卷之二百卌八 志第五
神祇五 祭儀下
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶大忌祭(おおいみのまつり)は、広瀬(ひろせ)の大忌神(おおいみのかみ)と龍田(たつた)の風神(かぜのかみ)、および大和国(やまとのくに)の六県(むつのあがた)の神六座、山口神十四座を祭るものである。山や谷の水が甘く良い水となって苗や稲を潤し、豊かな実りを得られるようにと願って、この祭りが行われた。(注:『令義解』『延喜式』による。)
¶崇神(すじん)天皇の御代、大風が作物を荒らし、草木までも枯れた。天皇は大いに恐れ、身を清めて神に祈った。すると夢に神のお告げがあり、「広瀬・龍田の二神を祭れ」と言われた。大忌祭はこれに始まる(注:『令集解』『延喜式』による)。天皇はまた神の教えによって、黒色の盾と矛を供えて大阪(おおさか)の山口神を祭った(注:『古事記』『日本書紀』による。山口については『延喜式』による)。山口神を併せ祭るのも、この故事に基づく。この後、史書には概略のみが記されて詳細を欠く。祭りが定まった形式になったのは、おそらく天武天皇三年に始まり、夏と秋の初月に行われた(注:『日本書紀』による)。大宝以後もこれを踏襲し、日数は四日を用いた(注:『令義解』『延喜式』による)。
¶延暦十八年、大和国司が広瀬・龍田の二祭を怠っていたため、勅命を下して戒め正させた(注:『日本後紀』による)。
¶弘仁の制では、五位以上の王臣の中からそれぞれ一人を使者として定め、弁官に申し送った。弁官はこれを大和国に伝え、国司の次官以上が専らその事を執り行った。すなわち諸郡ごとに交易により贄(にえ)二荷を供進させ、その代金や米・酒・稲はすべて当国の正税を用い、それ以外は担当の役所が供給を求めた(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』による)。延喜の制もこれを踏襲し、さらに神祇官の六位以下各一人を差し加えた(注:『延喜式』による)。
¶風神祭(かぜのかみのまつり)は、風神と広瀬神を祭る。悪い風が吹かず、穀物が豊かに実るようにと願って、この名がある(注:『令義解』『延喜式』による)。
¶崇神天皇が暴風の害に悩まされたため、神の教えによって天御柱(あめのみはしら)・国御柱(くにのみはしら)の二神を龍田に祭り、災いが止むよう祈った。風神祭はここに始まる(注:『延喜式』による)。
¶天武天皇三年以後、おそらく恒例の行事となった(注:『日本書紀』による)。その祭日や使者への供給などは、すべて大忌祭と同様である(注:『日本書紀』『令義解』『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』による)。
¶鎮花祭(はなしずめのまつり)は、春に花が飛び散る頃、疫病の神が病を流行らせるため、大神(おおみわ)・狭井(さい)の二神を祭って疫病の気を鎮め払う。これを鎮花という(注:『令義解』による)。
¶崇神天皇の御代、疫病が大流行し、民が若くして次々と亡くなった。天皇は恐れて神の教えに従い、大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った。すると疫病の気は治まり、天下は平安になった(注:『日本書紀』『古事記』による)。鎮花祭はおそらくこれに始まる。大宝以後は晩春の時期に定め、祝(はふり)らに祭らせた(注:『令義解』『延喜式』による)。後世この祭りは絶えた(注:『西宮記』『北山抄』『江家次第』による)。
¶三枝祭(さいくさのまつり)は、率川神(いさがわのかみ)を祭る。三枝(さいくさ)の花で酒瓶を飾ることから、この名がある(注:『令義解』による)。大宝以後は初夏の時期に定め、祝らに祭らせた(注:『令義解』『延喜式』による)。後世この祭りは絶えた(注:『西宮記』『北山抄』『江家次第』による)。
¶相嘗祭(あいなめのまつり)は、天子が新嘗(にいなめ)を天下の諸神に献ずるにあたり、まず新しい稲と新酒を薦め、都とその周辺・畿内近国の名神を饗応するもので、これを相嘗という(注:『令義解』『延喜式』『中右記』を参照してまとめた)。おそらく天武天皇四年に始まったものである(注:『日本書紀』による)。
¶大宝の制では、初冬の上の卯の日を用い、大倭(おおやまと)・宇奈太利(うなたり)・菟足(うたり)・住吉(すみよし)・大神(おおみわ)・村屋(むらや)・穴師(あなし)・巻向(まきむく)・池(いけ)・恩智(おんぢ)・意富(おお)・葛木鴨(かつらぎかも)・紀伊国懸(きいのくにかかす)・日前(ひのくま)・伊太祁曾(いたきそ)・鳴神(なるかみ)などの神を祭り、それぞれの神主らが官幣を受けて祭りを執り行った(注:『令義解』『令集解』による)。
¶延喜の制では、名神として祭りにあずかる神は都と畿内で六十七座、紀伊で四座となった。その幣物はすべて祝らに託して頒け与えられた(注:『延喜式』による)。後世この祭りは絶えた(注:『公事根源』による)。
¶鎮魂祭(ちんこんさい)は、神祇官が祭る八神に大直神(おおなおびのかみ)を加えて(注:『延喜式』による。○『日本書紀』では大直日(おおなおひ)とする)、天皇・皇后のために瑞宝(みずのたから)を祝い、寿命を祈り、遊離する魂を招いて体の中枢に鎮めるものであり、それゆえ鎮魂という(注:『先代旧事本紀』『令義解』による)。また招魂とも称する(注:『日本書紀』による)。
¶その昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が地上に降った際、天つ神は十種の瑞宝を授けた(注:瑞宝とは瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・死反玉(まかるかえしのたま)・足玉(たるたま)・道反玉(みちかえしのたま)・蛇の比礼(ひれ)・蜂の比礼・品物の比礼、各一つの合わせて十種である)。そして「もし人が病に苦しんだならば、この瑞宝を掲げて一から十まで声に出して数え、また振り動かして『ふるべ ゆらゆらとふるべ』と唱えよ。そうすれば死者も生き返る」と教えた。その子の可美真手命(うましまでのみこと)がその法を伝え、初代天皇の即位に至って瑞宝を献じて祭りを修め、御魂を鎮めた。鎮魂祭はこれに始まる(注:『先代旧事本紀』による)。
¶大昔、猿女君(さるめのきみ)の祖である天鈿女命(あめのうずめのみこと)が天祖の怒りを解こうとして、鐸(ぬりて)のついた矛を手に、覆せた槽(おけ)を踏み鳴らし、巧みに滑稽な舞を演じて神の心を和らげたのも、鎮魂の趣旨にほかならない。それゆえ猿女氏も代々御巫(みかんなぎ)を務め、この祭りに奉仕した(注:『古語拾遺』による)。
¶崇神天皇は瑞宝を石上社(いそのかみのやしろ)に納め(注:『先代旧事本紀』による)、その後は折々に宮中に移して祭りを修めた(注:『貞観儀式大意』による)。天武天皇十三年、十一月丙寅の日にこれを祭った(注:『日本書紀』による)。大宝以後も引き続き初冬の寅の日を用いた(注:『令義解』による)。物部氏がその職を失って以来、神祇伯にこの祭りを司らせ(注:『日本書紀』『貞観儀式大意』による)、御巫も猿女氏には任せなくなった。大同年間、斎部広成(いんべのひろなり)は猿女の職を復するよう願い出た(注:『古語拾遺』による。○『類聚国史』を見ると、弘仁四年に猿女の欠員を補う事が記されており、おそらくこの時に復されたのであろう)。
¶弘仁十四年、「祭りの日と刻限を定め、酉の一点に諸事の準備を終え、二点に参議以上の者が着座して事を行う」と制せられた(注:『年中行事秘抄』による)。
