卷之二百五十二 志第九

神祇九 神社四 大和

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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添上郡(そえかみぐん) 三十七座

鳴雷神社(なるかみじんじゃ)。(注:今は奈良の東、日香山にあり、髮生春宮と呼ばれている。)おそらく主水司が祭る神と同じ神であろう。延喜式の制では大社に列せられ、四度の官幣にあずかる。また春と冬の中の月に、中臣氏の者一人を差し向けて祭りを行わせる。祭りの供物には絁・糸・綿・五色の薄絁・倭文・調庸布・木綿・麻・鍬・米・豆・酒・稲・鰒・堅魚・雑腊・鮭・雑鮨・海藻・雑海菜・塩・銭などを用いる。(注:延喜式による。)

宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)。またの名を菟足神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。)あるいは法華寺薦枕高御産栖日神ともいう。(注:三代実録による。今は法華寺村楊梅谷にあり、楊梅天神と呼ばれる。)高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祀る。伝えによれば、神功皇后(じんぐうこうごう)が武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じてこの地に祀らせたという。(注:神名帳頭注寺による。)持統天皇六年、官人を遣わして新羅からの調物を奉った。(注:日本書紀による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲百十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および尾張国の封戸十三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従三位から正三位に進んだ。元慶三年、従二位に昇った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

和爾坐赤坂比古神社(わににいますあかさかひこじんじゃ)。またの名を丸神という。(注:今は和爾村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲千六十余束を納め、社の用に供した。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸四戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)。天児屋命(あめのこやねのみこと)を祀る。(注:神名帳頭注による。太祝詞は太詔戸とも書く。新撰亀相記によれば、天按持神の娘・亀津比女命は天香山に住み、天津詔戸・太詔戸命と呼ばれたという。釈日本紀が引く亀兆伝もこの文とまったく同じである。按持はおそらく櫛待の誤りで、待を「まち」と読むのは、後に見える天香山櫛真知命のことである。これによれば太詔戸はその神の子で、名を亀津比女ということになる。しかし亀相記が引く亀経は、おそらく漢土から伝わった説であって、我が国古来の伝承ではない。亀津比女らの説は付会によるものと思われるため、ここでは採らない。)天児屋命は天祖に仕えて太祝詞および太占の卜事を司った。(注:日本書紀、古事記による。)それゆえ太祝詞の名がある。天平神護元年、大和国の封戸一戸を奉った。(注:新抄格勅符による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

夜支布山口神社(やぎふやまぐちじんじゃ)。(注:夜支布は養父とも書く。今は大柳生村にある。)文徳天皇の即位に際し、従五位下を叙せられた。(注:文徳実録による。)貞観元年、勲八等をもって正五位上に進み、風雨の災いを鎮めるための幣を奉った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

春日祭神四座(かすがのまつりのかみよんざ)。(注:今は春日郷三笠山の麓にある。)第一殿は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、第二殿は経津主命(ふつぬしのみこと)、第三殿は天児屋命、第四殿は比咩神(ひめがみ)を祀る。(注:文徳実録、延喜式、帝王編年記による。比咩神とは天児屋命の妃を指すとされる。編年記には、実は伊勢神宮と同殿の神で、伊勢から遷し祀ったものとある。神名秘書は栲幡千千姫命とし、後世の人々はついに天照大神を祀るものと考えるに至ったが、これらはいずれも誤りである。文徳実録・延喜式ではいずれも単に比咩神とのみ称し、大神とは言っていない。比咩神が天児屋命の妃であることはこれによって知られる。)和銅二年、それ以前は朝廷が常陸国の鹿島神(かしまのかみ)をもっとも崇敬しており、即位・立后および大臣の任命のたびごとに使者を遣わして幣を奉っていた。ここに至り、道のりが遠いことから、勅命により春日郷三笠山に神を分けて祀ることとし、春日明神(かすがみょうじん)と号した。(注:大鏡およびその裏書、神宮雑例集を参照し、文保二年撰の年代記による。)天平神護元年、鹿島神の封戸二十戸を割いてこれに充てた。(注:新抄格勅符による。)神護景雲二年に至り、さらに下総国の香取神(かとりのかみ)、河内国の枚岡神(ひらおかのかみ)および比咩神を遷し祀った。(注:大鏡裏書、公事根源、神祇官勘文による。四座を遷し祀った年月については諸説にかなり異同があり、ここでは詳しく注記しない。)使者を遣わして幣を奉った。中臣殖栗連の娘を物忌として祭祀に侍らせた。(注:神祇官勘文による。)また神琴二面を奉った。(注:三代実録による。)これにより中臣・藤原の両氏に代々奉仕させ、ついに四座を併せて氏神とし、藤原氏四所明神(ふじわらしししょみょうじん)と称するようになった。(注:大鏡裏書、公事根源、続日本紀を参照。藤原氏は天児屋命の後裔であり、すなわち枚岡社こそがその氏神であるはずなのに、鹿島・香取を氏神とするのは疑わしい。おそらく本社が枚岡神を合祀していたために氏神と称し、ついに鹿島・香取の二神にまで及んだのであろう。また、中世以降は産土神を氏神と称する例がある。大鏡や下学集はいずれも藤原鎌足を常陸国の生まれとしており、常陸国風土記を考えると、その封戸もまた常陸国にある。これによれば、藤原氏はもとから鹿島神を産土神としており、それを氏神と称したのかもしれない。あわせて備考としておく。)延暦二十年、香取・鹿島両神の封戸の調庸商布千四百端、麻六百斤、紙六百張を祭料に充て、二十戸は改めて鹿島社に附け戻した。その後さらに大和国の封戸十戸を奉った。(注:新抄格勅符による。本書には封戸を奉った年代が明記されていないので、ひとまずここに記す。)承和八年、神山の中での狩猟・伐木を禁じた。(注:続日本後紀による。)文徳天皇の即位に際し、使者を本社に遣わし、武甕槌・経津主の二神に正一位、天児屋命に従一位、比売神に正四位上を授けた。(注:文徳実録による。)四座の位階・勲等は、いずれも鹿島・香取・枚岡の神階に準じて定められた。(注:続日本後紀、文徳実録、三代実録による。)貞観元年、二月と十一月の上の申の日に、通常の儀式どおり祭りを行った。(注:三代実録による。)以後これが恒例となった。(注:延喜式による。三代実録によれば、天安二年八月に文徳天皇が崩御し、十一月庚申の日に春日祭が停止されたとある。これによれば天安以前にすでに例祭が行われていたことがわかる。諸神記が引く治大抄には嘉祥三年九月に始まるとあり、二十二社注式のある説には仁寿三年に起こるとある。いずれかが正しいのかもしれないが、国史に記載がないため、ここでは採らない。)この日、中宮・東宮からも使者を出す。藤原氏で関白となった者は神馬を奉ることが永式として定められた。(注:年中行事秘抄による。)次いで従四位下藤原朝臣仲統(ふじわらのあそんなかむね)を遣わして神宝・幣帛を奉らせた。八年、詔により斎女を置くこととし、藤原氏の娘をこれに充て、あわせて大原野社をも兼ね掌らせた。斎に入って三年で初めて祭祀に侍り、官人を遣わして幣を奉りこれを告げた。元慶二年、これより先、天皇が病に伏し、右大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が神に祈って験があった。この年、みずから社に詣でて幣を奉りこれに報いた。六年、これより前は毎年の祭日に興福寺が走馬の埒を造らせていたが、この年に至り、寺側が「神と仏とは道を異にするので、避けるべきである」と申し出た。そこで勅命により本国の国司にこれを造らせることとした。次いで神琴二面を奉り、神護景雲年間に充てた旧来の楽器に代えた。(注:三代実録による。)

延喜式の制では、四座はいずれも名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。春と冬の二度の祭りは、香取・鹿島両神の封戸を割いて料に充てることは延暦の制のとおりである。そのほかの雑給は所司がこれを充てる。神主・物忌を各一人、神部にあずかる者・弾琴の者・神殿を守る仕丁を各二人、膳部八人、卜部二人を置き、祭りごとに斎の衣食料を充てる。(注:延喜式による。)天慶二年、幣および神宝・走馬を奉り、皇太后の病の平癒を祈った。(注:外記日記による。)永祚元年、天皇の車駕が社に行幸した。行幸はこれに始まる。(注:日本紀略、一代要記、西宮記による。)寛弘七年、翌年が三合の厄年にあたるというので、祈年穀使に付して神宝・東遊を奉った。治安元年、社に行幸し、添上郡を寄進した。(注:日本紀略による。)嘉禎三年、久しく絶えていた進膳・奏楽を、この時に再興した。(注:興福寺略年代記による。)正応三年三月、臨時祭を初めて行った。後深草天皇(ごふかくさてんのう)の御願によるものである。(注:園太暦、春日社記、諸社根元記による。)永仁三年、上皇が社に行幸し、七日間滞在して臨時の神楽を奉った。嘉元元年、社が火災にあったため、四座の神体を若宮に移した。翌年、勅により公卿に神楽を奉らせた。(注:興福寺略年代記による。)その儀式は石清水・賀茂の二祭に準じる。(注:宮主秘事口伝による。)当時、臨時祭は四月の上の申の日に行っていたが、後には秋か冬の二季の月に行うこともあった。(注:園太暦による。)興国元年、北朝の光明院(こうみょういん)が河内国の楠葉関(くずはのせき)を賜り、造営の料に充てた。(注:春日社司祐植記による。)そもそも藤原氏はすでに本社を尊崇していたが、延暦の遷都に及んでさらに大原野・吉田の二社を建て、これらを通じて氏三社と呼び、朝廷の三社になぞらえた。そしてその権勢を専らにするに及んでは、斎女を置いて斎院になぞらえ、封戸・祭料を奉ることは伊勢に次ぐものとなった。中頃以降は関白が社に詣でると、公卿がこれに扈従して役を務め、儀衛の盛んなことは行幸にも匹敵した。(注:三代実録、延喜式、大鏡およびその裏書、日本紀略、百錬抄、二十二社本縁を参照。)その奉幣使は旧来内蔵助の五位一人を用いていたが、(注:延喜式による。)四条天皇の代に至り、三位以上の者を用いるようになった。(注:百錬抄による。)春冬の祭儀については、貞観年間にその斎女の祓禊および社参、供奉する諸司の定めがなされた。従う男女・兵士・器具などは、おおむね賀茂斎王になぞらえたもので、いくらか簡略にされている。祭りの前日、斎女は社に参り、大和国の境に至る。国司がこれを出迎え、佐保の頓舎に至る。翌朝、斎女は頓舎から社に詣で、西方の北門に至ると、前を行く大夫以下の者は馬を下りて列立する。付き従う女官は車を降り、輦の下で従者が守り控える。斎女は輦を降りて門内の座に就き、内侍以下の者もまた座に就く。内蔵頭の使者は幣を執って門外の棚の上に置き、しばらく控える。次に内侍以下の者が神殿の座に入り、供物を検分する。斎女は祭服を整えて座に就き、内蔵頭が幣を執って瑞籬の前の上の棚に置き、二段再拝する。終わって退出する。次に二宮の使者も同様にする。次に氏人および諸家の使者が、順に幣を執って下の棚に置き、それぞれ二段再拝して終わって退出する。神部が内蔵からの幣を執って物忌に授け、物忌がこれを神殿に納める。神部は神殿の前に食薦(すごも)を敷く。氏人で五位以上の者が神饌の案を執り、東を上座として諸殿に並べて供える。神部は酒樽を執り、諸殿の前に人が立って控える。一つの樽は第一殿と第二殿の間に、一つの樽は第三殿と第四殿の間に立て、社で醸した酒四缶を中重に立て、それぞれの殿に対応させる。内侍以下の者が入って蓋をとり、酒を酌んでこれを供える、それぞれの殿に二つの盃を供える。終わって殿前の屏の内の座に就き、北を向いて東を上座とする。大臣以下、朝廷からの使者・氏人に至るまで、それぞれ座に就く。近衛府・馬寮は神馬・走馬を引いて殿庭に立たせる。神主は木綿の髪飾りをつけて祝詞の座に就き、二段再拝、四段の拍手をする。終わって、それぞれ直会殿に就く。神部は祭りを終えて退き、馬寮は神馬を引いて社の周りを八めぐりする。終わって近衛少将が近衛の東舞を率いる。終わって、それぞれに饌を賜る。饌が終わると、神祇副が琴師・笛工を召し、みな座に就いて歌と楽が共に奏される。祐(すけ)以上の者と氏人らが倭舞を奏する。終わって斎女は西門の座に就き、装束を解いて頓舎に戻る。事が終わると氏人に禄を賜る。大臣以下は立って馬場に行き、御馬を走らせ、内侍がこれを臨席して見守る。冬の祭りも同様であるが、斎女だけは参加しない。(注:貞観儀式による。)その祭料には、安芸国産の木綿・絁・調布・曝布・商布・稲米・豆・酒・塩・鰒・堅魚・烏賊・平魚・海藻・腊・鮨・雑果子・橘の実などを用いる。内蔵寮は別に五色の薄絁・安芸木綿・糸・曝布・麻などの幣を奉る。馬寮は神馬四匹、走馬十二匹を献じる。(注:延喜式による。)おおよそ社司には大中臣・中臣の二氏がある。中臣氏はすなわち中臣殖栗連(なかとみのえぐりのむらじ)時風・秀行の子孫であり、二人ははじめ鹿島から移り住んだ。この二氏の支流はたいそう栄え、神主やそれに準ずる職に補任され、今日まで絶えていない。(注:諸社根元記、続南行雑録による。)しかし中世以降、興福寺の僧徒がしだいに勢いを増して横暴となり、ついに本社の神威を借りて朝廷に対抗するようになった。何か意にそぐわないことがあると、神木を奉じて内裏に押しかけ強訴した。その驕り高ぶって礼を欠くさまは、延暦寺と相並ぶほどであった。(注:扶桑略記、百錬抄、中右記による。)この事は仏事志に見える。おおよそ本社に属する社は二十余社ある。(注:春日小社記、諸社根元記による。)天平勝宝二年、天皇の車駕が酒殿社(さかどのしゃ)に行幸した。(注:続日本紀による。)これもおそらく本社の属社である。

