卷之二百卅六 列傳第一百六十三

諸蕃五 百濟下

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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欽明天皇6年春、膳巴提便(かしわでのはすい)を百済(くだら)に使者として遣わした。夏、百済王の明(めい)は、耐率(たいそつ)の其悛(きしゅん)と施徳(せとく)の次酒(しさけ)を日本に朝貢のため遣わした。秋、百済は丈六(じょうろく、一丈六尺)の仏像を造った。明王は自ら願文を作り、次のように述べた。「聞くところによれば、丈六の仏を造ればその功徳はきわめて大きいという。伏して願わくは、天皇が勝れた善徳を得られんことを。天皇の治められる国々もまた、ともに福運を蒙らんことを。あまねく天下のすべての衆生が、皆解脱を得んことを。ゆえに謹んでこれを造る。」

7年、中部(ちゅうほう)の奈率(なそつ)已連(いれん)らが百済に帰国するにあたり、良馬70匹と船10隻を賜った。夏、中部の奈率である掠葉礼(りゃくようらい)らを遣わして貢物を献上させた。

8年、前部(ぜんほう)の徳率(とくそつ)真慕宣文(しんぼせんもん)と奈率歌麻(かま)らを遣わして援軍を乞うた。下部(かほう)の東城子言(とうじょうしごん)が来朝し、徳率問休麻那(もんくまな)に代わって宿衛(しゅくえい、宮中警護)の任に就いた。翌年春、高句麗(こうくり)が馬津城(ましんじょう)を包囲したため、真慕宣文らは暇乞いをして百済に帰った。天皇は詔して「援軍は必ず出す。おまえは急ぎ王に報告せよ」と述べた。天皇はほどなく使者を遣わし、「徳率宣文らが帰国して後、そちらの様子はどうか。聞けば汝の国は高句麗の賊に迫られているという。任那(みまな)とともに謀って、これを防ぐべきである」と詔した。(注:原書ではこの詔を6月の記事としているが、詔の文面から考えると、徳率宣文らが帰国した後、掠葉礼が入朝する前のことと思われる。)

夏、中部の扞率(かんそつ)掠葉礼らが入朝して奏上した。「徳率宣文らが帰り着き、謹んで恩詔を承り、喜びに堪えません。今年の春の馬津城の戦いにおいて、敵中でこう語る者があったと聞きました。『これは安羅(あら)と日本府が招き寄せたことだ』と。私はこれを疑い、まだ信じてはおりませんが、その由来を究めずにおくわけにはまいりません。そこで安羅及び日本府の執事を召しましたが、参りませんでした。それゆえ、ますます疑いと恐れを抱いております。伏して願わくは、畏れ多き天皇(注:原書の注に、西方の蕃国では天皇を「可畏天皇」と呼ぶとあり、以下も同様である)、しばらく援軍の派遣を停止され、まずは事の是非をお調べくださいますよう。」天皇は詔して述べた。「上奏の書を読み、詳しく承知した。安羅及び日本府が隣国の危難を救わなかったことは、朕の遺憾とするところである。高句麗と通じているという話は、朕が命じたことではなく、軽々しく信じてはならない。願わくは王よ、心を開き気を緩め、安らかに構えて、深く疑い恐れることのないように。前の勅に従い、任那と力を合わせて国境をしっかりと守り、北の敵を防ぎ止めよ。朕はしかるべき人数を派遣し、安羅の空いた土地を満たすことにする。」冬、百済のために得爾辛(とくにしん)に城を築いた。

10年、将徳久貴固(きゅうきこ)と徳馬次文(ばしぶん)が帰国した。天皇は詔して、「延那斯(えんなし、注:延那斯はおそらく移那斯(いなし)のことであろうが、ここでは原文のまま改めない)と麻都(まと)が密かに高句麗と通じているとの件については、朕が取り調べさせよう。要請のあった救援の兵については、願い出のとおり派遣を見合わせる」と述べた。

11年、天皇は使者を遣わして高句麗との戦況を尋ねた(注:原書の注に『百済記』を引いて、日本の使者は阿比多(あびた)であったとする)。天皇は詔して、「朕は北の敵が強暴であると聞き、矢30具を賜った。また、奈率馬武(まむ)は王の腹心の重臣であり、上意を受けて下に伝え、よく王を補佐していると聞く。もし国家に事なく、永く官家(みやけ)を保って朕に仕えようと望むならば、常に馬武を大使として入朝させるがよい」と述べた。使者が帰るにあたり、高句麗の捕虜6人を献上し、別に中部の奈率皮久斤(ひくこん)らを遣わして高句麗の捕虜10人を献上した。

12年春、麦の種1000石を百済に賜った。秋、明王は新羅(しらぎ)・任那の兵と合流して高句麗を討った。漢城(かんじょう)の地を獲得し、さらに進軍して平壌の6郡を奪い、旧領をことごとく回復した。

