卷之二百五十一 志第八

神祇八 神社三 山城

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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この巻の目次115
  1. 羽束師坐高御産日神社(はづかしにいますたかみむすひじんじゃ)
  2. 乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)
  3. 大歳神社(おおとしじんじゃ)
  4. 小倉神社(おぐらじんじゃ)
  5. 自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)
  6. 與杼神社(よどじんじゃ)
  7. 大井神社(おおいじんじゃ)
  8. 石作神社(いしつくりじんじゃ)
  9. 走田神社(はしりだじんじゃ)
  10. 御谷神社(みたにじんじゃ)
  11. 国中神社(くになかじんじゃ)
  12. 向神社(むかいじんじゃ)
  13. 茨田神社(まんだじんじゃ)
  14. 石井神社(いわいじんじゃ)
  15. 神川神社(かみかわじんじゃ)
  16. 久何神社(くがじんじゃ)
  17. 簀原神社(すはらじんじゃ)
  18. 入野神社(いりのじんじゃ)
  19. 神足神社(こうたりじんじゃ)
  20. 葛野坐月読神社(かどのにいますつきよみじんじゃ)
  21. 木島坐天照御魂神社(このしまにいますあまてるみたまじんじゃ)
  22. 松尾神社(まつのおじんじゃ)二座
  23. 平野祭神四社(ひらのさいじんししゃ)
  24. 梅宮坐神四社(うめのみやにいますかみししゃ)
  25. 天津石門別稚姫神社(あまついわとわけわかひめじんじゃ)
  26. 伴氏神社(とものうじじんじゃ)
  27. 堕川神社(おちかわじんじゃ)
  28. 阿刀神社(あとじんじゃ)
  29. 深川神社(ふかかわじんじゃ)
  30. 堕川御上神社(おちかわみかみじんじゃ)
  31. 櫟谷神社(いちいだにじんじゃ)
  32. 大酒神社(おおさけじんじゃ)
  33. 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)・賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)二座
  34. 出雲井於神社(いずもいのへじんじゃ)
  35. 貴布禰神社(きふねじんじゃ)
  36. 鴨川合坐小社宅神社(かもがわあいにいますおこそやけじんじゃ)
  37. 三井神社(みいじんじゃ)
  38. 片山御子神社(かたやまみこじんじゃ)
  39. 出雲高野神社(いずもたかのじんじゃ)
  40. 賀茂山口神社(かもやまぐちじんじゃ)
  41. 賀茂波爾神社(かもはにじんじゃ)
  42. 小野神社(おのじんじゃ)二座
  43. 久我神社(こがじんじゃ)
  44. 末刀神社(まとじんじゃ)
  45. 須波神社(すわじんじゃ)
  46. 伊多太神社(いたたじんじゃ)
  47. 鴨岡太神社(かもおかふとじんじゃ)
  48. 太田神社(おおたじんじゃ)
  49. 大柴神社(おおしばじんじゃ)
  50. 高橋神社(たかはしじんじゃ)
  51. 稲荷神社(いなりじんじゃ)三座
  52. 御諸神社(みもろじんじゃ)
  53. 大椋神社(おおくらじんじゃ)
  54. 飛鳥田神社(あすかだじんじゃ)
  55. 真幡寸神社(まはたきじんじゃ)二座
  56. 許波多神社(こはたじんじゃ)三座
  57. 山科神社(やましなじんじゃ)二座
  58. 宇治神社(うじじんじゃ)二座
  59. 日向神社(ひむかいじんじゃ)
  60. 天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)
  61. 宇治彼方神社(うじおちかたじんじゃ)
  62. 石田神社(いわたじんじゃ)
  63. 水主神社(みずしじんじゃ)十座
  64. 荒見神社(あらみじんじゃ)
  65. 雙栗神社(さぐりじんじゃ)三座
  66. 水度神社(みとじんじゃ)三座
  67. 旦椋神社(あさくらじんじゃ)
  68. 伊勢田神社(いせだじんじゃ)三座
  69. 巨椋神社(おぐらじんじゃ)
  70. 室城神社(むろきじんじゃ)
  71. 樺井月神社(かばいつきじんじゃ)
  72. 月読神社(つきよみじんじゃ)
  73. 棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)
  74. 朱智神社(しゅちじんじゃ)
  75. 咋岡神社(くいおかじんじゃ)
  76. 高神社(たかじんじゃ)
  77. 内神社(うちじんじゃ)二座
  78. 粟神社(あわじんじゃ)
  79. 佐牙乃神社(さがのじんじゃ)
  80. 酒屋神社(さかやじんじゃ)
  81. 甘南備神社(かんなびじんじゃ)
  82. 天神社(てんじんじゃ)
  83. 地祇神社(ちぎじんじゃ)
  84. 祝園神社(ほうそのじんじゃ)
  85. 和伎坐天乃夫支売神社(わきにいますあめのふきめじんじゃ)
  86. 岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)
  87. 岡田国神社(おかだくにじんじゃ)
  88. 綺原坐健伊那太比売神社(かんばらにいますたけいなだひめじんじゃ)
  89. 相楽神社(さがらかじんじゃ)
  90. 大原野神社(おおはらのじんじゃ)四座
  91. 北山神社(きたやまじんじゃ)
  92. 堀雷冰都久雷湯豆波和気神社(ほりいかづちひつくいかづちゆづはわけじんじゃ)
  93. 小社神社(おごそじんじゃ)
  94. 大川原国津神社(おおかわらくにつじんじゃ)
  95. 有市国津神社(ありいちくにつじんじゃ)
  96. 天照御門神社(あまてるみかどじんじゃ)
  97. 石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)三座
  98. 皇太后宮木枯神社(こうたいごうぐうこがらしじんじゃ)
  99. 広幡神社(ひろはたじんじゃ)・田中神社(たなかじんじゃ)
  100. 春日祈年神社(かすがきねんじんじゃ)
  101. 宗像神社(むなかたじんじゃ)
  102. 清水神社(しみずじんじゃ)
  103. 市河神社(いちかわじんじゃ)
  104. 大堰神社(おおいじんじゃ)
  105. 霹靂神社(はたたがみじんじゃ)三座
  106. 城南神社(じょうなんじんじゃ)
  107. 祇園神社(ぎおんじんじゃ)三座
  108. 北野神社(きたのじんじゃ)
  109. 吉田神社(よしだじんじゃ)四座
  110. 赤山神社(せきざんじんじゃ)
  111. 恩多神社(おんたじんじゃ)・若宮神社(わかみやじんじゃ)
  112. 新日吉神社(いまひえじんじゃ)
  113. 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)
  114. 粟田宮(あわたのみや)
  115. 難良刀自神社(ならとじじんじゃ)

乙訓郡 十九座

羽束師坐高御産日神社(はづかしにいますたかみむすひじんじゃ)

また波都賀志神(はつかしのかみ)とも称する(注:『続日本紀』による。「師」の字は「石」または「志」とも書く。今は古川村と志水村の間にある羽束石森にある)。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祀る(注:『日本書紀』『延喜式』による)。

大同元年(806)、本国に封戸四戸を定めた(注:『新抄格勅符』による)。貞観元年(859)、勅使を遣わして幣帛を奉り、風雨の止むことを祈った(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。

乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)

また乙訓神(おとくにのかみ)とも称する(注:『続日本紀』による。あるいは今は井内村にあり、角宮と称するという)。大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀る。大山咋は大歳神(おおとしのかみ)の子である。かつて霊験を彤矢(赤く塗った矢)に託し、それを神の依代とした。それゆえこの矢を神として祀り、鳴鏑神(なりかぶらのかみ)と称し、また火雷神(ほのいかづちのかみ)とも号した(注:『釈日本紀』引用の『山城国風土記』、『袖中抄』引用の賀茂縁起、『本朝月令』引用の秦氏本系帳、『年中行事秘抄』引用の賀茂旧記を参照した。大歳神の子、鳴鏑神の説は『古事記』による。○『釈日本紀』引用の風土記には「丹塗矢を本社に祀る」とあり、また秦氏本系帳の引用には「戸上矢がすなわち松尾神である。また鳴鏑とも用いる」とある。両説はやや異なるようだが、思うに同じ一本の丹塗矢について、その用途をいうときは鳴鏑と称し、その由来をいうときは戸上矢と称したのであって、実は同じものであろう。以上、参考として付記する)。

大宝二年(702)、詔して「祈雨に霊験があったので、大幣および月次幣にあずかる例とする」とした(注:『続日本紀』による)。天平七年(735)、本国から封戸六戸を充てた(注:『新抄格勅符』による)。宝亀五年(774)、社内に狼や狐の怪異があったため、勅使を遣わして幣帛を奉った。延暦三年(784)、大中臣朝臣諸魚(おおなかとみのあそんもろうお)を遣わし、従五位下を授けて神殿を修理させた。これは遷都のためであった(注:『続日本紀』による。○『日本紀略』には弘仁十三年に従五位下を授けたとあるが、思うに誤り重複であろう。よって今は採らない)。承和五年(838)、幣帛を奉って晴天を祈った。七年、また甘雨を祈り風害を祓った(注:『続日本後紀』による)。以後、代々これに倣って恒例とした(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。文徳帝の即位に際し、従五位上を授けた(注:『文徳実録』による)。貞観元年、従四位下に進めた。ほどなく神宝・幣帛を奉った(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。

大歳神社(おおとしじんじゃ)

(注:今は灰方村にあり、萱森明神と称する)大歳神を祀る(注:『古事記』『延喜式』による)。大和・和泉・遠江・駿河・但馬・石見などの国にも大歳社があるが、いずれもこの神を祀るものである。

小倉神社(おぐらじんじゃ)

(注:今は園明寺村の小倉山にある)延喜の制では大歳神社とともに大社に列し、四度の官幣にあずかった。

自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)

もとは山埼社(やまざきしゃ)といった(注:『延喜式』による。○今は山崎の離宮八幡の左殿にある)。仁明帝はまたこれを分けて葛野郡の梅宮に祀った。いわゆる酒解子神(さかとけこのかみ)がこれである。承和六年(839)、従五位下を叙した。十年、名神に列した。嘉祥元年(848)、御戸代田二町を充てた(注:『続日本後紀』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

與杼神社(よどじんじゃ)

(注:杼は度とも書く。今は紀伊郡淀の西北、水垂村にあり、淀姫明神、また水垂明神と称する)肥前佐嘉郡の與止日女神(よとひめのかみ)を移し祀ったものである(注:『水垂社縁起』による)。貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

大井神社(おおいじんじゃ)

(本文なし)

石作神社(いしつくりじんじゃ)

(注:今は灰方村の大歳社殿の内にある)天火明命(あめのほあかりのみこと)の六世の孫、建麻利尼命(たけまりにのみこと)は石作連(いしつくりのむらじ)の祖であり(注:『姓氏録』『旧事本紀』による)、本社はあるいはこの神を祀るものであろう。貞観元年、正六位上から従五位下に進めた(注:『三代実録』による)。尾張・近江などの国にも石作社があり(注:『延喜式』による)、思うにいずれも同じ神を祀るものであろう。

走田神社(はしりだじんじゃ)

(注:今は奥海印寺村にある。村中の小地名に今も走田の名が残る)

御谷神社(みたにじんじゃ)

(注:今は浄土谷村の御谷谷にある)

国中神社(くになかじんじゃ)

(本文なし)

向神社(むかいじんじゃ)

(注:今は向日町にあり、向日明神と称する)大歳神の子、向日神(むかいのかみ)を祀る(注:『古事記』『神名帳頭注』による。○向日は『古事記』では白日と書くが誤りである。今は『延喜式』『神祇拾遺』による)。貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた。

茨田神社(まんだじんじゃ)

(注:今、築山村に茨田森があり、あるいはこれが旧跡であるという)

石井神社(いわいじんじゃ)

(注:井は坐とも書き、訓は通じる。今は西巌蔵山にあり、金蔵寺の鎮守神と称する)元慶四年(880)、正六位上から従五位下に進めた。

神川神社(かみかわじんじゃ)

(注:今は鴨川村にあり、住吉明神と称する)

久何神社(くがじんじゃ)

また興我万代継神(おきなよろずよつぎのかみ)ともいう(注:『三代実録』による。○本書ではこの神が久何社と同じかどうか詳らかでないが、久何と興我は音が通じる。また久我・胡家とも書き、いずれも同じである。旧説では万代継をこの社とするので、今もここに併せて載せる。社は今は下久我村にあり、森明神と称する)。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀る(注:土地の人の伝承による)。貞観八年(866)、正六位上から従五位下を授けられた。十六年、従五位上に進めた。

簀原神社(すはらじんじゃ)

(注:今、築山村の簀原森に旧跡があるという)貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

入野神社(いりのじんじゃ)

(注:今は上羽村にある)

神足神社(こうたりじんじゃ)

(注:今は神足村にある)斉衡元年(854)、官社に列した(注:『文徳実録』による)。

以上十四座は、延喜の制ではいずれも小社に列した(注:『延喜式』による)。


葛野郡 二十座

葛野坐月読神社(かどのにいますつきよみじんじゃ)

(注:今は松室村にある)月夜見尊(つきよみのみこと)を祀る(注:『日本書紀』『延喜式』による)。斉衡三年(856)、葛野川の川べりから松尾の南山に遷した。水害を避けるためである(注:『文徳実録』による)。貞観元年、正二位を叙した。ほどなく勅使を遣わして幣帛を奉り、風雨の止むことを祈った(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。社司には長官・禰宜・権禰宜・祝・権祝があり、いずれも壱伎県主(いきのあがたぬし)の祖である押見宿禰(おしみのすくね)の子孫がこれを務めた(注:『松尾社家系図』による)。

木島坐天照御魂神社(このしまにいますあまてるみたまじんじゃ)

また木島神(このしまのかみ)とも称する(注:『続日本紀』による。木島は許志摩とも書く。今は太秦村にあり、木島明神と称する)。思うに天火明命(あめのほあかりのみこと)、またの名を天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)を祀るものであろう(注:『日本書紀』『旧事本紀』『延喜式』による)。大同元年、本国に封戸九戸を定めた(注:『新抄格勅符』による)。天安二年(858)、四度の官幣にあずかった(注:『神祇官勘文』による)。貞観元年、従五位下から一気に正五位下に進めた。ほどなく幣帛を奉り、風雨の災いを祓った。十七年・元慶元年にも祈雨を行った(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列し、その官祭は従来の制に基づき、あわせて祈雨祭にもあずかった(注:『延喜式』による。○『広隆寺縁起』には「承平六年(936)、正五位上から従四位下に進み、長保五年(1003)、従一位を授かり、長久四年(1043)、正一位に進んだ」とあるが、他書には見えないので、参考として付記する)。

