卷之二百五十 志第七
神祇七 神社二 宮中
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶神祇官(じんぎかん)に鎮座する神は二十三座あり、いずれも神祇官の西院に祀られている。
¶御巫(みかんなぎ)が祀る神は八座あり、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、玉積産日神(たまつめむすひのかみ)(注:「魂留産」または「玉留魂」とも書く。「玉」は「魂」とも書く)、生産日神(いくむすひのかみ)(注:「伊久魂」または「生魂」とも書く。「魂」は「産霊」とも書く)、足産日神(たるむすひのかみ)(注:「足産霊」または「足魂」とも書く)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)(注:「御膳魂」とも書く)、事代主神(ことしろぬしのかみ)である。(出典:延喜式)
¶太古、大己貴神(おおなむちのかみ)は国を天祖(あまつみおや)に献上し、その子の事代主神に八十万(やおよろず)の神々を率いさせて皇孫(すめみま)を守護させた。皇祖はその誠意を喜び、幣物(みてぐら)や儀仗を整えるよう詔して、諸神にこれを奉仕させた。また自ら天神籬(あまつひもろぎ)と天磐境(あまついわさか)を立て、皇孫のために斎(いつ)き祀った。皇孫が葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨するに及んで、神籬を天児屋命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)の二神に授け、そのまま旧例に従って祭らせた。(出典:日本書紀。古事記も参照)
¶太祖(たいそ、神武天皇)は即位するにあたり、まず神の勅に従って神籬を立て、八神を合わせ祀った。(出典:古語拾遺) 神皇産霊神・高皇産霊神は、実に天地を鋳造し万物を化成した神である。(出典:日本書紀、古事記序) 生産日神は高皇産霊神の子であり(出典:姓氏録)、玉積産日神・足産日神とともに司命(しめい)の神として天皇の御身を守護し、皇位の長久を助ける。(出典:延喜式) 大宮売神は太玉命の子で、善い言葉や美しい言辞をもって宮中の心を喜ばせ、君臣の和を保つことを司る。(出典:古語拾遺、延喜式) 御食津神はおそらく豊受大神(とようけのおおかみ)であり、天皇の食事を司る神であるとともに、宮殿を鎮め安んじる。(出典:豊受宮儀式帳、延喜式、釈日本紀所引大倭本紀) 事代主神は朝廷の守護を司る。(出典:古事記) 神祇官が設けられるに及び、その官中に神籬を設けて八神殿と号し、代々祀り続けている。
¶座摩巫(いかすりのみかんなぎ)が祀る神は五座あり、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)(注:「福」は「栄」とも書く)、綱長井神(つながいのかみ)(注:「綱」は「津」とも書く)、波比祇神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ)の五神を祀る。(出典:延喜式。八神殿については百錬抄、百寮訓要抄、諸神記による) 生井神・福井神・綱長井神は、井戸の水の功徳をたたえて名付けられたものとみられ、その神名は木股神(きまたのかみ)といい、大己貴神の子で、これが御井神(みいのかみ)である。波比祇神・阿須波神は、ともに大歳神(おおとしのかみ)の子であり、宮庭や道行きのことを司るとみられる。(出典:古事記。「蓋」以下は万葉集も参照) 御井神とあわせて大宮地霊(おおみやどこのみたま)と称される。(出典:古語拾遺)
¶御門巫(みかどのみかんなぎ)が祀る神は八座あり、櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、四つの門にそれぞれ二座ずつ祀られている。(出典:延喜式) この二神もまた太玉命の子であり、あわせて天石門別神(あまのいわとわけのかみ)と称され、宮門を鎮め護ることを司り、御門神(みかどのかみ)と呼ばれる。(出典:古事記、古語拾遺を参照)
