卷之二百卌九 志第六
神祇六 神社一 伊勢神宮、內侍所
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶上古の歴代天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を正殿に祀り崇め、その神徳を明らかにして天下に君臨した。崇神天皇(すじんてんのう)の代に至り、神威を畏れ敬って大神を別宮に遷し、皇女に祀らせることとし、ついにこれが永久の制度となった。また天社(てんしゃ)・国社(くにしゃ)を定めて、広く神々を祀った。そもそも天照大神は皇室の祖であり宗であって、その尊さに並ぶものはない。それ以外の神々はいわば子であり臣であって、あえて大神と肩を並べることはできず、ここに祭祀の制度が秩序立てられたのである。いわゆる天社・国社とは、いずれも古来天下に功績のあった者たちであり、その子孫が代々朝廷に仕え、封土や食邑を賜ってその祭祀を奉じた。朝廷に事があれば幣帛(へいはく)を頒って祭った。功績がとりわけ盛んな神には、朝廷が常にこれを祀った。また神地・神戸(かんべ)の制度を設けて、その礼典を手厚くした。これが敬神の教えが天下に広く行き渡った所以である。
¶大化の改新(たいかのかいしん)による制度変革の後、代々の重臣や旧家には一尺の土地も与えられなくなった。神々の子孫でありながら、なおその祖先の祭祀を奉じ続けられた者は、まことに少なかった。大宝律令(たいほうりつりょう)の制では、官社を大・中・小の三等に分け、いずれも神祇官(じんぎかん)の管轄として役人に祀らせた。しかし天下の名だたる神々の中には、ふさわしからぬ者によって祀られる例もあった。当時、神々を記録した帳簿にはまだ明確な典拠がなかった。天平年間(てんぴょうねんかん)に至って初めて神帳が作られたが、中臣氏(なかとみうじ)がその事務を独占したため、取捨選択が公正でないと非難する論者もあった。ちょうどこの頃、朝廷は仏法を尊び、仏僧たちはほしいままに詭弁を弄して神々をおとしめた。神と仏はほとんど混同され、神々の功徳や霊験は次第に埋もれ消えていった。とはいえ天下の諸神の中には、祈願に霊験があったり、特に著しい霊験を示したりして、新たに官社に列せられる神も少なくなかった。元慶年間(がんぎょうねんかん)には、天下の神祇で官幣にあずかる神は三千百三十四座に及んだ。寛平年間(かんぴょうねんかん)には、さらに特に祈年祭(きねんさい)・月次祭(つきなみのまつり)・新嘗祭(にいなめさい)にあずかる神社が五百五十八社となった。
¶延喜式(えんぎしき)の編纂に至って、神祇官の帳簿はおおむね元慶の制度を踏襲しつつ、その等級をさらに定め、名神大社(みょうじんたいしゃ)・大社・小社と称した。大社はおよそ四百九十二座あり、そのうち三百四座が祈年祭・月次祭・新嘗祭などで案上官幣(あんじょうかんぺい)にあずかり、なかでも七十二座は相嘗祭(あいなめのまつり)にあずかった。残りはすべて祈年祭の国幣にあずかり、それ以外の諸社はすべて小社とされた。その四百三十三座は祈年祭で案下官幣(あんげかんぺい)にあずかり、残りはすべて祈年祭の国幣にあずかった。しかしいわゆる大社・小社というものは、おおむね祠の名だけを記録するにとどまり、神の名や霊験の由来がはっきりと確かめられるものは、ごくわずかしかなかった。どの神を祀っているのか判然としない社も、また多かったのである。後の世に至ると、天下の諸社は仏教勢力に私物化されたり、名称が変わったり、いかがわしい祭祀が次々と起こったりして、その祠の名すらほとんど識別できなくなったものもあった。神道の衰退がここまで至ったことは、まことに嘆かわしいことである。
¶ただ伊勢大神宮(いせだいじんぐう)だけは、万世にわたって厳然とその存在を保ち、今日に至るまでその祭祀の礼を改めていない。官の帳簿がこれを国郡の諸社と並べて記載しているのは、単に帳簿の体裁上そうなっているに過ぎない。そこで今、天下の諸神の筆頭にこれを掲げ、その尊厳を示すこととする。また内侍所(ないしどころ)については、令や式には記載がないものの、歴代の朝廷がこれを崇め奉ること神宮と全く同様であったため、あわせてここに序する。畿内・七道の諸社については、順を追って以下に列記する。官の帳簿に記載がなくとも、史書に見えるものは、あわせて収録する。神の名が証明できるものであれば、たとえ近年の書物であっても、広く捜し集めて採用し、考証の材料とする。
¶伊勢大神宮(いせだいじんぐう)。大神宮は三座からなり、度会郡(わたらいぐん)宇治郷(うじごう)の五十鈴川(いすずがわ)のほとりにあって、天祖天照大神(てんそあまてらすおおみかみ)を祀る。八咫鏡(やたのかがみ)を神体とし、天児屋(あめのこやね)・天太玉(あめのふとだま)の二神を配祀する。天児屋は左に位置し、弓を神体とする。天太玉は右に位置し、剣を神体とする。(注:日本書紀・大神宮儀式帳・延喜式・倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)を参照した。配享の神について、古事記では思兼神(おもいかねのかみ)一座を祀るとしているが、疑わしい。儀式帳には「天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が左に、万幡豊秋津命(よろずはたとよあきつのみこと)が右に在る」とあるが、手力男神の祠は佐那県(さなのあがた)にあり、ここに祀るのはふさわしくない。豊秋津姫という女神が剣を神体とするというのも疑わしい。そのため採らない。日本書紀に載る神勅には「児屋・太玉は殿内に侍るべし」とあり、この言葉からすれば、二神は互いに離れるべきではないことは明らかである。かつ倭姫命世記および弘安九年(こうあんくねん)の大神宮参詣記、諸社根源記の一説では、いずれも児屋・太玉を相殿(あいどの)としており、おそらくこれが実情を得たものであろうから、これに従う。鎮座本紀には「古くは児屋・太玉を相殿としていたが、雄略朝(ゆうりゃくちょう)以降、手力男・豊秋津姫がこれに代わり、児屋・太玉は豊受宮(とようけのみや)に陪侍することとなった」とあるが、この説は古い史書には見えないので、ひとまず参考として付記しておく。)
¶度会宮(わたらいのみや)は四座からなり、大神宮の西七里(しちり)、沼木郷(ぬまきごう)の山田原(やまだはら)にあって、御饌都神(みけつかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る。真経津鏡(まふつのかがみ)を神体とし、これは天照大神の食を司る神である。朝夕に御饌(みけ)を炊いで大神宮に供進する。配享の神は三座あり、御伴神(みとものかみ)と称し、いずれも女神である。(注:儀式帳には、配享する三神に被(かずき)・御衣(みそ)を捧げるほか、御裳(みも)九腰(ここのこし)を捧げるとあり、これによって女神であることが証される。しかし神名は考証できない。倭姫命世記および鎮座本紀・神名秘書にはいずれも「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が左に在り、鏡を神体とする。天児屋・天太玉の二神が右に在り、児屋は笏(しゃく)、太玉は玉を、それぞれ神体とする」とあるが、これは後人の付会から出たものと思われるので、今は採らない。)
¶初め、天祖(てんそ)は天原(あまのはら)において創業し、その神徳と明らかな霊威は天地四方に行き渡り、天照大神と号された。その統治を葦原中国(あしはらのなかつくに)に及ぼすにあたり、三種の神宝を皇孫(こうそん)に自ら授けられた。とりわけ宝鏡を手に取り、「これを私の神霊として、これを見ることはすなわち私を見ることと同じであるとせよ」と勅された。あわせて日前大神(ひのくまのおおかみ)・豊受大神の霊威を添えられた。(注:「副以下」は古事記・釈日本紀・明文抄に引く太倭本紀・倭姫命世記による。按ずるに、神鏡は三面あり、その一つは天祖の御霊、一つは国懸大神(くにかかすのおおかみ)の霊、一つは豊受大神の霊である。大倭本紀には「天孫降臨の際に携えられた斎鏡(いわいのかがみ)三面、子鈴(こすず)一合。一つの鏡は天照大神の御霊で、名を天懸大神(あまかかすのおおかみ)といい、今は伊勢の磯宮(いそのみや)で拝祭される。一つの鏡は天照大神の前(さき)の御霊で、名を国懸大神といい、今は伊勢の名草宮(なぐさのみや)で拝祭される。一つの鏡と子鈴は、天皇の御食津神(みけつかみ)で、今は巻向(まきむく)の穴師社宮(あなしのやしろのみや)で拝祭される」とある。按ずるに「巻向」以下の部分には誤脱があるようだ。御食津神と称するものは、豊受大神をおいて他に配すべき神はない。また倭姫命世記には「豊受大神は真経津鏡を霊形とし、神代の三面の鏡のうち円鏡である」とある。これによれば、本紀にいう一つの鏡とは豊受大神のことであり、子鈴は穴師神(あなしのかみ)のものであることは明らかである。また神宮雑例集に引く神宮記には「神鏡三面、一つは伊勢に、一つは紀伊(きい)に、一つは内侍所にある」とある。内侍所の神鏡は崇神朝(すじんちょう)に模造されたものである。とすれば、ここでいう内侍所の鏡とは御食津神の鏡の誤りであることが知られる。また釈日本紀に引く外記には「威所(いどころ)は三所ある。一所は斎鏡で、すなわち伊勢の大神である。一所は円形で長さ六寸ほどである。一所は紀伊の大神の鏡である」とある。日本紀略にも「賢所(かしこどころ)三所」とある。威・賢は訓が同じで、すなわち内侍所のことである。いずれも模造のものではあるが、これによって旧鏡の数を知ることができる。かつ一つの鏡が円形で長さ六寸というのは、いずれの神のものか詳らかでないが、大倭本紀・倭姫命世記に照らせば、豊受大神のものであることは明らかである。あわせて参考として付記する。)皇孫は代々これを受け継ぎ、神霊として奉じ、同じ御殿・同じ御床に安置して、常にその左右にあった。群臣がこれに仕え奉ることは、天上における儀礼とまったく同じであった。太祖(たいそ)が橿原宮(かしはらのみや)で皇位に即かれると、神器を正殿に安置し奉った。その儀礼は最も厳粛であり、恭しく謹んでこれを承ることは、世々変わることがなかった。
¶崇神天皇の代に至り、神威を畏れ敬われた。即位六年、磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に建て、鏡と剣を遷し奉って、その祭祀を厳かにした。皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせた。(注:日本書紀・古語拾遺による。)その後、但波(たんば)の吉佐宮(よさのみや)に遷し奉り、御饌都神を鎮め祀った。(注:「鎮祭」以下は鎮座本紀による。)また倭に帰り、厳檀本宮(いつのかきもとのみや)におられた。ほどなく紀国(きのくに)の名草浜宮(なぐさのはまのみや)に遷し奉り、国懸大神もまた永くここに留まった。(注:「国懸」以下は紀伊国造家(きいのくにのみやつこけ)の旧記による。)続いて吉備(きび)の名方浜宮(なかたのはまのみや)に遷し奉った。さらに倭に還り、弥和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねのうえのみや)におられた。垂仁天皇(すいにんてんのう)は皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を豊鍬入姫に代えて祀らせた。その後、宇多(うだ)の秋宮(あきのみや)、篠幡宮(しのはたのみや)に遷った。ついに伊賀(いが)に入り、市守宮(いちもりのみや)・穴穂宮(あなほのみや)・阿閉柘殖宮(あへのつげのみや)におられた。さらに淡海(おうみ)の甲可日雲宮(こうかのひくものみや)および坂田宮(さかたのみや)、美濃(みの)の伊久良河宮(いくらがわのみや)、尾張(おわり)の中島宮(なかしまのみや)に遷った。転じて伊勢(いせ)に至り、桑名野代宮(くわなのじろのみや)・鈴鹿小山宮(すずかのおやまのみや)・壱志藤方片樋宮(いちしのふじかたのかたひのみや)・飯野高宮(いいののたかみや)・多気佐佐牟江宮(たけのささむえのみや)・磯宮(いそのみや)におられた。また宇治(うじ)の家田田上宮(やたのたなかみのみや)に遷った。この時、宇治土公(うじのつちぎみ)らの遠祖である大田命(おおたのみこと)が来て、「五十鈴川のほとりに良い土地があります。山川は清らかで霊妙であり、神地と定めるにふさわしい」と申し上げた。折しも神のお告げがあり、「これは天原で見た地である。今、ここに居りたい」とあった。倭姫命は大いに喜び、「朝日の来向かう国、夕日の来向かう国、波の音の聞こえない国、風の音の聞こえない国、弓矢や鞆(とも)の音の聞こえない国、大御心の鎮まりいます国である」と祝詞を述べた。そこでこの地に斎宮(いつきのみや)を興し、五十鈴宮(いすずのみや)と号し、また渡遇宮(わたらいのみや)とも称した。これが大神宮である。(注:日本書紀・大神宮儀式帳・倭姫命世記を参照した。)祭官(さいかん)および大神主(おおかんぬし)・禰宜(ねぎ)・物忌(ものいみ)などの職を置いて祭事を掌らせた。八尋殿(やひろどの)を立てて神衣(かんみそ)を織って献上させた。魚塩の地を置き、神田・神戸を定めて、朝夕の御饌を供え奉った。また神庤司(かんだちのつかさ)を設けて、その庶政を統括させた。(注:大神宮儀式帳・倭姫命世記による。)