率川坐大神御子神社三座(いさかわにいますおおみわのみこじんじゃさんざ)。またの名を率河神という。(注:新抄格勅符、大倭社注進状による。)あるいは春日三枝神社ともいう。(注:大三輪社鎮座次第による。今は奈良の子守町にある。)姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、および大国魂(おおくにたま)・玉櫛姫(たまくしひめ)の三神を祀る。伝えによれば、はじめ推古天皇(すいこてんのう)の時代、大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を奉じ、初めて春日の率川のほとりに祠を建て、皇后の御霊を祀り、大神御子神と名付けたという。元正天皇(げんしょうてんのう)の時代、藤原朝臣不比等(ふじわらのあそんふひと)が狭井(さい)・子守(こもり)の二神を配祀して三座とした。狭井とはすなわち大国魂であり、子守とはすなわち玉櫛姫である。(注:大倭社注進状が引く大神氏家牒、大三輪社鎮座次第による。)大宝の制では、初夏に三枝祭を行うが、これはこの神を祭るものである。(注:令義解による。)大同元年、左京および丹後国の封戸六戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)仁寿二年、御子神に従五位下を授けた。(注:文徳実録による。)光孝天皇(こうこうてんのう)の時代、勅旨田八十町を祭料に充てた。(注:年中行事秘抄、明応本事始による。)延喜式の制では、仲春・仲冬の上の酉の日に祭りを行い、春日祭の使者にこれを執り行わせる。内蔵寮は五色の薄絁・安芸木綿糸・曝布・麻などの幣を献じる。馬寮は神馬二匹を進める。(注:延喜式による。)

狭岡神社八座(さおかじんじゃはちざ)。(注:今は佐保田村の御霊山にある。)伝えによれば、大神君白堤が率川と阪岡の両所に社を建て、太祖の皇后および大物主命(おおものぬしのみこと)を祀ったという。(注:大三輪社鎮座次第による。)阪岡とはおそらくこの社のことであろう。後におそらく狭井神四座・率川神三座を配祀したものと思われる。

率川阿波神社(いさかわあわじんじゃ)。またの名を三枝御子社という。(注:今は奈良の西城戸町の民家の敷地内にある。)事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀る。延暦年間、右大臣藤原朝臣是公(ふじわらのあそんこれきみ)が創建したもので、これは率川社の別社である。(注:大倭社注進状による。延暦年間の由来は公卿補任による。)仁寿二年、狭岡神とともに従五位下を叙せられた。(注:文徳実録による。)

穴次神社(あなつぎじんじゃ)。(注:次は吹とも書く。今は古市村井栗森にある。あるいは次は咋の誤りかとも言う。春日に穴咋という邑があり、これがそれにあたる。春日小社記には穴栗明神が本社の南十町にあると見え、栗と咋は訓が相近いので、おそらくこの社であろう。備考として付す。)猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀る。(注:神名帳頭注による。)

和爾下神社二座(わにしもじんじゃにざ)。(注:一座は今、和爾村の南、櫟本村にあり、上治道天王と呼ばれる。もう一座は横田村にあり、下治道天王と呼ばれる。)おそらく和珥臣(わにのおみ)一族が自らの祖先を祀ったものであろう。(注:日本書紀、姓氏録、延喜式による。)櫟井氏(いちいし)が代々その祭祀を司る。(注:社伝による。)櫟井氏はすなわち和珥氏の一族である。(注:姓氏録による。)

奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)。(注:今は奈良坂村にある。)

神波多神社(かんはたじんじゃ)。(注:今は山辺郡畑荘仲峰山村波多横山にある。)

高橋神社(たかはしじんじゃ)。(注:今は八条村高橋の地にある。あるいは、今の櫟本村に高階の地があり、おそらく本社の跡地だが今は失われているという説もある。いずれが正しいかは未詳。)貞観元年、正六位上から従五位下を授けられた。(注:三代実録による。)

宅布世神社(たふせじんじゃ)。(注:今は鉢伏村にある。)

大和日向神社(やまとひなたじんじゃ)。(注:今は奈良村にあり、軽天社と呼ばれる。)おそらく倭日向武日向彦八綱田命(やまとひなたたけひなたひこやつなだのみこと)を祀るのであろう。(注:日本書紀、姓氏録による。二書によれば、八綱田は実は豊城入彦(とよきいりひこ)の子で、軽部氏(かるべし)の祖である。その子孫に荒田別(あらたわけ)・奈良別(ならわけ)がいる。今、本社は奈良村にあって軽天社と呼ばれ、八綱田を祀るというのも、その一つの証となろう。荒田別の子に竹葉瀬(たかはせ)があり、宅布世とは音訓が相近い。宅布世社はおそらく竹葉瀬を祀るもので、本社と並べて列せられているのには何か由縁があるのだろう。)

春日神社(かすがじんじゃ)。(注:今は春日社の著到殿の東にあり、榎本宮と呼ばれる。和州旧跡幽考が引く春日記には猿田彦神を祀るとあるが、その説は疑わしい。ある説では大春日朝臣の祖である天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を祀るとするのが正しいようである。今はしばらく疑いを残しておく。)伝えによれば、この社はもと春日山にあったが、春日明神をこの地に鎮め祀るに及んで、安部山に移し、春日地主神(かすがじぬしのかみ)と称したという。(注:旧跡幽考が引く春夜神記による。)

売太神社(めたじんじゃ)。(注:今は稗田村にあり、三社明神という。)

赤穂神社(あこうじんじゃ)。(注:今は奈良の高畑神坊町にある。)

島田神社(しまだじんじゃ)。(注:今は八島村にある。)

御前社原石立命神社(みまえのもりはらいわたてのみことじんじゃ)。またの名を御前石立明神という。(注:春日小社記による。社原は杜原とも書き、秘釈本では「もり」と訓じる。今は古市村にある。)

天乃石吸神社(あめのいわすいのかみのやしろ)。赤穂社以下の四座は、後世に春日四所神(かすがししょのかみ)と呼ばれる。(注:諸社根元記、諸神記、春日小社記による。)

五百立神社(いおたちじんじゃ)。(注:今は東大寺の真言院の北にあり、五百余社と呼ばれる。)

天之石立神社(あめのいわたてじんじゃ)。(注:今は小柳生村の巌戸谷にある。)

以上二十八座は、延喜式の制ではいずれも小社に列する。そのうち奈良豆彦社・大和日向社の二座は、祈年祭の幣に鍬と靫を各一口加え、神波多社には鍬一口を加える。(注:延喜式による。)

添下郡(そえしもぐん) 十座

矢田坐久志玉比古神社二座(やたにいますくしたまひこじんじゃにざ)。またの名を矢田神という。(注:新抄格勅符による。今は矢田村にあり、矢落明神と呼ばれる。)一座は久志玉彦命(くしたまひこのみこと)、もう一座は久志玉姫命(くしたまひめのみこと)である。(注:社伝による。)おそらく矢田部造(やたべのみやつこ)が自らの祖先である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)およびその妃三炊屋媛(みかしきやひめ)を祀ったものであろう。(注:姓氏録、日本書紀、旧事本紀による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、久志玉比古神は従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)。(注:添は曽布とも書く。今は三碓村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲百七十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。御県とはすなわち官の直轄地のことで、上古には六県を定め置き、天皇の供御に充てた。(注:御県以下は日本書紀による。)それぞれの地にその神を祀り、高市(たけち)・葛木(かつらぎ)・十市(とおち)・志貴(しき)・山辺(やまのべ)といい、本社もまたその一つで、いずれも大和国内にある。延暦以後になると、さらに御園七所を置いて内膳司にその神を祀ることとしたが、御県六神が今なお官祭にあずかっているのは、古い制度が残っているためである。(注:延喜式による。)

伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)。(注:今は上村にある。)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀る。(注:日本書紀、延喜式による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

菅田比売神社二座(すがたひめじんじゃにざ)。(注:今は筒井村にあり、信田宮という。)

佐紀神社(さきじんじゃ)。(注:今は佐紀郷超昇寺村にある。)

菅原神社(すがわらじんじゃ)。(注:今は菅原村にある。)おそらく菅原氏の祖である天穂日命(あめのほひのみこと)を祀るのであろう。

登弥神社(とみじんじゃ)。(注:今は鳥見荘木島村にある。)

菅田神社(すがたじんじゃ)。(注:今は平群郡八条村にある。)おそらく菅田首(すがたのおびと)の祖である天奇目一命(あめのくしめひとのみこと)を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)

以上六座は、延喜式の制ではともに小社に列する。そのうち菅田比売社の一座は、祈年祭の幣に鍬と靫を各一口加える。

平群郡(へぐりぐん) 二十座

竜田坐天御柱国御柱神社二座(たつたにいますあめのみはしらくにのみはしらじんじゃにざ)。またの名を竜田神という。(注:三代実録による。竜は立とも書く。今は立野村にある。)風の神である級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀る。伊弉諾尊が八つの島を生み終えたのち、朝霧が常に立ちこめてふさがっていたため、息を吹きかけてこれを払った。その息が神と化した、これが風の神である。(注:日本書紀、旧事本紀による。)天御柱神・国御柱神と号する。崇神天皇の時代に初めて祀られた。その事は前に見える。(注:延喜式による。)世に竜田風神(たつたのかぜのかみ)と称する。天武天皇三年四月、小紫美濃王(こしみののおおきみ)らを竜田の立野に遣わしてこれを祭らせた。翌年四月・七月にも同様に祭りを行った。(注:日本書紀による。)これがいわゆる風神祭である。(注:令義解による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲百四十束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)弘仁十三年、従五位下を授けられた。(注:日本紀略による。)文徳天皇の即位に際し従五位上に進み、仁寿二年に従四位下を加えられ、次いで従三位に昇った。(注:文徳実録による。)貞観元年、正三位に進み、次いで使者を遣わして幣を奉り、風雨がやむよう祈った。十二年、河内国で堤を築くにあたり、使者を遣わして幣を奉り、水害がやむよう祈った。その水源が大和国にあるためである。元慶二年、神庫を建てて神宝を納めた。翌年、使者を遣わして神宝を奉った。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

往馬坐伊古麻都比古神社二座(いこまにいますいこまつひこじんじゃにざ)。またの名を伊古麻神という。(注:新抄格勅符による。往馬は膽駒とも書く。今は一分村の生駒山にある。)伊古麻都比古膽駒彦(いこまつひこいこまひこ)、伊古麻都比売膽駒姫(いこまつひめいこまひめ)の二神を祀る。(注:社伝による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲百三十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下の伊古麻都比古神に従五位上を授けた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。そのうち一座はあわせて祈雨の幣にもあずかる。(注:延喜式による。)大嘗祭のたびに、本社の神部に火鑽木(ひきりぎ)を献じさせる。(注:北山抄による。)卜部氏もまたこの神を祭っており、亀卜火燧木神(きぼくひうちぎのかみ)と称する。(注:新撰亀相記による。延喜式によれば、御卜料の婆婆加木の皮は、大和国の封戸を持つ社に採進させるとある。ここにいう燧木とはおそらくこの婆婆加木のことであろう。)

平群石床神社(へぐりいわとこじんじゃ)。(注:今は平群郷越木塚村にあり、巌上祠という。祠のそばに大きな石があり、石床と呼ばれる。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

伊古麻山口神社(いこまやまぐちじんじゃ)。(注:伊古麻は膽駒とも書く。今は櫟原村にあり、滝宮という。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、官人を遣わして幣を奉り、風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

平群神社五座(へぐりじんじゃござ)。(注:今は平群郷西宮村にある。)おそらく平群臣(へぐりのおみ)の祖先を祀るのであろう。(注:姓氏録による。本書および古事記、三代実録によれば、平群木菟(へぐりのつく)の子孫には平群・佐和良・馬御樴・平群文室・韓海部・額田・味酒の七氏がある。このうち平群文室は平群氏の支流であり、額田氏は母方の姓を冒したものであるため、この二氏を除けば五氏となる。これによれば、この五座はおそらく五氏がそれぞれ自らの祖先を祀ったものであろう。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

平群坐紀氏神社(へぐりにいますきしじんじゃ)。(注:今は平群谷上荘村にあり、辻宮という。)おそらく紀朝臣(きのあそん)の祖である武内宿禰を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)天長元年、右衛門督紀朝臣百継(きのあそんももつぐ)らの願いにより官幣にあずかることとなった。(注:類聚国史による。)六年、山城国愛宕郡の丘の一区画を賜り、祭神の地に充てた。(注:日本紀略による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

竜田比古・竜田比女神社二座(たつたひこ・たつたひめじんじゃにざ)。(注:座は社とも書く。今は一本に拠る。社は今、立野村の竜田社の域内にある。)竜田の地主神(じぬしのかみ)を祀る。(注:良訓補忘集による。)

久度神社(くどじんじゃ)。(注:今は葛下郡に属し、王寺の久度村にある。)延暦二年、従五位下を叙せられ官社にあずかることとなった。(注:続日本紀による。)後に山城国の平野社に分けて祀られた。(注:延喜式による。)