¶生島巫(いくしまのみかんなぎ)が祀る神は二座あり、生島神(いくしまのかみ)といい、またの名を生国(いくくに)という。足島神(たるしまのかみ)といい、またの名を足国(たるくに)という。万国を鎮め治め、四方の夷(えびす)を統べ治めて、内外を皇化に服させることを司る。(出典:延喜式) これが大八洲霊(おおやしまのみたま)である。(出典:古語拾遺)
¶おしなべて諸々の巫(かんなぎ)は各一人ずつ置かれ、いずれも役目に堪えうる庶女(しょじょ)を選んで充てる。座摩巫については、都下国造氏(みやこのしたのくにのみやつこうじ)の童女を選んで充てる。(出典:延喜式)
¶貞観元年(じょうがんがんねん)、無位であった神皇産霊神・高皇産霊神・玉積産日神・生産日神・足産日神に、それぞれ従一位を授けた。まもなく皆、正一位に進めた。(注:本書のこの条には生産日神の記載がないが、おそらく脱文であろう) 生井神以下の諸神には、いずれも従四位上を授けた。生島神・足島神は、まもなく正四位下に進めた。(出典:三代実録)
¶延喜(えんぎ)の制では、八神以下はいずれも大社に列せられ、四度官幣(しどのかんぺい)にあずかった。また毎年秋の終わりに祭を行った。その幣物には、純五色の帛(きぬ)・糸・綿、倭文(しずり)・調庸布(ちょうようふ)、紙、木綿、麻、鍬形の銭、酒、穀物、豆、魚介、藻塩などを用いた。八神については、中宮・東宮にもそれぞれ御巫一人を置いて祭らせた。また仲冬(ちゅうとう)の鎮魂の日にも祭を行い、大直日神(おおなおびのかみ)一座を加えて祀り、中宮・東宮もこれに準じた。
¶宮内省(くないしょう)に鎮座する神は三座ある。園神社(そののかみのやしろ)一座は南にあり、韓神社(からかみのやしろ)二座は北にある。(出典:延喜式。南北の位置は貞観儀式による。注:今の醒井高辻の北に荒神祠があり、これがその旧跡である。その地は近頃まで韓神町と称していたが、今は荒神町と改めた。参考までに付す) 園神は大物主命(おおものぬしのみこと)を祀り、韓神は大己貴神・少彦名神(すくなひこなのかみ)の二神を祀る(出典:大倭社注進状。注:本書の注が引くある書には「二神はすでにこの国を造り終えて東海へ去った。その後、民を救うために再び戻って来た。昔は外国を韓(から)と呼んだので、この二神を韓神と称する」とあるが、これは実は常陸(ひたち)の大洗神社の故事であって、斉衡(さいこう)以前にはこのような説はなかったであろう。古事記には大歳神の子に韓神があるとあり、本社はあるいはこれを合祀したのかもしれない。それでこの名があるのだろう。参考までに付す)。その創建の由来は分からない。伝えるところによれば、桓武帝(かんむてい)が遷都した際、造宮使がこの社を別の場所に移そうとしたところ、神が人に憑いて「私はこのままここにいて、皇室を鎮め護ろう」と告げたため、そのまま旧来の場所で祀り続けているという。(出典:江家次第頭注、古事談、塵袋)
¶天平神護元年(てんぴょうじんごがんねん)、讃岐(さぬき)の封戸(ふこ)二十戸を園神に、十戸を韓神に奉った。(出典:新抄格勅符)
¶文徳帝(もんとくてい)が即位すると、園神・韓神の二神に従五位下を授け、初めて園神祭を行った。(出典:「始」以下は伊呂波字類抄による) 斉衡元年(さいこうがんねん)、いずれも従三位に進めた。翌年、ともに名神(みょうじん)に列した。(出典:文徳実録) 貞観元年、さらにともに正三位に昇進させた。(出典:三代実録)
¶延喜の制では、両社はともに名神大社に列せられ、四度官幣にあずかった。讃岐の封戸の調庸租米を修理料に充て、殿守(とのもり)として封丁(ふちょう)一人を置いた。(出典:延喜式) 祭日は二月と十一月の丑の日を用いた。二月は春日祭(かすがのまつり)の後、十一月は新嘗祭(にいなめさい)の前に行った。その儀式は貞観年間に定められた。
