卷之二百卌四 志第一

神祇一

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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謹んで考えるに、天地開闢の初め、三柱の神が造化の首(はじ)めとなり、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の神霊が万物の祖となった。皇統は天地とともに始まり、いわゆる八十万(やおよろず)の神々はみな一つの祖から出ている。ある神は天の御業を助け、ある神は地の事を治め、上下が力を合わせて皇室の大業を助け支えた。国土が整い、万物が繁栄し、人民が安らかに暮らせるのは、すべてこれらの神々の功によらないものはない。そして天祖(てんそ、天照大神)は天の正統を受け継ぎ、神々をよくなつけ懐柔して、皇室の基盤を万代の後まで図られた。太祖(神武天皇)に至っては、時代を興す英傑として、神々の霊力に頼って妖(あや)しい気を掃い清め、天下を治められ、初めて祭祀の制度を定めて、根本に報い始まりに立ち返るという道理を明らかにされた。天下の人々はみな神威の畏るべきことと神の子孫の尊ぶべきことを知り、万世一系の皇統の大業はここに定まったのである。

ただし古い史書が伝える神代の事は、霊妙で神秘的であり、はかり知ることができない。学者たちはそれぞれに説を立てているが、要するに憶測の域を出ない。そもそも上古にはまだ文字がなく、身分の上下や老若を問わず、口から耳へと伝えられてきた。「昔の言葉や行いは、失わず保たれている」とは言うものの、年月が久しく経つうちに、伝え聞く話には食い違いが生じ、誤りがないとは言えない。まして神聖な功徳のようなはかり知れないものについてはなおさらである。しかも文字が使われるようになって以降も、人々は古の事を好んで語らず、浮ついた華美なことばかりが競い興り、物事の根源は次第に失われていった。そのため国史や家々の系譜にも、すべては信じがたいものがある。舎人親王(とねりしんのう)の編纂した『日本書紀』にしても、広く深い学才をもって古今の事を網羅しているが、神代の事に至っては諸説を並べ挙げるにとどめ、異なる伝聞を広く残し、疑わしいことは疑わしいままに伝え、自ら断定することをしなかった。これは後世の者には述べがたいことだからであろう。

とはいえ、神を生み人を立てた時代の事を、神異なこととして扱わず論じないままにしておけば、国家が重んじる神祇の制度や祭祀の礼の意義は、まったくうかがい知ることができなくなってしまう。斎部広成(いんべのひろなり)はこう述べている。「神代の説話は盤古(ばんこ、中国神話の天地開闢の神)の話に似ていて、氷のように解けやすく疑わしいものであり、信を置くことは実に難しい。しかし我が国の神々にまつわる神宝や霊験の跡は、今もみな現に存在しており、事あるごとに効験があり、虚妄とは言えない」と。そもそも物事の始まりは遠く隔たっているとはいえ、いやしくも書物に記録が残っているのであれば、慎んでその説を選び取り、述べるだけで新たに作り出すことなく、古を考える備えとすることこそ、史家が務めるべきことである。まして神宝や霊験の跡には、由来のあるものであればなおさらである。

そもそも神器(三種の神器)が祖先の代から伝わってきたことは、日や星が天にあるのと同じくらい明白である。その威光と霊験は輝かしく、万古変わることがない。皇位はこれによって窮まりなく続き、国家の体制はこれによって尊厳を保っている。これほどに神宝というものは重大な意味を持つのである。新嘗(にいなめ)の祭典や神衣(かんみそ)の祭祀のようなものも、実は天祖に由来する。そして八神殿や三千もの神社など、祭祀の制度に列せられているものはみな、天祖の左右にあって皇孫を助け、国家に功績のあった神々でないものはない。また山川の神々で天下の秩序を保つ助けとなっている神々についても同様である。これらを古い史書に照らせば、おおよそのところは考証できる。

そもそも天子は天祖の御身を受け継いで、代々神器を伝えている。群臣もまた神々の子孫として、代々天職を守ってきた。大礼を行うときには、天子は天祖の御身をもって神々の子孫を率い、誠意と敬意を尽くして祖先の神々に仕え、あまねく諸神を祀る。祖先と子孫とは気を同じくし、精神が互いに感応し合い、神霊が降り見守ることで、幸福が保たれる。いわゆる「事あるごとに効験がある」というのも、決して偽りではないのである。

しかし今日に至っては、広成の時代から八百余年を経て、その間に衰乱の時代を何度も経験し、異端の邪説が民を惑わし世を惑乱させ、異国の鬼神を崇め奉って神明を汚し乱し、王朝の制度はほとんど滅びかけている。神宝や霊験の跡もまた、考証できなくなっているものがあるかもしれず、嘆かわしい限りである。

そもそも古代において官職を建て役割を分かち、礼を制定し楽を作ったとき、何よりも先にしたことは神々に仕えることであり、あらゆる制度はみなこれによって興った。それゆえ上古の聖王は、大きな事業を行おうとするときには、必ず神々に基づいて号令を発した。いわゆる「まず神を祭ってから後に政治を議する」というのは、古の制度なのである。後に国家を治める者は、このことを察しないわけにはいかない。

今、謹んで旧史に基づき、諸説を参照しつつ、まず皇統の由来するところと神器の伝わるところ、および神々の功績を述べ、次に歴代の祭政の盛衰を述べ、そして神宮の制度や祭祀の儀式、大小の神社から神官・祭服の制度に至るまで、いやしくも令式に記載され旧記に残っているものはすべて採り上げて本編に著し、「神祇志」を作る。

天地がまだ分かれていなかった初め、高天原(たかまのはら)に最初に現れた神があった。天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という。次に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、またの名を高木神(たかぎのかみ)という。次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)という。この三柱の神が実に天地造化の首めである。(注:神皇産霊は、一説には神産巣日御祖(かみむすひみおや)ともいう。『古事記』ではこれらの神をすべて「命」と表記し、『日本書紀』の注には「最も貴い神を尊といい、その他を命という。どちらも『みこと』と読む」とある。今はこれに従う。また一般に神々の名を記すには、『日本書紀』は多く字の訓読みを用い、『古事記』は音読みを用いており、互いに同じ訓で異なる字を用いている場合もある。その意味に少し違いがあるものはすべて注記したが、そうでない場合は異なる字であっても必ずしも詳しく注記しない。)

やがて国土がしだいに形をなしてくると、化生した神があった。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)という。次に天常立尊(あめのとこたちのみこと)という。(注:「常」は一説に「底」とも書く。『日本書紀』の一説では、この神を可美葦牙彦舅尊より前に置いている。)以上五柱の神は、みな配偶なくひとりで生まれた神であり、これを別天神(ことあまつかみ)と称する。

