卷之二百五十六 志十三

神祇十三 神社八

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字

甲斐

山梨郡九座

神部神社(かんべじんじゃ)。(注:現在は神部荘上萩原村にあり、岩間明神と呼ばれる。旧社地は現在の社の東、神部山の山頂にあった。)

物部神社(もののべじんじゃ)。(注:現在は松本村にあり、物部十社明神と呼ばれる。もとは御室山にあったが、後に現在の地に遷った。)物部連(もののべのむらじ)の祖である饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る。(注:『旧事本紀』および『甲斐国志』が引く社記による。)貞観五年、従五位下勲十二等から従五位上に進んだ。八年には正五位下を加えられ、まもなく従四位下を授けられた。十八年には、さらに一階を加えられた。元慶四年には正四位下に昇った。(注:『三代実録』による。)天慶三年、正四位上から従三位に進んだ。(注:『日本紀略』による。)

甲斐奈神社(かいなじんじゃ)。(注:古くは甲斐奈嶺にあったが、後にその山の南麓、甲府の工町に遷り、白山神と呼ばれる。)

金櫻神社(かなざくらじんじゃ)。(注:もとは金峰山(きんぷさん)の山上にあり、蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれた。後に山の南方五里余り、巨摩郡御嶽村(みたけむら)の御嶽山に遷った。金峰山の山上には巨石があり、高さ二十五間、横幅十八間で、神像石と呼ばれる。今もなお小さな祠が一つ残っており、山宮と称する。そのため、この本社を里宮とも呼ぶ。)大和国の金峰神(きんぷのかみ)を遷し祀ったものであろう。(注:『夫木集』による。ただし原本には相模国とあるが、これは誤りである。)

松尾神社(まつおじんじゃ)。(注:現在は松本郷小屋鋪村にあり、松尾六所明神と呼ばれる。)大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀るのであろう。(注:『古事記』『延喜式』による。)

玉諸神社(たまもろじんじゃ)。(注:現在は竹森村にあり、玉室明神と呼ばれる。)水晶を神体とし、その大きさは周囲六尺余り、高さ七尺ほどであるという。(注:『甲斐名勝志』『甲斐国志』による。)

大井俣神社(おおいまたじんじゃ)。(注:現在は玉井荘八幡北村にあり、漥八幡宮(くぼはちまんぐう)と称する。)貞観五年、従五位下をもって官社に列せられた。七年には正五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)天慶三年、正五位上から従四位下を加えられた。(注:『日本紀略』による。)

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)。(注:現在は鎮目村にあり、山梨明神と呼ばれる。)  延喜の制では、この九座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

巨麻郡五座

神部神社(かんべじんじゃ)。美和神(みわのかみ)とも称する。(注:『三代実録』による。現在は上宮地・下宮地の二村にあり、上宮地にあるものを山宮、下宮地にあるものを里宮という。冬は山宮で祀り、夏は里宮に遷して祀るのが例であるという。)大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る。(注:社伝による。)貞観五年、従五位下勲十二等から従五位上に進んだ。八年と十八年にはそれぞれ一階を加えられた。元慶四年には従四位下となった。(注:『三代実録』による。)

穂見神社(ほみじんじゃ)。(注:現在は上条南割村の苗敷山(なえしきやま)の山上にあり、苗敷山権現と呼ばれる。)伝えによれば、太古この国では洪水が氾濫し、民には住むべき土地がなかった。穂見神は国つ神である蹋霹神(ふみさくのかみ)と力を合わせて山を切り開き水を疏通させ、初めて平らな土地を得た。穂見神は農耕を勧め奨励し、稲の苗が生い茂って、民はようやく米を食べられるようになった。そのため国の人々は毎年新穀を供えて祭を行い、社稷(しゃしょく)の神と称したという。(注:『東海飼之国四姓之記』『宝生寺記』による。)

宇波刀神社(うわとじんじゃ)。(注:現在は上手村にあり、諏訪明神と呼ばれる。)伝えによれば、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀るという。(注:『甲斐名勝志』による。)貞観八年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

倭文神社(しとりじんじゃ)。(注:現在は宮久保村にあり、降宮明神(ふりみやみょうじん)と称する。旧社地は柳平村にあり、山宮または織女祠(おりめのほこら)と呼ばれる。「降」と「織」は訓が同じであることによる。)建葉槌命(たけはづちのみこと)・棚機姫命(たなばたひめのみこと)を祀る。(注:『古語拾遺』『降宮社記』による。)

笠屋神社。(注:現在は廃絶している。旧社地は上小河原村にあり、この地はおそらく古代の笠屋郷であろう。)  延喜の制では、この五座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

八代郡六座

浅間神社(せんげんじんじゃ)。(注:現在は都留郡河口郷川口村にあり、本宮と称する。おおよそこの国で浅間神を祀る社は、すべてこの本社の分祠であるため、本宮の称があるのである。)伝えによれば、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀るという。(注:『一宮記』『甲斐名勝志』による。)貞観七年、社が創建され、まもなく官社となった。これより先、国司の言上には次のようにあった。「先年、本郡に暴風雨と雷鳴があり、雲霧が立ち込めて暗くなった。にわかに富士山の西峰が火を噴き、岩石を焼き砕いた。今年、神が本郡の擬大領(ぎだいりょう)である伴直真貞(とものあたいまさだ)に憑いて言うには、『我は浅間明神であるが、いまだ国の祭祀に預かっておらず、そのために凶変を示したのである。速やかに神祠を定め、あわせて祝(はふり)・禰宜(ねぎ)を任じるべきである』と。国司はそこで神の言葉に従い、郡家の南に祠を建て、真貞を祝とし、伴秋吉(とものあきよし)を禰宜として、季節ごとに祭祀を行わせ、また鎮謝させた。しかし怪異はなお止まなかった。そこで使者を遣わして検分させたところ、砂石が一千町ほどの海を埋め尽くし、仰いでその最も高い頂を望んだ。そこには神霊が神宮を構えており、四方に丹塗り青塗りの石を垣のように立て、高さ一丈八尺ほど、幅三尺、厚さ一尺余りであった。その間隔は一尺で、中には一重の石閣があり、彩色は美しく、言葉に尽くせないほどであった。よって官社に預かることを望み願う」と。ここに至ってこれを許可した。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:『一宮記』による。)

佐久神社(さくじんじゃ)。(注:現在は上向山村の佐久の地にあり、大宮明神と呼ばれる。)太古、海水が国中に氾濫した際、佐久神が山の岩を蹴り裂いて水を疏通させ、初めて平らな土地を得た。そのため佐久神を祀り、蹋霹神(ふみさくのかみ)と号したという。(注:『東海飼之国四姓之記』『裏見寒話』による。土地の人々は手力雄命(たぢからおのみこと)であると伝えている。)

弓削神社(ゆげじんじゃ)。もとは巨摩郡に属していた。(注:巨摩郡は本郡(八代郡)と隣接しており、おそらく延暦年間以後に郡境に変遷があったのであろう。社は現在、市川郷大門村にあり、弓削明神と呼ばれる。)弓削氏(ゆげうじ)の祖を祀るのであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。)延暦二十四年、官社に預かった。(注:『日本後紀』による。)昔、この国はしばしば梓弓(あずさゆみ)を貢いでいた。(注:『続日本紀』による。)また毎年の祈年祭には、槻弓(つきゆみ)八十張を貢いだ。(注:『延喜式』による。)これらはおそらく、いずれもこの国に住んでいた弓削氏の人々が製作したものであろう。

表門神社(うわとじんじゃ)。(注:現在は市川郷上野村にあり、御埼明神、または市川明神と呼ばれる。)

中尾神社(なかおじんじゃ)。(注:現在は中尾村にあり、飛永明神と呼ばれる。)

桙衝神社(ほこつきじんじゃ)。(注:現在は二宮村にあり、美和明神と呼ばれ、二宮と称する。)伝えによれば、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀るという。(注:『甲斐名勝志』による。)  以上の五座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

官帳不載者

比志神社(ひしじんじゃ)。現在は巨摩郡にある。(注:郡名は『甲斐名勝志』による。比志村にあり、比志権現と称する。)貞観五年、正六位上から従五位下に進んだ。

浅間神社(せんげんじんじゃ)。山梨郡にある。(注:現在は八代郡一宮村にあり、旧社地は神山の麓にあって山宮と称する。毎年三月に神輿をここに移して祭を行うという。)貞観七年、詔により八代郡に社を立てて浅間神を祀った。まもなくまた本郡(山梨郡)にも祭祀を行わせ、すべて八代郡に準じさせたが、それがすなわちこの社である。(注:『三代実録』による。)伴氏(とものうじ)が代々祭祀を奉じ、後世に至ってもなお神主を務めているという。(注:山宮の永禄年間の棟札による。)

檜岑神社(ひみねじんじゃ)。現在は八代郡にある。(注:上黒駒村の山中にあり、神座山権現(かみくらやまごんげん)と呼ばれる。その東南に檜峰(ひのみね)がある。現在は山宮があり、おそらくその旧社地であろう。)伝えによれば、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀り、素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大己貴命を合わせ祭るという。(注:「今在」以下は『甲斐名勝志』による。)貞観十年、従五位下を叙せられた。

船形神社(ふなかたじんじゃ)。

建岡神社(たておかじんじゃ)。

藤武神社(とうぶじんじゃ)。伝えによれば、建南方命(たけみなかたのみこと)を祀るという。(注:「相伝」以下は土地の人々の伝説による。)この三社は現在いずれも巨摩郡にある。(注:郡名は『甲斐国志』による。船形社は亀沢村にあり、社地には巨石が二つあって、一つを甕石(かめいし)、一つを船石(ふないし)という。建岡社は大八田村の建岡山にあり、藤武社は中丸村の藤武山にある。いずれも諏訪明神と称する。)光孝天皇の即位に際し、正六位上から従五位下を加えられた。仁和元年、建岡・藤武の二神もあわせてこれに準じられた。(注:『三代実録』による。)

広神社(ひろじんじゃ)。現在その所在はわからない。醍醐天皇の即位に際し、正六位上から従五位下となった。(注:『日本紀略』による。)

相模

足上郡一座

寒田神社(さむたじんじゃ)。(注:現在は松田総領にあり、神田明神と称する。)延喜の制では、小社に列せられている。

餘綾郡一座

川勾神社(かわわじんじゃ)。(注:現在は川勾村の隣村である山西村にあり、二宮明神と称する。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)後に本国の二宮と称された。源頼朝(みなもとのよりとも)がかつて神馬を奉納したことがある。(注:『東鑑』による。)