¶当日の夜明け、神祇官は神部(かんべ)・卜部(うらべ)・炊女(かしきめ)らを率いて神院に赴き、供物を用意する。掃部寮(かもんりょう)が席を設ける。神祇官はまず南殿に着き、神殿の前に几(つくえ)を立てる。それが済むと、内侍(ないし)が着座し、次に大臣、次に諸司がそれぞれ着座する。神祇官が神饌(しんせん)を供え終えると、神部が賢木(さかき)を執って中庭に立ち、庭燎(にわび)を設ける。大臣が召使を呼び、召使は「はい」と応えて所定の位置に着く。大臣は治部丞(じぶのじょう)を召し出すよう命じ、治部丞が入って位置に着く。大臣が「歌人らを召し出せ」と言うと、丞は「はい」と応え、楽官(がっかん)や歌人・歌女を導き入れて着座させる。大臣が召使を呼び、召使が入って位置に着く。大臣が「神馬(しんめ)を進めよ」と言うと、召使は「はい」と応えて神馬を引き入れ、庭に並べる。大臣は大蔵丞(おおくらのじょう)を召すよう命じ、大蔵丞が入って位置に着く。大臣は鬘(かずら)や木綿(ゆう)を賜るよう命じ、通常の儀に従う。それが済むと、御巫が二段の再拝を行い、神祇官もともに拝礼する。御巫が祝詞(のりと)を読み上げる。それが済むと、二段の拍手を行う。神祇の副(すけ)が琴師・笛工それぞれ二人を召し、皆が入って着座する。琴と笛が順に奏でられ、歌舞が始まる。御巫が湯立(ゆだて)の舞を奉納する。次に神部八人が舞い立つ。それが終わると北殿に赴き、南殿と同様の儀を行う。儀礼が終わると南殿に戻る。副が琴師を召し、変調を奏でるよう命じる。祐(じょう)以上の者が倭舞(やまとまい)を舞い、次に宮内丞(くないのじょう)一人、次に侍従、次に内舎人(うどねり)、次に大舎人(おおとねり)が、それぞれ二人ずつ舞う。それが済むと饌(せん)を賜る。饌が終わると、神祇官が三段の拍手を行う。酒が三巡し、さらに一段の拍手を行う。大臣以下は順に退出する。神祇官は御巫・物忌(ものいみ)・神部らを率いて歌舞し、神楽(かぐら)を両殿で奏する。造酒司(みきのつかさ)が酒を進め、主殿寮(とのもりょう)の殿部(とのもりべ)が庭燎を供する。事が終わると退出する。(出典:貞観儀式)
¶その幣物には、帛(きぬ)および紫・緋の五色、夾纈(きょうけち)・紫纈(しけち)・浅緑・赤練(あかねり)などの帛、練糸(ねりいと)、細布、木綿、鈴、五色の玉、米豆、銭、酒、橘の実などを用いた。馬寮(めりょう)は飼育していた白馬二頭を献じた。(出典:延喜式)
¶朱雀帝(すざくてい)の代になると、参議以上の者が事情があると称して祭儀に列席しないこともあった。(出典:北山抄) 永保二年(えいほうにねん)、社の宮主(みやじ)である神祇大祐(じんぎのだいじょう)卜部宿禰兼宗(うらべのすくねかねむね)が言うには、「本社は修造されないまま、すでに二十年が経っている。損壊が甚だしく、祭儀を行うことができない。速やかに勅を下し、功程を別に立てて修営させていただきたい」とのことであった。(出典:朝野群載) 大治二年(だいじにねん)二月、本社が火災にあった。祭の期日は翌月十六日まで延ばされた。神宝は仮殿に安置された。(出典:中右記) 高倉帝(たかくらてい)の代になると、神殿が傾き倒れていたため、幄(あく、幕)を張って祭を行い、南門に上卿(しょうけい)の座を設け、外記(げき)は笠をかぶって垣の外に控えた。神馬を進める段になると、上卿は座を立ってこれを避けた。(出典:吉記) その衰退ぶりと儀礼の乱れはこのようであった。
¶安徳帝(あんとくてい)の代に、本社は戦火に見舞われた。文治四年(ぶんじよねん)、一乗院(いちじょういん)の僧覚昭(かくしょう)が修造を奏請し、建久二年(けんきゅうにねん)、後白河法皇(ごしらかわほうおう)が社殿を修理させ、神服(しんぷく)をはじめ鏡・鈴・刀・鉾・弓・矢などの神宝を奉納した。(出典:元要記)
¶花園帝(はなぞのてい)の代、丹波(たんば)が疲弊して祭物を貢進できなかったため、祭に臨んで所司(しょし)にわずかに用意させるのみであった。(出典:花園帝御記) 応永十年(おうえいじゅうねん)十一月、社司(しゃし)が言うには、「先頃、本社に死穢(しえ)があり、社司が私的に祈謝を行った。どうか官において速やかに祓除(ふつじょ)を行い、その後に祭を行っていただきたい」とのことであった。(出典:吉田家日次記)