松尾神社(まつのおじんじゃ)二座

(注:今は上山田村にある。もと松尾山の上に祀られていたが、後に山下に遷った。それが今の地である)大山咋命(おおやまくいのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る(注:『古事記』『秦氏本系帳』『諸神記』による)。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾に社を建て、さらに松崎日尾(またの名を日崎峰)に遷した。そこに鎮座する市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)のために阿礼(あれ)を立てて斎子(いつきこ)を置いて祀った。これが本祠の始まりである(注:『秦氏本系帳』、『伊呂波字類抄』引用の『本朝文集』、『江家次第』による)。天平二年(730)、大社に列した(注:『本朝文集』『賀茂旧記』『江家次第』による)。十七年、幣帛を奉り、帝の病(不予)を祈った(注:『続日本紀』による)。神護景雲の初め、本国および因幡国からそれぞれ封戸二戸を奉り、後に各五戸に増やした(注:『新抄格勅符』による)。延暦三年、遷都のため官人を遣わして従五位下を授け、社殿を修繕させた。五年、従四位下に進めた(注:『続日本紀』による)。後に従四位上を授け、勲二等を賜った。承和十二年(845)、正四位下に進めた。十四年、従三位に昇った。嘉祥三年(850)、寮の馬を奉り、帝の病を祈った(注:『続日本後紀』による)。仁寿二年(852)、正二位を加えた(注:『文徳実録』による)。貞観元年、従一位に進めた。ほどなく官人を遣わして神宝・幣帛を奉った。七年、神田五段を献じた。翌年、正一位に昇り、後に勲一等を叙した(注:「後に」以下は『秦氏本系帳』による。○本書によれば貞観八年になお勲二等であったが、元慶五年(881)に祝部に本系帳を提出させているので、『秦氏本系帳』はおそらくその頃に上進されたものであろう。これによれば勲一等の叙は貞観八年から元慶五年の間のことと思われる)。十五年五月、雨に雹が混じる怪異があった。神祇官・陰陽寮がともに「松尾神が祟りをなしている」と奏上した。そこで幣帛を奉り、また飾りたてた走馬五匹を奉って謝罪した。元慶四年、王氏を遣わして幣帛を奉り、大極殿の完成を告げた(注:『三代実録』による)。延長四年(926)、神地の樹木を伐った者を罰し、その過失を糾した(注:『扶桑略記裏書』による)。式の制定にあたっては、いずれも名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかった。神祇官が因幡の封戸の租を収める分を停止し、社司に付して神饌の料に充てた(注:『延喜式』による)。天慶二年(939)、皇太后の病を祈って霊験があったので、神宝・幣帛を奉り、走馬を賽(さい、御礼参り)として奉った(注:『外記日記』による)。寛弘元年(1004)、天皇の車駕が親しく参詣し、行幸はこれに始まる(注:『日本紀略』『帝王編年記』『濫觴抄』による。○『一代要記』『歴代皇紀』『皇年代略記』はいずれも寛弘八年のこととする。『拾芥抄』は「永祚元年(989)を始めとする。一説にはまた寛和元年(985)ともいう」とあるが、いずれも誤りであろう)。七年、翌年が三合厄(さんごうやく)にあたるため、神宝および東遊(あずまあそび)を奉った(注:『日本紀略』『一代要記』による)。そもそも延暦の中頃から本社を京師(都)の鎮めとしたので、歴代とりわけ崇め奉ってきた。日照りや疫病があるたびに勅使を遣わして幣帛を奉ったが、神威は顕著で霊験がとりわけ著しかった。それゆえ上下の人々はみなこれを敬い畏れ、猛霊(もうれい)と号した(注:『続日本紀』『続日本後紀』『三代実録』による。『本朝月令』『玉海』『吉記』も参照した)。おおよそその祭は貞観以後、恒例となった(注:『江家次第』による。○松尾祭は『三代実録』には多く見えない。元慶三年(879)に祭を停止したという記事から、それが恒例であったことがわかる。貞観十五年、松尾神を祟りとして幣帛・走馬を献じており、例祭はおそらくここに始まったのであろう。『江家次第』のいうところも、これを指しているのであろう)。祭の儀式もまた貞観年間に定められた。その日取りは四月の上の申の日を用いる。弁官・史各一人が社に赴いて行事(祭事の執行)を務め、神祇官が幣帛を供える(注:「弁史」以下は『延喜式』による)。その儀式では、前日に所司が常のように準備を整える。当日の明け方、本国の国司が郡司および騎兵を率いてこの事に奉仕する。弁・史および左右の史生・官掌らは行事の座に着く。中門の前、一丈ほどのところに案(机)を一つ設け、神祇の史が神部に幣帛二包を捧げさせて案の上に置かせる。祝・禰宜が前に出て幣を執り、社内に運び入れて奉る。祝・禰宜は神戸(かんべ)の人々を率いて、葵鬘(あおいかずら)を物忌(ものいみ)や諸司に配る。それが終わると饌(神饌)を賜る。饌が終わると、諸司は三度拍手をし、酒を三巡し、また一度拍手をする。それが終わると退出する(注:『貞観儀式』による)。その幣には五色の絁絹(あしぎぬ)・倭文糸綿(しずしいと)・木綿(ゆう)・麻・銭などの物を用いる。この月、賀茂祭の日にも、本社に関わる神事がある。すなわち父母子の愛の心を存するためである(注:「是月」以下は『秦氏本系帳』による)。この日、内蔵寮は五色の薄絁(うすぎぬ)・糸・曝布(さらしぬの)・安芸木綿麻などの幣を献じる。馬寮は走馬二匹を奉る。物忌・禰宜・祝には、いずれも装束の料を支給する(注:『延喜式』による)。そもそも養老年間から秦忌寸(はたのいみき)を祝としたので、秦氏が代々社務を任じた(注:『秦氏本系帳』による)。後に神主・権神主などの職を置いた(注:『東寺文書』による)。

平野祭神四社(ひらのさいじんししゃ)

(注:今は平野村にある)今木神(いまきのかみ)・久度神(くどのかみ)・古開神(ふるあきのかみ)・比咩神(ひめのかみ)という(注:『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』による)。延暦十三年(794)、新たに祀った(注:『類聚三代格』による。十三年は『一代要記』による)。もともと今木・久度・古開の三社は大和国にあったが、この時、神の教えによってここに遷し祀った(注:『延喜式』による。○比咩神もおそらく同時に遷されたのであろうが、式にはそのことが記されていないので、後考を待つ)。新たに本国から封戸十戸を奉った(注:『新抄格勅符』による。○本書には封を奉った年代が記されていないが、ひとまずここに載せる)。今木神はおそらく桓武天皇の贈皇太后高野氏(たかののうじ)の祖である百済(くだら)の純陀太子(じゅんだたいし)を祀るものであろう(注:『続日本紀』『姓氏録』『袋草子』を参酌した)。久度・古開・比咩の三神は、おそらく皇太后の母、大枝氏(おおえうじ)の祖、およびその一族の神であろう(注:『続日本紀』『延喜式』『本朝月令』の大意を参酌した)。承和三年(836)、従四位上の今木神に正四位上を授け、久度・古開の二神にはそれぞれ一階を加え従五位上を授けた。十年、そのうちの一座を名神に列した(注:○思うに一座とは今木神であろう)。嘉祥元年、今木神に従三位を、久度・古開神に正五位下を、無位の比咩神に従五位下を授けた(注:『続日本後紀』による)。仁寿元年(851)、参議を勅使として、正三位の今木神を従二位に、正五位上の久度・古開神を従四位下に、比咩神を正五位下に進めた(注:『文徳実録』による)。貞観元年、四神にそれぞれ一階を進めた。ほどなく大技朝臣音人(おおわざのあそんおとんど)を遣わして神宝・幣帛を奉った。今木神と比咩神はそれぞれ一階進み、久度・古開は従三位に進んだ。五年、久度・古開・比咩神にそれぞれ一階を昇らせた。翌年、今木神を正一位に進めた。七年、本国の田五段を奉った。また音人を遣わして楯・鉾および鞍を献じ、皇位の永続を祈った。十四年、本郡の上林郷の地一町を充てた。十七年、上下の木島の剰田(残余の田)を献じた。元慶四年、従四位下和王(わおう)を遣わして幣帛を奉り、大極殿の完成を告げた(注:『三代実録』による)。延喜の制では、四座いずれも名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。天慶二年、かつて皇太后の病を祈った験があったので、幣帛・神宝・走馬を奉って御礼とした(注:『外記日記』による)。天元四年(981)、天皇の車駕が親しく参詣した。これが行幸の始まりである(注:『日本紀略』『百錬抄』『帝王編年記』『濫觴抄』による)。寛和元年(985)四月、東遊・走馬を奉り、臨時祭を行い、永式(永久の定め)として立てた。その幣帛の奉り方は賀茂祭に準じた(注:『日本紀略』『江家次第』『朝野群載』『公事根源』による)。寛弘七年、翌年が三合厄にあたるため、神宝・東遊を奉った(注:『日本紀略』による)。おおよそ常の祭は、孟夏(四月)と仲冬(十一月)の、日は上の申の日を用いる。弘仁年間に永式として定められた(注:『本朝月令』引用の『弘仁式』による)。貞観年間にさらにその儀式を定めた(注:『貞観儀式』による。○『公事根源』には「平野祭は貞観に始まる」とあり、『濫觴抄』には「仁寿元年に始まる」とあるが、いずれも誤りである)。この日、参議以上がみな会し、あるいは皇太子が親しく幣帛を奉る。弁・外記・史・史生・官掌各一人が行事を務める。桓武天皇以後、王氏および賜姓を受けた者、大江氏などの人々がみな見参(出席)にあずかった(注:『延喜式』による)。早朝、天皇は清涼殿の第三間で神を拝し、奉幣使を発遣する(注:『江家次第』による)。所司はまず神殿に至り、行事は常のとおりに行う(注:『延喜式』による)。神祇官は神几(神前の机)を用意し、各神ごとに四脚のものとし、舞殿にも四脚のものを備える。膳部が机を担い、机一つごとに四人がつく。卜部二人が賢木(さかき)を執って先導する。神門の外に至り、左右に分かれてひざまずく。二人が食薦(しきもの)を敷いて入り、膳部が机を持ち入れて引き返す。外記はそこで中務省を呼び、侍従以上の見参のことを命じる。また正親司を呼び、王氏の見参のことを命じる。また木工寮を呼び、文杖(もんじょう、標識の杖)を挿すことを命じる。ただし侍従で見参しない者は、外記が点検する。史は諸衛府に命じ、乱入する者を禁じさせる。皇太子は神院の東門外に至って馬を下り、中臣が出迎えて神麻(かんぬさ)を供する。それが終わると外舎に着く。一人が進み出て、幣を執る舎人を率いて祭場に至り、神祇官に幣を授ける。それが終わると皇太子は入って座に着き、親王以下も同様にする。山人(やまびと)は東門の外に控える。琴師が炊女(かしきめ)らを率いて、酒や肴を机に載せ、門の内で出迎える。山人二十人が賢木を執って入り、机の前に立ち、寿詞(よごと、祝いの言葉)を奏する。それが終わると炊女四人が前に出て賢木を受け取り、本の位置に戻る。琴歌がそこで始まり、炊女が舞を舞う。それが終わると酒や肴を山人らに賜る。それが終わると琴師・炊女は本の座に戻る。山人は左右に分かれて立ち、庭の中に薪を積んで退出する。その時、大臣は大蔵丞を呼び、庭に趨って立たせる。大臣は常の儀式のように鬘(かずら)や木綿を賜うよう命じる。ただし皇太子の鬘は、春宮大夫に転じて授け、大夫がこれを献じる。それが終わると神主は祝詞(のりと)の座に着く。馬寮が神馬を引き、殿の北の端に立たせる。神主が再拝し、皇太子以下もみな再拝する。神主が祝詞を読み終えると、皇太子以下は二段再拝し、四段拍手する。それが終わると神主は退出し、次いで神部が祭を散じ(供物を配り)、次いで馬寮が神馬を引いて社の周りを四回巡り、氏人が貢いだ馬がその後に続く。皇太子は宮に還り、次いで庭燎(にわび)を南北に燃やし、次いで神祇の副が琴師・笛工各二人を呼び、みな座に着かせる。笛を一通り吹き終えると、琴師が琴を調律する。そのとき歌い手が声を発し、山人がともに立って倭舞(やまとまい)を舞う。次いで神主二人が立って舞い、祐(神祇官の官)以上一人、侍従・内舎人・大舎人各二人も、順に倭舞を奏する。それが終わると、大膳(だいぜん)が神祇官以下に饌を供する。饌が終わると、諸司は三度拍手し、酒を三巡し、また一度拍手する。それが終わると外記は見参の記録をまず大臣に授け、勅使に取り次いで授ける。それが終わると、それぞれ退出する。その冬の祭では、大蔵省が禄として綿五百屯(たん)を庭上に積み、男女の官人に配る(注:『貞観儀式』による)。その祭の供え物には、五色の帛絹・倭文糸綿・木綿麻・米・糯米(もちごめ)・大豆小豆・鰒(あわび)・堅魚(かつお)・海藻・腊(ほじし、干物)・塩・酒などを用いる。馬寮は厩飼いの赤馬・白馬各二匹を献じる。物忌の王氏・和氏・大江氏が琴を弾き、膳部・炊女らには、冬夏いずれも斎服の料を支給する。神主には当色(とうじき、相応の装束)を支給し、禰宜・祝もまた同様である。神主には特に軾(しょく、敷物)の料を加える(注:『延喜式』による)。後世、桓武平氏もまた本社を氏神とし、みな祭事にあずかった(注:『百錬抄』『吉記』『兵範記』『清輔集』による。○『江家次第』『左経記』『仲資王記』などの書にはみな「後世、源氏もまた祭にあずかり、本社を氏神とした」とあるが、その根拠が一つもない。また世に本社を八姓の祖神と称するのは、思うに桓武天皇の皇別に平・長岡・良岑・久賀の四氏があり、高野皇太后の一族に和・大江・秋篠・菅原の四氏があるからであろう。しかし『二十二社注式』『諸社根源記』などの書を考えると、本社の摂社に県神社があり、天穂日命を祀るという。諸書はまたこれにより、今木を源氏の祖、久度を平氏の祖、古開を高階氏の祖、比咩神を大江氏の祖、県神を中原・清原・秋篠・菅原などの祖として、八姓祖神の説にこじつけているが、今はいずれも採らない)。本社には特に社預(しゃよ)・殿守(とのもり)などの職を置いた(注:『延喜式』『類聚三代格』による)。社預は貞観年間から卜部宿禰平麻呂(うらべのすくねひらまろ)がその職に補せられ、後に卜部氏が代々これを任じた(注:『類聚三代格』『吉田系図』による)。殿守は徭丁(ようてい、労役の民)を補した(注:『延喜式』による)。

梅宮坐神四社(うめのみやにいますかみししゃ)

(注:今は葛野川の上流、西梅津村にある)酒解神(さかとけのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)・大若子命(おおわくごのみこと)・小若子命(こわくごのみこと)という(注:『続日本後紀』『三代実録』による)。嵯峨天皇の橘皇后(たちばなのこうごう)の氏神である(注:『三代実録』による)。もともと聖武天皇の藤原皇后とその母、県犬養夫人(あがたのいぬかいのふじん)、および異父兄の橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)らが平城京に社を建て、酒解・大若子・小若子の三神を祀った。その後、社を本国相楽郡の挊山(かせやま)に遷した。橘皇后がこの神に祈って仁明帝を生んだ。帝は即位ののち、神が宮人に憑いて「私は帝の外戚の神であるのに、どうして大幣にあずからないのか」と告げた。帝は驚き畏れ、神宮を新しく修めて諸々の大社に準じ、毎年祭りを行おうとした。太后はこれを聞き入れず、「神の道は遠く人の道は近い。我が家がどうして先帝の外戚と肩を並べられようか」と言った。帝が強く願ったので、ついに葛野川のほとりに遷し、帝都に近づけた。それが今の地である。太后が行啓して親しく祭った。梅宮の祭はここに始まる(注:『伊呂波字類抄』引用の『橘氏譜牒』、『続日本後紀』『梅宮社記』を参酌した)。承和三年、酒解神に従五位上を叙した。大若子・小若子の二神には従五位下を叙した。ほどなく宇治郡の山埼神(やまざきのかみ)を合わせ祀り、四座と定めた。山埼神とはすなわちいわゆる酒解子神である(注:○本書には合祀の年月が記されていないが、十年以前であることは明らかである。それゆえここに載せる。また『梅宮社記』には「酒解神はすなわち大山祇(おおやまつみ)である。大若子・小若子の兄弟はすなわち度会(わたらい)神主の遠祖である。酒解子はすなわち木花開耶姫(このはなさくやひめ)である。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・火火出見尊(ほほでみのみこと)を若子社に配祀した」とあるが、酒解を大山祇とする明証は他にない。また橘氏が度会氏の祖を祀るというのもその理由がわからない。『豊秋津島卜定記』には「若子宮は瓊瓊杵尊、小若子宮は火火出見尊である」とあるが、その書は根拠に乏しく信じるに足りない。ただこれはあるいは古い説であって、社記を作った者がその本来の由来を忘れ、度会氏の祖にたまたま同名の者があったことから、これに付会して配祀などの説を設けたのであろうか)。十年、正五位下の酒解神と大若子・小若子の二神にともに従四位下を授け、従五位下の酒解子神に正五位下を授け、ともに名神に列した。ほどなく酒解子神を従四位下に進めた(注:『続日本後紀』による。○本書には「従五位下の酒解子神に従四位下を授けた」とあるが、従五位はおそらく正五位の誤りであろう。下の文にはまた「酒解子神一前、平野社一前、名神にあずかる」とあるが、酒解子神はすでに名神に列しているので、この文はおそらく重複であり、あるいは誤脱があるのであろう。後考を俟つ)。

もともと帝は勅して外祖父、贈太政大臣正一位橘清友(たちばなのきよとも)を酒解神に配祀し、文徳帝の代に至って、また太后を酒解子神に配祀したという(注:『梅宮社記』による。清友の贈官位は『延喜式』による)。貞観元年、四座ともに正四位上を授けた。十七年、ともに従三位に進めた(注:『三代実録』による)。延喜十一年(911)、正三位に昇った(注:『日本紀略』による)。式の制定にあたっては、ともに名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。その例祭は、おそらく承和年間に始まったのであろう(注:○本社の祭は、貞観以前には史書に見えない。しかし『三代実録』貞観元年十一月の条に「祭は常のとおり」と記されている。また元慶三年の条には「承和・仁寿の二代を経て官社となった」とあるので、これより前にすでに常祭があったことがわかる。『公事根源』もまた承和に始まるとしている。その説は根拠がありそうである。しかし『続日本後紀』『文徳実録』にはそのことが載っていない。あるいは脱文があるのであろうか。参考として付記する)。孟夏(四月)・仲冬(十一月)の上の酉の日を用いる(注:『三代実録』『公事根源』による)。

