卷之二百卅七 列傳第一百六十四
諸蕃六 任那、耽羅
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
任那
¶任那(みまな)は筑紫(つくし)から二千余里離れたところにあり、北は海に阻まれ、雞林(けいりん、新羅の古称)の西南に位置する。崇神天皇(すじんてんのう)六十五年秋、任那国の使者蘇那曷叱智(そなかしち)らが朝貢してきた。一説には、この使者は額に角があったため、初めて越国(こしのくに)の笥飯浦(けひのうら)に着いた際、その地を角鹿(つぬが)と名付けたという。土地の人が「どこの国の者か」と尋ねると、使者は次のように答えた。「私は意富加羅国(おおからのくに)王の子で、名を都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)といい、また于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)とも呼ばれる。日本国に聖なる皇がいると聞き、帰化しようとやって来た。穴門(あなと)に着いたとき、その地の人である伊都都比古(いつつひこ)が『私がこの国の王だ』と偽って言ったが、私はその嘘を見抜き、そこを離れた。その後もあちこちに長く留まり、出雲(いずも)を経てここに至った。」ちょうど崇神天皇が崩御し垂仁天皇(すいにんてんのう)が即位したところで、天皇は阿羅斯等に詔して「そなたがもっと早く来ていれば、必ず先の天皇にお仕えできただろう。今、先の天皇の御名にちなみ、そなたの国の名を彌摩那(みまな)と改めよ」と命じた。(注:これは『日本書紀』および本書の一説による。崇神天皇の諱は御間城入彦(みまきいりひこ)といい、「御間城」と「彌摩那」は音が近い。彌摩那は後に任那と表記されるようになったが、これも音が通じる。)天皇は任那王に赤絹百匹を賜い、阿羅斯等を厚く遇して帰国させたが、その途上、新羅(しらぎ)に奪い取られてしまった。これにより、任那と新羅の二国は不仲となった。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)九年、神功皇后(じんぐうこうごう)が西征し三韓(さんかん)を平定して、初めて内官家(うちつみやけ、直轄の統治拠点)を置いた。己巳(つちのとみ)の年、将軍荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)が新羅を討ち、比自鉢(ひじほつ)・南加羅(ありひしのから)・彔国(ろくこく)・安羅(あら)・多羅(たら)・卓淳(たくじゅん)・加羅(から)の七国を攻め取り、さらに斯二岐国(しにきのくに)・卒麻国(そつまのくに)・古嵯国(こさのくに)・子他国(したのくに)・散半下国(さんはんげのくに)・乞食国(こつじきのくに)・稔礼国(にむれのくに)を攻め取った。これらを総称して任那と呼び、日本府(にほんふ)を置いて韓地の諸国を統轄させた。また別に王や早岐(はき、首長)がいて、それぞれ自国を治めていた。(注:任那については『三国史記』や『東国輿地勝覧』には見当たらない。『東国通鑑』には「牛頭(ぎゅうとう)は任那加良(みまなから)の人である」とあり、任那の名が見えるのはここだけである。これにより、意富加羅とは大伽那(だいから)のことであり、それが任那にほかならないことが分かる。『東国通鑑』および『東国輿地勝覧』には次のようにある。「漢の光武帝の建武十八年、駕洛国(からくこく)王金首露(きんしゅろ)が即位した。駕洛国には初め九人の首長がおり、我刀(あと)・汝刀(じょとう)・彼刀(ひとう)・五刀(ごとう)・留水(りゅうすい)・留天(りゅうてん)・神天(しんてん)・神鬼(しんき)・五天(ごてん)といい、それぞれ民を率いて山野に住み、君臣の位も名号もなかった。