¶景行天皇(けいこうてんのう)の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が神剣を奉じて東国を平定した。この後、神剣は長く尾張に留め置かれた。(注:日本書紀による。)
¶雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の御代、神のお告げがあり、「私はここに一人でいるのは楽しくなく、饗饌(きょうせん)を受けるのも心安らかでない。御饌都神を丹波(たんば)から迎えるがよい」とあった。そこで使いを遣わして神を迎え、度会の外宮(げくう)に鎮め祀った。(注:「外宮」は古事記による。)度会宮、また豊受宮(とようけのみや)と号した。(注:止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)・倭姫命世記による。)
¶天武天皇(てんむてんのう)は挙兵の際、神宮を遥拝された。即位に及んで、大来皇女(おおくのひめみこ)に神宮に奉仕させた。(注:日本書紀による。)これ以後、天皇の即位に際しては必ず斎王(さいおう)を定めることが恒例となった。(注:延喜式・斎宮記による。)十三年、神宮を造営して旧来の制度を拡充し、(注:園太暦(えんたいりゃく)に引く神宮旧記・大神宮雑事記による。)以後は二十年ごとに造り替えることが永久の慣例となった。(注:大神宮雑事記・大神宮例文による。)
¶持統天皇(じとうてんのう)五年の夏、役人を遣わして幣帛を奉り、藤原宮(ふじわらのみや)の造営を告げた。冬にも使いを発して、新羅(しらぎ)からの調(みつぎ)を献じた。(注:日本書紀による。)これ以後、即位・大嘗祭(だいじょうさい)、祥瑞(しょうずい)や災異があった際には、必ず使いを遣わして祭告した。あるいは兵乱を払い除くため、あるいは外国の無礼を告げるため、あるいは遣唐使の無事を祈るためにも、必ず使いを発し、これを記す国史の筆は絶えることがなかったという。(注:続日本紀以下の国史による。)
¶天平元年(てんぴょうがんねん)、度会宮の物忌・内人(うちんど)らが、例により御饌を大神宮に奉る途中で穢(けがれ)に触れた。ほどなく天皇が病に伏され、使いを遣わして祈祷させた。勅により新たに御饌殿(みけでん)を度会宮の地に建て、大神宮および度会宮ならびに配享の神の座を設けて、朝夕に御饌を供え奉ることとした。(注:「設」以下は大同本記(だいどうほんぎ)による。)これにより、御饌を奉じて神宮に詣でる儀式は停止された。(注:大神宮雑事記による。)
¶天平勝宝(てんぴょうしょうほう)五年、左大弁(さだいべん)紀朝臣飯麻呂(きのあそんいいまろ)に命じて、神地の境界に標(しるし)を立てさせた。
¶延暦(えんりゃく)十年、盗賊が大神宮の正殿・財殿(ざいでん)および門・垣などを焼いた。(注:続日本紀による。)そのため神体を山頂に遷した。(注:大神宮雑事記による。)二十三年、禰宜・宮司らが二宮の儀式帳を進上した。神宮の制度はこれによって初めて考証できるようになった。(注:大神宮儀式帳・止由気宮儀式帳による。)
¶大神宮の神地は、東は石井(いしい)・赤木(あかぎ)・朝熊(あさま)・黄楊(つげ)・尾垂(おだれ)の諸山に至り、北は海島に至り、南は志摩(しま)・鵜椋嶽(うくらだけ)および錦山坂(にしきやまざか)に至り、西は飯高郡(いいたかぐん)下樋小河(しものひおがわ)に至る。これを遠界(えんかい)とする。飯野郡(いいのぐん)磯部河(いそべがわ)までを近界(きんかい)とする。大神宮には十九の院があり、内院・外院に分かれる。その正南門の外は五十鈴川に臨み、川の中州に橋を架けて石壇を築き、豊受神の座を設けて、三節祭(さんせつさい)ごとに神饌を調える場所とした。別宮は四院あり、荒祭宮(あらまつりのみや)・月読宮(つきよみのみや)・伊雑宮(いざわのみや)・瀧原宮(たきはらのみや)およびその並宮(ならびのみや)という。所属する摂社(せっしゃ)はおよそ四十か所あり、そのうち二十五か所が官の帳簿に記載されている。(注:大神宮儀式帳による。)度会宮には六つの院があり、これもまた内外二院に分かれる。別宮は一院あり、多賀宮(たかのみや)という。摂社はおよそ二十四か所あり、そのうち十六か所が官の帳簿に記載されている。(注:止由気宮儀式帳による。)
¶弘仁(こうにん)四年、度会宮の大内人(おおうちんど)である神主真房(かんぬしまふさ)の妻が玉垣(たまがき)の下で出産した。朝廷は使いを発してこれを謝罪し祈祷させた。これ以後、身重の女性が宮域に入ることは永く禁じられた。(注:大神宮雑事記による。)
¶寛平(かんぴょう)五年、火災の恐れがあるとして、度会宮の垣の外側四十丈(じょう)以内に家屋を建てることを禁じた。(注:神宮雑例集による。)
¶延喜(えんぎ)十一年、二宮の禰宜が上申して、「二宮の配享の神も、四度(しど)の案上幣(あんじょうへい)にあずかるようにしていただきたい」と願い出た。これが許された。(注:皇字沙汰文(こうじさたぶみ)・神名秘書による。)
¶延長(えんちょう)四年、度会宮の遠近の四至(しいし)を定めた。神宮の大垣の外側四十丈を近界とする。東は赤峯(あかみね)および樋手淵(ひでのふち)に至り、南は宮山(みややま)を限り、西は粟尾岡(あわおのおか)および山幡淵(やまはたのふち)に至り、北は宮河(みやがわ)を限る。これを遠界とする。標を立てて境界を示し、穢れを厳しく禁じた。(注:神宮雑例集による。)五年、盗賊が大神宮の正殿に入り、壁代絹(かべしろぎぬ)や絹糸などを盗んだ。朝廷の使いが来てこれを謝罪し祈祷させた。宮司以下に祓(はらえ)を科し、あるいは現任の職を解いた。(注:大神宮雑事記による。)この年、式を定めた。おおむね延暦の先例に従い、多少の増減があった。二宮の配享の神はいずれも大社に列せられ、従来通り四度の官幣にあずかることとなった。王臣以下は、みだりに大神に幣帛を供えることは許されない。三后(さんごう)・皇太子が幣帛を供えようとする場合は、その都度奏聞することとした。大神宮・度会宮の内では、武具を帯びることを禁じた。(注:延喜式による。)
¶朱雀天皇(すざくてんのう)の御代、大神宮を内宮(ないくう)、度会宮を外宮と称するようになった。(注:日本紀略による。本書には「天慶(てんぎょう)五年、内外宮の禰宜の位階を叙した」とあり、内外宮という呼称はここに初めて見える。神名秘書には「村上天皇(むらかみてんのう)の御代に、初めて内外宮の名が定められた」とあるが、これは誤りであろう。)
¶長元(ちょうげん)四年、内宮の月次祭の日、荒祭神(あらまつりのかみ)が斎王に憑(の)り移り、斎宮頭(さいくうのかみ)藤原相通(ふじわらのすけみち)の不敬な有り様を告げた。朝廷は使いを遣わして祈祷させ、相通らを流罪に処した。(注:日本紀略・小右記(しょうゆうき)・左経記(さけいき)・大神宮雑事記による。)
¶長暦(ちょうりゃく)元年、内宮を改造した。正殿の堅魚木(かつおぎ)・泥障板(あおりいた)・鞭懸木(むちかけぎ)などに、特に装飾を加えた。翌年完成し、遷宮を行おうとした。宮司らは祭主(さいしゅ)藤原佐国(ふじわらのすけくに)と事を争い、儀式に参加すべきでないと主張した。佐国は強引に遷宮を執り行ったが、その親族や従者らが正殿に乱入して、あるいは錦綾(にしきあや)を奪い、あるいは神宝を毀損した。翌年、禰宜・内人らが神民(かんたみ)を率いて上京し、これを訴えた。朝廷の評議では「佐国を伊豆(いず)に流罪とする」ことになった。そこで「今後、二宮に幣帛を奉る者は、必ず東宝殿(ひがしのほうでん)に納めること。また神嘗祭(かんなめさい)および臨時の奉幣の他は、みだりに正殿を開いてはならない」と制した。
¶長久(ちょうきゅう)元年、暴風雨があった。外宮の正殿・宝殿、瑞垣(みずがき)、門などがことごとく倒れた。洪水が氾濫して宮地にまで及んだ。そのため神体を御饌殿に遷し、神宝を御稲御倉(みしねのみくら)に、絹糸を鋪設御倉(しきしつらいのみくら)に遷し、朝夕の御饌は外幣殿(げへいでん)で供えることとした。(注:百錬抄(ひゃくれんしょう)・大神宮雑事記による。)天皇はこれを恐れ、自ら神宮に赴いて祈祷しようとされた。しかし先例がないため、藤原資房(ふじわらのすけふさ)に「朕は自ら赴いて祭ろうと思うが、神意がどうであるか分からない。親祭の先例はないが、諸社への行幸を準用することはできようか」と仰せられた。資房は「重大な事であり、たやすく行うことは難しい」と考えた。天皇もまた遠出を憂慮され、ついに実現しなかった。(注:百錬抄に引く資房記による。)
¶康平(こうへい)元年、外宮を改造した。翌年、造宮使(ぞうぐうし)の申請により、内宮に準じて、正殿の金飾りおよび高欄(こうらん)・階(きざはし)・柱などに、特に装飾を加えた。(注:大神宮雑事記による。)
¶承暦(じょうりゃく)三年、内宮の外院(げいん)が火災に遭った。印鑰(いんやく)および代々の文書・帳簿が、ことごとく灰燼に帰した。(注:扶桑略記(ふそうりゃっき)・百錬抄による。)
¶仁安(にんあん)三年、内宮の禰宜の宿館が火災に遭い、内院・中院・外院に延焼した。そのため神体を忌屋殿(いみやでん)に遷した。(注:愚昧記(ぐまいき)・神宮雑例集による。)これより先、仁平(にんぺい)年間の遷宮の日、禰宜の経仲(つねなか)は愚かで先例を知らず、古い神衣を撤去して外幣殿に置いてしまった。言い伝えによれば、「神衣は太古の天宮(あまつみや)の御物であり、絹でも綿でもなく、色は漆(うるし)や茜(あかね)のようで、形は小児の衣に似ている」という。神官たちは皆恐怖して顔色を失った。ほどなく経仲とその子は、男子がことごとく死亡した。まもなくこの火災があり、神衣もまた焼失した。百官はこれを聞いて大いに恐れた。(注:愚昧記による。)
¶養和(ようわ)元年、熊野(くまの)の僧徒が源氏に与して、山田郷(やまだごう)・宇治郷の二郷に入り、民家を焼き、財産を奪った。二見郷(ふたみごう)にも放火した。平氏もまた三神郡(さんしんぐん)に兵糧を課し、民戸を追捕した。神が鎮座して以来、千百余年、いまだかつてなかった異変であるという。(注:東鑑(あづまかがみ)による。)
