卷之二百八十八 志第卌五
國郡四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶河内国は大国である。古くは凡河内(おおしこうち)といい、西北を大河が巡っていたことからこの名がついた。神武天皇(太祖)が東征の際、ここで兵を整えられた。天下平定の後、彦已曾保理命(ひこいそほりのみこと)を国造とした。ついで志紀・紺口・三野・茅渟の県主を置き、丹比・長野・古市・樟葉・伊迦賀・櫻井・大戸・豊浦・額田・石川・日下・石津・更荒・坂本・高安・飛鳥・澀河・茨田・依綱・狭山などの地がこれに属した。後にこれらを郡・郷として立てた。大化の改新で管轄する郡は十八となった。和銅六年、「凡」の字を省いた。霊亀二年、和泉・日根の二郡を割いて珍努宮に供し、ついで大鳥郡を加えて和泉監と号し、後に和泉国となった。養老四年、堅上・堅下を合わせて大県郡とした。神護景雲三年、由義宮を西京とし、河内職と改めた。宝亀元年、旧に復して国とした。管轄する郡は十四、郷は八十、国府は志紀郡にある。京師からの行程は一日。東は大和に至り、南は紀伊と境を接し、西は摂津・和泉に連なり、北は山城に隣する。峰々が東南を擁し、淀川が西北を巡り、大和川がこれを貫流する。後醍醐天皇の中興に際しては、楠正成が守護となった。後に足利義満は畠山義深をこれに代えた。
¶錦部郡(にしごりのこおり、または錦織とも書く)は小郡である。はじめは石川郡に属していたが(仁徳天皇の時代に石川錦織首という者があり、その地名を氏としたという)、後に郡として立てられた。文武天皇三年、この郡が白い鳩を献上したので、詔により一年間の税役を免除された(郡名がここに初めて見える)。東は石川郡に至り、南は紀伊国伊都郡と境を接し、西は和泉国大鳥郡・和泉郡の二郡に連なり、北は丹比郡に接する。管轄する郷は二つ。
¶餘戸(あまるべ)。(今の丹南郡西境に南北餘部村がある。)
¶百済(くだら)。(今は所在不詳。)敏達天皇は即位の際、百済大井(くだらのおおい、今の太井村)に宮を置かれた。十二年、謀臣の日羅(にちら)が百済からの使者に殺害され、勅により日羅の妻子を石川郡の百済村に、水手(かこ)を大伴村(今の大友村、石川郡北境にあり本郡と接する)に置かれた。賊を下百済阿田村に捕らえたのも、まさにこの地である。大澤嶺(郡の東南にあり、大和との境をなす)があり、石見川がここから出る。鳩原(今の鳩原村)があり、文武天皇の時代に白い鳩をここで捕えたためにこの名がついた。石凝寺(址は錦郡村にある。宝亀年間に本郡の田三町を賜ったという)がある。建武年間には板持(いたもち)という地名があった(今の東西板持村)。古くは板茂連氏がここに住んでいた。観心寺(縁起実録帳による。観心寺村にある)があり、後村上天皇の行在所となった。観心寺陵があり、楠正成の墓もある(観心寺の後山にある)。正成が戦死した際、賊がその首を郷里に送り、ここに葬ったという。天野山(高向村の西南にある)があり、金剛寺がそこにある。正平年間、天皇の車駕がここに御幸し、天野行宮と号した。金胎寺城(址は嬉村にある)があり、建武年間に官軍がここに拠った。
¶石川郡は下郡である。はじめ武内宿禰がここに別業(別荘)を置いた。その子を石川宿禰と名づけ、子孫はこれを氏とした。東南は大和国葛上・葛下・忍海・宇智の四郡と境を接し、西は錦部・丹比の二郡に連なり、北は古市郡に接する(伊呂波字類抄によれば、後に本郡を分けて東条・西条とした)。管轄する郷は四つ。
¶佐備(さび)。(今の佐備村、郡の西にある。)佐備社があり、磯長(しなが)の地がある(今の葉室・春日・山田・太子の諸村がこれにあたる)。科長社があり、磯長山田陵・大坂磯長陵があり、厩戸太子磯長墓がある(墓は太子村にある)。鶯関(うぐいすのせき)がある。建長年間、石川荘という荘園があった。東条川・西条川の二川が合流して石川となる。壱須何社(いすかしゃ)がある。建武年間、加納荘・東山荘があった(今も加納・東山の二村が残る)。妙見寺(春日村にある)があり、紀吉継の墓がそこにある。
¶紺口(こんく、また咸古・感玖とも書く。今の甘南備・竜泉の二村にともに咸古社があり、それがその地である)。仁徳天皇の時代、感玖に大溝を掘り、石河(石川)の水を引いて田四万余頃を開墾したというのが、これである。咸古社・咸古佐備社がある。はじめは紺口県と称し、後に紺口・佐備の二郷となった。紺口県主がここに住んでいた。保元年間には紺口荘・中村荘といった(今も中村が残る)。竜泉峯(竜泉村にある)がある。正平年間、楠正儀・和田正武らがここに城を構えた。赤坂城(森屋村にある)があり、これは正成が拠った城で、楠氏の邸宅もあった(址は切山・森屋・下赤坂の三箇所にある)。千早山城(赤坂の東南、千早村にある)もまた正成が拠った城で、東は大和の金剛山に接し、千早川がここから出る。近隣には古い砦が多く、いずれも官軍が守ったところだという。
¶新居(にいい)。(本書には「雑居」とあるが誤りで、高山寺本により訂正した。その地は今は不詳。)
¶大国(おおくに)。(今は大黒村といい、古市郡に属する。)
¶古市郡は下郡である。古くは旧市邑(ふるいちのむら)といい、後に郡として立てられた。承和三年、本郡の空閑地を繁子内親王に賜った。東南は石川郡と境を接し、西は丹比郡に接し、北は安宿・志紀の二郡に連なる。管轄する郷は四つ。
¶新居。(今は不詳。)神亀年間、下新居郷宮処里という地があった。