大住郡四座

前鳥神社(さきとりじんじゃ)。(注:現在は前取郷四宮村の宮台地にあり、四宮明神と称する。この地はもと真津岡前鳥村(まつおかさきとりむら)と称したという。)

高部屋神社(たかべやじんじゃ)。(注:現在は下糟屋村にあり、大住明神と呼ばれる。)

比比多神社(ひひたじんじゃ)。(注:現在は三宮村にあり、三宮明神と称する。近隣の村に日向郷日向村がある。日向はおそらく『和名抄』にいう日田郷であり、比比多とは音訓が相通じる。)

阿夫利神社(あふりじんじゃ)。(注:現在は大山町の雨降峰(あふりみね)にあり、石尊(せきそん)と呼ばれる。)大山祇命(おおやまつみのみこと)を祀る。(注:社伝による。)延喜の制では、この四座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)後に比比多社は三宮と称され、大明神の号を冠した。前鳥社は四宮と称され、前取大明神と呼ばれた。源頼朝はいずれの社にも使者を遣わして神馬を奉納した。(注:『東鑑』による。)

愛甲郡一座

小野神社(おのじんじゃ)。(注:現在は小野村にあり、閑香明神(しずかみょうじん)と呼ばれる。)延喜の制では、小社に列せられている。

高座郡六座

寒川神社(さむかわじんじゃ)。(注:「川」は「河」とも書く。現在は一宮荘宮山村にある。)大水上子寒川比古命(おおみなかみのこさむかわひこのみこと)・寒川比売命(さむかわひめのみこと)を祀るのであろう。(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』による。)承和十三年、従五位下を叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)斉衡元年、従四位下を加えられた。(注:『文徳実録』による。)貞観十一年、さらに一階を加えられた。光孝天皇の即位に際し、正四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜十六年、正四位上に昇った。(注:『扶桑略記裏書』による。)延喜式の制定に及んで、名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後に佐河大明神と称され、(注:『東鑑』による。)本国の一宮と称された。(注:『東鑑』『一宮記』による。)源頼朝以後、歴代の武家がこれを崇め奉り、幣帛や剣・馬を奉納した。(注:『東鑑』による。)

大庭神社(おおばじんじゃ)。(注:現在は大庭荘大庭村にあり、大庭天神と称する。)

深見神社(ふかみじんじゃ)。(注:現在は深見村にあり、鹿島明神と称する。)

宇都母知神社(うつもちじんじゃ)。(注:現在は打戻村にあり、打戻山大神宮と呼ばれる。)

有鹿神社(あるかじんじゃ)。(注:現在は海老名郷河原口村にあり、郷内全体の総鎮守となっている。村の北の磯部村には有鹿谷があり、毎年神輿をここに奉じて祭を行うが、これがおそらく旧社地であろう。)貞観十一年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:『三代実録』による。ただし諸本には従四位下とあるが、これは誤りである。今、『類聚国史』によって訂正した。)

石楯尾神社(いわたておじんじゃ)。天安元年、従五位下をもって官社に列せられた。(注:『文徳実録』による。)  以上五座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

武藏

荏原郡二座

蒲田神社(かまたじんじゃ)。(注:原本では「蒲」を「薭」に誤って作る。今『三代実録』『和名抄』によって訂正した。現在は蒲田郷北蒲田村にあり、八幡と呼ばれる。)

磐井神社(いわいじんじゃ)。(注:現在は不入斗村(いりやどむら)の鈴森にあり、鈴森八幡と称する。)貞観元年、従五位下をもって官社となった。(注:『三代実録』による。)  延喜の制では、この二座はともに小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

都筑郡一座

杉山神社(すぎやまじんじゃ)。(注:「杉」は「𣏰」とも書き、訓は同じである。現在、郡内には杉山の祠と称するものが数か所あり、いずれが本社であるか未詳である。あるいは八朔村にあるものが本社であろうか。ここに付記して後の考証を待つ。)承和五年、霊験があったことにより官幣に預かった。嘉祥元年、従五位下を叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

多磨郡八座

阿伎留神社(あきるじんじゃ)。(注:あるいは「畔切」とも書く。現在は秋留郷五日市村にある。)光孝天皇の即位に際し、正五位下勲六等から従四位下を授けられた。

小野神社(おのじんじゃ)。(注:現在は本宿村の小野宮の地にある。)天平勝宝七年、官幣に預かった。(注:『神道寄書』が引く宝亀三年の官符による。)光孝天皇の即位に際し、従五位上から正五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

布多天神社(ふだてんじんしゃ)。(注:もとは上布田駅の古天神の地にあったが、後に駅中の上宿の北に移った。)

大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)。(注:現在は三田郷御嶽山にあり、建久三年の古鏡を蔵する。その銘には「武蔵国大円天神」とある。あるいは大丸村にあり丸宮明神と呼ばれるものがこれであるともいう。いずれが正しいか未詳であり、後の考証を待つこととする。)久慈慈真智命(くじしまちのみこと)を祀る。

阿豆佐味天神社(あづさみてんじんしゃ)。(注:現在は殿谷村にあり、近隣の村である奈良橋村では阿豆佐美里(あづさみのさと)と呼ぶという。)

穴澤天神社(あなさわてんじんしゃ)。(注:現在は矢野口村にある。)

虎柏神社(とらかしわじんじゃ)。(注:現在は佐須村にある。村には祇園寺があり、虎柏山と称するが、これはその名残であろう。)

青渭神社(あおいじんじゃ)。(注:現在は深大寺村にあり、青波天神と呼ばれるものが、おそらくこれである。あるいは沢井村にあるともいう。)  延喜の制では、この八座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

足立郡四座

冰川神社(ひかわじんじゃ)。(注:現在は大東駅の東、高鼻村にあり、冰川明神と称する。)伝えによれば、素戔嗚尊(すさのおのみこと)および稲田姫命(いなだひめのみこと)・大己貴命を祀るという。(注:社伝、『神名帳頭注』、『一宮記』、『熊耳集』による。)おそらく武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)が奉祀したものであろう。(注:『旧事本紀』『続日本紀』の大意を参酌した。)天平神護二年、本国の封三戸が充てられた。(注:『新抄格勅符』による。)貞観元年、従五位下から従五位上に進んだ。五年には正五位下に進んだ。(注:原本には元の位階を従五位下とするが、これは誤りである。)七年には従四位下を加えられた。十一年には正四位下に進んだ。元慶二年には正四位上に昇った。(注:『三代実録』による。)延喜の制では名神大社に列せられ、四度の官幣に預かった。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:『一宮記』による。)その神主には岩井・角井などの一族があり、角井はすなわち物部氏であるという。(注:『熊耳集』『行嚢抄』『新編武蔵風土記』による。本国の国造の一族には物部直氏があり、また本国には出雲・磐井・物部・天神などの社があるが、これらはおそらくいずれも国造の一族が祀ったものであろう。物部・磐井などの諸氏は、あるいはその神の子孫として祭祀を奉じているのであろうか。ここに付記して考証に備える。)

足立神社(あだちじんじゃ)。(注:現在は水判土荘水判土村にある。)武蔵宿禰(むさしのすくね)の祖である天穂日命(あめのほひのみこと)を祀るのであろう。その子孫は代々本郡の大領(だいりょう)を務めた。(注:『日本書紀』『続日本紀』『類聚国史』『延喜式』の大意を参酌した。)

調神社(つきじんじゃ)。(注:現在は浦和駅南岸村にあり、俗に月読明神と称する。「調」と「月」は訓が通じるため、誤って伝わったのであろう。)

多気比売神社(たけひめじんじゃ)。(注:現在は篠津村にあり、姫宮と称する。)  以上三座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

橫見郡三座

横見神社(よこみじんじゃ)。(注:現在は上細谷村にあり、飯玉冰川明神と呼ばれるものが、おそらくこれである。)

高負比古神社(たかおひこじんじゃ)。(注:現在は田甲村にあり、玉鉾冰川明神と呼ばれる。)天平勝宝七年、官幣に預かった。(注:『神道寄書』が引く宝亀三年の官符による。)

伊波比神社(いわいじんじゃ)。(注:「波」は「陂」とも書く。現在は黒岩村にあり、岩井八幡と呼ばれる。)大己貴命を祀るのであろう。(注:『延喜式』『神名帳頭注』による。)嘉祥二年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)  以上三座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

入間郡五座

出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)。(注:現在は北野村の物部天神社の境内にある。)大己貴命を祀る。(注:『神名帳頭注』による。)天平勝宝七年、官幣に預かった。宝亀三年、本郡の正倉(しょうそう)が火災にあった。これを占ったところ、「近年、国がしばしば幣帛の奉納を欠いたため、神がこの災いをもたらしたのである」と出た。そこで勅により「もとのとおり幣帛を奉れ」とされた。(注:『神道寄書』が引く宝亀三年の官符による。)

中冰川神社(なかひかわじんじゃ)。(注:現在は冰川村の西北、三箇島村にあり、長宮明神と呼ばれる。)稲田姫命を祀り、素戔嗚尊・大己貴命を配祀する。(注:『神名帳頭注』『新編武蔵風土記』を参照した。『風土記』には三神のほかに少彦名命を加えるが、これはおそらく後世の附会に出たものであろうから、採らない。)

広瀬神社(ひろせじんじゃ)。(注:現在は高麗郡上広瀬村にある。)祀る神は大和国の広瀬神と同じである。(注:『新編武蔵風土記』による。)文徳天皇の即位に際し、官社に列せられた。(注:『文徳実録』による。)

物部天神社(もののべてんじんしゃ)。(注:現在は北野村にあり、武士天神と呼ばれる。)物部直(もののべのあたい)の祖である天穂日命を祀るのであろう。(注:『旧事本紀』『続日本紀』『延喜式』による。)

国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)。(注:一本には「神」の字がない。現在は北野村の物部天神社の境内にある。)  以上五座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

埼玉郡四座

前玉神社(さきたまじんじゃ)二座。(注:現在、一座は埼玉村にあり浅間社と称し、もう一座は曲巣村宮前にあり久伊豆社(ひさいずしゃ)と称する。)大己貴命・前玉比売命(さきたまひめのみこと)を祀るのであろう。(注:『古事記』『延喜式』および土地の人々の伝説による。)建久五年、鎌倉は久伊豆宮の神人らが争ったことにより、使者を遣わして詮議させた。(注:『東鑑』による。)これがすなわちこの社である。

玉敷神社(たましきじんじゃ)。(注:現在は騎西領騎西町にあり、領内全体の総鎮守となっている。)伝えによれば、大己貴命を祀るという。(注:『武蔵式社考』による。)