猪上神社(いのかみじんじゃ)。(注:今は信貴畑村の信貴山にあり、一名を井上山という。志貴山猪上大明神と称する。)

船山神社(ふなやまじんじゃ)。(注:今は中宮村にある。山の上に三つの石があり、それぞれ長さ三丈ほど、横八、九尺で、形が伏せた舟に似ている。社の名はおそらくこれに由来する。)

御櫛神社(みくしじんじゃ)。(注:今は椹原村にある。)

神岳神社(かみおかじんじゃ)。(注:今は神南村にある。)

雲甘寺坐楢本神社(うんかんじにいますならもとじんじゃ)。(注:雲甘は霊感とも書く。今は梨本の巳郡偉村にあり、野馬田明神という。)貞観三年、従五位下を叙せられた。八年、官社にあずかることとなった。(注:三代実録による。)

以上八座は、延喜式の制ではみな小社に列する。

広瀬郡(ひろせぐん) 五座

広瀬坐和加宇加売命神社(ひろせにいますわかうかめのみことじんじゃ)。またの名を広瀬神という。(注:三代実録による。瀬は湍とも書く。今は川合村にある。)若宇加乃売命(わかうかのめのみこと)を祀る。(注:文徳実録、延喜式による。)若宇加乃売はまた豊宇賀能売(とようかのめ)ともいい、(注:「また曰く」以下は鎮座本紀による。)すなわち倉稲魂命(うかのみたまのみこと)であり、(注:広瀬社縁起による。)広瀬大忌神(ひろせのおおいみのかみ)と称する。(注:日本書紀による。竜田縁起では「大」の下に「物」の字がある。)あるいは広瀬河合神(ひろせかわいのかみ)ともいう。(注:日本書紀、新抄格勅符による。)竜田社と起源を同じくする。(注:令集解、広瀬社縁起による。)天武天皇三年四月、小錦中間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)らを広瀬の川曲に遣わし、この神を祭らせた。翌年四月・七月にも同様に祭りを行った。(注:日本書紀による。)これがいわゆる大忌祭(おおいみのまつり)である。(注:令義解による。)持統天皇五年、使者を遣わして祭りを修めさせた。(注:日本書紀による。)聖武天皇の時代、大和国の神戸から年に稲二十束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)宝亀九年、藤原是公(ふじわらのこれきみ)らを遣わし、幣を奉って年穀の豊作を祈った。(注:続日本紀による。)大同元年、大和国の封戸三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)弘仁十三年、従五位下を授けられた。(注:日本紀略による。)文徳天皇の即位に際し従五位上を加えられ、仁寿二年、従四位下を授けられ、次いで従三位に進んだ。(注:文徳実録による。)貞観元年、正三位に昇り、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。十二年、河内国で堤を築くにあたり、幣を奉って水害を鎮めるよう祈った。元慶二年、神庫を建てた。翌年、神宝を奉った。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)歴代にわたって奉られた神田は、多いときには五百余町に及んだという。(注:広瀬社縁起による。)

讃岐神社(さぬきじんじゃ)。(注:讃岐は散吉とも書く。今は散吉郷の済恩寺村と赤部村の間にある。)散吉大建命(さぬきのおおたけのみこと)、散吉伊能城命(さぬきのいのきのみこと)を祀る。元慶七年、ともに正六位上から従五位下を授けられた。(注:三代実録による。)

櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことじんじゃ)。(注:今は弁財天村にある。)おそらく御炊屋姫(みかしきやひめ)を祀るのであろう。(注:日本書紀、延喜式による。)

穂雷命神社(ほのいかづちのみことじんじゃ)。(注:穂は保沼とも書く。今は安部村にある。)火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る。伊弉冉尊が黄泉国で八柱の雷神を生んだが、火雷はそのうちの一柱である。(注:日本書紀、古事記、延喜式による。)貞観七年、正六位上から従五位下を授けられた。九年、従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)

於神社(おのじんじゃ)。(注:もとは大塚村にあったが、今は絶えている。)延喜式の制では、四座はみな小社に列する。そのうち於社は祈年祭の幣に鍬一口を加える。(注:延喜式による。)

葛上郡(かつじょうぐん) 十七座

鴨都味波八重事代主命神社二座(かもつみはやえことしろぬしのみことじんじゃにざ)。(注:諸本には「味」の字がないが、今は旧事本紀に拠って補った。)またの名を鴨神という。(注:新抄格勅符による。)あるいは葛城賀茂神社ともいう。(注:今は御所村にある。)事代主命を祀り、これは大三輪社の別宮である。(注:延喜式、大三輪社鎮座次第、神皇正統記を参照。社伝には下照姫命(したてるひめのみこと)・建南方命(たけみなかたのみこと)を配祀するとあり、この一座はこの神を指すとされるが、まだ明証を得ていないので、備考として後考を待つ。)崇神天皇の勅により、神の子孫である大賀茂祇命(おおかもづみのみこと)が創祀したものである。(注:姓氏録、大三輪社鎮座次第による。)大同元年、大和国および伯耆国・出雲国の封戸八十四戸を定めた。(注:新抄格勅符による。出雲国の封戸については出雲国風土記にも見え、その由来はかなり古いものである。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗の使者は鴨朝臣(かものあそん)が官幣を奉る。(注:令集解による。)

葛木御歳神社(かつらぎのみとしじんじゃ)。(注:今は東持田村の御年山にある。)御歳神(みとしのかみ)を祀る。(注:古事記、古語拾遺、延喜式による。旧事本紀には事代主の妹である高照光姫(たかてるひめ)を祀るとあるが、その説は疑わしいため採らない。)天平神護元年、大和国および讃岐国の封戸十三戸を奉った。(注:新抄格勅符による。)仁寿二年、従二位を加えられ、次いで正二位に進んだ。(注:文徳実録による。新抄格勅符および本書はいずれも郡名を記していない。高市郡の御歳社と混同する疑いもあるが、あちらの社は大社に列していないこと、また三代実録の神階の記事を考え合わせれば、二つの記事とも本社のことであるのは明らかである。それゆえここに記す。ただし二年以前の叙位については史書に欠けており詳細は不明である。)貞観元年、従一位に昇った。当初は大田田根子命(おおたたねこのみこと)の子孫が祝(はふり)を務め、(注:「初め」以下は姓氏録による。)神主は置かれていなかったが、八年に至って初めて置かれた。次いで神の祟りがあったため、これを停止した。十二年、河内国の堤の工事が成るよう幣を奉って祈った。その水源が大和国にあるためである。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

葛木坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬしじんじゃ)。またの名を葛木神という。(注:続日本紀による。今は森脇村の葛城山の麓にある。)葛木一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ)を祀る。(注:延喜式、旧事本紀、釈日本紀による。旧事本紀では一言主を速戔嗚尊(すさのおのみこと)の子とするが、日本書紀・古事記にはいずれもそのような記載はない。釈日本紀が引く土佐国風土記には、その祖先は不詳とある。それゆえここでは採らない。)雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)がかつて葛城山で狩りをした。そのとき山中に一人の人がいて、衣服も供の者もみな天皇と同じであった。天皇はこれを怪しみ、人を遣わして「私は天皇である。お前が私と同じ装いをしているのはどういうことか」と問わせた。すると、その者もまったく同じように答えた。天皇は怒り、これを射ようとした。その者もまた矢をつがえた。天皇が「まずお互いに名を名乗ろう」と言うと、その者は「私はよく一言で善悪を判断する者で、一言主と号する」と答えた。天皇はやや畏れ憚って「まことに神であられる」と言い、大刀・弓矢を献上した。神は拍手してこれを受け、ついに天皇と轡を並べて狩りを行った。夕暮れになると、神は天皇を久米川のほとりまで送って帰った。(注:日本書紀、古事記による。)本社はおそらくこれに起こるものであろう。神亀三年、使者を遣わして幣を奉り、上皇の病の平癒を祈った。(注:続日本紀による。)文徳天皇の即位に際し正三位を授けられた。(注:文徳実録による。)貞観元年、勲二等をもって従二位に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

巨勢山口神社(こせやまぐちじんじゃ)。(注:今は古瀬村にあり、高社と称する。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

葛木水分神社(かつらぎのみくまりじんじゃ)。(注:今は関屋村の水越峠にある。)天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)を祀る。(注:古事記、旧事本紀による。)承和七年、従五位下を叙せられた。(注:続日本後紀による。)貞観元年、破格に正五位下を授けられ、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:本書には「名神」の二字があるが、名神祭の条には記載がなく、また水分四社のうちほかの社はいずれも名神に列していない。おそらく誤りがあると思われるため、疑いを残しておく。)大和国で水分神を祀る社は全部で四社あり、吉野水分(よしののみくまり)・宇陀水分(うだのみくまり)・都介水分(つげのみくまり)と本社とを併せて水分四神(みくまりよんしん)と称する。(注:延喜式による。)

鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)。(注:鴨は賀茂とも書く。今は俱尸羅村の高鴨山にある。)貞観元年、従五位下から正五位下に昇り、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

高天彦神社(たかまひこじんじゃ)。(注:今は高天村にあり、彦沢権現という。)宝亀十年、大和国の封戸四戸を奉った。(注:新抄格勅符による。)大同元年、正四位上をもって四時の幣にあずかることとなった。皇太后の願いによるものである。(注:日本後紀による。)承和六年、従三位をもって名神に列した。(注:続日本後紀による。)貞観元年、正三位勲二等から従二位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

高鴨阿治須岐託彦根命神社四座(たかかもあじすきたかひこねのみことじんじゃよんざ)。またの名を高鴨神という。(注:新抄格勅符による。)一に捨篠社(すてしのしゃ)ともいい、(注:旧事本紀による。)あるいは葛城賀茂社ともいう。(注:出雲国風土記、延喜式による。今は神通寺村にある。)味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀り、迦毛賀茂大御神(かものかもおおみかみ)と号する。(注:古事記、延喜式による。)大己貴命(おおなむちのみこと)が高彦根に命じて葛木の鴨の神奈備(かむなび)に神霊を鎮め、皇孫を守護させたというのは、すなわちこの社のことである。(注:延喜式による。)伝えによれば、高彦根が帯びていた剣を大葉刈(おおばかり)といい、また神戸剣(かんべのつるぎ)とも呼ばれ、本社に納められているという。(注:釈日本紀による。)天平宝字八年、これより先、中衛将監賀茂朝臣田守(かものあそんたもり)らが「本社はわが先祖が主として祭ってきたものである。むかし大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと、雄略天皇)が葛城山で狩りをした際、神が老人の姿となって天皇と獲物を争った。天皇は怒って土佐国にこれを流した。どうか元の場所に復し祀っていただきたい」と申し出た。ここに至り、田守を遣わして神を迎え祀らせた。(注:続日本紀による。)天平神護元年、土佐国の封戸二十戸を神の封戸に充てた。翌年、さらに大和国および伊予国の封戸三十三戸を奉った。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従二位勲八等から従一位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

多太神社(たたじんじゃ)。(注:今は多田村にある。)大田田根子を祀る。成務天皇(せいむてんのう)の時代、大神君大友主(おおみわのきみおおともぬし)が霊夢によってこの社を創建したという。(注:大三輪鎮座次第による。)おそらくこの社であろう。

長柄神社(ながらじんじゃ)。(注:今は長柄村にある。)おそらく長柄首(ながらのおびと)の祖である事代主命を祀るのであろう。(注:姓氏録による。)

葛木犬養神社(かつらぎのいぬかいじんじゃ)。(注:犬養は諸本の印本では犬重、秘釈本では八重に作るが、今は新抄格勅符に拠って訂正した。社は今、楢原村にある。)おそらく大綿津見神(おおわたつみのかみ)を祀るのであろう、すなわち犬養連(いぬかいのむらじ)の祖である。(注:日本書紀、姓氏録、新抄格勅符を参照。)大同元年、信濃国の封戸二十戸を定めた。(注:新抄格勅符による。信濃国安曇郡には穂高神社があり、安曇氏の祖を祀っている。安曇氏と犬養氏はともに綿津見神を祖としており、信濃国の地を本社の封戸に充てたのにも何か由縁があるのだろう。備考として付す。)

大穴持神社(おおなむちじんじゃ)。(注:今は朝町村にあり、三輪明神と称する。)貞観元年、従一位から正一位に進んだ。(注:三代実録による。)

大倉比売神社(おおくらひめじんじゃ)。またの名を雲櫛社という。(注:延喜式による。今は巨勢河合村にあり、宇久比須宮と称する。)大己貴神の娘である下照姫命を祀り、一名を高姫命(たかひめのみこと)、また稚国玉(わかくにたま)とも称する。(注:日本書紀、旧事本紀、神名帳頭注による。)

延喜式の制では、以上五座はともに小社に列する。そのうち多太・長柄の二社は、祈年祭の幣に鍬と靫を各一口加える。(注:延喜式による。)

葛下郡(かつげぐん) 十八座

葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎのしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)。(注:今は加守村にあり、加守明神という。)建葉槌命(たけはづちのみこと)、一名を天羽槌雄命(あめのはづちおのみこと)という神を祀る。(注:日本書紀、古語拾遺、神代巻口訣による。)建葉槌はすでに開国の功臣であり、また機織りの技を教えたことでその功績が世に及んだため、倭文神(しとりのかみ)と号する。(注:日本書紀、古語拾遺による。)諸国で多く祀られているが、本社が最も著名である。(注:延喜式による。)大同元年、大和国の封戸二十三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

片岡坐神社(かたおかにいますじんじゃ)。(注:今は医王寺村の片岡山にある。)大同元年、大和国および遠江国・近江国の封戸三十戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下勲八等から正五位上に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