¶貞観年間、さらにその儀礼が改め定められた。祭りの日、担当の役所は神座を宮内省の庁舎に設け、大臣以下は西舎(にししゃ)の南に座し、その少し西に弁大夫(べんのだいぶ)の座、その南に外記(げき)と史(し)の座、その南に太政官および左右の史生の座、その南のやや東寄りに官掌(かんじょう)の座を設ける。東舎(ひがししゃ)の北の第一間には外記・史・式部の丞(じょう)・録(さかん)の座、第二間には太政官ならびに左右の史生・式部の史生の座、第三間には官掌・省掌の座を設ける。酉の二点、大臣以下が西舎の座につき、神祇伯以下は榛摺(はりずり)の衣を身につけ、琴師(ことし)・御巫・神部(かんとも)・卜部(うらべ)らを率いて神への供え物を持ち、左右に分かれて庭中に入り立つ。神部が東階から昇って神宝を堂上に並べる(注:神宝とはおそらくいわゆる十種の瑞宝であろう)。次に神机を担いで昇り、御巫がこれに従う。次に神部が琴を持って昇り堂上に置く。神祇官の五位以上の官人は西階から、六位以下は西の側階から昇って座につく。次に大膳職(だいぜんしき)・造酒司(みきのつかさ)が八代物(やしろもの)を供え、縫殿寮(ぬいどのりょう)が猿女を率いて東の側階から昇って座につく。次に内侍(ないし)が御衣の箱を持って内裏の奥から出て、東階から昇って座につく。治部省(じぶしょう)が雅楽寮の歌人を率いて西の側階から昇って座につく。これが終わると、大臣が西舎から出て西の側階から昇って座につき、召使に式部の丞を呼ばせ、式部の丞が入って所定の位置につく。大臣は「刀禰(とね)よ、丞は復位せよ」と言い、これを受けて「刀禰は位につけ」と唱えると、五位以上の者がそれぞれ入って位につく。外記・史は史生・官掌らを率いて西舎から出て屏(へい)の下に立ち、式部の者が入るのを待って東舎の座につく。これが終わると、大臣は大蔵省の者を召す。丞が進み出て所定の位置につくと、大臣は「鬘(かずら)に用いる木綿(ゆう)を賜う」と言い、丞は「承知しました」と答えて、録・史生・蔵部らを率い、篚(はこ)に木綿を満たして神祇官の官人らに配り与える。次に丞は大臣に、録は五位以上に賜る。次に史生は判官以下主典以上に、蔵部は史生以下に賜る。これが終わると、神祇伯は琴師・笛工を召し、皆が入って座につく。伯は琴と笛の演奏を命じ、まず笛を一曲吹かせ、次に琴の音を調える。これが終わると、琴師が弦を弾き、神部とともに歌を二度歌う。次に雅楽の歌人が声を上げ、同じく二度歌う。神部が拍子を取り、御巫が舞を舞い、舞うごとに巫部(かんなぎべ)が三度舞をたたえる(注:たたえる言葉は「あなたふと」という)。大蔵の録が安芸木綿(あきゆう)二枚を筥(はこ)に入れて伯の前に進め置く。御巫は伏せた槽の上に立ち、鉾を手にして槽を突き、十回ごとに区切って行う。伯は木綿の鬘を結う。この時、蔵人は御衣の箱を開いて振り動かす(注:「この時」以下は『小野宮年中行事』所引の弘仁式、『政事要略』所引の清涼記による。○『薩戒記』によれば、祭りの日には山棚を作り、卜部は槽をその西に置く。槽の形は平櫃(ひらびつ)のようで、高さ三、四寸、幅二尺ほどである。御巫の童女は髪を結い、青い闕腋(けってき)の袍(ほう)・表袴(うえのはかま)を着け、帯には墨で岩石を描いた紙をつけ、それに鈴と衣を加え、榊(さかき)を添える。この作法がはたして古くからのものかどうかは分からない。参考として付け加えておく)。こうして御巫や他の御巫たち、猿女らが入れ替わり舞う。次に宮内丞・侍従・内舎人・大舎人がそれぞれ立って舞い、舞い終わると位に戻り、饗膳を賜る。神祇官以下が食事を終えると、三度拍手をし、酒を三巡させる。さらに一度拍手をしてから退出する。中宮・東宮の祭りも同様であるが、東宮では巳の日を用いる(注:『貞観儀式』による)。
¶延喜の制もこれを踏襲したが、神宝を並べる儀礼については伝わっていない。その神饌については、祭りの日に御巫が神祇官の斎院で春の稲を搗き、粗い篩(ふるい)でふるい、韓竈(からかまど)で炊いて藺笥(いのけ)に盛り、櫃に納めて案の上に安置し、神部にこれを供えさせる。また鎮御魂斎戸祭(みたましずめのいわいとのまつり)というものがあり、中臣氏が晩冬にこれを行う。神祇官・斎院・中宮・東宮もこれを祭る(注:『延喜式』による)。その趣旨はおそらく鎮魂祭と変わらない。
¶鎮火祭(ほしずめのまつり)は、大昔、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神である軻遇突智神(かぐつちのかみ)を生んだ際に体を傷め、亡くなるにあたって火を鎮める方法を定めたことに始まる(注:「起る」以下は『日本紀纂疏』『新撰亀相記』を参照してまとめた)。その趣旨は祝詞に詳しい(注:『延喜式』による)。
¶大宝の制では、夏と冬の末月に、卜部が都の四隅でこれを行った(注:『令義解』による)。その祝詞にいう。
¶(注:祝詞は原文のまま掲げる)高天原(たかまのはら)に神留(かんづま)り坐す、皇神漏岐(すめらがかむろき)、神漏美(かむろみ)の命をもちて、皇御孫命(すめみまのみこと)は豊葦原の水穂の国を安国と平らけく知ろしめせと、天(あめ)の下寄さし奉りし時に、事寄さし奉りし天つ詞太詞事(あまつことふとのりとごと)をもちて申さく。
¶神伊佐奈伎(いざなぎ)・伊佐奈美(いざなみ)の命、妹背二柱嫁(みとのまぐわい)継ぎ給いて、国の八十国島の八十島を生み給い、八百万の神たちを生み給いて、愛(はしき)吾(あ)が汝弟(なせ)に、火結神(ほむすびのかみ)を生み給いて、女陰(ほと)を焼かれて石隠り坐し、夜七夜昼七日、吾を見給うなと言いつつ、吾が汝妹(なにも)の命と申し給いき。この七日には足らずとて、隠れ坐す事を怪しとして見給う時に、火を生み給いて女陰を焼かれ坐しき。かかる時に、吾が汝妹の命の吾を見給うなと申すを、吾を見あばき給いつと申し給いて、吾が汝妹の命は上つ国を知ろしめすべし、吾は下つ国を知らんと申して石隠り給いて、黄泉平坂(よもつひらさか)に至り坐して思ほしめさく、吾が汝妹の命の知ろしめす上つ国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣(の)る。
¶返り坐して更に子を生む。水神(みずのかみ)・匏(ひさご)・川菜(かわな)・埴山姫(はにやまひめ)、この四種の物を生み給いて、この心悪しき子の心の荒びを、水神・匏・埴山姫・川菜をもちて鎮め奉れと事教え悟し給いき。これによりて称辞(たたえごと)を竟(お)え奉らば、皇御孫の朝廷に御心が急がしく荒ぶることのないようにと、進める物は明妙(あかるたえ)・照妙(てるたえ)・和妙(にぎたえ)・荒妙(あらたえ)の五色の物を備え奉り、青海原に住む物は鰭(はた)の広き物・鰭の狭き物、沖つ海菜(みるめ)・辺つ海菜に至るまで、御酒は瓺(みか)の辺高く知り、瓺の腹満て並べて、和稲(にぎしね)・荒稲(あらしね)に至るまで、横山のごとく置き高成して、天つ祝詞の太祝詞事をもちて称辞を竟え奉ると申す。
¶道饗祭(みちあえのまつり)は、八衢彦(やちまたひこ)・八衢姫(やちまたひめ)・久那斗(くなど)の三神を祭る(注:『延喜式』による)。外から来る鬼魅(おにもの)が都に入り込まないよう、あらかじめ道々で出迎えて饗応し、それを防ぎ止めることを願う。それゆえこの名がある(注:『令義解』『令集解』による)。
¶大昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は伊弉冉尊の死を悲しんで黄泉国(よみのくに)まで追って行ったが、その醜く穢れた姿を見て逃げ出した。伊弉冉尊はこれを恨み、泉津醜女(よもつしこめ)に追わせた。伊弉諾尊は葡萄や竹の子などを投げ与え、それを食べている隙に逃げ帰った。そして岐神(ふなとのかみ)・道俣神(ちまたのかみ)にその来る道を塞がせた(注:『日本書紀』『古事記』による。○岐神とはすなわち久那斗神であり、道俣神とはおそらく八衢彦・八衢姫の二神を指すのであろう)。道饗祭はこの故事に源を発する(注:『日本紀纂疏』による)。
¶大宝の制では、夏と冬の末月に、卜部らが都の四隅でこれを行った(注:『令義解』による)。左右の京職(きょうしき)もみなこの祭りにあずかった(注:『令集解』による)。疫病が起きた際には、諸国でもこれを祭った。