玉敷神社(たましきじんじゃ)。(注:現在は騎西領騎西町にあり、領内全体の総鎮守となっている。)伝えによれば、大己貴命を祀るという。(注:『武蔵式社考』による。)

男衾郡三座

小被神社(おぶすまじんじゃ)。(注:現在は富田村にある。)

出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)。(注:現在は板井村にあり、冰川社と称するものが、おそらくこれである。)大己貴命を祀るのであろう。(注:『神名帳頭注』『兼永本神名式附注』による。)

稲乃売神社(いなのめじんじゃ)。(注:現在は木持村にあり、冰川社と称するものが、おそらくこれである。)  以上三座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

播羅郡五座

白髪神社(しらがじんじゃ)。(注:現在は妻沼村にあり、白髪明神と称する。古くは太我井森(たがいのもり)にあったが、後に現在の地に遷った。)

田中神社(たなかじんじゃ)。(注:現在は三箇尻郷宮島村にあり、田中天神と称する。)大己貴命の四世の孫である健甕尻命(たけみかじりのみこと)を祀る。(注:『旧事本紀』および土地の人々の伝説による。)

楡山神社(にれやまじんじゃ)。(注:現在は原郷村八日市にあり、熊野社と称し、一郡全体の総鎮守となっている。)

奈良神社(ならじんじゃ)。(注:現在は中奈良村にあり、奈良郷全体の総鎮守で、奈良明神と称する。)伝えによれば、下毛野国造(しもつけののくにのみやつこ)の奈良別命(ならわけのみこと)を祀るという。(注:『旧事本紀』『姓氏録』および土地の人々の伝説による。)文徳天皇の即位に際し、官社に列せられた。これより先、国司の言上には次のようにあった。「古記を調べると、『慶雲二年、この神が光を放ち、まるで火が燃え盛るようであった。その後、陸奥に夷賊の乱があり、兵を発して征討した。軍士は神霊を奉じて転戦して進み、向かうところ敵なしであった。老弱の者も従軍していたが、みな死傷を免れた。和銅四年には、社の中に突然涌き水が出て、田六百余町を潤した。また疫病があるたびに、祈願すればたちまち霊験があった』とある。人命に関わることであるので、崇め奉ることを願い出る」と。ここに至ってこれに従った。(注:『文徳実録』による。『続日本後紀』によれば、嘉祥二年に奈良神が官社に預かったとあり、こちらにも同様の記事がある。おそらくどちらか一方に誤りがあるのであろう。)  以上四座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

賀美郡四座

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)。(注:現在は長幡郷長浜下郷村にあり、長幡部五所明神と呼ばれる。)長幡部連(ながはたべのむらじ)の祖である神大根王(かみおおねのみこ)を祀るのであろう。(注:『古事記』『延喜式』による。)

今城青八坂稲実神社(いまきあおやさかいなみじんじゃ)。天平勝宝七年、官幣に預かった。(注:『神道寄書』が引く宝亀三年の官符による。原本には「坂」を「尺」に作る。)

今木青坂稲実荒御魂神社(いまきあおさかいなみあらみたまじんじゃ)。

今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ)。(注:今城の三社は、現在いずれも長浜村にあり、榛名明神と呼ばれる。一説には、稲実社は七本木村にあり榛名宮神社と称し、荒御魂社は堤村にあり熊野三社権現と称し、池上社は忍保村にあり稲荷明神と称するという。あるいは、この三座はいずれも長幡部社に合祭されているともいう。いずれが正しいか未詳である。)延喜の制では、この四座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

秩父郡二座

秩父神社(ちちぶじんじゃ)。(注:現在は大宮郷にある。)知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)を祀るのであろう。(注:『旧事本紀』により、『新編武蔵風土記』を参照した。)貞観四年、正五位下勲七等から正五位上に進んだ。十三年には従四位下を加えられた。元慶二年には従四位上から正四位下に昇った。(注:『三代実録』による。)正和二年、本郡の人である中村行卿(なかむらゆきのり)は祠宇が破損していたため、鎌倉に次のように願い出た。「本社の修造用材は、本国の目代(もくだい)が郡内の地頭に分担して課してきた。その工費は本郡の勘料(かんりょう)および秩父の牧馬をもって充ててきた。このことは歴代の教書に記載されており、すでに旧例となっている。この先例により施行されたい。」(注:神主園田氏が所蔵する文書による。)

椋神社(むくじんじゃ)。貞観十三年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)  以上二座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

兒玉郡一座

金佐奈神社(かなさなじんじゃ)。(注:現在は金鑽郷金鑽村にあり、金鑽明神と称し、近隣二十二村の総鎮守となっている。社の後方に金華という山があり、古い銅鉱がある。おそらく山中で銅を採ったことから、これを神として祀ったのであろう。陸奥国の八溝黄金社の例と同様である。ここに付記して考証に備える。)貞観四年、正六位上をもって官社に預かった。まもなく従五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

大里郡一座

高城神社(たかぎじんじゃ)。(注:現在は熊谷駅にあり、高城明神と称する。)高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祀るのであろう。(注:『古事記』『日本書紀』『巡礼旧神祠記』による。)すなわち秩父国造の遠祖である。(注:『日本書紀』『旧事本紀』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

比企郡一座

伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)。(注:現在は伊子村にあり、淡洲明神と呼ばれる。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

那珂郡一座

瓺蕤神社(みかぬしじんじゃ)。(注:現在は広木村にあり、瓺蕤明神と称し、本郡の鎮守となっている。)大物主櫛瓺玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)を祀るのであろう。延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

官帳不載者

倭文一神社(しとりいちじんじゃ)。

若電神社(わかいかづちじんじゃ)。

伊多之神社(いたしじんじゃ)。

河輪神社(かわわじんじゃ)。

稲聚神社(いなずめじんじゃ)。(注:「聚」は「取」とも書く。)  右の五座は、現在その所在が詳らかでない。天安元年、正六位上であった倭文一神に従五位下を加えられた。(注:『文徳実録』による。)貞観六年、従五位下であった若電神に従五位上を加えられた。七年には伊多之神もこれに準じて叙せられた。十七年には、正六位上であった河輪・稲聚の二神にそれぞれ従五位下を加えられた。(注:『三代実録』による。)

安房

安房郡二座

安房坐神社(あわにますじんじゃ)。(注:現在は大神宮にある。)天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀る。(注:『古語拾遺』による。)天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を配祀する。(注:安房社の由緒書による。金丸家(かなまるけ)の家系によれば、本社には古くは二つの社殿があり、本殿は宮谷にあって天太玉命を祀り、前殿は女良崎にあったが、後に天富命(あめのとみのみこと)を合祭したという。文意がはなはだ詳らかでないため、ここでは疑いを残し、後の考証を待つこととする。)太祖(神武天皇)の即位の後、天太玉命の孫である天富命が阿波の忌部(いんべ)を率いて東国を巡行し、穀物や麻を植え、この地に社を建てて祀った。これを安房社という。(注:『古語拾遺』による。)その娘である飯長姫命(いいながひめのみこと)を斎主とし、由布津主命(ゆふつぬしのみこと)を司(つかさ)とした。由布津主は天日鷲命の孫で、飯長姫を娶って堅田主命(かたたぬしのみこと)を生み、これが本国忌部氏の祖となった。その子孫は代々本社の祝部(はふりべ)を務めた。(注:安房社の由緒書による。)景行天皇が東国を巡幸された際、本国の浮島宮に滞在された。その時、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)が御膳を供奉し、安房大神を御食神(みけつかみ)としたが、これがすなわちこの神である。(注:『本朝月令』が引く『高橋氏文』による。)大同元年、これより先、本郡を神郡(しんぐん)とし、(注:神郡は『令集解』による。)また封九十四戸を充てていたが、この時さらに十戸を加えた。(注:『新抄格勅符』による。)承和三年、従五位下を叙せられた。九年には正五位下を加えられた。十四年には、大神および配祀の神に正税一百斛を加えて充てられた。(注:『続日本後紀』による。原本には「大神」を「火神」に作るが、誤りである。今、一本によって訂正した。)仁寿二年、特に従三位を加えられた。(注:『文徳実録』による。)貞観元年、勲八等をもって正三位に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制では名神大社に列せられ、四度の官幣に預かり、神郡も従来どおり置かれた。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:『一宮記』による。)

后神天比理乃咩命神社(きさきがみあめのひりのめのみことじんじゃ)。初めは洲神(すのかみ)といった。(注:「天」は「大」とも、「乃」は「刀」とも書く。『東鑑』には須宮、あるいは洲埼社とある。金丸家の家系によれば、本社には二つの社殿がある。拝殿は一宮といい、洲埼村の御手洗山にある。奥殿は二宮といい、洲宮村の魚尾山にある。二つの殿があって一つの社号を称するのは、今もこのとおりである。)天太玉命の妃である天比理乃咩命を祀る。(注:『古語拾遺』『延喜式』および金丸家の家系による。)天太玉命を配祭する。(注:洲埼社の由緒書、洲宮社記による。この二書によれば配祀の神はさらに三座あるというが、おそらく後世に出たものであろう。そのため今は採らない。)承和九年、従五位下を叙せられた。(注:『文徳実録』による。)貞観元年、勲八等をもって正三位に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)源頼朝はとりわけこの神を崇敬した。挙兵の当初、神田を奉納して武士が味方につくことを祈願した。まもなく社司の訴えにより、在庁官に命じて神地の課役を免除させた。後にまた人を遣わして幣帛を奉納した。(注:『東鑑』による。)

朝夷郡四座

天神社(てんじんしゃ)。(注:もとは白浜村片倉の地にあったが、後に安房郡瀧口村に移り、天神宮と呼ばれる。)伝えによれば、天富命を祀るという。(注:金丸家の家系による。)

莫越山神社(なこしやまじんじゃ)。(注:現在は安房郡瀧口村にあり、瀧口明神と称するものが、おそらくこれである。ただし郡界が『延喜式』の記載と合わない。一説には牧田村にあるという。)伝えによれば、天日鷲命を祀るという。(注:金丸家の家系による。『一宮巡弋記』では彦狭知命(ひこさしりのみこと)とする。)神の子孫である忌部氏が代々神主を務めた。(注:元和年間の棟札による。)

高家神社(たかべじんじゃ)。(注:現在は南朝夷村にある。)おそらく大膳職(だいぜんしき)が祀る高倍神(たかべのかみ)と同じ神であろう。(注:『政事要略』『年中行事秘抄』がいずれも『高橋氏文』を引くことによる。「高家」と「高倍」は音訓が相通じる。)  以上四座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

