卷之二百卌七 志第四
神祇四 祭儀上
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶祭祀の起源は非常に古い。天祖(てんそ)が天原(あまのはら)におられた頃、おそらく初めて新嘗(にいなめ)と神衣(かんみそ)の祭を行われたのであろう。天祖が天の岩戸に隠れられた際には、多くの神々が恐れ畏まり、幣帛(へいはく)を並べ祝詞(のりと)を宣べて、祈り謝罪した。後世の祭儀は、すべてこれに由来する。神武(じんむ)天皇は兵を率いておられた間も、自ら身を清めて祭祀を行い、即位に至るとますますその礼を修められた。文武の大臣たちも皆その祭事に参与した。綏靖(すいぜい)天皇の朝では、神八井耳命(かんやいみみのみこと)が天皇の兄として天皇を補佐し、神祇の祭祀を司った。崇神(すじん)・垂仁(すいにん)の二朝を経て、祭祀の礼はいよいよ整えられた。代々の天皇がこれを受け継ぎ、四季の祭は国家の常の典礼となった。大宝(たいほう)年間から延喜(えんぎ)年間に至るまで、その制度は史料によって明らかに考証できる。
¶およそ天神地祇(てんじんちぎ)の祭は、三等に分けられる。大祀(たいし)、中祀(ちゅうし)、小祀(しょうし)である。即位に伴う大嘗祭(だいじょうさい)は大祀とし、祈年祭(きねんさい)・月次祭(つきなみのまつり)・神嘗祭(かんなめさい)・新嘗祭(にいなめさい)・賀茂(かも)の祭などは中祀とし、大忌祭(おおいみのまつり)・風神祭・鎮花祭(はなしずめのまつり)・三枝祭(さいくさのまつり)・相嘗祭(あいなめのまつり)・鎮魂祭(みたましずめのまつり)・鎮火祭(ほしずめのまつり)・道饗祭(みちあえのまつり)・園韓神祭(そのからかみのまつり)・松尾(まつのお)・平野(ひらの)・春日(かすが)・大原野(おおはらの)などの祭は小祀とする。その他、事情に応じて行う祭を臨時祭という。すべての祭には祝詞があり、殿祭(でんさい)・門祭(もんさい)などは斎部氏(いんべうじ)が祝詞を読む。それ以外の諸祭は中臣氏(なかとみうじ)が祝詞を読む。臨時祭の祝詞は、担当の役所がその都度作成し、祭の前に朝廷に進上し、しかるべき処分を経てから行う。すべての祭祀の中で大嘗祭より重いものはない。神を敬い祖先を尊ぶ道、根本に報い始めに立ち返る意義が、ことごとくそこに備わっている。それゆえ今、これを諸篇の冒頭に掲げる。次に四季恒例の祭儀を記し、さらに次に臨時祭の式を記す。ただし賀茂・園韓神・松尾などの祭で、事が一社に係るものは、すべてそれぞれの社の条に挙げることとし、ここには列ねない。また祝詞は文章が多いため全文は載せず、ただその由来を考証できるもの、および詞藻(しそう)が典雅なものを記録し、参考に資することとする。
¶大嘗祭(だいじょうさい)は、天子が即位するにあたり、新穀を供え、天祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭り、あわせて祀典に列せられた天神地祇を饗応することをいい、これを大嘗という。また新嘗(にいなめ)ともいう。(注:令義解・日本書紀・大嘗会神饌秘記・永和大嘗会記・続神皇正統記・代始和抄・年中行事装束抄を参照した。上代においては大嘗はおそらく即位と区別がなかったのであろう。『旧事本紀』には、神武天皇の即位に際して天富命(あめのとみのみこと)が天璽(あまつしるし)の鏡剣を奉り、天種子命(あめのたねこのみこと)が天神の寿詞(よごと)を奏したとある。それゆえ『日本書紀』には即位を記して大嘗を記さない。ただ清寧(せいねい)天皇のみ、即位の翌年に大嘗を行っており、これには必ず別の理由があったはずである。唐の中宗が元年正月に即位した際、『日本決釈』には「十一月癸卯、大嘗祭を行う。王者一世一度の大祭はここに始まる」とある。これによれば即位と大嘗を分けたのは、おそらく持統(じとう)天皇に始まるのであろう。持統天皇は多く唐の制度に倣って典礼を定めており、これもまた唐に倣って即位の礼を定めたため、大嘗とその制度を異にせざるを得なかったのであろう。これ以後、大礼はついに二つに分かれることとなった。しかし明確な証拠は得られていないので、参考として付記しておく。)その後、代替わりごとに一度行うものを大嘗といい、毎年行うものを新嘗という。(注:本書によれば、天武(てんむ)天皇元年には大嘗を行ったと記し、四年・五年には新嘗と記している。大嘗と新嘗を区別するようになったのは、おそらく天武朝に始まるのであろう。『源平盛衰記』には「一代一度の大嘗は天武天皇の時に始まる」とあり、『永享大嘗会記』には「天武天皇の大嘗が、この会の始まりである」とある。これらはいずれも大嘗と新嘗が分かれて定制となったことを示している。また『北山抄』によれば、即位大嘗・毎年大嘗という語がある。大嘗と新嘗を区別しつつも、両者を通じて大嘗と称することもあったのであろう。また、大嘗とはおそらく「大新嘗」の略であろう。『続日本紀』の宣命(せんみょう)には「大新嘗」という語があり、これによって証明できる。あわせて参考として付記する。)
¶大嘗にあたっては、二つの国郡を卜定(ぼくじょう)し、国司にその事を供奉させる。一つを斎忌(ゆき)、悠紀(ゆき)といい、もう一つを次主基(すき)という。(注:卜定以下は『続日本紀』以下の国史を参照した。本書の註に「斎忌」とあり、これを「ゆき」と読む。「次」はこれを「すき」と読む。諸書によっては「由貴(ゆき)」「須貴(すき)」、あるいは「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」、あるいは「由機(ゆき)」「須機(すき)」と表記するが、いずれも同じである。)
¶その昔、天祖(てんそ)が高天原(たかまのはら)におられた際、初めて穀物の種を得られた。勅命によりこれを天狭田(あまのさなだ)・長田(ながた)に植えさせ、その新しい稲を取って、新宮において大嘗を行われた。(注:大嘗を行った以下は『古事記』を参照した。)大嘗の起源はここにある。皇孫(すめみま)が葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨されるにあたり、天祖はご自身が営まれた斎庭(ゆにわ)の稲穂を、天児屋(あめのこやね)・天太玉(あめのふとだま)の二神に授け、皇孫に奉らせられた。皇孫は筑紫(つくし)に都を定め、そこで悠紀・主基の国を卜定し、斎庭の稲を収穫して大嘗を行い、初めて物部(もののべ)・酒造児(さかつくりのこ)・酒波(さかなみ)・道実公(みちのみのきみ)などの職を定められた。(注:『日本書紀』。卜定以下は『台記別記』所引の天神寿詞による。)神武天皇の即位に至って、天富命(あめのとみのみこと)が斎部(いんべ)の一族を率いて天璽の鏡剣を奉り、天種子命(あめのたねこのみこと)が天神の寿詞を奏し、大伴(おおとも)・来目(くめ)の二氏が宮門を護衛し、物部氏が矛楯を立てて儀仗を整えた。大嘗の儀式は、おそらくここに定まったのであろう。(注:『旧事本紀』『古語拾遺』。『業資王記』には「中臣氏が寿詞を奏するのは持統天皇に始まる」とあるが、これは誤りであろう。)
¶清寧(せいねい)天皇二年十一月、伊予来目部小楯(いよのくめべのおだて)を遣わし、大嘗の供物を徴発させた。
¶皇極(こうぎょく)天皇元年十一月丁卯の日、天皇は新嘗を行われた。皇太子および大臣もそれぞれ自ら新嘗を行った。
¶天武(てんむ)天皇元年十一月、大嘗を行った。(注:天武天皇以下は『扶桑略記』による。)十二月、大嘗に供奉した中臣氏・忌部氏、および神官たち、播磨(はりま)・丹波(たんば)二国の郡司や役夫らに、それぞれ差をつけて物を賜った。特に郡司らには爵位を各一級賜った。(注:『日本書紀』。)
¶大宝(たいほう)の制では、七月以前に譲位を受けて即位した場合はその年に大嘗を行い、八月以後の場合は翌年に行うこととした。日取りには仲冬(十一月)の下の卯の日を用い、もし卯の日が三度あれば中の卯の日を用いた。その祭事は悠紀・須岐(すき)主基の国司が専ら執り行った。(注:『令義解』『続日本紀』『貞観儀式』『延喜式』。)
¶宝亀(ほうき)二年十一月癸卯、天皇は太政官に御幸され、大嘗を行われた。己酉の日、由機(ゆき)悠紀の厨(くりや)に御幸され、翌日にはまた須岐(すき)主基の厨に御幸された。
¶桓武(かんむ)天皇の即位の大嘗では、由機悠紀・須機主基の両国が種々の珍しい品物を献上し、その土地の風俗の歌舞を奏した。己巳の日、五位以上の者に宴を賜い、雅楽と大歌(おおうた)を奏し、それぞれ差をつけて禄を賜った。(注:『続日本紀』。)
¶大同(だいどう)三年、勅により「大嘗会において雑楽の伎人が唐風の品物で飾ることを禁ずる」とされた。(注:『日本後紀』。)しかしその後、千の功を尽くした標山(しめやま)を造り、八佾(はちいつ)の舞を行うようになり、大がかりな楽の費用がここから始まった。(注:『類聚国史』。)
¶嵯峨(さが)天皇の大嘗では、供奉した国司や掾(じょう)以上の者は、在国であっても遥任であっても、皆位階を加えられた。
¶その昔、文武(もんむ)天皇の頃、神官・国司らは初めて恩禄を給わり、その後これが慣例となった。しかしそれは禄を給うのみで、位階を加えることはなかった。孝謙(こうけん)天皇の頃に至り、国司の介(すけ)以上の者に初めて位階が賜られた。世間では「この頃は朝廷の綱紀がやや乱れ、それゆえ国司が取り入って特に恩恵に浴したのだ」と言われた。廃帝(はいたい、淳仁天皇)の頃には、両国の長官各一人に位が授けられたが、まだ定まった制度とはならなかった。弘仁(こうにん)以後、位階を加えることがついに永久の慣例となった。識者はこれを、公の損失を多く招き、いたずらに私的な怨みを生むものだと批判した。(注:『年中行事秘抄』所引の仁和書による。)
¶淳和(じゅんな)天皇の即位にあたり、右大臣藤原朝臣冬嗣(ふゆつぐ)らが「歴代の天皇が相次いで大嘗を行われ、天下の民が奔走して百姓が疲弊しております。華美な飾りを停止し、簡素倹約に従うべきです」と奏上し、これに従われた。そこで「大納言藤原朝臣緒嗣(おつぐ)、中納言良岑朝臣安世(よしみねのやすよ)らを検校(けんぎょう)とし、治部省(じぶしょう)の庁舎を行事の場所とする。ただし斎院の卜定については、宮内省を悠紀所、中務省を主基所とし、斎場は例により北野(きたの)を用いる。すべて金銀の飾りや彫刻を施した品物は一切用いず、努めて質素にすること。榊(さかき)で標山を造り、橘の木と木綿(ゆう)で飾り、悠紀・主基の文字を書いてこれを木の梢に掲げること。用いる正税(しょうぜい)は両国それぞれ十万束とし、国司の申請により、それぞれ五万束を加える。また荷物を運ぶ人夫には、それぞれ道中の食料を支給すること」との命が下された。(注:『類聚国史』。)