その儀式は、弁官以下が神宮の行事所に着いて行事を務める。上卿(しょうけい)が入って座に着き、山人は南門の外に控える。琴師・神児(かむこ)らが出迎え、酒や肴を机に盛り、門の内で相対する。山人二人が並んで立ち、鎮神詞(しずめがみのことば)を奏する。それが終わると神児二人が賢木を執って座に戻り、琴歌がともに始まり、神児が舞を奏し、内侍(ないし)が饌を供する。山人は庭の中に薪を植え、上卿は大蔵丞を呼んで木綿鬘を賜うよう命じる。それが終わると群官および神主はみな座に着き、東の舎の前に馬を並べて見る。神主は座を立って再拝し、群官もまた再拝する。神主が祝辞を奏し、上卿以下は三段拍手する。次いで酒饌を供え、馬寮の允(じょう)左右各一人が馬を走らせ、山人が庭燎を焼く。神児・山人・神主・神祇官・侍従・内舎人・大舎人が順に倭舞を奏する。弁が「飯を賜う」と言うと、宮内が「はい」と答えて退出する。飯を賜い終わると、上卿以下がともに退出する(注:『江家次第』による)。その祭の供物は平野の祭に準ずる(注:『諸神記』引用の『貞観式』による)。もともと元慶三年に祭を停止し、八年に復した(注:『三代実録』による)。宇多帝の時、また停止した(注:『師緒年中行事』『伊呂波字類抄』による)。一条帝が即位した年、天皇の御願によって旧に復した。翌年からは式日(定められた日)を用いるようになった(注:『年中行事秘抄』『諸神記』による)。橘氏の五位の者一人を奉幣使とした(注:『三代実録』『江家次第』『二十二社注式』による)。神主もまた氏人を用いることに定めた。寛仁元年(1017)の冬の祭では、諸司および氏人らがみな集まらず、大膳少進(だいぜんのしょうしん)上野朝臣広遠(こうずけのあそんひろとお)を神主代として、大蔵・宮内の丞らが行事を務めた。儀式が終わろうとする頃、諸陵頭(しょりょうのかみ)橘内経(たちばなのないきょう)がかろうじて倭舞を奏した(注:『左経記』による)。嘉承元年(1106)、神の服が盗まれたので、あらためて神服および錦の蓋(きぬがさ)・鏡・剣・鉾・弓矢などの物を奉った(注:『永昌記』による)。治承元年(1177)、筑前守橘以政(たちばなのもちまさ)が、社の供物を整える儀が法にかなっていないこと、および馬寮が社領を妨げていることなどを訴えた(注:『玉海』による)。四年、四座を正一位に進めた(注:『二十二社注式』による)。後世に至っても、橘氏の長者がなお社の事務を管掌したという(注:『二十二社本縁』による)。

天津石門別稚姫神社(あまついわとわけわかひめじんじゃ)

(注:今、愛宕郡鷹峯の北に大岩があり、石門と呼ばれている。これがその旧跡である)貞観五年(863)、従五位下から従五位上に進めた(注:○本書には大和国のこととあるが誤りである。今は七年の条によって訂正する)。七年、官社に列した(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

伴氏神社(とものうじじんじゃ)

(注:今は龍安寺村にある)大伴氏の祖を祀る。承和元年(834)、本郡上林郷の地を伴宿禰(とものすくね)に賜い、氏神を祭る式の料に充てさせたのが、これである(注:『続日本後紀』による)。おおよそその一族は毎年十一月に祭を行うことを例とした(注:『万葉集』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

堕川神社(おちかわじんじゃ)

(本文なし)

阿刀神社(あとじんじゃ)

(注:今は池浦村の安堵橋のほとりにあり、熊野本宮と称する)おそらく阿刀宿禰(あとのすくね)の祖を祀るものであろう(注:『姓氏録』による)。貞観八年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による。○本書の印本には阿刀を降居と書くが誤りである。今は他本による)。

深川神社(ふかかわじんじゃ)

(本文なし)

堕川御上神社(おちかわみかみじんじゃ)

(本文なし)

櫟谷神社(いちいだにじんじゃ)

(注:今は上山田村の北、櫟谷にある)嘉祥元年、従五位下を授けた(注:『続日本後紀』による)。貞観十年、正五位下に進めた(注:『三代実録』による)。後に松尾の支社となった(注:『百錬抄』による)。

大酒神社(おおさけじんじゃ)

(注:酒は辟とも書き、訓は通じる。今は太秦村の桂宮院の内にある。東大寺戒壇院の神明帳には秦天神大酒大明神と載せており、これがすなわちこの社である)秦公(はたのきみ)の祖を祀るという(注:『広隆寺縁起』『翰林葫蘆集』による)。石をもって神体としている(注:『日工集』による)。伝えていうには、仲哀天皇の御代に、太秦宿禰(うずまさのすくね)の祖である功満王(こうまんおう)が携えてきたものであるという(注:『広隆寺縁起』による)。嘉祥二年(849)、霊験があったので従五位下を授けた(注:『続日本後紀』による。○『広隆寺縁起』には「朱雀帝の初め、従三位を授け、天慶四年(941)、次々に一階を加えて正一位に至った」とあるが、他書には見えないので参考として付記する)。おおよそ毎年九月十二日にこの祭を行う。その前夜、広隆寺の僧二人がともに木の冠をかぶる。その一人は高い鼻の仮面をつけ、それぞれ牛にまたがって社の前に詣で、そこで下りる。僧たちが集まり、一人に祭文を読ませる。これを牛祭(うしまつり)と号する(注:『太秦公牛祭祭文』および古画による。○『史記』の注に「秦の文公がかつて南山の大梓(おおあずさ)を伐ったところ、一頭の青牛がその中から現れ出て豊水に走り入った。その後、牛が水中から出てきたので、髪を振り乱した騎馬の者にこれを撃たせた。牛はこれを恐れて水に入り、出てこなかった。そこで武都(ぶと)に怒特祠(どとくし)を建て、大牛が木の上に生えている様子を描いたという」とある。牛祭はあるいはこの故事を伝えるものであろう)。


愛宕郡 廿一座

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)・賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)二座

賀茂別雷神社(注:今は上賀茂村の鴨山の麓にある)、賀茂御祖神社二座(注:今は下賀茂村の糺の森にある)。別雷社は上社と称し(注:『秦氏本系帳』による)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀る(注:『山城風土記』『賀茂縁起』『賀茂旧記』による)。御祖社は下社と称し(注:『秦氏本系帳』による)、多多須玉依日売命(たたすたまよりひめのみこと)およびその父、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀る(注:『賀茂旧記』、元亨元年(1321)の本社祠官の申状による)。上下の社を合わせて賀茂大神(かものおおかみ)と呼ぶ(注:『類聚国史』による。○賀茂は鴨とも書き、賀はまた加または可とも書く)。伝えるところによれば、建角身(たけつぬみ)は丹波の神、伊可古夜日女(いかこやひめ)を娶り、玉依日売(たまよりひめ)を生んだ。玉依日売はかつて瀬見の小川(せみのおがわ)に出て遊んだとき、一本の丹塗矢(にぬりや)を得て、それを床のそばに置いた。すると感応して身ごもり、一人の子を生んだ。建角身はこれを不思議に思い、神々を集めて宴を開き、酒を注いでその子に「これをおまえの父に勧めよ」と告げた。その子は杯を挙げて天に向け、祭りをして「私は天神(あまつかみ)の子である」と言い、そのまま天に昇っていった。丹塗矢とはすなわち大山咋命の霊であったという。そこでその子に外祖父の名を取って命名し、賀茂別雷命と号した(注:『山城風土記』『賀茂縁起』『賀茂旧記』による。○別は若とも書く)。そこで祖神たちは子を慕う思いがやまず、夢に別雷神が現れて「もし私のために天の羽衣(あめのはごろも)・天の羽裳(あめのはも)を作り、賢木(さかき)で阿礼(あれ)を造り立て、色とりどりの飾りで装い、庭燎(にわび)を焚いて鉾を奉り、走馬(そうめ)を装い、葵楓の鬘(かずら)を着けて祭祀を行うなら、私は降臨しよう」と告げた。祖神たちはその教えのとおりに祭ったところ、神は果たして降臨した。今の山本の別雷神(やまもとのわけいかづちのかみ)がすなわちこれである(注:『賀茂旧記』による。○阿礼はまた御阿礼(みあれ)とも称し、あるいは御生とも書く。その制度は詳らかでない。『延喜式』などの書を考えると、賢木を立て、布の綱で結んで動かないようにし、鈴や彩帛(いろぎぬ)・木綿(ゆう)などの物で飾ったものであろう。その用材には五色の帛各六匹、布の綱十二条を用いる。松尾社もはじめ阿礼を立てて祭ったというので、おそらく本社の制度に倣ったものであろう。参考として付記する)。

欽明天皇の御代、賀茂神が祟りをなしたので、勅して吉日を選んで祭を行わせ、馬に鈴を繋ぎ、人が猪の形をまとって馬を馳せ走らせて祈った(注:『賀茂縁起』『秦氏本系帳』『河海抄』による)。賀茂祭はこれに始まる(注:『公事根源』による。○『歴代皇紀』は大同元年のこととし、『濫觴抄』は和銅四年(711)のこととするが、いずれも誤りである)。以後、毎回の祭で走馬を用い、葵楓を鬘とするのは、みな昔の遺風である(注:『本朝月令』『袖中抄』による)。孝徳天皇の御代、神戸(かんべ)十四烟、神田一町余りを奉った(注:『鴨県主系図』による)。天智天皇の丁卯(ひのとう)の年、初めて官祭を行った(注:『一代要記』による)。天武天皇五年(676)、国司に勅して神宮を造営させた(注:『本朝月令』引用の『右官史記』、『年中行事秘抄』『二十二社注式』による)。文武天皇二年(698)、祭の日に大勢が集まって騎射を行うことを禁じた。大宝二年、「武器を執っての騎射を禁じるが、本国の人だけはこの限りではない」と申し達した(注:『続日本紀』による)。和銅四年、「今後祭の日には国司が自ら検察し、これを常例とせよ」と勅した(注:『続日本紀』『類聚三代格』による)。神亀三年(726)、幣帛を奉り上皇の病を祈った。天平十七年(745)、また帝の病(不予)を祈った(注:『続日本紀』による)。天平勝宝二年(750)、下社に神田一町を奉った(注:『続日本後紀』による)。天平神護元年(765)、本国および丹波国からそれぞれ封戸十戸を下社に奉り、本国四戸、丹波十戸を上社に奉った(注:『新抄格勅符』による。○上社への封戸奉献の年代は本書に詳らかでないが、おそらく同時のことであろう。それゆえ今はひとまずここに合わせて記す)。延暦三年、遷都にあたって参議一人を遣わして幣帛を奉り、上下二社に従二位を叙し、また使者を遣わして殿宇を修理させた。四年、本郡の封戸をそれぞれ十戸増やして二社に奉った(注:『続日本紀』による。○『新抄格勅符』には本社の新たな封戸について年月を記していないが、国名や戸数はまったくこれと同じであるので、おそらくこの時に奉られたものであろう)。十二年、官人を遣わして平安京への遷都を告げた。翌年、従一位勲一等を授けた(注:『日本紀略』による。神階は『本朝月令』による)。大同二年(807)、ともに正一位に進めた(注:『日本紀略』『帝王編年記』による)。弘仁元年(810)、初めて斎院(さいいん)を置いた(注:『貴女抄』『帝王編年記』『一代要記』による)。十年、常祭を中祀(ちゅうし)に準じることを詔した(注:『類聚国史』による)。承和三年、紫宸殿に出御し、祭使の鞍馬や従者の様子を閲覧し、使らに禄を賜った。祭使の神馬を見るのはこれに始まる。十年、参議正躬王(まさみおう)を遣わし、幣帛を奉って国家の昌泰(繁栄安泰)を祈った。十一年、猟をする者が神地を穢すことを禁じた。また本郡の神戸の百姓を交替で当番にあて、社の周辺の川や野を守らせた(注:「また」以下は『類聚三代格』による)。十五年、下社の禰宜、鴨県主広雄(かものあがたぬしひろお)が「天平勝宝年間に神田一町を奉られたが、それ以後増やされておらず、費用が不足している。上社に準じて田一町を加えてほしい」と上言した。これを許した(注:○上社への田の奉献は史書に見えない。おそらく脱文があるのであろう)。嘉祥三年、寮の馬四匹を二社に奉った(注:『続日本後紀』による)。文徳帝の即位に際し、神祇大副中臣朝臣逸志(なかとみのあそんいつし)を遣わして瑞事を告げ賀した(注:『文徳実録』による)。貞観元年、勅使を遣わして神宝・幣帛を献じた(注:『三代実録』による)。六年、大皇太后の摂津の勅旨田(ちょくしでん)四十五町余りを奉った(注:『加茂注進雑記』による)。七年、また「神田をそれぞれ五段充てよ」と詔した。八年、神楽岡(かぐらおか)のそば近くでの埋葬を禁じた。下社に隣接しているためである。十五年五月、雨に雹が混じる怪異があった。神祇官・陰陽寮がともに「賀茂神が祟りをなしている」と奏上した。そこで使者を遣わして幣帛および飾り立てた走馬各十匹を二社に奉り、神の怒りに謝罪した。元慶四年、官人を遣わして幣帛を奉り、大極殿の完成を告げた(注:『三代実録』による)。寛平元年(889)十一月、初めて臨時祭を行った(注:○『如是院年代記』『和漢合符』はともに寛平三年のこととする。『扶桑略記』は寛平九年のこととするが、いずれも誤りである)。