¶大膳職(だいぜんしき)に鎮座する神は三座ある。御食津神社(みけつかみのやしろ)、火雷神社(ほのいかづちのかみのやしろ)、高倍神社(たかべのかみのやしろ)という。(出典:延喜式) 御食津神とはおそらく天太玉命のことであり(注:「蓋」以下は古語拾遺を参照)、火雷神とは若湯坐(わかゆえ)の祖である豊日連(とよひのむらじ)のことであり、高倍神とは高橋朝臣(たかはしのあそみ)の祖である磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)のことである。
¶景行帝(けいこうてい)が東国を巡幸して安房(あわ)の浮島(うきしま)に至った時、磐鹿六獦命は部下の者たちを率いて、安房大神(あわのおおかみ)を御食津神として祀り、豊日連に火を鑽(き)らせて斎火(いみび)とし、御饌(みけ)を供奉した。磐鹿六獦命が薨(こう)じると、帝は「新嘗祭や御膳のことは、すべて磐鹿六獦命が掌っていたものである。その霊を膳職に祀り、永く代々供祭せよ」と詔した。(出典:本朝月令、政事要略、年中行事秘抄。いずれも高橋氏文を引く) 本祠はおそらくこれに起源する。
¶貞観元年、正四位下であった御食津神に従三位を、従五位下であった火雷神に従五位上を授けた。まもなく、無位であった高倍神(たかべのかみ)に従五位下を授けた。(出典:三代実録)
¶延喜の制では、いずれも小社に列せられ、春秋に祭を行った。ただし御食津神は、仲春(ちゅうしゅん)・仲冬の上の酉の日を用いた。その幣物には、五色の薄絁(はくし)、倭文(しずり)、木綿、麻鍬(あさくわ)、米、豆、酒、塩、魚介、海菜などを用いた。
¶造酒司(みきのつかさ)に鎮座する神は六座ある。大宮売神社(おおみやのめのかみのやしろ)四座、酒殿神社(さかどののかみのやしろ)二座という。(出典:延喜式)
¶その四座は、おそらく大宮津姫(おおみやつひめ)、大宮津彦(おおみやつひこ)、大御膳津彦(おおみけつひこ)、大御膳津姫(おおみけつひめ)の四神を祀るものであろう。(出典:執政所抄所引天治二年宮咩祭奠文) 延喜の制では、いずれも大社に列せられ、四度官幣にあずかった。常祭は春・冬の仲の月の午の日を用い、神主に祭らせた。その幣物には、絁(あしぎぬ)、および紫・緋の五色などの絁、倭文綿糸、木綿、麻、酒、穀物、塩、魚、果物などを供えた。(出典:延喜式) 後世、院宮諸家が正月・十二月の初午(はつうま)に宮咩祭(みやめまつり)を行うのも、その名残である。(出典:兵範記、大府記、伊呂波字類抄)
¶その二座は、酒弥豆男神(さかみずおのかみ)、酒弥豆女神(さかみずめのかみ)を祀る。(出典:延喜式) 仁徳帝(にんとくてい)の代、酒部公(さかべのきみ)の祖である麻呂(まろ)と山鹿比咩(やまがひめ)が酒造りを掌った。麻呂には酒看都子(さかみつこ)、山鹿比咩には酒看都女(さかみつめ)という名を賜った。(出典:姓氏録) 後にこれを造御酒神(みきづくりのかみ)として祀った。(出典:元元集)
¶貞観元年、いずれも従五位下を授けた。三年、従五位上に進めた。(出典:三代実録) 延喜の制では、ともに小社に列せられ、春秋に祭を行った。その供物には、五色の薄絁、紫・緋などの絁、倭文、帛(きぬ)、木綿、麻、魚介、海藻、酒塩、米豆などを用いた。
¶主水司(もいとりのつかさ)に鎮座する神は一座ある。鳴雷神社(なるいかづちのかみのやしろ)という。(出典:延喜式) おそらく天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀るものである。忍雲根命は皇孫に従って筑紫(つくし)に降り、天神(あまつかみ)に水を請うてこれを献じた。主水の政(まつりごと)はここに始まる。(出典:台記所収天神寿詞)
¶延喜の制では、小社に列せられ、春秋二季に祭を行った。その祭品には、五色の薄絁、倭文木綿、麻鍬、酒、塩、米、豆、貝、藻などの物を用いた。
¶そのほか諸司が祀るもので、官の帳簿に記載されていないものが、百五座ある。