¶仁明(にんみょう)天皇は特に奢侈を好まれた。(注:『本朝文粋』。)その神宴では初めて唐楽が用いられ、舞台の造作もすでに華美を極めた。 (注:『仁智要録』『体源抄』。)そして悠紀・主基の二つの標山は、それぞれ山の形に造られた。その上には日月・瑞雲・桐竹・麟鳳・神仙などの像が設けられた。楽を奏する標山には大きな象と象使いの人形が造られ、象の背には小さな台が置かれ、二人の童子の人形が衝立を捧げ持ち、衝立の後ろには仕掛けが設けられた。舞人が進み出るたびに、その楽の名を掲げる仕組みであった。その構造の美しさは、巧妙で比類がなかった。悠紀からはさらに屏風四十帖が献上され、主基からは挿頭華(かざし)・和琴(わごん)各二机、厨子(ずし)十基、屏風二十帖が献上された。悠紀はまた別の物を献上し、群臣に宴を賜って歌舞を奏させた。位を授け禄を賜い、およそ五日間で終了した。(注:『続日本後紀』。)
¶貞観(じょうがん)の頃に至り、祭祀の儀式は法式に明記され、その制度は詳しく知ることができるようになった。天子が即位した年、大臣は勅を奉じて神祇官を召し、悠紀・主基の国郡を卜定する。すぐにその国へ符(ふ)を下し、次いで大納言・中納言各二人、参議一人を悠紀・主基両所の検校とする。その行事には四位の者各一人、五位の者三人、諸司の判官以上四人、主典以下五人、官掌(かじょう)・使部(しぶ)・直丁(じきちょう)各一人があたる。次に検校以下が神祇官を召し、悠紀・主基の行事所や小忌院(おみのいん)などを卜定させ、吉日を選んでこれに着手する。着手の際も日時を占う。すぐに大学寮・内匠寮(たくみりょう)の二寮に命じて、両所の印を共に作らせる。次に検校は担当の役所に命じて大舎人(おおとねり)、史生(ししょう)、散位(さんい)の位子(いし)、選抜された丁(よぼろ)などを進上させる。次に出納所・斎場所・小忌所・細工所・女工所・楽所・風俗楽所・倭舞所(やまとまいどころ)・大炊所(おおいどころ)などの担当者を定める。次に検校以下が神祇官、悠紀・主基両国の国司、および山城国の郡司らを率いて、荒見河(あらみがわ)で大祓(おおはらえ)を行う。北野に斎場を卜定し、四隅に標(しめ)を立て、葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)両郡の郡司に守らせる。次に大嘗宮の材木を採る山野、および小忌院・御井(みい)の場所、出納・細工などの諸施設を卜定する。次に内侍(ないし)が女工所において事にあたる。次に斎場の担当者らが、斎場の内院・外院・服院、および雑殿の敷地を定め、まず外院の雑屋を造り始める。
¶八月上旬、大祓使(おおはらえのつかい)を卜定し、天下に派遣する。下旬には、さらに畿内・近国に重ねて派遣する。これが終わると、天神地祇に幣帛を奉る使者を出発させる。次に宮内省の史生を河内(かわち)・和泉(いずみ)・尾張(おわり)・参河(みかわ)・備前(びぜん)に派遣し、神に供える器物の製作を監督させる。次に神祇官が抜穂使(ぬきほのつかい)を卜定する。一人を稲実卜部(いなのみのうらべ)、もう一人を禰宜卜部(ねぎのうらべ)といい、朝廷に申し出て派遣する。使者が国に到着すると、国司らを率いて斎郡(いむこおり)において大祓を行う。次に使者と国司が共に稲実殿(いなのみどの)の敷地と御田(みた)六段を卜定し、木綿(ゆう)を榊にかけて四隅に立て、人夫に守らせる。次に造酒童女(さかつくりのおとめ)・稲実公(いなのみのきみ)・大酒波(おおさかなみ)・大多米酒波(おおためさかなみ)・粉走(こばしり)・相作(あいづくり)・焼灰(やきはい)・採薪(たきぎとり)など、合わせて十五人を定める。これを物部人(もののべびと)という。また歌人・歌女それぞれ二十人を定める。稲実殿の敷地を鎮める儀式が終わると、使者は清めの鋤鎌(すきかま)を取り、草木を刈り柱穴を掘って、斎院(いむいん)の殿舎の造営を始める。
¶九月上旬、神祇官は神服社(かんはとりのやしろ)の神主一人を神服使(かんはとりのつかい)に任じる。参河(みかわ)に派遣し、神戸(かんべ)を集めて、神服を織る長(おさ)や織女(おりめ)・工手(たくみ)を卜定させる。次に衛門府(えもんふ)は兵庫寮(ひょうごりょう)に命じて、大嘗宮の南北の門に立てる神楯(かみたて)・戦戟(たたかいほこ)を進上させる。(注:丹波(たんば)の楯縫氏(たてぬいうじ)が楯を作り、紀伊(きい)の忌部氏(いんべうじ)が戟(ほこ)を作る。)また諸国に命じて物部(もののべ)・門部(かどべ)・語部(かたりべ)などを進上させる。次に神祇官は紀伊・淡路(あわじ)・阿波(あわ)の三国に卜部(うらべ)を派遣し、由加物(ゆかもの、神に供える種々の品)の製作を監督させ、斎場に送り届けさせて両国に分配する。ただし阿波の麤布(あらたえ)・木綿(ゆう)は神祇官に届けられる。この使者が都へ向かう日には、経由する国々が道路を掃除して奉迎する。中旬、御禊(ごけい)の装束を司る長官・次官各一人、判官・主典各二人を任命する。次に大臣は神祇官と陰陽寮(おんみょうりょう)に命じて御禊の場所と日時を卜定させる。この月、抜穂使は現地に在って、国郡司や物部人らを率い、水辺で祓(はらえ)を行う。御田の稲を抜いて斎院で乾燥させる。そのうち先に抜いた四束は、別に高萱(たかかや)の御倉(みくら)に納めて粢盛(しとぎもり、神饌用の米)に充てる。(注:「四字」は『延喜式』による。)残りは白酒・黒酒の材料とする。次に物部人らを率いて、初めて斎殿(いむどの)に入る。御歳神(みとしのかみ)・高御魂神(たかみむすびのかみ)・庭高日神(にわたかひのかみ)・御倉神(みくらのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)の八神を祭る。次に御稲十四束を、韓櫃(からびつ)七合に納め、一合を一荷(いっか)とし、薦(こも)で包んで筥(はこ)の形にし、残りは籠(かご)若干合に納める。(注:数は稲の多少による。)一合ごとに一束を入れ、二合を一荷として、木綿と榊をその上に挿す。これが終わると斎場の門を閉じ、道に出て都へ向かう。その行列は、健児(こんでい)四人がそれぞれ白木の杖を執り、左右に並んで立つ。子弟(してい)四人が木綿を付けた榊を執ってこれに続く。禰宜(ねぎ)・卜部が道の途中に並び、稲実公(いなのみのきみ)が木綿の鬘(かずら)を着けてこれに続き、御稲の韓櫃と籠がこれに続き、物部の男五人がこれに続き、敷設の者が道の途中に並ぶ。子弟四人、健児四人がこれに続く。造酒童女は輿に乗って道の途中を進み、物部の女九人、書生一人、郡司・国司がこれに続き、皆馬に乗る。稲実卜部がこれに続く。下旬、都の斎場に到着すると、官人と国司が祓えの麻を執って門に立ち、塩湯を御稲や種々の品にそそいで清め、院の外の仮屋に納める。次に稲実殿の敷地を鎮める。造酒童女がまず清めの鋤(すき)で地を掃き、また院の垣の四隅の柱穴を掘る。次に稲実卜部は造酒童女・国郡司らを率いて山に向かい、山の神を祭って材木を採る。国司は禰宜・造酒童女を率いて郡司らとともに野に向かい、野の神を祭って萱(かや)を採る。いずれも造酒童女がまず清めの斧・鎌で作業を始め、人夫がこれを終える。次に稲実卜部が造酒童女に清めの鋤で最初に手をつけさせ、物部がこれに続き、人夫が仕上げる。作業が終わると人夫を派遣して運ばせ、内院の雑殿の造営を始める。
¶十月上旬、京職(きょうしき)と山城国(やましろのくに)に命じて道路と御禊(ごけい)の場所を掃除させ、次に前後の次第を司る役を任命する。御禊の前日、担当の役所は御禊の場所に、五丈の紺色の幄(あく、幕を張った仮小屋)二宇を並べて立て、その中に百子帳(ひゃくしちょう)を置いて御禊の座とし、三丈離れたところに紺布の垣代(かきしろ)を懸ける。その門の内外には斑幔(まだらまん)を懸け、四丈離れたところに五丈の幄を立てて皇太子の禊の場所とする。二丈離れたところに五丈の幄を立てて神祇官の控えの場所とする。順に親王以下、侍従以上および諸司の幄を並べる。その日の夜明け、神祇官は道すがらの神々に幣帛を奉る。担当役所の職務、および御禊の行列の次第については、詳しくは『礼楽志』に見える。天子が御禊の場所に到着された後、皇太子は徒歩で参上する。しかるべき時刻に、神祇官が禊の祝詞を奏する。それが終わると、供膳の場所に御幸される。随従した五位以上の者には衣服・被(ふすま)をそれぞれ差をつけて賜る。天子の車駕は宮中へ戻られる。この旬の間に神服使(かんはとりのつかい)は服長(はとりのおさ)・織女(おりめ)・工手(たくみ)らを率いて、神服部(かんはとりべ)から納められた調(みつぎ)の糸を持って到着する。次にそれぞれ八神を祭り、次にそれぞれ地を掘って小さな斎の御酒甕(みきがめ)を安置する。次に稲実卜部・禰宜卜部は造酒童女や物部人らを率いて、竈(かまど)・井戸・山積(やまづみ)・龗(おかみ)・意加美(おかみ)・水の六神を祭る。次にそれぞれ斎院の大多米酒(おおためさけ)の甕を安置する。次にそれぞれ禰宜卜部・郡司らが造酒童女・物部人らを率いて、斎場の御井(みい)と童女井(わらわい)を掘り始める。この時、童女がまず清めの鋤で御井を掘り、次に禰宜が鋤で童女井を掘り、物部の人夫が仕上げる。次にそれぞれ御稲や種々の品を内院に移し納める。次にそれぞれ御稲を舂(つ)き、次にそれぞれ小斎院(こいみいん)の御酒を醸造する。中旬、それぞれ大多米酒殿(おおためさかどの)の神を祭り、大多米酒を醸造する。次に神服使と国司・斎場の担当者が服長・織女らを率いて、神服院(かんはとりのいん)の敷地を鎮める。すぐに両国が共同で神服院を造営し、造酒童女が鋤を執って、まず四隅の柱穴を掘り始め、人夫が仕上げる。次にそれぞれ大嘗宮の材木を採る。禰宜卜部・国司が造酒童女・物部人らを率いて、山に向かい山の神を祭る。また萱(かや)を刈るため、稲実卜部・宮主(みやじ)・禰宜・卜部・国郡司が造酒童女・物部の男らを率いて、野に向かい野の神を祭る。いずれも造酒童女が斧・鎌で作業を始め、人夫がこれを終える。それらを斎場に運び置き、それぞれ木工寮(もくりょう)に命じて熟練の工匠を進上させ、豊楽殿(ぶらくでん)の御座の板敷を造らせる。衛門府は豊楽院を掃除し、京職は道や橋を掃除し、諸氏の氏の長者は容儀端正で膳部(かしわでべ)を務めるに堪える者の名簿を進上する。次に太政官は京畿諸国の国司に符を下し、散斎(さんさい)・致斎(ちさい)および諸々の禁忌の事を告知する。(注:その忌み言葉とは、「死」を「直(なおる)」といい、「病」を「息(やすむ)」といい、「哭(な)く」を「塩垂(しおたる)」といい、「血」を「汗」といい、「宍(しし、肉)」を「菌(くさびら)」という類である。)下旬、外院において御酒を醸し始め、次に三国から御贄(みにえ)を進上させ、次にそれぞれ薬草の灰を御酒に混ぜ、次にそれぞれ会所(えしょ)の御贄を献上させる。また両所に供える雑器を進上させ、共に内膳司(ないぜんし)などの諸司に送る。次に春宮坊(とうぐうぼう)の雑物を献上し、主膳監(しゅぜんげん)に送る。祭の七日前、大嘗宮の斎殿(いむどの)の敷地を鎮める。その儀式では神祇官・中臣・忌部の官人が、順に悠紀国の国司や稲実卜部・禰宜卜部・造酒童女・焼灰(やきはい)らを率いて事にあたる。宮主(みやじ)は再拝を二度行い、祝詞を読む。主基もこれに準じる。鎮めの儀式が終わると、両国の童女がそれぞれ木綿を付けた榊を執り、神殿の四隅と門の場所を撃ち清め、清めの鍬を執って、御殿の四隅の柱穴を掘り始める。その後、諸々の工匠が一斉に着手して造営し、五日で完成させる。すでに中臣・忌部が御巫(みかんなぎ)らを率いて、御殿と門を祭る。次に物部人や標山(しめやま)の部領(ことり)・担夫(にないふ)らに装束を賜う。