この九人が禊(みそぎ)の神事を行ったところ、たまたま金の合子(ごうす)を得て、開けて見ると六個の金の卵があり、みな男児に変じた。人々はこれを驚き怪しみ、最初に生まれた者を主として立てた。金の卵から生まれたことにより金氏(きんし)を姓とし、最初に見つかったことから首露(しゅろ)と名付け、国号を大駕洛(だいからく)、また伽那(から)とも称し、後に金官(きんかん)と改めた。残る五人はそれぞれ五つの伽那の主となり、阿羅伽那(あらから)・古寧伽那(これいから)・星山伽那(せいざんから)・大伽那(だいから)・小伽那(しょうから)といった。金首露は即位百五十八年で没し、以後、居登(きょとう)・麻品(まほん)・居叱彌(こしみ)・伊尸品(いしほん)・坐知(ざち)・希吹(きすい)・銍知(ちっち)・鉗知(けんち)・仇衡(きゅうこう)と続き、全十代四百九十一年におよんだ。仇衡の代に新羅に降伏した。」これはちょうど継体天皇(けいたいてんのう)崩御後の壬子(みずのえね)の年にあたる。『東国輿地勝覧』には「大伽那国は始祖伊珍阿飡阿豉王(いちんあさんあしおう)から道設智王(どうせつちおう)まで十六代、五百二十年続き、新羅の真興王(しんこうおう)がこれを滅ぼした」とあり、『東国通鑑』にも「真興王二十三年、大伽那を滅ぼした」とある。この年は欽明天皇(きんめいてんのう)二十三年にあたり、『日本書紀』の欽明天皇二十三年に新羅が任那を滅ぼしたとする記事と一致する。してみると、任那とは専ら大伽那を指すことになる。卓淳や彔国などについては、詳しく考証することができない。)
¶初め丙寅(ひのえとら)の年、斯摩宿禰(しまのすくね、姓は伝わらない)が卓淳国(たくじゅんこく)に使いした。卓淳国王の末錦旱岐(まっきんかんき)は斯摩に告げて言った。「甲子(きのえね)の年、百済(くだら)の人である久氐(くて)・彌州流(みつる)・莫古(まくこ)の三人がここに来て、『百済王が私どもを日本の朝廷に使いさせようとしたので、道を借りに来た』と言った。しかしそのころ海路が通じていなかったので、その旨を実際に伝えた。久氐は自国に帰り、船と楫(かじ)を用意した上で、『貴国の使者が来たら、急いで知らせてほしい』と言い残していった。今まさに知らせるべきときである。」そこで斯摩は従者の爾波移(にはや)と卓淳国の過古(かこ)を百済に遣わし、百済王を慰撫させた。(注:本書の一説では『百済記』を引いて次のように言う。壬午(みずのえうま)の年、葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)が新羅を討った。襲津彦は新羅の女を妃として受け入れ、討伐をやめて、逆に加羅を攻めた。加羅王己本旱岐(こほんかんき)とその子百久氐(ひゃくくて)・阿首至(あしゅし)・国沙利(こくさり)・伊羅麻酒(いらまさけ)・爾汶至(にぶんし)らは、民を率いて百済に逃げ込んだ。百済はこれを厚遇した。己本旱岐は妹の既殿至(きでんし)を朝廷に遣わし、襲津彦が新羅の美女を娶り、逆に加羅を討ったことを訴えさせた。天皇は激怒し、木羅斤資(もくらこんし)を召して加羅に遣わし、民を安んじ、その社稷(しゃしょく、国家)を復興させた。この説は本文と異なるため、ここでは採らない。)応神天皇(おうじんてんのう)十四年、弓月君(ゆづきのきみ)が百二十県(あがた)の人民を率いて帰化しようとしたが、新羅に阻まれ、人民はみな加羅に留め置かれた。天皇は葛城襲津彦を遣わしてこの人民を召還させようとしたが、襲津彦もまた新羅に阻まれ、三年たっても帰らなかった。そこで平群木菟(へぐりのつく)・的戸田(いくはのとだ)が詔を奉じて加羅に至り、新羅の国境で軍を示した。