もともと宇多帝がまだ即位する前(竜潜の日)、かつて本社に参詣した。一人の老翁が「賀茂の社には春の祭しかない。あなたは冬の祭を行うべきだ」と言った。帝が「これは私の力で成せることではない。朝廷に願い出ることにしよう」と言うと、翁は「あなたは必ずこれを成し遂げられるだろう」と言い、言い終わると忽然と姿を消した。帝はこれを不思議に思い、後に果たして即位した。そこで冬の祭を行うよう詔した(注:『大鏡』およびその裏書引用の寛平元年御記による)。昌泰二年(899)十一月、使者を遣わして祭を修した。これより毎年、仲冬(十一月)の下の酉の日に臨時祭を行うことを永式として定めた(注:『政事要略』『日本紀略』による)。四位の者を勅使とし、舞人十人、陪従十二人、寮の馬十列を献じた(注:『政事要略』引用の『蔵人式』および『清涼記』による)。延喜十六年、また寮の馬十列、左右近衛各十人を奉った(注:『日本紀略』による)。式の制定にあたっては、二社ともに名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかった。その神税はすべて社の費用に充てた。下社の南辺は、四至(しいし、境界)の外であっても、僧や屠者(とじゃ、屠殺を業とする者)を置くことを禁じた(注:『延喜式』による)。天慶二年、かつて皇太后の病を祈った験があったので、神宝および左右近衛の走馬を奉って御礼とした(注:『外記日記』による)。五年四月、天皇の車駕が社に行幸し、神宝・幣帛・馬を献じ、賊難(平将門・藤原純友の乱)の鎮圧を祈った御礼をした(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。賀茂行幸はこれに始まる(注:『歴代皇紀』『濫觴抄』による)。天禄二年(971)、摂政藤原伊尹(これただ)が社に参詣した。これ以後、関白となった者は例として必ずこの社に参詣した。四月の中の申の日を式日とし、これを賀茂詣(かもうで)と呼んだ。その神宝・神馬などを奉る儀式は、朝廷の制にならって行われた(注:『日本紀略』、『江家次第』『公事根源』『濫觴抄』を参照した)。藤原兼家(かねいえ)の後、子や甥の公卿以下、一族の人々の随行がはなはだ盛んになり、弁・少納言・検非違使らが前後に供奉したという(注:『江談抄』による)。長和四年(1015)、勅使・修理職(しゅりしき)・木工寮(もくりょう)が上下二社を葺き直し、斎院の司が斎院を修めた(注:『小右記』による)。寛弘七年、翌年が三合厄にあたるため、神宝・東遊を奉った(注:『日本紀略』による)。寛仁元年、天皇の車駕が社に行幸し、金銀の幣・神宝・音楽・走馬・東遊を献じ、また本郡の蓼倉(たてくら)・栗野など四郷を下社に、賀茂・小野など四郷を上社に奉った(注:『小右記』『日本紀略』『類聚符宣抄』による)。承保三年(1076)四月、社に行幸した。それ以後の行幸は、例として御阿礼(みあれ)の日を用いた(注:『扶桑略記』『百錬抄』による)。寛治四年(1090)、参議藤原保実(やすざね)を遣わし、初めて神饌を奠(そな)えた。それ以後、日々神饌を供えることが永式として定められた(注:『中右記』『百錬抄』『帝王編年記』による。保実は『公卿補任』による)。ほどなく不輸租田(ふゆそでん、租税を免除された田)六百余町を奉り、二社の供御(くご)の料に充てた。また御厨(みくりや)を諸国に分置した(注:『百錬抄』『一代要記』、『賀茂注進雑記』引用の旧記による。○『帝王編年記』では六百余町を百余町とする)。上社の近江・安曇河(あどがわ)御厨のような例では、公田(こうでん)百五十余町をもって神人(じにん)五十余人に班給し、日々に河魚を捕らせて朝夕の御贄(みにえ)に充てた(注:『賀茂注進雑記』による)。嘉承元年、上社が火災に遭ったので、神座(かみくら)を貴布禰社(きふねしゃ)に遷し、朝廷は三日間政務を停止した。官人を遣わして幣帛を奉り謝罪した(注:『百錬抄』『中右記』『永昌記』『鳩嶺宮寺縁事抄』による)。元永二年(1119)、下社が火災に遭った。神輿(みこし)を比良木社(ひらぎしゃ)に移し、これもまた三日間朝政を停止した(注:『中右記』『長秋記』『百錬抄』『帝王編年記』による)。久安元年(1145)、社への行幸を予定していたところ、鼠が浄席(祭の敷物)をかじった。帝がこれを菅原登宣(すがわらのとうせん)に尋ねると、「春秋(『春秋』)には、鼷鼠(はつかねずみ)が郊祀の牛の角を食べると、その儀礼を中止したとあります。日を改めて行うのがよいでしょう」と答えた。それに従った(注:『台記』による。登宣の姓は『尊卑分脈』『菅原系図』による)。承安四年(1174)、神楽を二社に三夜奏した(注:『吉記』による)。後世、二社を本国の一宮(いちのみや)と称した(注:『一宮記』による)。おおよそ上社は破損に応じて修造し、下社は二十年ごとに造り替えるものとされた(注:『百錬抄』による)。朝廷が衰えるに及んで、期限を過ぎても修理されなかった。それに加えて悪僧や盗賊が社領を妨げ荒らし、祭祀が乏しくなった(注:『吉記』による)。たとえば斎院の禊(みそぎ)の祭の料についても、諸国がこれを整えて納めないことがあった。朝廷はしばしば勅を下してこれを督促し、あるいは国司に功を募ってこの事を供させた(注:『小右記』『中右記』による)。寿永二年(1183)、これより先、平氏が神領を横領していたが、この時、院宣を下してこれを禁じた。しかし多くの荘園はその命に従わなかった(注:『賀茂注進雑記』による)。源頼朝が政権を執るに及び、諸国に命じて上社の神領四十二所について、すべて院宣に依り武士の侵害を止め、神事の費用を備えさせた(注:『東鑑』『賀茂注進雑記』による)。頼朝はほどなく出雲の安東郷(あんどうごう)を献じ、冬の神楽の料に充てた(注:『東鑑』による)。また本国および播磨・周防などの諸々の神領に、みな社の役儀に供させるよう命じた(注:『賀茂注進雑記』による)。貞永元年(1232)、これより先、諸国の御厨が武士に掠め奪われ、わずかに安曇河の一所のみが残っていた。元暦年間(1184-1185)、権門勢家が私に河魚を捕ることを厳しく禁じる勅があったが、この時、比叡荘(ひえいのしょう)の民、吉直(よしなお)が漁場を横領し、寄人(よりゅうど)らが魚を捕ることができなくなった。社司はそこで訴えて「調べたところ、安曇河の魚はもっぱら御贄に供するものであり、他人が魚を捕ることを禁じています。宣旨は明白であり、格条に記されています。近頃、吉直がその格旨に背き、祭の品を侵し奪っています。乱暴で勝手気ままな振る舞いは、動もすれば紛争を招いております。そもそも本社の祭祀は、すでに国家第一の神事であります。そして寛治の勅願は、朝廷にまたとない礼典ではありませんか。今、百有余年の神への供物が、一朝にして彼に妨げられることは、社家の患いであるだけでなく、朝廷もまた問わずにはいられないことでありましょう。速やかに吉直を罰し、後の害を絶たれるようお願いします」と述べた。これに従った(注:『賀茂注進雑記』による)。四条天皇の御代、藤原頼経(よりつね)が佐々木信綱(ささきのぶつな)に命じ、守護が安曇河御厨の内のことに干渉することを禁じた(注:『東鑑』による)。もともと延暦の遷都以来、二社を京邑(けいゆう、都)の鎮護とし、歴代がこれを崇敬し、厳神(げんしん)と号した。水害・旱害・疫病があれば、必ず幣帛を奉った。天子の即位には必ず斎王(さいおう)を卜定(ぼくじょう)し、四季の祭祀はとりわけ荘重を極めた(注:『続日本紀』『類聚国史』『日本紀略』『延喜式』『玉海』『吉記』の大意による)。後に伊勢神宮および石清水八幡宮とともに「三社」と称された(注:『東寺文書』『二十二社本縁』による)。その常祭は四月の中の酉の日を用いる(注:『延喜式』『本朝月令』による)。その前日に行う祭を国祭(くにまつり)と呼ぶ(注:『年中行事秘抄』『公事根源』による)。また御阿礼(みあれ)とも呼ぶ(注:『栄華物語』『百錬抄』による)。酉の日には勅使を差し、五色の薄絁(うすぎぬ)・糸・曝布・安芸木綿麻などの幣、および走馬十匹を二社に奉る。斎王が自ら祭事を承り、物忌には装束を、禰宜・祝には当色の料を支給する(注:『延喜式』による)。

その儀式は貞観年間に定められた。祭に先立つ禊(みそぎ)の儀では、弁官が陰陽寮に吉日を選ばせ、禊の二日前に斎院司・陰陽寮および供奉の諸司を率いて鴨川に至り、その場所を占い定めて奏上する。前日、所司が常のように準備を整える。当日、弁・大夫・史各一人、史生二人、掌一人が、供奉の諸司を率いてまず禊の場所に赴いて行事を務める。左右京職(きょうしき)が坊令(ぼうれい)・兵士らを率いて出迎え、本国の国司が史生・博士・医師・郡司らを率いて、京の東の端の道に控える。斎王が車に乗って出る。その先駆には京職の進(しん)・属(さかん)・史生各一人、坊令二人、兵士十人(左京は道の左に、右京は道の右に。以下の諸衛もまた同様)、陪従の左右六位・五位各二人、門部(かどべ)・兵衛(ひょうえ)・近衛(このえ)がそれぞれ各二人、斎院の長官がこれに次いで続く。次に斎王の車、陪従の左右各十人、走孺(そうじゅ)左右各二人、次に執物(しつぶつ)左右各四人。その後方に陣の衛門(えもん)の火長(かちょう)左右各八人。斎院の次官以下は左右に分かれて並び、清器(せいき)・盥器(かんき)・韓櫃(からびつ)各一荷がその間にある。女別当(にょべっとう)の車、宣旨(せんじ)の車がこれに次ぎ、供膳の韓櫃三荷がこれに次ぐ。雑器・衣服の韓櫃各二荷、禄物の韓櫃四荷がまたこれに次ぐ。次に侍者・蔵人らの車各二輛、采女(うねめ)・女孺(にょじゅ)・宮人らの車がこれに次ぐ。斎王が禊の場所に臨むと、中臣(なかとみ)が麻を奉り、まず院司に授け、司はこれを宣旨に付して供える。それが終わると司に授け、司は中臣に授け、中臣は宮主(みやじ)に授け、宮主はこれを受けて捧げ持つ。祓詞(はらえことば)を読み終えると、弁官以下、本国の国郡司以上に饗を賜い、禄を等差に応じて賜る。事が終わると、斎王は院に還る。祭の二日前、大臣が警固のことを奏する。すなわち諸衛に命じ、祭の日の明け方、奉幣使が社に向かうときに、内侍のもとで奏上させる。天皇は使らが馬に乗るのを見る。それが終わると禄を等差に応じて賜う。内侍以下は使とともに内蔵寮で解除(げじょ、祓い)を行い、寮が酒饌を供する。それが終わると、北辺の路に至って斎王を待つ。舎人二人が幣を執って先行し、国司が騎兵を率いて祇承(しじょう、お迎え)する。斎王が輿に乗って出る。本国の歩兵・騎兵はそれぞれ左右各十人、郡司八人、史生・医師・博士・目(さかん)・掾(じょう)各一人がその間にある。春宮(とうぐう)の走馬・中宮(ちゅうぐう)の走馬はそれぞれ左右各一匹、馬寮の走馬各五匹がこれに次ぐ。次に春宮亮(とうぐうのすけ)・中宮亮・馬寮頭(めりょうのかみ)・近衛少将一人が中路にある。内蔵頭(くらのかみ)がこれに次ぐ。中宮蔵人・蔵人命婦(みょうぶ)・内侍各一人、斎院の長官がこれに次ぐ。次に門部二人、兵衛・近衛各一人が左右にある。斎王の輿は中路にあり、前後の駕輿丁(かよちょう)各二十人、輿長(こしおさ)各六人、近衛・兵衛各一人がこれに次ぐ。屏繖(へいさん、日傘)を執る者左右各一人、翳(えい、扇状の飾り)・笠・壺を執る者各一人がこれに次ぐ。次に乳母二人、蔵人八人、女孺六人、童女四人がそれぞれ左右にあり、腰輿(ようよ)がこれに次ぐ。駕輿丁四人、火長左右各十人、斎院次官・判官各一人が腰輿を挟む。主典(さかん)・史生はそれぞれ左右各一人、陪従左右各三人がこれに次ぐ。清器・盥器の韓櫃各荷がその間にある。馬寮の属(さかん)・馬医・史生はそれぞれ左右各一人がこれに次ぐ。次に宣旨の車が中路にあり、供膳の韓櫃三荷、膳部左右各三人、衣服の韓櫃左右各二荷、荷領(にりょう)左右各一人、禄物の韓櫃左右各三荷、荷領左右各二人がこれに次ぐ。次に侍者の車二輛、采女の車・司人(つかさびと)の車各一輛が中路にある。斎王はまず下社に詣でて幄(あく、幕舎)に着き、さらに腰輿に乗り換え、前後の列を減らして社に至り、社を去ること十丈ほどのところで輿を下り、歩いて左殿の座に着く。内蔵寮の幣が中門に至ると、史生二人が舎人に代わって幣を捧げ持ち、社に入る。官の使者は座に着き、寿詞(よごと)を読む。それが終わると退出する。斎王は幄に戻る。その時、少将と馬寮頭が馬場で馬を走らせる。それが終わると、斎王はそこで上社に詣で、下社と同様の儀式を行う。ただし斎王は右殿の座に着く。翌日に至って、諸衛は警固を解く(注:『貞観儀式』による)。祭の日、夜になると、本国が松明(たいまつ)を備える。掾または目一人がお迎えする(注:『延喜式』による)。

その他にも祭の儀式は多く、御棚会祭(みたなえのまつり)という。寛仁年間より始まり、正月十四日に安曇河の魚を供える(注:『賀茂注進雑記』による)。御蔭山祭(みかげやままつり)という。四月の中の午の日を用いる(注:『新古今和歌集』『康富記』による)。この日、下社の神輿を奉り、御蔭山の社に遷す。社司が神宝・神木などを執り捧げて供奉する(注:○神木を御生木(みあれぎ)という)。そこに至って祭を行い、葵楓を供える(注:『賀茂祭事記』による)。おそらく昔の遺風であろう。しかし長暦年間(1037-1040)に至って、古い制度は次第に崩れた。その臨時祭の神楽は、ほとんど散楽(さんがく)と異なるところがなくなった。諸々の作法はみな古い意味を失い、識者はこれを嘆いた(注:『春記』による)。

おおよそ斎王を卜定する制度は、伊勢の斎宮に準じる。定まると、卜部(うらべ)が解除(祓い)を行う。神部(かんべ)は木綿(ゆう)を賢木に着け、寝殿の四面および内外の門に立て、参議以上の者一人を上下社に遣わして幣帛を奉り、これを告げる。すなわち初斎院(しょさいいん)を卜(占い)によって築く。まず水辺に臨んで祓禊(はらえみそぎ)を行う。その儀式はほぼ前に述べた式のとおりである(注:前の式は『貞観儀式』による)。初斎院に入ると、供膳(ぐぜん)の井戸を卜定し、賢木を立て、宮主が井戸を祭る。三年で斎(いつき)を終える。その四月、初めて社に詣で、あらかじめ吉日を選んで禊を修する。その儀式は、斎王が輿に乗り、輿長十人、駕輿丁四十人、衛府十二人、火長左右各十人。京職・国司がお迎えするのも、また前の儀式と同様である。駕馬女(かめじょ)十六人、走孺十人、装物(そうもつ)の盥器・膳器・衣禄などの韓櫃には、それぞれ数がある。担夫(たんぷ)四十六人、次に膳部六人、膳所舎人二人、荷領十人、蔵人所の陪従六人、女別当以下はみな車に乗る。勅使は、大納言・中納言各一人、参議二人、四位・五位各四人、内侍・弁・外記・史・太政官史生各一人、弁官史生二人、官掌一人、神祇・内蔵・縫殿(ぬいどの)・陰陽・大蔵・宮内・大膳・木工・大炊(おおい)・主殿(とのも)・掃部(かもん)・造酒(みき)・主水(もんど)・馬寮などの諸司が供奉する。禊が終わると、饌と禄を賜う。そして野宮(ののみや)に留まる。神祇官はまず大殿祭(おおとのほがい)を行う。おおよそ毎年仲冬(十一月)の上の卯の日に、相嘗祭(あいなめのまつり)を行う。この日、鶏が鳴くと斎王は潔斎し、遠く二社を拝んで幣帛を奉る。夕刻に二つの神座を設け、南面して東を上座とし、座ごとに斎王の座を設けて饗応する(注:『延喜式』による)。

万寿四年(1027)、勅して御禊(ごけい)などの儀式が奢侈に過ぎることを禁じた(注:『小右記』による)。土御門天皇以後、斎王は再び置かれなくなった(注:『貴女抄』による)。もともと賀茂の神威霊験は顕著であり、朝廷はとりわけこれを尊崇した(注:『賀茂縁起』による)。それゆえ国郡が祀り奉ることもまた大いに盛んであった。本国相楽郡にもその祠があり、その他、河内・遠江・上野・加賀・備前・淡路・阿波・讃岐の諸国にもみなこれを祀っている(注:『延喜式』による)。おおよそ本社には神主・禰宜・権禰宜・祝・権祝などがあり、いずれも建角身の子孫である鴨県主(かものあがたぬし)がこれに補せられた。まだ社司に補せられていない者を氏人(うじびと)と呼び、およそ百余人が神社の宿直の事を掌った(注:『鴨県主系図』『賀茂注進雑記』による)。

出雲井於神社(いずもいのへじんじゃ)

また比良木神社(ひらぎじんじゃ)ともいい、地主明神(じぬしみょうじん)と称する(注:『帝王編年記』『御祖社伝説』による)。あるいは賀茂下社の氏神社であるともいう(注:『長秋記』による。○今は御祖社の楼門の内、西側にある)。伝えていうには、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀るという(注:『御祖社伝説』による)。貞観元年、従五位下から従五位上に進めた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかった(注:『延喜式』による)。後に下賀茂の摂社となった(注:『神社啓蒙』『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。建保二年(1214)、上皇が賀茂社に行幸し、続いて本社にも参詣した(注:『後鳥羽院御記』による)。その禰宜・祝はともに鴨県主が補せられた(注:『鴨県主系図』による)。

貴布禰神社(きふねじんじゃ)

(注:貴布禰は木船とも書く。今は貴布禰村にある)罔象女神(みつはのめのかみ)を祀る(注:『日本書紀』『古事記』『二十二社注式』『諸社根元記』による)。木船川の上流にあることから、世に河上神(かわかみのかみ)と称する(注:『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』による)。弘仁九年(818)、大社に列し、従五位下を叙した。ほどなく官人を遣わして祈雨を行った。翌年、また幣帛を奉り晴天を祈った(注:『日本紀略』による)。これ以後、日照りや長雨のたびに必ずこれを祈り、しばしば霊験があった。おおよそ晴天を祈るときは白馬を、雨を祈るときは黒馬を奉る(注:『続日本紀』『日本後紀』『三代実録』『延喜式』『日本紀略』による)。後世、晴天を祈るときには、さらに赤馬を奉るようになった(注:『北山抄』による)。承和十年、正五位下に進めた(注:『続日本後紀』による)。貞観元年、従四位下を授けた。十五年、正四位下に昇った(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。長保五年・寛仁元年に、それぞれ一階を加え、正二位に進めた(注:『小右記』『左経記』『日本紀略』『二十二社注式』『諸社根元記』による)。天喜三年(1055)、水害があったため、社を別の地に移した(注:『百錬抄』『扶桑略記』による)。承暦五年(1081)、従一位に進めた(注:『二十二社注式』『諸社根元記』による)。保延五年(1139)、大旱魃(かんばつ)があった。宣命を奉って雨を祈ると、たちまち恵みの雨に応じた(注:『古今著聞集』による)。永治元年(1141)、正一位を加えた(注:『二十二社注式』『諸社根元記』による)。弘安九年(1286)、新院が行幸した(注:『一代要記』『帝王編年記』による)。後世、賀茂上社の摂社となった(注:『二十二社本縁』『神社啓蒙』による)。禰宜・祝はみな鴨県主がこれを務めた(注:『中右記』『鴨県主系図』『賀茂注進雑記』による)。

