卷之二百卌五 志第二
神祇二
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶太祖神武天皇(じんむてんのう)は日向(ひゅうが)におられたとき、天つ神が国を授けたその御心をわが身に体現し、皇室の大業を大きく広げようと固く決意された。かねて塩土老翁(しおつちのおじ)から、東方に美しい土地があり、天下の中心にあってそこを拠点に天下を治めるにふさわしいと聞いていた。そこで兄君たちや皇子らと相談し、軍を率いて東征に向かわれた。このとき櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)は天つ神の子として、すでに倭国(やまとのくに)に天降って住んでいた。土地の首長である長髄彦(ながすねひこ)はこの饒速日命を主として仕えており、そのほかの土豪たちもそれぞれの土地に割拠し、統一されていなかった。皇軍が河内(かわち)に至ると、長髄彦は兵を起こして防ぎ戦った。この戦いで五瀬命(いつせのみこと)は流れ矢に当たって亡くなった。天皇は「我らは日の神の子孫でありながら、日に向かって敵を討とうとした。それゆえ勝てなかったのだ。いったん退いて神々を祀り、日の神の御威光を背負って進み戦えば、必ず敵を破れるだろう」と仰せになった。そこで軍を熊野(くまの)へと転じたが、海上で暴風に遭い、御船が漂流した。稲飯命(いないのみこと)は「我が父は天つ神、母は海の神であるのに、なぜ我を水と陸の両方で苦しめるのか」と言い、剣を抜いて海に入り、鋤持神(さいもちのかみ)となった。あるいは新羅(しらぎ)に入ってその国王になったともいう(注:「あるいは」以下は『新撰姓氏録』による)。三毛入野命(みけいりののみこと)もまた憤り、海を踏んで常世(とこよ)の郷へと去っていった。
¶それでも天皇の御心はいささかもくじけず、神々を敬い祀り、将兵を励まし、神の御威光を借りて敵をことごとく滅ぼそうとされた。ちょうどそのとき武甕槌神(たけみかづちのかみ)が高倉下(たかくらじ)に憑き、国を平定するための剣を天皇に献上させた。また天照大神(あまてらすおおみかみ)は頭八咫烏(やたがらす)を遣わして皇軍を導かせた。この国平定の剣はすなわち韴霊(ふつのみたま)であり、頭八咫烏は賀茂建角身神(かもたけつぬみのかみ)の化身であった(注:「賀茂」以下は『新撰姓氏録』による)。天皇は深く感激して「これは我が皇祖が基業の成就を助けようとなさっているのだ」と仰せになり、ついに倭(やまと)の菟田(うだ)へと進み入られた。国中には賊の勢いがなお盛んで、天皇はこれを憂えておられた。ちょうどそのころ夢に天つ神が現れて「天香山(あめのかぐやま)の社の土を取り、天平瓮(あめのひらか)や厳瓮(いつへ)を作り、天神地祇を祀って厳(いつ)の呪詛を行えば、賊はおのずと平らぐであろう」と教えた。同じころ弟猾(おとうかし)からも奏上があり、それが夢の内容と符合したので、天皇は不思議に思われた。そこで椎根津彦(しいねつひこ)と弟猾を遣わして土を取らせたが、賊兵がちょうど道をふさいでいた。天皇は「務めよ、基業が成るか否かはお前たちの行いにかかっている」と戒められた。椎根津彦らは神に祈りながら賊の陣地をまっすぐに通り抜け、ついに土を得て帰還した。
¶天皇は大いに喜び、祭器を作るよう命じられた。そして丹生川上(にうのかわかみ)に登って罰を行い、自ら「私は今、多くの平瓮(ひらか)を用いて水なしに飴(あめ)を作ろう。もし飴ができれば、私は武力に頼らずとも座したまま天下を平定できるだろう」と祈られた。また「私は今、厳瓮(いつへ)を丹生川に沈めよう。もし岩のように群がる魚がことごとく酔って浮かび上がれば、私は必ず国を定めることができ、祈ることはすべて思いのままになるだろう」とも祈られた。そして川のほとりの真榊(まさかき)を抜き取って諸神を祀られた。道臣命(みちのおみのみこと)に「私は今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)のために自ら顕斎(うつしいわい)を行う。お前は斎主となれ」と命じ、厳媛(いつひめ)の称号を授けられた。これにより、埴瓮(はにべ)を厳瓮、火を厳香来雷(いつのかぐつち)、水を厳罔象女(いつのみつはのめ)、糧(かて)を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪(たきぎ)を厳山雷(いつのやまつち)、草を厳野椎(いつののづち)と名づけ、厳瓮の供物を用いて祭りを行う慣わしはここに始まった。
¶天皇はやがて厳瓮の供物を召し上がり、軍を整えて出発された。その真心が神々に通じ、神々の光が味方となって加護した。将兵は奮い立ち、向かうところ必ず勝利を収めた。人々は皆その御威光を畏れて「天壓神(あめおすのかみ)」と称えた。饒速日命(にぎはやひのみこと)はその子の可美真手命(うましまでのみこと)とともに長髄彦を殺し、部下を率いて帰順した。こうして賊はことごとく平らげられ、日本の国はここに大いに定まった(注:『日本書紀』による。饒速日以下は『先代旧事本紀』も参照した)。こうして橿原(かしはら)に都を定め、初めて神籬(ひもろぎ)を建てて高皇産霊尊以下の八柱の神を祀った。神祇官(じんぎかん)の八神殿の起源はここにある。道臣命・大久米命(おおくめのみこと)は宮門を守衛し、可美真手命は儀仗を整え、天富命(あめのとみのみこと)は天祖から伝わる八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を正殿に安置し、多くの幣物(へいもつ)を並べて大殿と宮門を祀った。天種子命(あめのたねこのみこと)は天神の寿詞(よごと)を奏上した。天下四方を大いに朝させ、即位の礼を正しく行われた。その儀礼はおおむね天祖の古式に従ったものであった(注:『古語拾遺』による。『先代旧事本紀』も参照した)。この件はさらに礼楽志・兵志にも見える。
¶可美真手命は詔を受けて韴霊(ふつのみたま)を御殿の中に祀り、これを建布都大神(たけふつのおおかみ)と号した。また天皇・皇后のために瑞宝(みずのたから)を祝い祀り、御魂(みたま)を鎮めて寿命を祈った。鎮魂祭(ちんこんさい)の始まりはここにある(注:『先代旧事本紀』による)。四年、詔して鳥見山(とみやま)の中に霊畤(まつりのにわ)を立て、皇祖天神を祀って大孝を申し述べられた(注:『日本書紀』による)。天皇はすでに八咫鏡を天祖の神霊として奉じ、宝剣・瓊玉とともに同じ御殿・同じ御床に置いて、天下に臨み治めておられた。この当時は、天皇と神との間はまだそれほど隔たっていなかった。神の物と官の物との区別もまだ明確ではなかった。そして天皇を補佐する大臣、たとえば中臣(なかとみ)氏・忌部(いんべ)氏は、それぞれ天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)の子孫として、代々祭事を司りながら朝政にも参与した。大伴(おおとも)氏・物部(もののべ)氏は、天忍日命(あめのおしひのみこと)・饒速日命の子孫として、もっぱら武衛を統率しながら神事にも関わった。祭祀と政治とは、一体不可分のものであった。歴代の朝廷はこの慣わしに従い、いわゆる「惟神(かんながら)の道」が行われたのである(注:『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『神皇正統記』の趣旨を参酌した。○『日本書紀』の注に、惟神とは神の道に随うこと、また自然に神の道があることをいう、とある)。
¶崇神天皇(すじんてんのう)は早くから天下を治める志を持ち、神々を敬い重んじ、とりわけ天祖を尊び、その御威光を汚すことを畏れておられた。即位六年、詔して倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に磯堅城(しかたき)の神籬を立て、天照大神と天叢雲剣を遷し奉り、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にお仕えさせられた。さらに忌部氏に詔して、石凝姥神(いしこりどめのかみ)・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の二神の子孫を率いさせ、鏡と剣の模造を作らせ、八坂瓊曲玉とともに御殿の中に安置して、身を守る御璽(みしるし)とされた。これが歴代天皇の即位の日に奉る鏡と剣である(注:「さらに詔して」以下は『古語拾遺』による)。
¶これより先、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)もまた御殿の中に祀られていたが、このとき皇女渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に命じてこれを遷し祀らせた。ちょうどそのころ災害が相次いで起こり、民は流浪していた。天皇は大いに恐れ慎み、神々に罪をお詫びになった。七年の春、神浅茅原(かんあさぢはら)に行幸し、八十万(やおよろず)の神々に祈り、占いによって災いの原因を尋ねられた。すると大物主神(おおものぬしのかみ)が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑いて「天皇はどうして国が治まらないことを憂えるのか。もし私をよく祀るならば、国はおのずと安らかになるだろう」と告げた。天皇はそこで礼を尽くして祀ったが、それでも効験は現れなかった。天皇はさらに御殿の中を掃き清め、斎戒沐浴して祈られた。すると夢に大物主神が現れて「天皇よ、もう国が治まらないことを憂えなくてよい。もし私の子である大田田根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば、国はたちまち治まり、外国からも帰服する者が現れるだろう」と告げた。ちょうどそのころ、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまとといはやかんあさぢはらのまくわしひめ)、大水口宿禰(おおみなくちのすくね)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が、それぞれ見た夢を奏上して「大田田根子を大物主神を祀る主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る主とすれば、天下は必ず太平になるでしょう」と述べた。天皇は大いに喜び、天下に詔して大田田根子を探させ、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つけ出された。天皇は再び神浅茅原に行幸し、王卿や多くの部民を集めて大田田根子を召し出して尋ね、彼が確かに大物主神の子孫であると知って「民はきっと幸せになるだろう」と仰せになった。そこで伊香色雄(いかがしこお)を神々の物を分配する者とすることを占うと吉と出た。また他の神を祀るのに便宜的な方法をとることを占うと不吉と出たので、伊香色雄に天平瓮(あめのひらか)を作らせた(注:「四字」は『古事記』による)。大田田根子に大物主神を祀らせ、長尾市には倭大国魂神を祀らせた。その後、他の神を祀ることを占うと吉と出た。そこであらためて八十万の神々を祀り、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)や神地(かんどころ)・神戸(かんべ)を定められた(注:『日本書紀』による)。ちょうど大風雨が作物を害したので、天皇はいっそう憂い恐れられた。夢に天御柱神(あめのみはしらのかみ)・国御柱神(くにのみはしらのかみ)と名乗る神が現れ、「布帛(ぬのきぬ)や矛盾(ほことたて)などの品々を捧げて私を祀れば、五穀は必ず豊かに実るだろう」と諭した(注:『延喜式』による)。
¶このとき香島大神(かしまのおおかみ)が大坂山(おおさかやま)に降臨し、人に憑いて「天皇が私を祀れば、その治める国は大小を問わずことごとく皇化に帰するだろう」と告げた(注:『常陸国風土記』による)。そこで詔して龍田(たつた)に祠を建て、天御柱神・国御柱神の二神を祀り(注:『延喜式』による)、香島神宮(かしまじんぐう)にも幣帛(へいはく)を奉られた(注:『常陸国風土記』による)。