新羅は恐れをなし、襲津彦と人民を帰した。(『日本書紀』による。)二十五年、大倭(やまとの)木満致(もくまんち)は朝命を承けたと称して任那の政を専断した。天皇はこれを聞き、召し還した。(『日本書紀』本文の一説に『百済記』を引く。)雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)七年、吉備上道田狭(きびのかみつみちのたさ)を任那国司とした。翌年、高句麗(こうくり)が新羅を攻めた。新羅は使者を任那王に遣わして「わが国は高句麗に攻められ、危険は積み重ねた卵よりも甚だしい状態です。伏してお願いいたします、王よ、わが国のために日本府の行軍元帥に救援を乞うてください」と告げた。任那王は膳斑鳩(かしわでのいかるが)・吉備小梨(きびのおなし)・難波赤目子(なにわのあかめこ)を遣わすよう請い、新羅を救わせた。斑鳩らは救援に赴き、高句麗軍を大いに破って帰還した。顕宗天皇(けんぞうてんのう)三年、紀大磐(きのおおいわ、本書には生磐とも記される)が任那に拠って高句麗と通じ、三韓を併呑しようとした。官府を営み建て、自ら神聖と称した。任那の左魯那奇(さろなき)・他甲背(たこうはい)らの計略を用い、百済の適莫爾解(てきばくにげ)を爾林(にりん)で殺害した。帯山城(たいさんじょう)を築いて東への道をふさぎ、糧食を運ぶ渡し場を断った。百済は兵を遣わして帯山城を攻め、大磐は兵と食糧が尽きて逃げ帰った。百済は左魯那奇・他甲背ら三百余人を殺した。(『日本書紀』による。)
¶継体天皇三年、任那にいる百済からの浮浪民をすべて捜し出し、百済に返還するよう詔した。六年、穂積押山(ほづみのおしやま)を任那の哆唎国守(たりのくにのみこともち)とした。百済は任那の上哆唎(かみたり)・下哆唎(しもたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県を求めて表を奉った。押山は奏上して「この四県は日本府から遠く隔たり、百済に近接しており、鶏や犬の声も聞き分けにくいほどです。今これを百済に賜り一国とすることは、末永く安泰を保つ策となりましょう」と述べた。大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)がこれを奏上し、朝廷はその願いを許して物部麤鹿火(もののべのあらかい)を宣勅使とした。麤鹿火の妻はこれを諫めて言った。「住吉大神(すみよしのおおかみ)は初め、高句麗・百済・新羅・任那などの国を、胎中天皇(たいちゅうてんのう、応神天皇)にお授けになりました。ですから皇太后気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)は大臣武内宿禰(たけしうちのすくね)と議り、国ごとに官家(みやけ)を置いて海外の藩屏(はんぺい、守り)とされたのです。この由来は古いものです。今これを他国に割いて賜れば、後世の誹りを招くことになりましょう。」麤鹿火はこの言葉をもっともだと思い、病と称して辞退した。そこで別の者に命じて宣勅させた。勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、後の安閑天皇)は後にこれを聞いて大いに悔い、人を遣わして宣勅を改めさせようとしたが間に合わなかった。当時、大伴金村・穂積押山が百済から賄賂を受け取ったという噂が流れた。七年、安羅の辛已奚(しんいけい)・賁巴委佐(ふんはいさ)、伴跛(はへ)の既殿奚(きでんけい)・竹汶至(ちくぶんし)らを朝廷に召し、已汶(いぶん)・帯沙(たいさ)の地を百済に賜ったことを告げた。二十一年、近江毛野(おうみのけな)に詔して兵六万を率いさせ、新羅に侵された南加羅・彔己吞(ろくことん)などの地を回復し、任那に属させようとした。