鴨川合坐小社宅神社(かもがわあいにいますおこそやけじんじゃ)

また只洲社(ただすしゃ)ともいう(注:『伊呂波字類抄』『拾芥抄』による。○今は下賀茂の南、糺の森にある。糺(ただす)とはすなわち只洲(ただす)のことである)。伝えるところによれば、多多須玉依日売命を祀るという(注:『御祖社注進状』による。『本朝月令』『年中行事秘抄』も参照した)。賀茂苗裔神(かものびょうえいしん)と称する(注:『本朝月令』『年中行事秘抄』による。○苗裔とはおそらく一族諸神や属社をいうのであって、必ずしも後裔の神という意味ではないだろう。参考として付記する)。天安二年、従五位下をもって名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『文徳実録』による。大社以下は『本朝月令』『年中行事秘抄』による。○『文徳実録』には「下階」とあるが「上階」の誤りであろう。今は『三代実録』貞観元年の位階の記事による)。貞観元年、従五位上に進めた。この冬、祭を修めた(注:「是冬」以下は『年中行事秘抄』引用の旧記による)。四年、正五位下を授けた(注:『三代実録』による)。延喜元年、神祇官が「本社の神霊は貴賤を問わず崇敬されており、賀茂への奉幣は例として必ずまず本社から行われる」と奏上した。そこで勅して相嘗祭にあずからせた(注:『本朝月令』『年中行事秘抄』による)。式の制定にあたっては、従来どおり名神大社に列し、官祭にあずかることも以前の制のとおりとした(注:『延喜式』による)。後に下賀茂社の摂社となった(注:『諸神記』『神社啓蒙』『国華万葉記』による)。

寛仁元年、従二位から正二位に進めた(注:『小右記』『左経記』『日本紀略』による)。建保二年、上皇が賀茂に行幸し、まず本社に参詣した(注:『後鳥羽院御記』による)。その祭の日は孟夏(四月)の中の酉の日を用い、勅使を発遣する(注:『本朝月令』『年中行事秘抄』による)。おおよそ禰宜・祝はともに鴨県主がこれに補せられた(注:『中右記』『鴨県主系図』による)。

三井神社(みいじんじゃ)

蓼倉里(たでくらのさと)にある(注:今は河合社の南、あるいは御祖社の西にあり、三所社(みところしゃ)と称するのがこれであるという。いずれが正しいかわからない)。賀茂建角身命・神伊可古夜比売命(かみいかこやひめのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)を祀り、名づけて三身社(みみしゃ)という。世には訛って三井(みい)というようになった(注:『山城国風土記』『賀茂縁起』による)。延喜の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。後に下賀茂社の摂社となった(注:『神社啓蒙』『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。

片山御子神社(かたやまみこじんじゃ)

また片山神(かたやまのかみ)とも称する(注:『三代実録』による。○今は上賀茂村の片岡山の西麓にある)。おそらく鴨建玉依彦命(かもたけたまよりひこのみこと)を祀るものであり(注:『姓氏録』『千載和歌集』による)、建角身命の子である(注:『山城国風土記』『賀茂縁起』による)。斉衡三年、官社に列し、相嘗祭にあずかった(注:『文徳実録』による)。貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかった(注:『延喜式』による)。寛仁元年、従二位から正二位に進めた。片岡の地にあることから、世に片岡神(かたおかのかみ)と呼ばれる(注:『小右記』『左経記』『日本紀略』による)。上賀茂社の摂社となった(注:『神社啓蒙』『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。禰宜・祝はともに鴨県主がこれに補せられた(注:『中右記』『鴨県主系図』『賀茂注進雑記』による)。

出雲高野神社(いずもたかのじんじゃ)

(注:今は高野村にあり、御霊社と称する)

賀茂山口神社(かもやまぐちじんじゃ)

(注:今は別雷社の域内にある)貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。後に沢田社(さわだしゃ)と称され、別雷社の摂社となった(注:『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。おおよそ別雷社では四月の植田祭(うえたまつり)をこの社の前で行い、穀物の実りを祈る。おそらく昔の遺風であろう(注:土地の人の説による)。

賀茂波爾神社(かもはにじんじゃ)

(注:あるいは今は高野川の東、新田村にあるという。埴(はに)は「波爾」と訓じ、すなわち赤宮(あかみや)がこの社の本社であることも、これを証するものであろう)鴨建玉依彦命の子孫に西埿部(にしはにべ)がある(注:『姓氏録』による)。この社はおそらくその一族が奉祀するものであろう。

小野神社(おのじんじゃ)二座

(注:今は高野村にある)小野朝臣(おののあそん)の祖を祀る(注:『姓氏録』『三代実録』による。○近年、土地の人が本社の近くの地を掘り、小野朝臣毛人(えみし)の墓誌を得た。この地は実に小野氏が居住していた土地である)。貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

久我神社(こがじんじゃ)

(注:今は東紫竹村の大宮森にあり、氏神社と称する)賀茂建角身命を祀る(注:『釈日本紀』『神名帳頭注』による)。建角身はかつて賀茂川を遡り、久我の北山の麓に居を占めたが(注:『山城国風土記』『賀茂縁起』による)、おそらくこの地であろう。貞観元年、正六位上から従五位下に進めた(注:『三代実録』による)。

末刀神社(まとじんじゃ)

(注:今は下鴨社の北にある。あるいは今の所在地は実は旧地ではないという。永久五年(1117)の諸陵寮の牒(ちょう)に「松崎陵戸(まつざきのりょうこ)末刀前里(まとまえり)」云々の文があり、末刀とはおそらくこの社の所在を指すのであろう。しかし今その名は失われており、詳しく考えることができない)右の二社は後にともに下賀茂の摂社に列した(注:『神社啓蒙』『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。

須波神社(すわじんじゃ)

(注:あるいは今は別雷社の楼門の外にあり、諏訪社(すわしゃ)と称するのが、これであるという)

伊多太神社(いたたじんじゃ)

(注:あるいは今、高野村の西に伊多伊多(いたいた)と称する地があり、これが本社の遺址であろうという)

鴨岡太神社(かもおかふとじんじゃ)

(注:『続日本後紀』によれば、賀茂社の東一里ほどのところに岡本堂(おかもとどう)があり、神戸の百姓が賀茂大神のためにこれを建てたという。また賀茂氏福筆記には、岡本社は神坂の中山の間にあるとする。今、賀茂社の東七町に岡本町があり、おそらくこれがその旧跡であろう)

太田神社(おおたじんじゃ)

(注:今は上賀茂の東南、太田山の下にあり、太田明神という。社の前に太田沢という地があり、階(きざはし)は昔の名残である)保安元年(1120)、案上の幣(あんじょうのぬさ)にあずかった(注:『神名帳頭注』による)。建長四年(1252)、社壇に死んだ鹿の穢れがあったため、朝夕の神饌を鳥居の外に供えた(注:『百錬抄』による)。後に上賀茂の摂社となった(注:『神社啓蒙』『国華万葉記』『和漢三才図会』による)。鴨県主が代々禰宜・祝・権祝を務めた(注:『兵範記』『鴨県主系図』『賀茂注進雑記』による)。

大柴神社(おおしばじんじゃ)

(注:あるいは今、上立売(かみたちうり)の大宮の市に柴大宮町(しばおおみやちょう)と称する地があり、その近くの小地名の多くに柴の字を冠しているのは、おそらく大柴社の所在であったからで、今は絶えてしまったという)

高橋神社(たかはしじんじゃ)

貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

以上十三座は、延喜の制ではいずれも小社に列した。そのうち小野二座は、祈年祭の幣にともに鍬(くわ)・靫(ゆぎ)各一口を加えた(注:『延喜式』による)。


紀伊郡 八座

稲荷神社(いなりじんじゃ)三座

(注:今は藤尾の地にある)伝えるところによれば、上社は素戔嗚尊を、中社は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)を、下社は大市比売命(おおいちひめのみこと)を祀るという(注:『神名帳頭注』『神祇拾遺』による。○神名については諸書の記載が一致せず、おおむねみな付会であって信じがたい。今はひとまずこの二書に従い、その異同については逐一注記しない)。大市比売は大山祇命(おおやまつみのみこと)の娘で、素戔嗚尊に嫁ぎ、実は宇迦御魂神の母である(注:『古事記』による)。三社はおそらく中社を主神とするものであろう(注:『蜻蛉日記』『枕草子』『拾遺和歌集』の大意による)。和銅四年、秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)が新たに祀った。伊侶具の家はたいそう富んでおり、ある日戯れに餅を的にして矢を射た。すると餅は白鳥と化して三つの峰に飛び集まり、そこに稲が生えた。この出来事は実に神異であった。伊侶具はそこで祠を建てて祭り、伊奈利社(いなりしゃ)と名づけた。その後裔である秦忌寸中家(はたのいみきなかつえ)は先祖の過ちを謝り、木を植えて祈り祭った。秦氏は代々禰宜・祝となり、春秋の祭を供えた。おおよそ神に祈る者は、植えた木が栄えれば福を得、枯れれば幸せがないとされる。俗にこれを験杉(しるしのすぎ)という(注:『年中行事秘抄』『諸社根元記』による。験杉は『更級日記』による)。弘仁七年二月丙午の日、僧空海(くうかい)の願いにより、三つの峰の下、藤尾の地に遷した。今の所在地がこれである(注:『藤森社縁起』による)。その後、朝廷は東寺を空海に賜い、道場とさせた。空海はそこで「神が老翁・老嫗(ろうおう)に姿を変え、稲を荷って寺に詣で、仏法を守ることを誓った」と偽って称し、ついに本社を東寺の鎮守神とすることを願い出た。さらに「稲荷」の字を用い、これを「いなり」と訓ませることにした。世の人々はついにこれを信じ、本社はこれによってますます著名になった(注:『二十二社本縁』『壒嚢抄』『公事根源』を参酌した)。天長四年(827)、これより先、空海が官に願い出て社の樹木を伐り、東寺の塔を造る材とした(注:『性霊集』による)。ちょうど帝(淳和天皇)の病が起こり、これを占ったところ「稲荷神が祟りをなしており、その咎は木を伐ったことにある」とされた。そこで勅使を遣わして従五位下を授け謝罪した(注:『類聚国史』による)。

承和十年、従五位上に昇った。翌年、従四位下に進み、ほどなく名神に列した(注:『続日本後紀』による)。本国から封戸十戸を奉った(注:『新抄格勅符』による。○本書には年代が詳らかでないが、ひとまずここに載せる)。文徳帝の即位に際し、一階を進めた。仁寿二年、幣帛を奉り雨を祈った。天安元年、三座ともに従四位下に昇った(注:『文徳実録』による)。貞観元年、みな正四位上を加え、ほどなく幣帛を奉って晴天を祈った。これ以後、風害や日照り・長雨があるたびに、幣帛を奉って祈った。七年、神田三段を充てた。十六年、三座ともに従三位に昇った。元慶四年、大極殿の完成を祭って告げた(注:『三代実録』による)。延喜元年、ともに正三位を加えた(注:『日本紀略』『扶桑略記裏書』による)。ほどなくまた名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。八年、左大臣藤原時平(ときひら)が三社を修造した(注:『年中行事秘抄』『二十二社注式』による)。もともと世の人々がこの神を尊び信じていたが(注:『三代実録』による)、醍醐天皇の頃には、二月の初午(はつうま)の日に群れをなしてこの社に詣でることを稲荷詣(いなりもうで)と呼び、この頃にはその流行がいっそう盛んになったという(注:『紀貫之家集』による)。天慶二年、神宝・走馬を奉り、皇太后の病を祈った御礼をした(注:『外記日記』による)。三年、正二位から従一位に進めた。寛弘七年、翌年が三合厄にあたるため、神宝および東遊を奉った(注:『日本紀略』による)。延久四年、天皇の車駕が本社および祇園社に行幸した。後にこれが例となり、両社行幸(りょうしゃぎょうこう)と呼ばれた(注:『扶桑略記』『百錬抄』『帝王編年記』『濫觴抄』による)。建保二年、本院(後鳥羽院)が臨幸して幣帛を奉った。神主は杉の葉を本院および公卿以下に奉った。おそらく古くからの慣わしであるという(注:『後鳥羽院御記』による)。文永三年(1266)、四大神(しのおおかみ)・田中(たなか)の二座を中社・下社にそれぞれ配し、稲荷五社(いなりごしゃ)と称した(注:『神祇拾遺』『壒嚢抄』『忠富王記』『東寺文書』による。○世俗では四大神を中社の御子神、田中を下社の御子神とする。『台記』の久安六年(1150)、稲荷社に幣帛を奉った条に「四大神の幣を中社に、田中神の幣を下社に加える」という語がある。おそらく当時すでにこのような説があり、この時にいたってついに合祀したのであろう。ただし二社の神名については、今はひとまず疑いを残しておく)。建武元年(1334)、勅して「寿永・正嘉の制に基づき、加賀味智郷(かがみちごう)の水田二十町を社領に定める」とした(注:『稲荷社文書』による)。おおよそ祭の日は四月の上の卯の日を用い、卯の日が三度ある月は中の卯の日を用いる。春宮・中宮ともに勅使を遣わす(注:『年中行事秘抄』による)。社司は今に至るまで秦氏が任じているという(注:『神和漢三才図会』による)。

御諸神社(みもろじんじゃ)

(注:あるいは今は伏見の里にあり、御香社(ごこうしゃ)と称するのが、これであるという。伏見の旧名は御諸山(みもろやま)といい、これがその証である)伝えていうには、神功皇后(じんぐうこうごう)を祀るという(注:天正十八年(1590)の豊臣氏の願文による)。

大椋神社(おおくらじんじゃ)

(注:今は伏見の御香社の西南、与力町(よりきちょう)にある。わずかに旧跡が残る)おそらく巨椋連(おおくらのむらじ)の祖を祀るものであろう(注:『姓氏録』『延喜式』による)。

飛鳥田神社(あすかだじんじゃ)

また柿本社(かきのもとしゃ)ともいう(注:『延喜式』による。○今は横大路村の南にある。応永二十五年(1418)・文明九年(1477)などの上棟文にはともに「飛鳥田明神」とある)。

真幡寸神社(まはたきじんじゃ)二座

(注:今は中島村の城南神森(じょうなんかみもり)にある。神森の東北、竹田村に真幡寸辻(まはたきつじ)がある。また『東寺文書』に本郡拝師荘(はいしのしょう)真幡寸里とあり、これが本社の旧所在地である)弘仁七年、飛鳥田社とともに官社に列し、鴨上社(かもかみしゃ)の別社となった(注:『日本紀略』による)。

以上五座は、延喜の制ではいずれも小社に列した(注:『延喜式』による)。


宇治郡 十座

許波多神社(こはたじんじゃ)三座

(注:許多波はまた木幡とも書く。二座は今は木幡村にあり、一座は五箇荘の大和田村にあり、通じて柳明神(やなぎみょうじん)という)その一座は天忍穂根命(あめのおしほねのみこと)を祀る(注:『山城国風土記』による。○穂の下に「一」の字がある。二座の神名は詳らかでない。社伝では天津彦根(あまつひこね)・天穂日(あめのほひ)の二神とする。『元要記』には「天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・彦火瓊瓊杵尊(ひこほににぎのみこと)・栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)を祀る」とあるが、参考として付記する)。貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた(注:『三代実録』による)。延喜の制ではともに大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。弘長元年(1261)、勅して諸祭を興した。本社の神主が神祇官に赴き、祈年祭・月次祭の官幣を受けて奉ったという(注:『釈日本紀』による。元年は『東鑑』による)。