¶尺度(さかど)。(「尺」は本書に「尸」とあるが、続日本紀および西琳寺文書により訂正した。今の東西坂田村がこれにあたり、郡の西南にある。)古くは坂門(さかど)と称した(尺度・坂門・坂田は音訓が通じる)。坂門原陵がある。神亀年間には尺度鴨里という地名があり、弘安年間には尺度荘といった。利雁社があり、戸刈池(坂田の北、蔵内村にある)は推古天皇十五年に開かれた(続日本紀にある尺度池とはこれである)。壺井荘があり、源氏が代々ここに住んだ(址は壺井村にある)。頼信・頼義・義家の墓がそこにある(通法寺村にある)。
¶坂本。(今の古市村。尺度の東北にある。)すなわち旧市邑であり、郡名はここに由来する。日本武尊白鳥陵がある(古市村にあり、いわゆる三陵の一つである)。古市村主はここを本拠とした。古市高屋丘陵・古市高屋陵がある。保元年間には古市荘といった。高屋社があり、高屋連もまたここを本拠とした(石川郡上太子村に高屋連枚人の墓があり、これと近接する)。恵我藻伏崗陵があり、また蓬虆丘(よもぎがおか)とも称する(延喜式によれば、古くは志紀郡に属していた)。石川はここに至って恵我川となる。餌香市(址は古市村にある)・長野邑があり、雄略天皇が餌香長野邑を物部目大連に賜ったのが、これである。後に会賀荘といった。飛鳥山(飛鳥村にある)・飛鳥戸社があり、物部飛鳥氏がここに住んだ。杜本社がある(この二社は古くは安宿郡に属していた)。飛鳥行宮があり(址は飛鳥村にある)、反正天皇が刺領巾(さしひれ)を誅したのはここである。後に飛鳥荘といい、西琳寺がある(古市村にある)。はじめは古市寺と称し、欽明天皇の時代に建てられた。郡家もまたここにあった。
¶安宿郡(あすかべのこおり)は小郡である。古くは近飛鳥(ちかつあすか)と称し、後に飛鳥戸郡といった。東は大和国葛下郡と境を接し、南は古市郡に接し、西は志紀郡に至り、北は大県郡に連なる。管轄する郷は三つ。
¶賀美(かみ)。(今は不詳。)古くは上村里といい、上村主がここに住んでいた。
¶尾張。(今は不詳。)尾張連の一族がここに住んだ。
¶資母(しぶ)。(今は不詳。)養老年間、本国の人である刀子作広麻呂が下村主の姓を賜り、やはりここに住んだ。玉手山(玉手村の東にある)があり、国分寺がある(址は国分村にある)。伯太彦・伯太姫社があり、博多川がある。田辺史(たなべのふひと)が代々ここに住んだ。
¶大県郡(おおあがたのこおり)は下郡である。古くは天津彦根命の裔である大県主氏がここに住んでいた。後に堅上・堅下の二郡に分かれた(県・堅は訓が同じ)。養老四年、今の名に定められた。東は大和国平群郡と境を接し、南は安宿郡に接し、西は志紀郡に隣し、北は高安郡に至る。管轄する郷は六つ。
¶鳥坂(とさか)。(今の高井田村。郡の南にあり、そこがその地である。)天湯川田社があり、鳥坂寺がある(別名を普光寺といい、址は高井田村にある)。竹原山・竹原井があり、厩戸太子がかつてここに遊ばれた。竹原井頓宮がある(いずれも高井田村にある)。元正・光仁の両天皇が行幸された。おそらく竹原連はここを本拠としたのであろう。
¶鳥取。(今の鳥坂の東、青谷村に鳥取という地がある。)鳥取氏がここに住んだ。
¶津積(つつみ)。(今の法善寺村。旧名を津積といい、郡の西南にある。)津積駅がある。
¶大里。(今の大縣村。津積の東にあり、これにあたる。)大里史(おおさとのふひと)がここに住んだ。大里寺がある。天平勝宝年間、天皇の車駕が河内に行幸し、智識寺の南の行宮に入り、智識・山下・大里・鳥坂など七つの寺に行幸して礼仏したというのが、これである。
¶巨麻(こま)。(今の本堂村。郡の東北にあり、そこがその地である。)大狛社があり、大狛連がここに住んだ。
¶賀美。(今の巨麻の南、雁多尾畑村。遺名が今も残る。)神護景雲年間、本郡の人である上村主五百公という者があり、おそらくここに住んだのであろう。金山孫女社がある。
¶高安郡は下郡である。孝徳天皇の時代、漢人の高安公陽倍が帰化し、これにより郡を立てて高安と名づけた。その一族には八戸・常澄の二氏があり、代々ここに住んだ。東は大和国平群郡と境を接し、南は大県郡に隣し、西は若江郡に接し、北は河内郡を限りとする。管轄する郷は四つ。
¶坂本。(今の垣内村。旧名を坂本といい、郡の南にあり、これにあたる。)母木邑(ははきのむら)がある(今の恩智村)。神武天皇(太祖)が東征の際、兵士が大樹に隠れて難を免れた。そこでその樹を指して「恩は母のようだ」と言われたので、この名がついた。恩智社・恩智山・恩智溝がある。応保年間には恩智荘といった。
¶三宅。(今の坂本の北、大漥村。地名が今も残る。)
¶掃守(かにもり)。(今の三宅の南、黒谷村に掃部社の址があり、それが名残である。)掃部社があり、掃守連がここに住んだ。
¶玉祖(たまおや)。(今の郡の北、神立村に玉祖社があり、それがその地である。)玉祖社があり、玉祖宿禰がここに住んだ。高安山(今は鉢伏山という)があり、ここに烽火台が置かれたが、和銅五年に廃止された。高安城がある(服部川村にある)。文武天皇二年に修築され、大宝元年に撤去された(日本書紀には倭高安城とある)。古くは総じて高安里と称した。高安造がここに住んだ。後に高安荘といった。
¶河内郡は下郡である。古くは凡河内国造が治めた地で、後に河内県といった。安閑天皇の時代、本県の部曲を三島竹村屯倉の田部に充てた。ついで郡として定められた。東は大和国平群郡と境を接し、南は高安郡に接し、西は若江郡に至り、北は讃良郡に及ぶ。管轄する郷は七つ。