(注:本書によれば、新羅が南加羅・彔己吞を滅ぼした年月は詳らかでない。)このとき筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が反乱を起こし、西海の道が塞がれたため、毛野は進むことができなかった。二十三年、加羅の多沙津(たさつ)を百済に賜り、物部伊勢父根(もののべのいせちね)・吉士老(きしのおゆ)を使者とした。加羅王は老に「多沙津は官家が置かれて以来、私どもが朝貢する津(みなと)としてきましたのに、今さら百済に賜るとは、私にどのような罪があるのか分かりません」と言った。老らは恥じ入り、面と向かって賜与を宣べることができず、大島まで帰ってから、別に録史(ふひと)を遣わして百済に賜与を告げさせた。加羅はこれを怨み、ひそかに新羅と誼(よしみ)を結んだ。(注:『東国通鑑』によれば、伽羅が新羅と婚姻したのは継体天皇十六年のことで、ここに至って離縁したことになる。)加羅は新羅の女を娶り、子をもうけた。もともと新羅から嫁いできた女とその従者は、みな本国の服を着ており、後になってもそれを改めようとしなかった。阿利斯等(ありしと)は怒ってこれを責め、送り返した。新羅はこれを聞いて大いに恥じ、女を返してほしいと請うた。加羅の已富利知伽(いふりちか、本書の注に「未詳」とある)は「すでに夫婦となったのに、今さらどうして離別できようか」と言った。新羅は怒って兵を発し、刀伽(とか)・古跛(こは)・布那牟羅(ふなむら)の三城を抜き、続けて北の境の五城も抜いた。この月、近江毛野は安羅に使いし、新羅に「南加羅・彔己吞の地を返せ」と勅を伝えさせた。安羅は新たに高殿を築き、勅使を迎えた。安羅王は後ろの階段から昇り、国内の重臣で堂に昇れる者は一、二人だけであった。百済・新羅の使者はみな堂の下に列した。毛野は和解させようとする意志がなく、ただ自らを尊大にふるまうばかりで、詔命を宣べようともせず、毎日堂上で会議を開くだけであった。このようなことが数か月続いたので、任那王已能末多干岐(いのまたかんき、本書の注に「阿利斯等のことである」とある)が朝廷に参内し、大連大伴金村に「海外の諸国は、胎中天皇(応神天皇)が内官家を置かれて以来、本土を見捨てず、その旧来のありようを守り継いできました。ところが今、新羅はしばしば国境を越えて攻め入ってきます。どうか新羅に詔して、二度とほしいままに侵略させないようにしてください」と申し上げた。金村はこれを奏上した。使者を遣わして已能末多干岐を送り返すとともに、毛野に速やかに和解するよう詔した。毛野は新羅・百済の二王を召したが、二王とも来なかった。毛野は激怒し、詔命を宣べなかった。新羅はさらに上臣(じょうしん)伊叱夫礼智(いしふれち)に兵三千を率いさせて来させた。毛野は襲われることを恐れ、任那の巳叱巳利城(こしこりのさし)に入った。新羅の上臣は三か月にわたり勅を待ったが、毛野の従者と新羅の家来との間で争いが起こり、伊叱夫礼智は多羅など四つの村の人民を略奪して去った。(注:本書の一説では、金官・背伐(はいばつ)・安多(あんた)・委陀(いだ)の四村とする。)二十四年、任那から使者が来て奏上した。「毛野臣は久斯牟羅(くしむら)にいて舎宅を建て、二年間(注:本書の一説では三年間とする)も留まりながら、和解させる意志は一向にありません。統治の仕方を誤り、争訟が次々に起こっています。そこで誓湯(うけいゆ)という制度を設け、みだりに人を煮え湯に投げ込みました。無実の罪で死ぬ者が続出しています。伏してお願いいたします、毛野臣を召し還し、諸国を安んじてください。」天皇は大いに怒り、人を遣わして毛野を召還しようとしたが、毛野は帰ろうとしなかった。任那の阿利斯等がしきりに帰還を勧めたが、それでも帰らなかった。