¶天平七年八月、大宰府(だざいふ)で疫病による死者が多かったため、勅命によってその管内の神々に幣帛(へいはく)を奉り、民のために祈った。長門国(ながとのくに)以西の諸国の守(かみ)または介(すけ)に、専ら身を清めて道饗祭を行わせた(注:『続日本紀』による)。
¶また臨時に、都の四隅の疫神祭(えきじんのまつり)、畿内の境十か所の疫神祭が行われることもあった(注:『延喜式』による。○本注によれば、山城国は近江・丹波・摂津・河内・大和・伊賀の六国との境、大和国は伊賀・紀伊との境、和泉国は紀伊国との境、摂津国は播磨国との境で、合わせて十か所である)。宝亀元年、都の四隅と畿内十か所の境で疫神を祭った(注:『続日本紀』による)。この二つの祭りはこの時初めて記録に見える。
¶大殿祭(おおとののまつり)(注:祭りを「ほかい」というのは祝賀の意味であり、他の祭りとは少し趣旨が異なる)は、屋船久久遅命(やふねくくちのみこと)・屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、および大宮売命(おおみやのめのみこと)を祭る。久久遅命はすなわち木の霊、豊宇気姫命はすなわち稲の霊である。宮殿に災いや変事が起こらぬようにと祈る、それゆえこの名がある(注:『延喜式』による)。
¶大昔、天祖の孫が天の岩屋にいた際、天太玉命(あめのふとだまのみこと)は諸部の神々を率い、手置帆負(たおきほおい)・彦狭知(ひこさしり)の二神に立派な御殿を建てさせ、また諸神に鏡・玉・幣物を作らせて天祖に祈り願い、新しい御殿にお移りいただいた。天太玉命は天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに日の御綱を御殿の上に掛け渡し、大宮売神を御前に侍らせた。大殿祭はおそらくこれに始まる。
¶初代天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位するに及んで、天富命(あめのとみのみこと)は神代の旧儀にならい、手置帆負・彦狭知二神の子孫に正殿を築かせ、また諸神の子孫に幣物を調え備えさせて、殿を祭り祝い祈った。天皇はそこで正殿にお入りになり、四方の国を治められた。これより後、大殿祭は永く忌部氏(いんべし)の世襲の職となり、中臣氏(なかとみし)もこれに副えて奉仕した。宝亀年間に至って中臣氏が権勢をふるい、みだりに古来の式を変え、中臣氏が忌部氏を率いて供奉する形にしてしまった。大同年間、斎部広成が上奏して、その非をきわめて論じた(注:『古語拾遺』による)。その後、旧来の式に復した。
¶貞観の制では、大嘗祭(だいじょうさい)・神今食(じんこんじき)・新嘗祭(にいなめさい)の前後にこれを行い、ただし前の祭りでは天皇への奏聞や禄の下賜は行わなかった(注:『貞観儀式』『延喜式』を参照してまとめた)。その儀式では、神祇官が筥(はこ)四合(注:一合には米を、一合には切った木綿を、一合には米を、一合には酒瓶を納める)を八足の案二脚に置き、神部四人にこれを担わせる。中臣・忌部・官人・宮主・史生・神部らは木綿の鬘と襷(たすき)をつけ、左右に分かれて進む。御巫は案の後ろに列をなし、案を延政門(えんせいもん)の外の簀子(すのこ)の上に置く。大舎人(おおとねり)が門を叩いて訪いを告げる。闈司(いし)が「宮内官某が大殿祭のことを奏上しようと訪いを告げております」と奏上すると、勅で「申させよ」と仰せがあり、闈司はこれを伝えて「宮内省が神祇官の大殿祭供奉のことを奏上いたします」と告げる。勅命でこれを召し出す。宮内省が「はい」と答えて呼び出し、神祇官も「はい」と答える。中臣は木綿の鬘をつけ、忌部は木綿の髪飾りに襷を加え、ともに案の前に立って、まっすぐ仁寿殿(じじゅうでん)に進む。これより先、御巫らは宣陽門(せんようもん)から入って内裏で控え、案とともに入って、殿の東の簀子敷の上に至り筥を執る。中臣・忌部・御巫らは、みな殿内に入る。御巫の一人は紫宸殿(ししんでん)に進み、一人は承明門(しょうめいもん)に至って、ともに米を散らす。忌部は玉を執って殿の四隅に掛ける。御巫は米・酒・切った木綿を散らして退出する。中臣は仁寿殿の南に控え、忌部は南西の方角を向いて小声で祝詞を読む。その祝詞にいう。
¶高天原に神留り坐す、皇親(すめむつ)神魯岐(かむろき)・神魯美(かむろみ)の命をもちて、皇御孫の命を、天つ高御座(たかみくら)に坐せて、天つ璽(しるし)の剣・鏡を捧げ持たせ賜いて、言寿(ことほ)ぎ宣らく(注:言寿ぐとは、古語で「ことほき」といい、今でいう祝いの言葉である)。
¶皇(すめら)が珍(うず)の御子、皇御孫の命、この天つ高御座に坐して、天つ日嗣(ひつぎ)を千秋万秋の長き秋に、大八洲(おおやしま)豊葦原瑞穂の国を、安国と平らけく知ろしめせと(注:知ろしめすとは、古語で「しろしめす」という)言寄さし賜いて、天つ御量(みはかり)をもちて、言問いし磐根(いわね)木根の立ち、草の垣葉(かきは)をも言止(ことや)めて、天降(あまくだ)り賜いし食国(おすくに)天の下と、天つ日嗣知ろしめす皇御孫の命の御殿を、今、奥山の大峡(おおかい)小峡に立てる木を、斎部(いんべ)の斎斧(いみおの)をもって伐り採り、本末をば山の神に祭りて、中程を持ち出て来て、斎鉏(いみすき)をもって斎柱(いみばしら)を立てて、皇御孫の命の天の御蔭(みかげ)・日の御蔭と造り仕え奉れる瑞々しい御殿(注:殿とは、古語で「あらか」という)、汝屋船命(なんじやふねのみこと)に、天つ奇し護言(くすしいわいごと)をもって(注:奇し護言とは、古語で「くすしいはひこと」という)言寿ぎ鎮め白す。
¶この敷き坐す大宮地、底つ磐根の極み、下つ綱根(注:古語で葛の縄の類を綱根という)の這う虫の禍(わざわい)なく、高天原は青雲の靄(たなび)く極み、天の血垂(ちたる)る飛ぶ鳥の禍なく、堀り堅めたる柱・桁(けた)・梁(はり)、戸・牗(まど)の錯(きしみ)(注:錯むとは、古語で「きかひ」という)動き鳴る事なく、引き結える幣(みてぐら)の葛(かずら)目の緩みなく、取り葺ける草の噪(さわ)ぎ(注:噪ぐとは、古語で「そそき」という)なく、御床(みゆか)つ日の清く明らけく、夜目女(よめのめ)の狼狽(うろた)え騒がしく厳(いか)しい事なく、平らけく安らけく守り護る神の御名を白さく。
¶屋船久久遅命、屋船豊宇気姫命と(注:豊宇気姫命は稲の霊であり、俗に宇賀御魂(うかのみたま)という。今の世に産屋で束ねた木で稲を戸口に置き、また米を屋の中に散らすのはこの類である)、御名をば称え奉りて、皇御孫の命の御世を堅磐(かきわ)常磐(ときわ)に護り奉り、五十橿(いかし)御世の足らわしい御世に、田永(たなが)の御世と祝ぎに寄せて、斎玉作(いみたまつくり)らが身を清め持ち斎いて浄めて造り仕え奉れる瑞々しい八尺瓊(やさかに)の御吹きの五百つ御統(みすまる)の玉に、明和幣(あかるにきて)・曜和幣(てるにきて)を付けて(注:和幣とは、古語で「にきて」という)、斎部宿禰(いんべのすくね)某が弱い肩に太い襷(たすき)を取り掛けて、言寿ぎ鎮め奉る事の漏れ落ちる事を、神直日命(かんなおびのみこと)・大直日命(おおなおびのみこと)がお聞き直しお見直しになって、平らけく安らけく知ろしめせと白す。
¶言葉を分けて白さく、大宮売命と御名を申すことは、皇御孫の命と同じ御殿の内に塞(せき)坐して、参入り罷り出る人の、選び整え備える神たちの、いすろこひあれひ坐すを、言直し和し坐して(注:和すとは、古語で「やはし」という)、皇御孫の命の朝の御膳・夕の御膳を供え奉る。領巾(ひれ)を掛ける伴の緒、襷を掛ける伴の緒を、手躓(つまづ)き足躓き(注:躓くとは、古語で「まがひ」という)させることなく、親王・諸王・諸臣・百官の人々を、道に外れることなく、邪(よこしま)な心・穢れた心なく、宮への務めに励ませ、咎(とが)や過ちがあれば見直しお聞き直しになって、平らけく安らけく仕え奉らせることによって、大宮売命と御名を称え奉ると申す(注:祝詞以下は『延喜式』による)。