13年夏、百済・加羅(から)・安羅は中部の徳率木刕今敦(もくらこんとん)らを遣わし、来朝して「新羅は高句麗と誼を通じ謀を合わせ、諸々の蕃国を滅ぼそうとしております。それゆえ私どもを遣わし、謹んで援軍を請う次第です」と奏上した。冬、明王は西部の姫氏(きし)達率怒唎斯致契(ぬりしちけい)らを遣わし、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋(ばんがい)、経論を献上させ、あわせて上表文を奉って仏法の流布と礼拝の功徳を讃えて次のように述べた。「この法はあらゆる法の中で最もすぐれたものです。理解しがたく悟りに入りがたく、周公や孔子でさえこれを知ることはできませんでした。この法はよく無量無辺の福徳の果報を生み出し、ついには無上の菩提を成就させます。たとえば人が意のままになる珠を懐に抱けば、用いるところに従って思いのままになるように、この妙なる法の宝もまた同様であり、祈り願えば思いのままに満たされないことはありません。そもそもこの法は遠く天竺(インド)より起こり、三韓に至るまで、教えのままに奉じ持たれ、尊ばれないところはありません。百済王の臣、明は謹んで陪臣の怒唎斯致契と怒剖斯致(ぬほくしち)を遣わし、帝国に奉り伝え、畿内に流布させようとするものです。まさに仏の記されたとおり、我が仏法は東へ流れ伝わるのです。」天皇は群臣に次々と意見を尋ねた。大連(おおむらじ)物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「これは蕃国の神であり、拝むべきではありません」と奏上した。そこで仏像は難波の堀江に投げ捨てられた。この年、百済は漢城と平壌を放棄した。

14年春、上部(じょうほう)の徳率科野次酒(しなのしさけ)らを遣わして救援を求め、先に来朝していた中部の扞率木刕金敦らは暇乞いをして百済に帰った。(注:木刕金敦は13年に入朝しており、その際は徳率とされていたのに、今年帰国するにあたって扞率と記されているのは疑わしい。『三国史記』によれば、徳率は四品、扞率は五品の官位である。原書にはきっと誤りがあるのだろう。)夏、内臣(うちつおみ、注:原書には名を欠く)を遣わして、明王に良馬2匹、船2隻、弓50張、矢50具を賜った。勅して「援軍の数は、ひとえに王の求めに応じよう」と述べ、別に「医・易・暦の博士で交代すべき者は、帰る使者に付き添わせて交代させよ。占いの書物や暦の本、薬の種もあわせて送るがよい」と勅した。秋、上部の奈率科野新羅(しなのしらぎ)と下部の固徳汶休帯山(もんくたいさん)らを遣わして上表させ、次のように述べた。「昨年、私どもは共に議し、内臣徳率次酒と任那の大夫らを遣わして、海の彼方の諸々のミヤケの事情を奏上いたしました。恩詔を待ち望むこと、春の草が慈雨を仰ぐようでございました。今年にわかに、新羅が高句麗と謀を通じてこう言っていると聞きました。『百済と任那はしきりに日本に朝貢している。これは必ず兵を求めて我が国を討とうとするものだ。日本の兵がまだ出発しないうちに、先んじて安羅を攻め取り、日本への道を絶つに越したことはない』と。私どもはこの謀を聞き、深く危惧を懐き、それゆえ急ぎ使者を馳せて奏上する次第です。伏して願わくは、天のご慈悲をもって哀れみをお垂れくださり、速やかに海の彼方のミヤケの国をお救いください。軍勢が用いる衣服と食糧については、私どもが調達いたします。また、海の彼方の諸蕃国は弓や馬が甚だ乏しく、昔より今に至るまで、みな朝廷の官庫に頼って支給を受けてまいりました。今、強敵が勢いを増しておりますので、武具を備えるべく、伏して賜りますようお願い申し上げます。」さらに奏上して、「的臣(いくはのおみ)は天皇の勅を奉じて、私どもの蕃国を慰撫しに参りました。日夜おこたることなく努め、もろもろの政務に励んでまいりました。これにより、海の彼方の諸蕃国はみなその善政を称え、末永く海の彼方を治めてくれるものと思っておりましたのに、不幸にも亡くなってしまい、深く哀悼の意を表します。伏して願わくは、天のご慈悲をもって速やかにその後任をお遣わしくださり、任那の鎮めとしてくださいますように」と述べた。

冬、百済の王子餘昌(よしょう)は国の兵を率いて高句麗を攻めた。軍が夜、百合野(ひゃくごうや)に宿営していたところ、高句麗の伏兵が突然現れ、急に太鼓を鳴らした。餘昌は大いに驚いたが、太鼓を打ち鳴らして応戦し、夜通し砦を固く守り抜いた。夜が明けると、高句麗の兵が広い野に連なって展開し、着飾った騎馬武者5人が轡(くつわ)を並べてやって来て、「若者たちの伝える話では、旅の客が野宿しているというが、どうして出迎え労わずにいられようか。我が王は臣下である私に命じて、お伴の方々を労うために参らせた。謹んで尊いお名前と年齢、位をお尋ねしたい」と呼びかけた。餘昌は答えて、「姓は(百済王家と)同じ姓であり、位は扞率、歳は29である」と述べた。餘昌もまた同じように相手に尋ねた。そして目印を立てて合戦となった。百済の兵は矛で高句麗の勇士を馬上から突き落とし、首を斬って矛に貫き、味方の兵に見せつけた。高句麗の将軍は大いに怒ったが、百済は勝ちに乗じて太鼓を急がせ、士気はますます奮い立ち、ついに高句麗軍を大敗させた。高句麗王の高平成(こうへいせい)は東聖山(とうせいざん)へと逃げ去った。(注:『日本書紀』による。高句麗王の名は『東国通鑑』による。)