阿利斯等はひそかに久礼斯巳母(くれしこも)を新羅に、奴須久利(ぬすくり)を百済に遣わして援兵を求めた。両国の軍勢が来て月を越えて包囲したので、毛野は城に籠って固く守った。このとき調吉士(つきのきし)が任那に使いしており、帰国してから毛野の傲慢で乱暴なふるまい、統治の要領を心得ず加羅を混乱させていることを詳しく奏上した。そこで目頬子(めづらこ、本書の注に「未詳」とある)を遣わして毛野を召還させた。新羅・百済の兵は騰利枳牟羅(とりきむら)など五城を攻め落として引き上げた。(『日本書紀』による。)
¶宣化天皇(せんかてんのう)二年、新羅が任那に侵攻したため、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を遣わして任那を鎮めさせ、あわせて百済を救わせた。欽明天皇元年、使者を遣わして貢物を献じた。二年夏、百済に詔して任那の侵された地を回復させようとした。そこで安羅の次旱岐(しかんき)夷吞奚(いとんけい)・大不孫(だいふそん)・久取柔(くしゅにゅう)、加羅の上首位(じょうしゅい)古殿奚(こでんけい)、卒麻の旱岐、散半奚(さんはんけい)の旱岐の子、多羅の下旱岐(げかんき)夷他(いた)、斯二岐の旱岐の子、子他の旱岐らが、任那日本府の吉備臣(きびのおみ、名は伝わらない)とともに百済に赴いて会合した。詳細は百済伝に記す。安羅日本府の河内直(かわちのあたい)が新羅と通じていたため、百済王はこれを厳しく責めた。四年、百済が任那の下韓(あるしはん)に設置した郡令(こおりのみこともち)・城主(さしのおさ)を廃止し、日本府に属させるよう詔した。しかし百済は郡令・城主を廃止しようとせず、しばしば任那日本府の執事(まえつきみ)を召した。日本府はこれを抑え、任那の旱岐らを行かせなかった。百済の使者が三度来ても、日本府と任那はやむを得ず、それぞれ身分の低い者を遣わすだけであった。百済は協議に応じてもらえず、そのまま帰した。まもなく施徳(せとく)馬武(まむ)らを遣わして次のように言わせた。「先日、詔をいただき、『日本府の臣たちとともに、早く良い方策を立て、速やかに任那を復興させ、朕の望みに応えよ』とのことでした。私は皆様と任那のことを協議したく、三度も使いを送ってお招きしましたが、いまだにおいでいただけません。私は三月十日に、その事情を天皇に奏上いたします。皆様の方でも使者を送り、来会されない理由を奏上されるのがよろしいでしょう。」また河内直に対しては「任那が日に日に衰えていくのは、そなたのせいである。だから今、そなたを召還するよう奏上するつもりだ」と告げた。日本府はこれに答えて「本朝からの使いが来て、百済が設けた任那の郡令・城主を廃止せよとのことは聞いたが、百済の言うことを聞けとは聞いていない。だから任那を抑え、行かせないのだ」と述べた。百済王は河内直らを憎み、朝廷に上表して河内直らの罷免を求めたが、朝廷は返答しなかった。六年、百済は中部(ちゅうほう)の護徳(ごとく)菩提(ぼだい)らを遣わし、日本府の執事や任那の旱岐に呉(くれ)の財物を贈った。十二年、百済とともに高句麗を討った。翌年、高句麗は新羅と通謀し、任那・百済を攻めようとした。そこで安羅・加羅および百済は使者を遣わして救援を求めた。二十三年春、新羅が任那を滅ぼした。(本書の一説では二十一年に任那が滅んだとする。)夏、詔を下して任那を諭し励まして言った。「新羅は西方の未開な小国であり、天に逆らい道理を外れ、わが恩義に背き、わが官家を破壊し、わが民を毒害し、わが郡県を荒れ果てさせた。わが気長足姫尊(神功皇后)は、神のように聡明で天下を巡り歩き、多くの民のために骨折り、万民を慈しみ育てられた。