¶英多(あがた)。(今の郡の西、吉田村に英多という地がある。)栗原社があり、中臣栗原連がここに住んだ。
¶新居。(今は新家村といい、英多の東南にある。)後に玉櫛荘といった(今も上島・池島など四村にわたり、玉釧荘と称する)。津原社・御野県主社がある(古くは若江郡に属していた)。すなわち三野県主が治めた地である。
¶桜井。(今の郡の南、六万寺村に桜井という地がある。)安閑天皇の時代、ここに屯倉を置かれた。桜井臣がここを本拠とした。桜井寺・桜井頓宮がある。保元年間には神並荘といった。往生院がある(六万寺林にある)。正平年間、楠正行がここに陣を構えた。
¶大宅(おおやけ)。(今は不詳。)大宅臣がここに住んだ。
¶豊浦(とよら)。(今の豊浦村。郡の東にある。)古くは上豊浦・下豊浦といった。枚岡社・平岡寺がある(出雲井村にある)。平岡連がここに住んだ。
¶額田。(今の額田村。豊浦の北にある。)額田部湯坐連がここに住んだ。額田寺がある(額田村にある)。
¶大戸(おおべ)。(今の神並・芝の二村。額田の北にあり、大枝と称する。枝と戸は音が通じる。)安閑天皇が日下大戸村に屯倉を置き、大戸首にこれを管掌させた。和銅年間、高見烽(たかみのとぶひ)を置いた(址は伊駒山の下、峠村の北にある)。いわゆる射駒山飛火とはこれである。草香嶺がある(一に日下とも書き、俗に闇嶺という)。古くは日下直越路(くさかのただこえじ)と称した(大和から難波へ赴くのに近道であったため、この名がついた)。山の麓を日下里という(今の日下村)。神武天皇(太祖)が長髄彦と孔舎衛坂で戦ったのは、まさにここである。日下連がここに住んだ。
¶讃良郡(さららのこおり)は下郡である。古くは更荒(さらら)と書いた(讃良と更荒は音訓が同じ。また更浦、更占とも書き、いずれも通じる)。おそらく韓人の娑羅羅氏がここに住んでいたことから、この名がついたのであろう。東は大和国平群・添下の二郡と境を接し、南は河内郡に接し、西は茨田郡に連なり、北は交野郡に至る。管轄する郷は五つ。
¶山家(やまが)。(今の寺川・野埼の二村を山家郷、また南条という。)保延年間、郷名は今も残っていた。
¶甲可(こうか)。(今の甲可南村。山家の北にある。)保延年間、郷名は今も残っていた。古くは甲賀村主がここに住んだ。河上哮峯(かわかみのたけるがみね)があり(田原村にあり、大和との境をなす)、一名を石船山という(住吉社神代記には饒速日山とある)。上古、饒速日命が天磐船に乗ってここに降臨されたという。四条畷があり、楠正行が戦死した場所である(北条村に属する)。その墓がある(南野村にある)。飯盛山城がある(北条村の東にある)。建武の初め、北朝方の軍がここに拠ったが、楠正成がこれを攻め取った。
¶枚岡(ひらおか)。(今は不詳。)応保年間には平岡荘といった。
¶高宮。(今の高宮村。甲可の北にある。)高宮社がある。古くは高宮村主がここに住んだ(本書によれば、阿智使主が漢人を率いて帰化し、その一族に甲賀村主・高宮村主があるといい、本郡に甲可・高宮の二郷があるのは、ここに住んだことによるとわかる)。保延年間、郷名は今も残っていた。讃良寺(岡山村にある)・讃良川があり、後に讃良荘といった。久安年間には田原東郷・西郷があった(今の上下田原村)。安貞年間には田原荘といった。
¶石井。(今は不詳。)
¶茨田郡(まんだのこおり)は中郡である。東は讃良郡に接し、南は若江郡および摂津国東生郡に連なり、西は淀川を隔てて摂津国東生・西成の二郡と境を接し、北は交野郡に至る。管轄する郷は八つ。
¶幡多(はた)。(今の秦・太秦の二村。讃良郡に属する。)天慶年間には秦郷があった(秦と幡多は音訓が通じる)。古くは秦宿禰・秦忌寸などがここに住んだ。
¶佐太。(今の佐太村。郡の西にある。)佐太宿禰がここに住んだ。佐太山(中振村の東にある)・佐太池・佐太川があり、大庭里がある(後に大庭荘といい、属邑は十一であった)。
¶三井。(今の三井村。郡の北にある。)保延年間、郷名は今も残っていた。
¶池田。(今の池田村。佐太の東北にある。)池田首がここに住んだ。久安年間、郷名は今も残っていた(本書によれば、別に大利・仁和寺・葛原の三郷があり、今もいずれも村名が残るという)。後に池田荘といった。建長年間には点野荘があった(今の点野村)。
¶茨田(まんだ)。(今の池田の東、平池村に茨田池があり、それが遺名である。)古くは郡家がここにあった。絶間江(今の太間村、すなわち絶間が転じたもの)・絶間池がある。茨田堤がある(遺址は北は伊加賀村から南は池田村に及ぶ)。仁徳天皇の時代、北河(今の淀川)が氾濫し、築いてはすぐに壊れることを繰り返した。天皇は夢のお告げにより、国人の茨田連杉子と武蔵人の強頸(姓は伝わらない)に、まず河伯を祭らせた。堤が完成すると、当時の人々はこれを強頸断間・衫子断間と呼んだ。その一族はここに住み、茨田連の姓を賜った。ついで茨田屯倉を置いた。堤根社・茨田寺がある。後に鞆呂岐荘(属邑は六であった)・高柳荘といった(今の高柳村)。
¶伊香(いかが)。(今の伊加賀村。郡の北にある。)久安年間、郷名は今も残っていた。意賀美社がある。
¶大窪。(郷名は今も残る。属邑は五で、佐太の南にある。)久安年間、上下の二郷に分かれた。