¶これが終わると、玉を浴殿(よくでん)および厠殿(かわやでん)の四隅に掛け、御巫は米・酒を初めと同じように散らし、陰明門(いんめいもん)から退出する。宮主(みやじ)は神部を率いて炊殿(かしぎでん)に至り、木綿を掛けて米・酒を散らし終えると、神祇官で禄を賜る(注:『貞観儀式』による)。延喜の制もこれを踏襲した。祭りが終わった後、宮主は忌火(いみび)・庭火(にわび)の祭りを内膳司(ないぜんし)で修める(注:『延喜式』による)。
¶古くより出雲(いずも)の玉作氏(たまつくりし)が御祈玉(みほぎのたま)を貢いで祭事に供してきた。延喜の制でも、これを改めなかった(注:『古語拾遺』『貞観儀式』『延喜式』を参照してまとめた)。後世には玉に代えて土製の銭を用い、わずかに古い制度の名残をとどめるのみとなった(注:『江家次第』による)。
¶御門祭(みかどのまつり)は、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)・櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)の二神を祭り、宮門を鎮め護り、変事や災いを防ぎ止めることを祈るものである(注:『延喜式』による)。大昔、天祖が新しい御殿にお出ましになった際、天太玉命らは豊磐間戸・櫛磐間戸の二神に御殿の門を守らせた。初代天皇が都を定めるにあたり、天富命は諸々の忌部を率いて宮門を祭り、門祭もまた永く忌部氏の掌る職となった。ところが本家である忌部氏が大いに衰えると、この式もまた変わってしまった(注:『古語拾遺』による)。延喜の制では、御門巫(みかどのみかんなぎ)がこの祭りを行った(注:『延喜式』による)。
¶大祓(おおはらえ)は、天下の官人・民をしてそれぞれ贖(あがな)いの物を出させて禊(みそぎ)を修めさせ、その犯した罪や過ちを解き除いて自らを新たにさせるものである。それゆえ大祓という(注:『日本書紀』『古事記』『令義解』『延喜式』による)。
¶大昔、伊弉諾尊は黄泉国(よみのくに)に行きその穢れに触れたため、身につけていた衣服を投げ捨て、海水で沐浴してこれを除き去った。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天上で罪を犯した際には、諸神が千座置戸(ちくらおきど)という多くの品を科してその罪を贖わせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)に解除(はらえ)の大諄辞(おおのりと)を宣(の)らせた(注:『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』による)。大祓と贖い物とは、ともにこの故事に始まる(注:『釈日本紀』『日本紀纂疏』による)。
¶初代天皇が天下を平定した後、天種子命(あめのたねこのみこと)に天罪(あまつつみ)・国罪(くにつつみ)を解き除かせた(注:『古語拾遺』による)。以後、天種子命の子孫である中臣氏が代々祓えの詞を宣ることを司った(注:『令義解』『貞観儀式』による)。それゆえこれを中臣禊詞(なかとみのはらえことば)という(注:『古語拾遺』による。○『朝野群載』では禊詞を祭文としている)。おおよそ祓えには諸国大祓と百官大祓とがある(注:『日本書紀』『古事記』『令義解』による)。
¶仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御した際、皇后は神の祟りがあると考え、国の大幣(おおぬさ)を集めて天罪・国罪を求め、諸国のために大祓を行った(注:『古事記』による。『延喜式』も参照)。諸国大祓はここに始まる。
¶天武天皇四年八月、四方に詔して大解除(おおはらえ)を行わせ、国造(くにのみやつこ)・郡司(ぐんじ)に祓柱(はらえつもの)を出させた。六年の春、天皇が神祇に大きな祭事を行おうとして、天下に祓えを行わせた。九年七月と朱鳥(あかみとり)元年七月にも、天下に大解除を行わせた(注:『日本書紀』による)。
¶大宝の制では、百官大祓は夏と冬の末月の晦日(みそか)に行い、中臣が祓麻(はらえのぬさ)を献上する。東西の文部(ふみひとべ)がまず祓刀(はらえのたち)を奉り、漢文の祓詞を読む。これが終わると、百官の男女がことごとく集まり、中臣が祓詞を宣り、卜部が解除を行う。諸国大祓は臨時に行われ、郡司・国造に祓柱を出させるが、以前の制に比べるとやや簡略になっている(注:『令義解』による。○『続日本紀』には、養老五年の制で初めて文武百官に妻や姉妹を率いて祓所に集めるようになったとあり、これは令の制とまったく同じである。疑わしい。あるいは男女がことごとく集まるようになったのは実はこの時に始まり、令の文が後から追加されたのかもしれない。参考として付け加えておく)。
¶神亀三年、「東文忌寸(やまとのふみのいみき)らが弁官や史生以上に任じられた場合には祓刀を献上させよ」と制せられた(注:『続日本紀』『西宮記』による)。
¶延暦六年、「今後は東西の文忌寸が諸司の主典以上に任じられた場合には祓刀を献上させよ」と詔された(注:『令集解』『西宮記』による)。これが永く定例となった。ただし延喜に至って、中臣が祝詞を宣ることを改め、卜部にこれを代行させた(注:『延喜式』による)。
¶弘仁十四年、「大祓の刻限は、未の四点(十二月は二点)に宮内・神祇・縫殿の三司が延政門の外に控え、申の一点(十二月は未の一点)に門を叩いて参入し、四点(十二月は二点)に祓えを始める」と制せられた(注:『年中行事秘抄』による)。
¶貞観の制では、大祓に先立って御贖(みあがもの)の儀があり、神祇官があらかじめその料物を用意した。鉄の人形、木の人形、御輿(みこし)の形、幣帛(へいはく)を挟んだ木、金装の横刀(たち)などが、それぞれ定数用意された。その日、卜部はそれぞれ明衣(あかりごろも)を着け、一人が御麻(みぬさ)を執り、二人が荒世(あらよ)の御服(みそ)、二人が和世(にぎよ)の御服、二人が壺を執る。宮主・史生・神部らは左右に分かれて先導する。中臣の官人がこれに続き、御麻がその次に続く。東西の文部がそれぞれ横刀を持ってこれに続く。卜部で荒世・和世を執る者は、木綿の鬘をつけてこれに続く。宮内輔(くないのすけ)が御麻などの物を並べて、延政門の外に控える。大舎人が門を叩く。闈司が名を問うと、「宮内省の輔某、御門に控えております」と答える。取り次いで奏上すると、輔が入って所定の位置につき奏上する。「神祇官某が御麻を進上しようと御門に控えております」と。退出して中臣を呼ぶと、中臣は「はい」と答え、文部および四か国の卜部を率いて入り、宜陽殿(ぎようでん)の南のあたりに控える。縫殿寮は荒世・和世の御服を女嬬(にょじゅ)に持たせて参入させ、内侍(ないし)がこれを縫司(ぬいのつかさ)から受け取り、蔵人に取り次がせて天皇に奉る。これが終わると、縫殿寮は退出する。次に中臣が御麻を捧げて所定の位置に進み出る。勅命で「参れ」と仰せがあると、「はい」と答えて階段の下まで進む。中臣の女官が受け取って取り次ぎ、それが終わると中臣に授ける。中臣はこれを卜部に授けて祓所(はらえどころ)に向かわせる。輔が改めて入って奏上する。「神祇官某が御贖物を進上しようと、東西の文部・四か国の卜部らを率いて控えております」と。退出して中臣を呼ぶと、「はい」と答える。東の文部が横刀を捧げて所定の位置に入る。勅命で「参れ」と仰せがあると、「はい」と答えて階段の下まで進む。中臣の女官に取り次いで受け取らせ、それを天皇に奉り、終わると退出する。次に西の文部の進退も同様である。次に中臣は宮主・卜部で荒世を執る者を率いて階段の下に至り、敷物の上に置く。宮主がそれを開き、中臣に授ける。中臣はこれを中臣の女官に授け、天皇の御体を執って量ることをおよそ五度行う。これが終わると、宮主が受け取って祝う。