新羅が窮地に陥って来降したのを哀れみ、滅ぼすに忍びず、処刑すべきその王将の首をお許しになり、要害の地を授け、格別な栄誉を与えられた。わが気長足姫尊が新羅に対して何を薄情になさったであろうか。わが民が新羅に対してどんな怨みを抱いたであろうか。それなのに今、新羅は長い戟(ほこ)と強い弩(いしゆみ)をもって任那を圧迫し、牙や爪を研ぎ澄まして生きとし生ける者を残虐に扱い、肝をえぐり足を切り刻んでもなお飽き足らず、骨をさらし屍を焼いてもなお酷いと思っていない。任那の君臣や百姓は、刃と俎板(まないた)の上で窮まり、すでに屠られ膾(なます)にされている。国土に住む者はみな王の臣民であり、人の作った穀物を食べ、人の用意した水を飲みながら、どうしてこれを座視することができようか。ましてや後継ぎとなるべき大臣は、皇室に連なる親族の立場にあり、国の柱石としての重責を担っている。代々の恩恵を受け、当代において栄達しながら、肝や胆をなめ尽くすほどの覚悟をもって共にこの逆賊を誅し、天地の痛憤を雪(すす)ぎ、君父の仇に報いることができないのであれば、臣子としての道は立たず、死んでもなお悔いが残るであろう。努めよ。」秋、大将軍紀男麻呂(きのおまろ)を遣わして新羅を討たせ、任那を滅ぼした罪を問うた。三十二年、天皇は崩御した。皇太子に遺詔して「朕の病は重く、後のことをそなたに託す。そなたは必ず新羅を討ち、任那を再興させよ。国民を再びもとのような夫婦にできれば、朕は死んでも思い残すことはない」と述べた。敏達天皇(びだつてんのう)が即位すると、皇子や大臣に詔して任那再興を議らせた。十三年、難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)が任那に赴いた。十四年、天皇が病に倒れると、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ、後の用明天皇)に「任那のことを忘れるな」と詔した。崇峻天皇(すしゅんてんのう)四年、紀男麻呂・巨勢比羅夫(こせのひらぶ)らが兵二万余を率いて新羅を討った。軍は筑紫に至った。翌年、天皇が弑逆(しいぎゃく)されたため、出兵は取りやめとなった。急使を送って紀男麻呂らに「内乱のために外事を怠るな」と戒めた。(『日本書紀』による。)
¶推古天皇(すいこてんのう)三年、男麻呂らは筑紫から帰還した。八年、新羅と任那が互いに攻め合った。(注:任那はまだ再興されていないのに、ここで新羅と任那が互いに攻め合ったというのは疑わしい。おそらく新羅は紀男麻呂らの軍が来ると聞いて、一時的に任那を再興させたのであろう。男麻呂の軍が帰ると、新羅は再び任那を攻めたのではないか。しかし明確な記録がなく、詳しくは考証できない。)境部臣(さかいべのおみ)を大将軍、穂積臣(ほづみのおみ)を副将軍として(注:本書の注に両名の名は伝わらないとある)、一万余の兵を率いて任那を救わせ、新羅の五城を攻め落とした。新羅は多多羅(たたら)・素奈羅(そなら)・弗知鬼(ほちき)・委陀・南迦羅・阿羅羅(あらら)の六城を割いて服従を請うた。境部は使者を遣わして奏上し、新羅もまた使者を遣わして「今後は互いに親しみを深め、二度と侵伐しません。船の舵を乾かすことなく、毎年必ず朝貢いたします」との表を奉った。そこで詔して軍を引き上げさせた。しかし新羅はまた任那を侵した。翌年、高句麗・百済に詔して、ともに任那を救わせた。十八年春、彔部(ろくほう)の大舎(だいしゃ)首智買(しゅちばい)を遣わして入貢させた。翌年、習部(しゅうほう)の大舎親智周智(しんちしゅうち)が朝貢した。三十一年、達率(だっそつ)奈末智(なまつち)が朝廷に参内した。この年、新羅が任那を攻め、任那は新羅に降伏した。天皇は大臣や群卿に詔して新羅討伐を議らせた。