氏は、河内を本貫とする。百済多地多祁卿の後裔である。【姓氏録による。】

堅祖氏は、右京を本貫とする。百済堅祖為智の後裔である。【姓氏録による。】

古氏は、右京を本貫とする。百済扞率玖君の後裔である。【姓氏録による。】

加羅氏は、右京を本貫とする。百済都玖君の後裔である。【姓氏録による。】

呉氏は、右京を本貫とする。百済徳率呉伎側の後裔である。【姓氏録による。】孝徳天皇の時代に、小華下吉士長丹が呉氏の姓を賜った。【日本書紀による。】醍醐天皇の時代に、僧良勇がいて、呉部氏を称し、美濃安八郡の人であった。【天台座主記による。○一本には「呉」を「忌」に作るが、おそらく誤りであろう。】あるいは同族であろう。【姓氏録による。○伊呂波字類抄に呉公が見えるが、これも同族であろうか。】

朝戸氏は、右京を本貫とする。百済胸広使主朝戸の後裔である。【姓氏録による。】

足奈氏は、左京を本貫とする。百済人で従七位下の足奈真己の後裔である。【姓氏録による。】

鋺師氏は、公姓で、大和を本貫とする。高麗宝輪王の後裔である。【姓氏録による。】

狛人氏・狛染部氏は、河内を本貫とする。いずれも高麗須牟祁王の後裔である。【姓氏録による。○按ずるに、播磨風土記によれば、仁徳天皇の時代に日向肥人朝戸君がいた。東大寺正倉院文書によれば、聖武天皇の時代に遠江磐田郡散事肥人部広麻呂がいた。東大寺古文書によれば、同じ頃、右京の人・阿多肥人牀持売がいた。「肥人」は「狛人」と訓ずるので、おそらくいずれも狛人氏の一族であろう。付記して後考を待つ。】

後部高氏には二流がある。一つは左京を本貫とし、高麗人で正六位上の後部高千金の後裔である。一つは右京を本貫とし、その国の人・後部乙牟の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、雅楽少属後部高多比がいた。【東大寺正倉院文書による。】

朝明氏は、史姓で、右京を本貫とする。高麗帯方国主氏韓法史の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、太宰少典朝明史老人がいた。【東大寺正倉院文書による。】

神人氏は、和泉を本貫とする。高麗許利都の後裔である。【姓氏録による。】

宇努氏は、連姓で、河内を本貫とする。新羅王子金庭興の後裔である。【姓氏録による。】

近義氏は、首姓で、和泉を本貫とする。新羅角折玉の後裔である。【姓氏録による。】

大賀良氏は、河内を本貫とする。新羅郎子王の後裔である。また賀良の姓もあり、河内を本貫とし、その系はいずれも同じである。【姓氏録による。】

竹原氏は、連姓で、河内を本貫とする。新羅阿羅羅国主の弟・伊賀都君の後裔である。【姓氏録による。】聖武天皇の時代に、右大舎人少属竹原連安麻呂がいた。【東大寺正倉院文書による。】

小橋氏は、造姓で、河内を本貫とする。新羅多氏使主の後裔である。【姓氏録による。】

坏作氏は、造姓で、河内を本貫とする。新羅曽生支富主人の後裔である。【姓氏録による。】

山田氏は、造姓で、和泉を本貫とする。新羅天佐疑利命の後裔である。【姓氏録による。】

三間名氏は、公姓で、右京を本貫とする。任那牟留知王の後裔である。【姓氏録による。】聖武・孝謙天皇の間に、僧観規がいて、姓を三間名干岐といい、紀伊名草郡の人であったが、おそらく同族であろう。【日本霊異記による。○続日本紀によれば、廃帝の時代に外従五位下御間名人黒女がいたが、その一族は詳らかでなく、それゆえここに付記する。】

長倉氏は、造姓で、大和を本貫とする。韓人天師命の後裔である。【姓氏録による。】