¶祭の前日、担当役所は承光殿(じょうこうでん)・顕章堂(けんしょうどう)の前に、七丈の幄をそれぞれ一宇ずつ縦に立て、小斎(こいみ)の人々の座を設ける。暉章堂(きしょうどう)の前には五丈の幄二宇を横に立て、西側を参議以上の座、東側を五位以上の座とする。その西の幄から北へ二丈ほどのところに、皇太子の軽幄(かるあく)を立てる。修式堂(しゅうしきどう)の前には五丈の幄二宇を立て、東側に親王の座、西側に五位以上の座を設ける。廻立殿(かいりゅうでん)の北には五丈の幄一宇を横に立て、内侍の座を設ける。その日の夕暮れ、参議以上の者は宮内省に参上し、神祇官の伯(はく)以下の執事者に斎服(いみごろも)を賜う。
¶卯の日の明け方、神祇官は祈年祭の案(だい)の上に幣帛を諸神に配る。この日、中臣の官は卜部を率いて、宮内省において諸司の小斎の人を占い定める。それが終わると、それぞれ自分の家に戻り、沐浴して斎服を着け、再び集まる。別に中臣・忌部の官人各一人が、縫殿(ぬいどの)・大蔵などの官人を率いて、衾(ふすま)と単(ひとえ)を大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)に置く。内蔵(くら)の官人を率いて、御服と絹の幞頭(ぼくとう)を廻立殿に置く。諸々の衛府は儀式を整え、諸司は威儀の品を並べること、元日の儀式と同様にするが、兵部省・兵庫寮は関与しない。石上(いそのかみ)・榎井(えのい)の二氏の人各二人が、内物部(うちのもののべ)四十人を率いて、大嘗宮の南北の門に楯・戟を立て、それぞれ楯の下の胡床(あぐら)に着く。伴(とも)・佐伯(さえき)の二氏の人各一人が、南門の左右内側の脇の胡床に分かれて着き、近衛(このえ)・兵衛(ひょうえ)・衛門府はそれぞれ隊の杖を率いて、分かれて大嘗宮を守衛する。門部(かどべ)は諸門の出入りを取り締まる。隼人司(はやとのつかさ)は隼人を率いて、朝集殿(ちょうしゅうでん)の前に分かれて立ち、門が開くのを待って声を発する。中務省(なかつかさしょう)の輔(すけ)・丞(じょう)は大舎人寮(おおとねりりょう)および舎人(とねり)を率い、宮内省の輔・丞は主殿寮(とのもりょう)・掃部寮(かにもりりょう)などの寮および殿部(とのべ)・掃部(かにもり)らを率いて、皆公服を着て威儀の品を執り、左右に分かれて並ぶ。式部省は皇太子以下の版位(はんい、立ち位置を示す札)を大嘗宮南門外の庭に設ける。
¶申の刻より前、主殿寮が浴湯(よくとう)を供する。しかるべき時刻に、悠紀・主基の使者は供物を捧げ持ち、共に斎場を出発して大嘗宮へ向かう。その行列の順序は、神祇官の神部(かんとものお)が左右各二人、木綿を付けた榊を執って先導し、神服長(かんはとりのおさ)二人が榊を執り、神服の男七十二人、神服の女五十人が、皆酒柏(さかがしわ)を執ってこれに続く。神祇官の人一人が笏(しゃく)を持ち、道の中央に立つ。次に神服宿禰(かんはとりのすくね)一人、次に繒服(にぎたえ)の案を、神服の二人が舁(かつ)ぐ。次に国前行(くにのさきゆき)が左右各十人、皆白い杖を執る。(注:国前行以下は主基も同様である。)湯を舁ぐ者二人、部領(ことり)がこれを挟み、担いの丁(よぼろ)がこれを舁ぐ。次に主礼(しゅらい)左右各一人、次に次第司(しだいし)一人、次に標山(しめやま)一基、役夫がこれを曳き、部領がこれを挟む。
¶次に行事(ぎょうじ)および国郡司とその一族で五位以上の者が、白木の杖を持ち、左右に分かれて進む。次に稲実卜部一人が中央にあり、次に造酒童女一人が白木の輿(こし)に乗り、輿丁(こしかき)がこれを担ぎ、部領が白木の杖を持ってこれを挟む。次に御稲の輿一基を、担いの丁がこれを舁ぎ、部領がこれを挟む。(注:以下の諸品もすべて同様である。)次に稲実公一人、次に御膳(みけ)の台は別の案が八脚、御酒の台は別の案が一脚、次に主礼二人、次に次第司一人、次に黒酒(くろき)二瓶、白酒(しろき)二瓼(もたい)、由加物(ゆかもの)八荷、火燧(ひうち)一荷、杵(きね)四枚、箕(み)二枚、薪(たきぎ)十荷、火台四荷。次に主礼二人、次に次第司一人、次に松明(たいまつ)四荷、土製の火炉四荷、槲(かしわ)の葉二荷、食薦(すごも)と敷物一荷、韓竈(からかまど)一具、御水六瓼。次に禰宜卜部一人、次に六位以下の国郡司が白木の杖を持ち、左右に分かれて進む。次に酒盞(さかずき)の案一脚、黒酒十缶(ほとぎ)。次に主礼二人、次に次第司一人、次に白酒十缶、飾った瓼(もたい)の酒十口。次に膳部(かしわでべ)左右各十六人、次に倉代(くらしろ)十輿。次に膳部左右各十六人、次に倉代五輿、次に主礼二人、次に次第司一人、次に倉代五輿、次に膳部左右各十六人、次に倉代十輿。次に膳部左右各十六人、次に倉代五輿、次に主礼二人、次に次第司一人、次に倉代五輿、次に膳部左右各十六人、次に雑魚の鮨(すし)一百缶。次に主礼二人、次に次第司一人、次に見物用の菓子十輿、飯百櫃(ひつ)。次に主礼二人、次に次第司一人、次に酒および雑魚菜各百岳(たけ)。次に主礼二人、次に次第司一人、次に後陣(こうじん)左右各十人。それぞれ七条の大路で合流し、朱雀大路(すざくおおじ)へ出る。
¶その時、神祇官と神服の一行は、悠紀の行列から進み出て、大路の中央に立つ。両国はそれぞれ分かれ、悠紀は左に、主基は右に並び、朱雀門(すざくもん)の前で止まる。これより先、阿波(あわ)の忌部一人が、木綿を付けた榊を執って先導し、四人が麤妙服(あらたえのみそ)の案を舁いで、あらかじめ出向いて待ち受ける。供物が到着すると、繒服(にぎたえ)の案の後ろに進んで並び立つ。衛門府は会昌門(かいしょうもん)・応天門(おうてんもん)・朱雀門の三門を開くこと、元会(がんえ)の儀式と同様にする。供物は応天門に入る。隼人は門内において胡床から起ち、声を三度発する。神祇官の中臣一人が神部らを率いて、祓えの麻と塩湯を持ち、神に供える物や種々の品を清め祓う。神祇官一人が神服の男女らを率いて、膳屋(かしわやどの)に酒柏を置いて退出する。次に神祇官は左右に分かれて列を作り、両国の神に供える物を率いて、大嘗宮の南門外に至る。すなわち悠紀は左に回り、主基は右に回って、共に北門に至る。神祇官は神服宿禰を率いて、繒服の案を悠紀殿の神座の上に入れ奉る。次に忌部の官一人もまた麤服(あらたえ)の案を入れ奉る。これが終わると退出する。そして両国から献上された物を膳屋に収める。
¶衛門府が三つの門を閉じると、神祇官は北門の左脇に留まり控え、造酒童女がまず御飯用の稲を舂(つ)く。次に酒波(さかなみ)らはこれに合わせて歌いながら舂く。舂き終わると、伴造(とものみやつこ)が火を鑽(き)り出し、安曇宿禰(あずみのすくね)がこれを吹き起こし、伴造が御飯を炊く。内膳司(ないぜんし)は諸氏の伴造を率いて、御膳を調理する。宮内省の官人は左右に分かれて大膳職(だいぜんしき)・造酒司(みきのつかさ)を率い、神に供える物を並べる。高橋朝臣(たかはしのあそみ)・安曇宿禰各一人が、高坏(たかつき)や多賀須伎(たかすき)を捧げ持ち、膳部(かしわでべ)が順に並んで立ち、皆大嘗宮に入り、共に案の前に進む。並び立つと、先頭の者がまず案の上に供え、残りの者は手から手へと伝えて供える。これが終わると退出する。酉の刻、主殿寮が悠紀・主基両院に灯火をともす。伴(とも)・佐伯宿禰(さえきのすくね)各一人が、それぞれ門部(かどべ)八人を率いて、南門の外で夜通し庭燎(にわび)を焚く。戌の刻、天子の輿が廻立殿(かいりゅうでん)に御幸し、沐浴して祭服を着け、裸足のまま大嘗宮に参られる。(注:「裸足」は『江家次第』による。)この夜は警蹕(けいひつ、先払いの声)をせず、特に高声を禁じる。(注:「この夜」以下は『江家次第』『北山抄』所引の寛平式による。)その御通り道には、大蔵省があらかじめ布を一重に地上へ敷き、宮中もまた同様にする。宮内省の輔(すけ)二人が左右から膝をついて進み、葉薦(はごも)をその上に敷く。天子が歩いて進まれると、掃部允(かにもりのじょう)以上の者二人が後ろからこれを巻き取る。お帰りの際も同様にする。大臣一人が中臣・忌部・御巫(みかんなぎ)・猿女(さるめ)を率いて先導し、主殿寮の官人二人が燭(ともしび)を持って道を照らし、車持朝臣(くるまもちのあそみ)一人が菅蓋(すげのきぬがさ)を執り、子部宿禰(こべのすくね)・笠取直(かさとりのあたい)各一人が共に膝をついて蓋(きぬがさ)の綱を執る。お帰りの際も同様である。
¶すでに悠紀の正殿に入られると、小斎(こいみ)の官人たちはそれぞれの座に着く。ただし大斎(おおいみ)の人は宮門の外に留まる。伴・佐伯宿禰各一人が、大嘗宮の南門を開く。衛門府は朝堂院(ちょうどういん)の南門を開き、宮内省の官人が吉野(よしの)の国栖(くず)の楢笛(ならぶえ)の楽人を率いて、古式の風俗楽を奏させる。悠紀国の国司は歌人を率いて国風(くにぶり)の歌を奏させ、伴・佐伯宿禰各一人は語部(かたりべ)を率いて、古詞(ふること)を奏させる。皇太子および親王・大臣以下は、幄(あく)の下座に着く。六位以下の者は、暉章堂・修式堂の後ろで、順に並び立つ。官人たちが初めて入る際、隼人が声を発し、並び立つと止める。これが終わると、国栖は古式の風俗楽を五度奏し、悠紀もまた国風の歌を四度奏し、語部が次々に古詞を奏する。次に隼人司は隼人らを率いて、天皇の御座所の屏風の外に入り、風俗の歌舞を奏する。皇太子以下、在位の官人は庭の中の版位に着いて跪き、四度拍手する。それが終わると退出する。ただし五位以上の者は退いて幄の座に着く。亥の一刻、天子は自ら御饌(みけ)を天祖と諸神に供える。(注:「自ら供する」以下は『令義解』『大嘗会神饌秘記』『永享大嘗会記』『続神皇正統記』『代始和抄』『年中行事装束抄』を参照した。)
¶その儀式では、膳夫(かしわで)・伴造一人が火炬(たいまつ)を執って先導し、次に采女(うねめ)・朝臣二人が左右に分かれて並び、次に宮主(みやじ)・卜部一人が鬘(かずら)と襷(たすき)を着け、竹の杖を執って道の中央にある。水取(もいとり)一人が海老鰭(えびひれ)の盥槽(たらい)を執り、水部(もいとりべ)一人が甕(みか)の多志良加(たしらか)を執ってこれに続き、典水(もいとり)二人が巾筥(きんばこ)と刀子筥(とうすばこ)を執ってこれに続き、米女(よねめ)八人がそれぞれ神に供える物や供御(くご)の雑物などを執ってこれに続く。内膳司の高橋朝臣一人が鰒(あわび)の汁漬けを執ってこれに続き、安曇宿禰一人が海藻の汁漬けを執ってこれに続き、膳部六人がそれぞれ神に供える物や供御の雑物などを執ってこれに続く。酒部(さかべ)二人が酒の案を舁ぎ、また二人が黒酒・白酒の案を舁いでこれに続く。祭る場所に到着すると、典水が御水を供する。