¶高瀬。(今は小高瀬荘と称し、諸口・横堤など六村を領し、郡の西南にある。)高瀬社・高瀬堤・高瀬里・高瀬川がある。保延年間には小高瀬郷があり、後に小高瀬荘といった。賀沼(一に浜治とも書き、今の浜はこれである)・大治江(今の大枝村)・赤江(今の赤井村)があり、これらを御領といった。天長八年、御用に供する赤江堤の内外二箇所を停止し、改めて竹門・賀沼絶間・大治の三箇所を定めた。大江御厨・勿入淵(もろいりぶち、諸福村にある)がある。
¶交野郡(かたのこおり。「交」は一に「片」とも書く)は下郡である。東は山城国綴喜郡・大和国添下郡と境を接し、南は讃良郡に至り、西は茨田郡に接し、北は摂津国島下郡を限りとする。管轄する郷は六つ。
¶三宅。(小倉村があり、茨田郡と接する。おそらく古い茨田屯倉であろう。)
¶田宮。(今の田宮村。郡の西にある。)片野社があり、交野忌寸がここに住んだ。交野原がある(今の禁野村。一名を御野といい、中宮・片鉾などの村々にわたる)。桓武天皇がしばしばここで狩りをされ、百済王の一族が行在所に供奉した。その一族は代々交野検校を務めた。百済寺がある。百済王の旧居であった(いずれも中宮村にある)。天川・鳥立原(中宮村にある)・百重原がある。保元年間には養父荘があった(今の養父村)。後に私部・茄子作・寺村の三郷となった(今も三村が残る)。
¶園田・岡本。(いずれも今は不詳。)古くは岡本氏がここに住んだ。
¶山田。(今の田宮の東北、田口村に山田池があり、それが遺跡である。)建久年間、郷名は今も残っていた。山田連がここに住んだ。仁明天皇の外祖母である田口氏の小山墓がある(田口村にある)。百済人の王仁の墓がある(藤坂村にある)。交野山がある(倉治村にある)。氷室がある。天長年間、本国に氷室三宇を置いたというのが、これである(址は傍示・杉・尊延寺の三村にある)。渚院があり、惟喬親王がかつてここに遊ばれた。渚社・渚岡がある(いずれも渚村にある)。
¶葛葉(くずは)。(今の楠葉村。郡の北にある。)武埴安彦が敗れたとき、その兵卒が恐れ慌てて屎を漏らし禅(衣の裾)を汚したので、その地を屎褌(くそはかま)と名づけた。後に樟葉というのは、その訛りである。久須婆渡(今の樟葉川)があり、億計・弘計の二王が難を避けてここを通り播磨へ赴いた。樟葉宮があり、継体天皇はここで即位された。右大臣藤原継縄の別業があった(址はいずれも楠葉村にある)。葛葉野があり、延暦年間、天皇がここで狩りをされた。楠葉駅があり、和銅四年に置かれた。葛葉関・楠葉牧・楠葉園がある。保延年間、郷名は今も残っていた。雄徳山がある。大同年間、御用の器を作るため、百姓の埋葬を禁じた(後に山城国綴喜郡に属した)。
¶若江郡は下郡である。東は高安・河内の二郡に至り、南は志紀・澀川の二郡に隣し、西は澀川郡および摂津国東生郡に連なり、北は茨田郡に接する。管轄する郷は七つ。
¶弓削(ゆげ)。(今の東弓削村。志紀郡の西弓削村と接する。)弓削社があり、弓削宿禰がここに住んだ。弓削行宮がある(址は東弓削村にある)。天平神護元年に行幸された。由義宮がある(址は八尾木村にある)。神護景雲三年、詔により西京とされ、その地は大県・高安などの諸郡にまたがった。弓削寺がある(東弓削村にある)。後に弓削荘といった。弓削河原がある。矢作社があり、矢作連がここに住んだ。八尾城があり、正平年間、官軍がここに拠った。長瀬堤がある。
¶刑部(おさかべ)。(今の刑部村。弓削の東北にある。)允恭天皇がここに刑部を置かれた。
¶新治。(今は不詳。)
¶巨麻。(今の刑部の北、下若江村に薬師寺があり、一名を巨麻堂といい、それが名の名残である。)若江鏡社がある。保元年間には若江荘があった。薬師寺がある。
¶川俣(かわまた)。(「俣」は本書に「保」とあるが誤りで、高山寺本により訂正した。今の川俣村。郡の西北にある。)また川派里(かわまたのさと)ともいう。川俣社があり、川俣公がここに住んだ。川俣江がある(今は曙川という)。鴨高田社がある(古くは澀川郡に属していた)。新家(にいのみ)の地があり(今の新家村)、新家首がここに住んだ。
¶錦部(にしごり)。(今の西郡村。巨麻の南にあり、旧名を錦部という。)錦部連がここに住んだ。孔太(あなた)の地があり(今の穴太村)、孔王部首がここに住んだ。
¶餘戸。(今は不詳。)
¶澀川郡(しぶかわのこおり)は下郡である。東北は若江郡に至り、南は志紀・丹比の二郡に接し、西は摂津国東生・住吉の二郡と境を接する。管轄する郷は五つ。
¶竹淵(たかぶち)。(今の竹淵村。郡の西南にある。)竹淵渠(たかぶちのみぞ)がある。
¶邑智(おち)。(今の大地村。郡の西にあり、旧名を邑智という。)横野社がある。仁徳天皇が横野堤を築かれたのが、これである。弘仁年間、相模宿禰の一族が大和から移り住んだ。保元年間には大地荘があった。衣摺(きずり)の地がある(今の衣摺村)。厩戸太子が澀河の家で物部守屋を攻めたとき、守屋が衣を朴(ほお)の枝にかけて雨をしのいだのは、これである。
¶餘戸。(今の東西出戸村。竹淵の南にあり、それが遺名である。)養老年間、丹比郡余戸郷余戸里という地があった(後に丹北郡に属した)。
¶跡部(あとべ)。(今の竹淵の東、東亀井村。属邑に跡部がある。)跡部社があり、阿刀連がここに住んだ。物部守屋の阿都別業があり、また澀河家とも称した。守屋の墓がある(太子堂村にある)。澀川荘がある。澀川社の所在地である(古くは若江郡に属していた)。龍華寺がある(址は植松村にある)。神護景雲年間、由義宮に行幸された際、寺の西に市場を設けて市人を招き集め、五位以上の従者に交易をさせたという(今も世場という地名があり、それがこれである)。許麻荘があり、許麻社がここにある。おそらく狛人がここに住んだのであろう。