15年、中部の施徳木刕文次(もくらぶんし)らが筑紫の大宰府に至り、派遣される軍勢の数を尋ねた。そして、「今年の戦は、以前にも増して危険な状況にあります。願わくは、軍が出発する時期を違えることのありませんように」と述べた。内臣の佐伯連(さえきのむらじ)は勅を奉じて、兵1000人、馬100匹、船40隻を許可した。ほどなく下部の扞率で将軍の三貴(さんき)と上部の奈率物部烏(もののべのからす)らを遣わして援兵を乞い、徳率東城子莫古(とうじょうしまくこ)が来て代わった。東城子言は、「五経博士の王柳貴(おうりゅうき)が固徳馬丁安(まていあん)に代わり、僧の曇慧(どんえ)ら9人が僧の道深(どうしん)ら7人に代わります」と述べた。易博士の施徳王道良(おうどうりょう)、暦博士の固徳王保孫(おうほそん)、医博士の奈率王有憐陀(おうゆうりんだ)、採薬師の施徳潘量豊(はんりょうほう)と固徳丁有陀(ていゆうだ)、楽人の施徳三斤(さんきん)、季徳己麻次(こまし)、季徳進奴(しんぬ)、対徳進陀(しんだ)は、みな要請どおりに交代した。夏、内臣は水軍を率いて百済を援けた。

冬、明王は下部の扞率汶斯干奴(もんしかんぬ)を遣わして上表し、次のように述べた。「百済王の臣、明、及び安羅の日本府の臣、任那諸国の旱岐(かんき)らが奏上いたします。『新羅は無道であり、高句麗と心を同じくして、海の彼方のミヤケを滅ぼそうと謀っております』と。私どもは危惧と恐れを抱き、ひたすら王師(天皇の軍)の到来を待ち望んでおりました。6月、有至臣(ありしのおみ、注:有至臣とはすなわち内臣のことであり、国の発音が通じるものである)が軍を率いて到着しました。これによって上下ともに大いに喜び、そこで12月9日に新羅を攻めました。私はまず東方領(とうほうりょう)の物部氏に命じ、莫哥武連(まくむのむらじ)に本部の兵を率いさせて、函山城(かんざんじょう、注:『東国通鑑』では管山城とする)を攻めさせました。有至臣の率いる筑紫の物部莫奇(まくき)と委沙奇(いさき)は、よく火矢を射ることができました。天皇の御威光のおかげで、その日の酉の刻(午後6時頃)に城を焼いてこれを陥落させました。もし新羅だけが相手であれば、有至臣の軍だけで十分でございます。しかし彼らがもし高句麗と勢力を合わせるならば、事を成し遂げるのは難しいのではと恐れます。伏して願わくは、筑紫島にある諸軍すべてに命じて援軍として派遣していただければ、憂うることはございません。軍事は目下急を要しますので、一艘の船を馳せて事の次第を奏上いたします。謹んで上質の錦2匹、毛織りの敷物1枚、斧300口、捕虜とした新羅の男2人、女5人を献上いたします。」(注:『日本書紀』による。)

餘昌はすでに函山城を陥落させており、勝ちに乗じて新羅を滅ぼそうとした。年老いた重臣たちが諫めて、「天はまだ味方しておりません。禍が及ぶことを恐れます」と言った。餘昌は、「そなたたちは年老いて、なぜそのように臆病なのか。私は大国(倭国)にお仕えしている。何を恐れることがあろうか」と述べ、ついに新羅の奥深くまで攻め入り、久陀牟羅(くだむら)の砦を築いた。明王は餘昌が長らく陣中で労苦しているのを案じ、自ら出向いて労おうとした。新羅は明王が自ら来ることを知ると、すぐさま兵を発してこれを包囲した。百済軍は大敗し、新羅の奴卒(下級兵卒)で苦都(くと、注:原書の注では別名を谷智(こくち)とし、『東国通鑑』では稗将高于都力(こううとりょく)とする)という者が明王に出会った。苦都は再拝して、「私、苦都は身分の卑しい奴僕であり、大王は名だたる君主であられます。今、卑しい奴僕に名だたる君主を殺させることになりますが、願わくは王のお名前をお聞かせいただき、常に心に留め、後世に伝えたく存じます」と述べた。明王は、「王の首が奴僕の手にかかるのはふさわしくない」と述べた。苦都は、「我が国の法では、盟約に背いた者は、たとえ国王の首であろうとも、奴僕の手にかかるべきものとされております」と述べた。明王は胡床(こしょう、腰掛け)に座り、天を仰いで大きくため息をつき、涙を流した。そして帯びていた刀を解いて苦都に授け、斬られた。(注:『日本書紀』及び原書の一説による。)新羅は礼をもってその首を葬り、遺体を百済に送り返した。(注:『日本書紀』の一説による。原書には、苦都が穴を掘って埋めたとあるが、ここでは一説に従う。)