中臣国(なかとみのくに)は「任那はもともとわが内官家であり、今新羅がほしいままに兵を発してこれを奪い取った。どうか軍を戒め、新羅を討伐して任那を再興し、これを百済に付属させるべきである」と述べた。田中臣(たなかのおみ、名は伝わらない)は「百済は前言を翻すことの多い国であり、その真意は信じがたい。それはよくない」と述べた。このため議論はまとまらなかった。まず吉士倉下(きしのくらじ、姓は伝わらない)を任那に遣わし、続いて境部雄摩侶(さかいべのおまろ)らに数万の兵を率いさせて新羅を進撃させた。新羅は恐れをなして服従を請うた。堪遅大舎(かんちだいしゃ、本書には「大舎」を「大倉」に誤って記すが、大舎は新羅の官名であるからここでは大舎とする)を任那の貢調使(こうちょうし)として朝廷に参内させた。舒明天皇(じょめいてんのう)十年、朝貢した。皇極天皇(こうぎょくてんのう)元年、坂本長兄(さかもとのながえ)を任那に使いさせた。孝徳天皇(こうとくてんのう)大化元年、百済の貢調使が任那の使いを兼任してきたので、朝廷はその使者を責め、貢物を突き返した。翌年、使者を遣わして朝貢した。小徳(しょうとく)高向玄理(たかむこのくろまろ)を新羅に使いさせて人質を求めさせ、これによって任那の調(みつぎ)を廃止した。(『日本書紀』による。注:中臣国らが任那を議った際、任那は百済・新羅に蚕食され、独立を保てない状態にあったため、いずれかの国に付属させようという議論になったが、意見がまとまらず立ち消えとなった。その後、任那は新羅に付属したため、その使者は常に新羅の朝貢に従っていた。後に百済への付属に改められたが、百済は別に任那の使者を遣わさず、自国の使者に兼任させ、その上貢物を減らしたため、また新羅に付属させることとなり、任那独自の貢納を停止し、それによって新羅から人質を取ったのであろうか。しかし本書にはこの記載がなく、他に考証する術もない。)
耽羅
¶耽羅(たんら)は百済の南の海上にある小島である。継体天皇二年冬十二月、耽羅の人が初めて百済国と通交した。斉明天皇七年夏、初めて王子阿波伎(あはき)らを遣わして貢物を献じた。乙丑(きのとうし)の年、使者を遣わして朝貢した。丙寅の年、王子姑如(こじょ)らを遣わして貢物を献じた。丁卯(ひのとう)の年、佐平(さへい)椽磨(れんま)らを遣わして貢物を献じた。天皇は綿十四匹・纈(ゆはた、絞り染めの布)十九匹・緋(ひ)二十四匹・紺布二十四端・桃染布(ももぞめのぬの)五十八端・斧(おの)・釤(かま)・刀子(とうす)などを賜い、帰国させた。天智天皇(てんじてんのう)二年、王子久麻伎(くまき)らを遣わして貢物を献じた。天皇は耽羅王に五穀の種を賜った。天武天皇(てんむてんのう)元年、王子久麻藝(くまげ)・都羅(とら)・宇麻(うま)らを遣わして天智天皇の喪を弔わせた。このとき天武天皇は即位したばかりで都に入っていなかったため、太宰府(だざいふ)に命じて事情を告げさせ、耽羅王および使者の久麻藝らに位階を賜った。その位は大乙上(だいおつじょう)で、冠は綿の刺繍で飾られ、耽羅国の佐平の位に相当するものであった。使者らは筑紫から出発して帰国した。三年、耽羅王姑如および王子久麻伎が来朝した。四年、船一艘を賜い、本国に帰らせた。五年、王子都羅を遣わして朝貢した。七年、耽羅に使者を遣わした。十二年、県犬養手繈(あがたいぬかいのたづな)・川原加尼(かわらのかに)を耽羅に使いさせた。持統天皇(じとうてんのう)二年、佐平加羅を遣わして朝廷に参内させ、方物(ほうもつ、地方の産物)を献じた。天皇は詔して加羅らを筑紫館(つくしのむろつみ)でもてなし、物を賜って帰した。八年、王子佐平らを遣わして朝貢した。(『日本書紀』による。)その後、耽羅は新羅に滅ぼされ、朝貢は絶えた。(『三国史記』『東国通鑑』による。)