¶八年、高橋邑(たかはしのむら)の人である活日(いくひ)を大神(おおみわ)の掌酒(さかびと)とし、大田田根子に神を祀らせた。天皇が神宮に行幸すると、活日が酒を献上した。天皇は多くの大夫たちとともに宴を開いて酒を酌み交わし、歌を詠んで大いに楽しまれた。翌年、天皇は夢のお告げに感じ入り、赤い盾と矛を宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、黒い盾と矛を大坂神(おおさかのかみ)に奉り、こうして多くの神々を遍く祀り、至誠を尽くして祈られたので、神々はことごとく応え喜ばれた。風雨は順調になり、多くの穀物が実り、疫病は自然に治まって、国内は安らかになった(注:「翌年」以下は『古事記』も参照した)。
¶こうして四方の異民族にまで力を伸ばし、遠方の民や夷(えびす)たちもことごとく王化に服した。そこで初めて人民を調査し、男には弓弭調(ゆはずのみつぎ)、女には手末調(たなすえのみつぎ)を定め、初めて熊や鹿の皮・角や布などの品を用いて神々を祀られた(注:「初めて用いる」以下は『古語拾遺』による)。
¶六十年、詔して武諸隅(たけもろすみ)を遣わし、出雲(いずも)の神宮の宝器を取り寄せさせた。出雲振根(いずものふるね)は罪あって誅せられた。出雲臣らは恐れ惑い、神を祀ることができなくなった。そのころ丹波(たんば)の氷上(ひかみ)の人である氷香戸辺(ひかとべ)の子が語った言葉に不思議なことがあった。氷香戸辺はこれを神懸かりであると思い、皇太子に申し上げた。皇太子がこれを奏上したので、出雲臣に詔して再び神を祀らせるようにされた(注:『日本書紀』による)。
¶垂仁天皇(すいにんてんのう)の二十五年、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)に詔して、あらためて神地を占い定めさせ、天照大神を祀らせられた。そこで武渟川別(たけぬなかわわけ)・彦国葺(ひこくにぶく)・大鹿島(おおかしま)・十千根(とちね)・武日(たけひ)の五人の大夫を、道中を送る使者とされた。倭姫命は大神を奉じて、倭(やまと)の美和(みわ)の三輪御諸宮(みわのみもろのみや)から伊賀(いが)に入り、近江(おうみ)・美濃(みの)・尾張(おわり)を経て伊勢(いせ)に至られた。そこへ大田命(おおたのみこと)がやって来て「五十鈴川(いすずがわ)のほとりに良い土地があります。そこに神宮を興されるのがよいでしょう」と申し上げた。倭姫命がその地を見て回ると、ちょうど神のお告げがあり「私はこの国に住みたい」と告げられた。そこで川のほとりに斎宮(いつきのみや)を築いて神霊を鎮め祀り、永遠の神宮と定められた。倭姫命にお仕えさせられた。この地こそ、天祖が初めて天から降臨された場所であるという。
¶このとき倭姫命が通られた諸国の国造(くにのみやつこ)・県造(あがたのみやつこ)らは、多くの良田を献上し、神地として定められた。そこで神庤(かんどころ)を立てて雑務を司らせた。天見通命(あめのみとおしのみこと)を禰宜(ねぎ)とし、皇位の永続と天下の安寧を祈り、五穀豊穣を拝み願われた。天見通命は天児屋命の子孫で、荒木田(あらきだ)の神主の祖である。大田命は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の子孫で、宇治土公(うじのつちぎみ)の祖である。もともと天祖がまだ天上におられたとき、猿田彦神と幽契(ひそかな約束)を結んでおり、その神が先にこの地に降り住んでいたのには、深い理由があったのだという(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』『大神宮儀式帳』『倭姫命世記』を参照した)。
¶このとき、倭大神(やまとのおおかみ)が大水口宿禰に憑いて告げるには、「大昔に約束があった。天照大神はことごとく天原(あまはら)を治め、皇孫はもっぱら葦原中国(あしはらのなかつくに)の八十魂神(やそのたまのかみ)を治め、私は自ら大地の官を治める、と。この神の契りはすでに定まっていたのに、先の天皇たちは神を祀るにあたり、根本を尋ねずに枝葉にばかり心を留めた。だから福運が保たれなかったのだ。今もし過ちを悔い改め、まことに慎んで祀るならば、皇孫の寿命は長く、天下は清く平らかになるだろう」と。天皇はそこで探湯主(くがぬし)にこれを占わせ、穴磯邑(あなしのむら)を神地と定め、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に詔して大市(おおいち)の長岡岬(ながおかのみさき)で神を祀らせ、やがて長尾市宿禰にこれを代わらせられた。
¶二十七年、詔して弓矢や横刀(たち)を諸社に奉らせ、さらに神地・神戸を定めて、武器を祭りの幣物とすることがここに始まった(注:○考えるに、崇神天皇の御代にすでに矛や盾を神に奉っており、武器で神を祀ること自体はこの時に始まったわけではない。おそらくこれ以後、恒例の作法として定められ、諸神に奉るようになったのであろう)。そもそも太祖が神の御威光によって天下を定めて以来、歴代の天皇はみな神を敬い武を尊ぶことを政治と教化の根本とされ、我が国の国体が尊厳であるゆえんも、実にここに基づいている。
¶三十九年、これより先、建布都大神(たけふつのおおかみ)を石上神宮(いそのかみじんぐう)に遷し祀っていた(注:「これより先」以下は『先代旧事本紀』による)。このとき皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が剣一千口を作らせて神宮に納め、その神宝を司ることを命じられた。五十瓊敷入彦命は後にその職を妹の大中姫命(おおなかつひめのみこと)に譲り、大中姫命はさらに物部大連十千根(もののべのおおむらじとちね)にこれを司らせた。これ以後、物部氏が代々石上の神宝を司ることとなった。
¶景行天皇(けいこうてんのう)の四十年、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして東の夷(えびす)を征伐させられた。日本武尊は容姿が堂々として、武勇は並ぶ者がなかった。天皇はことのほか彼を愛し重んじ、「姿は我が子だが、その実は神のごとき人物だ。これは天が朕を助けて天下を平定させようとしているのだ」と仰せになった。そこで先には熊襲(くまそ)を討たせるために遣わし、今度もまた愛する我が子を割いて遣わされた。あらかじめ皇太子に立てることを心づもりし、その功績が成るのを待たれた。日本武尊は伊勢を通る際に大神宮(だいじんぐう)を拝み、倭姫命から天叢雲剣を授かって出発した。駿河(するが)に至って土地の賊の難に遭ったが、日本武尊は剣を抜いて草を薙(な)ぎ払い難を逃れた。これにより剣の名を改めて草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ぶようになった。こうして山や川を越えて進み、東国をことごとく平定した。凱旋の途中で病のために亡くなられた(注:『日本書紀』による)。その御霊は神剣に宿り、東国に留まってこれを鎮めることとなった。尾張氏(おわりうじ)が代々その祭祀を奉じており、これが熱田大神(あつたのおおかみ)である(注:『日本書紀』『古事記』『熱田社縁起』を参照した)。
¶天皇は七十余人の皇子を国や県に封じられた。成務天皇(せいむてんのう)の代になると、さらに国造・県主を増やして置き、みな矛や盾を印として授けられた(注:『日本書紀』による。『古事記』『先代旧事本紀』も参照した)。このころ、国造・県主はみな天皇や神々の子孫として、代々その領地を受け継ぎ、その祖先の祭祀を奉じつつ、矛盾を執ってその土地を鎮め守った。それゆえ大小の国や県は、それぞれ祖先伝来の職務を守り、朝廷に仕えていた。朝廷で大きな祭祀があれば、朝廷内では臣(おみ)・連(むらじ)・伴(とも)・造(みやつこ)が、朝廷外では国造・県主が、それぞれ祖先から受け継いだ職務をもってこれに奉仕した。天皇はその誠実で変わらぬ心を一つに集めて天祖にお仕えになった。だからこそ日本国中、神の徳を仰いで皇化に服さない者はいなかったのである(注:『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』の趣旨を参照した)。
¶神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓(さんかん)を征伐されたのは、まことに神の勅命を受け、神の助けがあってのことであった。その国を平定した後、住吉大神(すみよしのおおかみ)の荒魂(あらみたま)をその地に祀り、国を鎮める神とされた(注:「祀り」以下は『古事記』による)。凱旋の後には、穴門(あなと)の山田邑(やまだのむら)にも祠を立て、その荒魂を祀られた。
¶翌年、神のお告げによって天照大神の荒魂を広田国(ひろたのくに)に、稚日女神(わかひるめのかみ)を活田長峡国(いくたのながおのくに)に、事代主神(ことしろぬしのかみ)を長田国(ながたのくに)に、住吉三神(すみよしさんしん)の和魂(にぎみたま)を大津渟中倉(おおつのぬなくら)の長峡に祀られた(注:『日本書紀』による)。次いで美奴売神(みぬめのかみ)を美奴売浦(みぬめのうら)に(注:仙覚『万葉抄』が引く『摂津国風土記』による)、爾保都比売神(にほつひめのかみ)を紀伊(きい)の管川(すがかわ)の藤代峰(ふじしろのみね)に祀られたが(注:『釈日本紀』が引く『播磨国風土記』による)、これらはみな神の助けに対する報賽(ほうさい)の礼であった。
¶応神天皇(おうじんてんのう)の丁卯(ひのとう)の年、新羅(しらぎ)が命に背いた。天皇は皇太后とともに天つ神に祈りを捧げ、武内宿禰(たけしうちのすくね)にこれを議論させ、千熊長彦(ちくまのながひこ)を使者として責め問わせられた。その結果、成果を収めた。
¶履中天皇(りちゅうてんのう)の五年、これより先、車持君(くるまもちのきみ)が筑紫(つくし)に赴いた際、ほしいままに車持部(くるまもちべ)を調査し、あわせて神に奉仕すべき者まで奪い取っていた。このとき胸形神(むなかたのかみ)がこれを咎めたことがわかり、天皇は車持君を厳しく譴責し、その部民を取り上げて胸形神に献上させられた。
¶この年、天皇は淡路(あわじ)で狩りをされたが、伊弉諾神(いざなぎのかみ)のお告げによって、飼部(かいべ)に入れ墨を施す刑を止められた。
¶雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の九年、凡河内直香賜(おおしこうちのあたいかたぶ)を遣わして胸形神を祀らせたが、香賜は祭祀を慎まなかったため誅せられた。天皇は自ら新羅を征伐しようとされたが、神のお告げがあったため実現しなかった。そこで紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)らを遣わして討たせたが、うまくいかなかった。そのころ高麗(こま)が百済(くだら)を侵していたため、天皇は百済に勅して中国(なかつくに)の建国の神を祀らせ、その国を復興させられた。当時、外国はみな中国(日本)を畏れ服し、「神国(しんこく)」と称えていた。その上表文には常に「天上には神があり、地には天皇がある」と記されていた。朝廷をこのように仰いだのは、まことに神を敬い武を尊んだ余徳によるものである(注:『日本書紀』による)。
¶二十一年、天皇は夢の中で天照大神から「私は一人ここにいるが、食事を司る神がそばにいないので、安らかに食事を楽しむことができない。豊宇気毗売神(とようけびめのかみ)をここに遷し祀るがよい」とのお告げを受けられた。天皇は驚いて目を覚まされた。翌年、大佐佐命(おおささのみこと)に詔して丹波(たんば)に至り神を迎えさせ、大神宮の西の山田原(やまだはら)に遷し祀らせられた。これがすなわち度会宮(わたらいのみや)である(注:『止由気宮儀式帳』による。『倭姫命世記』も参照した)。大佐佐命の子孫は代々神主となった(注:『豊受宮禰宜補任次第』による)。これ以降、二つの宮をあわせて伊勢大神宮(いせのだいじんぐう)と呼ぶようになった(注:『延喜式』による)。
¶顕宗天皇(けんぞうてんのう)の三年、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が任那(みまな)へ使者として赴いたとき、月神(つきのかみ)が人に憑いて「私の祖である高皇産霊神(たかみむすひのかみ)には、まことに天地を鋳造した功績がある。民と土地を献上し、慶福を祈るがよい」と告げた。事代は帰国してこれを奏上した。そこで歌荒樔田(うたあらすだ)を奉り、押見宿禰(おしみのすくね)に命じてお仕えさせられた。日神(ひのかみ)もまた人に憑いて事代に「磐余(いわれ)の田を高皇産霊神に献上せよ」と告げた。そこで田十四町を献上し、対馬下県直(つしまのしもつあがたのあたい)に祀らせられた。