¶天子が手水(ちょうず)を使われ終わると、祝詞を唱えて言われる。「私は謹んで天照大神(あまてらすおおみかみ)および天神地祇に申し上げます。天照大神をはじめ皇祖の神々の大いなる恵みによって、天下は安らかに治まり、五穀は豊かに実り、上下をあまねく覆い包んで、多くの民を救済されました」と。そして新穀を取り、これを炊いて飯とし、謹んでお供えする。次に陪膳(はいぜん)の采女(うねめ)が神への食事用の薦(こも)を短い敷物の上に敷いて、戸口の内側に控える。後取(しりとり)の采女が御食事用の薦を陪膳の采女に手渡し、陪膳がこれを天子の御前の短い敷物の上に敷く。次に後取が供物を取り、皆陪膳に手渡す。陪膳はこれを受け取り、御食事用の薦の上に置く。御飯、生の魚、乾魚、葉盤(ひらで)などの器、鰒(あわび)の汁漬け・海藻の汁漬けなどの高坏(たかつき)、および御箸などが、それぞれ順序に従って並べられる。次に後取がまた空の盞(さかずき)と高坏を捧げ持って陪膳に手渡し、供物の傍らに置く。次に陪膳が供物の器の蓋を取り、箸をその上に添えて、葉盤を天子に奉る。天子は自らそれに飯や菜を盛って陪膳に授けられる。陪膳はこれを受け取り、神への食事用の薦の上にお供えする。次に後取が清酒を進め、陪膳はこれを本柏(もとがしわ)に盛って天子に奉る。天子はこれを受け取り、神への御饌(みけ)の上に注がれる。この時、陪膳が祝文(のりとぶみ)を奏する。それが終わると、箸を下げて筥(はこ)に納め、さらに祭りの残りの御飯に箸を添える。天子は少し頭を下げ、拍手して「唯(はい)」と唱え、いつものように召し上がる。次に御酒を進め、これも拍手して「唯」と唱え、少し頭を下げて、八度に分けてこれを飲まれる。四刻、御饌を下げる。まず御食事用の薦を下げ、次に神への御饌を下げる。これを夕膳(ゆうべのみけ)という。(注:「祭る場所に到着すると」以下は『天仁大嘗会記』『江家次第』『大大嘗会神饌仮名記』による。「夕膳」は『宮主秘事口伝』による。)儀式が終わると、廻立殿にお戻りになり、沐浴して衣服を改め、主基(すき)の正殿に御幸される。
¶寅の一刻、御饌を供えることは、すべて悠紀の儀式と同様にする。これを暁膳(あかつきのみけ)という。(注:「暁膳」は『江家次第』『宮主秘事口伝』による。『令義解』によれば、大嘗とは新穀を嘗(な)めて神祇を祭ることをいう。朝は諸神が相嘗(あいなめ)し、夕は新穀を至尊(してん、天皇)に供えるのだという。『令聞書』には「至尊とは天照大神をいう」とある。これによれば、悠紀の夕膳は専ら天祖に供え、主基の暁膳は広く諸神に饗するということであろうか。参考として付記する。)
¶辰の日の卯の一刻、廻立殿にお戻りになり、祭服を脱いで宮中にお戻りになり、警蹕(けいひつ)・侍衛(じえい)はいつも通りとなる。祭礼はすでに終わり、百官はそれぞれ退出する。伴・佐伯宿禰が大嘗宮の門を閉じる。二刻、神祇官の中臣・忌部が御巫(みかんなぎ)らを率いて、大嘗宮の御殿を鎮め祭る。それが終わると、両国の人夫にこれを取り壊させ、その宮の跡地を鎮める。四刻、神祇官が仁寿殿(じじゅうでん)を祭る。これより先、担当役所は豊楽院(ぶらくいん)を掃除し、両国はそれぞれ御帳(みちょう)を殿上に設け、諸司が飾り付けをすること、元会の儀式と同様にする。辰の二刻、天子の車駕が豊楽院に御幸される。しばらく清暑堂(せいしょどう)に留まり、そして悠紀の帳(とばり)に入られる。担当役所が豊楽門・儀鸞門(ぎらんもん)の両門を開き、皇太子および親王以下、五位以上の者は版位に着き、六位以下の者は続いて入り、並び立つ。神祇官の中臣が榊を捧げ持って版位に着き、跪いて天神の寿詞(よごと)を奏する。群臣は皆跪く。その詞は次の通りである。
¶「現御神(あきつみかみ)として大八島国(おおやしまぐに)を治めていらっしゃる大倭根子天皇(おおやまとねこのすめらみこと)が、私の御前に、天神の寿詞を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。
¶高天原(たかまのはら)にいらっしゃる神々、天皇の親しい祖先神である神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)の命(みこと)をもって、八百万(やおよろず)の神々をお集めになって、皇孫尊(すめみまのみこと)は高天原で事を始められ、豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国を、安らかな国として平らかに治めよと、天の日嗣(ひつぎ)の高御座(たかみくら)にお座りになって、天の御膳(みけ)を長く久しい御膳として、千年万年にわたり瑞穂を平らかに安らかに、末永くお治めになるようにと、お任せになった後、天よりお降りになった後に、中臣の遠い祖先である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が、皇御孫尊(すめみまのみこと)の御前にお仕えして、天忍雲根神(あめのおしくもねのかみ)を天の二上(ふたかみ)に登らせ、神漏岐・神漏美命の御前において、お受けした旨を申し上げるには、「皇御孫尊の御膳(みけ)の水は、この現実の国の水に、天の水を加えて奉りたい」と申し上げよと、お言いつけになったことに従って、天忍雲根神は、天の浮雲に乗って、天の二上に上られて、神漏岐・神漏美命の御前に申し上げたところ、天の玉櫛を刺し立てて、夕日から朝日が照るまでの間、天の祝詞(のりと)の太祝詞言(ふとのりとごと)を唱えて仰せられるには、「このように唱えれば、待てば弱蒜(わかひる)のように、多くの穂が生え出るだろう。その根元から天の湧き水が出るだろう。これを天の水として召し上がるように」とお任せになりました。このようにお任せになった通りに、天皇がお治めになる国の瑞穂を、四国の卜部(うらべ)らが、太占(ふとまに)の占いによってお仕えして、悠紀にはどこそこの国の郡を、主基にはどこそこの国の郡を清め定めて、物部の人々である酒造児(さかつくりのこ)・酒波(さかなみ)・粉走(こばしり)・灰焼(はいやき)・薪採(たきぎとり)・相作(あいづくり)・稲実公(いなのみのきみ)らが、大嘗会の斎場に、身を清めて参上いたしました。
¶今年十一月中の卯の日に、厳かに身を清めて謹み謹んで、身も清めてお仕えし、月のうちに日時を選び定めて献上いたします。悠紀・主基の黒木・白木の御酒を、大倭根子天皇が、天の御膳の長い御膳、遠い御膳として、汁も実も、赤丹(あかに)の色に染まるほどにお召し上がりになって、豊明(とよのあかり)の宴で明るくお過ごしになり、天の神の寿詞を、称え言葉として定め奉ります。皇祖の神々もまた、千年万年の相嘗(あいなめ)の祭りに、共にお喜びになり、堅い岩のように常磐(ときわ)のように末永くお祭り申し上げて、いよいよ盛んな御代(みよ)にお栄えさせください。どこそこの年から始めて、天地(あめつち)と月日(つきひ)とともに、明るく照り輝く御代のことを、本末(もとすえ)傾くことなく、繁った槍の中に執り持つように大切にお仕えする中臣某(なにがし)が、寿詞を称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。また申し上げますことは、天皇の朝廷にお仕えする親王たち、諸王、諸臣、百官の人々、天下四方の国の多くの民が集まって、見て尊び、喜んで承って、天皇の朝廷にも末永い御代にも、桑の枝が茂り立つように栄えてお仕えするべく、お祈り申し上げることをお聞き届けくださいと、謹んで謹んで申し上げます」と。(注:「詞は次の通り」以下は『台記別記』による。)
¶奏上が終わると、忌部が神璽(しんじ)の鏡剣を奉り、中臣・忌部は共に退出し、親王以下は皆起立する。次に弁大夫(べんのだいぶ)が版位に着き、跪いて両国から献上された饌物(せんぶつ)の品目を奏する。それが終わると退出する。皇太子以下、在位の官人は、四段の拍手をして順に退出する。この時、大臣は左近陣(さこんのじん)の西の端でやや南寄りに座を謝して、東の階段から昇って座に着く。宮内省は大膳職・造酒司を率いて供物を執り、庭の中に並べ進める。すぐにこれを下げると、次に皇太子が殿上に昇り、座の東に至って西を向いて座と酒を謝して座に着く。大臣は少納言に命じて大夫(だいぶ)を呼ばせ、少納言は「唯」と応えて出て呼ぶ。親王以下、在位の官人は「唯」と応える。参議以上が先に入り、諸々の仗(じょう)が共に起立する。次に五位以上が入り、式部の録(さかん)が「容止(ようし)」と唱える。次に六位以下が入り、省の掌(しょう)もまた「容止」と唱える。位の異なる者が重なって並び、並び立つと、大臣が「座に着け」と宣し、親王以下は「唯」と応える。座を謝することが終わると、造酒正(みきのかみ)が空の盞を持ち、進んで貫首(かんじゅ、上首の者)に授ける。(注:授受は共に跪いて行う。)さらに二、三丈ほど下がって、北を向いて立つ。酒を謝することが終わると、造酒正は盞を持って酒樽の置き場所へ戻る。参議以上は顕陽堂(けんようどう)・承歓堂(しょうかんどう)の両堂に分かれて着き、六位以下は観徳堂(かんとくどう)・明義堂(めいぎどう)の両堂に分かれて着く。それが終わると、諸々の仗は共に座る。巳の一刻、御饌を供える。次に五位以上に饌を賜い、次に弁官が両国の饌物を諸司に配り給う。悠紀はその時々の新鮮な味覚を献上する。次に国司は風俗の歌人らを率いて、歌いながら入る。そして風俗の歌舞を奏する。次に担当役所の楽を奏し、それが終わると退出する。次に御挿頭(みかざし)・和琴(わごん)・衾(ふすま)・襖子(あおし)を献上する。それが終わると、天子は清暑堂にお戻りになり、主基(すき)の帳(とばり)へ御幸される。その儀式は上と同様である。次に悠紀の様式に倣って献上物の韓櫃(からびつ)を殿前の庭に並べる。酉の刻、禄を賜う。四位以上には衾(ふすま)一条、五位には襖子一領を賜う。それが終わると、清暑堂にお戻りになる。
¶巳の日の辰の刻、悠紀の帳に御幸される。その儀式は辰の日と同じである。悠紀の人が倭舞(やまとまい)を奏し、雅楽寮が楽を奏する。未の刻、主基の帳に御幸される。その儀式は上と同じである。主基の禄の献上物である韓櫃を殿前の庭に並べる。次に御膳を供える。次に主基の人が田舞(たまい)を奏し、次に御膳を薦(すす)め、次に雅楽寮が楽を奏する。酉の刻、禄を賜うことは辰の日と同じである。亥の刻、清暑堂にお戻りになる。