長尾神社(ながおじんじゃ)。(注:今は長尾村にある。)

石園坐多久豆玉神社二座(いわそのにいますたくづたまじんじゃにざ)。(注:豆は本書では虫と書かれているが、今は姓氏録に拠って訂正した。社は今、三倉堂村にある。)爪工連(つめのたくみのむらじ)の祖である多久豆玉命(たくづたまのみこと)を祀る。(注:姓氏録、延喜式による。)貞観元年、長尾神とともに従五位下から従五位上に昇った。(注:三代実録による。)延喜式の制でもまたいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

調田坐一事尼古神社(つきだにいますひとことねこじんじゃ)。またの名を槻田神という。(注:新抄格勅符による。今は疋田村にある。)おそらく一言主神を祀るのであろう。(注:日本書紀、延喜式による。)神護景雲四年、大和国および播磨国の封戸二戸を充てた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

金村神社(かなむらじんじゃ)。(注:今は大屋村にある。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

葛木御県神社(かつらぎのみあがたじんじゃ)。(注:今は桑海村にある。)大同元年、備前国の封戸若干を定めた。(注:新抄格勅符による。本書には戸数の記載がない。和名抄によれば備前国赤坂郡に葛木郷があり、おそらくそこが封戸の所在地であろう。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

火幡神社(ほはたじんじゃ)。(注:今は畠田山上邑にある。)大同元年、伊予国の封戸十戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

当麻山口神社(たいまやまぐちじんじゃ)。(注:今は当麻村にある。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣、(注:「大社」以下は一本による。)および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

大坂山口神社(おおさかやまぐちじんじゃ)。(注:今は穴蒸村にある。その付近に逢坂村・大坂山がある。)崇神天皇が黒い盾・黒い矛を大坂神に奉ったというのはこの社である。(注:日本書紀、古事記による。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

葛木二上神社二座(かつらぎのふたかみじんじゃにざ)。(注:今は当麻村の西北、葛木二上山の山上にある。)豊布都霊神(とよふつのみたまのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)を祀る。(注:和州旧跡幽考が引く酉誉記による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

当麻都比古神社二座(たいまつひこじんじゃにざ)。またの名を当麻社という。(注:三代実録による。今は当麻村の平田荘にある。)当麻真人(たいまのまひと)の祖である麻呂古皇子(まろこのみこ)を祀る。(注:日本書紀、姓氏録による。一座については詳らかでないが、おそらく皇子の妃を祀るのであろう。)実は清和天皇(せいわてんのう)の母方の祖母にあたる源氏の外戚の氏神である。(注:三代実録による。麻呂古が生んだ葛城直広子(かつらぎのあたいひろこ)は、おそらくこの地に住んでいたため、ここに祀られたのであろう。)仁寿三年、初めて祭りを行った。(注:諸社根元記、諸神記による。この二書はいずれもこれを当麻山口の祭りとしているが、これは誤りであり、今訂正した。)貞観元年、図書頭当麻真人清雄(たいまのまひときよお)を差し向けて神宝・幣帛を奉らせた。(注:三代実録による。)延喜式の制では小社に列する。毎年初夏と仲冬の上の申の日に、内蔵属(くらのさかん)を遣わし、五色絁・安芸木綿・曝布などの幣を奉らせる。物忌には両面綾・絹・糸・綿を、神主・祝には絹・糸・調布を支給し、いずれも内蔵寮の物を用いる。

深溝神社(ふかみぞじんじゃ)。

志都美神社(しつみじんじゃ)。(注:今は上里村にあり、志美都八幡と称する。)

伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)。(注:今は下牧村にある。)

延喜式の制では、この三座もまたみな小社に列する。(注:延喜式による。)

忍海郡(おしみぐん) 三座

葛木坐火雷神社二座(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃにざ)。(注:今は笛吹村の笛吹山にある。)一座は火雷神を祀り、(注:延喜式による。)もう一座は笛吹連(ふえふきのむらじ)の祖である武田折命(たけだおりのみこと)を祀るという。(注:旧事本紀、姓氏録、地元の言い伝えによる。袖中抄、宮主秘事口伝にはいずれも「およそ官の卜事には、笛吹社の上の波波迦木を用いる」とあり、当時すでに笛吹社があったことがわかる。思うに、後世に二座に分けてそれぞれ一社としたのであろう。武田折を祀る社は特に笛吹社と号し、延喜式にその名がないため式外社となっている。しかし今、地元の人々は両社を通じて火宮と呼んでおり、もとは一社であったこともこれによって証明できよう。あわせて備考としておく。)貞観元年、正三位勲二等の火雷神に従二位を授けた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。

為志神社(いしじんじゃ)。(注:今は林堂村にあり、十二所権現と称する。)延喜式の制では小社に列する。(注:延喜式による。)

宇智郡(うちぐん) 十一座

宇智神社(うちじんじゃ)。(注:今は今井安生寺邑にあり、国生明神と称する。)おそらく内臣(うちのおみ)の祖である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を祀るのであろう。(注:姓氏録による。)

阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)。(注:今は阿陀郷原村にあり、十二所権現と称する。)おそらく豊吾田津姫命(とよあたつひめのみこと)を祀るのであろう。(注:日本書紀、延喜式による。吾田津姫はすなわち木花開耶姫(このはなさくやひめ)であり、火闌降命(ほすそりのみこと)の母である。次に見える二見社と同じ郡内にあるのには、必ず何か由縁があるのだろう。備考として付す。)

荒木神社(あらきじんじゃ)。(注:今は今井村の荒木山にある。)

丹生川神社(にうかわじんじゃ)。(注:今は丹原村にある。)

二見神社(ふたみじんじゃ)。(注:今は二見村にある。)おそらく二見首(ふたみのおびと)で当郡に本貫を持つ者が、その祖である火闌降命を祀るのであろう。(注:延喜式、姓氏録による。)

宮前霹靂神社(みやさきのはたたがみじんじゃ)。(注:今は西久留野村の産屋峰にあり、雷神と称する。)

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)。(注:今は御山村の宮山にある。)貞観元年、正四位上から従三位を授けられた。元慶三年、正三位に進んだ。(注:三代実録による。)

高天岸野神社(たかまのきしのじんじゃ)。(注:今は北山村の岸野にあり、岸野弁財天と称する。)

落杣神社(おちそまじんじゃ)。(注:今は黒駒村の宮山にある。)

高天山佐太雄神社(たかまのやまさたおじんじゃ)。(注:今は大沢村の神福山にある。)

一尾背神社(いちおせじんじゃ)。(注:今は北山村にあり、水分と称する。)

以上十一座は、延喜式の制ではみな小社に列する。そのうち高天山佐太雄社の三座は、祈年祭の幣に鍬一口を加える。(注:延喜式による。)

吉野郡(よしのぐん) 十座

吉野水分神社(よしののみくまりじんじゃ)。またの名を芳野水分峯神(よしののみくまりみねのかみ)という。(注:水分は「みくまり」と訓じ、「みこもり」と音が相通じるため、後には子守明神と誤って呼ばれるようになった。今は吉野の子守町の南、小峰の上にある。その南方の山容が秀麗であり、おそらく古の水分峯であろう。)文武天皇二年、馬を奉って雨を祈った。(注:続日本紀による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)承和七年、従五位下を叙せられた。(注:続日本後紀による。)貞観元年、正五位下に進み、使者を遣わして幣を奉り、風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

吉野山口神社(よしのやまぐちじんじゃ)。(注:今は山口村にあるというが未詳。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

大名持神社(おおなもちじんじゃ)。またの名を大名持御魂神社という。(注:延喜式による。今は川原屋村の妹背山にある。)貞観元年、従一位から正一位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)。(注:和漢三才図会、和州旧跡幽考にはいずれも「丹生山は下市村の西にあり、丹生川はそこから出る。川上の迫村に一つの祠があり、これが本社であろう」とある。大和志、大和名所図会など諸書にはいずれも「丹生村にある」とある。しかし古老の伝えによれば、「昔、洪水があり、丹生社の鳥居が流れてこの地に留まったため、ここに祀った」という。また類聚三代格に記された本社の四至(しいし)には「東は塩匀を限り、南は大山峰、西は板浪滝、北は猪鼻滝」とあるが、丹生村の地形はこれに合わない。ただ迫村がやや近いので、備考として付しておく。)水の神である罔象女神(みつはのめのかみ)を祀る。(注:二十二社注式、神名帳頭注、諸社根元記による。)天武天皇三年、初めて祠を建てて祭った。(注:二十二社注式による。)最初、神が人に憑いて「吉野の丹生川上は山林が幽邃で、人里から遠く離れている。もしそこに私を祀るならば、必ず雨や晴れを時に応じて授けよう」と告げた。(注:類聚三代格が引く名神本紀による。)それゆえこの制度ができたのである。以後、日照りや長雨のたびに必ず祭りを行い、歴代絶えることがなかった。雨師神(あめのかみ)と号する。(注:続日本紀以下の国史、日本紀略による。)大和社の別社である。(注:類聚三代格、大倭社注進状による。)およそ雨を祈るときには黒馬を、晴れを祈るときには白馬を奉る。宝亀四年、封戸四戸を奉った。(注:続日本紀による。)延暦十九年、月次祭にあずかることとなった。(注:類聚国史による。)弘仁九年、従五位下を授けられた。(注:日本紀略による。)承和七年、正五位下から正五位上に進み、八年・十年にもそれぞれ一階を加えられた。(注:続日本後紀による。)文徳天皇の即位に際し、さらに一階を授けられた。(注:文徳実録による。)貞観元年、従三位に進み、元慶元年にもさらに一階を加えられた。(注:三代実録による。)寛平七年、社司が「本社の四至の内では神馬を放牧しており、狩猟を厳しく禁じている。しかし国栖部(くずべ)の民や浪人らが供御の御用と称して神地を侵し奪い、しばしば穢れに触れて祟りを招いている。どうか禁制を重ねて加えていただきたい」と申し出て、これが認められた。(注:類聚三代格による。)九年、従二位に昇った。(注:大倭社注進状が引く新国史による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)幣使には六位の官人があてられる。(注:諸社根元記、諸神記による。)およそ大和社に幣を奉るときは、必ず本社にも奉ることとし、神主は使者に従って社の分の幣を進める。(注:大和社注進状による。)晴れを祈るときには青馬を奉ることもあり、(注:三代実録による。)後世にはさらに赤馬を献じるようになった。(注:北山抄による。)保延五年、夏の日照りに雨を祈ったところ、三日間豊かに雨が降った。(注:古今著聞集による。)世にこの社に祈れば必ず験があるといわれている。(注:古今著聞集、吉野拾遺による。)

金峯神社(きんぷじんじゃ)。(注:峯は岑とも書く。今は吉野山村の金御嶽にあり、金精明神という。山中にはまた蔵王権現(ざおうごんげん)も祀られており、後世には金峰山、あるいは金御嶽と呼ばれるのはもっぱら蔵王権現に係るもので、世間ではこれを本社と誤解している。しかし金峰山古今筌蹄記、大和志などの書を考えると、蔵王とは実は仏教の異国の神で、金剛蔵王といい、役小角(えんのおづぬ)や僧行基(ぎょうき)らが崇め奉ったもので、金峯神とはもともと別のものである。しかも筌蹄記には「本社こそが金峰山の根源となる霊社であり、黄金を守護する大神である」とあり、大和志が引く土地の人の説には「本社は実は吉野山の地主神であり、金御嶽の名はもともとこの社に起こる」とある。これによれば、本社が古い祠であることは間違いない。ただ後世には蔵王が盛んになり、本社がかえってその管理下に置かれるようになったため、往々にして疑いを持つ者があるのである。ひとまず備考として付しておく。)気多大神(けたのおおかみ)および比売神を祀る。(注:金峰山古今筌蹄記による。)気多神とはすなわち大己貴命である。(注:諸社根元記、諸神記による。社伝には「金山彦(かなやまひこ)・金山姫(かなやまひめ)の二神を祀る」とあるが、おそらく「金峯」の名から付会されたものであろう。ただし筌蹄記には「祀られる三座のうち、その一座は金精大神である」とあるが、実際にどの神かはわからない。あるいは金山彦のことかもしれないが、まだ証拠を得ていないので後考を待つ。)仁寿二年、特に従三位を加えられた。翌年、名神にあずかることとなった。斉衡元年、相嘗・月次・神今食の祭りにあずかることとなった。(注:文徳実録による。)貞観元年、勲八等をもって正三位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

高桙神社(たかほこじんじゃ)。(注:今は山口村にある。伝えによれば、もとは竜門山の上にあったという。)

川上鹿塩神社(かわかみかしおじんじゃ)。(注:今は樫尾村の日暮峰にあり、大蔵明神という。)

伊波多神社(いわたじんじゃ)。(注:今は和田村にある。)

波宝神社(はほうじんじゃ)。(注:今は夜中村の東、白銀嶽にある。)

波比売神社(はひめじんじゃ)。(注:今は櫔原村にあり、黄金岳宮という。)天安二年、波宝神とともに官社にあずかることとなり、従五位下から従四位下に進んだ。(注:文徳実録による。)貞観六年、ともに正四位下を授けられ、(注:「正」は諸本では「従」に作るが、今は八年の条に拠って訂正した。)八年、さらにともに従三位を加えられた。(注:三代実録による。)