¶二宮の礼数(れいすう)は、歴代の朝廷において増すことはあっても減ることはなかった。(注:中右記(ちゅうゆうき)による。)神に供える器具はすべて極めて豊かで、祭儀もまた極めて厳粛であり、天下の臣民が祈祷したり幣帛を奉ったりすることは許されなかった。(注:二宮儀式帳・延喜式による。)ここに至って天下は大いに乱れ、制度はことごとく崩壊した。ついには神税(しんぜい)が貢がれなくなり、祭祀にも不足を告げるようになった。源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵するに及んで、私的に御厨(みくりや)や幣帛・馬を奉り、しばしば祈願を行った。その子頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)らも相次いで神地・祭幣を献じ、こうして朝廷の厳格な神を敬う礼は、すべて廃れてしまった。(注:東鑑による。)
¶これより先、二宮の改造も規定通りには行えなくなっていた。諸国から費用を徴収して造営にあてたが、これを役夫工米(やくぶくまい)と称した。三社領三代起請地(さんだいきしょうち)を除いて、一律に賦課した。しかし諸大寺はしばしば先例がないと称して、その命に応じない者もあった。造宮の神部(かんべ)もまた乱暴で勝手気ままにふるまい、土地の民を侵し虐げることが、この頃さらに甚だしくなった。(注:醍醐寺雑事記、鹿島社(かしましゃ)・吉田社(よしだしゃ)・東大寺・東寺などの文書、東鑑による。)その衰廃はこのようであった。
¶仁治(にんじ)元年、内宮外院の御輿宿殿(みこしやどりでん)、禰宜・内人の宿館などが火災に遭った。神体を南山(みなみやま)に遷した。(注:百錬抄・平戸記(みなとのき)・神事供奉記による。)三年、狂人が外宮の正殿に登った。そのため、その者が踏み入った簀子(すのこ)および階を改造した。(注:百錬抄・神事供奉記による。)
¶永仁(えいにん)四年、二宮の禰宜らが連署して、「御厨(みくりや)が先例に違反している」と訴えようとした。その際、外宮の禰宜が新たに「皇」の字を加えて署名した。内宮の禰宜は、「外宮は皇と称するべきではない」と主張した。ここに至って両宮の間で論争が起こった。外宮は上書して次のように述べた。「延喜式・神宮本記などを按ずるに、『皇』とは内外二宮の尊号であり、神々に共通する称号である。その根源の厳かさは、言葉で言い尽くせるものではない。延喜神祇式の祝詞には『豊受皇太神(とようけすめおおかみ)』とある。加えて、延久(えんきゅう)・承保(じょうほう)・承暦・寛治(かんじ)などの宣命にも『皇』の字が用いられている。式の条文といい宣命といい、先例が多く残っている。したがって旧来の典拠を守って『皇』の字を書くのであって、どうして新儀と称されようか。しかるに内宮はみだりに異論を唱えている。どちらが正しくどちらが誤りであるか、明察を賜りたい。」内宮は次のように奏上した。「天照大神は、皇室の祖であり宗であって、その尊さに並ぶものはない。それ以外の神々は、いわば子であり臣であって、どうしてあえて肩を並べられようか。そうであれば、大神をおいて他に誰が『皇』と称せようか。また延久以後の宣命をもって、みだりに新儀の傍証としているが、もしその根拠に理がないのであれば、諸社の宣命に『皇』の字が載っていても、社司の訴訟においてこれを用いるのはふさわしくない。かつ日本書紀・儀式帳などに豊受神が『皇』の字を書かれていないのは、実にそれなりの理由があってのことである。しかるに今、勅裁を仰がずに勝手に旧来の式を改めるのは、まことに理不尽である。これを停止していただきたい。」外宮はさらに上疏して次のように述べた。「謹んで按ずるに、内外二宮は共に祖であり宗であって、尊号に等差はない。天下の諸社は子であり臣であって、位や爵に階級がある。そもそも両大神は天地の霊貴であり、日月の大元である。天地の間に徳化を布き、万物を長く育んでいる。陰陽とその徳を同じくし、あらゆる神々の上に立っている。実に君臣の始祖であり、四海の宗廟である。それゆえ朝廷が二宮を崇敬するにあたり、礼典に高い低いの別はない。『皇』と称することについていえば、その源は天祖に発し、王家に伝わったものであって、徳が天地に等しければこれを称し、義が大虚(たいきょ)に等しければこれを称する。それゆえ貞観(じょうがん)・延喜の式、延久・承徳(じょうとく)の宣命、および神宮秘記・飛鳥本記・倭姫世記・宝基本紀(ほうきほんぎ)において、本宮(外宮)がいずれも『皇』と称しているのは、先例に違反する事ではない。また日本書紀・古語拾遺・古事記・律令格、および延暦・延喜の本系、天長(てんちょう)・貞観の宣命においては、二宮ともに『皇』と称していない。どうしてあちらを捨ててこちらを論じられようか。また奏状というものは、もともと定まった様式がなく、古今それぞれにふさわしい形がある。延喜・延長・天慶・貞元(じょうがん)の上奏を見れば、それぞれ異同がある。止由気(とゆけ)を豊受と書くこともあり、このような類は、時に応じて用いたり捨てたりされ、かつて一定の基準を取ったことはない。『皇』の字についてだけ、どうしてそうでないことがあろうか。願わくは聖断を仰いで理非を決していただきたい。」内宮はさらに上言した。「外宮の奏状には『内外二宮は共に祖であり宗であって、尊号に等差はない』云々とある。そもそも日本書紀には外宮の鎮座について記されていない。風土記によれば、外宮は内宮の御饌(みけ)を司る神であって、どうして祖宗と称せられようか。また『朝廷が二宮を崇敬するにあたり、礼典に高い低いの別はない』云々とあるが、そもそも幣帛から殿舎の制度、神宝の数に至るまで、すべて差等がある。これは延暦儀式・延喜式に明らかに見える。どうして高低の別がないと言えようか。長寛(ちょうかん)勘文に引く延喜の御記には、大神宮と豊受宮とはなお君臣の関係のようであるとの文があり、これによっても天に二つの日がなく地に二人の王がいないという道理を見ることができる。また『貞観・延喜の式、延久・承徳の宣命、および神宮秘記などに、外宮はいずれも皇と称している』云々とあるが、そもそも宣命において諸神があるいは『皇』と称されるのは、いずれも天の御裔(みすえ)であるからである。祭祀の日に諸々の宣命を捧げ読み、礼敬を尽くすためであるにすぎない。上奏に至っては、諸社はこれを称することを許されない、それは尊卑の位が異なるからである。かつ外宮が引く倭姫世記・宝基本紀などは、いったい誰が撰したものとして証拠とするのか。その他もまた皆、外宮の私的な記録であって、典拠とすることはできない。」これより後、両者は次々と論争を重ね、数十通の上疏に及んだ。朝廷は宗廟の事は重大であるとして、ついに決着をつけずに終わった。(注:皇字沙汰文による。)
¶後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の御代、これより先、天下では身分の貴賤を問わず私的に神宮を参拝して幣帛を奉る者があり、外宮の詔刀師(のっとし)が両宮を兼ねて多くの銭帛を得ていたため、内宮の禰宜らは常にこれを不満に思っていた。この頃に至って、「二宮それぞれに詔刀師を置き、その銭帛を均等に分けるように」と上訴した。しかし外宮の禰宜らに言い分があったため、争うことができずに沙汰止みとなった。その猥雑な有り様はこのようであった。(注:詔刀師沙汰文(のっとしさたぶみ)による。)
¶亀山天皇(かめやまてんのう)の御代、南北朝の争乱に遭い、恒例の神事も行うことができなくなった。外宮の禰宜らは神宝を奉じて京師(けいし)に至り、遷宮が延引していることを訴えた。北朝の後円融院(ごえんゆういん)は祭主を遣わして慰め諭し、これを送り返させた。(注:後深心院関白記(ごしんしんいんかんぱくき)による。)その衰退もまた極まったのである。
¶そもそも造宮・遷宮の制度では、正殿・宝殿および外幣殿は、すべて新材を用いる。それ以外の諸院は、新材と旧材をあわせて用いる。造宮使(ぞうぐうし)は、当初は長官・次官・判官(じょう)各一人、主典(さかん)二人を任じた。(注:「初」以下は大神宮儀式帳による。)後には使・判官・主典各一人となり、使と判官には中臣(なかとみ)・忌部(いんべ)の二氏を用いた。その供給には神税(しんぜい)を充て、丁匠(ちょうしょう)や封戸(ふこ)の人夫を使役した。食糧にはそのまま神税を用い、神税が不足する場合には正税(しょうぜい)を用いた。使者が到着すると、まず吉日を選んで二宮を拝した。(注:「使至」以下は二宮儀式帳による。)次に山口祭(やまぐちさい)を行う。その祭料には、鉄の人形、鏡、鉾(ほこ)、長刀子(ながかたな)、手斧(ておの)、鎌、五色の薄絁(うすあしぎぬ)、木綿(ゆう)、麻、および米・酒・塩・堅魚(かつお)・鰒(あわび)・雑腊(ざつせき)・雑海菜(ぞうかいさい)・鶏と卵などの品を用いる。次に正殿の心柱(しんのみはしら)を伐採する祭を行う。次に宮地を鎮め祭る。祭料はいずれも山口祭に準じるが、用いる器物には場合に応じて加除がある。もろもろの祭は、いずれも吉日を選んで、それぞれ祝詞を読む。終われば、物忌(ものいみ)たちがまず手を下し、その後で役夫がそれぞれの仕事に従う。(注:「凡」以下は二宮儀式帳による。)次に物忌が宮地を掃き清め、禰宜が柱を立てる。次に殿地を築き、紺布(こんぷ)の帳で正殿を覆い隠し、役夫がみだりに見ることを禁じる。次に船代(ふなしろ)を造る祭を行い、祭料もおおむね山口祭に準じる。造られる大神宮の船代一具は、長さ七尺三寸(注:大神宮儀式帳には「三」を「五」に作る本もある)、内側五尺七寸、幅二尺五寸、内側は五寸を減じ、高さ二尺一寸、内側の深さは七寸を減じる。樋代(ひしろ)一具は、高さ二尺一寸、深さは七寸を減じ、直径二尺、内径は三寸七分を減じる。度会宮の船代一具は、長さ七尺五寸、内側五尺八寸、深さ九寸で、他は大神宮と同じである(注:止由気宮儀式帳には「長さ六尺、幅二尺四寸」に作る)。樋代一具は、直径・高さともに一尺五寸である(注:止由気宮儀式帳には「高さ一尺、直径七寸」に作る)。二宮の配享の神および高宮(たかのみや)の船代をあわせて五具あり、その製作にはそれぞれ差がある。また和琴(わごん)・灯台・鑰(かぎ)を納める韓櫃(からびつ)・奠幣案(てんぺいあん)・牀(ゆか)・天井・短牀(たんしょう)などの品を作って二宮に供える。大神の御体は樋代に納め、これを船代に盛って牀の上に安置する。豊受神(とようけのかみ)もまた同様である。これより先、神祇官の西院において、神宝と装束を造る。その神宝は二十一種あり、金銅絡垛(こんどうのらくた)・麻笥(おけ)・拤鏄(かなえ)各二件、銀銅絡垛・麻笥・拤鏄各一件、梓弓(あずさゆみ)二十四張、征箭(そや)千四百九十隻、箭(や)七百六十隻、玉纏横刀(たままきのたち)・須我流横刀(すがるのたち)各一柄、雑作横刀(ぞうさくのたち)二十柄、姫靫(ひめゆき)二十四枚、蒲靫(かまゆき)二十枚、革靫(かわゆき)・鞆(とも)・楯(たて)各二十四枚、鉾二十四竿、鵄尾琴(とびのおごと)一面である。その装束は、大神宮では紫の蓋翳(きぬがさ)・菅笠翳(すげがさのきぬがさ)それぞれ二枚、壁代絹帳(かべしろのきぬのとばり)二張、天井の上覆いの絹帷(きぬかたびら)一張、内蚊屋(うちかや)の絹帳二張、幌(とばり)・牀の土代敷(どだいしき)の細布袷帷(ほそぬののあわせかたびら)・絹袷帷各一張、生縊絹被(いきくくりのきぬのふすま)二具、小窠錦被(こかのにしきのふすま)・小文紫被(こもんのむらさきのふすま)・小文緋被(こもんのひのふすま)・屋形(やかた)各一具、小文緋絹一匹、帛被(はくのふすま)三具、五窠錦被(いつつかのにしきのふすま)一具、敷牀(しきどこ)の細布袷帷・絹袷帷各一張、小文紫衣(こもんのむらさきのきぬ)・紺衣(こんい)それぞれ二領、帛衣(はくい)・帛裳(はくも)各四領、紫羅裳(むらさきのうすものも)二裳、紫帯六条、絹帔帛襲(きぬのひれ・はくのかさね)各八条、細布巾・帛巾各四条、帯二十条、錦履(にしきのくつ)二両、錦襪(にしきのしとうず)八両、帛袜(はくのしとうず)八条、櫛筥(くしばこ)一合、鏡二面、髻結紫絲(もとどりゆいのむらさきいと)八条、加美阿氐帛(かみあてのはく)八条、白玉一両三分、錦枕二枚、敷御道布(しきみちのぬの)二十三端三丈である。