¶賀美。(今の郡の西南、正覚寺村に遺名がある。)鞍作の地がある(今の鞍作村)。用明天皇の時代、鞍作氏がここに住んだ。
¶志紀郡(しきのこおり。「紀」は一に「幾」「貴」とも書く)は中郡である。古くは志紀県主が治めた地であった(古事記によれば、大和に師木県主があり、本郡はおそらくその分邑であろう。それゆえ同じく志紀と号したのである)。あるいは二郡に分かれていたこともあった(崇峻紀に志紀郡とあり、皇極紀に志紀上郡とあるので、下郡もあったことは明らかである)。後にこれを併せた。東は安宿・大県の二郡に至り、南は古市・丹比の二郡に隣し、西は丹比・澀川の二郡に連なり、北は若江郡に接する。管轄する郷は八つ。
¶長野。(今の郡の東南、国府村に恵我長野北陵があり、それが遺名である。)恵我長野西陵・北陵があり、長野社がある。長野連がここに住んだ。志紀辛国社があり、おそらく韓国連がここに住んだのであろう。
¶拝志(はやし)。(今の林村。国府村の西にある。)伴林氏神社があり、大伴氏の一族である林宿禰がここに住んだ。
¶志紀。(今の国府村に志貴県主社があり、それがその地である。)上古、県主がここを治めた。国司もまたここに置かれた。志貴県主社・志疑社がある。衣縫(きぬぬい)の地があり、衣縫氏がここに住んだ。衣縫金継女の墓がある(国府村にある)。永承年間には志紀荘といった。
¶田井。(今の田井中村。拝志の西北にある。)物部守屋の稲城があった(河内志には址は弓削村にあるといい、名所図会には丹北郡木本村にあるというが、いずれが正しいかわからない)。物部氏の一族である田井連がここに住み、後に田井荘といった。
¶井於(いのへ)。(今の田井の西北、老原村に遺名がある。「老」は旧字では「家」と書いた。)市辺井上寺里がある(井於と井上は訓が同じ)。家原寺がある(址は老原村にある)。天平勝宝八歳、ここに行幸された。承和年間、井於牧麻呂という者があり、おそらくこの土地の人であろう。
¶邑智。(今の井於の西、木本村に遺名がある。)
¶新家(にいのみ)。(今の新家村。丹北郡に属する。)新家首がここに住んだ。
¶土師(はじ)。(今の郡の東南、道明寺村に土師寺がある。)土師連がここに住み、これにより名づけられた。天夷鳥命社がある。土師寺があり、おそらく土師連八島が建てたものであろう(後に道明寺と称した)。土師泉があり、田に灌漑するのに用いられた。土師窯の址がある。応永年間、郷名は今も残っていた。片足羽川(かたあすはがわ)があり、河内大橋が架けられている。
¶丹比郡(たじひのこおり。「丹比」はまた丹治比とも書く)は中郡である。古くは丹比邑といった。仁徳天皇が諸国に多治比部を置き、多治比瑞歯別皇子(後の反正天皇)の湯沐邑としたが、これはその一つである。後に郡として立てられた(多治比と丹比は音が通じる。本書の注によれば、丹南・丹北の二つに分かれ、別に八上郡があったという。河内志によれば、それは八下郷の地であるといい、その分置がいつであったかは不明である)。承和年間、本郡の荒廃田を皇太后宮の後院に充てた。東は志紀・古市の二郡に接し、南は錦部郡に至り、西は和泉国大鳥郡・摂津国住吉郡と境を接し、北は澀川郡を限りとする。管轄する郷は十一。
¶依羅(よさみ)。(遺名は池内村に残り、丹北郡に属する。)物部依羅連がここに住んだ。崇神天皇の時代、依網池(よさみのいけ)を造った(河内志によれば、池は池内村にあるという)。阿麻美許曾社(あまみこそしゃ)がある。矢田部の地がある。矢田部首がここに住んだ。布忍(ぬのせ)の地がある(今は堀・向井など六村を布忍荘と称する)。布忍首がここに住んだ。布忍川があり、狭山池から発する。
¶黒山。(今の黒山村。依羅の南にあり、丹南郡に属する。)天平神護年間、本国に行幸された際、黒山の企師部(きしべ)に音楽を奏させた。企師部はおそらくここを本拠としたのであろう。毎年黒山の席(むしろ)を貢いだ。おそらくこの地から産出したのであろう。
¶野中。(今の野中村。丹南郡に属する。)野中社があり、野中寺がある(野上村にある)。葛井・船・津の三氏の墓がある。野上の地があり(今の野上村)、野上連がここに住んだ。埴生坂本陵がある。藤井寺がある(葛井寺村にある)。正平年間、楠正行が細川顕氏をここで討った。
¶丹上(たじょう)。(今の丹上村。黒山の北にあり、丹南郡に属する。)丹比柴籬宮がある(植田村にある)。丹比社があり、丹比連がここに住んだ。
¶三宅。(今の三宅村。依羅の東にあり、丹北郡に属する。)三宅史がここに住んだ。依網屯倉があり、皇極天皇の時代、百済の使者を召し、ここで狩猟をされた。三宅寺がある(三宅村にある)。天平勝宝八歳、天皇がここに行幸され礼仏された。酒屋社があり、中臣酒屋連がここに住んだ。樟本社・志紀長吉社がある(古くはいずれも志紀郡に属していた)。
¶八下(やしも)。(遺名は石原村にあり、今は八上郡と称し、十三村を領する。古くは八上・八下の二郷を置いたと思われる。)丹比行宮があり、天平神護年間に行幸された(址は小寺村にある)。直尻(なおしり)の地があり(今は野尻村といい、直と野は訓が通じる)、直尻家氏がここに住んだ(古くは和泉国大鳥郡に属していた)。
¶田邑(たむら)。(今の太井村に遺名があり、丹南郡に属する。)
¶菅生(すごう)。(今の菅生村。丹上の東南にあり、丹南郡に属する。)菅生社があり、菅生朝臣がここに住み、後に菅生荘といった。羽曳山(石川・古市・錦部の三郡にまたがる)・多遅比野・丹比丘がある。埴生坂があり、住吉仲皇子が反乱を起こして難波宮を焼いたとき、履中天皇はここに逃れて埴生坂に至り、火を望んで歌を詠まれたというのが、これである。