¶午の日の卯の刻、悠紀・主基両国の帳を撤去する。担当役所は高御座(たかみくら)を飾り付け、殿前に舞台を構える。しかるべき時刻に、天子は清暑堂を出られ、豊楽殿の高御座に御幸される。次に皇太子および親王以下、在位の官人が入る。次に式部省・兵部省の両省が、叙位を受ける予定の者を率いて、中庭に立つ。勅により叙位が行われると、担当役所は御膳を加える。主膳監(しゅぜんげん)は東宮(とうぐう)の饌(せん)を供え、大膳職は群臣の饌を送る。一献(いっこん)の後、吉野の国栖が儀鸞門の外で歌と笛を奏し、あわせて御贄(みにえ)を献上する。それが終わると、伴・佐伯の両氏が舞人を率いて、久米舞(くめまい)を奏する。次に安倍氏の人が吉志舞(きしまい)を奏する。次に悠紀・主基両国の国司が歌人・歌女を率いて、風俗楽を奏する。次に大歌(おおうた)および五節舞(ごせちのまい)を奏する。それが終わると、皇太子はまず座を立って退き、次に小斎(こいみ)の親王以下、五位以上の者が殿を下りて並び立つ。次に治部省の雅楽が楽人を率いて立歌(たちうた)を奏し、次に神服の女が解斎(げさい)の倭舞を供する。次に神祇官・中臣・忌部、および小斎の侍従以下、番上(ばんじょう)以上の者が左右に分かれて入る。造酒司は各人に柏(かしわ)を賜い、酒を受けてこれを飲む。それが終わると、柏を鬘(かずら)として倭舞を舞う。大膳・大炊・造酒および両国司に酒食を賜う。それが終わると、斎服を解いて常服を着る。親王以下はそれぞれ禄を賜い、再拝して退出し、輿に乗って宮中へお帰りになる。この時、斎を解いた公卿以下は、宮内省の座に着く。神祇官がまず解斎の歌を奏し、雅楽寮がこれに続く。宮内丞(くないのじょう)・神祇祐(じんぎのじょう)らが倭舞を舞う。それが終わると、食事を賜う。四段の拍手をして、それぞれ退出する。
¶未の日、神祇官および諸司の六位以下の官人、両国の国郡司・役夫以上に、それぞれ差をつけて禄を賜う。
¶晦日(つごもり)、朱雀門で大祓(おおはらえ)を行うこと、二季(六月・十二月)の儀式と同様にする。
¶十二月上旬、禰宜・卜部を両斎国に派遣し、御膳の八神を祭る。それが終わると、物部人らを召し集めて、斎を解く祓えを行う。おおよそ大嘗会に用いる雑用の費用は、二つの斎国に正税(しょうぜい)の稲各一万束を負担させ、斎郡には調庸(ちょうよう)の雑物を負担させ、また諸道(しょどう)に命じて交易の雑物を進上させ、これを助けとした。紀伊・阿波・淡路は特に雑多な贄(にえ)を進上し、河内・和泉・尾張・参河・備前は雑器を進上する。これを斎甕由加物(いむかめのゆかもの)という。その他にも担当役所に雑物・雑器を進上させて、その用途に充てた。(注:『貞観儀式』。)延喜の制も、おおむねこれに拠っている。(注:『延喜式』。)
¶中臣が寿詞を奏し、忌部が鏡剣を奉ることは、最も重要な大典であり、代々改められることがなかった。(注:『日本書紀』『古語拾遺』『令義解』。)しかし中世以降、忌部氏は大いに衰え、祖先の事業を継承することができなくなった。(注:『古語拾遺』。)天長(てんちょう)の頃に至り、ある者が「鏡剣は重要な宝器であり、忌部にこれを委ねるべきではない」と奏上し、朝廷の議論はこれに従った。そのためこの儀礼は一度廃絶した。(注:『北山抄』所引の寛平式および天慶記による。)貞観の頃に至り、おそらく旧制が復活したのであろう。(注:『貞観儀式』『延喜式』。)
¶後朱雀(ごすざく)天皇の頃、斎部(いんべ)氏がこの事に供奉するようになった。(注:『江家次第』。)しかしその後この儀礼はついに絶え、ただその言葉を奏するのみとなった。(注:『江家次第』『天仁永和大嘗会記』。)そもそも仁明(にんみょう)天皇の頃から悠紀・主基の二つの標(しめ)を飾ることが始まり、その華美を極めるようになった。(注:『続日本後紀』。)歴代がこれに倣い、ますます工夫を凝らして、製作は華美となり、これを標山(しめやま)と名付けた。その上には日月の像を懸けたので、また日月山(じつげつざん)とも称した。祭が終わると、両国の役夫にこれを牽かせた。国司や行事にあたる弁官(べんかん)らは、小斎の衣を着けてこれに従った。皇族や臣下、庶民はその風流を愛でて、競ってこれを見物し、ついに恒例となった。(注:『栄花物語』『中右記』『康富記』『正安永和大嘗会記』『代始和抄』を参照した。)
¶悠紀・主基の二国については、宇多(うだ)天皇以後、再び卜定されることはなくなった。二つの国を定める際には、ただ斎郡(いむこおり)のみを占うようになった。(注:『中右記』。)延喜以後は、おおむね近江(おうみ)を悠紀とし、備中(びっちゅう)・丹波(たんば)を交互に主基とした。(注:『江家次第』『代始和抄』。)朝廷の政治が衰えるに及んで、国郡がもはや祭事に供奉しなくなったため、荘園や国衙(こくが)に費用を賦課する制度を定めて、その費用に充てた。白河(しらかわ)・鳥羽(とば)の二天皇の頃から、専らこの制度に従い、一段ごとに米三升を課し、あるいは銭を徴収した。しかし国衙が十分に納めないこともあり、荘園にもこれを拒む者があり、後にはまた重任(ちょうにん)・遷任(せんにん)などの功績を募って、その費用を補うこともあった。(注:『東寺文書』『常陸加茂社文書』『常陸府中総社文書』『兵範記』『平戸記』『葉黄記』を参照した。)その衰弊はこのようであったから、行事もまた多く旧来の式から外れるようになった。抜穂使(ぬきほのつかい)らが郡に臨んでも、荘司(しょうじ)らに妨げられて、事を行うことができないこともあった。ひどい場合には、祭宮(さいぐう)や斎場を破壊し、争いにより死者が出ることさえあった。
¶高倉(たかくら)天皇即位の年、行事所が「祭祀への供物の費用を諸国に割り当てることは、すでに法式に載っております。期限を延ばすべきではありません。しかし諸国司らは、事故にかこつけて、その務めを果たしません。一代の大典が、これによって遅延しております。長和(ちょうわ)・寛治(かんじ)の先例に従い、命令に従わない者は大祓(おおはらえ)の罰を科し、現任の職を解くべきです。また祭儀がまだ終わらないうちに、多くの人々が集まって参ります。大嘗宮や斎場を壊し、ついには争いや傷害の事件が起きております。検非違使(けびいし)や武士に、宮内の警護をさせるべきです」と奏上し、いずれも勅によりこれに従われた。(注:『兵範記』。)
¶しかしこの後、衰退はますます甚だしくなり、古くからの慣例の多くが失われた。後醍醐(ごだいご)天皇が南へ遷られて以後、大嘗祭はついに廃れ、北朝の天皇がかろうじてその礼を挙行するのみとなった。(注:『太平記』『続神皇正統記』。)
¶祈年祭(きねんさい)は、その年の災いが起こらず、時候が順調であるようにと祈るものであることから、この名がある。(注:『令義解』。)太古、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営んでおられた際、牛の肉を田を耕す人夫に食べさせた。御歳神(みとしのかみ)はこれに怒り、蝗(いなご)をその田に放ったので、苗はたちまち枯れてしまった。そこで大地主神は片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじかんなぎ)にこれを占わせた。すると「御歳神が祟っておられます。白い猪、白い馬、白い鶏を献上して、その怒りを解くべきです」と告げられた。そこでその言葉に従った。すると神はさらに、麻の茎で籰(わく)の柄を作ってこれを繰り、麻の葉でこれを掃き、玄参(ごまのはぐさ)でこれを押さえ、烏扇(からすおうぎ)であおぐようにと教えられた。また薏子(はとむぎ)・蜀椒(さんしょう)・呉桃(くるみ)の葉および塩などの品を田の畔(あぜ)に置くようにと教えられた。すると蝗はことごとく尽きて、穀物は大いに実った。祈年祭はこれに由来する。(注:『古語拾遺』。)
¶天武(てんむ)天皇二年、初めて二月四日にこれを行うようになった。(注:『師緒年中行事』『年中行事秘抄』『公事根源』。本書によれば、三年二月四日甲申(こうしん)としているが、しかし長暦(ちょうりゃく、暦の計算)を推算すると、二年二月甲申が実際にはその四日にあたる。それゆえ今これを訂正した。またこの祭に四日を用いるようになったのは、おそらくこの時に始まるのであろう。ただしこれ以後、承和(じょうわ)の頃までは、史書に明文がなく、恒例であったかどうかを断定することはできない。)
¶大宝(たいほう)の制でも、やはり二月を用いた。百官は皆神祇官に集まり、天神地祇を祭った。(注:『令義解』『令集解』。)その内訳は、御歳神一座、御巫(みかんなぎ)が祭る神八座、座摩神(いかすりのかみ)五座、御門神(みかどのかみ)八座、生島神(いくしまのかみ)二座、御県神(みあがたのかみ)・山口神(やまぐちのかみ)各六座、水分神(みくまりのかみ)四座であり、いずれも中臣が祝詞を宣り、忌部が幣帛を配った。ただし伊勢の大神宮には別に祝詞を奉り、御歳神には特に白馬・白猪・白鶏を加えた。諸社の神主・禰宜・祝部(はふりべ)らは、皆祭の庭に集まり、それぞれ幣帛を受け取って、これを各社に奉った。(注:『延喜式』。「諸社」以下は『類聚国史』『類聚三代格』を参照した。)
¶延暦(えんりゃく)十七年、祈年の幣帛を配る神社を定めた。諸国の祝部が都に入って幣帛を受け取るのは、遠方の場合は煩わしいことが多いため、その国の物を用いることとした。官幣(かんぺい)・国幣(こくへい)の区別は、これに始まる。(注:『類聚国史』。)
¶弘仁(こうにん)十四年、「祈年祭では、辰の二点までに、担当役所が諸事の準備を終えること。三点には、参議以上が座に着いて事を行うこと」と定められた。(注:『年中行事秘抄』。)
¶承和(じょうわ)九年二月四日、使者を遣わして祈年の幣帛を大神宮および諸社に奉らせた。(注:『続日本後紀』。)
¶貞観(じょうがん)元年二月四日、祭を行った。これ以後、四日をもって例祭とした。(注:『三代実録』。「これ以後」以下は『貞観儀式』『延喜式』を参照した。)
¶その儀式では、まず十五日前に、忌部八人、鍛冶工(かじこう)と木工(もくこう)各二人を充て、神に供える調度品を作らせる。神祇官・忌部の官人一人がこの事を監督する。祭の日の明け方、担当役所は諸事を準備し、神祇官は幣帛の品を斎院(いむいん)に並べる。京職(きょうしき)は白い鶏一羽を、近江(おうみ)は白い猪一頭を貢納する。神祇官の人は御巫(みかんなぎ)らを率いて、中門から入り、西舎(にしのや)の座に着き、東を向いて北を上座とする。大臣以下は北門から入り、門内の座に着く。外記(げき)が事の準備ができたことを告げる。大臣以下は起って北舎の座に着き、大臣は南を向き、参議以上は西を向き、諸王は東を向いて、皆北を上座とする。大臣は刀禰(とね)を式部の輔(すけ)に伝えさせ、輔が官人たちを率いて南門から入り、南舎の座に着き北を向いて東を上座とする。御巫は降りて西舎前の庭の座に着く。左右の馬寮(めりょう)は御馬二十一匹を牽く。(注:『延喜式』によれば、大神宮・度会宮(わたらいのみや)、および高御魂(たかみむすび)・大宮女(おおみやのめ)、甘樫(あまかし)・飛鳥(あすか)・石村(いわれ)・忍坂(おさか)・長谷(はせ)・吉野(よしの)・巨勢(こせ)・賀茂(かも)・当麻(たいま)・大阪(おおさか)・胆駒(いこま)・都祁(つげ)・養布(やぶ)などの山口の神、吉野・宇陀(うだ)・葛木(かつらぎ)・竹渓(たきたに)などの水分(みくまり)の神、あわせて十九社に、それぞれ馬一匹を加えて、合わせて二十一匹となるという。)南舎の東端に立つ。神祇官の掌(しょう)二人が祝部(はふりべ)らを率いて南門から入り、西舎の南端に立つ。神祇官の人は降りて舎の前の座に着き、大臣以下および諸司もまた同様にする。中臣が庭の座に進み出て、祝詞を読む。その詞は次の通りである。