¶縫殿寮(ぬいどのりょう)三座。御匣殿神(みくしげどののかみ)、縫殿神(ぬいどののかみ)、着酒神(ちゃくしゅのかみ)という。延喜の制では、毎年初夏と仲冬の上の卯の日に祭を行った。
¶陰陽寮(おんみょうりょう)の御本命祭(ごほんみょうさい)の神は二十五座ある。年におよそ六回の祭を行う。
¶三元祭(さんげんさい)の神は九座ある。年におよそ三回の祭を行う。
¶大炊寮(おおいりょう)の竈神(かまどのかみ)は八座ある。(出典:延喜式) おそらく八つの鼎(かなえ)を神として祀るもので(出典:日本書紀。三代実録、延喜式を参酌)、大八島竈神斎火武主比命(おおやしまかまどのかみいみびたけぬしひのみこと)と号する。斉衡二年、従五位下を授けた。(出典:文徳実録。注:本書には天安元年にもまた従五位下を授けたとあるが、おそらく衍文であろう) 延喜の制では、春と冬に祭を行った。大膳職にも竈神・窖神(あなくらのかみ)がそれぞれ四座あり、造酒司にも竈神四座を祀る。いずれも春・秋に祭を行う。(出典:延喜式) 竈神は実は奥津日子神(おきつひこのかみ)・奥津比女神(おきつひめのかみ)である。(出典:古事記) 後世、公卿諸臣は四月と十一月の晦日(つごもり)に宅神祭(たくじんさい)を行った。宅神とはすなわち竈神である。(出典:小右記、権記、明月記、顕広王記、年中行事秘抄)
¶主殿寮(とのもりょう)は二十三座ある。寮家(りょうけ)四座、釜殿(かまどの)・松山(まつやま)がそれぞれ三座、炭山(すみやま)十三座であり、春秋に祭を行う。(出典:延喜式)
¶織部司(おりべのつかさ)は二座ある。辰巳隅神(たつみのすみのかみ)、戌亥隅神(いぬいのすみのかみ)という。元慶三年(がんぎょうさんねん)、いずれも正六位上から従五位下を授けた。(出典:三代実録)
¶内膳司(ないぜんし)の御竈神(みかまどのかみ)は三座ある。平野神(ひらののかみ)・斎火神(いみびのかみ)といい、いずれも釜を神として祀る。庭火神(にわびのかみ)は、錡(かなえ、釜の類)を神とする。(出典:日本紀略、中右記所引蔵人信経私記、小右記、増鏡) 庭火皇神(にわびのすめがみ)と号する。(出典:文徳実録) 天平三年(てんぴょうさんねん)、神祇官が「庭火の御竈神を、永く四時祭(しじさい)にあずからせたい」と奏上した。(出典:続日本紀) 斉衡二年、庭火神に従五位下を授けた。天安元年(てんあんがんねん)、斎火神にも従五位下を授けた。(出典:文徳実録。注:本書にはさらに庭火神に従五位下を授けたと記されているが、おそらく衍文であろう) 貞観元年、庭火神を従五位上に進めた。九年および元慶二年に、さらに一階を進めて正五位上とした。(出典:三代実録)
¶延喜の制では、毎月、陰陽寮に一つの癸(みずのと)の日を選ばせて、庭火神・平野神の二神を祭った。夏と冬の季節の月には、大殿祭(おおとのほがい)が終わると、宮主(みやじ)を内膳司に赴かせて斎火神・庭火神の二神を祭らせ、中宮もこれに準じた。新嘗祭の際には、まず炊殿(かしきどの)を造り、斎火神を鎮め祭った。また毎月一日には、斎火神・庭火神の二神を祭り、いずれも宮主がこれを執り行った。中宮・東宮も月の一日にはこれに準じたが、斎火神だけは祭らなかった。(出典:延喜式)
¶康保三年(こうほうさんねん)、庭火神を従三位に昇叙した。天徳四年(てんとくよねん)、皇居が火災にあった。平野神・庭火神の二神を冷泉院(れいぜいいん)の内膳に遷し祀ったが、斎火神は神釜が焼失したため、新たに設けた。(注:「但」以下は西宮記による) 納言以下に執り行わせ、宮主が祝詞を宣した。永観元年(えいかんがんねん)、平野・庭火神の釜が盗人に盗まれたため、新たに平野の釜を鋳造し、本司に安置した。(出典:続日本紀)