次に国常立尊(くにのとこたちのみこと)という神がある。(注:「常」は一説に「底」とも書く。)次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)という。(注:「槌」は一説に「立」とも書く。『古事記』にはこの神は載っていない。)次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)という、またの名を豊香節野尊(とよかぶののみこと)という。(注:斟渟は一説に「組野」、また「雲野」「国野」「国主」「齧野」などとも書くが、いずれも訓の意味は通じ合う。また「浮経野豊買」「葉木国野」「見野」などの称もあるが、これらはみな別名であろう。)この三柱の神もまた、配偶なくひとりで生まれた神である。

次に対になって生まれた神があった。埿土煑尊(ういじにのみこと)・沙土煑尊(すいじにのみこと)という。(注:「煑」は一説に「根」とも書く。『日本書紀』の一説ではこの神々の次に角樴(つのぐい)・活樴(いくぐい)の二神を載せており、『古事記』も同様である。)次に大戸之道尊(おおとのじのみこと)、またの名を大戸摩彦尊(おおとまひこのみこと)という。大戸之辺尊(おおとのべのみこと)、またの名を大戸摩姫尊(おおとまひめのみこと)という。(注:「戸」は一説に「苫」、また「富」とも書く。)次に面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)という。(注:一説に「吾屋惶根」、また「忌橿城」、あるいは「青橿城根」、また「吾屋橿城」とも書く。)次に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)という。(注:『日本書紀』の現行本には「冉」を「冊」と書くが、今は文明年間の古写本、および『日本紀私記』『日本紀竟宴和歌題』古写本に従う。一説には、この二神は青橿城根尊の子であるという。また別の説では、国常立尊が天鏡尊を生み、天鏡尊が天万尊を生み、天万尊が沫蕩尊を生み、沫蕩尊が伊弉諾尊を生んだという。)

天と地が分かれて三度化生を経て、初めて男女の別が成った。三柱の単独の神と四対の神とをあわせて、これを神世七代という。

天の神は伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神に命じて言われた。「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)という地がある。おまえたち二神はそこへ行って治めるがよい」と。そして天瓊矛(あめのぬぼこ)を授けられた。二神は天の浮橋に立ち、瓊矛で青い海をかき探った。そうして一つの島ができ、磤馭慮嶋(おのごろじま)と名づけた。二神はそこに降り立ち、夫婦の契りを結んで広く国土を生もうとした。八尋殿(やひろどの)を作り、天の御柱を立てた。男神は右から、女神は左から柱を巡り、一つの場所で出会うことにした。女神が先に「ああ、なんとよい男に出会えたことでしょう」と声をかけ、男神がそれに応じた。ところが、生まれたのは蛭子(ひるこ)と淡洲(あわのしま)であった。二神はこれを快く思わず、天の神に事の次第を申し上げた。

天の神は太占(ふとまに)によって占わせ、そこで「女が先に声をかけたのはよくない。あらためてやり直すがよい」と教えられた。二神はふたたび天の御柱を巡った。今度は男神は左から、女神は右から巡り、出会ったところで男神が先に「ああ、なんとかわいらしい少女であろうか」と声をかけ、女神がそれに応じた。こうして夫婦の秩序が正しく定まり、ついに八つの島(大八洲)が生まれた。それぞれの島には神があり、これを国魂(くにたま)と呼ぶ。(注:『日本書紀』『古事記』による。「洲各に」以下は『神代巻口訣』『神皇正統記』を参照して補った。)

淡路洲(あわじのしま)は穂之狭別(ほのさわけ)という。

伊予二名州(いよのふたなのしま)には全部で四柱の神がいる。伊予(いよ)は愛媛(えひめ)、讃岐(さぬき)は飯依彦(いいよりひこ)、粟(あわ)は大宜都姫(おおげつひめ)、土左(とさ)は建依別(たけよりわけ)という。

隠岐洲(おきのしま)は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)という。

筑紫州(つくしのしま)には全部で四柱の神とされるが、筑紫(つくし)は白日別(しらひわけ)、豊(とよ)は豊日別(とよひわけ)、肥(ひ)は速日日別(はやひひわけ)、日向(ひゅうが)は豊久士比泥別(とよくじひねわけ)、熊曾(くまそ)は建日別(たけひわけ)という。(注:考えるに、原文には「四神」とありながら五つの神の名を挙げており、疑わしい。一説では異本により「日向」を削って四神の数に合わせるという。また『旧事本紀』の一説では「熊曾」を「佐渡」に作り、『神皇正統記』もこれに従うが、どちらが正しいかは分からない。後の考証を待つ。)

壱岐洲(いきのしま)は天一柱(あめひとつばしら)という。

対馬洲(つしま)は天之狭手依媛(あめのさでよりひめ)という。

佐度洲(さどのしま)。(注:神名は欠けている。『日本書紀』によれば隠岐と佐渡は双子として生まれたとされ、おそらく一柱の神が二つの島を兼ねているのであろう。参考として付しておく。) 大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)は天御座空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)という。

八つの島のほかに、さらに六つの島があり、これらにもみな神がある。吉備児島(きびのこじま)は建日方別(たけひかたわけ)、小豆島(あずきしま)は大野手比売(おおのでひめ)、大島(おおしま)は大多麻流別(おおたまるわけ)、女島(ひめしま)は天一根(あめのひとつね)、知詞島(ちかのしま)は天之忍男(あめのおしお)、両児島(ふたごのしま)は天両屋(あめのふたや)という。神々が国土を経営する事業の基礎はここに始まる。詳しくは「地理志」を見よ。

国土ができあがると、さらに神々が生まれた。大事忍男(おおことおしお)、石土毗古(いわつちびこ)、石巣比売(いわすひめ)、大戸日別(おおとひわけ)、天之吹男(あめのふきお)、大屋毗古(おおやびこ)、風木津別之忍男(かざもつわけのおしお)、大綿津見(おおわたつみ、注:『日本書紀』では「少童」と書く)、速秋津日子(はやあきつひこ)、速秋津比売(はやあきつひめ、注:『日本書紀』では「速秋津日」とのみあり「速秋津比売」はない)、級長津彦(しなつひこ)、級長戸辺(しなとべ、この二神は『旧事本紀』による)、句句迺馳(くくのち)、大山祇(おおやまつみ、注:一名を山雷ともいう)、草野姫(かやのひめ)、鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)、大宜都比売(おおげつひめ)という神々である。

大綿津見は海の神、速秋津日子・速秋津比売は水戸(みなと)の神、級長津彦・級長戸辺は風の神、句句迺馳は木の神、大山祇は山の神、草野姫は野の神、大宜都比売はすなわち保食神(うけもちのかみ)である。(注:『古事記』による。『日本書紀』を参照して補った。)伊弉諾・伊弉冉の二神は互いにこう語り合った。「私たちはすでに大八洲や山川草木の神々を生んだ。ならば天下の主となる神を生もうではないか」と。