それが終わると、後から受け取る卜部に授ける。宮主が壺を受け取って中臣に授け、中臣はこれを中臣の女官に授けて天皇に奉る。それが終わると、これを中臣に返し授け、さらに宮主に転じ授ける。宮主がこれを受け取って祝う。それが終わると、後から受け取る卜部に授けて、この事が終わると退出し、川上で解除を行う。和世を献じる進退も、これより前と同様である。荒世は卜部に、和世は宮主に賜り、それが終わるとみな退出する。中宮・東宮が御麻・御贖物を奉ることも、これに準じる。午の四刻、大祓の儀が行われる。神祇・宮内・縫殿などの官人が延政門の外に控え、百官が祓所に集まる。これより先、神祇官が祓えの物を朱雀門(すざくもん)前の道の南に並べ、馬をその南に北向きに置く。担当の役所は朱雀門および東西の仗舎(じょうしゃ)に座を設け、大臣以下五位以上は壇上の東方で西を向いて北を上座として並ぶ。南階の東の第一間は四位以下の階、第二間は参議以上の階とし、女官もまた壇上の西方に、斑幔(まだらまん)を隔てて座る。外記・官史は中務(なかつかさ)・式部・兵部の三省の東の仗舎で西を向いて北を上座とする。弾正(だんじょう)は西の仗舎で東を向いて北を上座とする。祝詞を読む座は道の南で西を向き、座の前には軾布(しきふ)を置く。未の一刻、外記以下がそれぞれ座につき、他の諸司は東の仗舎の東端に群れ立ち、女官もまた同じ舎の東端に立つ。その頃、式部・兵部の二省の省掌以上が立って座につき、刀禰(とね)を呼び集めることを唱えると、弾正忠(だんじょうのじょう)が命じて台掌(だいしょう)を呼び出す。台掌は「はい」と答えて西の仗舎の前に至り、北を向いて立つ。忠が「版を置け」と言うと、台掌は「はい」と答えて版を捧げ進めて置く。次に三省の省掌もまた版を進めて置き、それが終わると退出して舎の南に立つ。式部・兵部の二省の省掌はさらに出て諸司・諸衛を呼び集める。それが終わると、式部の丞が命じて録に省掌を呼ばせる。省掌は「はい」と答える。次に兵部、次に中務も同様である。それが終わると、三省の省掌はともに版につく。式部の丞が「諸司に刀禰の数を記した札を提出させよ」と命じると、式部の省掌は「はい」と答える。次に兵部、次に中務も同様である。それが終わると、みな急ぎ出る。式部の省掌は文官を率いて式部の版につく。長官が「刀禰の数の札を進めよ」と告げると、丞が「進めよ」と言い、諸司はみな「はい」と答える。最後の者が重ねた札を執り、録の前に置いて位に戻る。録が札の数を読み上げて「諸司が提出した刀禰の数の札は何枚である」と言うと、丞が「よし」と命じ、諸司はみな「はい」と答えて急ぎ出る。次に兵部、次に中務も同様である。三省は目録を照合し、その後御麻に控える。すでに到着すると祓えの稲を挿す。この時、弁大夫(べんのだいぶ)および三省の輔がそれぞれ一人、官史および三省の丞・録が庭の中に急ぎ立つ。弁大夫が「祓所に集まった刀禰の数を献上せよ」と告げると、次に式部の録が目録を読み、次に兵部、次に中務も同様に行う。それが終わると、大臣が「先例に従って祓えを行え」と命じ、弁以下がともに「はい」と答える。それが終わると、それぞれ位に戻る。式部・兵部が省掌を呼ぶと、省掌がそれぞれ版につく。丞が「刀禰を延ばせ」と命じると、省掌は「はい」と答えて位に戻る。「刀禰は集まれ」と言うと、外記以下は東舎の南端に降りて立ち、式部・兵部の二省の丞・録は文武の官の刀禰を率いて序列を立て、弾正忠は西舎の南端に降りて立つ。この時、内侍が御贖物を持って至り、立ち定まる。神祇官が切麻(きりぬさ)を頒け与える。それが終わると、中臣が座に進み出て祝詞を読む。一段読み終えるごとに、刀禰はみな「はい」と答える。その祝詞にいう。
¶集い侍る親王・諸王・諸臣・百官の人たちよ、諸々聞き食(お)せと宣る。天皇の朝廷に仕え奉る、領巾(ひれ)掛くる伴男(とものお)、手襁(たすき)掛くる伴男、靫負(ゆげい)の伴男、剣佩(はぱ)く伴男、伴男の八十伴男(やそとものお)を始めとして、官々に仕え奉る人たちの犯した種々の罪を、今年六月晦日の大祓に、祓い給い清め給うことを、諸々聞き食せと宣る。
¶高天原に神留り坐す、皇親神漏岐・神漏美の命をもちて、八百万の神たちを神集(かむつど)いに集え給い、神議(かむはか)りに議り給いて、我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の国を安国と平らけく知ろしめせと事依さし奉りき。かく依さし奉りし国中に、荒ぶる神たちをば、神問(と)わしに問わし賜い、神掃(はら)い掃い賜いて、言問いし磐根・樹立、草の垣葉をも言止めて、天の磐座(いわくら)放ち、天の八重雲を、厳(いず)の千別(ちわき)に千別きて、天降り依さし奉りき。かく依さし奉りし四方の国中と、大倭日高見(やまとひだかみ)の国を安国と定め奉りて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高く知りて、皇御孫の命の瑞々しい御殿に仕え奉りて、天の御蔭・日の御蔭と隠れ坐して、安国と平らけく知ろしめさむ。国中に成り出でむ。
¶天の益人(ますひと)たちが犯した種々の罪事は、天つ罪と、畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)・串刺(くしさし)・生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそへ)など、これほど多くの罪を天つ罪と法(のり)分けて。
¶国つ罪とは、生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)・白人(しらひと)・胡久美(こくみ)(注:身体が引きつること)・己が母を犯せる罪・己が子を犯せる罪・母と子を犯せる罪・子と母を犯せる罪・畜(けもの)を犯せる罪・昆虫(はうむし)の災い・高津神の災い・高津鳥(たかつとり)の災い・畜を倒す罪・蠱物(まじもの)をなす罪など、これほど多くの罪が出るであろう。
¶かく出でば、天つ宮事(みやごと)をもって、大中臣が天つ金木(かなぎ)を本打ち切り末打ち断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らわして、天つ菅麻(すがそ)を本刈り断ち末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。
¶かく宣らば、天つ神は天の磐門(いわと)を押し披(ひら)いて、天の八重雲を厳の千別に千別きて聞こし食さむ。国つ神は高山の末(すえ)・短山(ひきやま)の末に上り坐して、高山の伊穂理(いほり)・短山の伊穂理を撥(か)き別けて聞こし食さむ。かく聞こし食してば、皇御孫の命の朝廷を始めとして、天の下四方の国は、罪という罪はあらじと、科戸(しなと)の風が天の八重雲を吹き放つがごとく、朝の御霧・夕の御霧を朝風・夕風が吹き払うがごとく、大津辺(おおつべ)に居る大船を舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放って大海原に押し放つがごとく、彼方の繁き木の本を焼き鎌の鋭い鎌をもって打ち払うがごとく、残る罪はあらじと祓い給い清め給うことを、高山の末・短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ちたぎつ速川の瀬に坐す、瀬織津姫(せおりつひめ)という神が大海原に持ち出でなむ(注:「津」は『朝野群載』により補った)。かく持ち出で往なば、荒潮の潮の八百道(やおじ)の八潮道(やしおじ)の潮の八百会(やおあい)に坐す速開津姫(はやあきつひめ)という神が、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みてば、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)という神が、根の国・底の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちてば、根の国・底の国に坐す速佐須良姫(はやさすらひめ)という神が持ち流離(さすら)い失いてむ。かく失いてば、天皇の朝廷に仕え奉る官々の人たちを始めとして、天の下四方には今日より始めて、罪という罪はあらじと。