¶「集まってお仕えする神主・祝部(はふりべ)たちよ、皆お聞きくださいと申し上げます。高天原(たかまのはら)にいらっしゃる、天皇の親しい祖先神である神漏伎命(かむろぎのみこと)・神漏弥命(かむろみのみこと)によって、天の社・国の社と称え言葉を申し上げ奉ります。皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶今年二月に、御年(みとし)の豊作を祈願しようと、皇御孫命(すめみまのみこと)の貴い幣帛を、朝日の豊かに昇るように、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。御年の皇神(すめかみ)たちの御前に申し上げます。
¶皇祖の神々がお任せになった奥深い田の御年(みとし、稲)を、手や肘に泥の水を浴び、向う股に泥を寄せて、耕作しましょう。奥深い田の御年を、大きく実った穂、立派な穂として、皇祖の神々がお任せになったならば、初穂を、千の穂、八百の穂として据え置き、瓺(もたい、酒がめ)を高く据え、瓺の腹を満たし並べて、汁にも穂にも、称え言葉として定め奉りましょう。
¶広い野原に生えるものは、甘菜(あまな)・辛菜(からな)です。青い海原に住むものは、鰭(ひれ)の広い魚、鰭の狭い魚、沖の藻、辺(へ)の藻に至るまで。御衣(みそ)としては、明るい妙(たえ)の布、照り輝く妙の布、柔らかい妙の布、荒い妙の布を、称え言葉として定め奉りましょう。
¶御年の皇神の御前に、白馬・白猪・白鶏、種々の色の物を備え奉って、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。大御巫(おおみかんなぎ)が称え言葉を定め奉ります。皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶神魂(かむむすび)・高御魂(たかみむすび)・生魂(いくむすび)・足魂(たるむすび)・玉留魂(たまつめむすび)・大宮女(おおみやのめ)・大御膳都神(おおみけつかみ)・辞代主(ことしろぬし)と、御名を申し上げて、称え言葉を定め奉るならば、皇御孫命の御代(みよ)を、末永い御代として、堅い岩のように常磐のようにお祭り申し上げ、いよいよ盛んな御代に幸あらしめ奉ります。それゆえに、天皇の親しい祖先神である神漏伎命・神漏弥命として、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。座摩(いかすり)の御巫が称え言葉を定め奉ります。皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶生井(いくい)・栄井(さくい)・津長井(つながい)・阿須波(あすは)・波比岐(はひき)と、御名を申し上げて、称え言葉を定め奉るならば、皇神が座す地下の岩根に、宮柱を太く立て、高天原に千木(ちぎ)を高く上げて、皇御孫命の瑞々しい御殿にお仕え申し上げて、天の御蔭(みかげ)、日の御蔭として隠れておられて、四方の国を安らかな国として、平らかにお治めになりますので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。御門(みかど)の御巫が称え言葉を定め奉ります。皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶櫛磐間門命(くしいわまどのみこと)・豊磐間門命(とよいわまどのみこと)と御名を申し上げて、称え言葉を定め奉るならば、四方の御門に、堅い岩の群れのように塞がっておられて、朝は御門を開き奉り、夕は御門を閉じ奉って、疎ましい者が下から往来するのを見張り、夜の守り、日の守りとしてお守り申し上げますので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。生島(いくしま)の御巫が称え言葉を定め奉ります。皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶生国足国(いくくにたるくに)と御名を申し上げて、称え言葉を定め奉るならば、皇神が座す島々の多くの島は、谷蟆(たにぐく、ひきがえる)の這い巡る果てまで、潮の泡の留まる限りまで、狭い国は広く、険しい国は平らかに、多くの島が落ちることなく治まります。皇祖の神々がお任せになりましたので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。
¶別にお伝えします。伊勢にいらっしゃる天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御前に申し上げます。皇神が見晴らされる四方の国は、天の壁の立つ果てまで、国の退く限りまで、青雲の靄(もや)のかかる果てまで、白雲の落ちて臥す限りまで、青い海原は、棹や舵が乾くことなく、舟の艫先(ともさき)の至る果てまで。大海原に舟を満たし続けて、陸を行く道では、荷の緒を縛り固めて、岩や木の根を踏みしめて、馬の蹄(ひづめ)の至る限りまで、長い道を絶え間なく、立ち続けて。狭い国は広く、険しい国は平らかに、遠い国は八十(やそ)の綱を打ちかけて引き寄せるように。皇大御神がお寄せになる初物(はつもの)の貢物は、皇大御神の御前に、横山のように積み上げて置いて、残りを平らかにお受け取りください。
¶また皇御孫命の御代を、末永い御代として、堅い岩のように常磐のようにお祭り申し上げ、いよいよ盛んな御代に幸あらしめ奉ります。それゆえに、天皇の親しい祖先神である神漏伎命・神漏弥命として、大切な物の首根を引き抜くように取り除いて、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。御県(みあがた)にいらっしゃる皇祖の神々の御前に申し上げます。
¶高市(たけち)・葛木(かつらぎ)・十市(とおち)・志貴(しき)・山辺(やまのべ)・曾布(そふ)と御名を申し上げて、この六つの御県に生え出た甘菜・辛菜を持ち参りまして、皇御孫命の長い御膳、遠い御膳として召し上がっていただきますので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。
¶山口(やまぐち)にいらっしゃる皇祖の神々の御前に申し上げます。飛鳥(あすか)・石村(いわれ)・忍阪(おさか)・長谷(はせ)・畝火(うねび)・耳無(みみなし)と御名を申し上げて、遠い山、近い山に生え立つ、大きな木・小さな木を、根元から先まで切り出して、特別に持ち参りまして、皇御孫命の瑞々しい御殿にお仕え申し上げて、天の御蔭、日の御蔭として隠れておられて、四方の国を安らかな国として、平らかにお治めになりますので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。
¶水分(みくまり)にいらっしゃる皇祖の神々の御前に申し上げます。吉野(よしの)・宇陀(うだ)・都祁(つげ)・葛木(かつらぎ)と御名を申し上げて、称え言葉を定め奉るならば、皇神がお寄せになる奥深い田の御年を、奥深い田の御年を、大きく実った穂、立派な穂として、お寄せになったならば、皇神たちに初穂は穂にも汁にも、瓺(もたい)の腹を満たし並べて、残りを、皇御孫命の朝の御食、夕の御食として、赤丹(あかに)の色の穂として召し上がっていただきますので、皇御孫命の貴い幣帛を、称え言葉として定め奉ろうと申し上げます。
¶別にお伝えします。忌部(いんべ)の弱い肩に、太い襷(たすき)を掛けて、身を清めてお仕え申し上げた幣帛を、神主・祝部らが受け取って、誤ることなく、捧げ持って奉れと申し上げます」と。(注:「詞は次の通り」以下は『延喜式』による。)
¶一段が終わるごとに、祝部は「唯」と唱える。読み終わると退く。神祇官は二段の拍手をする。次に大臣以下、五位以上、および諸司・主典以上、並びに祝部もまた同様にする。それが終わると、それぞれ元の位置に戻る。伯(はく)が幣帛を配ることを唱え、史(し)二人がそれぞれ札を取り、案(だい)の西端に分かれて立ち、東を向く。忌部二人が神部二人を率いて、進んで案を挟んで立ち、幣帛を配ることを監督する。史が順に唱える。御巫および諸社の祝(はふり)は、皆「唯」と唱える。神部が幣帛を執ってこれを配る。大神宮の幣帛は別の案に奠(まつ)り、使者を差し向けてこれを奉る。(注:「別の案」は『延喜式』による。)
¶延喜(えんぎ)の制では、祈年祭で祭られる神は三千百三十二座であり、そのうち官幣に預かるものは七百三十七座である。そのうち三百四座は案の上に置く幣帛に預かり、四百三十三座は案の下に置く幣帛に預かる。国幣は二千三百九十五座である。長官以下が会し集まって事を行い、幣帛の品は皆正税(しょうぜい)を用いる。(注:『延喜式』。)
¶月次祭(つきなみのまつり)は、祈年祭で祭られる神々に幣帛を奉るもので、その意義も祈年祭と同じである。ただし庶民の家の神を祭ることは、上代では毎月行われたので、この名がある。(注:『令義解』『年中行事歌合大意』。)
¶大宝(たいほう)の制では、ただ夏と冬の季節の月にのみ行い、なお古い名称をそのまま用いた。百官が神祇官に会してこれを行った。(注:『令義解』。)
¶弘仁(こうにん)十四年の制で、「卯の四点より前に、担当役所が準備を終えること。辰の一点に、参議以上が座に着いて事を行うこと」とされた。(注:『年中行事秘抄』。『公事根源』によれば、月次祭は嵯峨天皇の頃に始まるというが、これは誤りである。嵯峨天皇の頃はただ時刻を定めただけである。)これ以前は日取りも一定していなかったが、この頃に至って十一日と定められた。(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』。)
¶貞観の頃、その儀式が定められた。祭の五日前に、神に供える調度品を作り備える。祭の日の卯の一刻(注:季冬〈十二月〉は辰の一刻を用いる。)、担当役所が諸事を執り行うことは、その他は祈年祭と同様にする。ただし京職・近江は鶏や猪を貢納しない。(注:『貞観儀式』。)
¶延喜の制では、祭られる神は三百四座と定められ、皆案の上に幣帛を奠る。新嘗祭もこれと同じである。(注:『延喜式』。)
¶寛仁(かんにん)の頃に至り、上卿(しょうけい)が事故を理由に祭に参加せず、弁官(べんかん)に代わって事を行わせることもあった。(注:『左経記』。)
¶大治(だいじ)二年、神祇官が火災に遭った。議論の末、中和院(ちゅうかいん)を用いることとした。(注:『中右記』『百錬抄』。)
¶仁安(にんあん)の頃、諸社の神職らはしばしば座に着かず、また幣帛の品を受け取らないこともあった。(注:『愚昧記』。)文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)の間に至っては、諸国の多くが幣帛の品を進上しなくなった。宣旨(せんじ)を下してこれを督促しても、いつも不足していると告げるばかりであった。(注:『玉海』。)