そうして日の神が生まれ、大日孁貴(おおひるめのむち、注:「貴」は「尊」とも書く)と呼ばれた。これが天祖(てんそ)天照大神(あまてらすおおみかみ)である。次に月の神が生まれ、月夜見尊(つきよみのみこと、注:「夜」は一説に「弓」とも書く)という。次に建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと、注:「建速」は一説に「神」とも書く)が生まれた。日の神が生まれたとき、その光は明るく美しく輝き、天地の隅々まで照らし通した。二神は喜んで「この子は霊妙で優れている。天上の事を授けるのがよかろう」と言った。伊弉諾尊はそこで自らが身につけていた首飾りの玉を日の神に授け(注:「そこで授け」以下は『古事記』による)、高天原を治めるよう命じた。月の神の光もまた日の神に次いで明るく、青海原(あおうなばら)を治めさせることにした。素戔嗚尊には天下を治めさせることにした。(注:『日本書紀』による。)

次にまた神々が生まれた。軻遇突智(かぐつち)、金山彦(かなやまひこ)、金山姫(かなやまひめ、注:『日本書紀』には金山姫は載らない)、埴安彦(はにやすひこ)、埴安姫(はにやすひめ、注:この二神は『日本書紀』では埴山姫、あるいは埴安神という一柱の神として書かれている)、罔象女(みつはのめ)、稚産霊(わくむすひ)の、あわせて七柱の神である。(注:『日本書紀』では稚産霊を、軻遇突智が埴山姫を娶って生んだ子とする。)軻遇突智は火の神、埴安彦・埴安姫は土の神、罔象女は水の神となった。稚産霊は五穀や蚕・桑をよく育て、その子を豊宇気毗売神(とようけびめのかみ)といい、これが食物を司る神である。(注:『日本書紀』『古事記』を参照し、「これが」以下は『止由気宮儀式帳』による。)

水戸の神(速秋津日子・速秋津比売)はさらに八柱の神を生んだ。沫那芸神(あわなぎのかみ)・沫那美神(あわなみのかみ)、頬那芸神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)、天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)、天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・(対の神)である。

山の神(大山祇)と野の神(草野姫)の二神もまた八柱の神を生んだ。天之狭土神(あめのさづちのかみ)・国之狭土神(くにのさづちのかみ)、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)・国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、大戸惑子神(おおとまとひこのかみ)・大戸惑女神(おおとまとひめのかみ)であり、いずれもそれぞれが司る河海や山野に応じて分かれ生まれたものである。(注:『古事記』による。)

軻遇突智が生まれるとき、母である伊弉冉尊は身体を焼かれて、とうとう亡くなってしまった。伊弉諾尊は悲しみ恨んで、ついに軻遇突智を三段に斬り、それぞれが神と化した。甕速日神(みかはやひのかみ)・熯速日神(ひはやひのかみ)、磐裂神(いわさくのかみ)・根裂神(ねさくのかみ)・磐筒男神(いわつつおのかみ)・磐筒女神(いわつつめのかみ)、闇龗(くらおかみ)・闇山祇(くらやまつみ)・闇罔象(くらみつは)という。(注:『日本書紀』の一説では、一段は雷神となり、一段は大山祇となり、一段は高龗(たかおかみ)となったという。また別の説では、五段に斬って大山祇・中山祇・麓山祇・正勝山祇・䨄山祇の五神になったともいう。『古事記』のこの条には磐筒女・闇山祇の二神は載らず、以上の神々はみな剣についた血から化生したとする。そして迦具土神(かぐつちのかみ)の亡骸そのものからは、さらに正鹿山津見・淤滕山津見・奥山津見・闇山津見・志藝山津見・羽山津見・原山津見・戸山津見の八神が化生したという。)

熯速日子(ひはやひこ)は武甕槌神(たけみかづちのかみ)となった。磐筒男・磐筒女から生まれたのは経津主神(ふつぬしのかみ)である。

そこで伊弉諾尊は妻の亡骸を弔いに黄泉国(よみのくに)へ赴いた。しかしその汚れた姿を見て嫌悪し、急いで逃げ出し、大きな岩で黄泉平坂(よもつひらさか)の道をふさいで、離縁の誓いを立てた。伊弉冉尊はすでに黄泉の神となっていたので、恨んで「あなたがそのようになさるなら、私は毎日あなたの国の民を千人ずつ殺しましょう」と言った。伊弉諾尊は「それなら私は毎日千五百の産屋(うぶや)を建てよう」と答えた。

伊弉諾尊が帰る途中、身につけていた衣服や持ち物を投げ捨てると、それぞれが神と化した。岐神(ふなとのかみ)や道俣神(ちまたのかみ)がそれである。そうして日向(ひゅうが)の小戸(おど)の橘の檍原(あわぎはら)にたどり着き、海で身を清め禊(みそぎ)をした。まず汚れを洗い流したときに二柱の神が生まれた。八十禍津日(やそまがつひ、注:「禍」は一説に「枉」とも書く)、大禍津日(おおまがつひ、注:「禍」は一説に「綾」とも書く)である。次に生まれた神は、神直日神(かむなおひのかみ)・大直日神(おおなおひのかみ)、伊豆能売神(いづのめのかみ)、底津少童命(そこつわたつみのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)である。底筒男・中筒男・表筒男の三神が住吉大神(すみよしのおおかみ)である。(注:『日本書紀』の一説には、伊弉諾尊が海で身を清めたとき磐土・底土・赤土の三神が生まれたとある。『日本紀纂疏』には、これは住吉と同じ神であるというので、参考として付しておく。)底津少童・中津少童・表津少童の三神は海の神であり、阿曇連(あづみのむらじ)らが祀り仕えてきた神である。(注:『古事記』『日本書紀』による。)

日の神はすでに高天原を治めていたので、月夜見尊を葦原中国(あしはらのなかつくに)に遣わし、保食神(うけもちのかみ)のもとを訪ねさせた。(注:『古事記』では月夜見尊を素戔嗚尊とし、保食神を大宜都比売とする。またこの出来事を、素戔嗚尊が下界に追放されたときのこととしている。)保食神は口から飯や肉を吐き出してもてなした。月夜見尊は怒り、剣を抜いて撃ち殺し、その後で復命した。日の神はこれを憎み、二度と会おうとしなかった。

そこで改めて天熊人(あめのくまひと、注:『旧事本紀』では天熊大人と書く)を遣わして様子を見させた。保食神はすでに死んでおり、その身体から五穀や蚕の種、そして牛馬が生じていた。天熊人はその種を得て持ち帰り献上した。日の神は大いに喜んで「これは人々が食べて生きるための物である」と言った。(注:『古事記』には、神産巣日御祖命(かみむすひみおやのみこと)が命じて諸々の穀物の種を採らせたとある。)これより、農耕や養蚕の道が始まった。(注:『日本書紀』による。)詳しくは「食貨志」を見よ。