¶欽明天皇(きんめいてんのう)の十三年、百済の王である明王(めいおう)が初めて仏像を献上した。天皇が「これを礼拝すべきかどうか」と問われると、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)と中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は「国家の祭祀には昔からの決まった典礼があります。今さら仏を拝めば、必ず神の怒りを招くでしょう」と奏上した。天皇はこれに従い、仏像を蘇我稲目(そがのいなめ)に授けられた。まもなく疫病が大流行し、多くの民が若くして亡くなった。尾輿と鎌子は再び「仏法を廃棄して、この後の幸いを祈るべきです」と奏請した。天皇はこれを受け入れ、「仏像を堀江(ほりえ)に投げ捨てよ」と詔された。すると天下に大風雨が起こり、民は憂い恐れた。勅使の卜部伊吉若日子(うらべのいきのわかひこ)がこれを占うと、「賀茂神(かものかみ)のたたりである」と出た。そこで日を選んで賀茂神を祀った。賀茂祭(かものまつり)の始まりはここにある(注:「そのころ」以下は『袖中抄』が引く『賀茂縁起』、『本朝月令』が引く『秦氏本系帳』、『河海抄』による)。
¶十五年、百済の王である明王が新羅に攻め殺された。翌年、その王子である恵(え)を本国に帰された。蘇我稲目は恵を諭して「昔、大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと、雄略天皇)の御代、汝の国は高麗に滅ぼされようとした。天皇は神々からお告げを受け、汝の国に我が国の建国の神を祀らせられた。そのおかげで国は無事であった。この神こそ、天地が初めて分かれたときに国家を造り立てた神である。近ごろ聞くところでは、汝の国ではこの神を祀らなくなっているという。今、過ちを悔いて敬い祀れば、国は必ず再び栄えるだろう。汝、決して忘れるな」と述べた。しかし稲目とその子の馬子(うまこ)らは、もとより仏法を崇め、神々を軽んじていた。そのため天下には災いや疫病がしきりに起こり、多くの民が疫病で亡くなった。
¶敏達天皇(びだつてんのう)は晩年、大連物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)と大夫中臣勝海(なかとみのかつみ)の言葉を用いて仏法を廃絶し、災害を鎮めようとされた。
¶やがて天皇が崩御され、用明天皇(ようめいてんのう)が即位された。用明天皇は神道を尊びながらも、仏教も信じておられた。二年、新嘗(にいなめ)の祭りの際、天皇は病を得て宮に戻られ、三宝(さんぽう、仏教)に帰依することを議論させられた。守屋と勝海は「神に背いて仏を礼拝するなど、聞いたことがありません」と強く諫めたが、馬子はついに僧を宮中に引き入れた。これにより三人の間の怨恨はいっそう深まった。天皇が崩御されると、ついに武力による争いにまで至った。
¶馬子は外戚としての権力を頼み、厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)と深く結びついて、守屋と勝海を殺した。まもなく大逆の行いに及び、推古天皇(すいこてんのう)を擁立した。馬子は自ら権勢をほしいままにし、皇太子と心を合わせて、神を軽んじ仏にへつらい、はばかるところがなかった。天皇は馬子が母方の伯父であることから、その振る舞いを許しておられた。それでも天皇は「祖宗が天下を治めるにあたっては、神を敬うことを根本としてきた。祭祀をどうして怠ってよいだろうか」と仰せになり、皇太子と大臣に詔して百官を率いて神々を礼拝させられた。しかしこれ以後、仏法はますます盛んになり、上代以来の神を尊ぶ気風は衰えていった。
¶舒明天皇(じょめいてんのう)の四年、唐の使者である高表仁(こうひょうじん)らが来日した。難波館(なにわのむろつみ)に招き、神酒(みき)を賜られた。これ以後、外国の使者が入朝するたびに、必ず住道(すみのみち)・生田(いくた)の神酒を賜ることが永久の慣例となった(注:「これ以後」以下は『延喜式』による)。
¶皇極天皇(こうぎょくてんのう)の御代に至り、蘇我氏の専横は極まっていた。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は中臣連鎌足(なかとみのむらじかまたり)の策を用いて入鹿(いるか)父子を誅し、乱を治めて正道に戻し、孝徳天皇(こうとくてんのう)を助け支え、自らは皇太子となって多くの政務を補佐された。
¶大化元年、大臣・伴造(とものみやつこ)らに詔して民を治める道について議論させられた。大臣の蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)は「まず神々を鎮め祀り、その後に政治を議論すべきです」と奏請した。そこで尾張(おわり)・美濃(みの)に使者を遣わし、神への供物を課された。この秋、東国の国司を任命し、天つ神の命に従って新たに万国を治めるよう諭された。こうして様々な法制を定められた。
¶翌年、さらに公卿(くぎょう)や臣・連・国造・伴造らに「皇祖歴代の天皇は、汝らの祖先とともに天下を治めてきた。今、朕もまた神々の加護を頼み、汝らとともに天下を治めたいと思う。汝らは自らを正して人を正すべきである。もし自らを正さない者があれば、必ず天の罰を受けるであろう。慎まずにいられようか」と諭された。かつて皇太子は逆臣の排除を大神宮に祈られたが、まもなくその逆臣は誅せられた。この年、使者を遣わして神宝を奉り、そのお礼をされた(注:「かつて」以下は『大神宮雑事記』による)。
¶三年、詔して「そもそも天つ神はこの中つ国(なかつくに)を慈しみ、子孫が治めるべき地とされた。それゆえ天地開闢の初めより、皇孫が君臨し、天下は一つに定まって彼我の区別はなかった。ところが近ごろ、臣・連・二造(にのみやつこ)以下、あまねく人民に至るまで、それぞれの氏族にこだわって彼我を固く分け、国政が治まりにくくなっている。今後は天つ神の命に従い、ともに治平の運を導くべきである」と仰せになった(注:『日本書紀』による)。もとより大神宮は特別に神国(かみのくに)を置き、国造にその庶務を司らせ神事に奉仕させていたが、天皇は神国の制度を廃止し、あらためて度会(わたらい)の山田原(やまだはら)と竹原(たけはら)に屯倉(みやけ)を置き、神庤司(かんどころのつかさ)を大神宮司(だいじんぐうし)と改められた(注:『大神宮儀式帳』による)。
¶五年、海上(うなかみ)・那賀(なか)の二つの国造の管轄地を割いて香島郡(かしまのこおり)を立て、常陸国(ひたちのくに)に属させて香島社(かしまのやしろ)に奉り、神郡(かみのこおり、神に捧げる特別な郡)とされた(注:『常陸国風土記』による)。その他、天下の大社で神郡を奉られたものはおよそ五か所ある。安房(あわ)の安房社(あわのやしろ)には安房郡を、出雲(いずも)の熊野社(くまののやしろ)には意宇郡(おうのこおり)を、筑前(ちくぜん)の宗形社(むなかたのやしろ)には宗形郡を、下総(しもうさ)の香取社(かとりのやしろ)には香取郡を、紀伊(きい)の日前(ひのくま)・国懸社(くにかかすのやしろ)には名草郡(なくさのこおり)を、それぞれ神郡とした。これらはおそらくこの時代に始まったのであろう(注:『令集解』『延喜式』による。○考えるに、諸国に神郡を置いたことは正史には見当たらないが、『常陸国風土記』や『大神宮儀式帳』によれば、大化の制度に始まったと思われる。それゆえここに記した)。
¶天皇はかつて生国魂社(いくくにたまのやしろ)の樹を伐らせたことがあり、世間ではこれを神道を軽んじたものと非難した。しかしその号令の発するところは、天つ神が国を委ねた御心に基づかないものはなかった(注:『日本書紀』による)。中宗(ちゅうそう、天智天皇)の甲子(きのえね)の年、大神宮の多気郡(たけのこおり)の四つの郷を割いて公郡(おおやけのこおり)とし、飯野高宮村(いいのたかみやのむら)に屯倉を立てられた(注:『大神宮儀式帳』による。中宗は『革命勘文』による称号)。
¶三年、山御井(やまのみい)のほとりに多くの神座(かみくら)を設け、幣物を分け配り、中臣連金(なかとみのむらじかね)に祝詞(のりと)を宣(の)らせられた。
¶天武天皇(てんむてんのう)は生まれながらに武勇に優れ、神を敬うことに心を用いられた。挙兵にあたっては、まず伊勢の迹太川(とおがわ)に至って大神宮を遥拝された。また神のお告げによって、馬と武器を太祖の御陵に奉られた。天下を取られた後には、高市社(たけちのやしろ)・牟狭社(むさのやしろ)の二社に幣帛を奉り、事代主神(ことしろぬしのかみ)・生霊神(いくたまのかみ)の二神を祀られた。また詔して高市・牟狭および村屋(むらや)の三神の品位(ほんい、神階)を上げて祀らせられた。これはみな、その軍中で神の助けがあったためである。
¶即位の年、大来皇女(おおくのひめみこ)を伊勢の斎王(さいおう)とされた。まず泊瀬(はつせ)の斎宮(いつきのみや)に住まわせて潔斎させられた。翌年、神宮にお入りになってお仕えになった。初斎宮(しょさいくう)の制度の始まりはここにある。
¶三年の春、諸社に幣帛を奉られた。四月には使者を遣わして龍田(たつた)・広瀬(ひろせ)の二神を祀らせられた。風神祭(かぜのかみのまつり)と大忌祭(おおいみのまつり)の二つの祭りは、ついに恒例となった。
¶四年八月、天下に詔して大解除(おおはらえ)を行わせられた。国ごとに国造は祓柱(はらえつもの)として馬一匹・布一常(ひとつね)を、郡司はそれぞれ刀・钁(くわ)・刀子(とうす)・鎌各一口と矢一具、鹿皮一張、稲一束を出させた。各戸には麻一条を出させ、その費用に充てさせられた。神官(かんつかさ)に命じて新嘗祭(にいなめさい)を行う国郡を占い定めさせ、尾張(おわり)の山田郡(やまだのこおり)を斎忌(ゆき)、丹波(たんば)の訶沙郡(かさのこおり)を次の主基(すき)とされた。十月、相嘗(あいにえ)の多くの神々に幣帛を奉られた。「相嘗」の名がここに初めて見える。十一月、新嘗祭を行われた。
¶五年、詔して「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)の神税(かんぜい)は、三分の一を神祇の供物に充て、二分を神主に給するように」と定められた。
¶六年の春、天皇は天神地祇(てんじんちぎ)を祀ろうとされ、天下に祓禊(はらえ)を行わせようとされたが、ちょうど十市皇女(とおちのひめみこ)が薨去されたため、そのことは中止となった。
¶九年正月、諸々の神祇に幣帛を頒(わか)ち配られた。畿内および諸国に詔して天社・国社・神宮を修繕させられた。五月には皇祖の御霊を祀られた。秋には天下に大解除を行わせ、国々の国造らにそれぞれ祓柱として奴婢一人ずつを出させられた(注:『日本書紀』による)。
¶十三年、二か所の大神宮を改めて造り替え、初めて神宝を運ぶ使者を発せられた(注:『園太暦』が引く『神宮旧記』、『大神宮雑事記』による)。これ以後、二十年ごとに神宮を造り替えることが恒例となった(注:『大神宮雑事記』による)。
¶朱鳥(あかみとり)元年、これより先、中宗(天智天皇)の御代に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が草薙神剣(くさなぎのしんけん)を盗んで本国に帰ろうとしたが、風雨が暗く立ち込めて先に進めず、捕らえられて処刑され、剣は宮中に納められていた。このとき天皇は病に伏せられた。占うと「神剣のたたりである」と出たので、これを熱田社(あつたのやしろ)に納め、神宮を新しく修理された(注:「捕らえられ」以下は『熱田社縁起』を参照した)。秋、天下に詔して大解除を行わせられた。紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)・国懸神(くにかかすのかみ)、飛鳥(あすか)の四社、住吉大神(すみよしのおおかみ)に幣帛を奉り、また天皇の病気平癒を神祇に祈られ、続いて土左大神(とさのおおかみ)にも幣帛を奉られた。
¶持統天皇(じとうてんのう)の三年秋、百官を神祇官に集め、天神地祇に関することを宣べられた。四年、神戸(かんべ)の田地を畿内の天神地祇に加えられた。五年、使者を遣わして信濃(しなの)の須波(すわ)・水内(みのち)の神を祀らせられた。翌年の五月、使者を遣わして大神宮以下四か所の大神に、新しく宮を造ることを告げられた。九月、神祇官が神宝の目録および印鑰(いんやく)を奏上し、続いて新羅(しらぎ)からの調(みつぎもの)を大神宮以下五社に奉られた(注:『日本書紀』による)。
