卷之二百六十二 志十九

神祇十九 神社十四

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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文字

**播磨(はりま)**

**明石郡(あかしぐん) 九座**

海神社(わたつみじんじゃ)三座。また明石垂水神(あかしのたるみのかみ)とも言う。(注:延喜式の傍訓と新抄格勅符を参考にした。○現在は垂水村にあり、垂水社、また日向社と呼ばれる。)おそらく海神(わたつみ)である大綿津見神(おおわたつみのかみ)、および豊玉彦(とよたまひこ)・豊玉姫(とよたまひめ)の三神を祀る。実は明石国造(あかしのくにのみやつこ)の外家の神である。(注:日本書紀・古事記・旧事本紀・姓氏録・延喜式・新抄格勅符を参考にした。○本文によれば、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は最初、海神豊玉彦の娘である豊玉姫を娶り、武位起命(たけいたてのみこと)を生んだ。その子である椎根津彦(しいねつひこ)がすなわち明石国造の祖である。これによれば本社はおそらく国造が奉祀したものであろう。摂津国住吉郡の大海神社二座もまた海神と称される。住吉社記によれば豊玉彦・豊玉姫の二神を祀るとされ、いわゆる住吉垂水神とはこれを指すのであろう。互いに証とすることができる。また播磨国内神名帳や峯相記を見ると、海大神・垂水大神とあり、これらは別々の社であるようにも見える。思うに本社の三座は、その一座を海大神、二座を垂水大神とし、実際には別の社ではないのであろう。付記して考察に備える。)大同元年(806年)、本国に封戸十戸を定められた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年(859年)、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制では、三座はともに名神大社に列せられ、四度の官幣にあずかった。(注:延喜式による。)天慶三年(940年)、承平年間に海賊平定を祈願したことにより、正五位下を授けられた。(注:長寛勘文による。)

宇留神社(うるじんじゃ)。(注:現在は宮崎村の宇留山にあり、春日明神と呼ばれるものが、あるいはこれに当たるか。)

物部神社(もののべじんじゃ)。(注:現在は池上村にある。)伝承によれば、可美真手命(うましまでのみこと)を祀るという。(注:社伝による。○社伝ではさらに素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大己貴(おおなむち)・武甕槌(たけみかづち)を加えて四座とするが、おそらく後世に配祀されたものであろう。そのため今はこれを採らない。)

弥賀多多神社(みかたたじんじゃ)。

林神社(はやしじんじゃ)。(注:現在は林崎荘林村にあり、上宮明神と呼ばれる。)

赤羽神社(あかばねじんじゃ)。(注:現在は泉村赤羽の地にある。)

伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)。(注:国内帳には伊和津姫明神とある。現在は大蔵谷中荘村にあり、岩屋明神と呼ばれる。)伊和都比売神を祀る。(注:延喜式による。)上古、賀古郡(かこぐん)の日岡(ひおか)に神があり、大御津歯命(おおみつはのみこと)といった。その子を伊波都比古命(いわつひこのみこと)という。伊和都比売は、おそらくその妃であろう。(注:播磨風土記による。)  以上六座は、延喜の制で共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**賀古郡(かこぐん) 一座**

日岡坐天伊佐佐比古神社(ひおかにますあめのいささひこじんじゃ)。(注:国内帳には日向社伊佐佐別尊明神とある。現在は大野村日岡にあり、日向明神と称する。)天伊佐佐比古神(あめのいささひこのかみ)を祀る。(注:延喜式による。)おそらく伊波都比古命の別名であろう。(注:播磨風土記による。)  延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**飾磨郡(しかまぐん) 四座**

射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)二座。(注:国内帳には射楯大神とある。もとは飾西郡新在家村にあったが、後に辻井村に遷り、行屋明神と呼ばれる。)五十猛命(いたけるのみこと)を祀り、射楯神(いたてのかみ)と号する。兵主(ひょうず)とはすなわち大己貴命(おおなむちのみこと)である。(注:本社の伝記および播磨名迹志による。)神功皇后(じんぐうこうごう)が韓(から)を征伐しようとしてこの国に至ったとき、射楯神がこの地に現れた。それによってこの地を因達里(いだてのさと)と名づけた。(注:播磨風土記による。○射楯はもとの書では伊太代と書かれ、いずれも因達と音訓が通じる。)おそらくそれにちなんで祀ったのであろう。

白国神社(しらくにじんじゃ)。(注:現在は飾東郡白国村白国宮山にある。)伝承によれば素戔嗚尊を祀るという。(注:広峰社伝による。○播磨風土記によれば、白国はもと新羅訓村(しらぎくんむら)といい、白国神とは新羅国神(しらぎのくにのかみ)と言うようなものである。日本書紀に素戔嗚尊がかつて新羅と往来したとあるので、この名があるのだろうか。峯相記にも本社の神名を挙げているが、もとより定説はない。そのため今は社伝に従っておく。)元慶二年(878年)、従五位上から正五位下を授けられた。(注:三代実録による。)