素戔嗚尊は勇猛で荒々しく、天下の政を意に介さなかった。常に「私は亡き母のもとへ、根の国へ行きたい」と言い、いつも泣き続けていたので、そのために災いが起こり、河海は涸れ、草木は枯れた。邪悪な神々が跳梁し、人民は若くして次々に亡くなった。伊弉諾尊はこれを憎み、根の国へ追放しようとした。素戔嗚尊は「どうか一度、高天原で姉の日の神にお目にかかってから、永久に退きたいと思います」と願い出たので、これを許した。この後、伊弉諾尊は神としての務めをすでに果たし終えて、淡路に幽宮(かくりのみや)を造ってそこに長く隠れ住んだ。あるいは、近江の多賀に籠もったとも、あるいは天に昇って復命し、そのまま日の少宮(ひのわかみや)に留まり住んだともいう。伊弉諾尊はすでに国土を初めて造り万物を生み成した神であり、その神としての功績と霊妙な徳ははかり知れないほどであった。そこで国堅大神(くにかためのおおかみ)と称される。(注:「そこで称される」以下は、『釈日本紀』が引く『播磨国風土記』による。)

素戔嗚尊が天に昇るとき、羽明玉命(はねあかるたまのみこと)がこれを迎えて瓊玉(たまのむし)を献上した。素戔嗚尊はこれを受け取って進んだ。そのとき海は激しく揺れ動き、山々は鳴り響いた。日の神はもとより素戔嗚尊が勇猛で人を圧するような気性であることを知っていたので、彼が来ると聞いて、憤然として「私の父母がすでに子供たちそれぞれに治めるべき所を命じられたのに、今あの者がやって来るのは、きっと他に企みがあるのだろう」と言った。そこで厳重に武装して待ち構えた。素戔嗚尊は「私に他意はありません。今、遠く根の国へ赴こうとするに際し、それゆえお目にかかりに参りました。また宝玉を献上したいだけです」と言った。日の神は「おまえの言葉が本当かどうか、何をもって証とするのか」と尋ねた。素戔嗚尊は「どうか共に誓約(うけい)をいたしましょう。生まれる子によって証といたしましょう。もし私が生む子が女であれば、私に邪心があるということです。もし男であれば、私に清い心があるということです」と答えた。日の神はそこで素戔嗚尊と、天安河(あめのやすかわ)を挟んで向かい合った。

日の神はまず素戔嗚尊が帯びていた剣を取り、三段に折って、ぱりぱりと嚙み砕き、息を吹き出して神を生んだ。田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、あわせて三柱の女神である。素戔嗚尊はそこで日の神が身につけていた瓊玉を求めて受け取り、嚙み砕いて息を吹き出し、五柱の男神を生んだ。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと、注:「穂耳」は一説に「穂根」、また「骨」とも書く)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野橡樟日命(くまのくすひのみこと、注:『日本書紀』の一説では「橡樟日」を「忍蹈」に作り、「蹈」はあるいは「隅」とも書き、これに熯之速日命(ひのはやひのみこと)を加えて六神とする)である。

そこで日の神は素戔嗚尊に異心のないことを知り、こう仰せられた。「そもそもの由来をたどれば、五柱の男神はみな私の物によって生まれたのだから、すなわち私の子である。三柱の女神はみなおまえの物によって生まれたのだから、おまえの子である」と。そして天忍穂耳尊を太子とし、三女神を素戔嗚尊に授けた。天穂日は出雲国造(いずものくにのみやつこ)らの祖となり、天津彦根は凡川内直(おおしこうちのあたい)らの祖となった。三女神は道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれ、これが胸形大神(むなかたのおおかみ)である。素戔嗚尊はすでに誓約に勝った証を得たので(注:『古事記』では女子を得たことを勝ちの証とする)、いよいよ驕り荒々しくなり、事あるごとに日の神を侮った。日の神は農事を大切にしていたが、素戔嗚尊は畔を壊し溝を埋めて耕作を妨げた。日の神は祭祀を何より慎んでいたが、素戔嗚尊は新嘗(にいなめ)の神饌をひそかにのぞき見て、新宮を汚した。また日の神が神衣を織らせているのを見ると、天斑駒(あめのふちこま)の皮を剥いで機殿(はたどの)に投げ入れた。日の神は初めのうち、実の弟であるからと大目に見ていたが、これに至って怒り、ついに天石窟(あめのいわや)に隠れ、戸を閉ざして籠もってしまった。これにより天地は暗闇となり、さまざまな災いが一斉に起こり、神々はみな大いに恐れた。

高皇産霊尊は八十万の神々を天安河原(あめのやすかわら)に集め、どのようにして祈り請うべきかを議論した。結局、常世思兼神(とこよのおもいかねのかみ)の案を用いることになった。天太玉神(あめのふとだまのかみ)に諸部の神々を率いて幣物(みてぐら)を作らせ、石凝姥神(いしこりどめのかみ)には天香山(あめのかぐやま)の銅で八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。鮮やかで美しく明るく麗しいその鏡は真経津鏡(まふつのかがみ)と呼ばれ、これが日の神の姿を映す鏡である。櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)には八阪瓊(やさかに)の勾玉(注:『古事記』では「八尺勾璁之五百津御須麻流(やさかのまがたまのいおつみすまる)」と書く)を作らせ、長白羽神(ながしらはのかみ)には青和幣(あおにぎて)を、天日鷲神(あめのひわしのかみ)には白和幣(しろにぎて)を作らせ、建葉槌命(たけはづちのみこと)には文布(あやぬの)を織らせ、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)には神衣を織らせ、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)には刀・斧・鉄鐸(さなぎ)を作らせ、手置帆負神(たおきほおいのかみ)・彦狭知神(ひこさしりのかみ)の二神には立派な御殿を造らせ、あわせて御笠や矛・盾を作らせた。そして山雷神(やまつちのかみ)には真榊(まさかき)を採らせ、野槌神(のづちのかみ)には野薦(ぬすず)を採らせて、玉串を作らせた。榊の上の枝には玉を懸け、中の枝には鏡を懸け、下の枝には和幣を懸けた。準備がすべて整うと、常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて互いに長く鳴かせた。さらに天鈿女命(あめのうずめのみこと)に庭火(にわび)を焚かせて舞い踊らせ、神々もこれに合わせて歌い舞った。天太玉神と天児屋命(あめのこやねのみこと)が進み出て幣物を供え、祝詞を唱えて祈り請うた。日の神はこれを聞いて「私が神々の言葉を聞くに、これほど美しいものはかつてなかった。私が隠れている今、地上はきっと常闇(とこやみ)になっているはずなのに、天鈿女たちはどうしてこのように喜び楽しんでいるのだろうか」と思い、少し戸を開けて覗き見た。すると側に控えていた天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)がすぐさま戸を引き開け、日の神を新しい御殿へお移し申し上げた。天児屋命と天太玉神は、日の神の御座の後ろに標縄(しめなわ)を張り渡して「どうかもう二度とお戻りになりませんように」と申し上げた。そして大宮売神(おおみやのめのかみ)を御前に仕えさせ、よい言葉と美しい言葉で御心を和ませた。豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)・櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)の二神は御殿の門を守った。こうして天地は再び明るくなり、神々は大いに喜んだ。(注:「結局」以下は『古語拾遺』を参照して補った。)およそ朝廷の祭祀の儀礼はみなこの出来事に起源をもつ。詳しくは「礼楽志」を見よ。