その時、新羅の軍は餘昌を急襲して包囲しており、兵士たちは恐れおののき、なすすべを知らなかった。筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)は弓の名手で、矢を雨のように射かけ、新羅の勇猛な騎兵はこれに当たって馬から落ちた。その矢は鞍の前輪・後輪を貫き通し、その他の兵もみな矢に応じて倒れないものはなかった。新羅の包囲する兵は総崩れとなり、餘昌はそのすきに乗じて脱出することができた。そこで国造を褒めて「鞍橋君(くらじのきみ)」と呼んだ。新羅はさらに追い詰めて百済を滅ぼそうとした。しかし一人の将軍が、「それはなりません。日本の天皇は任那の一件で、すでに我々を深く憎んでおられます。まして今、百済のミヤケまで滅ぼしたとなれば、必ず後々の禍を招くことになるでしょう」と述べた。そのため追撃をやめた。

翌年、餘昌は弟の恵(え)を遣わして来朝させた。天皇は明王が戦死したことを初めて聞き、深く悲しみ、使者を遣わして津(港)で王子恵を出迎え労わせた。許勢臣(こせのおみ)が王子恵に、「このまま留まるつもりか、それとも帰るつもりか」と尋ねた。恵は答えて、「朝廷が滅んだ国を憐れみ、一部の軍を貸してくださるのに頼り、天皇の御威光をもって大きな仇に報いることこそ、私の願いです。私が留まるか去るかは、ひとえに御命令に従うのみです」と述べた。蘇我臣(そがのおみ)が尋ねて、「王(明王)は天の道と地の理に深く通じ、その名は四方に聞こえておりました。永く多くの幸いを保ち、西方の蕃国を統べて朝廷にお仕えになるものと思っておりました。今、どのような過ちがあってこの禍を招いたのでしょうか」と述べた。恵は答えて、「私は生まれつき愚かで物事に暗く、大きな計略についてはわかりません。まして禍福のよって来るところなど、なおさらわかりません」と述べた。蘇我臣はさらに恵に語って、「昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)の御代に、汝の国は高句麗に攻められ、その危うさは積み重ねた卵よりも甚だしいものでした。天皇は神祇伯(じんぎはく)に命じて神宮で神託を受けさせ、汝の国を救いに行かせました。これによって汝の国は静まり、国家は安寧を得たのです。そこで汝の国に命じてその神を祭らせました。その神とは、天地が分かれ、草木がまだ物を言っていた大昔に、天より降ってこの国を建て始めた神です。今、汝の国はこれを絶やして祭らなくなり、それゆえ禍乱が次々と起こり、国家が危うくなっているのです。今すぐに神宮を修理し、進んで祭祀を奉れば、国家は再び栄えることでしょう」と述べた。

餘昌はその臣下に、「私は出家して仏道を修め、亡き父王の冥福を助けたいと思う。どうであろうか」と述べた。臣下たちは諫めて、「新羅と高句麗は、ともに天を戴くことのできない仇でございます。王子がもし出家なさったら、誰がその仇を討ち、誰が国の恥をすすぐのでしょうか。私どもは国民を出家させることで、王子の願いを遂げさせていただきたく存じます」と述べた。餘昌はこれに従った。そこで百人を出家させ、明王の冥福を祈らせた。

17年、王子恵が帰国するにあたり、武具と良馬を賜って持たせた。その従者たちにもそれぞれ差をつけて物を賜った。恵らは感激して喜び、阿部臣(あべのおみ)と佐伯連らが筑紫の水軍を率いて護衛し送った。別に筑紫の火君(ひのきみ、注:原書の注に『百済本記』を引いて、筑紫君の子で火中君(ひのなかのきみ)の弟であるとする)に詔して、勇士1000人を率いて弥氏津(みてつ)まで送らせ、要衝の地に備えさせた。

18年春、餘昌が王位を継いだ。これが威徳王(いとくおう)である(注:『東国通鑑』には、聖明王が敗死したその年に餘昌が即位したとある)。23年、大将軍紀男麻呂(きのおまろ)と副将軍河辺瓊岳(にえのたけ)が新羅を討った。大将軍大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は数万の兵を率いて高句麗を討ち、あわせて百済にも詔して呼応させた。狭手彦は高句麗軍を撃破したが、瓊岳は新羅を攻めたものの軍律を失い、功なくして帰った。(注:『日本書紀』による。)

敏達天皇4年、昌(威徳王)は使者を遣わして貢物を献上し、その量は通例よりも多かった。吉士訳語田彦(きしのおさひこ)を百済に遣わして、任那再興のことを協議させた。

6年、大別王(おおわけのきみ)と小黒吉士(おぐろのきし)を百済に遣わした(注:原書の注に、王の使いとして三韓に赴く者は自ら大別王と称するとあるが、その出自は詳らかでない。小黒吉士は名を欠く)。冬、大別王らが帰国した。昌は経論、及び僧尼・呪禁師(じゅごんし)・造仏工・造寺工、あわせて6人を付き添わせて献上した。