高岳神社(たかおかじんじゃ)。(注:もとは飾西郡辻井村にあったが、後に今宿村蛤山に遷った。)  延喜の制で、四座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)後に白国社は本国の四宮(しのみや)と称された。(注:峯相記および神名帳頭注による。)高岳社は五宮(ごのみや)とされた。(注:神名帳頭注による。)

**揖保郡(いいぼぐん) 七座**

揖保坐天照神社(いいぼにますあまてるじんじゃ)。(注:揖保はまた粒とも書く。国内帳には中臣粒大神とある。現在は揖東郡粒川のほとり伊勢村にある。)おそらく五百木部連(いおきべのむらじ)の祖である天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)を祀る。(注:日本書紀・旧事本紀・姓氏録・三代実録・延喜式を参酌した。○実録によれば、貞観年間にこの郡の人である伊福貞(いふくのさだ)が本姓の五百木部連に復したとあり、実にその神の子孫である。)貞観元年、従五位下勲八等から従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)

中臣印達神社(なかとみのいだてじんじゃ)。(注:現在は揖西郡中陳村にあり、産土社(うぶすなしゃ)と称する。一説には伊東郡奥佐見村松尾山麓の八幡社の境内にあるともいうが、どちらが正しいかは分からない。)おそらく五十猛命を祀る。(注:日本書紀・延喜式による。)大同元年に中臣神(なかとみのかみ)に封戸五戸を定めたとあるのは、(注:新抄格勅符による。)おそらくこの社のことであろう。

家島神社(いえしまじんじゃ)。(注:現在は揖東郡家島宮浦にあり、白鬚明神、また宮浦明神と称する。もとは忘瀬島(わすれじま)にあったという。)承和七年(840年)、官社となった。(注:続日本後紀による。)  以上三座は、延喜の制で共に名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)

阿宗神社(あそじんじゃ)。(注:国内帳には揖東郡阿蘇明神とある。現在はその郡の阿曽村にあり、八幡宮と称する。)おそらく針間阿宗君(はりまのあそのきみ)の祖である息長日子王(おきながひこのみこ)を祀る。(注:古事記・延喜式による。)

祝田神社(はふりたじんじゃ)。(注:現在は揖西郡清水村祝田森にある。)大己貴神の子である玉帯志比古大稲男神(たまてしひこおおいねおのかみ)、玉帯志比売豊稲女神(たまてしひめとよいねめのかみ)を祀る。(注:播磨風土記による。○もとの書では「男」を「女」に作るが誤りである。一書には玉足日子(たまたりひこ)・玉足比売(たまたりひめ)とするのが正しい。)

阿波庭神社(あわにわじんじゃ)。(注:庭はまた遅とも書く。国内帳には揖西郡八枚明神とある。現在はその郡の揖保上村にある。)  以上四座は、延喜の制でいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**赤穗郡(あこうぐん) 三座**

伊和都比売神社。(注:国内帳には伊和津姫御前明神とある。現在は新浜村にあり、御崎明神と称する。)

八保神社(やほじんじゃ)。(注:国内帳には八穂明神とある。現在は岡村にある。)承和七年、官社に列せられた。(注:続日本後紀による。)

鞍居神社(くらいじんじゃ)。(注:国内帳には鞍位明神とある。もとは倉尾村にあったが、後に金出地村に移った。)  延喜の制で、三座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**宍粟郡(しさわぐん) 七座**

伊和坐大名持御魂神社(いわにますおおなもちみたまじんじゃ)。(注:現在は神戸郷伊和村にあり、神部明神と呼ばれる。)大己貴命を祀る。(注:播磨風土記・延喜式・峯相記による。)かつて大己貴が国土を修め造り、その事業が完成したとき、この地に至って「私の仕事は終わった」と言った。伊和(いわ)という名はここから起こった。(注:播磨風土記による。○伊和はまた「於和(おわ)」とも言い、「終わった」ということと同じ意味である。)神功皇后が韓を征伐した日、この神に霊験による加護があった。(注:峯相記による。)大同元年、本国に封戸十三戸を定められた。(注:新抄格勅符による。)貞観元年、従五位下勲八等から従四位下に進んだ。元慶五年(881年)、正四位下を加えられた。(注:三代実録による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮(いちのみや)と称された。(注:百錬抄・一宮記・峯相記による。○峯相記には正一位とある。)延元元年(1336年)、新田義貞(にったよしさだ)が神戸郷を奉納し、凶賊の滅亡を祈願した。(注:伊和社文書による。)おおよそ本国の国司として赴任する者は、必ずまず本社に参詣することを慣例とした。(注:峯相記による。)伊和氏(いわし)が代々神官を務めた。(注:峯相記・伊和社文書による。)