上總

埴生郡一座

玉前神社(たまさきじんじゃ)。(注:「前」はあるいは「埼」とも書く。現在は長柄郡一宮本郷村にあり、玉前明神と称する。『諸神鎮座記』には大己貴命を祀るとあるが、これはおそらく「玉前」を「前玉」と解して幸魂(さきみたま)に附会したものであり、信じるに足りない。『神名帳頭注』『一宮記』では高皇産霊命の孫である玉前命(たまさきのみこと)とするが、玉前命という名は古書には見えない。あるいは海神(わたつみ)である玉依姫(たまよりひめ)を祀るともいうが、これも確かな根拠はない。『古今著聞集』には、延久二年に本国一宮の神が人に憑いて、身ごもって三年ののちに明珠(めいしゅ)を産んだと語ったことが載っており、女神であるかのようである。しかしその話は怪異であって、信じるに足りない。)貞観十年、従五位上勲五等から従四位下に進んだ。元慶元年、従四位上から正四位下を加えられた。(注:原本には「下」を「上」に作るが、今、下文によって訂正した。)光孝天皇の即位に際し、正四位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:『一宮記』による。)寿永の初め、上総権介(かずさのごんのすけ)平広常(たいらのひろつね)が甲(よろい)一領を奉納し、源頼朝のために祈願し、あわせて神田二十町および流鏑馬(やぶさめ)を万度行うことを誓い、また神殿を修繕して報謝した。頼朝はまもなく広常の子である良常(よしつね)を遣わして幣帛を奉納させたが、後に頼朝は猜疑心から広常を殺し、人を遣わして本社を探らせたところ、広常が捧げた祈願の言葉を見つけ、大いに悔やんだという。寛喜元年、藤原頼経(ふじわらのよりつね)が剣と馬を献じ、天変を祓い鎮めた。(注:『東鑑』による。)

長柄郡一座

橘神社(たちばなじんじゃ)。橘樹神(たちばなのかみ)ともいう。(注:『三代実録』による。現在は二宮荘本納村にあり、橘明神と称する。)弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)を祀り、日本武尊(やまとたけるのみこと)および忍山宿禰(おしやまのすくね)を合祀する。(注:橘社記による。)日本武尊が東征の際、相模の海を渡ろうとして暴風と大波の難に遭った。妃の弟橘姫は「これはきっと海神の意志であろう。私が身をもって王の命に代わりましょう」と言い、ついに自ら海に身を投げた。すると風はやんだ。(注:『日本書紀』による。)後にその遺骸を得て、これを収めて墓を築いたのが、すなわち本社の所在地である。(注:橘社記による。)元慶元年、従五位上勲五等から正五位下に進んだ。光孝天皇の即位に際し、正五位上を加えられた。(注:『三代実録』による。原本には「福神」に作るが、誤りである。今、一本によって訂正した。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

海上郡二座

島穴神社(しまあなじんじゃ)。(注:現在は市原郡島野村島穴の地にあり、島野明神と称する。)伝えによれば、級長津彦命(しなつひこのみこと)を祀るという。(注:『巡礼旧神祠記』による。)日本武尊の東征の折に創祀されたものであるという。(注:社伝による。)

姉埼神社(あねさきじんじゃ)。(注:「埼」はまた「前」とも書く。現在は島野村の隣村である姉埼村の宮山にあり、姉埼明神と称する。)伝えによれば、級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀るという。(注:『巡礼旧神祠記』および土地の人々の伝説による。)元慶三年、この二座はいずれも従五位上勲五等から正五位下に進んだ。光孝天皇の即位に際し、姉埼神には正五位上が加えられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、この二座はいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

望陀郡一座

飫富神社(おふじんじゃ)。(注:「飫」は諸本では「飯」に作るが、誤りである。今、一本に従った。社は現在、飯富村にあり、飯富明神と称する。)長狭国造(ながさのくにのみやつこ)の祖である神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀るのであろう。(注:『古事記』『延喜式』による。)元慶元年、従五位上勲五等から正五位下に進んだ。光孝天皇の即位に際し、正五位上を加えられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

官帳不載者

前広神社(まえひろじんじゃ)。

神代神社(じんだいじんじゃ)。

高瀧神社(たかたきじんじゃ)。伝えによれば、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を祀るという。(注:「伝言」以下は古老の伝説による。)  右の三座は、現在いずれも市原郡にある。(注:郡名は『房総志料』『神名帳考証土代』による。前広社は西広村にあり、神代社は神代村神代台にあり、高瀧社は高瀧荘賀茂村にあって加茂神社と呼ばれる。)貞観十年、この三座はいずれも正六位上から従五位下を授けられた。元慶元年、神代神は従五位上に進んだ。(注:原本には「代」を「氏」に作るが、誤りであり、今訂正した。また位階を進めたのは五月のことである。しかしこの年の閏二月の条にも、正六位上であった神代神に従五位下を授けたと書かれており、上の文とまったく同じであるので、おそらく衍文であろう。)

常世神社(とこよじんじゃ)。現在は周淮郡にある。(注:郡名は『房総志料』による。常代村にあり、黒羽神社と称するものが、おそらくこれである。)元慶元年、正六位上から従五位下を授けられた。

建市神社(たていちじんじゃ)。現在は市原郡にある。(注:郡名は『房総志料』による。武士村の山上にある。)

田原神社(たわらじんじゃ)。現在は望陀郡にある。(注:郡名は『房総志料』による。俵田村にある。)光孝天皇の即位に際し、この二神はいずれも正六位上から従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。)

下總

香取郡一座

香取神宮(かとりじんぐう)。(注:現在は郷取郷にある。)経津主命(ふつぬしのみこと)を祀る。一名を斎主命(いわいぬしのみこと)、また斎之大人(いわいのうし)ともいう。(注:「斎」は「伊波比」とも書く。『日本書紀』『古語拾遺』による。)御統瓊(みすまるのたま)を神体とする。(注:香取神記による。)経津主命は武甕槌命(たけみかづちのみこと)とともに葦原中国を平定し、ついに東国を鎮めた。その元勲偉績は並ぶものがない。(注:『日本書紀』による。)そのため歴代の朝廷がこれを崇め奉り、明神として祀った。(注:『日本書紀』『延喜式』による。)本郡を神郡として奉った。(注:『令集解』による。)藤原氏が春日社を創建するに及んで、この神を遷し祭った。後に本社もまた武甕槌命・天児屋命(あめのこやねのみこと)および比売神(ひめがみ)を配祀した。(注:『伊呂波字類抄』『帝王編年記』『香取神記』の大意を参酌した。)これを香取四所明神と号する。(注:香取社文書による。)宝亀八年、これより先、内大臣藤原朝臣良継(ふじわらのあそんよしつぐ)が病気平癒を祈願したことにより、四位上を授けられたが、これは本社を氏神として奉じていたためである。(注:『続日本紀』による。)大同元年、本国の封七十戸を定めた。(注:『新抄格勅符』による。)弘仁三年、これより先、殿舎は二十年ごとに改造するのが例であったが、この時、正殿を除いては破損に応じて修理する制と定められた。(注:『日本後紀』による。)承和三年、従三位から正二位に進んだ。六年には従一位を加えられ、(注:『続日本後紀』による。)後に勲一等を叙せられた。元慶六年、勅により本国の神税の稲を神宮の雑舎造営費に充てさせた。(注:『三代実録』による。)およそ宮の造営には中臣氏を使いに充てるのが、(注:中臣本系帳による。)恒例となっていた。延喜の制では名神大社に列せられ、四度の官幣に預かった。神郡は従来どおり奉られた。毎年二月、官を遣わして祭祀を行わせた。その幣物は内蔵寮(くらりょう)がこれを供した。その使者の名簿は、春日祭の二十日前に大臣が内蔵寮に下し、寮が史生(ししょう)を選んで幣物を準備させ、期日になって発遣させた。鹿島宮もこれと同様であった。その宮司・禰宜は各一人で、いずれも当色(とうじき)一具を給された。物忌(ものいみ)二人には、それぞれ夾纈(きょうけち)の浅緑・紫纈の縹(はなだ)などの帛(きぬ)および絹綿を給した。楽人六人、舞人八人にも装束を給した。楽工の装束は国司に命じて調達させた。もし不備があれば、その解由(げゆ)を留め置いた。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:『神道集』『一宮記』による。)

養和の初め、源頼朝は本国の下福田郷を奉納し、神の加護を祈った。(注:香取社文書による。)翌年、またも使者を遣わして幣帛を奉納した。(注:『東鑑』による。)そもそも藤原氏は本社および鹿島神を崇め奉り、氏神と称していた。(注:『続日本紀』による。)その勢威を得るに及んでは、その一族の女子が皇后に立てられるときや、新たに大臣に任じられる者があるときには、必ず使者を遣わして神封および金銀・白妙(しろたえ)の幣・朝服・笏などの品を二社に奉納するのを恒例とした。皇后の皇子誕生を願うときにも、必ずこれを祈願した。前後して本社に奉納された封戸は、多いときには十戸、少ないときでも五戸を下ることはなく、いずれも本国にあった。(注:『平記』『小右記』『左経記』による。)およそ神領の事務も、藤原氏の長者(ちょうじゃ)が取り扱うところであった。鎌倉時代になると、地頭らが神主を軽んじ侮り、あるいは田宅を横領し、租税を差し止め、あるいは賄賂を貪って勝手に神官を改め補任した。藤原氏はこれを制止することができず、鎌倉幕府に命じてこれを糾正させた。多少は安堵を得たものの、結局は侵害を免れることはできなかった。寛元以後になると、本郡にある神領は十余村に過ぎなかったという。(注:香取社文書による。)仁治二年、朝廷は使者を遣わして幣帛を奉納し、鹿島神宮の火災について謝罪させた。(注:『百錬抄』による。)正平七年、足利尊氏は本国の戸頭郷を奉納した。(注:香取社文書による。)社司の香取連(かとりのむらじ)は神の子孫として代々世襲していたが、五百島(いおしま)の代に至って嗣子が絶え、大中臣清暢(おおなかとみのきよのぶ)を養子として職を継がせた。それ以後、代々大宮司に補任され、後裔の真房(さねふさ)に至って、子孫はまた大禰宜・大行事の二流に分かれた。(注:香取大宮司系図による。)

本社が管轄する摂社はおよそ三十余社あり、(注:香取神宮末社記による。)いずれも郡内にある。その中で又見社(またみしゃ)と称するものは、(注:現在は本宮の西、又見村にある。)経津主命の子である天苗加命(あめのなえますのみこと)、および武甕槌命の子である武沼井命(たけぬいのみこと)、天児屋命の子である天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀る。(注:香取社文書、『香取志』を参照した。)鷹房社(たかふさしゃ)は、(注:現在は本宮の南、山田村にある。)建葉槌命を祀るという。(注:香取神宮末社記による。)