配享の神二座には、絹・嚢(ふくろ)各一条があり、左の神は長さ七尺二寸、幅二幅(ふたの)、右の神は長さ四尺二寸、幅は同じで、いずれも神体を納める。宝殿二宇の絹幌各一張、門四間の幌各一張である。(注:「竝納」以下は大神宮儀式帳による。)度会宮では、紫の蓋翳・菅笠翳それぞれ一枚、壁代帷(かべしろのかたびら)二張、天井の上覆いの帷一張、蚊屋の帷二張、幌・戸上(とがみ)、壁代帷・絹袷帷・土代敷の細布袷帷各一張、帛被一具、刺車(さしぐるま)・錦被(にしきのふすま)、船代の内敷(うちしき)の小綾帛被(こあやのはくのふすま)各二具、上覆いの帛被・小綾紫被各一具、緋錦衣(ひのにしきのきぬ)・紺衣・小綾緑衣(こあやのみどりのきぬ)・絹衣・呉錦衣(くれのにしきのきぬ)・小綾紫衣・小綾帛衣・緋衣・緋裳(ひのも)各一領、帛裳・紺裳各二領、絹裳・呉錦裳・小綾紫裳・倭文裳(しずのも)各一腰、絹帔帛襲各四条、帛巾・細布巾各二条、帛袜四条、枕二枚、櫛筥一合、髪結紫糸四条、紫帯二条、錦襪・錦沓(にしきのくつ)各二両、敷御道調布(しきみちのちょうふ)十八端、幔(まん)一張である。配享の神三座には、帛被・絹被各三具、帛衣三領、絹衣六領、絹裳九腰がある。宝殿の絹幌二張(注:「宝殿」は止由気宮儀式帳による)、三門の幌三張、戈(ほこ)二竿、楯二枚、弓二張、胡簶(やなぐい)二具、箭六十隻、鞆二枚である。これらの製作を終えると、使者として弁(べん)・大夫(たいふ)・史(し)・史生(ししょう)・官掌(かじょう)・使部(しぶ)、神祇官の史・史生・神部(かんべ)・卜部(うらべ)らを差し遣わし、神宮に送り届けさせる。遷宮は例年九月に行う。十四日に度会宮を装飾し、十五日に神体を遷し奉る。この日、大神宮を装飾する。十六日に神体を遷し奉る。(注:延喜式による。)
¶その儀式は、大神宮では十五日の巳(み)の刻に、斎王がまず外川原殿院(そとかわらでんいん)に至り、腰輿(こしごし)に乗る。旧宮の門外に至って輿を下り、玉垣・瑞垣の間まで進む。女孺(にょじゅ)二人が従う。宮司が太玉串(ふとたまぐし)および縵木綿(かずらゆう)を執って、第三門で待つ。女孺一人がこれを受け取り、斎王に進める。斎王は縵木綿を身に着け、太玉串を執る。拝祭を終えて退出し、離宮(りきゅう)に帰る。十六日には、まず装束の品を祓い清め、王(おう)一人、神祇官副(じんぎかんのすけ)以上、および中臣・忌部各一人が、宮司とともに外院の太玉串所に参入する。戌(いぬ)の刻に、禰宜・内人および人垣(ひとがき)の男女らが、川に臨んで祓禊(はらえみそぎ)を行う。それぞれ明衣(あかしのきぬ)を賜る。亥(い)の刻に、装束の品を奉じて連れ立って旧宮に至り、内院の中門に入り、中臣に祝詞を読ませ、遷宮の由を奏する。終わると、中臣および宮司が装束の品を執って新宮に至り、正殿の階(きざはし)の下で待つ。この時、大物忌(おおものいみ)がまず昇り、禰宜が続いて昇り、正殿の戸を開いて、殿内の四隅に灯をともし、装束の品を差し入れて退出する。ただし使者は外の直会院(なおらいいん)に入る。宮司は人垣らを召して、絹垣(きぬがき)・蓋翳(きぬがさ)および太玉串などの品を執らせ、左右に分かれて立たせる。宮司はこれを率いて旧宮の正殿の階の下に至り、御道(みち)に布を敷く。大物忌がまず昇り、禰宜が続いて昇り、戸を開いて灯をともし、船代(ふなしろ)を開く。禰宜が御体を捧げ戴いてこれを遷し、左方の配享の神は宇治大内人(うじのおおうちんど)がこれを遷し、右方は大物忌の父がこれを遷す。禰宜が先頭に立って進み、宇治大内人・大物忌の父がこれに続き、もろもろの内人・物忌らがまたこれに続き、人垣らは絹垣を曳き蓋翳を執って、新宮の玉串門(たまぐしもん)に進み歩みを止め、鶏の鳴き声のような声を三度発する。瑞垣の門に入り至って止まり、また同様にする。そのまま階の下まで進んで止まるが、ただし中臣は玉串門に留まる。禰宜らはそのまま神体を正殿に安置し奉り、装束を御床代(みとこしろ)に進める。終わって退き、それぞれ祝詞を読む座に就き、八拝して退出し、使者もまた直会院に帰る。禰宜はもろもろの内人を率いて、由貴悠紀(ゆきゆき)の神饌を献じる。(注:大神宮儀式帳による。)度会宮では斎王の拝祭の儀はなく、殿の戸を開き船代を開くことは、すべて禰宜がこれを掌り、また鶏の鳴き声をまねることもしない。その配享の神は、大物忌・大内人がこれを遷し奉る。(注:止由気宮儀式帳による。)
¶朝夕の神饌は、毎日二回、禰宜がもろもろの物忌を率いて、御饌殿に赴いてお供えする。その儀式では、大神の座を殿内の東方に設け、豊受神およびその配享の神の座を西方に設ける(注:本記によれば、配享の神の座は一段低く設けるという)。大物忌は御炊物忌(みかしぎのものいみ)に抜穂田(ぬきほだ)の稲を炊かせ、御塩焼物忌(みしおやきのものいみ)に塩を焼かせ、志摩(しま)の御贄(みにえ)を加えて、これを捧げ持って供進する。御水は各四埦(まり)、御飯は十六具、御塩は四坏(つき)、御贄は若干であるが、配享の神にはこれに準じてその半分を減じる。供え終わると、禰宜が祝詞を奏して祈祷する。まず大神を拝し、次に豊受神を拝し、次に配享の神を拝する。それぞれ八拝して、終われば退出する。(注:止由気宮儀式帳・大同本記を参照した。)
¶年中の常祀(じょうし)は、二月を祈年(きねん)といい、四月・九月を神衣(かんみそ)といい、六月・十二月を月次(つきなみ)といい、九月を神嘗(かんなめ)という。祈年祭の幣帛使(へいはくし)が到着する日には、宮司が使者を先導して、まず度会宮に詣で、次に大神宮に詣でる。(注:延喜式による。)その儀式は、大神宮では十二日に、使者と宮司がともに外院に入り、禰宜・内人らが待つ。宇治大内人が太玉串二枝を宮司に授け、宮司は拍手してこれを受ける。禰宜は太玉串四枝を執り、宇治大内人は八枝を執り、左右に分かれて前を行き、宮司がこれに続く。幣帛を奉持する内人がこれに続き、御馬飼内人(みうまかいのうちんど)が馬を引いてこれに続き、使者がこれに続き、もろもろの内人がまたこれに続いて、第三重(だいさんじゅう)に入って祝詞を宣する版位(はんい)に至る。その東方およそ二丈のところに馬を立て、使者・宮司・禰宜・大内人は正殿に向かい、ひざまずいて版位に就く。内物忌(うちのものいみ)らは門の東西に分かれて立つ。内物忌の父四人およびもろもろの内人・物忌の父らは、西の玉垣門の内側二丈ほどに進み入り、東を向いてひざまずき座る。宮司が進み出て祝詞を読む。終われば座に就く。宇治大内人が座を立ち、宮司の執る玉串を受け取って座に戻る。禰宜は大物忌の父を召して、その玉串を受け取らせ、第三門の左に進める。禰宜はまた宮守(みやもり)・物忌の父を召して玉串を授け、門の右に進めさせる。また地祭物忌(じさいのものいみ)の父に命じて、宇治大内人の執る玉串四枝を受け取らせ、門の左に進めさせる。終われば四段拝(よんだんはい)をし、短手(みじかて)を二段打ち、一段拝をする。これを二回繰り返す。終われば退く。荒祭宮の版位に就き、四段拝をし、短手を二段打つ。終われば、使者と宮司は外の直会殿(なおらいでん)に就き、禰宜・内人は荒祭宮に向かう。宮物忌の父が鑰(かぎ)を執って先を行き、次に宮内人、次に宇治大内人が玉串四枝を執り、禰宜・大内人・もろもろの内人がこれに続いて、幣帛を正殿に進める。終われば退出する。使者と宮司は饗応を賜り、拍手を二段打ち、禄を賜る。後手(あとで)を一段打って退出し、御厨(みくりや)に就く。翌日、諸宮・諸社に幣帛を奉る。(注:大神宮儀式帳による。)度会宮でもおおむねこれに準じる。(注:止由気宮儀式帳による。)
¶神衣祭(かんみそさい)は、前月の晦日(みそか)に祓除を行い、祭月の一日から、服部氏(はとりうじ)が和妙衣(にぎたえのころも)を織り、麻績氏(おみうじ)が荒妙衣(あらたえのころも)を織る。十四日に至って、大神宮および荒祭宮に供える。その儀式では、宮司・禰宜・内人らが、服織女(はたおりめ)八人を率い、それぞれ明衣を着て玉串を執り、御衣の後に従って大神宮に入る。宮司が祝詞を読む。終わればみな再拝二段、短拍手(みじかしわで)二段、膝退(ひざしりぞき)して再拝二段、短拍手二段一拝をする。終わって退出する。そのまま荒祭宮に詣でて御衣を供えることも、前と同じ儀式による。ただし再拝二段、短拍手二段をして退出する。その祭料は、大神宮では和妙衣二十四匹、髻糸(もとどりいと)・頸玉手(くびたまて)・玉足(たまあし)・玉緒(たまお)、帒襪緒(たいべつのお)などの糸各十六条、縫糸(ぬいいと)六十四条、長刀子一枚、短刀子(みじかかたな)・錐(きり)・針・鉾鋒(ほこさき)各十六枚、糸を著けた玉串二枝、荒妙衣八十匹、刀子・針各二十枚を用いる。荒祭宮もこれに準じるが、数量は減じられる。この日、笠縫内人(かさぬいのうちんど)らが蓑笠(みのかさ)を進める。大神宮に三具、荒祭宮に一具、伊佐奈伎宮(いざなぎのみや)・月夜見宮(つきよみのみや)・瀧原宮(たきはらのみや)の三宮に各二具、瀧原並宮(たきはらのならびのみや)・伊雑宮(いざわのみや)に各一具、朝熊社(あさまのやしろ)に二具、園相(そない)・鴨(かも)・田乃家(たのえ)・蚊野(かの)・伊佐奈弥社(いざなみのやしろ)に各一具、度会宮に八具、および所属する宮ならびに社に各一具を進める。
¶月次祭は、十六日に度会宮を祭り、十七日に大神宮を祭る。その儀式は、大神宮では祭りの二日前に、御巫内人(みかんなぎのうちんど)が亥の時に第二門で琴を弾いて神の教えを請う。翌日、祓除を行う。黄昏以後、禰宜がもろもろの内人・物忌らを率いて、神の御用の雑物を並べる。終わって、亥の時に夕膳(ゆうげ)を供え、丑(うし)の時に朝膳(あさげ)を供える。禰宜・内人らが歌舞を奏する。祭りの日の明け方、斎王は外玉垣門(そとたまがきもん)の内に入り、東殿(ひがしどの)の座に就く。命婦(みょうぶ)が左右に侍し、女孺は西殿の座に就く。宮司は縵木綿を執って外玉垣門に入り、北を向いてひざまずく。命婦または女孺がこれを受け取り、斎王に進める。斎王は拍手してこれを受け取り、鬘(かずら)として身に着ける。宮司はまた太玉串を執って入りひざまずく。命婦がこれを受け取り、斎王に進める。斎王は拍手してこれを執り、捧げ持って内玉垣門(うちたまがきもん)に入り座に就き、そのまま再拝二段をする。終われば玉串を命婦に授ける。命婦はこれを物忌に取り次ぎ、物忌はこれを執って瑞垣門の西の端に立つ。斎王は元の座に戻り、その後、禰宜・宇治大内人はともに明衣を着る。宮司は当色(とうじき)の衣を着て、ともに太玉串を執る。禰宜・宇治大内人は左右に分かれて前を行き、宮司がこれに続く。次に幣帛などの雑物および馬が一列に並び、次に朝廷の使者が進んで外玉垣門に入りひざまずく。まず中臣に祝詞を読ませ、次に宮司もまた同様にする。終われば、宮司・禰宜・宇治大内人の執る太玉串を門の東西に立てる。終われば、物忌・内人らが幣帛の案(つくえ)を舁(かつ)いで瑞垣の内に入り、東の宝殿に置く。斎王およびもろもろの官人以下は、再拝して八開手(やひらで)を打ち、次に短手を打って再拝する。これを二回繰り返して、終われば退出する。使者と宮司以下は荒祭宮に詣で、再拝二段、短手二段を打ち、退いて解斎殿(げさいでん)に就き、酒食を賜る。終われば後手を一段打って、外玉垣門に入り倭舞(やまとまい)を供する。まず宮司、次に禰宜、次に大内人、次に幣帛使、次に斎宮の主神(かんづかさ)、次に寮允(りょうのじょう)以上の者一人、次に禰宜・大内人の妻の順に舞う。終われば、斎宮・女孺四人が五節舞(ごせちのまい)を供し、次に鳥子名舞(とりこなのまい)を供する。度会宮でもこれに準じる。(注:「月次」以下は二宮儀式帳を参照した。)その祭料は、二宮ともに赤引糸(あかひきのいと)、および木綿・麻・米・酒米・神酒・雑贄(ぞうにえ)などを用いるが、度会宮は数量が減じられる。