¶丹下。(今の西丹下村。丹上の東北にあり、丹南郡に属する。)大津社があり、丹比高鷲原陵がある。来目皇子の埴生山岡上墓があり、隼人の墓もある(岡上墓は大塚村にある)。
¶土師。(今の土師山村。三宅の東にあり、丹北郡に属する。)土師氏がここに住んだ。毎年土師鋺形(はじのまりがた)を貢いだ。松原荘がある。
¶狭山。(今の狭山村。菅生の西南にあり、丹南郡に属する。)臣狭山命がここに住み、その子孫はこれにより氏とした。狭山池がある(狭山村にあり、天野・小山田の二水がここに合流する)。垂仁天皇が開かれた。天平宝字年間、堤が決壊し、八万三千人を動員してこれを修築した。狭山社・狭山堤社がある。池尻の地がある(今の池尻村)。池後臣がここに住んだ。狭山下池がある(南野田村にある)。天平四年に開かれた(今は轟池という)。建久年間には狭山荘といった。
¶和泉国は下国である。古くは茅渟県(ちぬのあがた)といい、河内国に属していた(茅渟は一に血沼、または珍努とも書く)。神武天皇(太祖)が東征の際、兄の五瀬命が矢傷を負い、ここで傷を洗われたことからこの名がついた。後に県主を置いて治めさせ、男・石津・鳥取・日根の地がこれに属した。欽明天皇の時代、泉郡があった(おそらく後から書き加えられたものであろう)。清らかな泉が湧き出ることから、この名がついた。霊亀二年、珍努宮を置き、和泉・日根の二郡をこれに供し、ついで大鳥郡を加えて(この三郡の創置については史書に見えないが、おそらく孝徳天皇の時代であろう)、和泉監と改称した。天平十二年、監を廃して河内国に併合し、天平宝字元年、和泉国として独立させ、管轄する郡は旧に復した。天長二年、摂津国の江南四郡(東生・西成・住吉・百済の四郡をいう)を管轄したが、まもなく旧に復した。郷は二十四。国府は和泉郡にある。京師からの行程は上りが二日、下りが一日。東は河内に至り、南は紀伊と境を接し、西は海に臨み、北は摂津に連なる。源頼朝は佐原義連(さわらのよしつら)を守護に任じた。後醍醐天皇の時代には和田正武が守護となり、後に足利義満は山名氏清を守護とし、明徳年間には大内義弘がこれに代わった。
¶大鳥郡は中郡である。東は河内国丹比・錦部の二郡と境を接し、南は和泉郡に接し、西は海に至り、北は摂津国住吉郡に連なる。管轄する郷は十。
¶大鳥。(郷名は今も残り、属邑は六。郡の西南にある。)古くは郡家がここにあった。大鳥社がある。大鳥連がここに住んだ。延喜年間、大鳥・高槻・菅町の三里がこれに属した。正平年間には大鳥荘といい、安久名・利春名がこれに属した。高石池があり、垂仁天皇が開かれた(今は高石村がある)。高脚海(たかあしのうみ)があり、持統天皇の時代、漁猟を禁じられた。高磯浦・高脚浜があり、高石社がある。所石頓宮がある(舞村の旧名は取石といい、宮の址が今も残る)。神亀元年、天皇の車駕がここに行幸された。取石池がある(綾井荘にある)。おそらく取石造・高志連の二族がここを本拠としたのであろう。
¶日部(くさべ)。(高山寺本には日下部とあり、行基年譜も同じ。今は草部郷と称し、属邑は四で、大鳥の東にある。)神武天皇(太祖)が東征の際、難波から草香邑の白肩津に至り、長髄彦が迎え撃ったので、皇軍は盾を植えて陣を布いた。これにより盾津と号し、後に訛って蓼津といったのが、これである。垂仁天皇の時代、五十瓊敷入彦命が日下高津池を造られた(高津と蓼津は同じ地かもしれないが、今は不詳である)。日部社・日部駅があり、日下部首がここを本拠とした。菱城邑があり(今の菱木村)、菱木祠がある。仁賢天皇の時代、鹿父(しかちち)という者がここに住んだ。鶴田池がある(草木村にある)。
¶和田。(今の和田荘。属邑は六で、日部の東南にある。)和田首がここに住んだ。仁治年間、郷名は今も残り、惟宗忠時が地頭職に補せられた。正平年間には和田荘といった。美多弥社がある。民直(たみのあたい)がここに住んだ。檜尾池がある(今の檜尾村)。
¶上神(かみつみわ)。(郷名は今も残る。属邑は十三で、和田の東北にある。)古くは神直(みわのあたい)がここを本拠とした。国神社(国内神名帳には下神国津祠が載るが、今は所在不詳。下神は上神に対する称であり、古くは二郷があったのであろう。参考までに付す)・桜井社がある。大庭寺がある(址は大庭寺村にある)。大庭造・桜井朝臣はおそらくここに住んだのであろう。和田城がある(址は和田村に残る)。伝えによれば、和田高遠が築いたものという。
¶大村。(今の陶器上村に大村寺があり、それが遺名である。)古くは陶邑(すえむら)といった(古事記には河内美努村とある)。陶津耳命(すえつみみのみこと)がここに住んだ(舊事本紀には大陶祇、また茅渟祇とある)。その娘に活玉依姫(いくたまよりひめ)といい、大己貴神がこれに通じて櫛御方命を生み、その曾孫を大田田根子という。崇神天皇の時代、神のお告げがあり、召されて大己貴命を祭る神主とされた。後に今の名に改められた。大村山・大村寺がある(一名を増福寺という)。陶荒田社があり、大村直・荒田直がここに住んだ。陶山がある(陶器荘にある)。貞観年間、河内・和泉二国の民が新たに陶土を採掘する土地を争ったため、使者を遣わして検分させ、本国に属するものと定めた。