¶文武天皇(もんむてんのう)の二年、旱魃(かんばつ)のため芳野(よしの)の水分峰(みくまりのみね)の神に馬を奉り、また諸社に幣帛と馬を奉り、使者を遣わして京畿の名だたる山川を祀って雨乞いをされた。雨乞いに幣帛を奉ることの始まりはここにある。三年、南島(なんとう)からの貢物を大神宮および諸社に奉られた。
¶大宝元年の夏、勅して「山背(やましろ)の葛野郡(かどののこおり)の月読神(つきよみのかみ)・樺井神(かばいのかみ)・木島神(このしまのかみ)・都都賀志神(つづがしのかみ)らの神稲(かんいね)は、今後は中臣氏に給するように」と定められた。秋には初めて造大幣司(ぞうだいへいし)という官職を置き、正五位下(しょうごいのげ)彌努王(みぬおう)と従五位下(じゅごいのげ)引田朝臣爾閉(ひけたのあそみにへ)を長官とされた。二年二月、大幣(たいへい)を分配するにあたって、駅馬を走らせて諸国の国造を京に召された。続いて畿内七道(きないしちどう)の諸社に幣帛を頒(わか)たれた。秋、勅して「大神宮の封戸(ふこ)からの物は、神の御用の物である。神事の用に準じて、決して汚し乱すことのないように」と定められた。冬、隼人(はやと)の征討を太宰府(だざいふ)管内の九つの神に祈願し、幣帛を奉ってお礼をされた。この年に令(りょう)を頒布された(注:『続日本紀』による)。神祇に関する制度は、これによっても知ることができる(注:『令義解』による)。
¶そもそも上古以来、祭祀の事は文武の大臣が司るものとされ、これを専門とする役職が別に置かれることはなかった(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』の趣旨を参照した)。垂仁天皇の御代に至り、大神宮を伊勢に遷されると、特別に供奉官(ぐぶかん)が置かれた(注:『倭姫命世記』『職原鈔』による)。それ以後、祭祀と政治とは次第に分かれていった。孝徳天皇(こうとくてんのう)の御代には神官頭(じんかんのかみ)という役職があり、斎部首作賀斯(いんべのおびとさかし)がこれを務め、もっぱら王族や宮内の礼儀・婚姻・卜占の事を司った(注:『古語拾遺』による)。この時代に至り、神祇官(じんぎかん)を立て、伯(はく)一人を置いて天下の神祇の祭祀・卜兆(ぼくちょう)・神官などの事を総轄させ、百官の上位に位置づけ、特にその職を貴ばれた。これは敬神の義を明らかにするためであろう(注:「特別に置き」以下は『職原鈔』を参酌した)。太宰府には主神(かんつかさ)一人を置き、九国三島(きゅうこくさんとう)の諸祭祀を司らせた。諸国では、それぞれの守(かみ)・介(すけ)にその国内の祠社(しゃ)を管理させられた(注:『令義解』による。九国三島は『令集解』による)。
¶そもそも天神地祇のうち祀典(してん)に列せられているものは、いずれも万物を開き大業を成し遂げ、天業を経営し皇基を助け成したもの、また天下に恵沢を広め民衆に威福を降した神々であり、その神名はみな神祇官が管掌していた(注:『日本書紀』『続日本紀』『類聚国史』『延喜式』の趣旨を斟酌した)。そもそも四季の様々な祭祀には、それぞれ定まった決まりがあった。仲春(ちゅうしゅん)には祈年祭(きねんさい)、季春(きしゅん)には鎮花祭(はなしずめのまつり)、孟夏(もうか)には神衣祭(かんみそさい)・三枝祭(さいくさのまつり)・大忌祭(おおいみのまつり)・風神祭(かぜのかみのまつり)、季夏(きか)と季冬(きとう)には月次祭(つきなみさい)・道饗祭(みちあえのまつり)・鎮火祭(ほしずめのまつり)、その月の末日には大祓(おおはらえ)を行い、孟秋(もうしゅう)には大忌祭・風神祭、季秋(きしゅう)には神衣祭・神嘗祭(かんなめさい)、仲冬(ちゅうとう)には相嘗祭(あいにえのまつり)・大嘗祭(だいじょうさい)・鎮魂祭(ちんこんさい)が行われた。神への供物や礼儀・斎戒の日程には、すべて定まった形式があった。そもそも天皇が即位されるときには、天神地祇を総じて祀り、これを大嘗と呼び、最も重要な祭祀とされた。天皇一代につき一度行われ、国司がその事を執り行い、それ以外の在京の諸司は毎年これを行い、これも通称して大嘗と呼んだが、後に新嘗(にいなめ)と称することに定められた(注:「後に定める」以下は『続日本紀』による。以下は正史による)。
¶祈年祭・月次祭では、百官が神祇官に集まり、中臣氏が祝詞を宣べ、忌部氏が幣帛を頒つ。大祓では、中臣氏が祓麻(はらえのぬさ)を差し上げ、東西の文部(ふみべ)が祓刀(はらえのたち)を差し上げて祓詞(はらえのことば)を唱える。これが終わると、男女の百官が集まる。中臣氏が祝詞を宣べ、卜部(うらべ)が解除(はらえ)を行う。そもそも大祀(たいし)は三か月の散斎(あらいみ)と三日の致斎(まいみ)を要する。大幣(たいへい)は三か月のうちに調え作られる。散斎の期間中、諸司は通常どおり事務を執るが、弔問・見舞い・肉食をしてはならず、刑罰の判断や死刑・罰の執行をしてはならず、音楽を奏してはならず、穢(けが)れに関わる事に携わってはならない。致斎の期間はただ祭祀のみを行うことが許され、それ以外はすべて禁じられる。その斎戒の前後の期間も、あわせて散斎とみなされる。三か月の斎戒を要するものを大祀、三日の斎戒を要するものを中祀、一日の斎戒を要するものを小祀という(注:○考えるに、原本には大祀の散斎は一か月とあるが、『類聚国史』によれば、これは実は大同年間の改制によるもので、もとの制度では三か月であった。原本の記述はおそらく後から改められたものであろう。それゆえ今は『類聚国史』に従って三か月とした)。
¶そもそも祭祀を司る役所はあらかじめ上に申し出て、上役は散斎の日の夜明けに諸司へこれを頒告する。そもそも祭祀に供える幣帛や飲食物、果物の類は、担当役所の長官が自ら検分し、汚れたものを混じらせてはならない。そもそも恒例の祭祀以外で諸社に幣帛を供えに赴く場合は、みな五位以上で吉と占われた者を使者に充てる。ただ大神宮だけは、恒例の祭祀であってもこれに準ずる(注:○考えるに、大神宮の使者を必ず五位以上で吉と占われた者に限ったのは、実は天平二年の制である。下文に見える。原本のこの記述はおそらく後から書き加えられたものであろう)。
¶そもそも神戸(かんべ)の租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)は、すべて神宮の造営や神への供物に充てられる。その税は義倉(ぎそう、備蓄米)に準じ、国司がこれを検分して担当役所に送る(注:『令義解』による)。そもそも大嘗の祭りは、天子が天祖と多くの神々に恩に報いるためのものであり、その礼はきわめて重く、その意義もまた厳粛である。あらかじめ悠紀(ゆき)・主基(すき)の二つの国を定め、国司がその事を執り行い、必ず占い、必ず祭り、必ず祓いを行い、その事を敬う。諸国に使者を遣わして大祓を行わせる。天子は儀式用の車駕を整えて水辺に赴き禊(みそぎ)を修め、天下にあまねく敬神の心を知らしめる。稲実卜部(いなみのうらべ)を悠紀・主基の二国に遣わし、田で稲穂を抜き取らせて酒や食事を作らせるのは、清浄を重んじるためである。参河(みかわ)の神戸は神に捧げる服を織り、阿波(あわ)の忌部は麁妙服(あらたえ)を献上する。そもそも様々な物を作るにあたっては、みな神代の慣例に従い、古くからの儀式を失わないようにする。それゆえその物を用意するにも、散斎・致斎を行い、次第に神の御心に近づいていくのである。着る物には白い衣や絹の幞頭(ぼくとう)を用い、御蓋(みかさ)には菅(すげ)を用いる。この上ない敬いには飾りがなく、古を忘れないことを表している。建物は黒木(くろき)と青草を用い、葦簀(あしすだれ)や畳・障子を用いる。衣冠は青摺(あおずり)の衣、木綿鬘(ゆうかずら)・日蔭鬘(ひかげのかずら)を用いる。食器は土器(かわらけ)や竹の籠を用い、賢木(さかき)を挿し、木綿(ゆう)を着ける。これらはみな清らかで質素であることを貴んでいるのである。斎殿(いつきどの)で祭るにあたっては、必ず清く必ず潔く、誠と敬いを極めるためである。天子は裸足になり、警蹕(けいひつ、先払い)を行わない。この上なく尊い立場でありながら、神に対してへりくだり、決して張り合おうとしないためである。天子は自ら食事を進め、酒を供え、柏手を打ち、唯(はい)と応じるのは、あたかも天つ神と直接対面しているかのようだからである(注:「自ら」以下は『江家次第』による)。
¶稲を用いて酒や食事を作り、天祖や多くの神々をもてなすのは、齋庭(ゆにわ)の稲の賜物に報いるとともに、民衆の生活への感謝を表すためでもある。絹の服や麁い服を供えるのは、織殿(おりどの)の古いしきたりを思い、養い育てられた恩に応えるためである。中臣氏・忌部氏から多くの実務担当者に至るまで、みな神々の子孫として代々その職を受け継ぎ、変えることがない。それはあたかも自らが神代の世に身を置いて直接見ているかのようであり、その祖先を忘れないためである。楽舞に古い調べや古い言葉、久米(くめ)や吉志(きし)の舞を用いるのは、みな古い出来事を語り継ぎ、古いものを保存するためである。宮への帰還にあたり警蹕を行い、常の儀式どおりに侍衛(じえい)するのは、祭りが終わったことで万乗(ばんじょう)の天子としての尊厳を示すためである。中臣氏が寿詞(よごと)を奏上し、忌部氏が鏡と剣を奉るとき、天子は静かに厳かで、群臣は謹み和らいでいる。これはあたかも改めて天祖から命を受け、また事の成就を天神地祇に告げるかのようである。楽人が大歌(おおうた)や五節(ごせち)の舞を奏するのは、神事が終わって儀式が次第に華やかになっていくことを示している。禄(ろく)を賜い位を叙するのは、恩恵を下々にまで及ぼすことである。四季の様々な祭祀に至っても、それぞれに意義がないものはない。
¶祈年祭(きねんさい)は、天下の様々な神々に時節が順調であることを祈るものである。その儀式を日の出とともに行うのは、おそらく太陽がまさに昇り万物が生まれ育つことに由来するのであろう。諸社に幣帛を奉るのは、敬神の意が四方に行き渡ることを表す。御歳神(みとしのかみ)には穀物の豊作を祈るのは、民の食を急ぐためである。大御巫(おおみかんなぎ)が斎(いつ)く神には皇位の永続を祈るのは、天業を広めるためである。座摩神(いかすりのかみ)には宮殿を鎮め護ることを祈り、天下四方を安んじる。御門神(みかどのかみ)を祀るのは非常事態に備えて警護するためで、宗社(そうしゃ、皇室)を重んじるためである。生島神(いくしまのかみ)に祈るのは遠方の地を安んじ撫でるためで、狭い地は広く、険しい地は平らかにし、多くの島々に至るまで漏れなく、恵みを四方に施すことを願うものである。御県神(みあがたのかみ)には野菜の繁茂を、山口神(やまぐちのかみ)には山林の生い茂りを、水分神(みくまりのかみ)には穀物の豊かな実りを祈るのは、みな民衆を慈しみ育てるためである。天祖に対しては、特に別の言葉で謹んで告げ、皇神(すめらみかみ)が照らし臨む地、天地の果てまで、舟や車の至るところ、行き来が絶えることなく、狭い国は広くし、険しい国は平らかにし、遠い国は近くすることを祈る。皇統が受け継がれ、皇室の基が磐石であることを祈るのは、他の多くの神々への祈りとは異なる、祖宗への特別な祈願である。
¶月次祭(つきなみさい)は、その意義は祈年祭と同じであるが、庶民における宅神祭(たくじんさい、屋敷神の祭り)になお近い。そもそも天子は天下を我が家とし、宮殿の門や垣根を自ら守り護ることから、その威徳が広く八方に及ぶことに至るまで、すべて家の中の事にほかならない。その規模の壮大さがここに見て取れる。
¶新嘗祭(にいなめさい)は、意義は大嘗祭と同じであるが、ただその儀式は簡略である。鎮花祭(はなしずめのまつり)・三枝祭(さいくさのまつり)は、民のために疫病を鎮めるものである。
¶大忌祭(おおいみのまつり)は水と雨沢の恵みを祈るものであり、風神祭(かぜのかみのまつり)は風害を鎮め、鎮火祭(ほしずめのまつり)は火災を防ぎ、道饗祭(みちあえのまつり)は悪しき鬼魅(きみ)を防ぐものである。そして大祓(おおはらえ)は、身分の上下貴賤を問わず犯した過ちや罪を祓い除き、天下とともに新たに始めるためのものである(注:『令義解』『貞観儀式』『延喜式』の趣旨による)。