¶高天原に耳振り立てて聞く物と、馬を牽き立てて、今年六月晦日の夕日の降る大祓に、祓い給い清め給うことを、諸々聞き食せと宣る。四国の卜部らは大川の畔(ほとり)に持ち退(の)き出でて、祓い却れと宣る(注:祝詞以下は『延喜式』による)。
¶祓えが終わると、神祇官は上卿(しょうけい)以下の座の前で大麻(おおぬさ)を巡らせ、次に五位以上の者に切麻で禳(はら)いをし、その後それぞれ退出する(注:『貞観儀式』による。『西宮記』『北山抄』『江家次第』も参照。○『貞観儀式』『江家次第』『古今和歌集』などを考え合わせると、麻を切って人々に頒け与えるものを切麻といい、麻で祓柱を作るものを大麻という)。
¶中臣が菅麻(すがそ)を刈って事を行うのは、慣例として伝えられてきた。後世になると菅で輪を作り、これを菅貫(すがぬき)と呼んだ。また茅(ちがや)で作ったものを茅輪(ちのわ)と称し、これを祓い禊ぎに供した(注:『延喜式』『江家次第』『玉葉』『園太暦』『夫木和歌抄』による)。この頃には陰陽家(おんみょうけ)の説が次第に広まり、古くからの風習は大いに衰えてしまった(注:『江家次第』による)。
¶天元五年六月、大祓が行われたが、公卿は一人として出席する者がなく、内侍も用事にかこつけて参上しなかった。そこで右少弁(うしょうべん)藤原惟成(これしげ)を上卿の代わりとし、女史(にょし)を内侍の代わりとして事を執り行わせた(注:『小右記』による。惟成の姓は『尊卑分脈』による)。これ以後、大臣が自ら大祓に臨むことはなくなった(注:『北山抄』『江家次第』による)。
¶臨時に大祓が行われるのは、大嘗祭を行おうとする時で、まず天下にことごとくこれを行わせる。次に都とその周辺の近国で、次に百官が行うのは、通常の二季の儀式と同様である。祭りが終わった後、百官もまた同様に行う(注:『貞観儀式』『延喜式』による)。
¶斎王(さいおう)が伊勢(いせ)へ赴く際にも、まず天下にこれを行わせ、次に百官が行う。これも二季の儀に準じる(注:『延喜式』による)。
¶その他、伊勢神宮への奉幣や大神宝使(だいじんぽうし)の出発の時、また死の穢れや火災などがあった時にも、みな朱雀門または建礼門(けんれいもん)の前でこれを行った(注:『三代実録』『日本紀略』による)。また毎月の晦日には御麻・御贖の儀があるが、六月と十二月はこの例に含まれない(注:『延喜式』による)。
¶御贖(みあがもの)は、弘仁の制では御巫がこれを執り行い、金銀の人形、御輿の形などの物を用いた。中宮・東宮もこれに準じる(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』による)。延喜の制では、中臣が卜部を率いて奉仕し、その料には鉄の人形などを用いた。中宮・東宮もこれに準じる(注:『延喜式』による)。
¶御贖祭(みあがもののまつり)は、おそらく天皇の寿命を贖い祈るものであり、それゆえ御贖祭という。成務(せいむ)天皇がかつて病にかかり、御膳(食事)の量が日ごとに減った。そこで多米連(ためのむらじ)の祖である小長田命(おながたのみこと)に勅命を下して御饌(みけ)を調進させたところ、天皇の食は元に戻った。そこで小長田命に、大炊(おおい)の政(まつりごと)をもって御贖の事を掌らせるよう命じた。この時、四方の国造もまた贖命人(あがないのひと)を献じたといい、御贖祭はおそらくこれに基づく(注:『政事要略』所引の多米氏本系帳による)。
¶弘仁五年六月、天皇の御体が不例(病気)となったため御贖祭が行われた(注:『年中行事秘抄』『公事根源』による)。十一年に至って式に定められ、毎年六月・十二月の朔日から八日まで、毎日御巫がこれを執り行うこととなった。中宮・東宮もこれに準じるが、東宮では日数を半分に減らす(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』による)。延喜の制もこれに従った(注:『延喜式』による)。
¶卜庭神祭(うらにわのかみのまつり)は、毎年夏の末と冬の末に御体御卜(おほんたいのみうら)を行い、その前後の日にこの祭りを行う(注:『年中行事秘抄』所引の弘仁式、『延喜式』による)。祭られる二座は、久慈真智命(くじまちのみこと)と太詔戸命(ふとのりとのみこと)という(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』『新撰亀相記』『江家次第』『古事談』による)。太詔戸命は天児屋命の別名である(注:『延喜式』『神名帳頭注』を参照)。
¶夏と冬の二季の御卜は、孝徳(こうとく)天皇の御代に始まる(注:『古語拾遺』による)。おおよそ占いの術は大昔に起こり、これを太占(ふとまに)という。神の命を聞いて吉凶を決するという意味である(注:『日本書紀』による)。久慈真智・天児屋の二神が実際にその法を伝えたため、卜庭神(うらにわのかみ)として祭られた(注:『新撰亀相記』『延喜式』による)。天児屋命の子孫は代々その祖業を受け継ぎ、卜部の職に任じられて神祇官に属した(注:『令義解』『三代実録』『新撰姓氏録』『新撰亀相記』を参照)。
¶その占いの方法は初め鹿の骨を用い、後に亀卜(きぼく)の法が伝えられて、鹿卜(しかうら)の法は次第に廃れた(注:『古事記』『日本紀私記』による。○『魏志倭人伝』を見ると、その風俗では事を行い出かける際に、何か言うべきことがあると、すぐに骨を焼いて占い、吉凶を判断したとある。まず占うべき事を告げ、その言葉は亀卜の法のようであった。火のひび割れを見て兆(きざ)しを占うというのは、鹿卜のことを言うのであろう。ところが『日本書紀』崇神紀には神亀を用いるとの記述があり、おそらくこれは史官の潤色によるものであろう。対馬(つしま)の雷命社(いかづちのみことのやしろ)の社伝によれば、「神功皇后が三韓を討った際、中臣雷命(なかとみのいかづちのみこと)が初めて亀卜の伝えを得た」とあり、これによれば当時すでに正式に亀卜が伝わっていたことになる。あわせて参考として付け加えておく)。ただしその亀を焼いて兆しを見る方法には、なお古い伝統が残っており、文様を描いて縦横に区切って田の字の形とした(注:『令義解』『釈日本紀』『亀卜次第』による)。下を斗(と)といい、北にあたり陰で地を司る。上を宝(たから)といい、南にあたり陽で天を司る。左を可弥(かみ)といい、東にあたり外で神を司る。右を依弥(より)といい、西にあたり内で人を司る。中央を多米(ため)といい、中央にあたり土を司る。後にその主る所によって、地・天・神・人の兆しを改めて記すようになり、合わせて五つの兆しとなった。地と天はそれぞれ二十九卦、神と人はそれぞれ三十八卦、兆は三卦で、合計百三十七卦である。波波迦木(ははかぎ)でこれを焼き、まず地と天を焼き、下から上へと進める。次に可弥と依弥を焼き、その火のひび割れの形を見て吉凶を考える(注:『新撰亀相記』による。『亀卜次第』も参照)。