¶神嘗祭は、日取りは月次祭と同じで、儀式もまた月次祭に準じる。ただし神郡・神戸および神服織(かんはとり)・神麻続(かんおみ)らが進める懸税(かけちから)を、内外の玉垣に懸ける点が異なる。(注:「神郡」以下は二宮儀式帳を参照した。)忌部に幣帛を捧げさせ、中臣に祝詞を読ませることも異なる点である。その祭料は、大神宮では御衣、および調荷前絹(ちょうのさきぎぬ)・五色幣絹(ごしきのへいぎぬ)・門幌絹(もんとばりぎぬ)・糸・綿・布・木綿・麻・腊(きたい)・熬海鼠(いりこ)・堅魚・鰒・塩・油・海藻根(め)、米・酒米などを用いる。度会宮でもこれに準じるが、数量は減じられ、ただし御膳殿料(みけでんりょう)の絹が加えられる。二季の月次祭と神嘗祭をあわせて三節祭(さんせつさい)という(注:「節」は「時」に作る本もある)。前月の晦日を祓の日とする。その直会(なおらい)の日には、禰宜・内人・物忌らに禄をそれぞれ差をつけて賜る。祭りに供する鋪設(しつらい)の雑器や松・薪・炭の類は、すべて神戸の雑徭(ぞうよう)によって調え備えさせる。
¶祭りに供える品で、式の条文に載っていないものについては、従来通り供用し、先例を改めてはならない。(注:延喜式による。)
¶奉幣使(ほうへいし)のうち、祈年祭・月次祭・神嘗祭に奉仕する者を恒例祭使(こうれいさいし)という。その他は臨時幣帛使(りんじへいはくし)と称する。(注:三代実録・延喜式による。)神嘗祭の奉幣には、必ず八省院(はっしょういん)に行幸する。その使者は、太政官があらかじめ五位以上の王四人を選び定め、その中から卜(ぼく)によって一人を定める。大臣が奏聞して宣命を授け、神祇官・中臣・忌部とともにこれを発遣する。年中の四度の使いは、祭主(さいしゅ)がこれに供する。もし差し支えがある場合は、神祇官およびもろもろの司の官人、ならびに散位(さんい)の中臣氏で五位以上の者を充てる。五位以上の者に差し支えがある場合は、六位の者を充てることもできる。ただし斎王が初めて参入する時には、必ず五位以上の者を用いる。
¶使者に禄を賜る場合、神嘗祭の幣帛使では、四位の王には絹十二匹、五位には二匹を減じ、中臣・忌部もこれに準じる。六位以下については、中臣・忌部・卜部にそれぞれ減殺がある。祈年祭・月次祭の使いでは、六位以下は六匹、祗承(しじょう)の国司は四位で六匹、五位および掾(じょう)・目(さかん)・史生は順に一匹ずつ減じる。臨時幣帛使は、おおむね神嘗祭に準じ、祗承の国司もまた上に同じである。
¶祈年祭・月次祭の使いが参入する際には、神宮の卜部が多気河(たけがわ)で祓除(はらえ)を執り行い、もし怠りがあれば、その衣服を奪う。駅使(えきし)が神宮の境界に入るときは、飯高郡(いいたかぐん)下樋小河(しものひおがわ)に至って鈴の音を止める。(注:延喜式による。)後には特に神嘗祭の使いを例幣使(れいへいし)と称した。王および中臣・忌部・卜部からこれを選ぶことから、また四姓使(ししょうし)とも称した。臨時幣使には、特に公卿一人を加え、公卿勅使(くぎょうちょくし)といった。(注:江家次第(ごうけしだい)、二十二社本縁を参照した。)公卿が使者に充てられる場合は、斎戒(さいかい)潔沐(けつもく)して、僧尼や穢れに接せず、その家には仏像・仏具を置いてはならない。(注:長治二年伊勢奉幣使記・治承元年公卿勅使記による。)
¶神領(しんりょう)の制度については、崇神・垂仁の二朝において、皇女に大神を鎮める地を求めさせた。その経巡った紀伊・吉備・大倭(やまと)・伊賀・近江・美濃・伊勢などの国造(くにのみやつこ)が神地を献じた。川俣(かわまた)・安濃(あの)・壱志(いちし)・飯高・佐奈(さな)などの県造(あがたのみやつこ)もまた神田・神戸を奉り、いずれも神邑(かんむら)として収められた。宮地が定まってからは、御贄地(みにえち)を志摩に置き、湯貴潜女(ゆきのかづきめ)を定め、さらに磯部河(いそべがわ)以東を区画して神国(しんこく)とし、国造を置いてこれを管掌させた。(注:大神宮儀式帳・倭姫命世記による。「更劃」以下は大同本記による。)孝徳天皇(こうとくてんのう)の改新に際して、度会郡(わたらいぐん)として立てられた。まもなくその十郷を分けて、度会山田原屯倉(わたらいやまだはらのみやけ)を置き、十郷をもって竹村屯倉(たけむらのみやけ)を置いた。天智天皇(てんじてんのう)は多気郡(たけぐん)の四郷を割いて公郡(こうぐん)とし、飯野高宮村屯倉(いいのたかみやむらのみやけ)を立てた。(注:大神宮儀式帳、大同本記を参照した。)これより、永く度会・多気の二郡を神郡(しんぐん)とした。(注:令集解(りょうのしゅうげ)・類聚三代格による。)その神郡および神田・神戸は、大神宮司がこれを総轄した。(注:大神宮儀式帳・延喜式・類聚三代格による。)
¶大宝(たいほう)二年、詔して、「神宮の封物(ふもつ)は、これ神の御物である。神事に供するのに準じて、みだりに穢すことのないようにせよ」とされた。また勅して、「神宮の服料には、神戸の調(みつぎ)を用いよ」とされた。(注:続日本紀による。)
¶神亀(じんき)年間、神宮の封戸(ふこ)で志摩(しま)にあるものは、課丁(かちょう)がおよそ百三十人であった。(注:東大寺正倉院文書による。)
¶宝亀(ほうき)五年、「寺田・位田(いでん)および他郡百姓の口分田(くぶんでん)で神郡にあるものは、すべて他郡のものに改め授けよ。ただし禰宜(ねぎ)・祝(はふり)の位田は、この限りではない」と制した。(注:神宮雑例集による。)また「神郡から逃亡した百姓の口分田の地子(じし)は、従来は正税に混同されていたが、今後は神税として収めるべきである」と制した。(注:類聚三代格による。)六年、使いを遣わして度会郡の堰(せき)・溝を修理させ、あわせて多気・度会二郡の耕地を検分させた。十一年、神封(しんぷう)千二十三戸を、もとのままに復した。(注:続日本紀による。)
¶延暦(えんりゃく)二十年、伊勢国司が、「神郡司(しんぐんし)らは、神事にかこつけて、しばしば調(ちょう)・庸(よう)・租税を怠っております。神域の外でこれを罰していただきたい」と申し出た。これが許された。(注:類聚国史・類聚三代格による。)この年、神宮の封戸を改め減らさないという制度が定められた。二十四年、宮司が、「大神宮は天下の貴い社であります。しかるに今、国司らは諸社に準じて、その用帳を検分し、その神物を封収しております。これは穏当を欠くことであります。旧例により停止していただきたい」と申し出た。これに従った。(注:類聚三代格による。)
¶大同(だいどう)元年、大和(やまと)・伊賀・伊勢・志摩・尾張(おわり)・参河(みかわ)・遠江(とおとうみ)の神封を千百三十戸と定めた。(注:新抄格勅符(しんしょうきゃくちょくふ)による。)
¶弘仁(こうにん)三年、勅して、「度会・多気および飯高(いいたか)・飯野(いいの)など七郡の神戸の百姓らは、正税(しょうぜい)の徴収に関わって、しばしば処罰を受け、すでに斎事(いつきごと)を乱し、あるいは逃散するに至っている。そこで昔年、出挙(すいこ)を停止した。しかしそれ以後、富民から借り求めるようになり、その返済に至っては、利息を数倍にも課している。借りる者には罪があり、返す者は疲弊している。明年より、神税の他に、正税十三万三千束を出挙し、その利息をもって斎宮(さいくう)の用にあてるべきである」とされた。(注:類聚国史による。)六年、本国の神税の余りが甚だ少ないため、他国の神税を移送させて年中の雑用にあてる制度を定めた。七年、旧制により、神郡での正税の出挙および処罰の事を停止した。八年、国司の申請により、神郡の雑務を宮司に付し、神社九十三座、溝十一か所、池八か所、駅家(えきや)一か所、正倉三宇、官舎三十八宇を修理させ、桑・漆二十一万八千七百九十六本を植えさせ、あわせて百姓の訴訟を裁かせた。十二年、神祇官が、「これまでの先例では、宮司が神郡の田租および七か所の神戸の田などの租を検分して収納し、祭祀の用にあてることが、従来からの慣例であった。しかしその間、国司がその検納に関与するようになり、年中の祭祀に用いる稲はおよそ四万一千百九十束一把である。今、他国の神戸百三十一烟(えん)から輸される租は五千二百五十束であり、例年の用途を除くと、残りはわずか千五百八十五束である。また本国から出る租三万五千束を、ともにこれにあてているが、なお不足する稲四千六百五十束は、正税を借りて補っている。輸される租を割いても、すぐにこれを補塡することになる。そして毎年、残りの封物の納入が煩わしいものとなっているので、国司の関与を停止していただきたい。宮司に旧に依って検納させ、あらかじめこれを支出用度にあて、その祭事を弁じさせるべきである。ただし正税を借りて不足を補うことは、永く停止すべきである」と申し出た。勅して、「申請の通りとせよ」とされた。(注:類聚三代格による。)
¶承和(じょうわ)十二年、勅により斎宮寮(さいくうりょう)の頭(かみ)・助(すけ)に神宮および神郡の雑務を検校させ、これを恒例とした。(注:続日本後紀による。)
¶貞観(じょうがん)二年、大和・伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江などの国司が、「延暦の格(きゃく)によれば、『神宮の封戸は、改め減らす限りではない』とあります。しかるに管下の百姓が申すには、『神戸に死者が出た場合、実情に依って除帳すべきであるのに、国司はこれを検し返して除帳せず、名ばかりで実がない状態になっている。丁数がすでに五、六丁を超えているのに、国司はこれを除丁と称して官戸に分け付し、みな課役を徴している。もし遅滞すれば処罰を受ける』とのことであります。その実情はまことに憐れむべきものであります。神宮の封丁に余剰があるとしても、永く改め減らすことのないようにしていただきたい」と申し出た。勅して、「これに従え」とされた。(注:類聚三代格による。)宇多天皇(うだてんのう)の御代、一代に限って伊勢の飯野郡を奉らせた。醍醐天皇(だいごてんのう)の即位に及んで、永く神地として奉ることとなった。(注:類聚三代格・延喜式による。)先に定められた度会・多気の二郡とあわせて、三神郡(さんしんぐん)と称した。(注:類聚三代格による。)後には道後三郡(どうごさんぐん)といった。度会郡は四百四十七戸、多気郡は三百十五戸、飯野郡は二百十戸である。(注:神宮雑例集による。)この年、宮司が、「国には検非違使(けびいし)があるとはいえ、卜食(ぼくじき)の者でなければ、神郡に立ち入ることはできません。そのため神郡の百姓は、しばしば法禁を犯しております。神民の中で事に精通した者を選んで、使いとして糾察にあてていただきたく存じます。ただし俸料は給せず、大内人(おおうちんど)に準じて笏(しゃく)を把って事にあたらせます」と申し出た。これが許された。(注:類聚三代格による。)
¶延喜(えんぎ)の制では、神田(しんでん)は大和の宇陀郡(うだぐん)、伊賀の伊賀郡、伊勢の桑名・鈴鹿・安濃・壱志・飯高・飯野・度会の七郡にあり、あわせて三十六町一段である。そのうち度会郡の田五町四段を割いて、本郡の郡司に耕作させ、収穫した苗子(なえこ)を、大神宮の三時(さんじ)の祭りおよび度会宮の朝夕の御饌に供用させる。その他は、当地の相場に応じた賃租(ちんそ)によって、祭料にあてる。本国にある神戸は、三神郡のほかに、飯高・壱志・安濃・鈴鹿・河曲(かわわ)・桑名の六郡にあわせて百五十二戸、大和・伊賀・志摩・尾張・参河・遠江にあわせて二百一戸である。その調・庸などの雑物は、すべて宮司が検分して領収し、規定通りに供用する。ただし本国の地租(ちそ)は、所在の官舎に収納し、必要に応じて支出する。三神郡ならびに六か所の神戸、および諸国の神戸の調・庸・田租については、国司が移送する調文(ちょうもん)・租帳などにより、宮司が検分して納入する。その検納の状況は、国司に付して主計(かずえ)・主税(ちから)の二寮に移送する。三神郡ならびに六か所の神戸、および諸国の神戸については、正税を出挙(すいこ)しない。三神郡および神戸の百姓は、出身(しゅっしん)の例にあずかることができない。ただし蔭(おん)によって出身する者は、そのまま神宮に置く。その上日(じょうにち)の行事は神祇官に送るが、みだりに内外の官に任じてはならない。封戸の仕丁(しちょう)は、大神宮に三人、豊受宮に二人、別宮に各一人、御厨に十六人、斎宮に四十八人、祭主に十人である。三神郡において田の損傷を検分して班給できない田を定めたり、計帳(けいちょう)における疫死などの事務を行ったりする場合には、宮司と国司がともにこれを行う。郡を隔てて田を授ける場合は、一か所に混ぜて給する。雑務は度会郡宇治郷から始めて行う。国司はまず名簿を移送し、卜食(ぼくじき)の者が政務に従事する。もし朝廷の使者が来た場合には、まず神郡の境界の外に留め、卜食の後に入れる。そうでなければ境界の外で事を行う。神社の溝・池・堰、駅家、官舎が、もし破損したり、桑・漆などが植栽されていなかったりする場合には、いずれも宮司の解由(げゆ)を差し止める。(注:延喜式による。)