¶そもそもこれらの様々な儀式については、あわせて下巻に詳しく述べる。歴代の天皇が神を敬うことに心を尽くし、民の事に力を注ぎ、根本に報い始まりに立ち返り、災いを祓い福を祈られたことは、まことに行き届いて綿密であり、その意義に備わっていないものはない。しかし大化の改新で封建の制度を廃し官制を改めて以降、大きな情勢が一変した。国造はただ祖先の祭祀を司るのみで、実際に民を治める権限を失った。臣・連・伴造もまた新たに官職を任じられるようになり、古くからの家柄が衰えることもあり、祭祀の儀式は昔ながらの形式を保ってはいても、しばしば名と実とが食い違うようになった。神に仕える礼にも、上代とは異なるものが出てきたのである(注:『日本書紀』『続日本紀』による)。
¶慶雲(けいうん)二年、婦女の結髪(けっぱつ)の制度を定められた。ただし神部(かんべ)や斎宮の宮人はもとの慣わしのままとされた(注:『続日本紀』による)。
¶元正天皇(げんしょうてんのう)の霊亀(れいき)二年六月、初めて神今食祭(じんこんじきさい)が行われ、恒例となった(注:『公事根源』による)。
¶養老(ようろう)七年、神戸(かんべ)の戸籍帳を作る制度を定められた。
¶聖武天皇(しょうむてんのう)の神亀(じんき)二年、詔して「災いを祓い福を招くには、神を敬うことを第一とする。近ごろ聞くところでは、諸国の神社の敷地には、汚れて手入れされていないものが多いという。これは敬神の礼に大いに反する。国守は自ら幣帛を執り、慎んで清掃し、常に年中の務めとするように」と仰せになった。
¶天平(てんぴょう)元年、勅して「諸国の天神地祇は、長官に祭祀を行わせよ。もし規定の枠を超えて祀るべき山川があれば、これを許可する。祝部(はふりべ)には今年の田租を免除する」と定められた。翌年には「大神宮に幣帛を奉る者は、必ず占いで吉と出た五位以上の者を遣わし、六位以下を用いてはならない」と定められた。
¶九年、疫病が流行して多くの民が亡くなったため、詔して「諸国の神祇のうち、霊験あらたかでありながらまだ幣帛の対象になっていないものは、すべて幣帛を奉る対象に加えるように」と仰せになった。
¶これより先、豊前(ぶぜん)の宇佐郡(うさのこおり)の菱形山(ひしがたやま)に、八幡神(はちまんしん)が現れたことがあった。神亀四年、神宮が造られ、広幡八幡大神宮(ひろはたのはちまんだいじんぐう)と名づけられた。これがいわゆる宇佐宮(うさのみや)である(注:「これより先」以下は『宇佐託宣集』『神名帳頭注』『諸社元記』による。『延喜式』も参照した)。これ以後、八幡神は大いに著名になった。
¶十二年、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱に際して治部卿(じぶきょう)三原王(みはらのおおきみ)を遣わし、大神宮に幣帛を奉られた。また大将軍大野朝臣東人(おおのあそみあずまひと)に詔して八幡神に祈らせられた。続いて伊勢に行幸し、少納言大井王(おおいのおおきみ)や中臣氏・忌部氏らを遣わして大神宮に幣帛を奉られた。乱が平定されると、十三年に至り、秘めた錦の冠や馬・封戸(ふこ)、あわせて出家した者十八人を八幡神に奉り、三重の塔を建てて祈願成就のお礼をされた(注:『続日本紀』による)。
¶当時、朝廷は仏法を篤く崇め、邪説に惑わされていた。それゆえ神を見る目もまた仏を見るのと同様になっていた。幣帛を奉り祈祷することは年々怠らなかったものの、仏を崇める心には勝てなかった。天皇は僧の行基(ぎょうき)を最も尊び信じ、その言葉には必ず従われた(注:『続日本紀』『元亨釈書』の趣旨による)。ただ東大寺を創建するにあたっては、神の祟りがあるのを恐れ、行基に大神宮へ許しを請わせられた。行基は神のお告げによって許可があったと奏上したが、天皇はなお疑われた。さらに右大臣橘朝臣諸兄(たちばなのあそみもろえ)に勅してこれを祈らせられた。行基は「天照る日はすなわち大日如来(だいにちにょらい)であり、その本地(ほんじ)は盧舎那仏(るしゃなぶつ)、その垂迹(すいじゃく)がすなわち天照大神である」と唱えた。こうして妖しい説を押し通し、神明を欺いたのである。しかし朝廷はその罪を正すどころか、逆にその説を信じ用い、ついに盧舎那仏の像を造ってしまった(注:『大神宮雑事記』『壒嚢鈔』を参照した)。これ以後、神のお告げにかこつけて朝廷を欺く者が、僧の行信(ぎょうしん)・最澄(さいちょう)・空海(くうかい)らと相次いで現れた(注:『続日本紀』『元亨釈書』による)。中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)のようにほとんど天下を危うくした者も、実はこの行基が悪しき前例を作ったことに由来する。
¶十七年、使者を遣わして八幡宮に幣帛を奉られた。二十年、その祝部らの位階を進められた。
¶孝謙天皇(こうけんてんのう)の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年、八幡の禰宜(ねぎ)である大神杜女(おおがのもりめ)と主神司(かんつかさ)の大神田麻呂(おおがのたまろ)の二人に朝臣(あそみ)の姓を賜られた。続いて奏上によれば、八幡大神が人に憑いて「都に上って東大寺の仏を拝みたい」と告げたという(注:「拝み」以下は『帝王編年記』『歴代皇紀』による)。そこで参議石川朝臣年足(いしかわのあそみとしたり)、侍従藤原朝臣魚名(ふじわらのあそみうおな)らを迎神使(げいじんし)として遣わし、通過する国々では兵士百人以上を差し出させて前後を警護させられた。通る道筋では殺生を禁じられた。その供の者への供給には酒肉を用いず、道を掃き清め、決して汚さないようにされた。続いて五位十人、散位(さんい)や六衛府(ろくえふ)の舎人(とねり)それぞれ二十人を遣わし、平群郡(へぐりのこおり)で神を迎えさせられた。宮の南の梨原宮(なしはらのみや)に新しい御殿を造って安置された。天皇と太上天皇(だいじょうてんのう)、皇太后は、杜女とともに東大寺を拝まれた。杜女は紫色の輿(こし)に乗り、天皇と同じく輿に乗った。そして大神と比咩神(ひめかみ)の品位を奉り、橘諸兄に命じて神に「朕は先に盧舎那仏の像を造ったが、広幡八幡大神は密かにその功を助けられた。この上ない喜びに堪えず、あえて大神に御冠を献上いたします」と告げさせられた。また杜女や田麻呂の位も進められた。
¶二年、大神と比咩神への封戸と位田を増やされ、あわせて封戸千四百戸、位田千四百町とされた。神に位田を授けることは、これに始まる。続いて八幡神のお告げによって、藤原朝臣乙麻呂(ふじわらのあそみおとまろ)を太宰帥(だざいのそち)とされた。六年、田麻呂らが薬師寺の僧である行信(ぎょうしん)とともに呪詛を企てたことが発覚し、行信は下野(しもつけ)に流された。田麻呂と杜女は除名の上、遠流(おんる)に処せられた。禰宜(ねぎ)・祝(はふり)を改めて任命し、その封戸や位田などの財物については、太宰府がすべて検分することとされた。七年、八幡神のお告げによって、その封田を没収し、ただ常神田(じょうしんでん)のみを残された。
¶天平宝字(てんぴょうほうじ)元年、「大神宮への幣帛の使者は、今後は中臣朝臣を差し遣わし、他の氏族を用いてはならない」と定められた。もともと天平年間には中臣氏が権力を専らにし、忌部氏を大神宮への幣帛使から外していた(注:「もともと」以下は『古語拾遺』による)。七年に至り、忌部宿禰虫名(いんべのすくねむしな)らの訴えによって、再び忌部氏が用いられるようになった。この時にもまた同様の規定が定められたが、実際には行われなかった(注:「しかし」以下は『日本後紀』『古語拾遺』を参照した)。
¶廃帝(はいたい、淳仁天皇)が即位された。これより先、天平勝宝五年、大神宮の境界を定めたが、伊勢と志摩の両国がその土地をめぐって争ったため、尾垂剗(おだれのせき)を葦淵(あしぶち)に遷された。天平宝字六年、大神宮および香椎廟(かしいびょう)に幣帛を奉り、軍の訓練を告げられた。また天下の多くの神々に幣帛と弓矢を奉られたが、これは新羅を征伐しようとされたためである。
¶八年、初め藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が反乱を起こして近江(おうみ)に拠ったとき、国内の名神(みょうじん)に幣帛を奉り、賊の平定を祈願された。このとき至って、その祈願成就のお礼をされた。「名神」という称号はこれに初めて見える。
¶称徳天皇(しょうとくてんのう)の天平神護(てんぴょうじんご)元年、天皇はすでに髪を剃り仏門に帰依されていたが、僧の道鏡(どうきょう)を寵愛された。重祚(ちょうそ)されると、大嘗祭を行われた。そこで勅して「世間では神は仏の徒を近づけないというが、しかし仏の経典には『仏法を護るのは諸々の神である』とある。それゆえ出家した僧尼が祭祀の政事に参与することも忌むべきことではない」と仰せになった。翌年、道鏡を法王(ほうおう)に任じられた(注:『続日本紀』による)。
¶天皇が祖先の教えに背き神明を欺かれたことには、それなりの由来がある。これ以後、ついには仏教の経典や法具を神社に献上し、僧に神への祈祷を行わせる者まで現れるようになった。そして大神宮以下、諸国の大社にもみな神宮寺(じんぐうじ)が設けられ、僧徒が神事に関わるようになり、神道はますます衰えていった(注:『続日本紀』以下の正史の趣旨による)。天皇は八幡神を深く信仰され、神のお告げと称するものにはすべて従われた。道鏡は密かに天皇の位を窺う野心を抱き、あまねく多くの神々に不正な幣帛を捧げ、佞臣たちの間で権謀術数を巡らして、その野望を遂げようとした(注:「道鏡」以下は『類聚国史』を参照した)。
¶この年、八幡比咩神(はちまんひめのかみ)のお告げによって神封(しんぷう)を奉り、大神田麻呂の位を回復された(注:『続日本紀』による)。
¶神護景雲(じんごけいうん)二年、春日(かすが)の四座の神を三笠山(みかさやま)に祀られた(注:『帝王編年記』による)。
¶三年、天下の諸社に神への服を奉られた。大炊頭(おおいのかみ)掃守王(かにもりおう)、左中弁(さちゅうべん)藤原朝臣雄田麻呂(ふじわらのあそみおたまろ)を大神宮の使者とされた。それぞれの社に男女の神服一具ずつを献上された。大神宮と月次祭を行う社には、さらに馬形(うまがた)と鞍を加えられた。太宰府の主神(かんつかさ)である習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)は道鏡にへつらい仕え、ついに八幡神のお告げと称して「道鏡を天皇の位に就かせれば天下は太平になる」と唱えた。道鏡は自ら策略が成功したと思い込み、事態は危うく測り知れないものとなった。しかし和気朝臣清麻呂(わけのあそみきよまろ)が使者として神のお告げを請いに赴くと、彼の忠誠が神に通じた。神の言葉は厳しく、ついにはその威霊によって逆臣の企てをくじくことができた。そのお告げにいう「天地開闢以来、君臣の分はすでに定まっており、天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇統の子孫が継ぐべきである。道理をわきまえぬ者は速やかに一掃せよ」との言葉は、万世の後々まで、なお乱臣賊子を畏れさせるものである。この件の詳細は本人の伝に記す。
¶光仁天皇(こうにんてんのう)が即位されると、道鏡を追放された(注:『続日本紀』による)。
¶宝亀(ほうき)二年、清麻呂を豊前守(ぶぜんのかみ)とされた。その二年後、太宰府から「近ごろ、八幡宮の禰宜や宮司らが、神のお告げと偽って、しばしば妖しい言葉を発しています。国家を乱すだけでなく朝廷をも欺いていますが、これまでの国司はあえてこれを正そうとしませんでした。監典(げんてん)・生典(しょうてん)らに命じて、その真偽を調べさせていただきたく存じます」との申し出があった。そこで主神(かんつかさ)である中臣朝臣宅成(なかとみのあそみいえなり)に占わせたところ、禰宜の辛島勝与曾売(からしまのすぐりよそめ)が偽りを唱えていたことがわかり、与曾売と宮司の宇佐公池守(うさのきみいけもり)は官職を解かれた(注:『宇佐託宣集』による)。この年、大社・中社・小社の神殿・雑舎(ぞうしゃ)・門・垣根、および社地の四方の境界などについての規定を定められた(注:『神祇本源』『造殿儀式』による)。
¶六年、「祈年祭・月次祭・新嘗祭で幣帛を頒つ日に、諸国の祝部らが神祇官に参集しない場合は、まず戒めの勅を与える。それでも改めない者は、位のある無しにかかわらず職を解いて本国に返し、将来の戒めとせよ」と定められた(注:『類聚三代格』による)。歴代の朝廷は祈年祭・月次祭・新嘗祭の四つの祭祀を最も重んじ、国家の大事とした。神祇官がこれに幣帛を頒つことを「四度官幣(しどのかんぺい)」という(注:『類聚三代格』『延喜式』『年中行事秘抄』『諸社根元記』を参照した。○また「四時幣(しじへい)」あるいは「四度幣(しどへい)」ともいう)。