千葉郡二座

寒川神社(さむかわじんじゃ)。(注:現在は三山村にあり、三山明神と称する。)おそらく相模国の寒川社が祀る神と同じ神であろう。(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』による。)

蘇賀比咩神社(そがひめじんじゃ)。(注:現在は池田郷曾我野村にあり、春日明神と称する。『姓氏録』『続日本紀』によれば、孝元天皇の皇別に池田・蘇我の二氏がある。今、本社の地名によってこれを考えるに、あるいはその一族でこの地に住んだ者が奉祀したものであろう。ここに付記して考証に備える。)  以上二座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

匝瑳郡一座

老尾神社(おいおじんじゃ)。(注:現在は老尾村にあり、匝瑳明神と呼ばれる。この村はおそらく古代の匝瑳郷の地であろう。)匝瑳連(そうさのむらじ)の祖である物部小事連(もののべのおことのむらじ)を祀るのであろう。小事はかつて東国を征討して功があり、詔によって匝瑳の地を賜り、その功を表彰された。子孫は代々この地に住み、そのため小事を祀ったのである。(注:『続日本後紀』『延喜式』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)今に至るまで匝瑳氏が代々祭祀を奉じているという。(注:『巡礼旧神祠記』による。)

印幡郡一座

麻賀多神社(まがたじんじゃ)。(注:現在は公津郷台方村の稷山(きびやま)の上にあり、麻賀多明神と称する。)印波国造(いんばのくにのみやつこ)の祖である伊都許利命(いつこりのみこと)を祀るのであろう。(注:『旧事本紀』により、本社の伝説を参酌した。社伝によれば、応神朝に伊都許利命が初めて稚産霊命(わかむすひのみこと)を祀り、現在その摂社に印波国造の祠があるという。思うに、後世の社司がその本末を取り違え、また稷山の名にちなんで稚産霊命に附会し、ついにこれを主神としてしまったのであろう。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

結城郡二座

高椅神社(たかはしじんじゃ)。(注:「椅」は「埼」、また「掎」とも書き、あるいは「橋」とも書く。「椅」と「橋」は訓読が同じである。社は現在、下野国都賀郡高橋村にあり、高橋明神と称する。)高橋朝臣(たかはしのあそん)の祖である磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)を祀るのであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。)六雁は大彦命(おおひこのみこと)の孫で、景行天皇に従って東国に赴き、東国の国造らが進上した膳(かしわで)を統轄し、膳職(かしわでのつかさ)に奉仕した。(注:『日本書紀』『政事要略』『本朝月令』がいずれも『高橋氏文』を引くことによる。)

健田神社(たけだじんじゃ)。(注:現在は結城本郷小塙村にあり、健田大神宮と称する。旧社地はその東方の田の間にあった。)竹田臣(たけだのおみ)の祖である武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を祀るのであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。)武渟川別は大彦命の子である。崇神天皇の御代、東海を巡撫して功があった。(注:『日本書紀』による。)その子孫は東国に領地を受けた。(注:『旧事本紀』による。)  以上二座は、延喜の制ではともに小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

岡田郡一座

桑原神社(くわばらじんじゃ)。(注:現在は国生村にあり、香取明神と呼ばれる。)桑原臣(くわばらのおみ)の祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀るのであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。地図によれば、本郡には蔵持村があり、おそらく古代の車持君(くるまもちのきみ)が住んだ地であろう。車持氏は桑原臣と同じく豊城命から出ている。そのため、今はひとまずこの二書によって神名を挙げた。社伝では天熊大人(あめのくまうし)を祀るというが、何によるのか未詳であるため、今は採らない。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

葛飾郡二座

茂侶神社(もろじんじゃ)。(注:現在は三輪山村にあり、三輪明神と呼ばれる。)貞観十三年、従五位下から従五位上に進んだ。元慶三年、正五位下から正五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

意富比神社(おおひじんじゃ)。(注:今の世では五日市場村の船橋神明を本社とみなしている。しかし社司が所蔵する文書を調べると、意富比社は「覆宮(おおいのみや)」とも書かれている。承久年間に千葉満胤(ちばみつたね)が神明の祠に神領を寄進した際の文書には、その四至を挙げて「東は覆宮の塚を限り、南は海を限る」などとある。これによれば、本社は神明と近接してはいるものの、社域は別であったことがわかる。また『神鳳抄』および社記によれば、神明の祠はもと夏見村にあった。夏見はすなわち船橋御厨(ふなばしみくりや)二百町の域内にあり、後に祠を現在の地に遷したという。これによれば、当時はおそらく神明を本社に合祭していたが、後世に社号が次第に隠れて、神明の名だけが著れるようになったのであろう。ここに付記して考証に備える。)貞観五年、従五位下から正五位下に進んだ。十三年にはさらに一階を加えられた。十六年には従四位下に至った。(注:『三代実録』による。)  以上二座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

相馬郡一座

蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)。(注:現在は市川荘立木村にあり、文間明神(もんまみょうじん)と呼ばれる。)伝えによれば、罔象女(みつはのめ)・埴山姫(はにやまひめ)の二神を祀るという。(注:本社の伝説による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

官帳不載者

子松神社(こまつじんじゃ)。現在は香取郡にある。(注:『香取志』による。神埼村双生山にあり、神埼神社と呼ばれる。)香取神宮が管轄する社である。(注:神埼社文書による。)元慶三年、正六位上から従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。)承平二年、勅により祠宇を修造し、子松・多賀などの村の田三十余町を奉納して社号に代えたため、子松の名はついに絶えてしまった。おおよそ社殿は二十一年ごとに改造される。大中臣氏(おおなかとみうじ)が代々社事を掌ったという。(注:神埼社文書による。)

常陸

鹿島郡二座

鹿島神宮(かしまじんぐう)。(注:現在は鹿島郷にある。)武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る。(注:『古語拾遺』『続日本後紀』による。諸書には「建御賀豆知(たけみかづち)」とも書く。「賀豆」はまた「加都」とも書く。)一名を建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、また建布都神(たけふつのかみ)ともいい、あるいは豊布都神(とよふつのかみ)とも称する。(注:『古事記』による。)世に香島天之大神(かしまのあめのおおかみ)と称し、その社を豊香島宮(とよかしまのみや)という。(注:『常陸風土記』による。)この神はすでに国土開拓の功の宗(かなめ)であり、その勲功は盛んで大きい。その威徳は東の果てにまで及び、蝦夷の風俗を鎮め服させ、その威霊の遠く及ぶところ、万世にわたって人々はこれに頼っている。(注:『日本書紀』『三代実録』『常陸風土記』『延喜式』の大意を参酌した。)崇神天皇の御代、神が大坂山の上に現れ、霊妙な教えがあるかのようであった。大中臣神聞勝命(おおなかとみのかみききかつのみこと)が天皇に「これは鹿島大神が国を治める事について天皇に教え諭しているのです」と申し上げた。天皇は畏れ慎み、そこで使者を遣わして鉄弓・鉄箭・刀桙(たちほこ)・許呂(ころ)・鉄・錬鉄・馬、および鞍・八咫鏡(やたのかがみ)・五色の絁(あしぎぬ)などの品を奉り、神戸(かんべ)八烟(はちえん)を充てた。(注:神戸を充てたことについて、原本にはその時代が詳らかでないが、今はひとまずここに記した。)景行天皇の御代、中臣臣狭山命(なかとみのおみさやまのみこと)が神の教えによって舟三隻を造り、これを献じた。それ以後、毎年七月に舟を津宮(つのみや)に納めるのを例とした。孝徳天皇は封五十戸を増した。大化五年、大乙上(だいおつじょう)中臣子(なかとみのこ)・大乙下(だいおつげ)中臣部兎子(なかとみべのうさぎこ)らが、総領である高向臣(たかむこのおみ)に願い出て、下総国海上国造(うなかみのくにのみやつこ)の管内である軽野(かるの)以南の一里、那賀国造(なかのくにのみやつこ)の管内である寒田(さむた)以北の五里を割いて、別に神郡を置いた。郡内にはまた坂戸(さかと)・沼尾(ぬまお)の二社があった。坂戸社は天児屋命を祀り、沼尾社は経津主命を祀り、(注:祭神は鹿島社例伝記による。坂戸社は現在坂戸村にあり、沼尾社は沼尾村にある。)本社と合わせてこれを香島大神という。天智天皇の御代、使者を遣わして社を修造し、その後も相継いで官によって修造された。天武天皇は封九戸を加え、後に二戸を減じ、前と合わせて六十五戸とした。(注:『常陸風土記』による。)和銅二年、詔により神霊を大和の春日山に分けて祀らせた。それは京から遠く隔たっていたためである。(注:『神宮雑例集』『伊呂波字類抄』『大鏡』を参照した。)宝亀八年、内大臣藤原良継(ふじわらのよしつぐ)の病気平癒を祈願したことにより、正三位を叙せられた。(注:『続日本紀』による。)延暦五年、本国の封一百五戸を加えられた。かつて廃帝(淳仁天皇)の御代より、本社の神賤(しんせん)を神戸に編入し、前後して良民となった者は一千一百四十余人であった。(注:「初自」以下は『続日本紀』による。)この時に至って神賤五十烟(えん)、課丁(かちょう)六百八十五人、不課丁(ふかちょう)二千六百七十六人があった。(注:『新抄格勅符』による。)弘仁三年、これより先、殿舎は二十年ごとに改造するのを永年の例としていたが、この時、正殿を除いては破損に応じて修理する制と定められた。(注:『日本後紀』による。)承和三年、従二位勲一等から正二位に進んだ。六年には従一位を加えられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観八年、神宮司が言上した。「神宮の造営には、そのたびに材木を那賀郡から採っています。宮から二百余里も離れており、道は険しく、運搬にたいへん苦労しています。今、宮の辺りには空き地が多いのを見ますので、樹木を植えてその用に充てるべきです。どうか本司に付し、植樹を命じ、あわせて監督させてください。」これを許可した。(注:『三代実録』による。)