12年、吉備海部羽島(きびのあまべのはしま)を百済に遣わして日羅(にちら)を召還させようとした。昌は日羅の才能を惜しみ、快く遣わそうとしなかった。羽島は日羅の計略を用い、厳しい顔つきで勅を宣べて日羅を召した。昌は恐れて、恩率(おんそつ)徳爾(とくに)、余怒(よぬ)、歌奴知(かぬち)、参官(さんかん)、舵取りの徳率次干徳(じかんとく)らに日羅を送らせた。天皇は大いに喜んだ。恩率参官の思惑をよそに、日羅は自国のことを包み隠さず語った。出発に臨んで、参官は密かに徳爾と余怒に命じ、数日後に日羅を殺害させた。天皇は大いに怒り、徳爾らを捕らえて獄に下した。取り調べたところ、みな罪を認めた。そこで徳爾を日羅の一族に与え、思いのままに処分させた。恩率参官は海上で暴風波濤に遭い、船は漂流して散り散りになり、参官は溺死した。

崇峻天皇元年、恩率首信(しゅしん)と徳率蓋文(がいもん)らが朝貢し、あわせて仏舎利、及び僧の齢照(れいしょう)ら6人、寺工、鑪盤瓦師(ろばんかわらし)、画工数人を献上した。

推古天皇5年、王子阿佐(あさ)が朝貢した(注:『日本書紀』による)。6年、昌(威徳王)が没した。第二子の季明(きめい)が即位した(注:『東国通鑑』による)。7年、使者を遣わしてラクダと驢馬各1匹、羊2頭、白雉1羽を献上した(注:『日本書紀』による)。この年、季明が没し、諡(おくりな)を恵王(けいおう)といった。長子の宣(せん)が即位した。これが法王(ほうおう)である。8年、宣が没し、子の璋(しょう)が即位した。これが武王(ぶおう)である(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。9年、新羅が任那を攻めた。坂本糠手(さかもとのぬかて)を遣わし、百済に「任那を救え」と詔した。17年、百済の僧俗85人が暴風に遭って肥後国(ひごのくに)の葦北津(あしきたのつ)に漂着した。難波徳麻呂(なにわのとくまろ)と船龍(ふねのたつ)らを遣わして本国に送り返させた。

20年、百済人が帰化してきたが、その人は身体も顔も皆まだら模様であった。人と異なることを嫌い、海の島に追放しようとした。するとその人は、「もし私のまだらの肌をお嫌いになるのでしたら、まだら模様の牛馬もまた国でお使いになれないのでしょうか。私には小さな技があり、山岳の形を作ることができます」と述べた。そこで試しに南庭に須弥山(しゅみせん)の形と呉橋(くれはし)を造らせた。そこで彼を路子工(みちこのたくみ)、またの名を芝耆麻呂(しきまろ)と名付けた。また味摩之(みまし)という名の一人がおり、呉楽(くれがく)に秀でていた。そこで少年たちにこれを習わせた。23年、百済の使者が遣唐使の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らに従って入朝した。

舒明天皇2年、恩率素子(そし)と徳率武徳(ぶとく)を遣わして朝貢した。3年、璋(武王)は王子の豊(ほう)を朝廷に人質として遣わした(注:原書には義慈(ぎじ)が王子豊璋(ほうしょう)を人質として納めたとあるが、『東国通鑑』によれば、この年は武王璋の即位32年にあたる。義慈の即位は舒明13年のことであり、原書に義慈とあるのはおそらく誤りであろう。それゆえこれを改めた。また「豊璋」については、『旧唐書』及び『三国史記』『東国通鑑』では単に「豊」とのみ記しており、原書は百済王璋と王子豊の名を誤って合わせて「豊璋」としたものである。今あわせてこれを改めた。)7年、達率柔(にゅう)らを遣わして朝貢した。10年、12年にも、重ねて朝貢した(注:『日本書紀』による)。この年、璋(武王)が没し、子の義慈(ぎじ)が即位した(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。

皇極天皇元年春、使者を遣わして舒明天皇の喪を弔った。阿曇比羅夫(あずみのひらふ)らが館に赴いて百済の様子を尋ねた。使者は、「百済王が私に命じて、『聞くところによると塞上(そくじょう)は朝廷において常々不法な振る舞いをしているという。おまえが帰国する日には、塞上も一緒に連れて来るように』とのことでしたが、朝廷はこれをお許しになりませんでした」と述べた。(注:原書にはまた、弔問使に随行した従者の話として、「昨年、大佐平(だいさへい)の智積(ちしゃく)が死んだ。また百済人が崑崙(こんろん)の使者を海に投げ落とした。今年正月、国王の母が亡くなった。また弟王子の子、翹岐(ぎょうき)とその母・妹・子女4人、内佐平で名の知れた者40余人が海の島に追放された」とある。しかし以下の文を見ると、この後に智積は入朝しており、翹岐もまた召されて来朝している。この従者の話は疑わしく、これらの出来事が智積の帰国後に起きたもので、それを後から来た従者が語ったのを、原書が誤ってここに載せたのかどうかは、定かでない。)国勝水雞(くにかつのくいな)を百済に使者として遣わした。王子翹岐を召して阿曇山城連(あずみのやましろのむらじ)の家に住まわせた(注:翹岐と智積が来朝したのが何月であったか詳らかでなく、原書には誤りがあるかもしれないが、ここでは旧文のままとし、みだりに改めない)。