¶土師。(今の土師村。付近の八村とあわせて毛受荘と称し、郡の北にある。)古くは石津原といい、仁徳天皇がここで鷹狩りをされ、後に陵地と定められた。その時、百舌鳥(もず)が鹿の耳に食いついてこれを殺したことから、百舌鳥耳原と名づけられた(おそらく石津・塩穴の地にまたがるのであろう)。百舌鳥耳原中陵および北陵がある。土師連が代々ここに住んだことから、郷の名となった。土室(つちむろ)の地がある。文安年間には万代荘といった(あるいは毛受荘とも書く。毛受・万代は百舌鳥と音訓が通じる)。後に土師保といった。百済・凡人中家(おおしこうちのなかつえ)の地がある。おそらく百済・凡人中家の二氏がここに住んだのであろう。
¶蜂田(はちた)。(今の半陀郷。属邑は十二で、土師の南にある。半陀はすなわち蜂田が転じたものである。)蜂田社があり、蜂田連・蜂田薬師がここを本拠とした。蜂田寺がある(八田寺村にある)。後に八田荘といった。家原寺がある(家原村にある)。茨城池がある(平井村にあり、茨池という)。
¶石津。(郷名は今も残る。属邑は三で、蜂田の西にある。)はじめは石津原と称した。石津太社があり、石津連がここに住んだ。石津川があり、百舌鳥耳原南陵がある。
¶塩穴(しおあな)。(今の湊村。旧称を塩穴といい、石津の北にある。)文安年間、郷名は今も残っていた。塩穴寺がある(南荘にある)。延元年間には塩穴荘といった。葦田里・葦田浦がある。高渚院がある(址は南荘にある。宝亀年間、本郡の田三町を施入されたという)。界浦がある。後に界南荘・界北荘といった。
¶常陵(とこなみ)。(今の富木村。塩穴の東南にある。)等乃伎社(とのきしゃ)があり、中臣殿来連がここに住んだ。後に深井と改められた(今も深井郷といい、属邑は六である)。香琳寺があり(中深井村にある)、僧行基が建てた。寺に深井という井戸があり、郷の名はこれに由来する。薦江池がある。
¶和泉郡(一に泉、また泉水とも書く)は中郡である。東は河内国錦部郡および紀伊国那賀・伊都の二郡と境を接し、南は日根郡に接し、西は海に至り、北は大鳥郡に連なる(和名抄によれば、国分に泉南郡を置いたといい、行基年譜にも泉南郡が見えるので、その由来は古い。泉州志には「国分とはなお私分というべきもので、おそらく国司が便宜に応じて分けたもので、朝命によるものではない」とある)。管轄する郷は十。
¶信太(しのだ)。(郷名は今も残る。属邑は八で、郡の西北にある。)また小竹田(しのだ)とも書く。信太首がここに住んだ。信太森がある(森村にある)。正平年間には信太城があった。旧府社・聖社がある。
¶上泉(かみついずみ)。(今の府中村。一名を大泉、また上泉という。付近の十二村を上条郷という。信太の西南にある。)和泉井がある(府中村にある)。国の名はこれに由来する。後に国府がここに置かれた。和泉社・泉井上社がある。伝えによれば、神功皇后の行宮の遺跡であるという。後に二郷に分かれた。珍県主(うずのあがたぬし)の旧居があった。和泉宮がある(址は府中村にある)。また智努離宮ともいい、元正・聖武の両天皇が行幸された。二田の地があり(今の二田村)、二田物部がここに住んだ。曾禰社があり、伯太の地がある(今の伯太村)。おそらく曾禰連・伯太首がここに住んだのであろう。興国年間には大泉荘といった。
¶下泉。(今は宮・池浦・大津など七村を下条郷、また我孫子荘という。上泉の南にあり、これがその域である。)我孫村富祠がある(今は豊中村にある)。我孫公がここに住んだ。泉穴師社があり、穴師池がある(池浦村にある。宮村の旧名は穴師といい、日本霊異記には痛脚村とある)。大津浦がある。また小津泊とも称する。大津川があり、ここに至って海に注ぐ。後に今泉荘、また宇多荘といった。
¶軽部(かるべ)。(郷名は今も残る。属邑は六で、下泉の東南にある。)古くは加里郷といった(「郷」は一に「郡」とも書き、法隆寺資材帳には輕郷とある)。八綱田命の裔がここに住み、雄略天皇の時代、本郷を献上したので、軽部君の姓を賜った。軽部池がある。玉井山荘がある(いずれも小田村にある)。和気(わけ)の地があり(今の和気村)、和気祠がある。和気公がここに住んだ。
¶坂本。(今の坂本村。付近の七村を郷荘という。軽部の東にあり、それが郷の域である。)坂本祠がある(今の坂本村にある)。坂本朝臣がここに住んだ。承和年間、讃岐に住んでいたその一族が和泉の旧地への復帰を願い出たというのが、これである。
¶池田。(郷名は今も残る。属邑は十一で、坂本の東にある。)池田首がここに住んだ。後に池田荘といった。国分寺がある(国分村にあり、福徳寺という)。承和年間、安楽寺をこれに擬した。施福寺がある(槙尾山にある)。一名を血渟山寺(ちぬのやまでら)という。横山がある(山家和歌集には七越峯とある)。慶雲年間には横山郷といい、横山荘があった。松尾川・牛滝川があり、松尾寺がある(松尾山にある)。安元年間には春木荘があった(今の春木村)。物部布留祠がある(今は春木村にある)。物部田池があり、天平年間、僧行基が開いた。膳部尾唐国(かしわでのおからくに)の地がある(今の唐国村)。膳臣・韓国連がここに住んだ。
¶山直(やまだい)。(郷名は今も残る。属邑は八で、池田の南にある。以下の四郷は後に泉南郡に属した。)山直社があり、山直氏がここに住んだ。山直池がある(泉南郡内畑村にある)。
¶八木。(郷名は今も残る。属邑は十一で、山直の西にある。)夜疑社(やぎしゃ)があり、八木造がここに住んだ。犬飼の地がある(今の箕土路村、旧名を犬飼という)。若犬養宿禰がここに住んだ。久米多池がある(年譜には多治部里にあるといい、今の多治米村がおそらくこれであろう)。久米田寺がある。いずれも僧行基が開いたものである。橘諸兄の墓がある(寺と墓はいずれも池尻村にある)。嘉禎年間には吉井郷があった(今の吉井村)。