¶平野神は癸祭(みずのとのまつり)に供奉し、斎火神は神今食(じんこんじき)に供奉し、庭火神は平生の御飯(おもの)に供奉する。(出典:中右記所引蔵人信経私記、増鏡) 長徳三年(ちょうとくさんねん)、帝が病に伏した。占ったところ、「神の祟りがある」と出た。そこで宮主の卜部兼信(うらべのかねのぶ)に勅して、本司において祓除(はらえ)を行わせた。兼信が奏上するには、「永観以後、平野神には神殿がなく、司の中の戸棚に納めていたため、庭火神の前で癸祭を修めていた。これが祟りとなった理由である」とのことであった。そこで神殿を造るよう勅し、旧来のように癸祭を供えさせた。(出典:中右記所引蔵人信経私記。兼信の姓は松尾社家系図による) その後、癸祭はついに絶えた。(出典:増鏡)
¶宝治二年(ほうじにねん)、本司が火災にあい、御竈神はすべて焼失した。朝廷の議では、「三座の旧器は神代からの遺物であったのに、今すべて失われてしまった。これほど不吉なことはない」と言われた。そこで神祇官に故事を調べさせ、勅によって新たに鋳造させた。(出典:百錬抄、増鏡)
¶旧制では、天皇が即位するたびに新たに御釜を鋳造し、本司に置いて、これもまた竈神と呼んだ。譲位すると、それを別院に遷した。(出典:左経記、外記日記、葉黄記、山槐記の大意を参酌) その後は常に旧来の器を用い、改めて造ることはなくなった。後堀河帝(ごほりかわてい)の代に新造の議があったが実現せず、寛元四年(かんげんよねん)に至って新たに鋳造した。(出典:葉黄記)
¶天子が事情あって他所に行幸する際には、必ず竈神を奉じてこれに従わせた。(出典:日本紀略) その儀式では、所司が本司に赴き、諸衛(しょえ)が伺候する。宮主がまず祓を行い、生絹(すずし)で釜を覆って担ぎ運ぶ。衛士がその左右に列する。宮主が膳を奉り、典膳(てんぜん)がこれに供奉する。上卿・納言・弁・外記・史以下は皆徒歩で従う。遷し終えると、また祓を行う。(出典:西宮記、小右記を参照)
¶また園神(そののかみ)十四座がある。(注:これは宮内省で祀られる園神とは別のものである) 京北園(きょうほくその)二座、そのうち一座は五位の神である。長岡園(ながおかその)、奈良園(ならその)、羽束志園(はつかしその)がそれぞれ三座。山科園(やましなその)、奈癸園(なぎその)、政所園(まんどころその)がそれぞれ一座で、いずれも六位の神である。春秋に祭を行う。(出典:延喜式)
¶造酒司の酒甕神(さかがめのかみ)は三座ある。大邑刀自神(おおむらとじのかみ)、小邑刀自神(おむらとじのかみ)、次邑刀自神(つぎむらとじのかみ)という。(出典:文徳実録、三代実録、延喜式) おそらく酒甕(さかがめ)を神として祀るものであろう。(出典:続古事談) 斉衡三年(さいこうさんねん)、従五位下であった大邑刀自神・小邑刀自神の二神は、ともに春秋の祭にあずかることとなった。(出典:文徳実録) 貞観元年、大邑刀自神に従五位上を授けた。八年、次邑刀自神に従五位下を授け、二季の祭にあずかることとなった。(出典:三代実録) 一条帝(いちじょうてい)の代、大邑刀自の甕が自然に地から抜け出て倒れ、人々は怪異と考えた。ほどなく帝は崩御した。三条帝(さんじょうてい)の代、大風が本司を壊し、三神の甕はすべて破損した。(出典:続古事談)
¶園池司(えんちし)の御気津神(みけつかみ)は一座ある。貞観三年、従五位下を授けた。(出典:三代実録)
¶主水司の御井神(みいのかみ)は一座あり、春秋に祭を行う。御生気御井神(みいきのみいのかみ)は一座ある。御生気御井については、宮中あるいは京内の井戸一か所を選び、毎年冬の前の土用(どよう)に、牟義都首氏(むげつのおびとうじ)に浚渫(しゅんせつ)させて祭らせる。立春の明け方に、その氏の者が水を汲んで司に納めてこれを献じ、その後この井戸は廃して二度と用いない。また氷池神(ひいけのかみ)十九座があり、仲冬にこれを祭る。氷池風神(ひいけのかぜのかみ)は九か所あり、山城(やましろ)にあるものが五か所、大和・河内・近江・丹波にそれぞれ一か所あり、冬に気温が上がって氷が薄くなるとその都度祭を行う。いずれも主水司の管轄である。(出典:延喜式)
¶左右の馬寮(めりょう)にそれぞれ一座ある。左馬寮(さめりょう)は生馬神(いくまのかみ)といい、元慶三年、従五位下を授けた。(出典:三代実録) 延喜元年、御馬(ぎょば)の病気平癒を祈願して一階を進めた。(出典:日本紀略、扶桑略記裏書) 天徳三年(てんとくさんねん)、正三位に昇進した。右馬寮(うめりょう)は保馬神(ほめのかみ)といい、延喜三年、従五位下を授けた。(出典:諸神根源抄)