夏、翹岐が天皇に引見された。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)は畝傍(うねび)の邸で翹岐らを饗応したが、塞上だけはこれに与らなかった。蝦夷は翹岐に馬1匹と鉄20鋌(てい)を贈った。翹岐の子が病死し、翹岐は妻子を連れて百済大井(くだらのおおい)の家に移り住み、人を遣わして子を石川に葬らせた。おおよそ百済の風俗では死者を畏れ忌み、父母兄弟夫婦の間柄であっても、決して自ら死者に立ち会うことをしない。新羅もまた同様である。7月、翹岐及び大佐平智積らを朝廷で饗応し(注:原書の一説には、智積及びその子の徳率某、恩率軍善(ぐんぜん)とある)、屈強な若者に相撲を取らせた。宴が終わると、智積は退出して翹岐の門前で拝礼した。百済の人質である達率長福(ちょうふく)に小徳(しょうとく)の位を授けた。中客(ちゅうかく)以下の者にも、それぞれ差をつけて位を授けた。

2年、達率自斯(じし)らと恩率軍善を遣わして朝貢させた。朝廷は群臣の大夫を難波に遣わして、貢物が慣例に違っていると咎めた。自斯らは、「ただちに整えましょう」と答えた。自斯は達率武子(ぶし)の子であり、武子はかつて朝廷に人質として来ていた(注:武子が人質となった年は詳らかでない)。この年、百済の太子である餘豊(注:原書には「璋」の字はなく、前文で誤って「璋」の字を加えていることは明らかである)は、蜜蜂の巣4枚を三輪山に放って飼おうとしたが、ついに繁殖しなかった。4年、使者を遣わして朝貢した(注:『日本書紀』による)。

孝徳天皇大化元年、佐平縁福(えんぷく)らが朝貢し、あわせて任那の調(みつぎ)の使いを兼ねた。天皇は縁福らに詔して、「昔、我が遠い皇祖は百済国を内官家(うちつみやけ)とし、任那を百済に附属させた。その後、三輪栗隈東人(みわのくりくまのあずまひと)が任那の国境を視察し、その土地の産物や貢賦の出どころを、図籍(地図と帳簿)に詳しく記録した。しかるに今の貢献は、欠けているものが多い。それゆえこれを差し戻す。今より以後は、貢献の物にはその産する国郡の名を明記せよ」と述べた。また勅して鬼部(きぶ)の達率意.(名の一部を欠く)の妻子を召し寄せた。白雄2年、3年、4年に、いずれも朝貢した。5年秋、朝貢した。冬、再び来朝して孝徳天皇の喪を弔った(注:『日本書紀』による。原書の一説には、この天皇の御代、三韓は毎年朝貢したとある)。

斉明天皇元年、西部の達率余宜受(よぎじゅ)と東部の恩率調信仁(ちょうしんにん)が朝貢し、その一行は総勢100余人であった(注:『日本書紀』の一説による)。2年、使者を遣わして朝貢した。西海使(せいかいし)の佐伯栲縄(さえきのたくなわ)と小山下(しょうせんげ)難波国勝(なにわのくにかつ)が百済から帰国し、オウム1羽を献上した。3年、西海使の小華下(しょうかげ)阿曇頬垂(あずみのつらたり)と小山下の津傴僂(つのくぐ)が百済から帰国し、ラクダ1匹、驢馬2匹を献上した。

6年、新羅王の金春秋(きんしゅんじゅう)は唐に援軍を乞い、ともに百済を攻めた(注:『日本書紀』の一説に、高句麗の僧道顕(どうけん)の『日本世紀』を引いて記す)。そもそも義慈が即位して2年、意気盛んで、将軍允忠(いんちゅう)を遣わして新羅の大耶城(たいやじょう)を攻め落とした。金春秋の娘婿である金品釈(きんひんしゃく)とその妻子はみなこの時に死に、春秋の恨みは骨髄に達するほどであった。新羅王真徳(しんとく)が死ぬと、春秋がこれに代わって即位し、唐と厚く誼を結んだ。当時、義慈は高句麗と連携し、しばしば兵を出して新羅を攻めた。金春秋の恨みはますます深くなった(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。義慈は当初、孝行で兄弟仲の良いことで評判があり、「海東の曽子(そうし)」と称されていた(注:『旧唐書』『三国史記』『東国通鑑』による)。しかし後にはしだいに酒色に溺れるようになり、夫人や妓妾たちが国政の実権をほしいままにし、賢良の臣を誅殺した(注:『日本書紀』の注に僧道顕の『日本世紀』を引く。『東国通鑑』によれば、王は宮人と夜通し酒に酔い、酒色の楽しみに耽ったという。佐平の成忠(せいちゅう)がこれを諫めたところ、義慈は怒って彼を獄に囚え、成忠は食を断って死んだ)。国にはまた、たびたび怪異な出来事が起こった(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。阿曇頬垂は百済に使いして帰国した際、次のように語った。「到着した当初、ちょうど百済が新羅を討伐して帰還したところで、軍馬が寺の金堂の周りを自ら巡り回り、昼夜休むことなく、ただ草を食む時だけ少し止まるということがあった」(注:『日本書紀』による)。