延喜式の制では、以上五座はみな小社に列し、伊波多社を除いて、祈年祭の幣にいずれも鍬一口を加える。

宇陀郡(うだぐん) 十七座

宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)。(注:太は陀とも書く。今は下井足村の水分山にある。)崇神天皇が赤い盾・赤い矛を奉って宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ)を祀ったというのは、おそらくこの神のことである。(注:日本書紀、古事記、延喜式を参照。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)承和七年、従五位下を叙せられた。(注:続日本後紀による。)貞観元年、正五位下を授けられ、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

阿紀神社(あきじんじゃ)。(注:今は迫間村の阿紀の地にあり、神戸明神と称する。)おそらく天照大神の御霊を祀り奉るものであろう。倭姫命(やまとひめのみこと)が大神を奉じて宇陀の阿貴宮(あきのみや)に至った際、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)が神田・神戸を献じたという。(注:太神宮儀式帳、倭姫命世紀による。)これがいわゆる宇陀神戸である。(注:太神宮雑事記、神鳳抄による。)

門倍神社(かどべじんじゃ)。(注:倍は僕とも書く。今は今井村にある。)おそらく門部連(かどべのむらじ)の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)

丹生神社(にうじんじゃ)。(注:今は雨師村の朝原の地にある。)伝えによれば、高龗神(たかおかみのかみ)を祀るという。(注:社伝による。)

御杖神社(みつえじんじゃ)。(注:今は神末村にある。)倭姫命が御杖代(みつえしろ)となって大神を奉じ、宇陀の阿貴宮から佐佐波多宮(ささはたのみや)に至ったのが、すなわちこの地である。(注:太神宮儀式帳、倭姫命世紀による。)本社はおそらく大神の御霊を祀り奉るものであろう。

椋下神社(くらしたじんじゃ)。(注:今は福地村の椋下の地にある。)

高角神社二座(たかつのじんじゃにざ)。(注:今は上道守村にある。あるいは吉野郡の高見山、旧名を高角山という山にあるともいう。)伝えによれば、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀るという。もう一座は太祖の御霊を祀り奉るという。(注:社伝による。)

八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)。(注:今は鷹塚村にあり、八咫烏明神と称する。)賀茂建角身命の御霊を祀る。(注:釈日本紀による。)太祖の東征に際し、建角身は大きな烏に化して翔けめぐり、皇軍を導いて、その功績はとりわけ著しかった。(注:姓氏録による。)慶雲二年、この地に祠を創建した。(注:続日本紀による。)

味坂比咩命神社(あじさかひめのみことじんじゃ)。(注:今は荷坂村の味坂山にある。)

御井神社(みいじんじゃ)。(注:今は檜木村の御井山にあり、食井明神と称する。あるいは下平井村にあるといい、社地には今も三つの井戸があるという。)

岡田小秦命神社(おかだこはたのみことじんじゃ)。(注:今は小和田村にある。)

神御子美牟須比命神社(かみのみこみむすひのみことじんじゃ)。(注:今は大神村にあり、子首神と称する。)

桜実神社(さくらみじんじゃ)。(注:実は宝とも書く。今は佐倉村にある。)

剣主神社(つるぎぬしじんじゃ)。(注:今は宮半坂村の宮地にある。本社には壇があって屋はなく、地元の人々の間ではこれには故実があると伝えられている。)伝えによれば、素戔烏尊(すさのおのみこと)を祀るという。(注:社伝による。)

室生竜穴神社(むろうりゅうけつじんじゃ)。(注:室は檉とも書く。今は室生村の室生山にある。)宝亀年間、勅により東宮の病の平癒を室生山に祈ったのが、すなわちこの社である。以後、日照りの災いのたびに雨を祈ると、しばしば験があったという。(注:承平七年の室生山寺奏状による。)貞観九年、従五位下から正五位下を授けられた。(注:三代実録による。)延喜十年、従四位下を加えられた。(注:日本紀略による。)応和元年、雨を祈るにあたり、朝廷の議論で「天慶年間に位階が上がった際、本社も本来一階進むべきであったのに漏れて叙位されなかった」ということになり、破格に正四位下を授けられた。(注:祈雨日記による。)

都賀那木神社(つがなきじんじゃ)。(注:今は山路村の伊勢瑳山にある。)仁寿二年、官社に列せられた。(注:文徳実録による。)

以上十六座は、延喜式の制ではみな小社に列する。そのうち阿紀・門倍・丹生・高角・八咫烏の五座は、祈年祭の幣にいずれも鍬と靫を各一口加え、椋下社には靫一口を加える。(注:延喜式による。)

城上郡(しきのかみぐん) 三十五座

大神大物主神社(おおみわのおおものぬしじんじゃ)。(注:今は三輪村の東、三輪山にある。)大己貴命の和魂(にぎみたま)を祀る。(注:日本書紀、古事記、延喜式による。)倭大物主櫛瓺玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と号する。大己貴はすでに国を皇孫に譲ったのち、その霊を八咫鏡に託し、大御和(おおみわ)の神奈備に鎮まらせて皇室を守護させたが、これがすなわちこの社である。(注:延喜式による。)世に大三輪神(おおみわのかみ)と称する。(注:日本書紀による。)孝昭天皇(こうしょうてんのう)の時代、神託があったことにより、勅命で瑞籬(みずがき)を建てて祀らせた。(注:大三輪鎮座次第による。)崇神天皇は神の子孫である大田田根子を祭主とし、災いを鎮めさせた。この事は前に見える。また吉足日命(きたらしひのみこと)を祭祀に侍らせ、宮能売公(みやのめのきみ)の姓を賜った。(注:「また」以下は姓氏録による。鎮座次第ではこれを孝昭天皇の時代の事とする。)雄略天皇十四年、衣縫兄媛(きぬぬいのえひめ)を奉った。(注:日本書紀による。)清寧天皇(せいねいてんのう)は皇子がなかったため、大連大伴室屋(おおむらじおおとものむろや)を遣わして幣を奉り祈らせた。神は宮能売の造(みやつこ)に憑いて「天皇よ、憂えることはない。私は少彦名(すくなひこな)とともに天下を経営し、永く皇孫を守護するのである。皇統がどうして絶えることがあろうか」と告げた。天皇はそこで詔して磐境(いわさか)を立てさせ、あわせて少彦名命を祭らせた。(注:大三輪鎮座次第による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に納める稲はおよそ千四百七十余束であった。(注:東大寺正倉院文書による。)天平神護元年、大和国および摂津国・遠江国・美濃国・長門国の封戸百六十戸を奉り、その後さらに大和国・摂津国それぞれの封戸五戸を加えた。(注:新抄格勅符による。)文徳天皇の即位に際し正三位を授けられ、仁寿二年、従二位を加えられた。(注:文徳実録による。)貞観元年、勲二等をもって従一位に進み、まもなく正一位に昇り、次いで幣を奉って風雨の変事を鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)おおよそ毎年晩春には、狭井社とともに鎮花祭(はなしずめのまつり)にあずかる。(注:令義解による。)この事もまた前に見える。通常の祭りは初夏と晩冬の上の卯の日に行い、官人を遣わして幣を奉らせたが、後にしだいに廃れた。昌泰元年に至ってこれを再興し、ついに恒例となった。(注:大三輪鎮座次第、諸社根元記による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗の使者は大神氏(おおみわうじ)の氏上が官幣を奉る。(注:令集解による。)その例祭には、内蔵寮が緋帛・安芸木綿、および帛の貲布・紫紗・縹帛(はなだのきぬ)・忍冬花鬘(にんどうのはなかずら)などの幣を奉り、馬寮は走馬十二匹を献じる。冬の祭りには五色の薄絁・安芸木綿を用いる。(注:延喜式による。)後世に大和国の一宮(いちのみや)と称された。(注:一宮記による。奥義抄によれば、三輪社はもと神殿を設けていなかったが、後世に土地の人が新たに造ったところ、群がる鴨がそれを突き破ったという。人々はこれを神意と考え、その後は二度と造らなかったといい、他の書にもしばしばこの説が載っている。しかし日本書紀には宮を構えて神を鎮めたという記述があり、崇神天皇の神宴の歌にも三輪の殿戸を詠んだ句がある。これによればもともと宮殿があったことがわかる。諸書のいう話は、おそらく中世に神殿が傾き壊れて再建されなかったことから、後になって神殿を設けないことが古くからの慣わしであるとされるようになったのではないか。ひとまず備考として付しておく。)当初、持統天皇の御代、中納言大神朝臣高市麻呂(おおみわのあそんたけちまろ)がその一族の者を社司に任じ、子孫が代々その職を世襲して、後世に至るまで絶えなかったという。(注:今昔物語による。)大己貴の功徳はきわめて大きく、人々はみなその恩恵をこうむったので、(注:日本書紀による。)その祭祀は天下に広まった。その荒魂を祀るものを大国魂社といい、和魂を祀るものを大物主社という。そのほか大穴持社・大名持社・大神社・神社・美和社・弥和社・三輪社・大御和社・於保奈牟智大己貴社などと呼ばれる社は、いずれもこの神を祀るものである。(注:延喜式による。)

神坐日向神社(かみにいますひむかいじんじゃ)。またの名を日向王子という。(注:延喜式による。今は三輪山の上にあり、高宮と称する。)大己貴命の和魂を祀り、大物代主神(おおものしろぬしのかみ)と号する。大己貴はすでに大きな国造りの功績を成し遂げたのち、その幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を倭の青垣の東の山の上に鎮まらせた。これがいわゆる御諸山(みもろやま)の上にいます神である。(注:日本書紀、古事記を参照。日本書紀本文およびその注釈によれば、幸魂・奇魂とはすなわちいわゆる和魂のことである。また東と日向は訓読みが相通じるため、おそらく御諸山はもとの名を日向山といい、すなわち東山のことであろう。あわせて備考としておく。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。大神社の夏祭りには、あわせて使者を遣わして緋帛を奉る。(注:延喜式による。)

穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)。またの名を穴師神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。今は穴師村の東、弓月嶽にある。)大己貴命を祀る。大己貴はまた八千戈神(やちほこのかみ)とも称し、弓矢を司る神であるため、兵主神(ひょうずのかみ)と号する。(注:諸社根元記による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲千四百三十余束、和泉国からの貢税三千六百五十余束を納め、後にさらに正税二百七十余束を割いてこれに加えた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および和泉国・播磨国の封戸五十二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。播磨国風土記によれば、穴師里をもって倭穴无神(やまとのあなむのかみ)の神戸に充てたとあり、いわゆる播磨の封戸はおそらくこれに始まるのであろう。ただし本書に年代の記載がないため、ひとまずここに付しておく。)貞観元年、従五位下勲八等から正五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗は本社の神主に官幣を受けさせて祭る。(注:令集解による。)おおよそ諸国にある兵主社は、いずれもこの神を祀るものである。(注:延喜式による。)

巻向坐若御魂神社(まきむくにいますわかみたまじんじゃ)。またの名を巻向神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。巻は纏とも書く。今は三輪山の北、穴師川の上流、巻向の檜原山にあり、檜原明神と称する。)稚産霊神(わくむすひのかみ)を祀る。(注:日本書紀、古事記、延喜式による。)子鈴(こすず)を神体とし、これがいわゆる巻向穴師神である。(注:釈日本紀が引く大倭本紀による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲八十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗は本社の神主に官幣を受けさせて祭る。(注:令集解による。)

他田坐天照御魂神社(おさだにいますあまてるみたまじんじゃ)。またの名を他田神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。もとは辻村の他田にあったが、後に大田村に遷された。)天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)を祀る。(注:日本書紀、旧事本紀、延喜式による。)聖武天皇の時代、神戸からの稲は年に九十余束で、いずれも当郡から納められたものであった。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および伊勢国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。本書の印本には「相嘗」の二字があるが、相嘗祭の条には記載がないため、ここには記さない。)

志貴御県坐神社(しきのみあがたにいますじんじゃ)。(注:貴は癸とも書く。今は金屋村にあり、志貴宮と称する。)おそらく志貴県主(しきのあがたぬし)・志貴連(しきのむらじ)らの祖を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲千三百五十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸十二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

忍坂坐生根神社(おさかにいますいくねじんじゃ)。(注:今は忍坂村の宮山にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲百五十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

長谷山口坐神社(はせやまぐちにいますじんじゃ)。(注:今は初瀬村の柳原手力山にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲五百四十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下を授けられ、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。おおよそ諸国の山から用材を採るときには、必ず先にその山の神を祭る、これを山口祭という。上古にはしばしば都を遷したが、おおむね大和国の域を出ることはなかった。(注:「上古」以下は日本書紀による。)常に長谷や飛鳥・石村(いわれ)・忍坂・畝火・耳成などの山から宮殿の用材を採ったため、この六つの山を定めて山口六神(やまぐちろくしん)と称し、祀典に著された。平安京に都が遷ったのちも、なお旧来の制度に従った。大忌祭でも同様に山口神を合わせて祭り、さらに夜岐布(やぎう)・伊古麻(生駒)・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・都介の八神を加えて十四座とし、甘い水が出て苗や作物を潤すよう祈る。(注:延喜式による。)

忍坂山口坐神社(おさかやまぐちにいますじんじゃ)。(注:今は忍坂村の隣村、赤尾村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸の税があったが、その数は詳らかでない。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

高屋安部神社三座(たかやあべじんじゃさんざ)。(注:今は十市郡に属し、桜井谷村の若桜社のそばにあり、高屋明神と称する。もとの所在地は安倍松本山といった。)おそらく阿倍朝臣(あべのあそん)の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。本社は若桜社のそば、社の西二町ほどのところにあり、膳部村がある。姓氏録を考えると、若桜部・膳部の二氏はいずれも阿倍氏と同族であり、これにも何か由縁があるのだろう。)天安元年、従五位下から従五位上に進み、次いで従四位下を加えられた。(注:文徳実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)天慶三年、正四位下から従三位に昇った。(注:日本紀略による。)