¶天慶(てんぎょう)三年、本国の員弁郡(いなべぐん)二百戸を奉り、また尾張・参河・遠江に各十戸を奉った。(注:新抄格勅符・大神宮雑事記・神宮雑例集による。雑事記は四年の事としているが、おそらく誤りであろう。)
¶応和(おうわ)二年、三重郡(みえぐん)二百一戸を奉った。(注:日本紀略・神宮雑例集による。)
¶天延(てんえん)元年、さらに安濃郡(あのぐん)三百八十九戸を奉った。(注:神宮雑例集・類聚符宣抄・日本紀略による。)
¶寛仁(かんにん)元年、朝明郡(あさけぐん)を奉った。先に奉った三重・安濃の二郡とあわせて、道前三郡(どうぜんさんぐん)と称した。(注:神宮雑例集・類聚符宣抄・左経記による。雑例集は三年の事としているが、おそらく誤りであろう。)
¶長暦(ちょうりゃく)元年、参河・近江・美濃・上野(こうずけ)に各二十五戸を加えた。(注:扶桑略記・神宮雑例集・大神宮雑事記による。雑例集・雑事記はいずれも二年の事としている。)
¶永承(えいしょう)三年、さらに尾張・近江・美濃・信濃に各二十五戸を奉った。
¶文治(ぶんじ)元年、飯高郡および尾張・参河・遠江に各十戸を奉った。
¶初め垂仁朝(すいにんちょう)において、諸国の国造・県造らが献じた神戸を本神戸(ほんかんべ)といった。天慶年間に朝廷が新たに奉ったものを新神戸(しんかんべ)と称した。この頃さらに加えられたものを新加神戸(しんかかんべ)と称した。あわせて四百十三戸、二十一か所に散在し、七か国にわたっている。御厨(みくりや)・御園(みその)と称するものも、また四百五十余か所ある。三百余か所は本国にあり、残りは諸国にある。歴代の朝廷が奉ったものは、これほど豊かであった。(注:神宮雑例集による。)しかし当時、兵乱の後、天下の武人が神邑(かんむら)を略奪し、担当の役所もあるいは事にかこつけて神税を輸(おく)らない有り様であった。源頼朝はやや制度を整えたとはいえ、昔のようにはできなかった。(注:東鑑による。)
¶これより先、天暦(てんりゃく)年間、宮司大中臣中理(おおなかとみのなかまさ)が員弁郡の田三町を外宮に献じ、常供田(じょうくでん)とした。(注:大神宮例文による。)永久(えいきゅう)年間、平景政(たいらのかげまさ)もまた相模(さがみ)の大庭御厨(おおばのみくりや)を内宮に献じた。(注:東鑑・神鳳抄(じんぽうしょう)による。)この頃に至って頼朝は神宮を崇め奉り、武蔵(むさし)・大河土(おおかわど)・安房(あわ)・東条(とうじょう)などの御厨を外宮に献じ、武蔵・飯倉(いいぐら)の御厨を内宮に献じた。その子頼家(よりいえ)はさらに駿河(するが)の方上御厨(かたかみのみくりや)を内宮に献じた。平政子(たいらのまさこ、北条政子)は本国の安示(あじ)・井後(いのしり)の二村を内宮に、葉若(はわか)・西園(にしその)の二村を外宮に献じた。(注:東鑑による。)いずれも敬神の意から出たこととはいえ、神宮が私的な幣帛を禁じる制度は、これによって永く廃れてしまった。
¶別宮(べつぐう)の制度については、大神宮の別宮を荒祭宮(あらまつりのみや)といい、また大神宮荒魂宮(あらみたまのみや)とも称し、大神宮の北二十四丈にある。大神の荒魂(あらみたま)を祀り、鏡を神体とする。(注:大神宮儀式帳・延喜式による。)
¶伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)は二座からなり、大神宮の北三里にある(注:今は中村にある)。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀り、鏡を神体とする。(注:延喜式による。神体は倭姫命世記による。)奈良朝に祝(はふり)を定め、当初は月読宮(つきよみのみや)の院内にあった。(注:大神宮儀式帳による。)宝亀三年、月読荒魂命(つきよみのあらみたまのみこと)とともに官社に列せられた。(注:続日本紀による。)仁寿(にんじゅ)二年、風水の難があって神殿が倒壊したため、宇治郷(うじごう)川原里(かわらのさと)に遷し建てられた。斉衡(さいこう)二年に至って、神体を遷し奉った。(注:神名秘書・大神宮雑事記による。「川原里」は大神宮年中行事を参照した。)貞観九年、社を陞(のぼ)せて宮とし、月次祭にあずかることとなった。(注:三代実録による。)翌年、神殿を重ねて修理し、その旧来の規模を拡大したが、伊弉冉宮(いざなみのみや)は旧のままとした。(注:神名秘書・神祇本源による。)
¶月読宮(つきよみのみや)は二座からなり、大神宮の北三里にある(注:今は伊佐奈岐宮の東にある)。月夜見尊(つきよみのみこと)および荒魂命(あらみたまのみこと)を祀る。(注:大神宮儀式帳・延喜式による。「魂」は「御玉」に作る本もある。)月夜見尊の神体は、男装で馬に騎り、紫の衣を著け、金装(こんそう)の刀を佩(は)いている。荒魂命は鏡を神体とする。(注:大神宮儀式帳・倭姫命世記による。)宝亀三年、神の祟りがあったため、毎年九月、荒祭神(あらまつりのかみ)に準じて馬を奉り、また荒魂命を官社に列した。(注:続日本紀による。)仁寿二年、水害があった。伊佐奈岐社とともに宇治郷川原里に遷し建てられた。斉衡二年、神体を遷し奉った。(注:神名秘書・大神宮雑事記による。「川原里」は大神宮年中行事を参照した。)翌年、神殿を改造し、規模を拡大した。ただし荒魂宮は旧のままとした。(注:神名秘書・神祇本源による。)
¶瀧原宮(たきはらのみや)は、大神宮の西九十里(注:儀式帳には九十二里に作る)、伊勢・志摩の境にある(注:今は野尻村にある)。鏡を神体とし、これを大神の遥宮(とおのみや)とする。(注:大神宮儀式帳・延喜式による。)倭姫命が初めて大神をここに奉安した際、大宇禰奈(おおうねな)に宮地を定めさせた。(注:倭姫命世記による。)本社はおそらくその名残であろう。貞観十三年、宮が火災に遭った。内人に大祓(おおはらえ)を科して職を解いた。延喜十七年、宮内の神館(かんだち)に死の穢れが生じた。そのため内人らに中祓(なかはらえ)を科した。正殿および神館を三町以外の場所に遷した。
¶瀧原並宮(たきはらのならびのみや)は、瀧原宮の敷地内にある(注:按ずるに、本宮は瀧原宮の西に並び立っているため、並宮の称がある)。鏡を神体とする。大神の遥宮である。(注:延喜式による。神体は倭姫命世記による。)
¶伊雑宮(いざわのみや)は、大神宮の南八十三里、志摩(しま)答志郡(たうしぐん)伊雑村(いざわむら)にある(注:今は磯部村にある)。鏡を神体とし、大神の遥宮と称する。(注:大神宮儀式帳・延喜式による。)神亀六年、志摩の神戸には課丁六人があった。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、志摩の封戸を二戸と定めた。(注:新抄格勅符による。)延喜の制では、荒祭・伊佐奈岐・月読・瀧原の四宮は、いずれも大社に列せられ、四度の官幣および神嘗祭にあずかった。荒祭宮はあわせて神衣祭にもあずかった。瀧原並宮・伊雑宮の二宮は、ともに官の帳簿には列せられず、ただ祈年祭・神嘗祭にのみあずかった。安徳天皇(あんとくてんのう)の御代、熊野の僧徒が伊雑宮を侵し、神殿を毀損し、神宝を掠奪した。神体を内宮に移した。(注:神祇本源・元元集による。)
¶風宮(かぜのみや)については下に詳しく述べる。
¶度会宮の別宮を多賀宮(たかのみや)といい(注:「多賀」は「高」に作る本もある)、度会宮の南六十丈にある。(注:延喜式による。)豊受大神(とようけのおおかみ)の荒魂を祀る。(注:止由気宮儀式帳・延喜式による。)延喜の制では、大社に列せられ、四度の官幣および神嘗祭にあずかった。(注:延喜式による。)後に月夜見(つきよみ)・土(つち)・風(かぜ)の三宮が加えられ、四所別宮(ししょのべつぐう)といった。(注:神祇本源・元元集による。)これもあわせて下に見える。
¶斎宮(さいくう)は、多気郡多気郷(たけごう)にある。(注:神宮雑例集による。)崇神天皇は皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に大神を奉らせ、宮地を求めさせた。垂仁天皇の即位に及んで、皇女倭姫命に代えさせ、これを御杖代(みつえしろ)と称した。おそらく先導し扶助するという意味を取ったものであろう。景行天皇以来、もろもろの皇女が相継いで奉仕し、推古天皇(すいこてんのう)の御代に至って途絶えた。(注:「景行」以下は一代要記・斎宮記を参照した。)
¶天武天皇はさらに大来皇女(おおくのひめみこ)に神宮に仕えさせた。まず泊瀬(はつせ)の斎宮に居て、斎戒潔沐(さいかいけつもく)した後、伊勢に向かわせた。(注:日本書紀による。)これが斎内親王(いつきのないしんのう)であり、また斎王(さいおう)とも称され、ついに永世の法となった。そして御杖代の名も、また廃れなかった。(注:「而」以下は三代実録・台記(たいき)・玉海(ぎょくかい)による。)
¶天皇の即位に際しては、まず斎王を立てる。内親王で未婚の者を選んで卜(ぼく)によって定める。もし内親王がいなければ、世次(せいじ)に依って女王(にょおう)を選び定める。使いをその家に遣わして、その事を告げる。神祇祐(じんぎのじょう)以上の者一人が僚属を率いて、使いとともに至る。卜部が解除(はらえ)を行う。神部(かんべ)が木綿(ゆう)を付けた賢木(さかき)を殿の四面および内外の門に立てる。その後、日時を選んで、百官が大祓を行う。使いを大神宮に遣わしてこれを告げる。そこで宮城内の便利な場所を卜定して、初斎院(しょさいいん)を定める。斎王は日時を選んで禊(みそぎ)を修め、そこに入って居り、斎戒潔沐する。翌年七月に至って、さらに城外の浄地を卜し、野宮(ののみや)を造る。八月上旬、吉日を卜定し、川に臨んで祓禊を行い、そこに入る。さらに潔斎して翌年八月に至る。九月上旬、日を卜して禊を行い、伊勢の斎宮に入る。