この年7月、唐の大将軍蘇定方(そていほう)は水軍を率いて尾資津(びしつ、注:『東国通鑑』では徳物島(とくもつとう)とする)に陣を敷き、新羅王金春秋は騎馬・歩兵の軍を率いて怒受利山(どじゅりざん)に駐屯し、両軍で挟み撃ちにすること3日にして、城は陥落した(注:『日本書紀』の一説による)。蘇定方は義慈及びその妻恩古(おんこ)、太子隆(りゅう)ら王族13人、大佐平沙宅千福(さたくせんぷく)、国弁成(こくべんせい)、孫登(そんとう)らを連れて唐へ帰った(注:『日本書紀』の一説に伊吉博得(いきのはかとこ)の書を引くとある)。

9月、達率沙弥覚従(しゃみかくじゅう)らが来朝して危難を告げた。百済西部の恩率鬼室福信(きしつふくしん)は任射岐山(にんしゃきざん、注:原書の一説には北任敍利山(ほくにんじょりざん)とある)に拠り、達率餘自信(注:「信」はもと「進」に作るが、原書下文によってこれを改めた)は中都(ちゅうと)の久麻怒利(くまのり)山城(注:原書の一説には都都岐留山(つつきるやま)とある)に拠り、散り散りになった兵卒を集めた。新羅の兵がこれを攻めた。当時、福信の兵卒はまだ武器を持たず、みな棒で戦ったが、新羅軍を大いに打ち破り、その武具や器械をことごとく奪い取った。これによって士気はしだいに奮い立ち、ついに王城に入ってこれを保ち、国人でこれに帰属する者は多かった。冬、福信は佐平貴智(きち)らを遣わして援軍を乞い、唐の捕虜100余人を献上し、あわせて王子餘豊を迎えたいと請うて、「唐人と新羅は我が国の領土を荒らし乱し、我が国家を覆し、君臣ともに虜となりました。それでも百済は遠く天皇の御威光に頼り、さらに義兵を集め、国を再び建て直すことができました。伏して願わくは、王子餘豊をお迎えして国家の主としていただきたく存じます」と述べた。

天皇はそこで詔を下して、「軍を乞い救いを求めることは、古くからあることと聞く。危うきを扶け絶えたるを継ぐことは、桓公の故事に著されている。それゆえ武具を枕にし苦難に耐えてでも、必ず救援すべきである。今、百済は本国が乱れ喪われ、頼るところなく訴えるところもなく、窮まって我が国に帰ってきた。それゆえおまえたち将士に命じる。あらゆる道からともに進み、雲が集まり雷が動くように一斉に沙彔(さろく)に集結し、その鯨鯢(残虐な首謀者)を討ち滅ぼし、あの逆さ吊りにされたような苦しみを解いてやれ。かの王子餘豊については、担当の役所が礼を整えて時宜に応じて送り出すように」と述べた。天皇は筑紫に行幸して援軍を派遣しようとし、まず難波宮に行幸して、武具の修繕を詔した。また駿河国に軍艦を造るよう勅した。船が完成し、続麻(おみ)の郊外まで曳いて来たところ、夜中に理由もなく船首と船尾がひとりでに反転して岸の方を向いてしまった。

7年春、天皇は船に乗って西へ向かい、磐瀬(いわせ)の行宮(かりみや)に留まった。夏、百済の福信は使者を遣わして上表文を奉り、王子糺解(きゅうかい)を迎えたいと請うた(注:原書には糺解が来朝したという記事を欠いている)。7月、天皇が崩御した。皇太子は喪服のまま、海の彼方の軍事政務を聴断した。8月、前将軍の大華下(だいかげ)阿曇比邏夫と小華下河辺百枝(かわべのももえ)、後将軍の大華下阿倍引田比邏夫(あべのひきたのひらふ)、大山上(だいせんじょう)守大石(もりのおおいし)、大山上物部熊(もののべのくま)が百済を救援した(注:『日本書紀』による)。9月、皇太子は織冠(しょくかん)の位を百済の王子豊に授け、多蔣敷(たのこもしき)の妹を娶らせた。大山下(だいせんげ)狭井檳榔(さいのあじまさ)と小山下秦田来津(はたのたくつ)に、兵5000余人を率いさせ、王子豊及びその叔父忠勝(ちゅうしょう)らを護衛して送らせた(注:『日本書紀』及び原書の一説による)。福信は出迎えて拝礼し稽首し、そのまま国政を豊に返した。

壬戌(じんじゅつ)の年、百済の佐平鬼室福信に矢10万本、糸500斤、綿1000斤、布1000端、なめし革1000枚、稲の種3000斛を賜り、別に豊に布300端を賜った。夏5月、大将軍阿曇比邏夫らは水軍170艘を率いて後に続いて出発した。詔して豊を百済王に立て、福信に金策(きんさく、任命の書)を賜って、その勤労を褒め称えた。豊及び福信は稽首して勅を奉じ、人々はみな感激して喜び涙を流した。6月、達率万智(まんち)を遣わして入朝させ、恩に感謝した。