山科神社(やましなじんじゃ)二座

(注:科は階とも書く。今は勧修寺村にあり、宮道大明神(みやじだいみょうじん)、また二所明神(にしょみょうじん)と称する)宮道氏(みやじうじ)の祖神、および宮道朝臣弥益(みやじのあそんいやます)を祀る。弥益は醍醐天皇の外曾祖父である(注:『本朝月令』『勧修寺縁起』による)。昌泰元年(898)、初めて官祭を行った。延喜十一年、これより先、氏人の内蔵少允宮道良連(くらのしょうじょうみやじのよしつら)が「山科神二座は、すでに春秋の官幣にあずかっていながら、まだ官帳に記載されていません。どうか特別の裁定をもって帳に記載し、四度の官幣にあずからせてください」と言った。この時に至り、勅してこれを許した(注:『本朝月令』による)。ほどなくともに大社に列し、官幣にあずかることも従来どおりとした。その常祭は孟夏(四月)・仲冬(十一月)の上の巳の日を用いる。内蔵寮が五色の絁(あしぎぬ)・安芸木綿・曝布などの物を供える。物忌・神主・禰宜・祝らには、装束の料をともに寮の物を用いて支給する。馬寮は走馬十列を奉る(注:『延喜式』による)。延長六年(928)、正四位下を叙した(注:『扶桑略記裏書』による)。

宇治神社(うじじんじゃ)二座

後世、離宮両社(りきゅうりょうしゃ)と称するのが、これである(注:今は宇治の馬場町にあり、上下二座がある)。上社は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を、下社は忍熊皇子(おしくまのみこ)を祀る。忍熊皇子はその霊を宇治河のほとりにとどめた。延喜年間に至り、朝廷は神託があったとして、本国の国司に神殿を修造させた。宇治・酒波(さなみ)・佐伯(さえき)・藤原の四氏は四姓氏人(ししょううじびと)と称し、祭事に奉仕した(注:『醍醐雑抄』による)。治暦三年(1067)、位一階を授けた(注:『扶桑略記』『百錬抄』による。○『諸社根元記』『諸神記』はともに正三位とするが、本書にはそのことが記されていないので採らない)。当時の人はこれを宇治鎮守神(うじちんじゅのかみ)と呼んだ(注:『中右記』『百錬抄』による)。長承二年(1133)、土地の人が私的に祭を行い、離宮祭(りきゅうさい)と呼んだ。競馬十番、巫女(みこ)・馬長(うまおさ)・田楽(でんがく)・散楽(さんがく)などを献じ、雑然と集まって騒がしく、実に神事を汚すものであった(注:『中右記』による)。仁平三年(1153)の祭の日、前関白藤原忠実(ただざね)は平等院の三綱(さんごう)や所司以下、および諸々の侍・雑色(ぞうしき)らに、ことごとく田楽・散楽を供させ、華やかさを極め尽くした。忠実はこれを自邸に招いて眺め見た(注:『兵範記』による)。

日向神社(ひむかいじんじゃ)

(注:あるいは今、仏国寺の南に木幡嶺(こはたみね)があり、その左方に松林があって、日向山(ひむかいやま)という。本社はおそらくここにあるという。あるいは日岡林(ひおかばやし)にあるともいう。詳らかでない)

天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)

(注:今は石田村にあり、田中明神座(たなかみょうじんざ)と称する)いわゆる石田森皇神(いしだもりのすめかみ)とはこれである(注:『万葉集』による)。貞観四年、正六位上をもって官社にあずかり、ほどなく従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

宇治彼方神社(うじおちかたじんじゃ)

(注:今は宇治郷の彼方村にあり、これであるという。あるいは大鳳寺村にあるともいう)伝えていうには、宗像神(むなかたのかみ)を祀るという(注:社伝による)。

以上五座は、延喜の制ではいずれも小社に列した。そのうち宇治および宇治彼方の三座は、祈年祭の幣にともに鍬・靫各一口を加えた(注:『延喜式』による)。


久世郡 廿四座

石田神社(いわたじんじゃ)

(注:今は綴喜郡東巌田村(ひがしいわたむら)にある)おそらく石田君(いわたのきみ)の祖である五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)を祀るものであろう。垂仁天皇の妃、山背苅幡戸辺(やましろのかりはたとべ)が生んだ皇子である(注:『日本書紀』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった。

水主神社(みずしじんじゃ)十座

(注:今は綴喜郡水主村にある)そのうち二座は天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・山背大国魂命(やましろのおおくにたまのみこと)を祀る(注:『延喜式』による)。天照御魂はおそらく天火明命をいうのであろう(注:『日本書紀』による)。大国魂はおそらくその九世の孫、玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)、すなわち山城水主直(みずしのあたい)の祖であろう(注:『旧事本紀』『姓氏録』による。○残る八座の神名は詳らかでない)。承和十一年、従五位下を授けた(注:『続日本後紀』による)。天安二年、使者を遣わして雨を祈った(注:『文徳実録』による)。これ以後、天災を防ぎ秋の実りを祈るたびに、使者を遣わして幣帛を奉った。貞観元年、従五位上から従四位下に進めた。八年、従四位上を加えた(注:『三代実録』による)。延喜の制ではともに大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった。天照御魂・大国魂の二神はあわせて相嘗祭にもあずかった(注:『延喜式』による)。

荒見神社(あらみじんじゃ)

(注:今は田井村にある。村中に昔、荒見という地があり、これが本社の所在であった。近世の洪水で社地が水没し、今の所在地は遷し祀った場所である)

雙栗神社(さぐりじんじゃ)三座

(注:今は佐山村にある)雙栗臣(さぐりのおみ)が代々この地に居住しており(注:『東寺文書』による。○本書によれば本郡の列栗郷(さぐりごう)はすなわち雙栗氏の本貫であるが、その出自は詳らかでない)、本社はおそらくその祖を祀るものであろう。貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

水度神社(みとじんじゃ)三座

(注:今は寺田村の三田坂(みたさか)のあたりにある。三田はあるいは水度をいう。興福寺官務牒(かんむちょう)に「円誠寺は本郡三田郷水度にある」とあり、これがすなわちこの地である)天照高皇産霊尊(あまてるたかみむすひのみこと)、および和多都弥海神(わたつみのわたつみのかみ)豊玉比売命(とよたまひめのみこと)を祀る(注:『山城国風土記』による。○思うに「天照」の二字はおそらく高皇産霊の尊称であろう。「和多都弥」はすなわち海神であり、これもまた豊玉比売に冠したものであろう。しかし『延喜式』では本社が祀るのは実は三座であるのに、本書がただ二神だけを挙げているのは疑わしい。あるいは天照とは天照国照の略で、天火明命をいうのであろうか。『姓氏録』には天火明の後裔に三富部氏(みとべうじ)があるという。三富(みと)と水度(みと)とは訓読が通じるので、あるいは三富部氏がその祖を祀り、水度神と称したものであろうか。もしそうなら天照もまた一神ということになる。しかし単に「天照」とだけ称する例はおそらくないであろう。あるいは「わたつみ」はもともと豊玉彦を別に祀り、その娘の豊玉比売とあわせて、それぞれ一座としたものであろうか。文意が詳らかでないので、後考を俟つ)。貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた。

旦椋神社(あさくらじんじゃ)

(注:今は大久保村の栗隈社(くりくましゃ)にある。村の西に浅食(あさじき)という地があり、旦椋の訓と近く、おそらく昔の名残であろう)

伊勢田神社(いせだじんじゃ)三座

(注:今は伊勢田村にある)貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。

巨椋神社(おぐらじんじゃ)

(注:今は小倉村にあり、春日と称する)おそらく紀伊郡の大椋社(おおくらしゃ)と同じ神であろう。

室城神社(むろきじんじゃ)

(注:今は下津屋村の室木(むろき)の地にある)おそらく榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀るものであろう。推古天皇の御代、天火明命の子孫、古麻呂(こまろ)がこの郡に住んでいた。その門に大きな榎(えのき)の木があり、その形が室(むろ)のようであったので、皇太子厩戸(うまやど)がこれによって榎室氏(えむろうじ)と名づけさせた(注:『姓氏録』による)。「樹」を「城」と読むので、社名はおそらくこれに由来するのであろう。

以上十三座は、延喜の制ではいずれも小社に列した。そのうち水度・伊勢田の六座は、祈年祭の幣にともに鍬・靫各一口を加えた(注:『延喜式』による)。


綴喜郡 十四座

樺井月神社(かばいつきじんじゃ)

また樺井神(かばいのかみ)とも称する(注:『続日本紀』による。○もとは水主村の西北にあったが、後に水主社のそばに遷した)。おそらく月読尊(つきよみのみこと)を祀るものであろう(注:『三代実録』『延喜式』による)。承和十二年、綴喜・相楽の二郡で、群れをなす虻(あぶ)が牛馬に害をなした。これを占うと「樺井神が祟りをなしている」とされたので、使者を遣わして祈り謝罪した(注:『続日本後紀』による)。貞観元年、従五位下から従五位上を授けられ、風雨の災いを祓った(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。

月読神社(つきよみじんじゃ)

(注:今は大住村にある)貞観元年、従五位下から正五位下に進めた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)

(注:今は田辺村の棚倉野にある)伝えるところによれば、天香語山命(あめのかごやまのみこと)を祀るという(注:社伝による)。またの名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)という(注:『旧事本紀』による。○棚倉彦・手栗彦は訓が通じる)。貞観元年、従五位下から従五位上を加えた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

朱智神社(しゅちじんじゃ)

(注:今は筒城郷(つつきごう)の天王村にある)おそらく彦坐王(ひこいますのみこ)の孫、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を祀るものであり(注:『古事記』『興福寺官務牒』による)、すなわち神功皇后の祖父である(注:『古事記』による。○官務牒によれば、本郡筒城郷の朱智長岡荘(しゅちながおかのしょう)に普賢寺(ふげんじ)があり、息長山(おきながやま)と号し、本社をその守護神としているという。迦邇米雷王の父は大筒木真若王(おおつつきまわかのみこ)といい、その子は息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)といい、地名がみなこれに縁があることが、一つの証となるであろう)。

咋岡神社(くいおかじんじゃ)

(注:今は飯岡村の飯岡にある)

高神社(たかじんじゃ)

(注:今は多賀村にある)伝えていうには、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神を祀るという(注:社伝による)。

内神社(うちじんじゃ)二座

(注:今は内里村にある。この村の東南に古宮地(ふるみやち)・宇智垣(うちがき)などの地名があり、おそらくその旧跡であろう)おそらく内臣(うちのおみ)の祖を祀るものであろう(注:『姓氏録』『延喜式』による)。

粟神社(あわじんじゃ)

(注:今は市辺村の粟古(あわこ)にあり、粟明神と称する)

佐牙乃神社(さがのじんじゃ)

(注:もとは筒城郷の山本村にあったが、後に江津村に遷した)伝えていうには、酒弥豆男(さかみずお)・酒弥豆女(さかみずめ)の二神を祀るという(注:天正四年(1576)の神記による)。大同元年、封戸九戸を定めた(注:『新抄格勅符』による)。

酒屋神社(さかやじんじゃ)

(注:今は興戸村にあり、酒屋明神という)

甘南備神社(かんなびじんじゃ)

(注:今は薪村の西南、甘南備山の上にある)宝亀二年(771)、本国から封戸一戸を献じた(注:『新抄格勅符』による。○大和の飛鳥社はまた甘南備飛鳥社ともいう。これによれば本社が祀る神はおそらく飛鳥神と同じであろうが、まだ明証を得ていないので、後考を俟つ)。

天神社(てんじんじゃ)

(注:今は松井村の交野原(かたのはら)にある)延暦六年(787)、交野で天神を祀った(注:『続日本紀』による)。本社はおそらくその遺跡であろう。

地祇神社(ちぎじんじゃ)

(注:今は上村にある)

以上十一座は、延喜の制ではいずれも小社に列した。そのうち咋岡・高・佐牙乃の三座は、祈年祭の幣にともに鍬・靫各一口を加えた(注:『延喜式』による)。


相楽郡 六座

祝園神社(ほうそのじんじゃ)

(注:今は祝園村の柞森(ははそもり)にある)伝えていうには、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀るという。太古、この地に姦しい鬼がいて妖しい害をなし民を苦しめていたが、神が天から降臨してこれを平定したので、民は初めて安らかに暮らせるようになった。それゆえこれを祀ったという(注:『元要記』引用の『鹿島遷幸記』による)。大同元年、本国から封戸四戸を定めた(注:『新抄格勅符』による)。貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

和伎坐天乃夫支売神社(わきにいますあめのふきめじんじゃ)

また和岐神(わきのかみ)ともいう(注:『三代実録』による。○今は平尾村の涌森(わきもり)にあり、涌出宮(わきでのみや)と称する)。大同元年、本国から封戸四戸を定めた(注:『新抄格勅符』による)。貞観元年、従五位下から従五位上に進めた(注:○本書のこの条には、また和伎神に正五位下を授けたとあるが、おそらく重複の誤りであろう)。使者を遣わして幣帛を奉り、風雨の止むことを祈った(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかった(注:『延喜式』による)。

岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)

(注:今は賀茂郷の北村にある)おそらく賀茂建角身命を祀るものであろう。太祖(神武天皇)が中州(なかつくに)に入られたとき、建角身が先導し、山代岡田の賀茂に至った。それがこの地である(注:『山城国風土記』『賀茂縁起』『秦氏本系帳』による)。貞観元年、従五位下から従五位上に進めた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

岡田国神社(おかだくにじんじゃ)

(注:今は木津にあり、天神社村と称する。この社は鴨社と並び列せられている。鴨は「かも」と訓み、国は「くに」と訓む。『続日本紀』に、和銅元年、岡田離宮に行幸し、賀茂・久仁の二里にそれぞれ道を賜ったとあり、これがこの地である)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列し、四度の官幣にあずかった(注:『延喜式』による)。

綺原坐健伊那太比売神社(かんばらにいますたけいなだひめじんじゃ)

(注:今は綺田村にある)おそらく奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を祀るものであろう(注:『日本書紀』『延喜式』による)。

相楽神社(さがらかじんじゃ)

(注:今は相楽村にある)延喜の制では二座ともに小社に列した(注:『延喜式』による)。


官帳不載者(かんちょうにのらざるもの)

大原野神社(おおはらのじんじゃ)四座

(注:『延喜式』による)乙訓郡にある(注:『二十二社注式』『諸社根元記』による。○今は大原野村にある)。延暦年間に春日の神を遷し祀った。皇后の行啓の便のためであった(注:『大鏡裏書』『権記』『公事根源』による)。仁寿元年二月、「祭の儀式はすべて梅宮に準じる」と定めた(注:『文徳実録』による)。「本国から封戸十戸を奉った」(注:『新抄格勅符』による。○本書に年代が欠けているが、ひとまずここに記す)。貞観元年、官人を遣わして神宝・幣帛を奉った。三年、皇太后が行啓して幣帛を奉り、藤原氏の六位以下を儀従(ぎじゅう、供の者)とした。大原野への行啓は、後についに例となった。七年、神田五段を奉った(注:『三代実録』による)。十三年、祭祀の定めを一つ以上、みな春日社に準じることとした(注:『二十二社注式』『諸社根元記』ともに『貞観式』を引用している)。十七年、幣帛を奉って雨を祈った。元慶四年、幣帛を奉って大極殿の完成を告げた(注:『三代実録』による)。天慶二年、神宝および走馬を奉り、皇太后の病を祈った御礼をした(注:『外記日記』による)。正暦四年(993)、天皇の車駕が親しく参詣した。これが行幸の始まりである(注:『日本紀略』『外記日記』による)。寛弘二年(1005)、中宮が行啓した。舞人十人、走馬十匹を奉った。供奉した尚侍(ないしのかみ)らが乗った絲毛(いとげ)・金造(こがねづくり)・編代(あみしろ)・檳榔毛(びろうげ)などの車は、およそ四十余輛であった。左大臣以下が車駕に従い、その儀式はたいそう盛大であった(注:『小右記』『日本紀略』による)。七年、翌年が三合厄にあたるため、神宝・東遊を奉った。長元三年(1030)、祈年祭・月次祭の案上の幣にあずかった(注:『日本紀略』による。○『二十二社注式』『諸社根元記』はともに祈年・月次・新嘗の四度の幣にあずかったとする)。