¶神今食祭(じんこんじきさい)は、月次祭で幣帛を配り終えると、天子が中和院(ちゅうかいん)に御幸し、自ら天祖および諸神を饗するもので、これを神今食という。(注:『貞観儀式』『江家次第』『公事根源』。)すべて祭には必ず高橋(たかはし)・安曇(あずみ)の二氏を供奉させる。(注:『本朝月令』所引の高橋氏文による。)おそらく上代からの旧例を残しているのであろう。もし天子が自ら祭を行われない場合は、担当の役人、すなわち神祇官に代行させる。(注:『類聚国史』『西宮記』『江家次第』。)
¶延暦(えんりゃく)九年六月、諒闇(りょうあん、天皇の喪)のため宮中を避けて、神祇官の曹司(そうし)において祭を行った。(注:『続日本紀』。)
¶弘仁(こうにん)七年、「神今食の小斎(こいみ)の参議は、わずか一人を卜定するのみである。その人に事故があれば、たちまち欠員が生じてしまう。今後は数人を卜定して、その欠員に備えること。新嘗祭もこれに準ずる」と定められた。
¶十年、また「今後は、中納言以上一人、参議一人、弁二人を定めること。もし中納言以上の者が卜定の対象にならない場合は、参議二人を定めること。新嘗祭も同様である」と定められた。(注:『西宮記』。)
¶十一年、式が頒布された。「およそ神今食および新嘗の小斎は、中納言以上一人、参議一人とし、散斎(さんさい)の日に、外記(げき)が名を記録し、神祇官に付してこれを占う。次に侍従五位以上は、中務省(なかつかさしょう)の輔(すけ)が率いて神祇官へ向かい卜定する。それが終わると、皆中務省がこれを奏上する。諸司の六位以下および女孺(にょじゅ)らは、致斎(ちさい)の日に、それぞれの役所が名簿を記録して宮内省に送る。すぐに神祇官がこれを占い終えると、各自家に帰って沐浴する。夕方以後、宮中に入ってその事に供奉する。すべて神今食に供える雑物は、それぞれ内膳司(ないぜんし)・主水司(もいとりのつかさ)などの役所に付する。神祇官の人は神部(かんとものお)らを率いて、朝夕の二回、宮中に入って供奉する」と。(注:『本朝月令』所引の弘仁式、『延喜式』。)
¶十四年、祭の日の時刻が定められた。「戌(いぬ)の一点に斎院(いむいん)に御幸される。(注:十二月は酉〈とり〉を用いる。)寅(とら)の二点に、宮中にお戻りになる。(注:十二月は卯〈う〉を用いる。)卯(う)の一点に、宮内省の神祇の担当者が延政門(えんせいもん)に控える。二点に、門を叩く。行殿(ぎょうでん)に入って祭を行う。(注:十二月は辰〈たつ〉を用いる。)永くこれを慣例とすること」。(注:『西宮記』『年中行事秘抄』。)
¶貞観六年十二月、宮内省に御幸して自ら祭を行われた。(注:『三代実録』。)
¶十三年、「すべて小斎は、親王一人、中納言以上一人、参議一人とする。もし中納言以上の者が卜定の対象にならない場合は、参議二人、少納言以上三人を定める。もし参議以上が二人に満たない場合は、侍従四人を定める。新嘗祭もこれに準ずる」と定められた。(注:『本朝月令』『小野宮年中行事』所引の貞観式、『貞観儀式』。)その儀式では、まず三日前に、中務省が供奉できる内舎人(うどねり)を選定する。祭の前日、輔(すけ)・丞(じょう)各一人が、史生(ししょう)・省掌(しょうしょう)らを率いて、神祇官の南舎の座に着き、次侍従(じじじゅう)以上を点検し、録(さかん)が札を執って人数を数える。諸大夫は皆「唯」と唱える。それが終わると、録は親王の封(ふう)をした名簿を取り、庁において占う。元の座に戻る。次に輔が諸大夫を率いて庁へ行き、大臣以下を占う。それが終わると、それぞれ退出する。その日の夜明け、主殿寮(とのもりょう)が浴湯を供え、辰の刻、輔または丞一人が、小斎の次侍従以上の名簿を執って、内侍(ないし)に付して天皇にお聞かせする。月次祭が終わると、神祇の副(すけ)・祐(じょう)各一人が、宮主(みやじ)および長上(ちょうじょう)の卜部を率いて、宮内省へ行き、六位以下で小斎に供奉できる者を占い定める。それが終わると、神祇官は中和院に参上する。酉の刻、神祇官が神嘉殿(しんかでん)を飾り付け、殿の中央三間を神座とし、長い敷物を敷く。その西二間を御座とし、長い敷物を敷いて立った牀(ゆか)を一つ置く。西の廂(ひさし)には御湯殿(おゆどの)用の牀を立てる。祭に供奉する女官の座を殿の東に設ける。内侍以下の女官の座を北の廂に、殿上の侍臣の座を東の廊に、御厨子所(みずしどころ)ならびに薬殿(くすりどの)・主水司などの座を北殿に設ける。神祇官・宮内省・内膳司・采女司の座を東の廂殿に設ける。小斎の親王以下の座を西の廂殿に、大斎の親王以下の座を中和門の外の幄(あく)に設ける。(注:「酉の刻」以下は『延喜式』による。)内膳・造酒・主水などの司が、供御(くご)の物を受け取り、祭の場所に供奉する。神祇官は大膳・木工・大炊(おおい)などの職・寮から進上された神に供える物を受け取り、神部・卜部に供物の準備をさせる。戌(いぬ)の一刻、天子の輿が斎院に御幸する。主殿寮が浴湯を供え、中臣・忌部が御巫(みかんなぎ)を率いて、大殿祭(おおとのほがい)を供奉する。近衛(このえ)が門を開く。掃部寮(かにもりりょう)および女孺(にょじゅ)らが御疊(おんたたみ)を神殿に敷く。神座は西向き、御座は東向きとする。(注:「神座」以下は『延喜式』による。)それが終わると、退出して門を閉じる。主殿寮が御寝具を供え、掃部寮が女官に疊を寝所の中で賜う。(注:十二月は、縫殿寮(ぬいどのりょう)が衾(ふすま)を男女に賜う。)亥の一刻、暁膳(あかつきのみけ)を上げる。四刻、饌を下げる。その饌を進める順序は、おおよそ大嘗祭と同様である。それが終わると、近衛が門を開く。大舎人(おおとねり)が入って御疊を片付ける。儀式が終わると、祭服を脱いで宮中へお戻りになり、すぐに大殿祭を行う。弁大夫(べんのだいぶ)が小斎の人々を率いて宮内省へ行き、斎を解く座に着き、饌を賜う。饌が終わると、諸司は拍手をし、酒を三度回して、また拍手をする。それが終わると退出する」。(注:『貞観儀式』。)延喜の定式もこれ以前の制度に従っている。(注:『延喜式』。)
¶天仁(てんにん)元年以後、自ら祭を行う礼は絶えて行われなくなった。長承(ちょうしょう)元年、これを復活させる議論があった。しかし事情があって中止された。権大納言(ごんだいなごん)藤原実行(さねゆき)らに事を代行させた。(注:『中右記』。)当時、識者がしばしば意見を述べて、自ら祭を行う礼の復活を求めたが、ついに実行に移すことはできなかった。(注:『続本朝文粋』『中右記』。)久安(きゅうあん)元年に至って、初めて旧式が復活した。(注:『百錬抄』。)
¶神衣祭(かんみそさい)は、毎年神部(かんとものお)に和妙(にぎたえ)の衣、荒妙(あらたえ)の衣を織らせて、これを天祖に献上するもので、その儀式が最も重いことから、この名がある。(注:『令義解』『延喜式』。)その昔、天祖が天原(あまのはら)におられた際、初めて養蚕(ようさん)の道を開かれ、自ら斎服殿(いみはたどの)から、天衣織女(あめのはたおりめ)に命じて神の御衣を織らせられた。(注:『日本書紀』『古事記』。『神名秘書』所引の旧記、『神宮雑例集』にはいずれも「天祖が養蚕の業を創始し、天八千千姫命(あめのやちぢひめのみこと)に神の御衣を織らせた」とある。これによれば天衣織女とはおそらく八千千姫のことであろう。下の文にある天棚機姫(あめのたなばたひめ)も、あるいはその別名であろう。いずれも機織りの業にちなんで名としたものであろう。参考として付記する。)おそらく天神に献上して神の恩に報いたのであろう。天祖が天の岩戸に隠れられた際には、長白羽神(ながしらはのかみ)が青い和幣(にぎて)を作り、津咋見神(つくいみのかみ)が白い和幣を作り、天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)が文布(あやぬの)を織り、天棚機姫神が和衣(にぎたえのころも)を織って、これを天祖に奉り、神の御心を慰めた。神衣祭はおそらくこれに基づくのであろう。(注:『古語拾遺』。)
¶皇孫が筑紫にお降りになった際、天棚機姫が機織りの道具を持って従った。天上の宮の先例により、その事に供奉した。(注:『神名秘書』所引の旧記による。)神々が衣服を重んじられたのは、天下に寒さに苦しむ民がいないようにと祈られたからである。
¶垂仁(すいにん)天皇が天祖の祭祀を伊勢に遷された際、神服織(かんはとり)・神麻続(かんおみ)の両機殿(はたどの)を建て、天棚機姫の子孫に神の御衣を織らせて祭に供えさせた。(注:『倭姫命世記』『神宮雑例集』。)孝徳(こうとく)天皇の頃にこの儀式は停止されたが、天武朝に至って復活した。(注:『神名秘書』所引の機殿儀式帳による。)これより後の世々に供奉が続いたが、その儀式は失われ絶えてしまった。(注:『令義解』『大神宮儀式帳』『延喜式』。)
¶大宝の制では、祭は孟夏(もうか、四月)と季秋(きしゅう、九月)の十四日に行われた。(注:『令義解』。「十四日」は『大神宮儀式帳』『延喜式』による。)その季秋の祭には、五位の使者を差し向けて幣帛を奉らせた。(注:『令集解』。)しかしこの後は、ただ大神宮司(だいじんぐうし)に祭を行わせるのみとなった。(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』。)その式については大神宮の条に詳しい。
¶神嘗祭(かんなめさい)は、新しい稲で酒を醸し飯を炊いて、これを伊勢の大神宮に薦(すす)めるもので、この名がある。(注:『大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『延喜式』を参照した。)
¶大宝の制では、祭は季秋に行い、神衣祭の日にこれを行った。(注:『令義解』。)すべて天下の諸社の神は、皆仲冬(ちゅうとう、十一月)に新穀を薦めるが、伊勢の神宮はまず先んじて行うことで、特にこれを尊重するのである。(注:『大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』『延喜式』の趣旨による。)
¶養老(ようろう)五年九月十一日、天皇は内安殿(うちのやすみどの)に御幸し、幣帛の使者を出発させられた。(注:『続日本紀』。)これ以後、毎年天皇はこの日の明け方、大極殿(だいごくでん)の後殿(こうでん)に御幸し、使者を派遣して大神宮に幣帛を奉らせることが、恒例となった。(注:『小野宮年中行事』所引の弘仁式、『延喜式』。)それゆえこれを例幣(れいへい)という。(注:『三代実録』『江家次第』。)もし事情がある場合は、上卿(しょうけい)がこれを代行した。(注:『北山抄』『江家次第』。)