¶天皇の御体を占うことについては、夏の末には七月から十二月まで、冬の末には正月から六月までを対象とし、ともに天下の諸神への安否を占う。もし祟りがあれば、その社の司に祓えを科す(注:『朝野群載』『宮主秘事口伝』による)。この儀式は弘仁に始まり、貞観に定められた(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『貞観儀式』による)。神祇官があらかじめ太政官に申し出て、太政官がこれを諸司に頒け告げる。もし土地を侵す事があれば、詳しく書き記して移し送り、卜庭神祭を行う。それが終わると、中臣の官人二人、宮主一人、卜部八人がそれぞれ明衣を賜って身を清め、静かに占う。その料には、亀の甲一枚、竹二十本、陶器の椀四つ、小斧二本、甲掘(かなほり)四本、刀子(とうす)四枚を用いる。朔日に始めて九日に終わる。さらに卜庭神を祭り、翌日に占いの文を奏上する。その日の明け方、主殿寮(とのもりょう)が殿庭の東西に幔幕(まんまく)を張り、掃部寮(かもんりょう)が殿上に大臣の床几(しょうぎ)を一脚立てる(注:御座から東南に二丈ほど離れた場所で、西を向く)。版位の前には簀子(すのこ)を一枚敷く。神祇伯以下と宮内輔が奏上の文(注:漆塗りの箱に納めて案の上に置く)を持ち、延政門の外に控える。ここで神祇の副(すけ)または祐(じょう)が案を大臣の前に進め、大臣は殿に昇る。大舎人が門を叩き、闈司が「誰か」と問うと、「宮内官某が御卜のことを奏上しようと御門に控えております」と答える。闈司が所定の位置に進んで奏上すると、勅で「奏上させよ」と仰せがあり、これを伝え宣する。大舎人は「はい」と答える。宮内輔が所定の位置について「御体御卜のことを奏上いたします。神祇官某が控えております」と奏上すると、勅で「呼び出せ」と仰せがある。「はい」と答えて退き、伯を呼ぶ。伯は「はい」と答え、副とともに案を担いで入り、庭中の簀子の上に置いてともに立つ。勅で「参れ」と仰せがあると、伯は「はい」と答えて、案を殿上の簀子敷きの上に安置する。中臣の官人はその場にとどまって所定の位置につき、他の者は退出する。内侍が天皇にご覧に入れる。勅で「参れ」と仰せがあると、中臣は「はい」と答えて殿上の簀子敷きに昇り、文を開いて小声で奏上する。勅で「奏上の通りとせよ」と仰せがあると、大臣は「はい」と答え、中臣も「はい」と答えて退く。次に大臣が退出し、闈司二人が左の掖門(わきもん)から入り、殿に昇って案を撤去して退出する。神祇官は案を担いで出る(注:『貞観儀式』による。『延喜式』も参照)。延喜の制もこれを踏襲した。
¶御卜の料については、波波迦木は大和国の封戸(ふこ)を有する社に貢がせ、亀の甲は紀伊・阿波・土佐に貢がせる。その兆竹(うらだけ)には、宮中の空き地に生えたものを用いる(注:『延喜式』による)。
¶後鳥羽(ごとば)天皇が即位した年、亀の甲を貢ぐ者がいなかったため、御卜は行われなかった(注:『百錬抄』による)。文治三年にも同様であったが、朝廷はこれを問いただすこともできなかった(注:『玉葉』による)。
¶名神祭(みょうじんさい)は、朝廷に事があるたびに臨時に天下の名神を祭るものであり、それゆえこの名がある(注:『続日本紀』『日本紀略』『延喜式』による)。
¶天平二年、渤海国(ぼっかいこく)からの贈り物を諸国の名神に奉るため使者を遣わした。名神という呼び方はここに初めて見える(注:『続日本紀』による)。
¶延喜の制では、天神地祇のうち名神大社に列せられるものは全部で三百五座であった。そのうち二百八十五座が、名神祭にあずかるものと定められた(注:『延喜式』による。○本書の神名帳を調べると、名神の総数は三百七座であるが、ある本では大和の宗像三座を除き、越中の射水一座を加えて三百五座としており、これに従うべきであろう。そして臨時祭式には名神二百八十五座と標記されているが、本文に記載される座数は二百八十八座あり、これは近江・陸奥がともに川田二座、御上一座を重ねて挙げているためと考えられる。神名帳によれば、陸奥には川田・御上という名は見当たらないので、重複していることは疑いない。これにより二百八十五座という数字が初めて合致する。ただし、山城の天津石門別稚姫(あまついわとわけわかひめ)、大和の葛木水分(かつらぎのみくまり)、尾張の大神(おおみわ)、甲斐の浅間(あさま)、近江の兵主(ひょうず)、信濃の武水別(たけみずわけ)・建御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこがみわけ)、若狭の宇波西(うわせ)、越中の射水(いみず)、但馬の水谷(みずたに)・御出石(みいずし)、紀伊の熊野(くまの)、讃岐の田村(たむら)・城山(きやま)、伊予の伊曾乃(いその)・多伎(たき)・伊予、筑前の織幡(おりはた)、豊前の宇佐(うさ)・大帯姫廟(おおたらしひめびょう)など、合わせて二十座はみな名神大社に列せられているにもかかわらず、この祭りにあずかっていない。その理由は詳らかでない。参考として付け加えておく)。
¶祈雨神祭(きうのかみまつり)は、おおよそ旱魃(かんばつ)があれば行われ、長雨の際にも同様に行われる(注:『日本書紀』以下の国史、『延喜式』による)。
¶天武天皇四年の夏、大旱魃のため四方に使者を遣わし、幣帛を捧げて諸々の神祇に祈らせた。
¶持統(じとう)天皇六年六月、畿内四か国に使者を遣わして雨乞いをさせた(注:『日本書紀』による)。祈雨のための奉幣は、これより盛んになった(注:『日本書紀』『続日本紀』による)。
¶宝亀六年九月、長雨のため、白馬と幣帛を丹生川上神(にうかわかみのかみ)および畿内の諸神に奉った(注:『続日本紀』による)。雨を止めるための奉幣もまた慣例となった(注:『続日本紀』『日本紀略』による)。
¶延喜の制では、畿内の大社八十五座を祈雨神と定めた(注:『延喜式』による)。
¶八十島祭(やそしまのまつり)は、天子の即位にあたり、生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祭り、あわせて住吉神(すみよしのかみ)・大依羅神(おおよさみのかみ)・海神(わたつみのかみ)・垂水神(たるみのかみ)・住道神(すみじのかみ)、合わせて十四座を祭るものである。おそらく天皇の徳化が天下の隅々にまで行き渡ることを祈るもので、それゆえ八十島祭という(注:『延喜式』による)。
¶文徳(もんとく)天皇が即位した年の九月、宮主の占部宿禰雄貞(うらべのすくねおさだ)、神琴師(かみことし)の菅生朝臣末継(すごうのあそんすえつぐ)、典侍(ないしのすけ)の藤原朝臣泉子(ふじわらのあそんいずみこ)、御巫の榎本連浄子(えのもとのむらじきよこ)を摂津(せっつ)に遣わし、八十島祭を行わせた(注:『文徳実録』『日本紀略』による)。八十島祭はここに初めて見える。
¶延喜の制では、御巫・生島巫(いくしまのみかんなぎ)および史(し)・神琴師・神部・内侍・内蔵属(くらのさかん)・舎人などを難波津(なにわづ)に遣わして祭らせた。住吉の神主・祝、大依羅・垂水・海・住道の祝もこれにあずかった。中宮・東宮も、ともにこの祭りを行った(注:『延喜式』による)。
¶承平三年六月、典侍の滋野朝臣縄子(しげののあそんなわこ)が難波津に至って祭りを修めた(注:『日本紀略』による。縄子は『皇胤紹運録』による。○『江家次第』に記される八十島祭は、その儀式がほとんど禊ぎの行事に類しており、おそらく古い趣旨を失ったものであろう。参考として付け加えておく)。
¶遣蕃国使時祭(けんばんこくししのまつり)は、外国へ使者を遣わす際に、郊外の野で天神地祇を祭るものである(注:『延喜式』による)。風や波が穏やかで、船が無事に渡海できるようにと祈る(注:『続日本紀』『延喜式』による)。
¶養老元年、遣唐使が蓋山(がいざん)の南で神祇を祭った。
¶宝亀八年、使者が春日山(かすがやま)の麓で天神地祇を拝んだのも、これと同じ趣旨である(注:『続日本紀』による)。
¶延喜の制では、国司が祭りの庭を掃き清め、担当の役所が苫(とま)を葺いて座を設け、それぞれ祭りの場に集まる。神祇官が神部らを率いて祭りを行う。大使が自ら祝詞を述べ、神部が幣を供える。それが終わると、大使以下がそれぞれ私的な幣を供える。神部はこれを神座に供える。使者が帰国する日にも、これに準じて行う。船を造る際には木の霊と山の神を祭り、船出しようとする際には船居祭(ふなすえのまつり)を行う。神祇官は使者を住吉社(すみよしのやしろ)に遣わしてこれを祭らせる(注:『延喜式』による)。船首や船尾に神霊を宿らせ、海路の安全を守り護ることを祈るものである(注:『万葉集』による)。