神々はそこで素戔嗚尊に責めを負わせ、千座置戸(ちくらのおきど)という多くの祓えの品を科した。また彼の爪や髪を抜いて、罪を贖わせた。天児屋命に大祓(おおはらえ)の詞を唱えさせ、根の国へ追放した。およそ祭祀で罪を犯した者に祓えを科して罪を贖わせるという制度も、ここに始まる。

素戔嗚尊はついに降って新羅国(しらぎのくに)へ渡り、曽尸茂梨(そしもり)の地に着いて「私はこの地に住みたくない」と言った。そこでまた東へ渡り、出雲(いずも)の簸(ひ)の川上、鳥上峰(とりかみのみね)に着いた。ちょうど川上で泣き声が聞こえたので、尋ねて行ってみると、そこには国つ神がいて、夫は脚摩乳(あしなづち)、妻は手摩乳(てなづち)といった。素戔嗚尊が「なぜ泣いているのか」と尋ねると、彼らは「この地には八岐大蛇(やまたのおろち)がいて人を害しています。私たちには八人の娘がいましたが、みなその大蛇に食われてしまいました。今残っているのは一人だけですが、今度はその娘が食われようとしています。それで泣いているのです」と答えた。素戔嗚尊は「私は天照大神の弟である。おまえの娘を私に差し出さないか。私がおまえのために大蛇を退治してやろう」と言った。脚摩乳は「謹んで仰せに従います」と答えた。素戔嗚尊は大蛇の様子を詳しく尋ね、夫婦に酒を醸させ、それを八つの槽(ふね)に満たして待ち構えた。

期日になると大蛇が現れ、酒を飲んで酔い、眠り込んだ。素戔嗚尊は剣を抜いてずたずたに斬ったが、尾を斬るときに刃が少し欠けたので、割いて中を見てみると、一振りの剣が出てきた。素戔嗚尊は「これは神剣である。私が私するようなものではない」と言って、天の神に献上した。これがいわゆる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。もともと大蛇が住んでいた場所には常に雲気がたなびいていたので、この名がついた。脚摩乳は実は大山祇命の子であり、その娘こそ奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)である。

素戔嗚尊はさらに別の地に至り、「私の心は清らかになった」と言って、その地に宮殿を建て、妃の奇稲田姫と共に住んだ。生まれた子が大己貴命(おおなむちのみこと)である。そこで脚摩乳・手摩乳の夫婦を宮の首長とし、稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)の号を授けた。素戔嗚尊はその後、熊成峰(くまなりのみね)に住み、やがて根の国へ赴いた。(注:『日本書紀』『古事記』による。)

あるいはこうも言われる。素戔嗚尊は奇稲田姫を娶り、八島士奴美神(やしまじぬみのかみ、注:『日本書紀』では「八島篠」、また「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠」、あるいは「清之繫名坂輕彦八嶋手」とも書く)を生んだ。八島士奴美は布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生み、布波能母遅久奴須奴は深淵水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)を生み、深淵水夜礼花は淤美豆奴神(おみづぬのかみ)を生み、淤美豆奴は天冬衣神(あめのふゆきぬのかみ、注:「冬衣」は一説に「葺根」とも書く)を生んだ。天冬衣の子が大己貴である。(注:『古事記』による。)

初め、素戔嗚尊には他にも男女の子があった。五十猛命(いたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)、大年神(おおとしのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)である。大年神はさらに大国御魂神(おおくにみたまのかみ)、御年神(みとしのかみ)、奥津日子神(おきつひこのかみ)、奥津比売神(おきつひめのかみ)を生んだ。

素戔嗚尊は木材を国の用に役立てようと、盛んに木の種を播いた。五十猛命は二人の妹とともにその事業を受け継ぎ、山林に木を植え育て、材木は使い切れないほどになった。それゆえ世の人は五十猛を功績ある神と称える。この三神はついに紀伊国(きのくに)に鎮座した。大年神と御年神は民に農耕の技術を教え、穀物の収穫に大きな功績があった。(注:「民に教え」以下は『古語拾遺』『延喜式』を参照して補った。)宇迦之御魂はおそらく穀物の神であり、大国御魂もまた国を治める功績があったとされる。奥津日子・奥津比売は民に火を用いて食物を調理する術を教えたので、世の人は竈(かまど)の神として祀っている。(注:『日本書紀』『古事記』を参照。)

大己貴には異母兄弟が多くおり、これを八十神(やそがみ)という。八十神は大己貴を妬み、共謀してこれを除こうとした。大己貴はたびたび大きな災難に遭い、ほとんど逃れられないほどであった。母はこれを憂い、大己貴を根の国へ行かせ、素戔嗚尊のもとに身を寄せさせた。素戔嗚尊もまたさまざまな苦難を与えて大己貴を試したが、大己貴は少しも屈することがなかったので、素戔嗚尊は内心ひそかに彼を愛し重んじるようになった。大己貴はついに素戔嗚尊の宝刀と弓矢を得て帰り、異母兄弟たちを追い払って、大国主神(おおくにぬしのかみ)として立てられた。これは実に素戔嗚尊の命によるものである。(注:『古事記』による。)

この後、大己貴は少彦名命(すくなびこなのみこと)と心を一つにして力を合わせ、天下を経営した。医薬の方法を定めて人民や家畜を救い養い、まじないによる禁厭(まじない)の法を定めて鳥獣や昆虫による災いを祓った。人々はみなその恩恵をこうむった。少彦名は高皇産霊尊の子である(注:『古事記』では神産霊の子とする)。大己貴は少彦名に「私とあなたが造ったこの国は、うまくできあがったと言えるだろうか」と尋ねた。少彦名は「うまくいった部分もあれば、うまくいかなかった部分もある」と答えた。この問答には、深い意味が込められているのであろう。少彦名はやがて去って常世国(とこよのくに)へ赴いた。

大己貴は一人で天下を巡り歩き、まだ整っていないところを整えた。出雲に至り「葦原中国はもとより荒れ果てていた。岩や草木に至るまで、みな荒々しく強暴であった。しかし私はすでにこれを制圧し、従わないものはなくなった。今、天下を治めるのは、ただ私一人だけである」と言った。すると一柱の神が、光り輝いて海を照らしながらやって来て「あなたがこの大きな事業を成し遂げられたのは、ひとえに私がいたからである。私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である。あなたは私を日本の三諸山(みむろやま)に祀るのがよい」と言った。そこで大己貴は宮を建ててこの神を祀った。これが大三輪神(おおみわのかみ)、またの名を大物主神(おおものぬしのかみ)である。(注:『古事記』には、大己貴が少彦名がすでに去ってしまったことを憂えて「私は一人でどうしてこの国を治めることができようか。誰と共に事を成し遂げればよいのか」と言うと、そのとき一柱の神が海を照らしてやって来て「もし私を祀るならば、私はあなたと共にこの国を治めよう。そうしなければ、事業を成し遂げるのは難しいだろう」と言った。大己貴はその教えに従い、倭(やまと)の青垣(あおかき)の東の山の上にこの神を祀った。これがすなわち御諸山(みむろやま)の神である、とある。これは本文とはやや異なる。)