¶貞観の頃、その儀式が定められた。祭の四日前、外記(げき)が王氏で五位以上の者四人の名簿を封じて、神祇官にこれを占わせる。神祇官はその合否を記録し、封をして外記に授ける。外記はこれを受け取り、大臣の前に至る。封を開くと、卜定された者を召してこれを命じる。その日の明け方、掃部寮(かにもりりょう)が八省院(はっしょういん)に至り、御座を小安殿(こやすみどの)の東第三間の正中に設け、葉薦(はごも)を東の壁の下に敷いて、幣帛を置く座とする。置簀(おきす)一枚を西第一間の北壁の外に置き、包んだ幣帛用の葉薦を第二間に敷く。その左右には長い敷物を敷いて、幣帛を包む者たちの座とする。内侍(ないし)の座を第三間の北壁の下に設け、その南のやや東寄りに長い疊を敷いて闈司(いし)の座とする。東の廊に参議以上の座を、北の廊に少納言・弁官の座を設け、その西のやや後ろに外記・史の座を、その後ろに史生(ししょう)・官掌(かじょう)の座を設ける。明け方、内蔵寮(くらりょう)の官人一人が、蔵部(くらべ)二人を率いて幣帛の品を持って控える。内侍以下四人が、大内裏から包んだ幣帛を持ち出し、官人がこれを執って葉薦の上に置く。大神宮の幣帛は北に、豊受宮(とようけのみや)の幣帛は南に置く。中務省の録(さかん)が省掌(しょうしょう)を率いて、小安殿の東南の庭に版位を置く。天子の輿が殿に御幸し、勅により舎人(とねり)、少納言代(しょうなごんだい)が入る。勅により中臣・忌部を召し、少納言が「唯」と唱えて退出する。中臣・忌部を呼ぶ。中臣は木綿の鬘(かずら)を着け、忌部は木綿の襷(たすき)を懸ける。(注:「木綿の鬘を着け」以下は『外記日記』『江家次第』による。)それぞれ版位に着く。中臣は前の版位に着き、忌部は後ろの版位に着く。後執(しりとり)の者一人が、忌部に従って入り立つ。忌部の前に勅があると、忌部は「唯」と唱えて殿に昇り、跪いて四段の拍手をする。まず豊受宮の幣帛を後執の者に授け、また四段の拍手をして、自ら大神宮の幣帛を執って版位に戻る。それが終わると、中臣の前に勅がある。中臣は「唯」と唱えて、殿に昇り跪いて控える。勅に「謹んで祝詞を唱えてこれを奉れ」とある。中臣は「唯」と唱えて版位に戻ると、共に退出する。しばらくして天子の車駕は宮中にお戻りになり、先払いはするが声を上げない。その日のうちに、使者は神祇官から出発する。二十日、内侍のもとに戻って復命する。(注:『貞観儀式』。)
¶その祭の幣帛は、内蔵寮が献上する。大神宮には錦(にしき)を両面各一匹、深紫・浅紫・緋(あけ)・中緑・黄・白の綾(あや)各一匹。度会宮には緋の中・縹黄(はなだき)・皂(くろ)の帛(はく)各一匹。神祇官は絁(あしぎぬ)三匹、糸八絇(く)、倭文布(しずぬの)一端一丈、および鞍二具、馬四匹などを両宮に奉る。その使者である諸王で五位以上の者、および神祇官・中臣・忌部の官人各一人には当色(とうじき)の装束を賜い、幣帛を執る者五人、従者三人には、それぞれ清浄な衣の布一端を賜う。(注:『延喜式』。)
¶すべて祭の日は、大神宮は十七日を用い、(注:『大神宮儀式帳』。)度会宮は十六日を用いる。(注:『止由気宮儀式帳』。)その儀式については大神宮の条に詳しい。
¶新嘗祭(にいなめさい)は、その意義が大嘗祭と異ならないため、古くはまた大嘗とも名付けられた。すべて天子が新しい稲を召し上がろうとする際、まずこれを神祇に饗するので、この名がある。(注:『日本書紀』『古事記』『令義解』。)
¶景行(けいこう)天皇五十三年、膳臣(かしわでのおみ)の祖である磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)が、新嘗に供奉した。この時、若湯坐連(わかゆえのむらじ)の祖である豊日連(とよひのむらじ)が火を鑽(き)り、忌火(いみび)と名付けて飯を炊いた。また大八洲(おおやしま、日本国土)に比して、男女それぞれ八人を定め、その事に供奉させた。新嘗の儀式はこの時初めて見られる。(注:『本朝月令』『年中行事秘抄』所引の高橋氏文による。)
¶仁徳(にんとく)天皇四十年、新嘗の宴会で、内外の命婦(みょうぶ)らに酒を賜った。
¶清寧(せいねい)天皇三年十一月、新嘗の宴を大庭(おおば)で臣下たちに催し、綿や帛(きぬ)を賜った。(注:「清寧」以下は『類聚国史』を参照した。)
¶天武天皇四年九月、新嘗のために尾張(おわり)の山田郡(やまだのこおり)を斎忌悠紀(ゆき)、丹波(たんば)の訶沙郡(かさのこおり)を次主基(すき)と占い定めた。十月、新嘗の諸神に幣帛を奉った。五年十一月己卯(きぼう)、新嘗を行った。辛巳(しんし)、百寮の有位の人に食事を賜った。丁酉(ていゆう)、神官・国司らに禄を賜った。(注:『日本書紀』。)
¶大宝の制。「都における担当役所は、毎年事を行い、日取りは大嘗祭と同じとする。ただし国郡の卜定は行わない」。(注:『令義解』。)
¶弘仁の頃、祭の日の時刻が定められた。十二月の分は神今食祭と同じとする。(注:『年中行事秘抄』。)また儀式の細則も定められた。天長(てんちょう)の頃、さらに修飾が加えられた。(注:『内裏式』。)貞観に至ってこれを改め、その儀式が初めて整った。
¶卯の日、天子は神嘉殿(しんかでん)に御幸して祭を行うこと、儀式は神今食祭と同じである。(注:「卯の日」以下は『政事要略』『禁秘抄』『公事根源』による。)辰の日、宴を賜う。担当役所はあらかじめ豊楽院(ぶらくいん)を飾り付け、御座を豊楽殿(ぶらくでん)に設ける。その東の第二間には皇太子の座を設け、第三・第四間のやや南には大斎(おおいみ)の参議以上の座を設け、その南の廂(ひさし)には小斎(こいみ)の参議以上の座を設ける。五位以上の座を顕陽堂(けんようどう)・承歓堂(しょうかんどう)の二堂に、六位以下の座を観徳堂(かんとくどう)・明義堂(めいぎどう)の二堂に設ける。式部の丞(じょう)が史生・省掌らを率いて標(しめ)を立て、また殿前に舞台を構え、楽人の幄(あく)をその東南の角に設ける。定めた時刻になると、掃部寮が式部の輔(すけ)以下、省掌以上の座を興礼門(こうれいもん)の西の壇上に設ける。輔以下が座に着き、五位以上を点検する。中務省は宣命(せんみょう)の版位を舞台の北に、その南に通常の版位を置く。そして天子の車駕は清暑堂に御幸し、諸衛は略式の装束を身につける。式部の丞・録らは東西に分かれて列をなし、礼成門(れいせいもん)・崇賢門(すうけんもん)の両門から入り、豊楽門の内側に並び立つ。弾正忠(だんじょうのじょう)が史生・台掌(だいしょう)らを率いて東西に分かれる。式部の史生二人が、札を執って五位以上の人数を数え、皆「唯」と唱えて並び立つ。六位以下も、また東西に分かれて進み、礼成門・崇賢門の外に並び立つ。この時、天子の車駕が豊楽殿に御幸される。内侍が位記(いき)の筥(はこ)を執り、大臣の座の前に置く。すぐに東の欄干のところに至って大臣を呼ぶ。大臣は左近陣(さこんのじん)の西端に至り、座を謝して東の階段から昇って座に着く。皇太子もまた東の階段から昇り、西を向いて酒を謝して座に着く。担当役所が豊楽門・儀鸞門の両門を開く。闈司(いし)二人が青綺門(せいきもん)から出て、逢春門(ほうしゅんもん)の南北に分かれて並ぶ。大臣が大舎人を呼び、舎人が「唯」と唱える。少納言が逢春門から入り版位に着き、大臣が延引の大夫らに命じる。少納言は「唯」と唱えて、儀鸞門の東の戸から出て、屏幔(へいまん)の外に立ってこれを呼ぶ。親王以下、五位以上の者は皆「唯」と唱え、次に六位以下も「唯」と唱える。小斎の親王以下、参議以上の者が皆入る。門に近づくと、諸々の仗(じょう)が皆起立する。次に小斎・大斎の五位以上の者が、東西に分かれて入る。式部の録が屏幔の内側の左右に進み出て「容止(ようし)」と唱える。親王以下はそれぞれの標(しめ)に着く。並び立つと、大臣が「座に着け」と命じ、皆「唯」と唱える。座を謝することが終わると、造酒正(みきのかみ)が空の盞を執り、跪いて貫首(かんじゅ)に授ける。貫首はこれを受け取り、共に再拝する。親王以下が酒を謝することが終わると、造酒正は跪いてこれを受け取り、酒樽の場所へ戻る。参議以上は順に座に着く。次に五位以上、六位以下が、東西に分かれて座に着く。それが終わると、諸々の仗は皆座る。式部の録は札を執って五位以上の座次を監督し、史生は諸司の六位以下の出席を記録し終える。内膳司が御饌を進めると、近くの仗は皆起立する。饌が終わると座る。次に主膳監が皇太子の饌を進め、大膳職が群臣の饌を供する。一献(いっこん)の酒が終わると、吉野の国栖が儀鸞門の外で御贄(みにえ)を供え歌と笛を奏する。それが終わると、大歌別当(おおうたのべっとう)の大夫が歌工(うたこう)を率いて、座に着く。座が定まると、大歌(おおうた)と五節舞(ごせちのまい)を奏する。舞が終わると、皇太子は座を離れて立つ。次に小斎の五位以上の者もまた座を離れて降り立ち、次に大斎の親王以下も皆降り立つ。皇太子が拝舞して元の位置に戻り、大臣以下もまた同様にする。それが終わると、治部省の雅楽が楽人らを率いて、立歌(たちうた)を奏する。掃部寮が禄を置く台を庭の中に設け、大蔵省が禄の品を置き、弁大夫がその数を奏する。この時、外記が出席者名簿と禄の規定を記した文書を執り、内記(ないき)が宣命の文書を捧げ持ち、共に大臣に進める。大臣はこれを受け取って内侍に付す。天皇にお聞かせすることが終わると、大臣は参議以上の一人を選んで、宣命の文書を授け、これを受け取って座に戻ると、群臣は降り立つ。宣命大夫(せんみょうだいぶ)が降りて版位に着き、宣命を読む。皇太子以下は「唯」と唱えて拝舞する。それが終わると、禄を賜う。小斎の官司はすぐに宮内省で、いつもの儀式のように斎を解く。(注:『貞観儀式』。)その大歌および五節舞の儀式については、おおよそ『礼楽志』に見える。
¶すべて五節舞(ごせちのまい)の舞姫(まいひめ)は、公卿が進上する。大嘗祭・新嘗祭にはそれぞれ定められた人数があるが、新嘗祭では叙位に預かることがないため、人々は皆これを避けようとして、進んで女を差し出す者がいなくなった。寛平(かんぴょう)の頃、これが神事の欠如になることから、公卿の女御(にょうご)が順番に差し出す制度が定められた。しかし費用がかさみ、皆これを差し出すことを困難とした。延喜の頃、識者がその人数を減らすことを求め、良家の女二人を選んでこれに充てることとした。優遇して時服(じふく)や月料(げつりょう)を給い、十年ごとに交代させた。(注:『本朝文粋』。)
¶承平(じょうへい)六年の制で、新嘗の禄を給うにあたり、太宰府(だざいふ)が貢納した絹千八百七十匹、綿八千七百二十屯(とん)、但馬(たじま)の絹百三十匹、出雲(いずも)の綿二千三百屯をこれに充てた。ただし親王・公卿には阿波(あわ)の貢物をもって給うこととした。(注:『殿記』。)
¶安和(あんな)元年、参議藤原斉敏(なりとし)・藤原文範(ふみのり)らが「大臣以下参議以上は、封禄(ほうろく)にもともと等級があります。しかし公の役目には格別な差がありません。例えば五節の舞姫を差し出すには、高貴な者でさえ資産を傾けるほどです。まして身分の低い者はなおさらです。それゆえ二分の年給(ねんきゅう)を募っても、応じる者が一人もおりません。特別に二合(にごう)を給わり、費用を支えられるようお願いします」と奏上した。そこで「五節の舞姫を差し出すことは、参議に限らず、大納言・中納言以上も同様にこの事にあたること。今後、参議以上で舞姫を貢進する者には、翌年必ず二合を給うこと。ただし大納言・中納言以上で、二合の順番にあたる年は、他の年に回すこと。これを恒例として定める」と定められた。(注:『政事要略』。)