宗像神社三座(むなかたじんじゃさんざ)。登美山(とみやま)にある。(注:今は外山村にあり、春日と称する。あるいは初瀬村の宮谷にあるともいい、いずれが正しいかは未詳。)すなわち筑前国の宗像社の別社である。(注:類聚三代格による。)当初、天武天皇の皇子である高市(たけち)が生ませた子を胷方氏(むなかたし)といい、その家は代々宗像の神祠を司った。(注:日本書紀による。)それゆえ高市はとくにこの神を崇めた。太政大臣となるに及んで、筑前の社の賤民の年輸物を割いて本社の修営に充てることを命じ、これを永式とした。高市の子孫である高階氏(たかしなし)が、常に社務を管理した。(注:類聚三代格による。)元慶四年、官社に列し、従一位勲八等を叙せられた。翌年、高階真人忠峰(たかしなのまひとただみね)の願いにより、初めて神主を置き、その一族の仲守(なかもり)をこれに補した。寛平五年、また忠峰らの願いにより、筑前の賤民十六人を放って良民とし、あらためて大和国の徭丁八人を差し向けて修理の料に供させ、他の役には充てず、永くこれを例とした。(注:三代実録、類聚三代格による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。本書には「名神」の二字があるが、ある一本および名神祭の条には記載がないため、ここには記さない。また諸本には「新嘗」の語が脱けているため、今は一本に拠って補った。)

狭井坐大神荒魂神社五座(さいにいますおおみわのあらみたまじんじゃござ)。またの名を佐為神という。(注:新抄格勅符による。今は三輪社の北、狭井川の南にあり、花鎮狭井神社と称する。)大己貴命の荒魂、すなわち大国魂神を祀る。(注:令集解、延喜式、大倭社注進状による。)またその和魂である大物主神、およびその妃である勢夜陀多良比売命(せやだたらひめのみこと)・事代主命を配祀し、そのうちの一座は太祖の皇后を祀る、これは大倭社の別社である。(注:大倭社注進状による。古事記を参照。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲三百九束余りを納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)

等弥神社(とみじんじゃ)。(注:今は十市郡桜井谷村の南にあり、能登宮と称する。)太祖が鳥見山(とみやま)の中に霊畤(れいじ)を造って皇祖の天神を祀ったのが、おそらくこの社であろう。(注:日本書紀による。)

殖栗神社(えぐりじんじゃ)。(注:今は上之荘村の殖栗の地にある。)おそらく中臣殖栗連の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録による。)

水口神社(みなくちじんじゃ)。(注:今は渋谷村の上山にある。)

桑内神社二座(くわちじんじゃにざ)。おそらく桑内連(くわちのむらじ)の祖を祀るのであろう。(注:旧事本紀による。)

曳田神社二座(ひきたじんじゃにざ)。(注:曳は秉とも書く。今は白川村にある。)伝えによれば、大神引田公(おおみわのひきたのきみ)の祖である大己貴命を祀るという。(注:続日本紀、社伝による。)

宇太依田神社(うだよりたじんじゃ)。(注:延喜式による。)

玉列神社(たまつらじんじゃ)。(注:列は烈とも書く。今は内蔵式に拠る。社は今、慈恩寺村にある。)玉列王子(たまつらおうじ)と称する。延喜式の制では、大神社の夏祭りの日に緋帛の幣を奉る。(注:延喜式による。)

伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)。(注:今は柳本村の天神山にある。延喜式による。)

綱越神社(つなこしじんじゃ)。(注:今は三輪村の大神社の域内、綱越の地にある。)おそらく綱長井神(つなながいのかみ)を祀るのであろう。(注:延喜式による。)大宮地霊五座(おおみやどころのたまござ)の一つである。(注:古語拾遺による。)貞観元年、従五位下を叙せられた。(注:三代実録による。)

稔代神社(としろじんじゃ)。(注:稔は稌とも書く。延喜式による。)

穴師大兵主神社(あなしのおおひょうずじんじゃ)。(注:今は穴師社の左にある。延喜式による。)

若桜神社(わかさくらじんじゃ)。(注:今は十市郡桜井谷村にあり、白山権現と称する。)おそらく若桜部朝臣(わかさくらべのあそん)の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)

堝倉神社(なべくらじんじゃ)。(注:今は初瀬村の堝倉山にある。)

以上二十座は、延喜式の制ではみな小社に列する。そのうち狭井・桑内・曳田の三座は、祈年祭の幣に鍬と靫を各一口加える。

城下郡(しきのしもぐん) 十七座

村屋坐弥富都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)。またの名を村屋神という。(注:日本書紀による。今は蔵堂村にあり、森屋社と称する。)大己貴神の妃である三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀り、大三輪社の別宮である。(注:日本書紀、大三輪社鎮座次第による。)天武天皇が挙兵した際、神の冥助があった。乱が平定されると、詔により神位を進めて祭らせた。(注:日本書紀による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲五十四束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および美作国の封戸六戸を定めた。(注:新抄格勅符による。本書には「社屋神」とあるが、「社」はおそらく「村」の誤りであろうから、本社と定めた。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

池坐朝霧黄幡比売神社(いけにいますあさぎりきばたひめじんじゃ)。またの名を池神という。(注:今は法貴寺村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲七十余束を納め、祭料・社費に充てた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗の使者は池首(いけのおびと)が官幣を奉る。(注:令集解による。)

鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてるみたまじんじゃ)。またの名を鏡作神という。(注:神宮雑例集によれば、火明命(ほあかりのみこと)の子である天香語山命(あめのかごやまのみこと)を鏡作氏の遠祖とするとある。この説はほかの書には見えないが、本社が鏡作の地にあるのにも、あるいはこれに由縁があるのだろう。尾張国中島郡には真清田社(ますみだしゃ)があり、これもこの神を祀っている。真清田の名も、おそらく鏡に由来するのであろう。あわせて参照されたい。)聖武天皇の時代、当郡の神戸から年に稲二百五十束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および伊豆国の封戸十八戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

千代神社(ちよじんじゃ)。(注:今は大安寺村にあるという。あるいは十市郡八条村にあるともいい、いずれが正しいかは未詳。延喜式による。)

岐多志太神社二座(きたしだじんじゃにざ)。(注:今は大木村にある。延喜式による。)

倭恩智神社(やまとおんちじんじゃ)。(注:今は海知村にある。延喜式による。)おそらく河内国の恩智社(おんちしゃ)が祀る神と同じ神であろう。(注:延喜式による。)

比売久波神社(ひめくわじんじゃ)。(注:今は唐院村にあり、子守と称する。延喜式による。)

服部神社二座(はとりじんじゃにざ)。(注:今は弥富都比売社の域内にある。もとは大安寺村にあったが、後にここに遷されたと思われる。大安寺村の中には、今も波津里神と呼ばれる地があり、おそらくその跡地であろう。)おそらく服部連(はとりのむらじ)の祖を祀るのであろう。(注:延喜式による。)

富都神社(ふつじんじゃ)。(注:延喜式による。今は富木村にある。)

糸井神社(いといじんじゃ)。(注:今は市場村にある。)おそらく糸井造(いといのみやつこ)の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)

村屋神社二座(むらやじんじゃにざ)。(注:日本書紀、古事記、神名帳頭注、社伝による。今は弥富都比売社の域内にある。)

鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)。(注:今は十市郡穂津村の鏡作池の内にある。)伝えによれば、鏡作連(かがみつくりのむらじ)の祖である石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀るという。(注:日本書紀、古事記、神名帳頭注、社伝による。今昔物語には、十市郡奄知村に富人がいて姓を鏡造といったと記されており、当時すでに鏡作氏がこの地に住んでいたことがうかがえる。)

鏡作麻気神社(かがみつくりまけじんじゃ)。(注:今は鏡作郷小坂村にある。)伝えによれば、鏡作連の祖である天糠戸命(あめのぬかどのみこと)を祀るという。(注:日本書紀、神名帳頭注による。社伝では天目一神(あめのまひとつのかみ)とするが、いずれが正しいかは未詳。)

久須須美神社(くすすみじんじゃ)。(注:一本には「須」の字が一つない。今は弥富都比売社の域内にある。)

以上十四座は、延喜式の制ではみな小社に列する。そのうち岐多志太・倭恩智・比売久波・服部・富都の五座は、祈年祭の幣にいずれも鍬と靫を各一口加え、糸井社には靫一口を加える。(注:延喜式による。本書では糸井社の靫は鍬に作るが、今は一本に拠って訂正した。)

高市郡(たけちぐん) 五十四座

高市御県坐鴨八重事代主神社(たけちのみあがたにいますかもやえことしろぬしじんじゃ)。またの名を高市神という。(注:日本書紀による。「八重」は三代実録による。社は雲梯村にあったが今は絶えている。)事代主命を祀る。(注:旧事本紀、延喜式による。)当初、事代主が帰順したとき、天の勅を受けて諸神を統領した。(注:日本書紀、古事記による。)後にその霊を宇奈提(うなて)の神奈備に鎮め、皇孫を守護させた。(注:延喜式による。)これがいわゆる宇奈提森の神である。その威厳は厳しく、世に敬い畏れられている。(注:万葉集による。)天武天皇が挙兵した際、将軍大伴吹負(おおとものふけい)が神の助けを得た。乱が平定されると、その神階を進めることを奏上した。(注:日本書紀による。)貞観元年、従二位から従一位を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

飛鳥坐神社四座(あすかにいますじんじゃよんざ)。(注:今は飛鳥村の上方、鳥形山にある。)おそらく賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)を祀るのであろう。(注:三座については詳らかでない。社伝には事代主・建御名方・高照姫・下照姫の四神を祀るとあるが、賀夜奈流美について言及がなく、これも疑わしいため、今は採らない。また古事記によれば大国主神が鳥鳴海神(とりなるみのかみ)を生んだとあり、類聚三代格には賀夜鳴比女神(かやなるひめのかみ)とあって、おそらく同じ神であろう。)大己貴はすでに帰順していたので、その子である賀夜奈流美の霊を飛鳥の神奈備に鎮めることを命じ、皇室の守護とした、すなわちこれである。(注:延喜式による。)当初は郡の賀美郷、飛鳥村の甘南備山に祠を建てたため、(注:日本紀略による。)また甘南備飛鳥社とも呼ばれた。朱鳥元年、使者を遣わして幣を奉った。(注:日本書紀による。)天長六年、鳥形山に祠を移した。(注:日本紀略による。)貞観元年、幣を奉って風がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

宗我坐宗我都比古神社二座(そがにいますそがつひこじんじゃにざ)。またの名を宗我神という。(注:新抄格勅符による。今は曽我村にある。)宗我都比古(そがつひこ)、宗我都比売(そがつひめ)の二神を祀り、おそらく蘇我臣(そがのおみ)が奉祀したものであろう。(注:社伝による。)大同元年、大和国の封戸三戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、宗我都比古神は従五位下から従五位上を授けられた。六年、正五位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

飛鳥山口坐神社(あすかやまぐちにいますじんじゃ)。(注:飛鳥は安宿とも書く。今は飛鳥社の域内にあり、明日香社と呼ばれるのがこれにあたる。)大同元年、大和国および播磨国の封戸十四戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

甘樫坐神社四座(あまかしにいますじんじゃよんざ)。(注:今は豊浦村の甘樫丘にある。)伝えによれば、八十禍津日(やそまがつひ)・大禍津日(おおまがつひ)・神直毘(かんなおび)・大直毘(おおなおび)の四神を祀るという。(注:古事記、社伝による。)允恭天皇(いんぎょうてんのう)が氏姓を正すため、諸氏の人々を味橿丘(あまかしのおか)に集め、盟神探湯(くかたち)を行わせたのは、おそらくこの神に誓ったのであろう。(注:日本書紀、古事記による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣および相嘗祭にあずかる。(注:延喜式による。)

稲代坐神社(いなしろにいますじんじゃ)。(注:稲は稌とも稔とも書き、あるいは神稲代とも書く。今は常門村にある。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。本書には「稔代神」とあり、城上郡の稔代社と混同する疑いもある。しかし甘樫・牟佐など諸神と並べて挙げられており、いずれも当郡内にある。稲と稔は訓が同じであるから、これが本社であることは明らかである。それゆえここに記す。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

牟佐坐神社(むさにいますじんじゃ)。(注:佐は狭とも書く。今は三瀬村にあり、境原天神と称する。)生霊神(いくむすびのかみ)を祀る。(注:「霊」は印本では「雷」に作るが、今は一本および釈日本紀に拠って訂正した。八神殿に祀られる生産日(いくむすひ)がこれである。)天武天皇が挙兵した際、神の助けがあったので、神位を進めて祭らせた。(注:日本書紀による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

畝火山口坐神社(うねびやまぐちにいますじんじゃ)。(注:今は畝火山の上にあり、畝火明神という。)大同元年、大和国の封戸一戸を定め、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)おおよそ毎年二月の朔日と十一月の初の子の日に、摂津国の住吉社の社司が本社の山上の土を採りに来て、その社に奉るのが、古くからの慣例であるという。(注:和州旧跡幽考による。)

高市御県神社(たけちのみあがたじんじゃ)。(注:今は四条村の北にあり、高県宮と称する。)おそらく高市県主(たけちのあがたぬし)の祖である天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

軽樹村坐神社二座(かるこむらにいますじんじゃにざ)。(注:今は池尻の属邑である軽子村にある。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