冬、豊とその臣福信は協議し、州柔城(つぬじょう、注:『東国通鑑』では州柔を周留(しゅる)に作り、地名の多くが原書と異なる)から避城(ひじょう)に移り住むことにした。秦田来津は諫めて、「避城は敵の領域に近接しており、一晩あれば軍を進めることができます。もし不測の事態が起これば、悔やんでも及びません」と述べた。豊らはこれを聞き入れず、ついに避城に移り住んだ。翌年春、達率金受(きんじゅ)を遣わして朝貢させた。新羅の兵は百済の南方の4州を焼き払い、安徳(あんとく)などの城を陥落させた(注:『東国通鑑』には、居列(きょれつ)・居督(きょとく)・沙平(さへい)・徳安(とくあん)の4城を取ったとある)。これによって避城は敵からますます近くなり、もはや保つことができなくなったので、州柔城に戻って住んだ。福信は使者を遣わして唐の捕虜続守言(しょくしゅげん)らを献上した。3月、前将軍上毛野稚子(かみつけののわくご)と間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍巨勢神前(こせのかむさき)と通訳の三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍阿倍引田比邏夫と大宅鎌柄(おおやけのかまつか)を遣わし、兵2万7000人を率いて新羅を攻めさせた。夏6月、沙鼻(さび)・奴江(ぬえ)の二城を取った(注:『日本書紀』による)。

その頃、福信は権力を専らにし、豊と互いに猜疑心を抱くようになった(注:『三国史記』『東国通鑑』による)。ある者がこれを豊に讒言し、豊はそれを信じた(注:『続日本紀』による)。犬上(注:名を欠く)が石城(せきじょう)で糺解に会い、糺解はそこで福信の罪を語った。豊はすぐさま福信を捕らえ、革紐で手のひらに穴を開けて縛り、諸臣に、「福信には罪がある。斬るべきかどうか」と尋ねた。達率執得(しゅうとく)は、「この悪逆の者を放免すべきではありません」と述べた。福信は執得に唾を吐きかけて罵り、「腐った犬め、愚かな奴め」と言った。豊は屈強な若者に命じて福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。

秋、新羅は豊が福信を殺したことを聞き、直ちに攻め入って州柔を取ろうと謀った。豊は将士に、「日本の将軍廬原君(いおはらのきみ)が屈強な兵1万余人を率いてやって来る。私は自ら白村(はくすき)まで出向いて労おうと思う。そなたたちは城を固く守って待つように」と述べた。まもなく新羅の兵が突然到来して州柔を包囲し、唐の将軍劉仁軌(りゅうじんき)ら(注:劉仁軌の名は『唐書』『東国通鑑』による)は白村江(はくすきのえ、注:『旧唐書』『東国通鑑』では白江口(はっこうこう)とする)に船を並べた。先に到着していた日本の水軍は、唐の軍と交戦して不利であった。諸将が先を争って進んだため、唐軍に挟み撃ちにされた。官軍は大敗し、溺死する者が多かった。秦田来津は天を仰いで歯ぎしりし、数十人を殺してから戦死した。豊は高句麗へと逃げ、州柔は陥落した。軍と民はたがいに、「州柔が陥落した。もはやどうにもならない。百済の名は今日をもって絶えるのだ」と語り合った。そして妻子と別れを告げ、氐礼城(ていれいじょう)に至って日本の軍と合流した。佐平餘自信(注:『東国通鑑』には遅受信(ちじゅしん)が任存城(にんぞんじょう)を保ったとあり、おそらくこの人物であろう)、達率木素貴子(もくそきし)・谷那晋首(こくなしんしゅ)・憶礼福留(おくらいふくる)らは、王師(倭国軍)とともにやって来て、百済はついに滅んだ。

甲子(こうし)の年、百済王義慈の子である善光(ぜんこう、注:『続日本紀』では禅広(ぜんこう)に作る)らを難波に住まわせた。乙丑(いっちゅう)の年、佐平福信の百済における功績により、達率鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下(しょうきんげ)の位を授け、百済の男女400余人を近江国の神前郡(かむさきのこおり)に住まわせた。

天智天皇元年、未都師父(みつしぶ)を遣わして朝貢した(注:『旧唐書』には、唐の麟徳2年、百済の太子隆を熊津都督(ゆうしんととく)として本国に帰らせたとある。隆は人心が離れ散り散りになることを恐れ、唐へ逃げ帰った。儀鳳年間に帯方郡王(たいほうぐんおう)に封じられたが、隆は新羅の強大さを恐れて旧国に入ることができず、高句麗に寄寓して治め、そこで没した。武氏(則天武后)はその孫の敬(けい)に王位を継がせた。今考えるに、この百済の使者は、おそらく隆らが遣わしたものであろう。)2年、佐平餘自信と佐平鬼室集斯、及び男女700余人を近江国の蒲生郡(がもうのこおり)に移した。餘自信・沙宅紹明(しゃたくしょうみょう)以下の者は、それぞれの才能に応じて登用された。4年、百済の台久用(だいくよう)、善羿真子(ぜんげいしんし)らが、相次いで朝貢した(注:『日本書紀』による)。善光の子孫は朝廷に仕えた(注:『続日本紀』による)。