大己貴はすでに天下を治め整え、その功績はきわめて大きかった。そこで世の人は、その天下を平定した功績を称えて、大国主神、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)、国作大神(くにつくりのおおかみ、注:「国作大神」は『延喜式』による)と呼んだ。また、その優れた武勇と偉業が国中に及んだことを称えて、八千戈神(やちほこのかみ)、葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ)とも呼んだ。

大己貴には子が全部で百八十一柱あり、その中でも八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、賀夜奈流美神(かやなるみのかみ)が最も著名である。(注:『日本書紀』による。建御名方は『古事記』による。賀夜奈流美は『延喜式』による。『古事記』には鳥鳴海神(とりなるみのかみ)とあるが、おそらくこの神であろう。)

天照大神は太子の天忍穂耳尊を葦原中国に降し、その地の主として立てようとした。そこで高皇産霊尊の娘、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと、注:一説に「栲幡千千姫萬幡姫」、また「天萬栲幡千幡姫」、あるいは「萬幡豊秋津師比売」とも書く)を妃として配した。

太子は天の浮橋に立って、葦原中国の様子をうかがった。そして「妖しい者どもがまだ滅びておらず、邪悪な神々が我が物顔にのさばっている。私は降りて住みたくない」と言って、その様子を天に戻って報告した。天照大神はそこで高皇産霊尊と相談し、神々を大いに集めて「葦原中国は我が子孫が王として治めるべき地である。ところがかの邪神・鬼どもが集まり騒いでやまない。今これを平定しようと思うが、誰を遣わすのがよいか」と仰せられた。神々はみな「天穂日は雄々しく優れており、用いるのがよいでしょう」と言った。そこで天穂日に命じて遠征させた。ところが天穂日は大己貴のもとにとどまり、久しく復命しなかった。そこでその子の大背飯三熊之大人(おおせいのみくまのうし)を遣わして問いただしたが、これも報告してこなかった。神々はさらに天稚彦(あめわかひこ)を推薦して「これは壮士である。試してみるのがよい」と言った。そこで弓矢を授けて遣わした。ところが天稚彦は大己貴の娘を娶り、中国(なかつくに)を我が物にしようという心を抱いたため、ついに神罰を受けて亡くなった。(注:『日本書紀』『古事記』を参照。)

天照大神は再び神々を集めて相談した。神々はみな「経津主神(ふつぬしのかみ)ほどの神はいないでしょう」と言った。すると武甕槌神が進み出て「経津主だけが立派な男であって、私は立派な男ではないとでも言うのか」と、激しい語気で述べた。そこで二神を遣わすことに決まった。(注:『日本書紀』による。『延喜式』には、天穂日はすでに下界を巡視し終えて大己貴を懐柔し、「国には強暴な者が多いですが、私が撫で鎮めることができ、必ず太子にこの国をお治めいただけるようにいたします」と復命したので、その子の天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)を使いとし、経津主命を副えて遣わすことを願い出たとある。『古事記』には、天照大神が神々に中国へ遣わすべき者を尋ねたところ、みな「天安河の上流に伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)がおります。この神を用いるのがよいでしょう。そうでなければ、その子の武甕槌神がよいでしょう」と答えたので、天迦久神(あめのかくのかみ)を遣わして尾羽張に尋ねさせると、尾羽張は「謹んで仰せを承ります。しかしこの度は、どうか武甕槌を遣わしてください」と答えたので、これを推薦した。そこで天鳥船命(あめのとりふねのみこと)を副えて遣わしたとある。それぞれの伝えには少しずつ違いがある。)

二神はすでに出雲の五十田狭(いたさ)の小汀(おはま)に降り立ち、武甕槌神が十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに地に突き立て、その切っ先の上に胡坐(あぐら)をかいて座り、大己貴に会って「天照大神と高皇産霊尊が、神の御子孫をこの中国の君主にしようとお望みである。おまえはこの国を差し出す気があるかないか」と問うた。大己貴は「私からまず子の事代主(ことしろぬし)に告げ、それから返答いたしましょう」と答えた。そのとき事代主は出雲の三穂(みほ)の崎にいたので、使いを遣わして尋ねさせた。事代主は使者に「天の神からの仰せです。父がどうしてこれに従わずにいられましょうか。私もあえて命に逆らいません」と言い、自ら身を退いて去った。使者は戻ってこれを報告した。(注:『日本書紀』『古事記』による。)

ちょうどそこへ建御名方神(たけみなかたのかみ)が大きな岩を持ち上げてやって来て、二神を見て「誰だ、ここでこそこそ話しているのは。それならば私と力比べをしよう」と言った。そこで進み出て武甕槌の手を取って力比べをしたが、かなわなかった。建御名方は大いに恐れて逃げ出し、科野国(しなののくに)の洲羽(すわ)の諏訪まで逃げた。武甕槌はこれを追いかけ、討ち取ろうとした。建御名方は「どうか私を許してください。私はもう二度とよそへは行きません。父や兄の命にも逆らいません。謹んでこの国を天の神の御子孫に献上いたします」と言った。そこで武甕槌はこれを許して戻った。二神はさらに大己貴に詰め寄って尋ねた。大己貴は「二人の子がどちらも命に従ったのですから、私がどうして逆らいましょうか。どうか天の神の御子孫の宮殿のように立派な私の住まいを建ててください。そうすれば私は長くそこに隠れ住みましょう」と答えた。(注:『古事記』による。)

二神は天に戻って復命した。高皇産霊尊は再び二神を遣わして大己貴にこう伝えさせた。「おまえが治めてきた目に見える現世の事は、今後は天の神の御子孫に治めさせることにする。おまえは目に見えぬ幽事(かみごと)を治めるがよい。今おまえの住まいを建てるにあたっては、その造りを壮大にし、多くの職掌や漁労・耕作の道具を備え、天穂日に永くおまえに仕えさせよう。また、おまえは国つ神の娘を妻としているが、私はなお心が隔たっているように思う。そこで私の娘、三穂津姫(みほつひめ)をおまえの妻として娶らせよう」と。大己貴は「これほど丁重な神の仰せを、私がどうして従わずにいられましょうか。もし私が抵抗すれば、国つ神たちも抵抗するでしょう。しかし今、私はすでに国を差し出しました。誰があえてこれに従わないでしょうか。また事代主が天の神の御子孫の左右にお仕えするのであれば、私の子である百八十神(ももやそがみ)もみな服従いたすでしょう」と答えた。そして携えていた広矛(ひろほこ)を二神に授けて「私はこの矛で、ついに国を平定する功績を上げました。天の神の御子孫がこれをお用いになれば、国は必ずおのずと平和に治まるでしょう」と言った。さらに岐神(ふなとのかみ)を推薦して「この神は私に代わってお仕えすることができます」と言い、言い終わると長く姿を隠した。二神はそこで岐神を道案内として国中を巡り平定し、建葉槌命に命じて悪神である香香背男(かかせお)を討ち滅ぼさせた。こうしてことごとく従わない者を誅伐し、帰順した者には褒美を与えた。事代主以下八十万の神々を率いて天に昇り復命した。二神はついに東国(あづまのくに)に鎮座し、皇威を海の果てまで宣揚した。経津主命は香取大神(かとりのおおかみ)となり、武甕槌命は鹿島大神(かしまのおおかみ)となり、建葉槌命は倭文神(しとりのかみ)となった。(注:『古事記』による。「ついに鎮座し」以下は『古語拾遺』『常陸国風土記』『延喜式』を参照して補った。)