その常祭は、二月の上の卯の日、十一月の中の子の日を用いる。もし子の日が二度あれば、下の子の日を用いる(注:○『大鏡』には「仲冬の上の子の日」とある)。その儀式は、祭の日の明け方、所司が常のように準備を整え、神祇官が物忌らを率いて神殿を飾り、大臣以下が外院の座に着き、中宮職が饌を供え、氏人の六位以下が順に座に着き、幣帛使および内侍が参進する。内侍・命婦は南方の西の門から入って座に着く。使者は幣帛を奉り、瑞垣(みずがき)の前の棚に置き、二段再拝して退出する。次に氏人の諸家の使者がそれぞれ幣を執り、棚の上に置き、前と同様に再拝する。神部四人が進み出て内蔵寮の幣を執り、物忌に授け、神殿に納める。神部が殿前に食薦を敷いて出る。氏人の大夫以下が神饌の机を並べ、東の殿を先頭とする。神部が酒樽を担い、諸殿の前に運び立て、社釀酒(しゃじょうしゅ)の樽一つを一・二の殿の間に、また一つを三・四の殿の間に置き、机と組み合わせ、所司の酒四缶を中重(なかのえ)に置く。それが終わると外院の座に戻る。内侍以下が入って饌の覆いを取る。次いで酒を奠え、殿ごとに二坏とする(一坏は一宿酒、一坏は社醸酒)。終わると神殿の前、屏(たてじとみ)の内の座に出て、東を上座とし北を向く。大臣以下、朝廷の使者、氏人が入って座に着き、北を向き西を上座として重なって並ぶ。次いで殿前に神馬四匹・走馬八匹を並べ、近衛の将監(しょうげん)と馬寮の允(じょう)が前を歩く。次いで神主が木綿鬘を着け、祝詞の座に着き、二段再拝する。大臣以下もみな拝し、祝詞を読む。終わると二段再拝し、四段拍手し、それぞれ直会殿(なおらいでん)の座に着く。神部が斎を散じる(供物を配る)。次いで馬寮が神馬を引いて社を八回巡る。終わると官人らに神酒を賜って退出し、近衛が東儛(あずままい)を供する。大臣が召使を呼ぶと、召使は「はい」と答える。南方から進み出て、北を向いて立つ。大臣は宮内(くない)を呼ぶよう命じ、召使は「はい」と答えてこれを呼び、丞(じょう)は「はい」と答えて趨り立つ。大臣は饌を賜うよう命じ、諸臣に饌を配る。この時、他氏の五位以上が座に着く。神祇の祐(じょう)が琴師・笛工に合奏を命じ、笛と琴の歌が順に始まる。次いで神主が倭舞を舞う。祐一人、氏人の五位以上、六位各二人が順に舞を奏する。酒を三巡し、一段拍手する。終わると五位以上に食を賜う。外記が五位以上・六位以下の見参の記録を大臣に進める。大臣が見終わると返し授け、外記は座に戻る。氏人に禄を賜い、終わると大臣は馬場に臨んで馬を走らせ、内侍がこれを見る(注:『貞観儀式』による)。その祭の供物は春日に準じる。内蔵寮が別に五色の帛・糸・曝布・安芸木綿麻などの幣を献じる。馬寮は神馬四匹、走馬十匹を奉る(注:『延喜式』による)。おおよそ神主は常には置かれず、その時に臨んで氏人一人を卜定してこれとする(注:『江家次第頭注』による)。

北山神社(きたやまじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城名勝志』『山城志』による。○大北山村にある)。天長五年、京師に水害があった。世の人は北山神が祟りをなしているといった。そこで王氏を遣わして幣帛を奉った(注:『類聚国史』による)。

堀雷冰都久雷湯豆波和気神社(ほりいかづちひつくいかづちゆづはわけじんじゃ)

(注:本書の一本には「都」の字がない)所在は今は詳らかでない。仁寿元年、従五位下を授けた(注:『文徳実録』による)。

小社神社(おごそじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城志』による。○上山田村にある)。貞観元年、従五位下を叙した。十二年、本郡で鋳造した新銭を奉った。

大川原国津神社(おおかわらくにつじんじゃ)

(注:大北河原村にある)

有市国津神社(ありいちくにつじんじゃ)

(注:上有市村にある)

天照御門神社(あまてるみかどじんじゃ)

(注:飛鳥路村にある)以上三社は、今は相楽郡にある(注:郡名は『山城志』による)。貞観元年、大川原国津神・有市国津神は、ともに従五位下から従五位上を授けられた。天照御門神は正六位上から従五位上に進めた(注:『三代実録』による)。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)三座

久世郡の男山(おとこやま)にある(注:『類聚三代格』『二十二社注式』『諸社根元記』による。○今は綴喜郡に数えられる)。貞観元年、僧行教(ぎょうきょう)の願いにより、宇佐宮から遷し奉った。勅して木工寮に神宮を造らせた。翌年、御容(みかたち、御神体)を安置した(注:『朝野群載』『類聚三代格』による)。比咩大神(ひめおおかみ)・大帯女命(おおたらしひめのみこと)を配祀し(注:『三代実録』による)、伊勢大神宮とともに宗廟(そうびょう)と称された(注:『葉黄記』『神皇正統記』『八幡愚童訓』による)。本国および丹波国からそれぞれ封戸十戸を奉った(注:『新抄格勅符』による。○本書には年代が欠けているが、ひとまずここに記す)。七年、従五位下和気朝臣彝範(わけのあそんいはん)を遣わして楯・矛・鞍などの物を奉った。十一年、宣命の幣帛を奉り、新羅の賊が貢物を侵略したことを告げた。十四年、渤海(ぼっかい)の来朝を告げた(注:『三代実録』による)。十八年、八幡宮護国寺が宇佐宮に準じて永く神主を置くことを願い出た。従八位上紀朝臣御豊(きのあそんみとよ)をこれに補した(注:『三代実録』『類聚国史』による)。行教は武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫である。それゆえ紀氏をその職に補し、子孫が代々これを襲った(注:『石清水別当系図』による)。寛平元年、仏菩薩の装束を奉った。神の教えによるものであるという(注:『扶桑略記』『帝王編年記』による)。延喜十六年、臨時の幣帛使を遣わし、左右馬寮の御馬各若干、左右近衛各十人を奉った(注:『日本紀略』による)。天慶二年、神宝・走馬を奉り、皇太后の病を祈った御礼をした(注:『外記日記』による)。三年、封戸二十五戸を奉り、乱の平定を祈った御礼をした(注:『日本紀略』による)。五年四月、初めて臨時祭を修め、神宝・歌舞を奉った。乱の平定の御礼であった(注:『扶桑略記』『外記日記』『江家次第』による)。応和元年(961)八月十五日、放生会(ほうじょうえ)を行った。中宮が幣帛・音楽・走馬を奉った(注:『日本紀略』による)。天禄二年三月、臨時祭を行った。神楽・東遊・走馬を献じた(注:『日本紀略』『朝野群載』『一代要記』による。○『群載』は天禄元年のこととする)。三月の臨時祭は永式として定められた。その日は中の午の日を用い、午の日が二度あれば下の午の日を用いる(注:『江家次第』による)。天延二年(974)、放生会において、雅楽寮に命じて、諸節会に準じて楽舞を奉らせ、永例とした。また左右馬寮・左右近衛府に、御馬各十匹、近衛各十人を献じさせ、隔年でこれに奉仕させた(注:『日本紀略』『年中行事秘抄』による)。三年、畿内諸国の臨時祭への供給を停止し、内蔵寮・穀倉院にこれを供させた(注:『日本紀略』による)。天元二年、天皇の車駕が親しく参詣し、男による蹈歌(とうか)の遊びがあった。行幸はこれに始まる(注:『日本紀略』『百錬抄』『一代要記』『濫觴抄』による)。

寛弘七年、翌年が三合厄にあたるため、祈年穀使(きねんこくし)に添えて神宝・東遊を奉った(注:『日本紀略』による)。この時、藤原の中宮が神輿三基を造って奉り、後についに例となった(注:『外記日記』による)。寛仁元年、天皇の車駕が社に行幸した。備中・播磨・阿波・土佐の封戸あわせて百戸を奉った(注:『小右記』『日本紀略』による)。ほどなく「備中の封戸は御供(ごくう)の料に充て、残りは修理の料とする」と定めた。長元元年、法橋元命(ほっきょうげんみょう)が「伊勢・宇佐などでは正殿を改造する際、みな御体(ごたい)を仮殿に遷すが、本社にはそれがなく、すべて改造する例である。それゆえ御体を遷さない。応和・康保(こうほう)の代もその例に基づいている。当時変災があり、ただ一条朝だけが勅使を発遣して御体を遷して修造したが、ついに変異はなかった。この例に基づいて改造することを願う」と奏上した。そこで勅して陰陽寮にこれを占わせ、また公卿に議論させた。みな「応和の例に従うのがよい」と言ったので、これを許した(注:『小右記』による)。延久二年、放生会を恒例とすることを詔した。そこで「今年より、上卿以下、六衛府・馬寮が神輿に従い、すべて行幸に準じる」と定めた(注:『扶桑略記』『百錬抄』『朝野群載』『柱史抄』『濫觴抄』による)。承保三年、天皇の車駕が親しく参詣した。これにより毎年三月に行幸する制度を定めた。翌年の行幸では、さらに勅して封戸五十烟を加えた(注:『扶桑略記』による)。長寛元年(1163)、権中納言平清盛(たいらのきよもり)を祈年穀の奉幣使とした。公卿の使者はこれに始まる(注:『顕広王記』による。清盛は『公卿補任』による)。後鳥羽天皇の践祚二年、法皇(後白河法皇)は国内が静謐(せいひつ)であることから、勅して筑前の筥崎宮(はこざきぐう)を本社に付属させ、日頃の祈りの御礼とした(注:『六代勝事記』による。○本書には年月が記されていないが、ひとまずここに記す)。この年、社司らが「武士が神領を侵略し、神への供物が乏しくなっている」と訴えた。源頼朝は淡路・播磨・備前・備中・安芸・周防・長門・美作・伯耆・出雲・石見などの諸国の荘保四十所に命令を下し、これを戒めた(注:『八幡祠官田中氏文書』による)。また阿波の三野田保(みのだほ)を献じて神領に充てた。建久二年(1191)、頼朝に家人らが周防の神領を侵し神人を害し神税を奪うことを禁じる勅があった。翌年、頼朝は剣・馬を奉り、法皇の病(不予)を祈った(注:『東鑑』による)。建保五年(1217)、社僧の権別当宗清(ごんのべっとうそうせい)が「別当の転任の順序、および殿司(でんし)・権殿司などの員数を定め、別当・権別当・修理別当・俗別当・神主および三綱に、二十余所の神領荘園を分けて管理させる。その倉庫に納める物は、十分の一を割いて神仏への供物に充てる。神宮を修理する際には、官の費用を仰がず、みな神領の物を用いる。氏人でない者には荘園を譲り与えてはならない」と建議した(注:宗清の立願文による)。文永十年(1273)、社司が「三座の御剣袋(ごけんぶくろ)が鼠に嚙まれ、そのうち一つの御鞘(みさや)がわずかに損なわれました」と奏上した。議論し占ったところ、「神事の違例(法にかなわないこと)がこれを招いたのであり、凶事の前兆となるであろう」とされた。そこで宣命を奉って謝罪し、新たに御袋を奉った。かつ「御剣は神宝であるから改造すべきである」と議論された。社司が「御剣はすなわち神体であります。貞観六年に崇め奉った三座の御体とは、すなわちこれのことです。それゆえ今、御璽(ぎょじ)の筥(はこ)の上に安置しています。もし本当に神宝であるならば、ここに安置すべきではありません。御剣と御璽は、ともに御体であり、疑うべきではありません」と上言した。そこで改造の議論は取りやめとなった(注:『八幡愚童訓』による)。十一年、天皇の車駕が親しく参詣した。弘安四年(1281)、新院(亀山院)もまた社に行幸して祈り、従臣に神楽を奏させた。いずれも蒙古の襲来の難を祈ったものである(注:『日本紀略』『八幡愚童訓』による)。正安元年(1299)、法皇・新院が社に行幸した(注:『帝王編年記』による)。

おおよそ貞観以後、天子の即位には必ず幣帛を奉った(注:『三代実録』『日本紀略』『北山抄』『江家次第』による)。兵乱・旱害、夷狄の侵入があれば、必ず使者を遣わして祈り祓った(注:『三代実録』『日本紀略』による)。その幣帛を奉る物は、天皇が清涼殿にて二段再拝したのち発遣された(注:『江家次第』による)。おおよそ臨時祭は小祀(しょうし)に準じる(注:『年中行事秘抄』による)。祭の二日前に試楽(しがく)を行う(注:『江家次第』による)。その儀式は後に廃れたが、建武の中興に及んで復された(注:『建武年中行事』による)。おおよそ祭の儀式は、勅使が宣命・幣帛を奉り、舞人・陪従らを率いて社に至る。使者は俗別当(ぞくべっとう)に幣を奉らせる。奉幣使は中門から進み、舞殿に着いて再拝し、宣命を読む。終わると社司に授け、社司は祝詞を読む。使者が座を立った後、神馬八頭を引く。陪従は東門から入り、舞人の東に立つ。舞人は南の中門から入って舞殿に着き、駿河舞(するがまい)を奏する。終わると退く。また衣を脱いで(袒衣して)舞を進める。次いで使者以下が舞殿の座に着く。この時、主殿寮の官人が殿の北に庭燎を設ける。酒を三巡し、人長(にんじょう)が立って行事を務め、舞人・陪従がそれぞれ座に着き、琴・笛・篳篥(ひちりき)で本末歌(もとすえうた)を奏する。次いで舞人らが馬を馳せ、馬場に至って小調子(こちょうし)を吹き、山城曲を歌う。終わると退く(注:『江家次第』による)。おおよそ本社の摂社には、若宮・武内・高良などの社がある(注:『神社啓蒙』『八幡宮本紀』による)。寛元元年(1243)、上皇が社に参詣し、あわせて三社に幣帛を奉った(注:『葉黄記』による)。もともと源頼義(よりよし)父子はとりわけ八幡神を崇め奉っていたが、頼朝に至って、その敬信はいよいよ篤くなった。源氏の武士たちはついにこれを氏神として奉り、諸国に別宮を設けることがたいへん多く、中でも鎌倉八幡宮が最も盛んであった(注:『尊卑分脈』『扶桑略記』『東鑑』『源平盛衰記』『八幡愚童訓』による)。

皇太后宮木枯神社(こうたいごうぐうこがらしじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城名勝志』『山城志』による。○太秦村の木枯森(こがらしもり)にある)。

広幡神社(ひろはたじんじゃ)・田中神社(たなかじんじゃ)

二社は今は愛宕郡にある(注:郡名は『山城志』による。○ともに華園村にある)。貞観五年、穢れに近いことから、二社を伊佐弥里(いさみのさと)に遷した。

春日祈年神社(かすがきねんじんじゃ)

今は所在がわからない。貞観五年、従五位下を授けた(注:『三代実録』による)。

宗像神社(むなかたじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城志』による。○櫟谷にある)。市杵島姫命を祀る。いわゆる松崎日尾(まつざきひのお)の地に祀られる神がこれである(注:『秦氏本系帳』による)。松尾の末社である(注:『百錬抄』による)。貞観十二年、本郡で鋳造した新銭を奉った。

清水神社(しみずじんじゃ)

(注:清は澄とも書く)今は葛野郡にある(注:郡名は『山城志』による。○嵐山の蛇谷にある)。貞観十二年、新銭を奉った。翌年、正六位上から従五位下となった。

市河神社(いちかわじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城志』による。○太秦の属邑、市河の西にある)。貞観十三年、正六位上から従五位下を授けられた。

大堰神社(おおいじんじゃ)

今は葛野郡にある(注:郡名は『山城志』による。○下嵯峨の大堰川の北の崖にある)。貞観十二年、新銭を奉った。十八年、正六位上から従五位下に進めた(注:『三代実録』による)。

霹靂神社(はたたがみじんじゃ)三座

愛宕郡の神楽岡(かぐらおか)の西北にある(注:今は神楽岡明神と称する)。延喜の制では、毎年四月・十一月に卜部(うらべ)に吉日を選ばせて祭を行わせた(注:『延喜式』による)。

城南神社(じょうなんじんじゃ)

今は紀伊郡にある(注:郡名は『山城名勝志』『神社啓蒙』による。○下鳥羽村にある)。延長三年、城南寺の祭を行い、法皇が行幸した(注:『吏部王記』による)。永暦元年(1160)、上皇がまた行幸した(注:『山槐記』による)。

祇園神社(ぎおんじんじゃ)三座

愛宕郡の八坂郷(やさかごう)にある(注:『諸社根元記』『諸神記』による。○今は四条の鴨河の東にある)。素戔嗚尊、および奇稲田姫(くしいなだひめ)・海神の娘を祀る。伝えるところによれば、昔、素戔嗚尊が播磨の明石浦(あかしのうら)に降臨し、続いて広峰(ひろみね)に移り、その後、北白河の東光寺(とうこうじ)に遷ったという。貞観十八年、常住寺の僧円如(えんにょ)がこれを八坂郷に遷した。元慶年間、摂政藤原基経(もとつね)がこの神を崇敬し、さらに精舎(しょうじゃ)を建て、観慶寺感神院(かんけいじかんじんいん)と号し、院内に遷し祀った。それが今の所在地である(注:『二十二社注式』『諸社根元』『諸神記』による。○諸書は素戔嗚尊を牛頭天王(ごずてんのう)、稲田姫を本御前(ほんごぜん)、また婆利女(ばりにょ)、あるいは少将井(しょうしょうい)と称する。海神の娘は今御前(いまごぜん)、また神毒気神(しんどくけしん)という。その他にも八王子・四体大将軍などの神が配祀されている。これらの名号はおおむねみな仏徒が設けたものであり、しかも社を祇園と名づけ、僧徒にこれを管掌させているのは、混乱もはなはだしい。これを諸社に列するのは、たいへん不釣り合いであるように思われる。しかし後世の神社には、往々にしてこれに類するものがある。これもまた世の変化を察することができよう。また『日本紀略』によれば、延長四年、修行僧が祇園天神堂を建てたとある。『一代要記』には承平四年(934)、修行者が感神院を建てたとある。『東寺長者補任』もまた承平四年のこととし、僧済高(さいこう)が社を創建したという。いずれが正しいかわからない)。