¶七年、諸国の国司を戒め、神社を修繕し祭祀を慎むよう命じて、災異を祓わせられた。
¶八年、これより先、遣唐使を派遣しようとしたが、風波に阻まれて海を渡ることができず、使者の人選も何度も入れ替わっていた。この年、副使の小野朝臣石根(おののあそみいわね)が、春日山(かすがやま)のふもとで天神地祇を拝み祀った。
¶九年、初め神護年間に、大隅(おおすみ)の海中に島が自然に湧き出たことがあった。世間ではこれを大穴持神(おおあなもちのかみ)が造ったものだと言っていた。この年、官社(かんしゃ)とされた。
¶十一年、神祇官の上申によれば「伊勢の大神宮寺(だいじんぐうじ)は神郡(かみのこおり)に近いため、しばしば神の祟りがあります。飯野郡(いいののこおり)を除いて、他の便利な土地に移し造るべきです」とのことで、これが許可された。また勅して「京の百姓が巫女や祈祷師を集めて群れをなし、みだりに淫祀(いんし)を崇め、藁人形や呪符を用いて様々な怪しげな行いをすることを厳しく禁じる」と定められた。陸奥(むつ)の鎮守副将軍である百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)らが「かつて賊に包囲され、兵は疲れ矢も尽きたことがありました。そのとき桃生(ものう)・白河(しらかわ)などの神十一社に祈願したところ、ようやく包囲を破ることができました。神の御威光がなければ、どうして軍勢を保つことができたでしょうか。どうかみな幣帛を奉る社に加えていただきたく存じます」と申し出て、これが許可された。
¶桓武天皇(かんむてんのう)が即位されると、廃れたものを興し絶えたものを継ぎ、神祇の制度を改め定められた(注:「桓武」以下は『日本後紀』『類聚国史』を参照した)。
¶延暦(えんりゃく)十年、何者かが放火して大神宮を襲った。正殿一棟と財殿(ざいでん)・御門(みかど)などが焼けた。そこで使者を遣わして幣帛を奉り、災いをお詫びされた。勅して修造を命じられ、また「百姓が牛を殺して漢神(からかみ、大陸系の神)を祀ることを禁じる」と定められた(注:『続日本紀』による)。
¶十一年、高橋(たかはし)・安曇(あずみ)の二氏の祭事における配膳の順序を定められ、奉膳(ぶぜん)の安曇宿禰継成(あずみのすくねつぐなり)は佐渡(さど)に流された(注:「流された」以下は『類聚国史』による)。これより先、霊亀二年、神今食祭(じんこんじきさい)にあたり、奉膳の安曇宿禰刀(あずみのすくねと)と典膳(てんぜん)の高橋朝臣乎具須比(たかはしのあそみおぐすひ)が、順序の先後を争ったことがあった。勅により、神事には昔からの先例があるとして高橋氏を先とされた。宝亀六年に至り、安曇宿禰広吉(あずみのすくねひろよし)が強引に先に進み出て事を執り行おうとしたが、高橋朝臣波麻呂(たかはしのあそみはまろ)がこれを押し退けた。事が終わると、担当役所は両者に祓(はらえ)の罰を科した。波麻呂はこれを不服として従わず、事が朝廷に伝わると、勅により広吉に祓の罰を科された。広吉は後に家の系譜に偽りの記述を加えて申し立て、ついに先の順序を得ることになったが、高橋氏はこれを憤った。やがて朝廷が両氏の記録を検分すると、高橋氏が先であることが判明したが、先代からの決定に関わることであったため、すぐには改めがたかった。祭りのたびに互いに先後を交代して供奉させることとしたが、去年の祭りの日には継成が毎回先に進み出たため、朝廷の裁定によりこれを止めさせた。継成はそのまま退出して立ち去った。そこで太政官(だいじょうかん)に議論を下されると、上申には「謹んで『日本書紀』を調べますに、高橋氏が御膳に預かったのは、巻向日代(まきむくのひしろ)の朝(景行天皇の御代)に磐鹿六雁(いわかむつかり)が蛤(はまぐり)の膾(なます)を進めたのに始まります。安曇氏は、軽島明(かるしまのあかり)の朝(応神天皇の御代)に大浜宿禰(おおはまのすくね)が海人(あま)を掌ったのに始まります。しかし安曇氏の申し立てには『遠い祖先である大栲成吹(おおたくなりふき)が、御間城天皇(みまきのすめらみこと、崇神天皇)の御代に初めて御膳を奉った』とあります。今、その私的な記録を検分すると、事実が後から書き加えられ、その筆跡も現存しており、偽りであることは明らかです。正史の記すところによれば、六雁は前の時代に功績を立て、大浜は後の時代に名を成しました。その間には五代を経て二百年以上の隔たりがあり、先後の順序に疑いを容れる余地はありません。しかも継成は偽りを申し立てて天皇を欺き、勝手に朝廷を退出しており、臣下としての礼を欠いております。律に照らせば絞首の上、除名に処すべきです」とあった。このとき至り、高橋氏を先とすることが定められ、特別の計らいにより継成は流罪に処せられた(注:『本朝月令』が引く『高橋氏文』による)。
¶これより先、中臣朝臣で神祇伯(じんぎはく)に任じられた者は、天照大神の神主であるとして、喪に服していても職を解かれないことが慣例となっていた。この時に至り、「たとえ自ら喪に服していなくても、神に仕えるのはふさわしくない。その喪の期間を全うすべきである」と定められた(注:『日本紀略』による)。
¶十三年、初めて平野社(ひらののやしろ)が建てられ(注:『類聚三代格』『江家次第』『一代要記』による)、外戚の祖先の神を祀られた(注:『日本書紀』『新撰姓氏録』『本朝月令』『袋草子』の趣旨を参酌した)。
¶十七年、祈年祭の幣帛を奉るべき社を定められた(注:『類聚国史』による)。冬、勅して「両京と畿内で夜に祭りを開いて酒宴を催すことは、すでに禁じていたはずである。しかし担当役所が寛容に構えて取り締まらず、ついに酒食が供され、乱れた風潮が煽られている。法に背き風俗を乱すことは、これより甚だしいものはない。今後は厳しく禁止する。祭りは昼間に行い、日没後に及んではならない。なお改めない者があれば、主催者も参加者もともに勅令違反の罪に問う」と定められた(注:『類聚三代格』による)。
¶続いて勅して「出雲国造(いずものくにのみやつこ)は神主を兼ねている。新たに任じられる日には、慣例として正妻を離縁し、庶民の娘を娶って『神宮采女(じんぐううねめ)』と称し、そのまま妾として娶り、神事にかこつけてみだらな風潮を助長させている。神道はますます俗化しているが、どうしてこのようなことがあってよいだろうか。昔の決まりに照らせば、当然厳しく取り締まるべきである。やむを得ない事情がある場合は、国司が一人の女性を占い定めて仕えさせよ。筑前(ちくぜん)の宗像(むなかた)神主も、これに準ずる」と定められた(注:『類聚国史』『類聚三代格』による)。
¶十八年、勅して「祭祀に敬いが欠ければ、神はこれを受け入れない。広瀬(ひろせ)・龍田(たつた)の二つの祭りは、風害を鎮め五穀豊穣を祈るためのものである。しかし大和国司はこれを怠り敬わず、史生(ししょう)を差し向けてわずかに祭事を済ませているだけである。祈っても応えがないのは、まさにこのためである。今後は守(かみ)・介(すけ)のいずれか一人が、斎戒してつつしんで奉仕せよ。もし事情がある場合は、判官(じょう)を代わりに遣わすことを認める」と定められた(注:『日本後紀』による)。
¶二十年、越前(えちぜん)の民が牛を屠って神を祀ることを禁じられた(注:『類聚国史』による)。また祓(はらえ)の罪の軽重に応じた制度を定められた。「そもそも大嘗祭を怠り、あるいは斎戒中に弔問や見舞いをし、刑罰・死刑の文書に署名し、罰を執行し、肉食をして穢れに関わった場合には、大祓(おおはらえ)の罰を科す。その材料は、馬一匹、大刀二振り、弓二張り、矢二具、刀子(とうす)六枚、木綿(ゆう)・麻・鰒(あわび)・堅魚(かつお)・様々な干物・海藻・滑海藻(あらめ)などそれぞれ六斤、庸布(ようふ)六段、鍬(くわ)・坏(つき)・盤(さら)それぞれ六口、鹿・猪の皮それぞれ六張、酒と米それぞれ六斗、稲六束、塩六升、食薦(すごも)六枚、薦(こも)六領、柏十五把、匏(ひさご)四柄、楉(たわ)四枚、席一領とする。官人はその任を兼ねて解く。そもそも新嘗祭・鎮魂祭・神嘗祭・祈年祭・月次祭・神衣祭を怠り、大神宮の禰宜や内人(うちんど)を打ち、あるいは御膳の物を穢し、また新嘗祭などの様々な祭りの斎戒の日に弔問や見舞いなどの六つの禁忌を犯した場合には、上祓(じょうはらえ)の罰を科す。その材料は大祓に準じるが、これより軽くする。そもそも大忌祭・風神祭・鎮花祭・三枝祭・鎮火祭・相嘗祭・道饗祭・平野祭・園韓神祭(そのからかみのまつり)・春日祭などを怠り、物忌(ものいみ)の戸座(とざ)の御火炬(みひたき)を打ち、物忌の女を犯し、穢れに触れて御膳に関わり、あわせて忌火(いみび)などの祭りの斎戒の日に、祝(はふり)・禰宜や祭りに関わる神戸(かんべ)の人を打ち、弔問や見舞いなどの六つの禁忌を犯した場合には、中祓(ちゅうはらえ)の罰を科す。そもそも諸祭祀を欠き、斎戒の日に祝・禰宜・祭りに関わる神戸の人を打ち、様々な禁忌を犯した場合には、下祓(げはらえ)の罰を科す。中祓以下の材料もまた大祓に準じ、それぞれ減らして科す。従来、神事に対する違犯には祓の罰と贖罪(しょくざい)を科していたが、善悪二種類の祓があり、重ねて一人に科すなど、条例が煩雑で費用も多くかかっていた。事があまりに細かく厳しすぎて、民を大いに損なっていた。そこでこのように緩めたり厳しくしたりして規定を立てた。もし打って傷を負わせるなど重い場合には、祓禊(ふっけい)のほかに法に基づいて罪を科す。斎戒の期間外での喧嘩は律に基づいて処罰し、この限りではない。また祝・禰宜らが人と喧嘩をし、あるいは他の犯罪を犯して処罰が必要な場合には、まずその任を解いてから処罰する。神戸の百姓に過失があった場合には、斎戒の期間を終えた後、法のとおりに罪を科す」。続いて勅して「令によれば、神戸の調・庸・田租は、すべて国司が検分することになっている。すでに検分すると定められた以上、その支出に至るまで国司が独占するのは道理に反する。国司と神主らが祭りの材料を配分し、その残りを記録して申し上げ、裁可を仰ぐようにせよ」と定められた(注:『類聚三代格』による)。
¶伊勢から「多気(たけ)・度会(わたらい)の二郡の郡司が、神事にかこつけてしばしば職務を怠っています。神域の外で処罰させていただきたく存じます」との申し出があり、これが許可された(注:『類聚国史』『類聚三代格』による)。
¶二十四年、石川朝臣吉備人(いしかわのあそみきびひと)を石上神宮(いそのかみじんぐう)造営の使者とされた。工事に要した延べ人数は十五万七千余人であった。天皇が「神宮が他の社と異なる理由は何か」と問われると、ある者が「神庫(かんくら)には多くの武器が納められており、いずれも歴代の朝廷が収蔵してきたもので、非常の際に備えるべき重要なものです。近くの土地に移すべきです」と奏上した。そこで山城(やましろ)の葛野郡(かどののこおり)に移された。ちょうど文章生(もんじょうしょう)の布瑠宿禰高庭(ふるのすくねたかにわ)が「神戸の百姓の申し立てによれば、『近ごろ神宮にはしばしば怪異が起こっており、その理由がわかりません』とのことです。まもなく神宝が移されましたが、怪異はおそらくこれに由来するものでしょう。移転を取りやめていただきたく存じます」と奏上した。天皇は「占いはみな吉と出ている。何の不都合があろうか」と勅された。しかしまもなく宝庫が自然に倒れた。ちょうど天皇の病が癒えなかったころ、典闈(てんい)の建部千継(たけるべのちつぐ)が春日祭の使者に任じられ、平城(なら)で神懸かりの巫女がいると聞いて立ち寄って尋ねると、巫女は「神宝を移し替えたために、神霊が激しく怒って祟りを起こしている」という様子を詳しく語った。千継は帰ってこれを密かに奏上した。そこで神祇官と担当役所に詔して神宮に二つの幄(とばり)を建てさせ、御饌(みけ)や御衣などの物を供え、千継を使者として巫女を召し御魂を鎮めさせられた。鍛冶正(かぬちのかみ)である作良王(さくらおう)、神祇大副(じんぎのだいふ)である大中臣朝臣全成(おおなかとみのあそみまたなり)らを遣わして幣帛と鏡を奉りお詫びをされた。また病が癒えないことを祈られ、武器を元通りに納め戻された。