¶京中(きょうちゅう)は三座ある。
¶左京二条(にじょう)に鎮座する神社は二座ある。その一座は太詔戸命(ふとのりとのみこと)を祀り(注:「詔戸」は「祝詞」とも書く)、その一座は久慈真智命(くじまちのみこと)を祀る。(出典:延喜式。注:古事談には、太詔戸社は春日の南、室町の西にあるという。今考えるに、いずれも三条坊門の北、坊城の東にある) 大和(やまと)の添上郡(そえかみのこおり)の太祝詞神(ふとのりとのかみ)、十市郡(とおちのこおり)の櫛真知神(くしまちのかみ)を遷し祀ったもので(出典:新撰亀相記)、占部神(うらべのかみ)という。(出典:新抄格勅符) およそ御卜(みうら)を行うたびに、必ずこの二神を祭り、卜庭神(うらにわのかみ)と呼ぶ。(出典:本朝月暦令所引弘仁式、延喜式、古事談)
¶大同元年(だいどうがんねん)、山城(やましろ)の神封戸(かみふこ)九戸を定めた。(出典:新抄格勅符) 貞観元年、いずれも従五位上から正五位下を授けた。(出典:三代実録) 延喜三年、太詔戸神を従四位上に進めた。(出典:日本紀略) 延喜式が定められると、いずれも大社に列せられ、四度官幣および相嘗祭(あいなめさい)にあずかった。(出典:延喜式) 承平元年(じょうへいがんねん)、太詔戸神を従三位に進めた。天慶三年(てんぎょうさんねん)、正三位に昇進した。(出典:日本紀略。注:本書の下文にはさらに三位を贈ったとあるが、おそらく衍文であろう)
¶左京四条(しじょう)に鎮座する神は一座あり、隼神社(はやぶさのかみのやしろ)という。(出典:延喜式。注:三代実録には「朱雀院の中にある」とある。今考えるに、四条坊門の南、坊城の西にある。「隼(はやぶさ)」と「丹毒(たんどく)」は訓読みが似ているため、後に訛って瘡神(かさがみ)とされるようになった) 貞観二年、従五位下を授けた。七年、十年、十六年と、たびたび位階を進め、従四位上に昇進した。(出典:三代実録) 延喜の制では、大社に列せられ、四度官幣にあずかった。(出典:延喜式) 天慶三年、正四位上から従三位に進めた。(出典:日本紀略)
¶官の帳簿に記載されていないもの。
¶宗像神社(むなかたじんじゃ)は三座あり、左京一条にある。(出典:三代実録、諸社根元記、諸神記。注:土記、拾芥抄にはいずれも、近衛の南、東洞院の西にあるという) 筑前(ちくぜん)の胸形神(むなかたのかみ)を分けて祀ったものである。(出典:三代実録) 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が創建した。(出典:土記) 貞観元年、従二位勲八等から正二位に進めた。六年、従一位を加えた。(出典:三代実録) 建治元年(けんじがんねん)、四度官幣にあずかった。(出典:諸社根元記、諸神記)
¶天石戸開神社(あめのいわとひらきのかみのやしろ)は左京一条にある。(注:諸社根元記には「宗像神と同じ社である」とある) 大石を神として祀る。(出典:「祀」以下は華山院家記による) 貞観七年、従三位を授けた。
¶御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、崇道天皇(すどうてんのう)、伊予親王(いよしんのう)、およびその母である藤原氏、さらに橘逸勢(たちばなのはやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)の霊を祀る。貞観五年、これより先、大きな疫病が流行り、民の多くが若くして亡くなった。世間では「崇道天皇らの怨霊が祟りをなしている」と噂した。京畿の内外の人々は競って仏を礼し経を誦し、あるいは歌舞を奏して災いが消えるよう祈り、これを御霊会(ごりょうえ)と呼んだ。この時に至って疫病が再び流行したため、朝廷は神泉苑(しんせんえん)に霊座を設け、雅楽寮(うたりょう)に音楽を作らせ、近侍の童や良家の子を選んで舞を奏させ、初めて御霊会を行った。