中国(なかつくに)がすでに平定されたので、天照大神は太子を遣わしてこれを統治させようとした。しかしそのとき太子にはすでに二人の皇子があった。長男を天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)といい、これが尾張連(おわりのむらじ)らの祖である。次男を天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)といい、またの名を天之杵火火置瀬尊(あめのきほほおきせのみこと、注:一説に「天杵瀬」とも書く)という。天祖天照大神と皇祖高皇産霊尊は、とりわけ彦火瓊瓊杵尊を寵愛し、皇孫命(すめみまのみこと)と呼んだ。(注:「呼んだ」以下は『古語拾遺』による。)

太子はそこで皇孫を自分に代わって降し、中国の主とすることを願い出た。二柱の祖神はこれを許した。そこで皇孫に命じて、葦原中国に降って治めさせることにした。そして八阪瓊の勾玉、八咫鏡、天叢雲剣の三種の神宝を授け、これを皇位の証とした。(注:「皇位の証とした」以下は『古語拾遺』による。)また護齋鏡(ごさいのかがみ)二面と子鈴(こすず)一揃いを授けた。(注:「また授け」以下は『釈日本紀』『明文抄』、ならびにこれらが引く『大倭本紀』による。)さらに常世思兼神・天手力雄命・豊磐間戸神・櫛磐間戸神の四神を副え、また中臣連(なかとみのむらじ)の祖である天児屋命、忌部首(いんべのおびと)の祖である天太玉命、猿女君(さるめのきみ)の祖である天鈿女命、鏡作造(かがみつくりのみやつこ)の祖である石凝姥命、玉作連(たまつくりのむらじ)の祖である櫛明玉命の五部(いつとも)の神々に供をさせた。

天祖はそこで皇孫にこう仰せられた。「葦原千五百秋瑞穂国は、おまえがそこへ行って治めるがよい。皇位の繁栄は、天地とともに窮まりないであろう」と。また特に宝鏡を手に持って、「皇孫よ、この鏡を私の魂として、私を見るのと同じように見なさい。同じ床、同じ殿に置いて、これを斎(いつ)き祀る鏡としなさい」と祝福された。そして思兼神を御前に控えさせて政をとらせ、天児屋命・天太玉命を殿内に侍らせて守護させ、さらに「私が高天原で作っている斎庭(ゆにわ)の稲穂を、また皇孫にも捧げるがよい」と仰せられた。皇祖はさらに天太玉命・天児屋命に「私は天の神籬(ひもろぎ)と天の磐境(いわさか)を立てて、皇孫のために祭祀を行おう。おまえたち二神は神籬を奉じて中国へ降り、同じく祭祀を行うがよい。また太玉は諸部の神々を率いて、その職務を天上と同じように奉仕させよ」と仰せられた。(注:「また」以下は『古語拾遺』による。)

こうして皇孫は天の磐座(いわくら)を離れ、中国へ降臨した。大伴連(おおとものむらじ)の祖である天忍日命(あめのおしひのみこと)と、久米直(くめのあたい)の祖である天津久米命(あまつくめのみこと)が、詔を奉じて弓矢を執り先導した。五部の伴領(とものかしら)たちはさらに二十五の物部(もののべ)を率い、武具を帯びて従った。この事は「兵志」に詳しく述べる。そのほかの神々、天香語山命(あめのかごやまのみこと)、天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)、天道根命(あめのみちねのみこと)、天神玉命(あめのかみたまのみこと)、天椹野命(あめのくののみこと)、天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、天村雲命(あめのむらくものみこと)、天神立命(あめのかんたちのみこと)、天御蔭命(あめのみかげのみこと)、天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)、天斗麻弥命(あめのとまみのみこと)、天背男命(あめのせおのみこと)、天玉櫛彦命(あめのたまくしひこのみこと)、天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)、天神魂命(あめのかんたまのみこと)、天三降命(あめのみくだりのみこと)、天日神命(あめのひのかみのみこと)、天乳速日命(あめのちはやひのみこと)、天八阪彦命(あめのやさかひこのみこと)、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)、天伊岐志邇保命(あめのいきしにほのみこと)、天活玉命(あめのいくたまのみこと)、天少彦根命(あめのすくなひこねのみこと)、天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)、天表春命(あめのうわはるのみこと)、天下春命(あめのしたはるのみこと)、天月神命(あめのつきのかみのみこと)らも、みな護衛として供をした。(注:「五部」以下は『旧事本紀』による。『旧事本紀』はこの五部の伴領以下の神々を饒速日命(にぎはやひのみこと)に従って中国に降った神々とするが、おそらく後の付会であろう。詳しくは「兵志」に説く。)

そこへ先に道を偵察していた者が戻って報告し「途中に一柱の神がおり、鼻が長く背も高く、口や尻は明るく赤く光り、目の光は鏡のようで、まともに見ることができません」と言った。そこで天鈿女命を遣わして「皇孫がこれから中国に赴かれます。この道を塞いでいるのはどなたですか」と問わせた。すると「私は国つ神の猿田彦(さるたひこ)です。皇孫が降臨なさると聞いたので、お迎えに参りました。私が先導いたしましょう。皇孫は筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)、襲(そ)の高千穂の峰にお着きになるのがよいでしょう。私はこれから伊勢(いせ)の狭長田(さなだ)の五十鈴川(いすずがわ)の上流に参ります。あなたはどうか私をそこまでお送りください」と答えた。天鈿女命が戻ってこれを報告した。そしてその言葉のとおり、皇孫はついに高千穂の峰に降り立ち、そこから国見をして巡り歩き、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天の浮橋から吾田(あた)の長屋の笠狭(かささ)の岬に至った。そこに国つ神があり、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)、またの名を塩土老翁(しおつちのおじ)といい、実は伊弉諾尊の子であったが、進み出て「どうかこの国を皇孫に献上いたします」と申し上げた。皇孫は「この国は朝日が真っすぐに射し夕日が輝く、実によい土地である」と言い、宮殿を建ててそこに住んだ。天鈿女命は猿田彦を伊勢まで送り届け、そのついでにあまねく海産物を調べて、朝廷に献上する品を定めて戻った。これがいわゆる島の速贄(はやにえ)である。(注:『日本書紀』『古事記』を参照。)