¶平城天皇(へいぜいてんのう)の大同(だいどう)元年、これより先、中臣・忌部の二氏が互いに訴えを起こしていた。中臣氏は「忌部はもともと幣帛を作る役目であり、祝詞を宣べる役目ではない。したがって忌部を幣帛使とするのは不適当である」と主張し、忌部氏は「幣帛を奉って祈祷することは、これこそ忌部の職務である。忌部を幣帛使とし、中臣を祓使とすべきである」と主張した。互いに論争し、それぞれに根拠があった。この時に至り、次のように裁定された。「『日本書紀』によれば、天照大神が天の岩戸にお隠れになったとき、中臣氏の遠祖である天児屋命と忌部氏の遠祖である太玉命とが、ともに祈祷を行った。そうであれば祈祷の事は、両氏がともに関わるべきものである。また神祇令には『祈年祭・月次祭では、中臣が祝詞を宣べ、忌部が幣帛を頒つ。即位の日には、中臣が天神の寿詞を奏上し、忌部が神璽の鏡と剣を奉る。六月・十二月の大祓では、中臣が祓麻を差し上げ、文部が祓刀を差し上げて祓詞を読み終えると、中臣が祓の祝詞を宣べる。恒例の祭祀以外で諸社に幣帛を供える必要がある場合は、みな五位以上で吉と占われた者をこれに充てる』とある。幣帛を奉る使者には、この二氏を用い、必ず半々にするように。それ以外はもっぱら令の条文に従うように」(注:『日本後紀』による)。当時、中臣氏は勢い盛んであったが、忌部氏は振るわなかった。正六位上(しょうろくいのじょう)の斎部宿禰広成(いんべのすくねひろなり)は、神道の衰えを深く憤り、古に立ち返ろうと志を抱いていた(注:「正六位上」は『日本後紀』による)。ちょうど天皇が古い言い伝えについて広成に問われた際、広成は「文字が使われるようになって以来、人は古のことを語るのを好まず、浮ついた華美なものばかりが競って起こり、かえって古老をあざ笑うようになりました。世が移り変わるにつれ、新しいものばかりが尊ばれています。国史や家の記録にもなお漏れがあります。今もし語らなければ、伝えは絶えてしまうことを恐れます」と述べ、『古語拾遺』一巻を著し、大同二年にこれを献上した。その概略は次のようなものであった。「太古、斎部氏の遠祖である天太玉命は、阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・紀伊(きい)・筑紫(つくし)・伊勢などの忌部、および出雲(いずも)の玉作(たまつくり)らの祖を率い、幣帛を作り御殿を構え、中臣氏・猿女(さるめ)氏らの祖とともに祈祷し祝詞を宣べて天祖にお仕えし、天の岩戸において功を立て、皇孫にお仕え申し上げた。神武天皇が都を創建されたとき、その子孫である天富命は多くの部民を率い、鏡・玉・矛・盾などの神宝を作り、正殿を構え、鏡と剣を奉り、幣帛と玉を並べ、中臣氏とともに祭祀の職を司った。代々受け継がれ、祖先の事業が絶えることはなかった。小治田(おはりだ)の朝(推古天皇の御代)に至ると、太玉命の子孫は帯のように細々とかろうじて続いていた。朝廷の恩により廃れたものを興し絶えたものを継ぐこととなり、ようやくその職に復した。難波長柄(なにわのながら)の朝(孝徳天皇の御代)では、小華下(しょうかげ)の斎部首作賀斯(いんべのおびとさかし)が神官頭(じんかんのかみ)を拝命した。しかし作賀斯の子孫はその職を継ぐことができず、次第に衰えて今日に至っている。浄御原(きよみはら)の朝(天武天皇の御代)で八色の姓(やくさのかばね)が改め定められたとき、その年の功労の序列のみが重んじられ、天から降臨した功績は考慮されなかった。第二位である朝臣(あそみ)の姓は中臣氏に賜られ、大刀を添えられた。第三位である宿禰(すくね)の姓は斎部氏に賜られ、小刀を添えられた。大宝年間に至って初めて記録文書が作られたが、神祇の帳簿にはなお明確な基準がなく、祭祀の礼にもその形式が定められていなかった。天平年間には神帳(しんちょう)が作られたが、中臣氏が権力を専らにし、取捨をほしいままにした。縁故のある者は小さな祭祀にもみな名を連ね、縁故のない者は大きな社であってもなお廃されるままであった。諸社の封戸(ふこ)や税は、すべて一つの氏族に集められてしまった。そもそも天から降臨されて以来、東征に至るまで、供奉した多くの神々の名は国史に明らかに記されている。あるいは天の厳しい命を受けて宝の基の守りとなり、あるいは盛運のめぐりあわせに遭って神器の大業を助けた。そうであれば、功に報い労に酬いるにあたっては、当然祀典に等しく預かるべきであるのに、いまだ幣帛の対象に入っていない例がある。秦氏(はたうじ)・漢氏(あやうじ)・百済(くだら)からの帰化の民のように、それぞれ万を数えるほどの功績があり、これらは褒賞されるべきである。今その祠はあっても、まだ恒例の幣帛には預かっていない。まして草薙神剣は、まことに天の御璽(みしるし)である。日本武尊が凱旋された年より尾張に留め置かれている。外敵がひそかに盗み出そうとしても、国境を出ることはできなかった。神の霊験は、これによって知ることができる。そうであれば幣帛を奉る日には、同様に敬意を払うべきであるのに、長きにわたり欠けたままでその礼が修められていない。これが遺漏の一つ目である。そもそも祖先を尊び宗家を敬うことは、礼教において最も先に立つものである。天照大神は、まさに祖であり宗であって、この上なく尊く並ぶものがない。それ以外の諸神は、いずれも子であり臣である。誰がこれに敵対できようか。ところが今、神祇官が幣帛を頒つ日には、伊勢神宮は諸神の後に序列されている。これが遺漏の二つ目である。天照大神は、もともと天皇と同じ御殿におられ、それゆえお仕えする儀式も、天皇と神とが一体であることに基づき、天上の時代から始まっている。中臣・斎部の両氏が、ともに日の神に祈りを添え、猿女の祖もまた神の怒りを解いた。そうであれば、この三氏の職務は切り離すことができないはずである。ところが今、伊勢の宮司はもっぱら中臣氏に任され、他の二氏は用いられていない。これが遺漏の三つ目である。そもそも神殿を造るには、すべて神代の職掌に従うべきである。斎部の官は御木(みき)・麁香(あらか)の二郷の斎部を率い、斎(いつ)きの斧で伐り、斎の鋤で掘り、その後に工が着手する。造営が終わった後には、斎部が殿祭(でんさい)・門祭(もんさい)を行い、そうして初めて御殿に神が鎮座する。ところが今、伊勢の宮や大嘗宮を造るにあたって、斎部をまったく関わらせていない。これが遺漏の四つ目である。しかも殿祭・門祭は、太玉命以来、斎部氏が司ってきた職務である。それでも中臣・斎部は同じく神祇官に任じられ、ともにお仕えしてきた。それゆえ祭りを供する日には、宮内省の奏詞に『これより殿祭をお仕えいたします、中臣・斎部が御門にお仕えします』と唱えていた。ところが宝亀年間に至り、宮内少輔(くないのしょうふ)である中臣朝臣常(なかとみのあそみつね)がほしいままに奏詞を改め『中臣が斎部を率いて御門にお仕えします』と唱えるようになった。宮内省はこれをそのまま踏襲し、永くこれを慣例としてしまい、今に至るまで改められていない。これが遺漏の五つ目である。また神代の昔より、両氏が神事にお仕えすることに優劣の差はなかった。しかし途中から権力が一氏に偏るようになった。斎宮寮(さいくうりょう)の主神司(かんつかさ)は、両氏とも同じく七位の官であったが、延暦の初めに殊更に斎部氏を八位に落とされ、今なお回復されていない。これが遺漏の六つ目である。そもそも諸神に幣帛を奉るにあたっては両氏がともにその事に関わるべきであるのに、今は太宰府の主神司がもっぱら中臣氏に任されている。これが遺漏の七つ目である。諸国の大社でもまた斎部氏が用いられていない。これが遺漏の八つ目である。そもそも鎮魂の儀式は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡によるものであり、そうであれば御巫(みかんなぎ)の職はもともとの氏族に任せるべきである。ところが今は他の氏族から選んで用いている。これが遺漏の九つ目である。そもそも大幣(たいへい)を作るにあたっても、神代の職掌に従うべきである。斎部の官は、製作に携わる様々な氏族を率いて、前例に準じて作り備えてきた。そうであれば神祇官の神部(かんとものお)には、当然中臣・斎部・猿女・鏡作(かがみつくり)・玉作(たまつくり)・盾作(たてつくり)・神服(かんはとり)・倭文(しとり)・麻績(おみ)などの氏族がいるべきである。ところが今はただ中臣・斎部などの二、三の氏族のみで、それ以外は選考の対象にすらなっていない。神々の子孫は散り散りになり、その血筋は絶えようとしている。これが遺漏の十番目である。また天平勝宝九歳、左弁官(さべんかん)の口宣(くぜん)に『今後は、伊勢大神宮の幣帛使は、もっぱら中臣氏を用い、他の氏族を差し遣わしてはならない』とあった。この規定は実際には行われなかったが、なお官の先例として記録されており、いまだ削除されていない。これが遺漏の十一番目である。そもそも神代の事は盤古(ばんこ、中国神話の創世神)の伝説に似ており、疑わしい話を信じさせるのは実に難しい。しかし我が国の神々の霊験の跡は、後の世の人が今を見るのが、今の人が古を見るのと同じことになるのを恐れる。愚かなる臣、広成は老い衰え、法の遺漏をここに書き記したが、いまだ漏れているものが多い。今、聖明な御代にあって、時に応じて制度を定め、廃れたものを興し絶えたものを継ごうとされている。もしこの式を制定される年に、あの祭祀の礼を定めなければ、ひそかに今の世を見るのが古を見るのと同じことになってしまうことを恐れる。愚かなる臣、広成は、老いの齢すでに八十を超えた。犬馬の忠誠の思いは、朝な夕なにいよいよ切実である。幸いにも古を求め訪ねられるよいめぐりあわせに遇い、この言葉が口実として埋もれずに済むことを深く喜んでいる。願わくは、この文章が高く天覧に達し、陛下のお目にかけていただけますように」(注:『古語拾遺』による)。
¶もともと延暦年間に、勅命により儀式の書を撰することとなったが、その事業は完成しなかった(注:『類聚国史』による)。ただ大神宮の神主らが、二つの宮の儀式帳をそれぞれ一巻ずつ撰して献上した。神宮の事については、これによって詳しく知ることができる(注:『大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』による)。この時に至り、再び儀式の書を撰する議論が起こった。それゆえ広成もこのような建言を行ったのである(注:『古語拾遺』による)。弘仁(こうにん)年間の儀式書撰定に至って、おそらくその言葉が取り入れられたのであろう(注:『弘仁格式』序、『法家文書目録』による)。
¶三年、勅して「大祀の散斎を三か月から一か月に改める」と定められた(注:『類聚国史』による)。
¶嵯峨天皇(さがてんのう)の弘仁(こうにん)元年、初めて賀茂斎院(かものさいいん)が置かれた(注:『貴女鈔』『一代要記』による)。
¶二年、勅して「令によれば、そもそも祭祀の散斎の日は、夜明けに上役が諸司に頒告することになっている。しかし諸司がまだこれを承知する前に、禁忌を犯す者があった。今後は散斎の前日に頒告することとし、これを恒例とせよ」と定められた(注:『類聚三代格』による)。
¶三年、勅して「諸国の百姓が、神の言葉にかこつけて、あるいは国家に関わることを口にし、あるいはみだりに禍福を説き、法を乱し秩序を破っていることは、これより甚だしいものはない。今後、みだりに神のお告げと称する者があれば、男女を問わず、事に応じて処断せよ。ただし、明らかに霊験がある場合は、国司がこれを検分し、事実に基づいて上申せよ」と定められた(注:『日本後紀』『類聚三代格』による)。
¶五年、天皇の病のため、初めて御贖祭(みあがないのまつり)が行われた。これ以後、六月・十二月の一日から八日まで、御巫(みかんなぎ)がこれを執り行うことが慣例となった(注:『年中行事秘抄』が引く旧記による)。また勅して「畿内・近江(おうみ)・丹波(たんば)などの国々では、近年しばしば旱害を被っているが、国司は祈祷を怠っている。そもそも有能な役人が誠意を尽くせば、必ず感応があるはずである。今後、日照りがあれば、長官が身を清め、自ら甘雨を祈り、慎み敬うことに努め、なおざりにしてはならない。これを恒例とせよ」と定められた(注:『日本後紀』による)。
¶八年、勅して「祈年祭・月次祭・新嘗祭では、諸社の祝部は先例に従って参上し、幣帛を受けて祭りを執り行うべきである。しかし近年、祝部が怠慢で集まらず、幣帛が空しく役所の倉庫に留め置かれている。今後このようなことがあれば、宝亀年間の制度に一律に従い、職を解いて交代させよ」と定められた(注:『類聚三代格』による)。