延喜の制では名神大社に列せられ、四度の官幣に預かった。毎年二月、官を遣わして祭祀を行わせた。その幣物は内蔵寮がこれを供した。その宮司・禰宜・祝(はふり)は各一人で、いずれも当色一具を給された。物忌一人には、夾纈の浅緑・紫纈の縹などの帛および絹綿を給した。(注:『延喜式』による。)後に本国の一宮と称された。(注:吉田社の建暦三年の文書、『一宮記』による。)そもそも藤原氏は本社を尊崇し、氏神と称していた。(注:『続日本紀』『大鏡』による。)その一族から后妃が出たり、大臣に任じられる者があったりすると、幣帛を奉り、神宝を献じることは、香取神宮の例とまったく同じであった。その奉納する封戸は、香取に比べてなお多かった。(注:『平記』『小右記』『左経記』による。)養和年間、源頼朝は本国奥郡の塩浜・大窪・世谷などの地を奉納した。(注:『東鑑』、鹿島社文書による。)鹿島政幹(かしままさもと)を総追捕使とし、まもなくまた本国の橘郷を奉納した。(注:鹿島社文書によれば、橘郷は承安四年に国司が奉納したものであるという。頼朝は重ねて雑役を免除させたとあり、本書とは若干の異同がある。)寿永元年、使者を遣わして幣帛を奉納した。(注:『東鑑』による。)文治元年、橘郷に令を下して「永く地頭の不法を禁じ、事の大小を問わずすべて社司の裁決に委ねよ」とした。(注:鹿島社文書による。)三年、頼朝はまた奥郡の粟一百十石を奉り、毎月の神饌料に充てさせ、永例とした。建久二年十二月、神宮が地震のように鳴動した。禰宜の中臣親広(なかとみのちかひろ)は鎌倉に「これは兵乱と大喪(たいそう)の兆しです」と申し上げた。頼朝は驚き恐れ、使者を遣わして神馬を奉納した。(注:『東鑑』による。)仁治二年、神宮が火災にあった。神体および不開殿(あかずのでん)はかろうじて災いを免れた。当時の人々は「上古以来、このようなことは未だかつてなかった」と語った。朝廷は神祇権少副(じんぎごんのしょうふ)大中臣行輔(おおなかとみのゆきすけ)を遣わして幣帛を奉り謝罪させた。(注:『百錬抄』『東鑑』による。)弘安五年、将軍惟康親王(これやすしんのう)は本国行方郡大賀村を奉った。正平二十四年、足利義満は伊佐郡平家郷を奉った。(注:鹿島社文書による。)

おおよそ年中の大祭は一百三十余度に及ぶが、その起源についてはおおむね詳らかでなく、(注:鹿島社文書、鹿島社例伝記による。)すべてを詳しく記すいとまもないので、今その概略を挙げる。正月四日は歳山祭(としやままつり)といい、また御占祭(みうらないまつり)とも称する。天葉若木(あまのはわかぎ)の火で亀を灼(や)き、その年の豊凶を占う。七日は白馬祭(あおうままつり)といい、また御戸開神事(みとひらきしんじ)とも称する。神官が夜のうちに正殿を開き、大刀・弓矢を奉り終えると、神馬を引いて仮殿の周りを四度巡る。(注:鹿島社文書、鹿島社例伝記による。『鹿島志』を参照した。)七月十日は御軍祭(みいくさまつり)という。神地の民がみな社前に集まり、篝火(かがりび)を焚く。神官が神剣を執って火に向かい、行事(ぎょうじ)を呼んで勝ちどきを挙げさせる。行事が「はい」と応え、集まった者たちも皆これに応じる。神民はみな剣を抜いて火に向かい、俗にはこれを「征韓の祭」と呼ぶこともある。(注:『鹿島志』により、土地の人々の伝説を参照した。)その翌日、神輿を仮殿に奉じ、舟三隻を造って内海に浮かべる。社司らは大声で叫びながら津宮に至り、これを御船祭(みふねまつり)という。(注:鹿島社例伝記により、『鹿島志』を参照した。)実はこれは臣狭山命に始まる。(注:『常陸風土記』による。)常陸帯祭(ひたちおびまつり)というものがあり、また帯卜(おびうら)ともいい、婚姻の吉凶を占う。(注:源俊頼の『無名抄』、『奥義抄』、『物忌記』を参照した。)おおよそ軍祭・船祭は朝廷が使者を遣わしてこれを執り行わせた。後世には本国の大掾(だいじょう)に勅使に準じて従事させた。(注:鹿島社文書による。)そもそも大化年間に特に神郡を建てて以来、延喜に至ってもなおその制度は変わらなかった。(注:『常陸風土記』『令集解』『延喜式』による。)おおよそ郡内にある神田は六百三十町余りである。そのほか諸郡に散在するものは五百四十九町ほどであるという。その社司には、後世に至って大宮司・大禰宜・権禰宜・大祝・権祝・物忌・総大行事・宮介・案主・酒掌などの職があった。(注:鹿島社文書による。)そのほか雑務を掌る者も、また七十余人あった。(注:鹿島神宮社職次第による。)古くは神宮の苗裔神(びょうえいしん)で陸奥国にあるものが三十八社あり、いずれも神宮の封物を割いて幣帛を奉っていた。弘仁以降、その儀礼はおそらく絶えてしまった。(注:『三代実録』による。)

その摂社で本郡内にあるものは数十座あり、その中で跡宮(あとのみや)は荒祭宮(あらまつりのみや)ともいい、本宮の南にある。(注:鹿島社例伝記による。現在は神野村にある。)伝えによれば、大神は初め陸奥の塩竈(しおがま)からこの地に遷り、後に現在の地に鎮座したという。(注:『春日験記』『夫木集』による。)潮宮(しおのみや)は本宮の東にある。(注:一に板神社とも書き、現在は見目浦にある。)高倉下命(たかくらじのみこと)を祀る。(注:鹿島社例伝記、鹿島社記による。)高房神社(たかふさじんじゃ)は、また倭文社(しとりしゃ)ともいい、本宮の前にあって建葉槌命を祀る。(注:鹿島社記による。)

大洗磯前薬師菩薩神社(おおあらいいそさきやくしぼさつじんじゃ)。(注:現在は宮田郷磯浜村の大洗磯前山上にある。)大己貴・少彦名の二神を祀り、二つの霊石を神体とする。(注:神体は鎮守帳による。)斉衡三年、国司の言上には次のようにあった。「大洗磯前に神が降臨しました。初め里人が夜半に海上の光が天に届くのを見ました。翌日、水際に二つの怪しい石があり、高さはそれぞれ一尺ほどでした。さらにその翌日、また二十余りの小石がその傍らにあり、あたかも供の者のようで、彩色は尋常でなく、神が人に憑いて『我は大奈母知(おおなむち)大己貴、少比古奈(すくなひこな)少彦名命である。昔この国を造り、東の海に去った。今、民のために再び来たのである』と告げました」と。天安元年、詔により官社に列せられ、薬師菩薩名神(やくしぼさつみょうじん)の号を奉られた。(注:『文徳実録』による。名神に仏の号を奉ることは、平然として怪しまれなかった。当時の流弊(りゅうへい)は、往々にしてこのようであった。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。郡内の宮崎・綱掛の二村には鹿島神の祠がある。毎年八月一日、その社司が矛と盾を奉持して本社に詣で、大声で叫び、矛と盾を一つの穴に鎮めて、天下の安寧を祈願する。伝えによれば、古くは鹿島の宮司が自ら来てこの儀式を行ったが、後に道のりが遠かったため、しばしば廃れがちになった。そこで神を二村に遷し祀り、その社司に代行させたという。また茨城郡有賀村には鹿島の分祠があり、九月二十五日、その社司もまた矛を奉じて来て、これを本社の殿上に安置し、祭を修めて去る。これらはいずれも、鹿島大神が大己貴命を服従させた故事によるものであるという。)

真壁郡一座

大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)。(注:現在は大国玉村にあり、東を男体宮、西を女体宮、また物忌宮という。合わせて鹿島明神と称する。)大国玉神(おおくにたまのかみ)を祀る。大国玉とはおそらく武甕槌命のことをいい、神が特にその威霊を本国にとどめたため、このように称するのであろう。(注:『常陸風土記』、本社の由緒聞書を参照した。)承和四年、特に霊験があったことにより、官社に預かった。十二年には従五位下を叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)弘安年間には、神田三十町余りがあった。(注:税所文書、佐竹文書による。)

信太郡二座

楯縫神社(たてぬいじんじゃ)。(注:現在は木原村にあり、信太郡第一宮と称し、郡東五十余村の鎮守となっている。)伝えによれば、経津主命を祀るという。(注:社説により、『出雲風土記』を参照した。)

阿彌神社(あみじんじゃ)。(注:現在は竹来村にあり、信太郡第二宮と称し、郡西四十余村の鎮守となっている。)武甕槌命を祀るのであろう。上古、神はすでに邪神を誅し除いたのち、その手にしていた武具・甲・戈・盾・剣・玉圭などをすべてこの地に留め、ついに天に昇ったという。(注:『常陸風土記』による。)  以上二座は、延喜の制ではともに小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

久慈郡七座

静神社(しずじんじゃ)。(注:現在は那珂郡静村にあり、すなわち『和名抄』にいう久慈郡倭文郷の地である。『常陸風土記』の静織里(しどりのさと)がこれである。)建葉槌命を祀る。(注:『日本紀纂疏』による。社伝には手力雄命(たぢからおのみこと)、および高皇産霊尊・思兼神(おもいかねのかみ)を祀るとある。しかし本社の旧縁起には、大同元年に初めて天手力男命を祀り、これを本社に配したとある。大同年間の説は、もとより信じるに足りない。しかしこれによって手力雄を主神とするのは誤りである。そのため採らない。)古くは倭文部(しとりべ)という氏族があり、代々本郡に住んで倭文布(しとりぬの)を貢いだが、おそらくその一族が奉祀したものであろう。(注:『常陸風土記』『万葉集』『延喜式』を参照した。)仁和元年、従五位下から従五位上に昇った。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)。太田郷にある。(注:現在は幡村にあり、村は昔、長幡といったという。)長幡部氏の祖を祀る。皇孫(すめみま)が筑紫に天降った際、綺日安命(かむはたひのみこと)がこれに従い、御服(みそ)を織ることを掌った。初め日向の二神の峰から三野(みの)の引津根(ひきつね)の丘に至った。崇神天皇の御代に至って、多氐命(おおてのみこと)が三野から避け、この地に遷り住み、機殿(はたどの)を設けて神の服を織った。これが長幡部の祖である。その織った服は裁縫を用いず、おのずから衣裳の形をなし、世にこれを内幡(うつはた)と呼んだ。これより神への貢ぎ物とした。(注:『常陸風土記』による。)延喜の御代に至っても、なお長幡部の絁(あしぎぬ)を絶えず貢いだ。(注:『延喜式』による。)