そのとき天児屋命は、子の天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)に、食事に用いる清らかな水を天の神に求めさせた。天の神は天の玉櫛(たまくし)を授けて「この櫛を地面に挿して祈れば、竹が群がり生え、その下に必ず水があるだろう」と教えた。そのとおりにすると、教えのとおり清らかな泉が湧き出た。(注:考えるに、『神宮雑例集』『神名秘書』などが引く『大同本記』には、皇孫が治める国の水がまだ清らかでおいしくないというので、天叢雲命(あめのむらくものみこと)・天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を遣わして天祖に申し上げさせたところ、天祖は天忍石長井(あめのおしいわながい)の水を取ってこれを授け、「この水で神饌(みけ)を調え、朝夕にお供えするのがよい。また残った水は国の水に注ぎ、天から降ってきた神々にも分け与えるように」と仰せられたとある。そこで天叢雲命・天牟羅雲命は戻ってこれを皇孫に献上したという。本文とは少し異なるが、趣旨は同じ一つの出来事であろう。一方は朝廷の側から、もう一方は神宮の側から語っているため、伝えが異なるのである。ただし天叢雲・天牟羅雲と天忍雲根とは名がよく似ており、『大同本記』の誤りかもしれない。参考として付しておく。)

天児屋命は天の神の命に従って、斎忌(ゆき)・主基(すき)の二国を占いで定め、これに供奉する官を立てた。斎庭に新穀を納め、身を清め沐浴して、黒酒(くろき)・白酒(しろき)を醸し、大膳(おおにえ)の飯を炊いて、天の神に献上した。そして天の神に寿詞(よごと)を奏上した。大嘗祭(だいじょうさい)はここに起源をもつ。(注:『台記別記』が引く「天神寿詞」による。「その子」は『尊卑分脈』による。)

皇孫はすでに宝鏡を奉じて天祖の神として祀り、天懸大神(あまがかりのおおかみ)と呼んで、同じ殿、同じ床に置くことを常とした。これが今の伊勢の崇め祀る大神である。護齋鏡は、一つは国懸大神(くにかかすのおおかみ)と呼ばれ、今は紀伊の名草宮(なぐさのみや)にある。もう一つは御食津神(みけつかみ)と呼ばれ、今は度会宮(わたらいのみや)にあり、これが豊受大神(とようけのおおかみ)である。子鈴は巻向穴師神(まきむくのあなしのかみ)となった。(注:『大倭本紀』『倭姫命世記』による。『大倭本紀』には誤りや脱落があるので、今は『倭姫命世記』によってこれを正した。詳しくは下に述べる。)豊磐間戸神・櫛磐間戸神の二神は天石門別神(あめのいわとわけのかみ)と呼ばれ、御門(みかど)の神となった。手力雄命は佐那県(さなのあがた)の神となった。猿田彦は宇治土公(うじのつちぎみ)の祖となった。(注:『古事記』による。)

およそ天から降ったすべての神々のうち、天児屋命・天太玉命・天忍日命・天津久米命のような神々は、子孫が代々受け継いで朝廷を助け、文武の政を司った。その他の神の子孫たちも、あるいは国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)となり、あるいは氏を定め姓(かばね)を賜り、それぞれ祖先の事業を受け継いで、天孫に仕え奉った。そして朝廷もまた昔の功績を記録して、礼典によって秩序立てた。それゆえその祖先の神々は、代々にわたって祭祀を受け、国家とともにその幸いを長く保ってきたのである。いわゆる「皇位の繁栄が天地とともに窮まりない」というのも、この理由によるのである。(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』『姓氏録』『延喜式』の大意を参酌した。)この事は下文および「氏族志」を見よ。

彦火瓊瓊杵尊は笠狭(かささ)の宮にあって、大山祇命の娘、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妃として娶った。(注:『日本書紀』の一説には、またの名を神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)ともいう。)二人の子が生まれ、一人を火闌降命(ほすそりのみこと)、もう一人を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、またの名を火折尊(ほおりのみこと)といった。(注:一説に「火夜織」とも書く。『古事記』には、火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の三子が生まれたとある。火照は隼人(はやと)の阿多君(あたのきみ)らの祖である。また『日本書紀』の一説には、火明命(ほあかりのみこと)を火火出見尊の兄弟とするが、おそらく誤りであろう。)

火闌降命と彦火火出見尊は、山と海のそれぞれの仕事をめぐって争い、ついに恨みを抱く仲となった。彦火火出見尊はこれを憂え、塩土老翁の計略を用いて、海神の宮に身を寄せた。海神豊玉彦(とよたまひこ)はその事情を察し、潮満瓊(しおみつたま)・潮涸瓊(しおふるたま)の二つの珠を授け、あわせて呪術を教えて、兄を懲らしめさせようとした。彦火火出見尊は戻ると、海神の教えのとおりに珠を用いて呪いをかけた。火闌降命は果たしてひどく困り果て、弟には神の徳があると認めて、ついに自ら俳優(わざおぎ)の民となることを願い出て、代々仕えるようになった。これが隼人らの祖である。彦火火出見尊は高千穂宮にあって、豊玉彦の娘、豊玉姫(とよたまひめ)を妃として娶り、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)が生まれた。

葺不合尊は豊玉彦の娘、玉依姫(たまよりひめ)を妃として娶り、四人の子が生まれた。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、彦稲飯命(ひこいないのみこと)、三毛入野命(みけいりののみこと、注:『日本書紀』の一説には「入」の字がない)、狭野命(さののみこと、注:『古事記』では御毛沼(みけぬ)と書く)である。(注:『日本書紀』の一説では兄弟の順序にかなり異同がある。ここでは詳しく注記しない。)

このとき、世はまだ草創の混沌とした時代にあり、運も未だ開けきっていなかったので、三代にわたってみな西の辺境を治め、西国の宮で崩じた。狭野尊はその後、大八洲をすべて治めるようになり、橿原宮(かしはらのみや)で天皇の位に即いた。神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と号し、これが太祖神武天皇である。(注:『日本書紀』『古事記』を参照し、「太祖」は『革命勘文』による。)初め天忍穂耳尊は高天原にとどまっていたので、これも天祖と称される。彦火瓊瓊杵尊が天祖の系統を継いで中国の主となってから、三代を経る間、みな天津日高(あまつひこ)の号を持っていたので、後の世でもみな尊んで天祖と称するのである。天子は代々天祖の子孫として、神器を伝えて天下に君臨するので、皇位を天津日嗣(あまつひつぎ)と称する。すべて祭祀において中臣が祝詞を宣するとき、高皇産霊尊・神皇産霊尊を、神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)と称える。天照大神・高皇産霊尊の皇祖二神についても、この呼び方を用いる。なお神祖(かむおや)・神妣(かむみおや)とも言い、天子を皇御孫命(すめみまのみこと)と称するのも、みな太古からの遺制なのである。(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』『延喜式』などの大意を参酌した。)