¶十一年、儀式の書を撰し、大祀・小祀の礼や内外の祭儀がすべて整えられた。貞観(じょうがん)・延喜(えんぎ)の時代に至っても、なお加除が行われた。神祇に関する典礼はますます整備されていった(注:『弘仁格式』序、『貞観式』序、『貞観儀式』『延喜式』『法家文書目録』による)。淳和天皇(じゅんなてんのう)は即位の大嘗祭にあたり、国家財政の窮乏と人民の疲弊を理由に、大臣の議に従って華美な飾りを排し、質素倹約に努められた。詳細は下巻に記す。続いて祈年祭・月次祭・神今食祭・大祓・新嘗祭・鎮魂祭の時期が定められた(注:「続いて定める」以下は『年中行事秘抄』による)。
¶天長(てんちょう)四年、天皇が病に伏せられた。占い師が「東寺(とうじ)が稲荷社(いなりのやしろ)の樹を伐り、御願寺(ごがんじ)の塔の材木に充てたため、その祟りがあるのです」と言った。そこで使者を遣わして神に位を授けお詫びをされた(注:『類聚国史』による)。僧の空海(くうかい)はかつて稲荷の祠を東寺の鎮守神(ちんじゅがみ)としていた(注:『二十二社本縁』『壒嚢鈔』『諸神記』による)。このように唱えたのは、おそらく僧徒の狡猾な計略から出たもので、自らのいわゆる鎮守神を尊崇させようとしたものであろう(注:『類聚国史』『壒嚢鈔』『二十二社本縁』の趣旨を参照した)。当時、僧徒は神を敬う風習を変え、人々を仏法に帰依させようとしており、みな行基の古い手口を手本としていた。神のお告げにかこつけて民心を奪おうとしたのである。それゆえ僧の最澄は日吉神(ひえのかみ)にかこつけて延暦寺(えんりゃくじ)を創建し、空海もまた丹生神(にうのかみ)のお告げを偽って高野山(こうやさん)を開いた。二人の僧は並外れた才能で怪しげな説を押し通し、神仏を混同して一世を惑わせた。その弟子たちが争ってこれを真似るようになり、朝廷までもがその言葉を受け入れてしまい、神明はついにその侵食を受けることとなった(注:『元亨釈書』『性霊集』『帝王編年記』『袖中抄』を参照した)。
¶仁明天皇(にんみょうてんのう)が即位されると、伊予権守(いよのごんのかみ)和気朝臣真綱(わけのあそみまつな)を遣わして、御剣と幣帛を八幡宮と香椎廟に奉り、即位を報告された(注:『続日本後紀』による)。真綱は清麻呂の子である(注:『和気系図』による)。これ以後、天皇が即位されるたびに、必ず和気氏を使者として報告させることとなった(注:『三代実録』『日本紀略』『西宮記』『和気系図』による)。これを「宇佐和気使(うさわけし)」という(注:『百錬抄』による)。天皇はことのほか奢侈を好まれ、その大嘗祭は装飾が華美を極め、作りの巧みさを尽くして、もはや昔の質素な制度とは異なるものになっていた(注:『続日本後紀』『本朝文粋』による)。詳細は下巻に記す。
¶承和(じょうわ)元年、山城(やましろ)の葛野郡(かどののこおり)の土地を伴宿禰(とものすくね)らに賜り、氏神(うじがみ)の祭りに充てさせられた。また勅して「小野(おの)・大春日(おおかすが)の諸氏で五位以上の者は、春秋二回の祭りにあたり、官符を待たずに近江(おうみ)の小野氏神社に参詣することを許す」と定められた(注:『続日本後紀』による)。当時の風習として、諸氏族はそれぞれ自らの祖先の神を祀っており、これを「氏神」と呼んだ。その由来は古い。崇神天皇の御代、物部連(もののべのむらじ)の祖は石上神社(いそのかみじんじゃ)を祀り、仁徳天皇(にんとくてんのう)の御代、竹田連(たけだのむらじ)の祖は竹田神社(たけだじんじゃ)を祀っており、すでに氏神という呼び名があった(注:『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』による。○考えるに、石上社はもともと布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀るものであり、物部氏の氏神と称するのは本来ふさわしくないが、あわせてその祖先神である瑞宝(みずのたから)を本社に祀っているため、氏神と称するのであろうか。参考のために付記する)。そして各氏族はその一族をまとめて「氏人(うじびと)」と呼び、氏人を統率する者を「氏上(うじのかみ)」と呼んだ。祭事があるたびに、氏人を率いて祖先の祠で礼を行うことを「氏神祭(うじがみまつり)」と名づけた(注:『日本書紀』『続日本紀』『続日本後紀』『三代実録』『新撰姓氏録』『貞観儀式』『延喜式』『万葉集』を参照した)。後の世に至り、人々が移り住むようになると、もとの祖先の祠を祀ることができなくなった。それでもなお、もともと住んでいた土地で祀られていた神を拝み、これを氏神と呼ぶようになった。自ら「氏子(うじこ)」と称するのも、その名残りである(注:『臥雲日件録』『諸神記』による)。
¶この年、石見(いわみ)の五つの郡の神十五社が、初めて官社(かんしゃ)に加えられた。その霊験がよく役人や民の祈りに応えたためである。
¶六年、「越前(えちぜん)の気比神宮(けひじんぐう)の雑務は、国司の関与を停止し、神祇官に直属させる」と定められた。
¶翌年、伊豆(いず)から次のような報告があった。「賀茂郡(かものこおり)の上津島(かみつしま)に阿波神(あわのかみ)がおり、これは三島社(みしましゃ)の元の后である。またその御子神である物忌奈乃命(ものいみなのみこと)がいる。承和五年七月より、島の左右の海中に火が現れ、大きな岩が震え動き、炎の勢いは天に届き、日の光は朦朧として、領内には灰が降った。そこで多くの祝(はふり)を集めて、その咎の兆しを占わせたところ、『阿波神は三島の元の后であるのに、後の后にだけ冠位が授けられ、元の后にはまだ位が授けられていない。それゆえ怪異を示しているのだ。禰宜や祝、国司・郡司らがこの様子を朝廷に奏上しなければ、必ず災いが起こるだろう。もし望みどおりになれば、天下は安らかになり、穀物は豊かに実るだろう』と出た。今年の七月に至り、雲や霧が初めて晴れた。島の上を望み見ると、宮殿の形があり、石で築き造られ、門・階段・垣根・壁がすべて備わっていた。五色の砂や土は光り輝き、その巧妙で美しいさまは言葉に表せないほどで、まことに神霊が感応したものである」。そこで勅して二神に位階を授けられた(注:『続日本後紀』による)。
¶文徳天皇(もんとくてんのう)の即位の年、詔して遠江(とおとうみ)の角避比古神(つのさくひこのかみ)を官社に列せられた。国司の申し出に従い、民のために利益を祈らせるためであった。秋、少納言(しょうなごん)鎌蔵王(かまくらおう)らを遣わして大神宮に幣帛を奉らせ、馬五匹を加えられた。神に馬を献上することの始まりはおそらくここにある。続いて建礼門(けんれいもん)の前で大祓を行い、侍従(じじゅう)の島江王(しまえおう)を大神宮に、神祇大副(じんぎのだいふ)である中臣朝臣逸志(なかとみのあそみやすゆき)を賀茂大神社(かものおおかみのやしろ)に、神祇権少祐(じんぎのごんのしょうじょう)である占部業基(うらべのなりもと)を尾張大神社(おわりのおおかみのやしろ)に遣わされた。また天下の名神(みょうじん)に幣帛を頒ち、甘露(かんろ)や白亀(はっき)の瑞祥を報告された(注:『文徳実録』による)。
¶仁寿(にんじゅ)元年、勅して「昨年、特に思うところがあった。天下の大小の諸神で、もともと官社に列せられている者、あるいはまだ公の帳簿に載せられていない者について、位のある者はさらに一階を加え、位のない者は新たに六位を叙せよ。ただし大社の名神は、位がないとされていても従五位下(じゅごいのげ)を授けよ。しかし今これを考えるに、六位にも四つの段階があり、実際の運用には必ず疑義が生じるであろう。五位以上を除いて、位の有無を問わず、みな正六位上(しょうろくいのじょう)を叙することとせよ」と定められた(注:『文徳実録』『類聚三代格』による)。そもそも品位(ほんい)の制度は、王族や臣下の尊卑を序列するためのものであり、もともと神祇には関わりのないものであった(注:『令義解』による)。ただ天武天皇が、高市(たけち)・牟狷(むさ)・身狹(むさ)などの神に霊験があったことから、詔してその品位を上げて祀らせられたことがあった。そうであれば、神々の間にも本来、尊卑の礼の等級があったということになる(注:『日本書紀』による)。しかしその制度の詳細は明らかでない。天平勝宝・天平神護の頃に至り、八幡神に品位や封戸・位田を奉ったが、その制度はちょうど王族・臣下の食封(じきふ)や位田の数と一致していた。しかしその他、例えば伊予(いよ)の伊曾乃神(いそのかみ)や大山積神(おおやまづみのかみ)には、それぞれ神位や封戸を授けているものの、王族・臣下の例には準じておらず、必ずしも令の制度に基づいて階級を定めたわけではない。ただ神祇への叙位は、ここに始まったのである。当時、僧の道鏡がひそかに権力をほしいままにし、神の権威を借りてその野望を遂げようとしていた。この制度もあるいはその意図から出たものかもしれない(注:『続日本紀』による)。和気真綱の言葉にいう「道鏡は皇位を窺う志を抱き、あまねく多くの神々に不正な幣帛を捧げた」というのは、おそらくこの類のことを指すのであろう(注:『類聚国史』による)。
¶しかし位を授ける制度は、後にはついに慣例となった。宝亀年間から弘仁年間に至るまで、祈祷への報謝としてその祭祀を尊ぶ場合には、みな位や勲を奉ったが、その数はまだわずかであった(注:『続日本紀』『日本紀略』による)。承和年間以後、多くの神々への叙位が日ごとに増えていった(注:『続日本後紀』による)。この時に至り、天下の大小の社に、みな位階が授けられるようになった(注:『文徳実録』による)。下って仁和(にんな)年間には、叙位や昇進が行われない年はなかった(注:『三代実録』による)。しかしそれは必ずしも封戸や位田の奉献を伴うものではなく、また神祇の尊卑を厳密に序列するものでもなかった。国郡の諸社では、もともとの霊威が著しいかどうかにかかわらず、日照りや戦乱、疫病の際に祈って応験があれば、必ず位や勲を授け、特にその社を尊んで民心を鎮めた。それゆえ同じ神を祀っていても、社が異なれば、その位もまた異なることがあった。その間には封戸や位田を充てられた社もあったが、それらもみな位階によるものではなかった。そもそも諸神に位階を授けるとき、その宣命(せんみょう)には必ず「御冠(みかがふり)を奉授する」と記された。その爵位や勲等の名称は、王族・臣下と同じであっても、その尊卑は大きく異なり、人と神とは自ずから区別され、決して混同されるものではなかった。ただ大神宮や日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)の諸社のように、いまだかつて位階を奉られたことのない社があるのは、おそらくその尊厳が他の神々とは格別であるためであろう(注:『続日本紀』以下の正史、『延喜式』の趣旨による。○考えるに、『経信卿母集(つねのぶきょうははしゅう)』によれば、源経信(みなもとのつねのぶ)が正四位下に叙せられたとき、北野社(きたののやしろ)の前を通っても車から降りなかった。母がその理由を尋ねると、経信は「式に、四位は二位を拝さないとある。菅神(かんしん、菅原道真)は在世のとき、位は二品を超えなかった。神といえども、礼にそぐわないことを受けるはずがあろうか」と答えたという。『古事談』『東斎随筆』にもこの話が載っている。当時、これを格言のように考える向きがあったようである。しかしこれは人と神とを混同した説であり、おそらく制度本来の趣旨ではないだろう。参考のために付記する)。
¶斉衡(さいこう)二年、神祇官が上申して「武蔵(むさし)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・常陸(ひたち)・若狭(わかさ)・丹後(たんご)・播磨(はりま)・安芸(あき)・紀伊(きい)・阿波(あわ)などの神社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に預かる社は、規定に従って幣帛を受けるべきです。しかし近年は怠慢で、まったく受け取りに来ません。これは道のりが遠いためです。使者を差し遣わして奉らせていただきたく存じます」と述べた。この上申は許可され、あわせて勅して「今後は調(みつぎもの)を貢納する大帳(だいちょう)などの使者に付け添わせて送るように。長官が謹んで敬い進上させ、おろそかにしてはならない」と定められた(注:『類聚三代格』による)。
¶三年、常陸(ひたち)から「大奈母知(おおなむち)・少比古奈(すくなひこな)の二神が、鹿島郡(かしまのこおり)の大洗磯前(おおあらいいそのさき)に降臨した」との報告があった。そこで官社として祀られた(注:『文徳実録』による)。