¶斎王が初斎院(しょさいいん)に入るにあたっては、川に臨んで祓を行う。その儀式は、禊の二日前に、弁官(べんかん)が院別当(いんのべっとう)以下、および陰陽寮・もろもろの司を率いて、川に到り場所を定める。当日、斎王は車に乗って出発し、走孺(はしりわらわ)十二人、車副(くるまぞい)二十四人、執物(とりもの)十人が従う。供膳(くぜん)の韓櫃(からびつ)三重、供膳の雑器物三荷、盥器(たらいうつわ)・装物(よそおいのもの)・衣服・禄物などの韓櫃十重を用意する。膳部(かしわでべ)六人、舎人(とねり)二人、荷領(にとり)十四人、蔵人所(くろうどどころ)の陪従(ばいじゅう)六人、内侍(ないし)および院の女別当以下が、いずれも車の後に従う。勅使・参議・院別当各一人、四位・五位各二人、六位四人が、いずれも前駆(ぜんく)をつとめる。左右近衛(このえ)・兵衛(ひょうえ)・門部(かどべ)がそれぞれ各二人、左右の火長(かちょう)各十人が供奉する。左右京職(きょうしき)の官人が兵士を率いて出迎える。山城国司は郡司を率いて京極路(きょうごくろ)に候し、弁・史各一人、史生二人、官掌一人が、供奉のもろもろの司を率いて、禊所において行事する。斎王は幕の下に到り、川の流れに臨んで禊をする。神祇官の中臣が麻を進め、宮主(みやじ)が祓詞(はらえことば)を読む。終われば、すぐに勅使以下に饌(せん)と禄を賜る。それが済むと初斎院に還り入り、供膳の井戸を卜定し、賢木(さかき)を立てる。まず大殿祭(おおとのほがい)を修め、次に忌火(いみび)・庭火(にわび)・御竈(みかまど)・井の神を祭る。毎月一日に庭火祭を行い、晦日(みそか)に祓除を行う。斎院には、別当(べっとう)五位二人(注:一人は命婦(みょうぶ))、中臣・忌部・宮主・内舎人(うどねり)各一人、大舎人(おおとねり)二人、宮舎人(みやとねり)十人、膳部・殿部各三人、炊部(かしぎべ)一人、水部三人、酒部一人、掃部(かにもりべ)三人、采女(うねめ)・内女孺(うちのにょじゅ)各二人、乳母三人、宮女孺十四人、戸座(こざ)一人(注:山城愛宕郡(おたぎぐん)鴨県主氏(かものあがたぬしうじ)の童子を用いる)、火炬小子(ひたきわらわ)二人(注:山城葛野郡(かどのぐん)秦氏(はたうじ)の童女を用いる)、今良(こんりょう)四人、壮丁(そうてい)十二人、女丁(にょてい)八人を置く。もし野宮(ののみや)に遷る場合は、神部四人(注:中臣・忌部各二人)、卜部三人、洗人(あらいびと)・厠人(かわやびと)各二人を加え、内舎人・大舎人・宮舎人・炊部・酒部・采女・女丁もそれぞれ増員する。野宮に遷る際にも、水に就いて禊を受ける。
¶その儀式では、斎王は輿(こし)に乗る。輿長(こしのおさ)八人、駕輿丁(かよちょう)四十人、駕馬女(のりうまめ)二十人、勅使は大納言・中納言各一人、参議二人、四位・五位各四人がつとめる。禊(みそぎ)の事が終わると、饌(せん)と禄を賜る。終わって帰り、そのまま野宮(ののみや)に遷り、さらに禄を賜る。その他は前の禊と同様である。斎王は野宮において、祈年祭・月次祭・鎮火祭(ちんかさい)・道饗祭(みちあえのまつり)・新嘗祭のもろもろの祭祀、および夏・冬の季月の大祓を修める。(注:野宮の祈年祭・月次祭の二祭では、いずれも大宮売神(おおみやのめのかみ)四座、御門神(みかどのかみ)八座、忌火神(いみびのかみ)・庭火神(にわびのかみ)各一座、竈神(かまどのかみ)・御井神(みいのかみ)各二座、地主神(じしゅのかみ)一座、あわせて十九座を祀る。新嘗祭ではさらに炊殿(かしきどの)の忌火神・庭火神二座、水部(もいとりべ)の忌火神・庭火神二座、殿部(とのもりべ)の御竈神・御川水神(みかわのみずのかみ)・酒殿神(さかどののかみ)、膳部の御食神(みけのかみ)、大炊竈神(おおいのかまどのかみ)各一座を加えて、二十八座となる。)その他の祭祀は上に準じる。
¶斎王が京に在る三年間は、毎月一日に木綿鬘(ゆうかずら)を著けて斎殿(いつきどの)に参入し、大神を遥拝する。別当・大夫以下の卜食(ぼくじき)の者は、ともに再拝二段をする。ただし九月・六月・十二月には参入しない。十六、七日に至って参入し、再拝二段、長拍手(ながしわで)二段をするが、斎王は拍手をしない。斎王が大神宮に入るにあたっては、四月上旬に装束司(そうぞくし)を選び任じる。五位二人(注:神祇副(じんぎのすけ)以上一人、右少弁(うしょうべん)以上一人)、六位以下四人(注:諸司の主典(さかん)以上)、諸司の史生六人、雑使十人、雑工四十人、共作女孺(ともにつくるにょじゅ)各二十人、直丁(じきちょう)二人が、神祇官の西院で事にあたる。五月以前に、斎宮寮の官人および主神司(かんづかさ)を選び任じる。七月以前に、その他のもろもろの司を選び任じる。寮允(りょうのじょう)・史生各一人を斎宮および国に遣わし、雑事を弁備する。七月あるいは八月、大祓使(おおはらえし)を左右京・五畿・七道に各一人遣わす。
¶八月晦日(みそか)、宮中で大祓を行う。九月一日から三十日まで、京畿(けいき)および伊勢・近江などの国では、北辰(ほくしん)への奉燈(ほうとう)、および挙哀(こあい、死者を悼む儀礼)・改葬(かいそう)を禁じる。期日に至って、斎王は川に臨んで禊を修めること、前の儀式と同様である。所司はあらかじめ大極殿(だいごくでん)の後殿に御座(ぎょざ)を設け、天皇がそこにおいでになる。警蹕(けいひつ)は行わない。神祇官の五位の中臣が御麻(みぬさ)を進め、史(し)一人が侍従の五位以上に麻を頒(わか)つ。時刻になって天皇の御座が正殿に移り、斎王が入って殿上の座に就くと、天皇は自ら小櫛(おぐし)を斎王の額の上に加えて、「再び京に向かうな」と戒められる。(注:「親加」以下は江家次第による。)終わると、そのまま出発する。
¶その野宮の内外の屋および垣の類は、神祇官の中臣に給する。出居殿(いでいどの)の御座・装束の類は、主神司(かんづかさ)の中臣に給する。寝殿内の雑物は、主神司の忌部に給する。ただし金銀の器および釜甕(かまかめ)の類は、斎王の家に納める。あらかじめ監送使(かんそうし)を定め、参議あるいは中納言、弁・史・六位以下の官各一人があたる。また神嘗祭使(かんなめさいし)に陪従して参入させる。その他、斎宮の官人で従行する者は甚だ多く、これを斎王群行(さいおうぐんこう)という。(注:「謂之」以下は江家次第による。)その道中の宿泊地は、近江国府(おうみこくふ)・甲賀(こうか)・垂水(たるみ)、伊勢の鈴鹿・壱志、あわせて五か所で、いずれも頓宮(とんぐう)を置く。まず中臣一人を近江・伊勢に遣わして祓い清める。斎王が道中にあって、山城・近江・伊勢などの境、および勢多(せた)・鈴鹿・下樋(しものひ)・多気(たけ)のもろもろの川を過ぎるごとに、神部・卜部各二人を遣わして、先に鎮め祓わせる。斎王もまた禊を行う。斎王は斎宮において、祈年祭・月次祭・新嘗祭・鎮火祭・道饗祭・大殿祭・御贖(みあがない)・大祓および忌火祭・庭火祭などを修めることは、京に在った時と同様である。(注:斎宮の祈年祭で祀る神は百十五座であり、そのうち大社十七座、大宮売神四座、御門神八座、御井神・卜庭神(うらにわのかみ)各二座、地主神一座は、いずれも斎宮の内にある。その他の小社九十八座は、多気・度会の二郡にある。)
¶元日には、斎王が大神宮を遥拝する。終われば宮の南門を開く。寮頭(りょうのかみ)以下が門外で拝賀する。三日には、宮司らが拝賀し、皆に禄を賜る。三節祭(さんせつさい)には、水に就いて禊を修め、自ら二宮を祭る。
¶斎宮は、内院・中院・外院の三院に分かれる。内院は、斎王がそこに居り、神殿もそこにある。中院は、斎宮寮の所在地で、寮頭もそこに居る。外院は、屋が五、六十宇あり、すなわち主神司(かんづかさ)および十二司の官舎である。いずれも垣と堀で囲まれている。(注:「分為」以下は新任弁官抄(しんにんべんかんしょう)を参照した。)諸門には、常に木綿(ゆう)を付けた賢木(さかき)を立て、毎月これを取り替える。内院の神殿は、主神司が専らこれを謹んで守る。もし破損させれば、その俸料を奪う。内院およびもろもろの司の雑舎は、造宮使(ぞうぐうし)の工事が竣工した後、寮官が季節ごとに巡検する。もし居住する官人が損壊させれば、その俸料を奪う。寮官が怠って巡検を怠れば、譴責の法もまた諸司と同様である。中重(なかのえ)の庭は、もろもろの司に毎月末に掃除させ、寮官が順に巡検を加える。もし怠慢があれば、譴責は上の条と同様である。堀・溝の四辺には、松・柳を並べ植え、大垣の周辺および大庭などの掃除を、門部司(かどべのつかさ)に監守させる。もし樹木を折り損じたり、掃除を怠ったりすれば、その官人を責めることも、また上の条と同様である。
¶斎宮が破損した場合は、国司がこれを修理する。もし破損が甚だしい場合は、あらかじめ使いを遣わして修造させる。斎宮寮の官舎は、宮司に命じて修理させる。仕丁(しちょう)四十八人のうち六人を、寮および厨家(くりや)の造営の料に分け充てる。寮官一人がもっぱらその事を管掌し、功物(こうもつ)を検分して納入する。破損の程度に応じて、修理を加える。その立用帳(りちようちょう)は、寮吏の判を請う。もし小さな破損を修理せず、みだりに大きな損害に至らせた場合は、勾当(こうとう)の官人を処罰する。ただし尋常でない異常な損害に至った場合は、その都度申請して処分する。神戸の百姓百三十二人を、番を分けて斎宮の守衛にあたらせる。
¶斎王が斎宮に到った初年は、正税(しょうぜい)七百束を割いて、年料の膳に供用する。当郡は毎月これを搗(つ)いて寮家(りょうけ)に送る。翌年からは供田(くでん)の稲を用いる。その供田は二町(注:一町は多気郡に、一町は度会郡にある)、外供田(げくでん)は四町(注:三町は多気郡に、一町は飯野郡にある)、墾田(こんでん)は二十七町八段百十七歩(注:十七町七十一歩は多気郡に、十町八段三十六歩は飯野郡にある)である。その他の供田の地子稲(じしとう)は、検分して寮家に納入し、御用の不足分に充てる。墾田は郷土の相場に準じた賃租(ちんそ)によって、寮家の雑用に充てる。また度会郡二見郷(ふたみごう)の磯部氏(いそべうじ)の童男を取って、卜(ぼく)によって戸座(こざ)とする。炬火(たいまつ)は当郡の童女を卜によって用いる。ただし喪に遭ったり成長したりした場合は、すぐに交代させる。
¶斎宮の言葉には、忌み避けるものがある。仏を中子(なかご)といい、経を染紙(そめがみ)といい、塔を蘭阿良良岐(あららぎ)といい、寺を瓦葺(かわらぶき)といい、僧を髪長(かみなが)といい、尼を女髪長(めのかみなが)といい、斎(とき、僧の食事)を片膳(かたじき)というのを、内七言(うちのななこと)という。死を治奈保留(なおる)といい、病を息夜須美(やすみ)といい、哭(な)くことを塩垂(しおたる)といい、血を汗阿世(あせ)といい、打つことを撫(なで)といい、宍(しし、肉)を菌(くさびら)といい、墓を壌(つちくれ)というのを、外七言(そとのななこと)という。その他の忌み言葉には、堂を香燃(こうたき)といい、優婆塞(うばそく)を角筈(つのはず)という。雑色人(ぞうしきにん)以上の者で、人と殴り合いの喧嘩をした者には、上祓(じょうはらえ)を科す。寮官・諸司および宮中の男女で、仏事を修めたり、密かに姦通・密婚したりした者には、中祓(なかはらえ)を科す。
¶斎王が京に還るべき場合は、使いを遣わして幣帛を奉ること、初めの時と同様である。もし国の喪(こくあい、天皇の崩御)や親の喪に遭った場合は、中臣一人を遣わして事情を告げ、幣帛は奉らない。その奉迎使(ほうげいし)は、五位・六位各一人を遣わし、近江・伊勢の境で祗候(しこう)させる。また弁一人が史生・官掌各一人を率いて斎宮に至り、出発・帰還を検校する。斎王の衣服・輿輦(よれん)の類は、官がそのまま使いに付して送り、いずれも境において脱ぎ替える。衣服の類は忌部に給し、輿輦の類は中臣に給する。また各々に鞍馬(あんば)一疋を加える。その頓宮(とんぐう)および供給は、国に向かう時の例に準じる。もし事故に遭って還る場合は、最初に入った道を用いない。斎王が京に還ると、あらゆる雑物は、寮官以下および近宮の百姓らに分け給する。寝殿の物品は忌部に給し、出居殿(いでいどの)の物品は中臣に給する。ただし金銀の器は斎王の家に納め、また幃幄(いあく)・釜甕(かまかめ)の類で長く用いるべきものは、すべて国司に付してこれを収め掌らせる。(注:延喜式による。)
¶初め大宝元年、斎宮司(さいくうし)を陞(のぼ)せて寮(りょう)とし、属官(ぞっかん)は長上(ちょうじょう)に準じた。(注:続日本紀による。)寮官には、頭(かみ)・助(すけ)・大少允(だいしょうじょう)・属(さかん)があり、斎宮の事務を管掌する。その下には、舎人・蔵部(くらべ)・膳部・炊部・酒部・水部・殿部・掃部・采部(うねめべ)・薬部・門部・馬部などの十二司が属する。また主神司(かんづかさ)があり、専ら祭祀・祓禊などの事を掌る。(注:延喜式・令集解・簾中抄(れんちゅうしょう)・拾芥抄(しゅうがいしょう)による。)その沿革は職官志に記す。