¶掃守。(郷名は今も残る。属村は十六で、八木の南にある。)掃守田祠がある(今は加守村にある)。掃守田首がここに住んだ。天授年間には加守郷といった。加守川がある。雌雉田(めすきじだ)がある(今の岸和田村、旧名を岸という)。安閑天皇が大河内直味張に勅してその地を献上させようとされたが、味張は惜しんで献上しなかったため、その職を停められた。南朝の時代、和田正成がここに城を築き、岸和田と改称した。松村里(今の上下松村)・国見山がある(三箇山村にある)。新治の地がある。天平神護元年、日根郡新治行宮に行幸されたというのが、これである(泉州志には「日根郡には新治の地はなく、今の泉南郡新井村が日根に近接するので、新治の転訛ではないか」とあり、今はこれに従う)。
¶木島。(郷名は今も残る。属邑は五で、掃守の東南にある。)木島山がある。一名を杣山(そまやま)といい、良材を産する。古くは橘諸兄の采地であった。有真香邑(ありまかのむら)がある(今は八田・極楽寺など七村を阿閒河荘と称し、また安幕、あるいは有真香・阿理莫とも書く)。阿理莫社があり、安幕首がここに住んだ。捕鳥部万(ととりべのよろず)の墓がある(八田村にあり、墓の北に犬塚がある)。神於山(こおのやま。河合村の北にある)・葛城山がある(蕎麦原村の東にある)。麻生荘・永吉荘がある(今の永吉村)。
¶日根郡は下郡である。東南は紀伊国那賀・名草の二郡と境を接し、西は海に臨み、北は和泉郡に接する。貞観年間、本郡の地を淳和院に充てた。管轄する郷は四つ。
¶近義(こぎ)。(あるいは聟木とも書き、また小木・近木とも書く。音訓が相通じる。郷名は今も残る。属邑は十三で、郡の西北にある。)その土地が五加(うこぎ)に適していたことから、この名がついた(五加と近義は音訓が通じる)。聟木氏および近義首がここに住んだ。近義川がある。熊取野行宮がある(址は御門村にある)。延暦年間、天皇がここで遊猟された。後に熊取荘といった。文治年間には小木郷といい、在庁の清実(姓は伝わらない)がここに住んだ(居址は沢村にある)。後に古木荘といった。
¶賀美。(今は上郷という。属邑は九で、近義の東南にある。)茅渟宮がある(址は中村にある)。允恭天皇の妃である衣通郎姫(そとおりのいらつめ)がここに住み、天皇はしばしば行幸された。日根野がある。郡の名はここに由来し、雄略天皇の時代、根使主(ねのおみ)が罪を得て日根野に逃れたというのが、これである。日根行宮がある(址は日根野荘にある)。延暦年間、天皇が日根野で狩りをされた。承和年間、河内国丹比郡の駅家院の倉をここに遷し、正倉とした。日根社があり、日根造がここに住んだ。日根松原がある。後に日根荘といった。土丸城がある(址は熊取と日根野の間にある)。正平年間、楠氏の一族が築いたという(一説に紀伊の者が築いたというが、誤りである)。後に神野荘といった。
¶呼唹(おう)。(今は男里村という。付近に中通・信達の二荘があり、三十二村を領する。郡の中央にあり、すなわち古い郷の域である。)五瀬命が傷を負い、山城水門(やまきのみなと。一名を山井水門という)に至り、剣を按じて雄詰(おたけび)をあげられたことから、日雄水門と名づけられた(雄と呼は訓が同じで、唹はその韻である)。雄山がある(山中村の東南にあり、後に紀伊国に属した)。延暦年間、紀伊へ行幸された際、雄山の道から日根行宮に還御されたというのが、これである。男社・呼唹駅がある。佐野松原(今の佐野村)・澳津浜がある。茅渟池がある(野野村の西にあり、五十瓊敷入彦命が開いたと伝えられ、後に貝田の二村という)。桓武天皇がかつてここで狩りをされた。加支多社(かきたしゃ)があり、君池がある(樽井村にあり、五十瓊敷入彦命が造ったと伝えられる)。男里川がある(一名を大川という)。おそらく古い菟砥川であろう。信達行宮がある(址は市場村にあり、後鳥羽院熊野御幸記には信達廐戸行在とある)。白河・堀河の両上皇が熊野へ行幸される際、いつもここに宿られた。後に信達荘といった。
¶鳥取。(郷名は今も残る。属邑は十二で、呼唹の南にある。)鳥取氏がここに住み、これにより名づけられた。後に鳥取荘といった。菟砥川上宮があり、また鳥取河上宮とも号する。五十瓊敷入彦命がここに住み、剣一千口を造られた。宇度墓があり、皇子を葬った所と伝える(宮の址と墓はいずれも自然田村にある)。鳥取山がある。箱浦(今の箱作村。賀茂注進雑記に見える筥作荘は、おそらくこれであろう)・田身輪邑(たむわのむら。今は淡輪村と書く。田身と淡は音訓が同じ)がある。邑には紀小弓宿禰夫妻の墓がある。雄略天皇の時代、小弓は新羅征討の将軍に任じられ、軍中で亡くなった。その妻の上道大海(かみつみちのおおあま)が柩を護って帰り、勅により土師連小鳥に命じて田身輪邑に墓を築かせたのが、これである。寛正年間には淡輪荘といった(今の淡輪村)。紀船守の墓がある(淡輪村の西にある)。黒埼松原・吹飯浦がある。深日行宮がある(址は深日村にある)。天平神護年間に置かれた。吹飯浦城がある(吹飯浦は一に吹井谷川とも書く)。寿永年間、安摩忠景がこれを築いて源氏に応じたが、平教経に攻め破られた。後に深日荘といった。橘逸勢およびその娘である尼妙沖の墓がある(孝子畑村乙山にある)。田無川がある。建久年間には谷川荘といった(今の谷川村)。