¶蕃客入京時祭(ばんかくにゅうきょうじのまつり)は、外国からの賓客が入朝する際、まず使者と中臣とを畿内の内外に遣わして、通り道ごとの神祭を行わせるものである。すでに畿内の境に入れば、境を送る神祭を行う。都に近づけば、祓いの麻を与えて祓えをさせ、その後で入京を許す。その二日前には、都の四隅で障神祭(さえのかみのまつり)を行う。このほか延喜の制には、霹靂神祭(へきれきじんさい)・鎮竈鳴祭(かまなりしずめのまつり)・鎮水神祭(すいじんしずめのまつり)・御竈祭(みかまどのまつり)・御井祭(みいのまつり)・産井祭(うぶいのまつり)・鎮御在所祭(みあらかしずめのまつり)・鎮土公祭(どこうしずめのまつり)・御川水祭(みかわみずのまつり)・鎮新宮地祭(しんぐうちしずめのまつり)・御禊(ごけい)・羅城御贖(らじょうみあがもの)・八衢祭(やちまたのまつり)・行幸時祭(ぎょうこうじのまつり)(注:通り道の神幣、境の幣、大殿祭、御井ならびに御竈祭をいう)があり、みな臨時に行われた(注:『延喜式』による)。その内容は煩雑であり、ここに詳しく記す余裕はない。
¶奉大神宝儀(だいじんぽうをたてまつるぎ)は、天子の即位にあたり、諸社に使者を遣わして神宝を奉り、天下を治めることになった旨を告げるものである。これを大神宝使(だいじんぽうし)、また一代一度大神宝使という(注:『日本紀略』『小右記』による)。旧来の制度では、天皇が即位して大嘗祭を行うにあたり、まず使者を遣わして天神地祇に幣を奉ったが、これがその趣旨である(注:『貞観儀式』による。『日本紀略』も参照)。
¶朱雀(すざく)天皇が大嘗祭にあたり、一代一度の大神宝を伊勢および諸社に奉ったのが、その名の初見である(注:『日本紀略』による)。
¶三条(さんじょう)天皇以後は、大嘗祭の翌年にこの儀式を行うことが永く定例となった(注:『日本紀略』『江家次第』による)。
¶後一条(ごいちじょう)天皇が神宝を奉った先は、全部で五十九か所であった。伊勢の二宮(にぐう)および宇佐(うさ)の三所(注:三所は『小右記』による。○本書では二所とするが、誤りである)、石清水(いわしみず)の二所、賀茂(かも)の上下、日前(ひのくま)、国懸(くにかかす)、合わせて十一か所。そのほか園韓神(そのからかみ)・稲荷(いなり)・松尾(まつのお)・平野(ひらの)・大原野(おおはらの)、および畿内(注:大和の春日(かすが)・大和(おおやまと)・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・率川(いさがわ)、河内の恩智(おんぢ)・平岡(ひらおか)、摂津の住吉(すみよし)・大依羅(おおよさみ)・生田(いくた)・長田(ながた))の七道、合わせて四十八か所であった(注:東海道では伊勢の多度(たど)、尾張の熱田(あつた)、駿河の浅間(あさま)、伊豆の三島(みしま)、下総の香取(かとり)、常陸の鹿島(かしま)。東山道では近江の日吉(ひえ)、美濃の不破(ふわ)、信濃の須波(すわ)、上野の貫前(ぬきさき)、下野の二荒(ふたら)、陸奥の塩竈(しおがま)、出羽の大物忌(おおものいみ)。北陸道では若狭(わかさ)・若狭彦(わかさひこ)、加賀の白山(はくさん)、越前の気比(けひ)、能登の気多(けた)。山陰道では出雲(いずも)・熊野(くまの)・杵築(きづき)。山陽道では播磨の伊和(いわ)、美作の中山(なかやま)、備中の吉備津彦(きびつひこ)、安芸の伊都(いつ)・厳島(いつくしま)。南海道では伊予の大山津見(おおやまつみ)。西海道では宇佐(うさ)・香椎(かしい)・石清水姫(いわしみずひめ)、および筑前の宗像(むなかた)・住吉(すみよし)。筑後の高良(こうら)、肥後の阿蘇(あそ))。
¶その神宝は、伊勢以下十一か所については金銀の幣、錦の蓋(かさ)(注:四隅に金銅の鈴を付ける)、玉飾りの佩(おびもの)、大鏡、金銅の鈴、平文(ひょうもん)の麻桶(あさおけ)、平文の線柱(いとばしら)、鉾、飾り剣、赤漆塗りの弓と矢である。宇佐にはさらに御衣(みぞ)を加える。そのほかの四十八か所については、絹・錦・糸・紫綾の蓋・剣・弓・矢・鉾・鏡・麻桶・線柱である(注:『左経記』による)。おおよそ奉幣にあたっては、担当の役所があらかじめ使者を出す日と大祓の日時を勘案し、次いで幣使を定める。伊勢は通常通りとし、宇佐および宮中・京中には殿上人(てんじょうびと)を、畿内の諸大夫を各国一人ずつ、七道には蔵人所(くろうどどころ)の雑色(ぞうしき)を各道一人ずつ用いる。その時期になると、百官が大祓を行う。天子は沐浴し、石灰壇(いしばいのだん)にお出ましになって神宝をご覧になり、大神宮を拝んで二段の再拝を行う(注:『北山抄』『江家次第』『玉葉』『兵範記』を参照してまとめた)。使者らは神宝と宣命(せんみょう)を受けて出発する。
¶堀河(ほりかわ)天皇以後は、費用が不足したため、しばしば旧来の式通りには行えなくなったという(注:『経信卿記』『山槐記』『平戸記』による)。
¶祈年穀奉幣(きねんこくほうへい)は、毎年二月と七月に、吉日を選んで諸社に幣を奉り、穀物の豊かな実りを祈るものであり、それゆえこの名がある(注:『建武年中行事』『公事根源』による)。
¶延喜二年四月、幣を奉って穀物の豊作を祈った。祈年穀奉幣はここに始まる(注:『日本紀略』による)。
¶奉幣を受ける社の数は、時代を経るにつれて次第に増えていった。昌泰(しょうたい)・康保(こうほう)の頃には、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・大和・石上・広瀬・龍田・住吉・丹生(にう)・貴布禰(きふね)の十六社と定められた(注:『日本紀略』『諸社根源記』による)。
¶正暦(しょうりゃく)年間には、梅宮(うめのみや)・吉田(よしだ)・広田(ひろた)・北野(きたの)が加えられた(注:梅宮・吉田・広田・北野は住吉の下、丹生の上に序する)。
¶長徳二年には、祇園(ぎおん)が加えられた(注:広田の下、北野の上に序する)。
¶長暦三年には、さらに日吉(ひえ)が加えられ(注:住吉の下、梅宮の上に序する)、ついに二十二社と定まった(注:『百錬抄』によれば、永保元年に日吉が永く二十二社に加えられたとあり、これとは異なる説である。参考として付け加えておく)。またこれを三等に分け、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日を上七社、大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉を中七社、日吉・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴布禰を下八社と称した(注:『諸社根源記』『諸神記』『二十二社注式』による)。後にこれを踏襲したため、また二十二社奉幣とも称するようになった(注:『百錬抄』『康富記』による)。
¶おおよそ奉幣にあたっては、散斎(さんさい)二日、致斎(ちさい)一日を行う(注:『江家次第』による)。天子は大極殿(だいごくでん)にお出ましになり、幣使を発遣する。それが終わると、小安殿(こあんでん)にお出ましになって拝礼を行い、二段の再拝をする(注:『小右記』による。○『江家次第』『中右記』などによれば、行幸がない場合には、上卿が八省院(はっしょういん)に向かってこれを行い、天子は南殿(なでん)で拝礼するとある)。その幣使は、伊勢には王と中臣・忌部からそれぞれ一人、石清水・稲荷には四位の者からそれぞれ一人、ただし石清水には源氏を用いる。丹生・貴布禰には神祇官の六位からそれぞれ一人。それ以外はみな五位からそれぞれ一人であるが、梅宮には橘氏、吉田には藤原氏、北野には菅原氏を用いる。宣命を書くのに、伊勢には縹(はなだ)色の紙、賀茂には紅の紙、それ以外は黄色の紙を用いる(注:『江家次第』による。『朝野群載』も参照)。