薩都神社(さつじんじゃ)。(注:現在は里宮村にある。)天神立速日男命(あまつかみたちはやひおのみこと)、一名を速経和気命(はやふわけのみこと)を祀る。上古、神が天より降臨し、松沢の地に住んだ。神威ははなはだ厳しく、もし人が誤って汚穢(おえ)を及ぼせば、たちまち神の祟りを受けた。里人はこれを畏れ、事情を具して朝廷に申し上げた。朝廷は片岡大連(かたおかのおおむらじ)を遣わして祈り謝罪させたところ、神はついに薩都の里の東、賀毗礼峰(かびれのみね)に遷った。そこで祠を立てて鎮め祭った。その祠は石を垣とし、また神宝の弓・鉾・釜などの器を造って奉ったが、みな石と化して永く残っているという。(注:『常陸風土記』による。)後に峰が険しく道が険阻で参拝しにくかったため、さらに薩都郷に遷したが、これがすなわち現在の地である。(注:薩都明神縁起による。)承和十三年、勲十等をもって従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観八年、従五位上から正五位上を加えられた。十六年には従四位下に昇った。(注:『三代実録』による。原本には元の位階を正五位下に作るが、「下」はおそらく「上」の誤りであろう。)おおよそ毎年孟夏(四月)と季秋(九月)の十日に、神輿を奉じて賀毗礼峰に登り祭を修める。賀毗礼峰はすなわち今の入四間山(いりしけんやま)である。その季秋には山上の石甕(いしがめ)で神酒を醸し、翌年の孟夏にこれを供えるのを例とするという。(注:古老の伝説による。薩都明神縁起には、昔、鹿島神宮を造営した際、賀毗礼山から材木を採ったとある。その時、一本の大木を二つに折ったところ、中心におのずから文字が現れ、「鹿島造営御木」とあった。人々はこれを不思議に思い、そこで一片を鹿島宮に献じ、一片を本社に蔵したという。これによれば、立速男命はおそらく鹿島の裔神(えいしん)であろう。)

天之志良波神社(あめのしらはじんじゃ)。(注:「志良波」は「白羽」とも書く。現在は白羽村にあり、白羽明神と称する。)天志良波神(あめのしらはのかみ)、一名長白羽神(ながしらはのかみ)を祀る。(注:『古語拾遺』『旧事本紀』『延喜式』、享禄年間の棟札による。)貞観八年、正六位上から従五位下を授けられた。十六年には従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

天速玉姫命神社(あめのはやたまひめのみことじんじゃ)。(注:一に天之速玉神(あめのはやたまのかみ)とも書く。現在は多珂郡水木村にあり、泉明神と呼ばれるものが、おそらくこれである。)貞観八年、正六位上から従五位下となった。十六年には従五位上を授けられた。(注:『三代実録』による。)

稲村神社(いなむらじんじゃ)。(注:現在は稲木村の隣村である天神林村にある。おそらく古代の狭竹郷(さたけごう)の地であろう。「村」の字は「材」に作るべきかとも思われる。「材」は「木」と読むが、諸書がいずれも「村」に作っているため、みだりに改めない。)久自国造(くじのくにのみやつこ)と同族である物部連(もののべのむらじ)の祖を祀るのであろう。(注:『旧事本紀』による。物部連は実は天神饒速日命(あまつかみにぎはやひのみこと)から出ている。その率いる二十五の物部のうち狭竹物部というものがあるが、おそらくその一族が狭竹郷に住み、その祖を祀って天神と称したのであろう。ここに付記して考証に備える。)嘉祥二年、日照りと長雨を祓い鎮めるのに霊験があったことにより、官社となった。(注:『続日本後紀』による。)元慶二年、正六位上から従五位下となった。仁和元年には従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

立野神社(たてのじんじゃ)。(注:現在は那珂郡上小瀬村にあり、鹿島神と同じ社にある。もとは村中の立野山にあったが、現在の所在地は白幡山という。『旧事本紀』によれば、久自国造の一族に立野連(たてののむらじ)があり、この社はおそらくその祖を祀るものであろう。しかしまだその確証は得られていない。ここに付記して考証に供える。)貞観十六年、正六位上から従五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)  以上六座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

筑波郡二座

筑波山神社(つくばさんじんじゃ)二座。(注:現在は筑波山の山上にある。)筑波男神(つくばのおのかみ)・筑波女神(つくばのめのかみ)を祀る。(注:『続日本後紀』『三代実録』『常陸風土記』による。筑波山には東西二つの峰があり、西の峰を男体、東の峰を女体と称する。社説では伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神を祀るとするが、おそらく男体・女体の名にちなんで附会したものであろうから、採らない。)伝えによれば、太古、祖神尊(みおやのかみのみこと)が諸方の神々の地を巡行し、駿河の福慈岳(ふじのたけ)に至って宿を求めた。福慈の神は新嘗(にいなめ)の物忌みを理由にこれを断った。そこで筑波岳に登った。筑波の神は「今宵は新嘗にあたりますが、あえて仰せに従わないことはありません」と言い、そこで飲食を用意し、恭しく謹んでお仕えした。祖神は喜んで歌を詠んだ。「愛(いと)しきかな我が胤(たね)、巍(たか)きかな神の宮。天地とともに斉(ひと)しく、日月とともに同じくあれ。人民は集い賀(ことほ)ぎ、飲食は富み豊かに、代々絶えることなく、日々いよいよ栄えよ。(注:「栄」は韻を失っており、おそらく「崇」の誤りであろう。)千秋万歳、遊楽は窮まることなし。」その後、人々は山に登り降りては歌い舞い、供物を捧げ、四季を通じて絶えることなく、まさに祖神が詔されたとおりになったという。(注:『常陸風土記』による。本書のいう祖神とは、伊弉諾・伊弉冉の二神を指すもののようである。これによれば、社説が二神を祀るとするのは、その誤りが知られよう。)

弘仁十四年、霊験がしきりに著しかったことにより、従五位下をもって官社に預かった。(注:『日本紀略』による。下文によれば、この条の位階は男神だけにかかるものである。)承和九年、女神に従五位下を叙せられた。(注:『続日本後紀』による。)天安二年、男女二神に四位を授けられた。(注:『文徳実録』による。本書には正従上下を言わないが、おそらく下文に挙げる元の位階が、すなわちこの年に授けられたものであろう。)貞観十二年、従四位上であった男神に正四位下を、従四位下であった女神に従四位上を授けられた。十三年には男神に従三位を授けられた。十六年には女神に正四位下を授けられた。(注:『三代実録』による。本書には「従四位下から従四位上を授く」とあるが、おそらく誤りであろう。今、上文によって訂正した。)延喜の制では、一座は名神大社に、一座は小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)弘安年間には、神田五十六町余りがあったという。(注:税所文書、佐竹文書による。)

那珂郡七座

吉田神社(よしだじんじゃ)。(注:現在は茨城郡吉田村にある。すなわち古代の那珂郡吉田郷の地である。)日本武尊を祀る。(注:吉田社古記による。)日本武尊は東国をほぼ平定し、その遺跡は本国に多く残っている。(注:『常陸風土記』による。)この地もまたその経歴した場所であるという。(注:吉田社古記による。)天安元年、従五位上勲八等から従四位下に進んだ。(注:『文徳実録』による。)貞観五年には一階を加えられた。(注:『三代実録』による。)十五年には、新羅の賊による難を祓うため、勅により祭会および雑舎修理料の稲八百三十束が充てられた。(注:吉田社文書による。)元慶二年には正四位下となった。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)後に本国の第三社と称された。(注:吉田社文書、薬王院文書による。)天慶三年、勅により封戸を加えられ、爵位を進められた。(注:吉田社文書による。「三年」は『園太暦』『源平盛衰記』による。)寛治四年、貞観の例に準じて神祭および雑舎修理料の稲を充てられた。おおよそ神殿を修繕し遷宮の儀を行う際には、必ず使者を遣わして幣帛と馬を奉るのを例とした。建暦三年、これより前、社司が申し上げた。「旧例では本社を修造する際、国司が吉田・那珂の二郡に命じて労役を供させておりました。建久の営繕の折には、郡司らが法に背いてこれを拒み、そのため宣旨を下し、使者を遣わして工事を督励いたしました。今、神殿以下の破損ははなはだしくなっております。どうか宣旨を下し、国司に工事を監督させ修理させてください。また本社の四月祭の祭料の穀は、毎年十斛(こく)を那珂東西郡に供進させるのが長く例となっておりましたが、建仁以降、公文(くもん)らがこれに背き、納入をしぶっております。どうか官使を賜り、督促して徴収させてください。」ここに至って、その願いを許可した。延元四年、本郷の地十三町を奉納し、天下の安寧を祈願した。(注:「延元」以下は薬王院文書による。)そもそも長承年間、左大史(さだいし)小槻政重(おづきのまさしげ)が遠く社務を統轄し、その子孫が代々この職を掌った。久安年間に至って、神田を耕す百姓が溝や堰を修めず、祭料を納めなかった。小槻氏はそこで書状を下して戒めた。もとは本郡の袴墓(はかまはか)・常磐(ときわ)の二郷の田各二段を、七月と十二月の朔日(ついたち)の幣料に充てていた。建仁年間に至って、社役を供さなくなった。小槻氏はまた例に従って供給するよう命じ、後にはまた箕川村の荒野を開墾して朔幣田(さくへいでん)とするよう命じた。おおよそ本郡にある社領は、吉田・常磐・酒戸・袴墓など合わせて八郷、田数一百五十余町で、いずれも勅免地(ちょくめんち)であった。(注:「勅免地」の三字は佐竹文書による。)禰宜・宮司は吉美侯氏(きみこうじ)がこれを務め、祝部・神主は大舎人氏(おおとねりうじ)がこれを務め、いずれも世襲の職であった。大舎人氏はまた代々田所(たどころ)の職を兼ね、後に田所を氏とした。正安年間、長経(ながつね)という者がおり、自ら「その始祖が社職に任じられて以来、八百余年、代々相継いで奉仕してまいりました」と述べている。(注:吉田社文書による。)その子孫は今に至ってもなお社務を主(つかさど)っているという。(注:吉田社古記による。)

別宮(べつぐう)が二つあり、一つを笠原神社といい、(注:現在は笠原村にある。)弟橘媛命・木花開耶姫命を祀る。もう一つを酒門神社といい、(注:現在は坂戸村にある。)木花開耶姫命を祀る。(注:吉田社古記による。)寛治四年、勅により祭料の穀三斛が充てられた。その所属には、また田倉(たくら)・竈神(かまどのかみ)の二つの祠があり、社域内にある。建保三年、勅により大戸(おおと)・長岡などの村に旧例のとおり修営させた。(注:吉田社文書による。)