天慶二年、幣帛および神宝・走馬を奉り、皇太后の病を祈った御礼をした(注:『外記日記』による)。天禄元年、初めて御霊会(ごりょうえ)を行った。三年、社を日吉(ひえ)の末社とした(注:『二十二社注式』『諸社根元記』による)。天延三年、初めて臨時祭を行い、勅使が楽・東遊・走馬を奉った(注:『日本紀略』『百錬抄』『年中行事秘抄』による)。寛弘七年、翌年が三合厄にあたるため、神宝・東遊を奉った(注:『日本紀略』による)。延久二年、社が火災に遭い、神体の多くが焼失した。そこで勅して官人を遣わして火災の謝罪をし、神殿を修めさせた。翌年から諸々の神体を作り直し、安置し始めた(注:『百錬抄』『扶桑略記』『玉蘂』による)。四年、天皇の車駕が親しく参詣した。祇園行幸はこれに始まる(注:『扶桑略記』『百錬抄』『一代要記』『歴代天皇紀』による)。天治元年(1124)、臨時祭を修め、永式として定めた(注:『百錬抄』『永昌記』『年中行事秘抄』による)。大治二年(1127)、御霊会において、勅使は唐鞍(からくら)に乗った。殿上人・馬長・巫女・種女(たなつめ)・田楽舞人などで、金銀・錦繡(きんしゅう)を身につけた者が数百人にのぼり、とりわけ華美を極めた(注:『中右記』による)。応保二年(1162)、天皇の車駕が行幸し、神楽を奏した。神楽を献じるのはこれに始まる。承安二年(1172)、上皇が神輿三基・師子(しし)七頭を造ってこれを奉り、御霊会を臨覧した。御霊会はますます盛んになった(注:『百錬抄』による)。おおよそ祭の日は、六月十四日を御霊会とし、十五日を臨時祭とする(注:『公事根源』『世諺問答』による)。

北野神社(きたのじんじゃ)

葛野郡の上林郷(かんばやしごう)北野にあり、右大臣菅原朝臣道真(すがわらのあそんみちざね)の霊を祀る(注:『北野古縁起』『諸社根元記』による)。道真は学問と徳においてその時代に重んじられ、天下の人々はみなその高潔な人柄を仰いでいた。彼が讒言に遭ったとき、醍醐天皇はまだ幼く、在位も日が浅かったため、権力をふるう奸臣に取り巻かれ、忠と邪を見分けることができなかった。ついに道真は西海(大宰府)に流された。奸臣はそこで詔を偽り、陰陽寮に命じて雑宝を皇城の八隅に埋めさせ、呪いの術を行わせた。天下の人々はこれを冤罪だと思った。道真が亡くなった後、奸臣たちは相次いで死亡し、不吉な噂も広まった(注:『寛平遺誡』『大鏡』『日本紀略』『扶桑略記』『北野縁起』を参酌した)。帝は大いに悔い改め、延長元年、詔して本官に復し、正二位を贈り、火雷天神(からいてんじん)と号した(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。天慶五年、神が右京七条の女性、文子(あやこ)に憑いて「もし私を右近馬場(うこんのばば)に祀るなら、私は皇家を鎮護しよう」と告げた。文子はそこで祠(ほこら)を設けてそのそばに祭った(注:『北野古縁起』『菅家伝記』による)。天暦元年(947)に至り、神はまた近江比良社(ひらしゃ)の禰宜、良種(よしたね)の子に憑いて初めと同じように告げた。良種は宮中に参上してこれを奏上した(注:『天満宮託宣記』による。○『北野縁起』『太平記』は天慶九年のこととし、『扶桑略記』『諸社根元記』などは天暦九年のこととするが、いずれも誤りである)。文子および朝日寺の僧最珍(さいちん)と謀り、右近馬場に遷し祀った。それが今の地である(注:『菅家伝記』『北野縁起』による)。後に天満天神(てんまんてんじん)と称した(注:『菅家伝記』引用の『外記日記』、『金勝院本太平記』による)。それ以来、身分の貴賤を問わず、次々と崇め奉り(注:『元亨釈書』『北野縁起』による)、聖廟(せいびょう)と号した(注:『本朝文粋』による)。

天徳三年(959)、右大臣藤原師輔(もろすけ)が神殿を改めて修め、旧制を拡張し、神宝数種を奉った(注:『菅家伝記』『北野縁起』『諸社根元記』による)。永延元年(987)、宮殿を改造し(注:『百錬抄』『続古事談』による)、八月五日を祭の日とし、内蔵寮に供給させ、菅原氏の五位一人に幣帛を奉らせることを勅した(注:『菅家伝記』引用の『外記日記』、『諸社根元記』『二十二社注式』による)。正暦四年、正一位を贈った。寛弘元年、天皇の車駕が社に行幸した。行幸はこれに始まる(注:『日本紀略』『百錬抄』『政事要略』による。○『二十二社注式』『諸社根元記』の一説では万寿元年(1024)を行幸の始めとする)。これ以後、代々受け継がれ、幣帛が絶えることはなかった(注:『二十二社注式』『諸社根元記』による)。長元四年、寮の馬十列を奉った(注:『小右記』『左経記』による)。永承元年(1046)、その祭の日が贈皇太后の国忌(こくき)に当たるため、四日に改め、後に永式となった(注:『百錬抄』『公事根源』による)。永久元年(1113)の行幸では、神宝・走馬・東遊・雅楽を献じた(注:『長秋記』による)。久安五年(1149)、また同様に行った(注:『外記日記』による)。文暦元年(1234)、神殿が火災に遭い、菅原氏の長者に命じて修造の長とさせた(注:『百錬抄』による)。正応三年(1290)、「恒例の祭の日には、東遊・走馬・神楽を奉ることを永制とする」と勅した(注:『康富記』『二十二社注式』『諸社根元記』による)。延元四年(1339)、北朝が院宣を下し、長門の倉光保(くらみつのほ)を奉った。正平二十年(1365)、また能登の菅原荘を社司に付属させ、祭の料に供させた。

おおよそ本社の神領は、畿内および東海・東山・北陸・山陰・山陽の諸国において七十六所ある(注:『北野社文書』による)。菅公の神威霊験は、時が経つにつれていよいよ顕著になり、官私の祠はほとんど国郡に遍く広まった(注:『菅家伝記』による)。後世、中将殿(ちゅうじょうどの)吉祥女(きっしょうにょ)を配して三座とした(注:『諸社根元記』『諸神記』による)。その摂社を宰相殿(さいしょうどの)といい、道真の曾孫、正三位輔正(すけまさ)を祀る(注:『公卿補任』『菅原系図』による)。元暦元年(1184)、正二位を贈った(注:『柱史抄』『諸神記』『公卿補任』を参酌した。○『古今著聞集』には万寿三年(1026)、正一位を贈ったとあるが誤りである)。和泉殿(いずみどの)といい、道真の五世の孫、和泉守定義(さだよし)を祀る(注:『菅原系図』『二十二社注式』『諸神記』による)。元暦元年、従三位を贈った(注:『柱史抄』『諸神記』による)。三位殿(さんみどの)といい、定義の次子、在良(ありよし)を祀る。元徳二年(1330)、従三位を贈った(注:『菅原系図』『諡号雑記』による)。

吉田神社(よしだじんじゃ)四座

愛宕郡にある(注:『諸社根元記』『二十二社注式』による。○今は神楽岡の下にある。『山城名勝志』引用の社伝には「もとは吉田山の西にあったが、後に今の地に遷った」とある)。清和天皇の御代、中納言藤原朝臣山蔭(やまかげ)が創建し、春日四所神(かすがししょしん)を遷し祀った(注:『大鏡』『帝王編年記』『諸社根元記』による)。一条天皇の即位に際し、大原野の祭の儀式に準じて、二季(春秋)の祭を行うことを勅した(注:『扶桑略記』『日本紀略』による)。もともと山蔭は神に「もし私の一族の中に皇后となる者が現れたら、必ずこの社を官祭にあずからせよう」と祈った。その後、藤原氏は代々外戚となり、一族はたいへん盛んになった(注:『大鏡』による)。永延元年に至り、初めて官祭を行い(注:『帝王編年記』『大鏡裏書』『濫觴抄』『諸社根元記』による)、天皇の車駕が親しく参詣した。本社の行幸はこれに始まる(注:『諸神記』による)。長治三年(1106)、四度の幣にあずかった(注:『諸社根元記』『諸神記』による)。建保年間、勅して本国乙訓郡の神田を社領に充てた。寛喜年間、河内の厚見荘(あつみのしょう)を奉った。嘉元二年(1304)、これより先、藤原氏の長者が所領の本国池田荘を造営の料に充てていたが、この時、社司が「造営が終わった後は、この荘を永く読経・祈禱の料としてほしい」と言い、これを許した(注:『東寺文書』による)。おおよそその祭は、四月の中の申の日、十一月の中の酉の日を用いる(注:『日本紀略』『扶桑略記』による)。後に中の子の日、中の申の日に改めた(注:『北山抄』『江家次第抄』『年中行事秘抄』『公事根源』による)。藤原氏の五位一人を勅使とした(注:『諸社根元記』『諸神記』による)。

その儀式は、祭に先立つ十余日、勧学院(かんがくいん)の別当および弁以下が、祭に供奉する五位以上を定める。祭の日、弁以下がまず行事所に着き、その北の建物に氏人の座を設ける。上卿が参入し、弁は以下、庭の中に立ち並び、上卿は着到殿(ちゃくとうでん)に着く。弁・外記・史・氏人の五位・六位および諸々の使者はみな座に着く。この時、后宮(こうぐう)が饗を賜う。次いで上卿が五位・六位の見参の名簿を見て、倭舞の舞人を定める。次いで神祇官が南の座に着き、神主を卜定する。それが終わると幣帛使および内侍が参入する。上卿以下は座を立ち、鳥居の前に至り、主水(もんど)が盥の水を進める。上卿および氏人は順に供物を担ぐ。上卿はまず一つの棚を奉り、第一殿の前、一丈ほどのところで止まって立つ。氏人の五位以下がこれに続く。神殿の側であらかじめこれを受け取り、内侍に授け、内侍がこれを殿上に供える。上卿以下は庭中の座に着く。氏人が幣を奉り、二段再拝し、社司がこれを受けて供える。次いで神馬・走馬を並べ立てる。神主が木綿鬘を着け、庭中で四段拝礼する。祝詞を読み終えると、四段拍手する。それが終わると、みな直会殿に着き斎を散じる。馬寮が御馬二匹を引き、神殿を八回巡る。それが終わると、上卿以下に饌を賜う。神主以下が舞を奏する。外記が見参の名簿を取り、東の砌(みぎり)から入って上卿に授ける。見終わると諸司に禄を賜う。次いで后宮が上卿以下に禄を賜う。それが終わると退出する(注:『江家次第』による)。永延年間より卜部兼延(うらべのかねのぶ)が社務となって以後、子孫が代々これを職とし、吉田を氏として名乗ったという(注:『吉田系図』による)。

赤山神社(せきざんじんじゃ)

今は愛宕郡にある(注:郡名は『山城志』による。○今は比叡山の西坂本にある)。承和年間、僧円仁(えんにん)が唐に渡って仏法を求め、帰国しようとした際、風に阻まれて登州(とうしゅう)の赤山法華院(せきざんほっけいん)に留まり(注:『三代実録』による)、赤山の神に冥助(神の助け)を祈った。帰国した後、祠を建てて祀ろうとしたが、果たせずに亡くなった。貞観年間、その門弟が遺言に従い、比叡山に祠を建てた。朝廷はそこで近江の正税(しょうぜい)を賜って造営を助けた。赤山明神(せきざんみょうじん)と号した。この神はすなわちいわゆる泰山府君(たいざんふくん)である(注:『元亨釈書』『天台座主記』『山家要略記』『源平盛衰記』を参酌した)。醍醐天皇は田三十町を充てた(注:『山家要略記』による)。正暦四年、従五位下から従四位下を加えた(注:『外記日記』『神階記』『諸社根元記』による。○『外記日記』には「赤坂神」とあるが、他の二書によればこの社であることは明らかである。『天台座主記』には貞観十年に正四位を叙したとあり、『山家要略記』には貞観六年とし、かつ宇多朝に正三位を叙し、醍醐朝に正一位に進んだとあって、諸書と大きく異なる。参考として付記する)。亀山天皇の御代、延暦寺の願いにより、初めて官祭を行った(注:『歴代皇紀』による)。

恩多神社(おんたじんじゃ)・若宮神社(わかみやじんじゃ)

二社の所在は今ともに詳らかでない。保安元年、初めてともに官幣にあずかった。賀茂社の社司の願いによるものである(注:『中右記』による)。

新日吉神社(いまひえじんじゃ)

今は愛宕郡にある(注:郡名は『雍州府志』による。○阿弥陀峰(あみだがみね)の下にある)。永暦元年、後白河上皇がこの郡の東山に創建し、近江の日吉神を遷し祀った(注:『百錬抄』『今鏡』『葉黄記』『公事根源』による)。応保二年四月末、祭を修めた。後に恒例となった(注:『公事根源』による)。治承二年(1178)、小五月会(こさつきえ)を行い、競馬を奉り、法皇が臨幸した(注:『山槐記』による)。養和元年(1181)、法皇が社に詣でて斎宿(さいしゅく)し、幣帛・神宝を奉った。翌年、院の武者所(むしゃどころ)が日頃の祈りにより競馬・流鏑馬(やぶさめ)を奉り、法皇がこれを臨覧した(注:『吉記』による)。その後、後鳥羽上皇もまた臨幸した。建暦二年(1212)に至り、小五月会が恒例として定められ、上皇はそのたびに臨幸した。文暦元年以後、御幸は廃れた(注:『百錬抄』による)。宝治元年(1247)、後嵯峨上皇がこれを復活させた。この日、競馬および師子・田楽などの舞があった。また関東(鎌倉幕府)に勅して流鏑馬の射手、左右各七騎を召し、みな錦繍で装わせた。その競馬の騎士の装束は、三十余国に命じてこれを献じさせた(注:『葉黄記』による)。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

今は愛宕郡にある(注:郡名は『雍州府志』『山城志』による。○新熊野村にある)。永暦元年、後白河上皇が創建し、紀伊の熊野神を祀った。上皇はとりわけこの神を崇め、自ら熊野に三十余度参詣した。この時に至り、本郡に遷し祀った(注:『百錬抄』『源平盛衰記』『相国寺塔供養記』による)。荘園二十八所を奉り、燈油(とうゆ)の料に充てた。国司が臨時の賦役を課すことを禁じた(注:『新熊野社文書』による)。仁安二年(1167)、上皇が社に行幸した(注:『兵範記』による)。建久三年(1192)、「社務らは力を尽くして破損を検分し、破損に応じて随時修理し、大きく壊れるままにしてはならない。毎年六月の会は怠り緩めてはならない。もし大破に遭い、修造が容易でなければ、上奏して裁定を仰げ」と定めた(注:『新熊野社文書』による)。

粟田宮(あわたのみや)

愛宕郡の春日河原(かすがのかわら)にある。寿永三年(1184)、後白河法皇が創建し、崇徳上皇(すとくじょうこう)および藤原頼長(よりなが)の霊を祀った(注:『吉記』『帝王編年記』『保元物語』『源平盛衰記』による)。崇徳上皇の崩御後、反乱が相次ぎ、災いや異変がしばしば現れた。世の人々は「怨霊が祟りをなしている」と言った。そこで勅してあらためて諡号(しごう)を奉り、廟を建てて祀った。あわせて頼長に位を贈り、配祀した(注:『玉海』『保元物語』『吉記』による)。神祇大副卜部宿禰兼友(かねとも)を社司とした(注:『吉記』による)。建久四年、幣帛を奉った(注:『玉海』による)。ほどなく祭を行った。これより八月の中の酉の日に幣帛を奉ることを例とした(注:『帝王編年記』『諸社根源記』による)。

難良刀自神社(ならとじじんじゃ)

今は所在が詳らかでない。賀茂の斎院が野宮(ののみや)にいる間に祀る神である。日々朝夕に奠(そな)え物をし、酉の日ごとに御炊男(みかしきお)に神酒を奉らせる。賀茂の封物を割いてその費用に充てた(注:『左経記』による)。