天高市神社(あめのたけちじんじゃ)。(注:今は宗我社の南にあり、高市八幡と称する。)おそらく大物主神を祀るのであろう。当初、大物主が帰順した際、八十万の神々を天高市(あめのたけち)に集めて誠意を表したという。(注:日本書紀による。)社の名はあるいはこれに由来するのであろう。貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

太玉命神社四座(ふとだまのみことじんじゃよんざ)。(注:今は忌部村にある。)天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀る。(注:類聚三代格による。ほかの三座については神名が詳らかでない。元要記には天日鷲(あめのひわし)・思兼(おもいかね)・手力雄(たぢからお)とあり、日本紀通証、神名帳考証などには大宮売(おおみやのめ)・豊磐窗(とよいわまど)・櫛磐窗(くしいわまど)とあるが、いずれが正しいかは未詳。後考を待って備えておく。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。本書には「大魂神」とあるが、「大」はおそらく「太」の誤りであろうから、この社と定めた。)貞観元年、従五位下の太玉神に従五位上を授けた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

櫛玉命神社四座(くしたまのみことじんじゃよんざ)。(注:今は真弓村の宮山にある。)おそらく白堤首(しらつつみのおびと)の祖である天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

川俣神社三座(かわまたじんじゃさんざ)。(注:今は雲梯村にあり、川俣八王子と称する。)彦坐命(ひこいますのみこと)の子孫に川俣氏がおり、大和国を本貫としている。(注:姓氏録による。)本社はおそらくその一族が祖神を祀ったものであろう。貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

波多瓺井神社(はたのみかいじんじゃ)。(注:今は羽内村にある。)神護景雲四年、大和国の封戸一戸を充てた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

気吹雷・響雷吉野大国栖御魂神社二座(いぶきいかづち・とどろきいかづちよしののおおくずみたまじんじゃにざ)。(注:今は雷土村にあり、九頭明神と称する。九頭とはおそらく国栖(くず)の訛った読みであろう。)大国栖御魂とはおそらく吉野の国樔部(くずべ)の祖を祀るのであろう。(注:日本書紀、姓氏録による。)貞観元年、従五位下の気吹雷神・響雷神はともに官社にあずかることとなった。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも名神大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

巨勢山坐石椋孫神社(こせやまにいますいわくらのひこじんじゃ)。(注:今は鳥屋村にある。若狭国遠敷郡には石鞍比古(いわくらひこ)・鞍比売(くらひめ)の二社があり、能登国鳳至郡には石倉比古神社があって、おそらくいずれもこれと同じ神であろうが、何の神であるかは詳らかでない。)

鷺栖神社(さぎすじんじゃ)。(注:今は四分村にあり、鷺栖八幡と称する。)垂仁天皇(すいにんてんのう)は誉津別皇子(ほむつわけのみこ)が成長しても口がきけないことを憂い、占わせたところ、出雲大神(いずものおおかみ)の祟りであるとの答えを得た。そこで皇子を大神に拝ませようとしたとき、「神にまことに霊験があるならば、まず私がこれを試そう」と言った。ちょうど鷺栖の池の上の木に鷺が巣を作って宿っているのが見え、これに呪いをかけて生死を試したところ、はたして思ったとおりになった。(注:古事記による。)おそらくこの神を祈ったものであろう。(注:三代実録による。)

治田神社(はるたじんじゃ)。(注:三代実録による。今は岡村の宮山にある。)

加夜奈留美命神社(かやなるみのみことじんじゃ)。(注:あるいは賀屋鳴比女神とも書く。今は柏森村にある。)貞観元年、従五位下から正四位下に進んだ。(注:三代実録による。)

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかがわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)。(注:宇須多伎は臼滝とも書く。今は稲淵村の宮山にあり、宇佐宮と称する。)伝えによれば、高津姫命(たかつひめのみこと)を祀るという。(注:社伝による。)すなわち宗像社が祀る多伎津比売神(たきつひめのかみ)である。(注:古事記による。高津姫・多伎津比売・多伎比売は、いずれも音が相近く、同じ神であることは疑いない。しかも本社は今、宇佐宮と呼ばれており、日本書紀のある説に拠ればこの伝えはきわめて根拠のあるものとなる。それゆえ今はこの説に従う。)おおよそ太玉・櫛玉・加夜奈留美と本社とを合わせた四社十座を、飛鳥社の裔神(えいしん)と称する。(注:類聚三代格による。)

東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめのみことじんじゃ)。(注:今は十市郡山田村の東、大谷山にある。姓氏録、続日本紀によれば、漢(あや)の主劉宏の曾孫である阿智使主(あちのおみ)は応神天皇の代に帰化し、高市郡の檜前(ひのくま)を賜って居住し、東漢氏(やまとのあやうじ)と称した。その一族には谷宿禰(たにのすくね)・谷忌寸(たにのいみき)・谷直(たにのあたい)などの姓がある。あるいはこの一族が祖先を祀り、東大谷日女命と号したものであろうか。古語拾遺にいう秦・漢の帰化の民がみな自らの祠を持っていたというのも、あるいはこの類であろう。備考として付す。)

呉津孫神社(くれつひこじんじゃ)。(注:今は粟原村にあり、下宮と称する。)おそらく呉の工人らが自らの祖を祀ったものであろう。(注:日本書紀による。本書によれば雄略天皇十四年、身狭村主青(むさのすぐりあお)らを呉国に使いさせ、工人である呉織(くれはとり)らを率いて帰り、檜隈野(ひのくまの)に住まわせたため、呉原(くれはら)と名付けられ、後に訛って粟原と呼ばれるようになったという。姓氏録には「工造(たくみのみやつこ)は呉国人太利須須(たりすす)の後裔である」とある。これによれば、本社はあるいは太利須須を祀り、呉津孫と号したものかもしれない。備考として付す。)

気都和既神社(けつわけじんじゃ)。(注:今は上村の茂古森にある。)おそらく真神田首(まかんだのおびと)の一族で当郡に住む者が、その祖である気津別命(けつわけのみこと)を祀るのであろう。(注:姓氏録による。)

大歳神社二座(おおとしじんじゃにざ)。(注:今は石川村の宮下の地にある。)

波多神社(はたじんじゃ)。(注:今は冬野村の松場の地にある。)おそらく波多祝(はたのはふり)の祖である高皇産霊尊を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)

御歳神社(みとしじんじゃ)。(注:姓氏録、延喜式による。)

於美阿志神社(おみあしじんじゃ)。(注:今は檜隈村の檜垣坂にある。)おそらく檜前忌寸(ひのくまのいみき)の祖である阿智使主を祀るのであろう。(注:姓氏録、続日本紀による。)

鳥坂神社二座(とりさかじんじゃにざ)。(注:今は鳥屋村の東浦にある。)

滝本神社(たきもとじんじゃ)。

許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ)。(注:今は越村の宮坂山にあり、五郎社と呼ばれるのがこれにあたる。)伝えによれば、巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)を祀るという。(注:五郎社記による。)

天津石門別神社(あまついわとわけじんじゃ)。(注:天津石門はまた天石戸とも書く。今は越智村の大西の地にある。)天石都倭居命(あまついわとわいのみこと)を祀る。(注:姓氏録、延喜式による。)貞観十七年、正五位下から従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)

久米御県神社三座(くめのみあがたじんじゃさんざ)。(注:今は久米村の宮林の地にある。)

以上二十一座は、延喜式の制ではみな小社に列する。そのうち治田・波多・御歳・鳥坂の四座は、祈年祭の幣にいずれも鍬と靫を各一口加え、鷺栖社には靫一口を加える。(注:延喜式による。)

十市郡(とおちぐん) 十九座

多坐弥志理都比古神社二座(おおにいますみしりつひこじんじゃにざ)。またの名を太神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。太は意富とも書く。今は多村にあり、多明神と称する。世に伝わる和州五郡神名帳略解には、高市・十市などにある諸社の神名がかなり詳しく記され、本社の注進状およびその裏書も引かれていて、その説はもっとも詳細である。しかし往々にして疑わしい点もあり、おおむね付会によるものと思われるため、今はいずれも採らない。)神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀り、もう一座は太祖の御霊を祀り奉る。(注:多神社記による。)綏靖天皇(すいぜいてんのう)が逆賊を除いた際、神八井耳命はその武勇に服し、みずから身を退いて譲り、天皇を助けて祭祀を司った。(注:日本書紀、古事記による。)弥志理都比古命(みしりつひこのみこと)と号する。(注:多神社記による。)すなわち多朝臣(おおのあそん)の祖である。(注:姓氏録による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲一万六百九十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国および播磨国・遠江国の封戸六十戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従三位勲八等から正三位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗の使者は太朝臣が官幣を奉る。(注:令集解による。)

十市御県坐神社(とおちのみあがたにいますじんじゃ)。(注:今は十市村の東にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲千七十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

目原坐高御魂神社二座(めはらにいますたかみむすびじんじゃにざ)。またの名を目原神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。今は所在が詳らかでない。あるいは大田市村の天神社がこれにあたるという。)高皇産霊尊を祀る。(注:日本書紀、延喜式による。もう一座は詳らかでない。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲二百七十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下の高皇産霊神に従五位上を進めた。(注:三代実録による。)延喜式の制ではいずれも大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

石寸山口神社(いわれやまぐちじんじゃ)。またの名を石寸神という。(注:新抄格勅符による。「寸」はすなわち「村」の省略字である。社は今、谷村の菰山にある。あるいは長門邑にあるといい、長門邑は桜井・安倍の二村に属し、今は双槻神社と呼ばれる。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲八百十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下を授けられ、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

畝尾坐健土安神社(うねおにいますたけはにやすじんじゃ)。またの名を畝尾神という。(注:東大寺正倉院文書による。今は下八釣村にある。)おそらく波邇夜須毘古(はにやすびこ)・波邇夜須毘売(はにやすびめ)の二神を祀るのであろう。(注:古事記、延喜式による。)いずれも伊弉冉尊が生んだ神で、これは土の神である。(注:日本書紀、旧事本紀、古事記による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲九十束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。本書には「尾神」とあり、「尾」の上に脱字があると思われる。大和国の大社で「尾」の字がつくものはこの社のほかに長尾神社もあるが、こちらには天平年間の納税の記事がない。それゆえ今はこの社のこととした。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)。またの名を耳无神という。(注:新抄格勅符による。「成」は「梨」とも書く。今は木原村の南、耳成山にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲五十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨の災いを鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

子部神社二座(こべじんじゃにざ)。(注:今は百済川のほとり、飯高村にあり、古くは飫富郷(おふのごう)の地であった。)小子部連(ちいさこべのむらじ)の祖である神八井耳命を祀る。(注:多神社記による。)舒明天皇(じょめいてんのう)の時代、百済大寺(くだらおおでら)をこの社の傍らに建て、その林木を伐ったところ、まもなく寺の塔がことごとく焼け落ちたため、天皇はこの神の祟りを畏れて厳重に敬うようになった。(注:三代実録、大安寺縁起による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

天香山坐櫛真知命神社(あめのかぐやまにいますくしまちのみことじんじゃ)。(注:印本には「知」の字が脱けているが、今は新抄格勅符に拠って補った。櫛真知は久慈真智、あるいは久志麻知とも書く。今は香具山の北麓、南浦村にある。)もとは大麻等乃知神(おおまとのちのかみ)といった。(注:三代実録、延喜式による。延喜式の印本には「大麻呂井天和神」とあるが誤りである。)櫛真知命を祀る。(注:延喜式による。)櫛真知はおそらく神皇産霊尊の子である櫛真乳魂命(くしまたまのみこと)であろう。(注:尊卑分脈、度会系図による。)この神は実に太占の卜事を伝えている。(注:釈日本紀による。)天の岩戸の変事の際、天児屋命は天香山の鹿の骨と波波迦木(ははかぎ)を用いて占いを行った。(注:古事記による。)太祖が賊を討つにあたり、天神の教えに従って天香山の社の土を採り、天平瓫(あめのひらか)を造って神を祭り、これで事の成否を占ったのも、みなこの由縁によるものである。(注:日本書紀による。)大同元年、これより先、当郡の神田一町を奉っていたが、(注:東大寺正倉院文書による。)このたびさらに大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

竹田神社(たけだじんじゃ)。(注:今は東竹田村にある。)おそらく竹田川辺連(たけだのかわべのむらじ)の祖である天火明命を祀るのであろう。(注:姓氏録、延喜式による。)仁徳天皇(にんとくてんのう)の時代、竹田川辺連の一族で当郡に住む者が、これを氏神として祀った。(注:姓氏録による。)

坂門神社(さかとじんじゃ)。(注:今は中村にある。)

畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)。またの名を哭沢神社という。(注:万葉集による。今は木本村の宮脇の地にある。)伊弉冉尊が崩じた際、伊弉諾尊がこれを哭き悲しみ、その涙が神と化して香山の畝丘の樹の下に住み、啼沢女命(なきさわめのみこと)と号したという。おそらくこの神を祀るものであろう。(注:日本書紀、古事記による。)

皇子神命神社(みこがみのみことじんじゃ)。(注:今は多社の西南にあり、若宮と称する。)

姫皇子命神社(ひめみこのみことじんじゃ)。(注:今は多社の東にあり、鎮守と称する。)

小社神命神社(こそがみのみことじんじゃ)。(注:今は多社の東南にあり、木下社と称する。)太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)を祀る。(注:多神社記による。)

屋就神命神社(やつぎがみのみことじんじゃ)。(注:今は多社の西、大垣村にある。)以上の四座を、太社(おおのやしろ)の御子神と称する。(注:延喜式による。)

下居神社(しもいじんじゃ)。またの名を椋橋下居神という。(注:今は椋橋村の隣村、下居村にある。)天安元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:文徳実録による。)