酒列磯前薬師菩薩神社(さかつらいそさきやくしぼさつじんじゃ)。(注:現在は平磯村酒列磯前の地にある。「列」は原本には「烈」に作るが、誤りである。今、『文徳実録』によって訂正した。)大己貴・少彦名の二神を祀り、大洗磯前社とその起源を同じくする。天安元年、官社に列せられ、神号を奉られたことも大洗磯前の例と同様であった。(注:『文徳実録』による。)延喜の制では、いずれも名神大社に列せられている。

大井神社(おおいじんじゃ)。(注:現在は茨城郡飯富村にあり、鹿島明神と呼ばれるものがこれである。『和名抄』にいう那珂郡大井郷は、おそらくこの地であろう。村の中に涌き水があり、大井戸と称する。大井の名は、あるいはこれに起こるのであろう。伝えによれば、天治年間に大井を改めて横曽根(よこそね)といい、また大部(おおべ)ともいい、近世に改めて飯富(いいとみ)といったという。「飯」はおそらく「飫」の訛りであろう。「大部」と「飫富」は、もとより音が通じる。『親鸞伝』にいう那荷西郡大部郷とは、すなわちこれである。その実は名を改めたわけではない。)仲国造(なかのくにのみやつこ)の祖である建借馬命(たけかしまのみこと)を祀るのであろう。(注:『旧事本紀』による。)崇神天皇の御代、建借馬は勅を奉じて本国に至り、強賊を討ち滅ぼし、その功によって国造となった。(注:『旧事本紀』『常陸風土記』を参照した。『古事記』によれば、仲国造は実は意富臣(おおのおみ)と同族である。この地はおそらく意富氏の住んだところであり、そのためその祖を祀り、また地名としたのであろう。そして「借馬」と「鹿島」は訓読が同じであるため、後世についに訛って鹿島神とされたのであろう。ひとまず付記して考証に供える。)

青山神社(あおやまじんじゃ)。(注:現在は茨城郡青山村にある。)伝えによれば、五十猛命(いたけるのみこと)を祀るという。(注:社伝による。)

阿波山上神社(あわのやまのうえじんじゃ)。また阿波神(あわのかみ)とも称する。(注:『三代実録』による。現在は茨城郡大山村にあり、すなわち『和名抄』にいう那珂郡阿波郷の地である。)伝えによれば、少彦名命を祀るという。(注:本社の社記による。社記には、昔、神が手に粟穂(あわほ)を携えて杉の木の上に降臨したため、降木明神(おりきみょうじん)と称したとある。文明年間の本社の長鼓(ちょうこ)の胴の銘にも、左加利木明神(さかりきみょうじん)の名が見えるという。)仁和二年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)

藤内神社(とうないじんじゃ)。(注:現在は茨城郡藤井村にある。社には永正四年・寛永五年の二枚の棟札が蔵されており、いずれにも「那珂西荘藤井郷藤井村藤内明神」と書かれている。)

石船神社(いわふねじんじゃ)。(注:現在は茨城郡岩船村の岩船山にある。)伝えによれば、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)を祀るという。(注:本社の縁起による。)一名を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)といい、武甕槌神に属し、下つ国を平定した神である。(注:『古事記』による。)船に似た形の巨石を神体とし、長さ一丈八尺余り、幅一丈ほどである。(注:社記による。)貞観元年、正六位上から従五位下を加えられた。(注:『三代実録』による。)  以上五座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

新治郡三座

稲田神社(いなだじんじゃ)。(注:現在は茨城郡稲田村にある。)伝えによれば、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を祀るという。(注:稲田姫社の縁起による。)おそらく新治国造(にいはりのくにのみやつこ)が奉祀したものであろう。(注:『続日本紀』『旧事本紀』『常陸風土記』の大意を参酌した。)延喜の制では、名神大社に列せられている。(注:『延喜式』による。)弘安年間には、神田十七町余りがあったという。(注:税所文書による。)

鴨大神御子神主玉神社(かものおおかみみこかぬしたまじんじゃ)。鴨大神子主玉神(かものおおかみのこぬしたまのかみ)を祀る。(注:『文徳実録』『三代実録』による。『延喜式』の諸本にはいずれも脱字があるため、この二書に従った。社は現在、茨城郡加茂部村にあり、賀茂明神と呼ばれる。)文徳天皇の践祚に際し、詔により官社に列せられた。(注:『文徳実録』による。)貞観三年、従五位下から従五位上に昇った。(注:『三代実録』による。)元久元年、鎌倉が令した。「本社の所領である中郡荘は、鳥羽・白河・後白河の三代の天皇の御起請により、大嘗会米以下の雑役を免除されている。しかるに社内の地について、あるいは別符と称し、あるいは地頭と号して雑役を賦課し、社人はそのために逃散するに至っている。これはまことに憐れむべきことではないか。今後は一切これを免除すべきである。」(注:常陸加茂社文書による。)

佐志能神社(さしのじんじゃ)。(注:現在は茨城郡笠間の佐白山(さしろやま)の上にある。)佐代公(さしろのきみ)の祖である豊城入彦命を祀るのであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。)承和四年、特に霊験があったことにより、官社に預かった。(注:『続日本後紀』による。)  以上二座は、延喜の制ではともに小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

茨城郡三座

夷針神社(いしみじんじゃ)。(注:「夷針」は「伊之美(いしみ)」と訓む。現在の新治郡上曽・鯨岡などの村々は、中世には井白郷(いじろごう)といった。「井白」と「夷針」は音訓が相近く、おそらく『和名抄』にいう茨城郡夷針郷の地であろう。郷中に蘆穂山(あしほやま)があり、山上に祠があって足尾権現(あしおごんげん)というが、これがあるいは本社であろうか。一説には、鯨岡の近隣の村に泉村があり、「泉」と「夷針」は音訓が相近く、村中に愛宕(あたご)の祠があるが、これがおそらくそうであるという。いずれが正しいか未詳である。)

羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)。また羽梨神(はなしのかみ)とも称する。(注:現在の所在は詳らかでない。あるいは、現在は岩間村にあり、熊野権現と合祀されているものが、おそらくこれであるという。)貞観十二年、従五位下から従五位上となった。仁和元年には正五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)

主石神社(ぬしいしじんじゃ)。(注:現在は鹿島郡大和田村にある。)霊石を神として祀る。(注:社記による。)  以上三座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

多珂郡一座

佐波波地祇神社(さわわちぎじんじゃ)。また佐波神(さわのかみ)とも称する。(注:現在は小津田村の塩原山にある。村は昔、沢山(さわやま)といい、その旧社地は佐波山の上にあった。「佐波」とはすなわち「沢」であり、今、「佐波山」を「沢山」に作るのはこのためである。「佐波」の「波」は、おそらく助語であろう。遠江国に阿波波神(あわわのかみ)があり、淡岳(あわだけ)に鎮座する。「淡」はすなわち「阿波」であるが、さらに「波」の一字を添えているのも、この例と同様である。)貞観元年、正六位上から従五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制では、小社に列せられている。(注:『延喜式』による。)

官帳不載者

飛護念神社(ひこねじんじゃ)。所在は現在詳らかでない。(注:「飛護念」と「彦根」は音訓が相通じる。『古事記』『旧事本紀』『常陸風土記』によれば、茨城国造の祖を天津彦根命(あまつひこねのみこと)という。本社はおそらく国造がその祖を祀ったものであろう。しかし社地は今、考えるすべがない。)貞観十六年、正六位上から従五位下に進んだ。

国都神社(くにつじんじゃ)。古くは国社(くにのやしろ)といい、また県祇(あがたのかみ)とも称した。行方郡(なめかたぐん)にある。(注:「古」以下は『常陸風土記』による。現在は行方村にあり、鎮守国神明神と呼ばれる。)貞観十六年、正六位上から従五位下を授けられた。

三枝祇神社(さいぐさぎじんじゃ)。現在は真壁郡にある。(注:郡名は土地の人々の説による。現在は加坡山(かばやま)の上にあり、中宮と称するものがこれである。『姓氏録』には、三枝連(さいぐさのむらじ)は天津彦根命の十四世の孫である建許呂命(たけころのみこと)の後であるとある。建許呂命はすなわち茨城国造の祖であり、本社は真壁・茨城の二郡の境にあるので、おそらく建許呂命を祀るものであろう。)貞観十七年、正六位上から従五位下を授けられた。

河江神社(かわえじんじゃ)。現在その所在はわからない。(注:久慈郡川合村は、昔は川井といった。古い祠があり、川井明神という。「井」と「江」は方言の音が相近く、あるいはこの祠であるともいう。ひとまず付記して考証に備える。)元慶元年、正六位上から従五位下に昇った。

於岐都説神社(おきつせつじんじゃ)。鹿島郡にある。(注:現在は息栖村にあり、息栖神社と呼ばれる。)岐神(くなどのかみ)を祀る。(注:郡名・神名は鹿島社例伝記による。)仁和二年、正六位上から従五位下に進んだ。後に鹿島神宮の摂社となった。(注:「後為」以下は鹿島社例伝記による。)

村上神社(むらかみじんじゃ)。現在は新治郡にある。(注:郡名は土地の人々の説による。村上村の竜神山(りゅうじんやま)の上にあり、すなわち古代の茨城郡の域である。)仁和元年、従五位下から従五位上となった。

郷造神社(ごうぞうじんじゃ)。現在は真壁郡にある。(注:郡名は土地の人々の説による。倉持村にある。社記には毗奈良珠命(ひならすのみこと)を祀るとある。しかしその所在地の地名によってこれを考えるに、倉持はすなわち車持(くるまもち)である。『姓氏録』では車持公(くるまもちのきみ)は豊城入彦命の八世の孫である射狭君(いさのきみ)の後であるとする。今、郡中に伊讃郷(いさごう)がある。伊讃はすなわち射狭である。おそらく射狭君がこの地に功があったため、これを祀って郷造神(ごうぞうのかみ)と称したのであろう。社記はおそらく誤りである。あわせて付記し、後の考証を待つこととする。)仁和二年、正六位上から従五位下に進んだ。

菅田神社(すがたじんじゃ)。河内郡にある。(注:郡名は『和名抄』による。現在は新治郡上境村にあり、俗に訛って姿見明神と称する。この地はすなわち『和名抄』にいう河内郡菅田郷の域である。)菅田首(すがたのおびと)の祖を祀るのであろう。(注:「蓋祀」以下は『姓氏録』『延喜式』による。)仁和元年、正六位上から従五位下となった。(注:『三代実録』による。)