¶天平二年、「今後、斎宮の年料は、すべて官物を用い、神戸の調・庸を用いてはならない」と制した。
¶延暦十一年、「旧例では斎王が禊を行う費用は、神郡が供給していたが、今後はこれを停止する。斎宮寮にすべての事を備えさせる。その費用は、稲二百四十束を、正税を割いて寮家に送る。また神郡の百姓が例年進めていた斎宮寮の年料の芻(まぐさ)三千余斤も、以後はこれを停止する。神戸にこれを刈らせる。その食糧は正税を充てる。いずれも永久の例とする」と制した。(注:類聚三代格による。)
¶天長(てんちょう)元年、斎宮が神宮から遠く隔たり、何かと不便であるとして、離宮院(りきゅういん)の地を卜定し、そこに移し建てて常設の斎宮とした。(注:類聚国史・続日本後紀による。)
¶承和六年、斎宮が火災に遭い、官舎百余宇を焼いた。そこで多気(たけ)の宮地を卜定し、再び常設の斎宮とした。(注:続日本後紀による。)
¶元慶(がんぎょう)五年、伊勢の正税稲一万束を割いて宮司に付し、毎年これを出挙(すいこ)し、その利息で斎宮の雑舎を修理させた。七年、斎王の野宮(ののみや)を造営する夫(ふ)の数を減じ定めた。旧来は工(こう)三千十五人、夫一万五百四十五人であったが、今は工千四百六十五人半、夫五千二百七十二人半と定めた。これより先、木工権大允(もくのごんのだいじょう)内蔵朝臣有永(くらのあそんありなが)が申し出て、「謹んで先例を検するに、『畿内および近江・美濃・丹波(たんば)・但馬(たじま)・播磨(はりま)などの国から徴発する役人は、それぞれ十日とする』とあります。しかるに右弁官(うべんかん)の宣(せん)には、『事を済ませる道は、公平を第一とする。支度の程度が、どうして恒例にこだわる必要があろうか』とあります。今、美濃・但馬・播磨などは、往還がやや遠く、人民の負担が多くなっております。しばらくこの三国を停止し、その状況に応じて増減していただきたく存じます。今造る屋舎の類は、以前の数倍にもなっております。造営の工事は、期日に合わせて完成させねばなりません。減じ定めた単功(たんこう)は、すでに半分を超えております。願わくは今の時に功を顕し、後代に先例を遺していただきたく存じます」と述べた。勅して、「申請の通りとせよ。これを恒例とせよ」とされた。
¶仁和(にんな)二年、勅により伊予(いよ)・讃岐(さぬき)の正税穀(しょうぜいこく)各千斛(こく)を、斎宮寮に充てた。従来の先例では、斎王が神宮に入った後、伊勢の正税穀三千斛をもって新居の費用にあてていたが、今回はこれに充てた。(注:三代実録による。)
¶斎宮は歴代の朝廷がその礼を重んじ、延喜に至ってこれを式に著したことは上に述べた通りである。(注:延喜式による。)王朝の綱紀が次第に緩むに及んで、その制度は昔のようには行えなくなった。成功(じょうごう、売位売官による寄付)を募ってその費用を弁じるようになった。(注:朝野群載(ちょうやぐんさい)・類聚大補任(るいじゅだいぶにん)による。)そして後村上天皇(ごむらかみてんのう)以後は、再び置かれることはなかった。(注:歴代皇記・康永(こうえい)元年大神宮参詣記による。)
¶離宮院(りきゅういん)は、度会郡湯田郷(ゆだごう)宇羽西村(うわにしむら)にある。神宮の御厨、斎王の離宮、駅使の館舎をあわせて、離宮院と称する。(注:神名秘書・園太暦・新任弁官抄を参照した。)御厨はまた庁(ちょう)ともいい、厨家(くりや)と称し、調御庫(ちょうのみくら)があり、宮司の宿館がある。(注:神宮雑例集による。)総じて庁院(ちょういん)という。(注:神事供奉記による。)
¶離宮は内外二院に分かれる。斎王が神宮を拝する際には、往来に際して必ずここに宿泊する。(注:二宮儀式帳・延喜式による。園太暦・新任弁官抄・神事供奉記を参照した。)内院には河原殿(かわらどの)があり、外院には禊殿(みそぎどの)があり、あわせて九丈殿(くじょうでん)・主神司殿(かんづかさどの)が加えられている。(注:大神宮雑事記・神事供奉記による。)斎宮寮の官人らが宿泊する所を寮司院(りょうしいん)という。(注:大神宮雑事記による。)駅使の館舎は、勅使が留まり宿泊する所である。(注:二宮儀式帳・延喜式・新任弁官抄による。)王・中臣・忌部・卜部などの宿舎があり、総じて駅使院(えきしいん)と称する。(注:大神宮雑事記による。)
¶初め垂仁天皇は神庤(かんだち)を有爾鳥墓村(うにのとりはかむら)に建てた。孝徳天皇の御代に至って、これを度会の山田原(やまだはら)に移し、御厨(みくりや)と改称した。(注:大神宮儀式帳による。)後に斎王の離宮・駅使の館舎が加えられて、離宮院の称が起こった。(注:神名秘書・園太暦による。神名秘書には離宮院は度会郡沼木郷(ぬまきごう)高河原(たかがわら)にあるとするが、おそらく別の地ではないであろう。)
¶延暦十六年、宮司が、「御厨ならびに斎王の離宮、諸司の宿舎などは、宝亀年間に改造されてから、すでに二十六年を経ており、ことごとく破損しております。加えて南北を川に挟まれ、洪水がしばしば氾濫し、たびたび崩壊に遭っております。修理を加えてはおりますが、なお完全にはできず、そのため別の地に移したいと存じます。しかし神郡の課丁は、すでにその徭役を尽くしております。別に功食(こうじき)を給していただきたく存じます」と申し出た。勅して、「申請の通りとせよ」とされ、今の地に遷した。(注:園太暦による。)その道程は、度会宮からここまで三十六町、ここから斎宮までもまた同じであるという。(注:新任弁官抄による。)
¶天長元年、多気の斎宮をここに遷し、常設の斎宮とした。(注:類聚国史による。)その後十五年を経て、旧に復した。
¶承和八年、伊勢・尾張の正税をもって離宮を造営した。(注:続日本後紀による。)
¶延喜の制では、斎王が神宮に参る際の館舎は、神戸の雑徭(ぞうよう)によって、破損に応じて修理し、損壊させてはならない。御厨の案主(あんじゅ)十人、司掌(ししょう)一人、鑰取(かぎとり)三人、厨女(くりやめ)一人は、いずれも三神郡・六か所の神戸の百姓を取ってこれに充てる。(注:延喜式による。)後世には神戸による修造の制度は廃れ、もっぱら成功(じょうごう)を募って事にあたることが、ついに慣例となった。(注:朝野群載による。)
¶後村上天皇の御代、北朝の後光厳院(ごこうごんいん)は、南朝の兵が神郡に満ちているために、道路が塞がれて幣使(へいし)が通じ難いとして、延暦の先例に準じて離宮院を別の地に遷そうとしたが、実現せずに終わった。(注:園太暦による。)
¶内侍所(ないしどころ)は、禁中にある。(注:日本紀略による。)崇神天皇六年、神鏡・宝剣を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷し奉り、さらに鏡・剣を模造して、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)とあわせて、身を護る御璽(みしるし)とした。同じ牀(ゆか)・同じ殿に安置し、歴代の朝廷において変わることがなかった。これがすなわち践祚(せんそ)の日に奉る神璽(しんじ)・鏡・剣である。(注:日本書紀・古語拾遺による。古今著聞集を参照した。)神鏡はおよそ三面あり、その一つはすなわち天照大神、その一つは豊受大神、その一つは日前大神(ひのくまのおおかみ)である。(注:日本紀略による。大倭本紀・倭姫命世記を参照した。)後に特にこれを尊び、温明殿(うんめいでん)に安置し奉り(注:江家次第・禁秘抄・神宮雑例集にはいずれも「垂仁朝、別殿に安置し奉る」とあるが、おそらく誤りであろう)、賢所(かしこどころ)と号した(注:「賢」は「威」に作る本もあり、あるいは「恐」とも読む)。内侍(ないし)にこれを掌らせたため、また内侍所ともいう。(注:日本紀略・小右記・江家次第・禁秘抄を参照した。)
¶寛平年間、初めて月供(げっく)の儀式を定めた。(注:公事根源による。)これより毎月一日に供物を進めることを、例供(れいく)といった。その供物は二十合を定めとした。ただし天子の即位に際して、吉日を選んで祭る場合は、特に二十合を加えた。(注:江家次第・禁秘抄による。按ずるに、平記(へいき)には「長暦元年六月二十八日の夜、奠櫃(てんき)四十合、そのうち二十合は白米、四合は紙、四合は楊熟苽(やきうり)・桃子(もも)・大角豆(ささげ)、四合は菜茄(なす)・和布(わかめ)・鶏頭草(けいとうそう)、四合は鞭鰒(むちあわび)・乾鯛(ほしだい)・乾鮭(ほしさけ)・堅魚(かつお)、四合は鮎鮨(あゆのすし)・鮎鯉(あゆこい)・鮒(ふな)を、高坏(たかつき)四十枚に盛って、女官がこれを伝え供えた」とある。おそらく即位の際の供物であろう。参考として付記する。)
¶季節の新しい品物を得るごとに、必ずまず内侍に供献させる。その崇敬するところは、神宮とまったく同じである。神事の儀式もまた伊勢に準じる。また上代には神衣(かんみそ)を奉ったが、中世以後、その礼は廃れた。(注:禁秘抄による。)
¶天徳四年、内裏が火災に遭った年、神鏡が被災した。天照大神の御体は、形が変わらなかった。豊受大神の御体もまた、破損を免れた。仮に縫殿寮(ぬいどのりょう)に安置し奉った。(注:日本紀略・扶桑略記による。大倭本紀・倭姫命世記を参照した。)
¶寛弘二年、また被災した。諸道に下して鋳造し直すことを議論させ、ちょうど神鏡を新しい櫃(ひつ)に納めようとしたところ、たちまち日のような光が輝いた。公卿は皆その神異に驚き、ついに旧のままとした。参議藤原行成(ふじわらのゆきなり)を大神宮に遣わし、宸筆(しんぴつ)の宣命を奉らせた。(注:日本紀略・小右記による。)
¶長久元年、また火災があった。公卿は評議を定めて、寛弘の先例に依った。(注:百錬抄による。)論者は、神鏡が被災したことを、朝廷が衰退する兆しであるとした。(注:古今著聞集による。)
¶承保(じょうほう)年間、これより先、長保(ちょうほう)四年に、初めて神楽(かぐら)を奉った。(注:「長保」以下は一代要記・江家次第による。)その後、一年おきに十二月に一度行っていたが、この頃に至って後には、毎年これを行うことが恒例となった。(注:禁秘抄・公事根源による。按ずるに、壒嚢抄(あいのうしょう)には、神楽は十一月下(しも)の酉(とり)の日を用い、臨時祭と同日であるとし、寛平の頃に始まるとするが、諸書と合わないため、今は採らない。)その儀式は礼楽志に詳しい。
¶平治(へいじ)の乱で、神鏡は賊の侵すところとなった。翌年、あらためてその櫃を作り、神鏡を安置し奉った。初めて三夜神楽(さんやかぐら)を行った。(注:百錬抄・神宮雑例集による。)その宣命には、「みだりに闇愚(あんぐ)の身をもって、かたじけなくも神器を伝え受けた。朝に慎み夕べに恐れること、薄氷を踏むが如くである。去年十二月十日、思いがけない事が起こり、内侍所は凶悪な者に掠奪された。幸いにも宗廟(そうびょう)の霊に頼り、王法は壊れず、神器は恙(つつが)なく、深く喜び慰められることである。謹んで新しい櫃を作り、これを安置し奉る」とある。(注:神宮雑例集による。)
¶寿永(じゅえい)二年、平宗盛(たいらのむねもり)は帝(みかど)および神器を奉じて西に落ちのびた。平氏が敗れるに及んで、東国の兵が争って御船に入り、賢所(かしこどころ)を取って、これを開いて覗き見ようとしたが、目が眩んで見ることができずに止めた。(注:東鑑・源平盛衰記による。)神鏡が京に入ると、また三夜神楽を行い、これを臨時神楽(りんじかぐら)といった。(注:百錬抄・禁秘抄・公事根源による。)天子は毎日沐浴して衣服を改め、石灰壇(いしばいのだん)において大神宮・内侍所を拝し、両段再拝(りょうだんさいはい)することは、その礼容が最も謹んだものであった。(注:禁秘抄・日中行事による。)歴代の天皇がこのように篤く崇敬されたことは、天祖が鏡を授けられた御意を、よく体現されたものというべきである。