藤原朝臣基経(ふじわらのあそみもとつね)らにこれを監護させた。その催しは非常に盛大であった。ついに社を建ててこれを祀った。七年、「御霊会にかこつけて徒党を集め騎射をすることを禁ずる」との勅が出された。(出典:三代実録) 後に、長屋王(ながやおう)の夫人である吉備内親王(きびないしんのう)、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、菅原朝臣道真(すがわらのあそみみちざね)を配祀し、八所御霊(はっしょごりょう)と号した。(出典:諸社根元記、諸神記) 上下二社に分かれ、その上社は京の外にある。(出典:諸神記、山城名勝志。注:上社は今、相国寺の北の御霊森にあり、下社は鷹司の南の御霊町にあったが、後に京極春日に移された) 元中二年(げんちゅうにねん)、北主(ほくしゅ、北朝の天皇)が位一階を進め、正一位を授けた。(出典:諸神記)
¶角振神社(つのふりじんじゃ)、隼神社(はやぶさじんじゃ)(注:「隼」は「早総」とも書く)は、いずれも左京三条にある。(出典:諸社根元記、春日験神記。注:この二書および拾芥抄によれば、二条の南、西洞院の東、東三条第にあったが、今は廃絶している) この二神はもとは大和の春日社にあった。その内院で祀られていたのは粟辛明神(あわからみょうじん)といい、これが隼神である。(出典:諸社根元記、諸神記、春日社記。注:「粟」は「栗」とも書く) この二社はそこから分けて祀ったもので、それゆえ春日社の裔神(えいしん)と称される。(出典:春日験記) 天慶二年、正六位上であった隼神を従五位上に進めた。(出典:日本紀略) 永延元年(えいえんがんねん)、いずれも従四位下を授けた。(出典:日本紀略、扶桑略記) 寛弘三年(かんこうさんねん)、正二位に進めた。(出典:日本紀略、百錬抄) 久安六年(きゅうあんろくねん)、正一位に昇進した。(出典:諸社根元記) 仁平二年(にんぺいにねん)、官を遣わして白妙幣(しろたえのみてぐら)および神馬・舞楽を奉り、神楽を奏した。この日、神祇官の史生(ししょう)が装束を整えて神殿に供奉した。(出典:兵範記)
¶中山神社(なかやまじんじゃ)は左京にあり、石上明神(いそのかみみょうじん)、または石神(いしがみ)とも称される。当初は冷泉院の中に祀られていた。永承五年(えいしょうごねん)、別の場所に遷した。(出典:百錬抄、古事談。注:今は六角の南、猪熊の東にある) 翌年、従三位を授けた。天喜元年(てんぎがんねん)、官幣にあずかった。毎年四月の中の酉、十一月の上の酉に祭を行う。(出典:師緒年中行事、年中行事抄、公事根源)
¶花園神社(はなぞのじんじゃ)は右京にある。(注:山城名勝志には「今は法金剛院(ほうこんごういん)の東にある」とある) 長和四年(ちょうわよねん)、京の都で大きな疫病が流行った。百姓が花園寺のそばに祠を建てて疫神を祭った。朝廷はついに神宝および寮馬十列を奉って御霊会を行い、六衛府(ろくえふ)にこれを執り行わせた。(出典:小右記、百錬抄) 識者はこれを濫りな祭祀であると評した。(出典:小右記)
¶五条天神社(ごじょうてんじんじゃ)は左京六条にある。(出典:拾芥抄。注:本書には、五条の南、西洞院の西にあるとある) 僧空海(くうかい)が創建した。(出典:諸社根元記、諸神記) 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀るという。(出典:諸神記) 正治二年(しょうじにねん)、従五位下から正五位下に進めた。(出典:百錬抄) 後村上帝(ごむらかみてい)の代、神主の藤原国定(ふじわらのくにさだ)が北主(北朝の天皇)に奏上して、「正治以後、たびたび神階を進めてきた。本社は実質正二位にあたるはずであり、どうかさらに一階を加えていただきたい」と言った。卜部兼豊(うらべのかねとよ)は、「正治以後、位階が進んだのは三度を超えない。本社はすなわち従四位上であるはずで、どうして二位に至ろうか」と述べた。それにもかかわらず勅により従二位を授けた。(出典:諸社根元記、諸神記)