以上八座は、延喜式の制ではいずれも小社に列する。そのうち坂門・都多本の二座は、祈年祭の幣にいずれも鍬と靫を各一口加える。(注:延喜式による。)

山辺郡(やまのべぐん) 十三座

大和坐大国魂神社三座(やまとにいますおおくにたまじんじゃさんざ)。またの名を大倭神という。(注:東大寺正倉院文書、新抄格勅符による。今は新泉村にある。)倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祀り、八千戈神・御歳神を配祀する。(注:延喜式、大倭社注進状による。)大国魂とはすなわち大己貴命の荒魂であり、また大地主神(おおとこぬしのかみ)とも号し、八尺瓊(やさかに)を神体とする。八千戈神は広矛を、御歳神は八握の嚴稲(いつのいな)を、それぞれ神体とし、おそらく出雲大社の別宮であろう。孝昭天皇がかつて夢を見て、ある神がみずから大己貴と称し「私はすでに和魂を三諸山(みもろやま)に鎮め、神器の栄えを助けている。荒魂は常に天皇の御身近くにあって、殿内で宝基を衛り護るのだ」と告げたという。天皇はそこで天祖とともにこれを殿内に祭った。(注:大倭社注進状による。)崇神天皇はさらに市磯邑(いちしのむら)に祠を創建し、皇女渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に祭らせたが、病み衰えて祭祀を続けることができなかった。(注:東大寺正倉院文書による。本書のある説では、これを垂仁天皇二十六年の事とし、入姫を稚姫(わかひめ)とする。)そこで大倭直(やまとのあたい)の祖である長尾市(ながおち)を祭主とした。垂仁天皇二十六年、大市の長岡岬(ながおかのみさき)に祠を遷したが、長尾市はそのまま祭祀を司った。この事もまた前に見える。持統天皇六年、使者を遣わして新しい宮の造営を告げる幣を奉り、次いで新羅からの調物を奉った。(注:日本書紀による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲千四十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)天平勝宝元年、常陸国・出雲国・武蔵国・安芸国などの封戸三百戸を奉り、次いで大和国の封戸二十七戸を加え、後にさらに大和国の封戸十戸を増した。(注:新抄格勅符による。)嘉祥三年、大国魂神を従二位に進め、(注:文徳実録による。)後に勲三等を授けられた。貞観元年、従一位に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。十二年、河内国で堤を築くにあたり、幣を奉って水害を鎮めるよう祈った。(注:三代実録による。)寛平九年、正一位に昇った。(注:大倭社注進状が引く新国史による。)延喜式の制ではいずれも名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)その相嘗の使者は大倭忌寸(やまとのいみき)が官幣を奉る。(注:令集解による。)元永元年、社が火災にあい、神体が被災した。次いで神殿を修理し、御神体を造り直した。(注:中右記、百錬抄、卜部兼文勘文による。)当初、長尾市が祭主となって以来、子孫が代々その職を世襲し、今日まで絶えていないという。(注:大倭社注進状による。)

石上坐布留御魂神社(いそのかみにいますふるのみたまじんじゃ)。(注:今は石上郷の布留村にある。)また石上振神宮(いそのかみふるのかみのみや)ともいい、(注:日本書紀による。)あるいは布都奴斯神社(ふつぬしじんじゃ)ともいう。(注:姓氏録による。)韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀り、布都魂神(ふつのみたまのかみ)、あるいは布都大神(ふつのおおかみ)と称する。また佐士布都(さじふつ)・甕布都(みかふつ)・豊布都(とよふつ)・建布都(たけふつ)などの号もあり、いずれもこの霊剣の威徳を称えたものである。(注:古事記、旧事本紀による。本社は実は韴霊剣を祀るもので、「韴霊」は「布都御魂(ふつのみたま)」と読む。これによれば社号はもと「布都御魂」と称したものと思われる。旧事本紀によれば、社中にはあわせて十種の瑞宝が祀られており、鎮魂祭のたびに瑞宝を振り動かして祝詞を唱える。この「振る」の訓が「布留(ふる)」となり、後にこれが土地の名となったのであろう。「布都」と「布留」は音が相近いため、ついに混同して呼ばれるようになり、延喜式では「布留御魂」と称している。備考として付す。)当初、太祖が可美真手命(うましまでのみこと)に命じてこれを殿内に祀らせた。可美真手はそこで五十本の櫛を立てて霊剣を取り囲み、十種の瑞宝とともにこれを鎮め祭った。子孫が代々その職を世襲した。崇神天皇七年に至り、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)に命じて今の地に祠を建てさせ、韴霊と瑞宝を遷し祭らせ、石上大神(いそのかみのおおかみ)と号した。(注:旧事本紀による。聖徳太子伝暦には物部府都大明神(もののべのふつだいみょうじん)とある。)垂仁天皇は皇子五十瓊敷命(いにしきのみこと)に命じて剣一千口を造らせ、これを社に納めさせ、あわせてその神宝を掌らせた。後にその妹である大中姫(おおなかつひめ)にこれを代わらせた。大中姫はまた物部大連十千根(もののべのおおむらじとちね)に命じてこれを掌らせた。(注:日本書紀による。)仁徳天皇は社に行幸して祭りを行い、市川臣(いちかわのおみ)を神主とした。(注:姓氏録による。)本社はもともと霊剣を神として祀っており、(注:古事記、旧事本紀による。)歴代の朝廷はまた多くの武具を納めて神宝としたため、神庫はすなわち武器庫であり、国に変乱があれば、あるいは天皇の車駕をこの神宮に奉じて警備にあてることもあった。それゆえその造営・修繕は堅固なことがほかの社とは異なり、常に非常時に備えていたという。(注:日本書紀、日本後紀を参照。)天武天皇の時代、忍壁皇子(おさかべのみこ)を遣わして神宝を整理させ、諸家が納めた宝器はいずれもその子孫に返還させた。(注:日本書紀による。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲三千八百十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)延暦二十三年、詔により神庫を山城国葛野郡に移し、武具を運び入れさせたが、怪異があったため、勅によりそのまま元に戻し納めさせた。(注:日本後紀を参照。)この事は前に見える。大同元年、大和国および備後国・信濃国などの封戸八十戸を定め、後に大和国の封戸十戸を加えた。(注:新抄格勅符による。)文徳天皇の即位に際し正三位を授けられ、(注:文徳実録による。)後に勲六等を授けられた。貞観元年、従一位を加えられ、官人を遣わして神宝・幣帛を奉らせ、また風雨がやむよう祈った。九年、正一位に進み、勅により民が神山を焼いて耕作することを禁じた。(注:三代実録による。)延喜式の制では名神大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。おおよそ社門の鍵は常に官の倉庫に納めておき、祭りに臨んで神祇官の神部・卜部各一人を遣わして門を開け掃除をさせる。正殿および伴殿・佐伯殿の二殿の鍵もまた官の倉庫に納め、みだりに開けることはできない。備後国の封戸の租税は社家がこれを収め、夏冬の祭りの費用に充てる。(注:延喜式による。)応和四年、社殿を修営した。その造社使は、旧例では伊勢の例に準じて五位の官人を任じていたが、この時に至って六位の者を補した。(注:西宮記による。)物部連市川臣らの子孫が、今日に至るまで代々神主を務めている。(注:石和聞見志による。)その神領は後世になおも四十余町あり、近隣の郡の百姓でこれを氏神として奉じる者は五十余郷に及ぶという。(注:本社総田数帳、布留村検地帳による。)

都祁水分神社(つげのみくまりじんじゃ)。(注:都祁は竹渓とも書く。今は鞆田村の都介野にある。)承和七年、従五位下を叙せられた。(注:続日本後紀による。)貞観元年、正五位下に進み、使者を遣わして幣を奉り、風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

山辺御県坐神社(やまのべのみあがたにいますじんじゃ)。(注:今は西井戸堂村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲二百七十余束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸二戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣にあずかる。(注:延喜式による。)

都祁山口神社(つげやまぐちじんじゃ)。またの名を都祁神という。(注:東大寺正倉院文書による。今は小山戸村にある。)聖武天皇の時代、当郡の神戸が年に稲百四十束を納めた。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、大和国の封戸一戸を定めた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下から正五位下に進み、幣を奉って風雨がやむよう祈った。(注:三代実録による。)延喜式の制では大社に列し、四度の官幣および祈雨祭にあずかる。(注:延喜式による。)

白堤神社(しらつつみじんじゃ)。(注:今は長柄村にあり、白鳥明神と称する。)おそらく白堤首の祖を祀るのであろう。(注:姓氏録による。)

夜都伎神社(やとぎじんじゃ)。(注:今は乙木村の宮社にあり、乙木明神と称する。)

祝田神社(ほうだじんじゃ)。(注:今は田部村にある。)

石上市神社(いそのかみいちじんじゃ)。(注:今は磯上村にある。)

下部神社(しもべじんじゃ)。(注:今は吐山村の下居の地にあり、下宮と称する。)

出雲健雄神社(いずもたけおじんじゃ)。(注:今は所在が詳らかでない。あるいは藺生村にあり、下宮と呼ばれるという。)おそらく出雲臣の祖である飯入根命(いいいりねのみこと)を祀るのであろう。飯入根は出雲梟帥(いずものたける)と号し、崇神天皇の代に、詔を奉じて出雲の神宝を献上した。(注:日本書紀による。本社は後に布留社の属社となった。)

延喜式の制では、以上六座はみな小社に列する。(注:延喜式による。)

官の帳簿に記載のないもの

石成神社(いわなりじんじゃ)。今は所在が詳らかでない。神亀三年、使者を遣わして幣を奉り、上皇の病の平癒を祈った。(注:続日本紀による。)承和六年、雨を祈った。

須知神社(すちじんじゃ)。今は所在が詳らかでない。承和六年、雨を祈った。(注:続日本後紀による。)

法華寺坐神社(ほっけじにいますじんじゃ)。今は添上郡にある。(注:郡名は大和志による。本書はこの社を法華寺薦枕社の下に掲げており、あるいは重複ではないかと疑う向きもあろうが、位階が明らかに異なる。しかも大和志によれば、この社は法華寺村の法華寺のそばにあり、薦枕社とも別の場所にある。したがって二つの別の社であることは疑いない。それゆえここに列記する。)貞観元年、従四位下から従四位上に進んだ。

天玉敷神社(あめのたましきじんじゃ)。今は所在が詳らかでない。

豊日神社(とよひじんじゃ)。今は山辺郡にある。(注:郡名は大和志による。豊井村にある。)貞観五年、天玉敷神とともに正六位上から従五位下を授けられた。

田中神社(たなかじんじゃ)。今は添下郡にある。(注:郡名は大和志による。田中村にある。)貞観七年、従五位下を叙せられた。

武雷神社(たけいかづちじんじゃ)。今は所在が詳らかでない。貞観七年、正六位上から従五位下を授けられた。九年、従五位上に進んだ。

馬立伊勢部田中神社(うまたていせべたなかじんじゃ)。(注:当初は和田村にあったが、後に田中村に遷された。)

高生神社(たこうじんじゃ)。今はいずれも高市郡にある。(注:郡名は大和志による。もとは高取山にあったが、後に清水谷村に遷されたという。)貞観九年、いずれも正六位上から従五位下に進んだ。

朝日豊明姫抜田神社(あさひとよあかりひめぬきたじんじゃ)。

朝日豊明姫抜田子神社(あさひとよあかりひめぬきたこじんじゃ)。今はいずれも山辺郡にある。(注:郡名は大和志による。いずれも佐保荘村にある。)貞観十一年、いずれも正六位上から従五位下に進んだ。

統神社(すべじんじゃ)。(注:あるいは三統とも書く。)今は宇智郡にある。(注:郡名は大和志による。須恵村にある。)元慶元年、従五位下を叙せられた。

大仁保神社(おおにおじんじゃ)。今は高市郡にある。(注:郡名は大和志による。入谷村にある。)おそらく爾保都姫命(におつひめのみこと)を祀るのであろう。当初は十市郡にあったが、神が人に霊を憑けて、郡内の丹生の地に至り、斎杖(いみづえ)を植えて居所を占ったといい、これがすなわちこの社である。(注:「おそらく」以下は丹生神社の祝詞による。)元慶二年、従五位下を叙せられた。

子島神社(こじまじんじゃ)。高市郡にある。(注:郡名は大和志による。子島村にある。)元慶五年、正六位上から従五位下に進んだ。(注:三代実録による。)

滝倉神社(たきくらじんじゃ)。今は城上郡にある。(注:郡名は大和志による。滝倉村にある。)延喜二十年、従五位上から従四位下を授けられた。(注:類聚符宣抄による。)天慶三年、正二位に進んだ。

河内神社(かわちじんじゃ)。今はその所在を失っている。天慶三年、正五位上から従四位下に進んだ。(注:日本紀略による。)

春日若宮(かすがのわかみや)。(注:今は春日社の正殿の南にある。)天児屋命の子である天押雲命(あめのおしくものみこと)を祀る。(注:和州旧跡幽考が引く法要集による。)長承四年に創建された。(注:旧跡幽考が引く春日記による。)保延二年九月十七日、初めて官の祭りが行われた。(注:一代要記による。)久安三年、四度の官幣にあずかることとなった。(注:諸社根元記、諸神記による。)嘉禎二年の例祭は、僧徒の騒乱のために十二月十七日まで延期された。それにより勅が下り、「今後は毎年の例日どおり内蔵寮の官幣を奉ることを永式とせよ」とされた。(注:百錬抄、諸社根元記、諸神記、祐茂記による。)