御形神社(みかたじんじゃ)。(注:国内帳には三方明神とある。現在は御形谷公文村にある。)おそらく大己貴神を祀る。この神はかつて天日槍(あめのひぼこ)とそれぞれ国の境を占おうとして、共に黒葛(つづら)三本を投げたところ、その一本がこの御形の里に落ちた、それがこの社である。(注:播磨風土記による。)

庭田神社(にわたじんじゃ)。(注:現在は伊和郷能倉村にあり、庭田明神と称する。)伊和大神(いわのおおかみ)の子孫神を祀る。(注:峯相記による。)

雨祈神社(あまごいじんじゃ)。(注:現在は千本屋村にあり、貴船明神と称する。)

与比神社(よいじんじゃ)。(注:国内帳には与位明神とある。現在は伊和郷与位村にあり、与位明神と称する。)素戔嗚尊を祀るが、実はこの神は伊和大神の父である。(注:峯相記・神社覈録による。)

大倭物代主神社(おおやまとものしろぬしじんじゃ)。(注:現在は下牧谷村にあり、諸守明神と称する。)おそらく大己貴命の和魂(にぎみたま)である大物代主神(おおものしろぬしのかみ)を祀る。(注:日本書紀・延喜式による。)

邇志神社(にしじんじゃ)。(注:峯相記には邇志とある。現在は伊和郷皆木村にあり、若螺明神と称する。)伊和大神の子孫神である。(注:峯相記による。)  以上六座は、延喜の制で共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**佐用郡(さようぐん) 二座**

佐用都比売神社(さよつひめじんじゃ)。(注:国内帳には鎮守佐用津姫明神とある。現在は佐用町にあり、佐用姫明神という。)大己貴神の妃である賛用都比売命(さよつひめのみこと)、またの名を玉津日女命(たまつひめのみこと)を祀る。この神はかつて大己貴神と田植えを競い、鹿を殺してその血を種籾に浸した。一晩で苗が生え、そこで残らず植え終えた。大己貴が驚いて「お前は五月夜に植えたのか」と言った。そこで賛用都比売の名がついたという。(注:播磨風土記による。)嘉祥二年(849年)、官社となった。(注:続日本後紀による。)

天一神玉神社(あめのひとつかみたまじんじゃ)。あるいは天一神(あめのひとつかみ)とも称する。(注:文徳実録による。○現在は東徳久村にある。)おそらく天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀る。(注:日本書紀・播磨風土記による。)天安元年(857年)、正六位上から従五位下を授けられ、まもなく官社となった。(注:文徳実録による。)  延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**美嚢郡(みなぎぐん) 一座**

御坂神社(みさかじんじゃ)。(注:国内帳には鎮守美坂明神とある。もとは志染中村にあり、三坂明神と称したが、後に志染上村に移った。)八戸挂御諸命(やとかけみもろのみこと)を祀るが、おそらく大己貴神の別名であろう。この神はすでに国造りの事業を終えると、志深里(しじみのさと)の三坂の峰に降り居たという。(注:播磨風土記による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**神埼郡(かんざきぐん) 二座**

新次神社(にいすきじんじゃ)。(注:現在は神東郡曾坂村にある。)味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀る。(注:播磨風土記による。)

田川神社(たがわじんじゃ)。(注:現在は神西郡須加院村にある。)  延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**多可郡(たかぐん) 六座**

荒田神社(あらたじんじゃ)。(注:現在は荒田村にある。)おそらく天目一箇神を祀る。大昔、この地に女神があり、道主日女命(みちぬしひめのみこと)といった。神と交わって子を生んだが、その父の名は分からなかった。そこで田を耕して稲を収穫し、醸して新酒を造り、諸神を宴に招き、その子に父神へ酒を勧めさせた。その子が杯を捧げて天目一箇神に奉ったところ、これによって初めてその神の子であることが分かった。田はその後荒れ果てたため、それによってこの地を名づけた。(注:播磨風土記による。)天平神護元年(765年)、本国に封戸四戸を充てられた。(注:新抄格勅符による。○峯相記によれば、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がとくにこの神を崇敬し、延暦年間に神領の四至(しいし)を定め、本国および丹波の貢物で神殿を改造し、馬六十匹を奉納した。遷座の日、朝廷は使者を派遣して正一位を授けたという。これはおそらく土地の人々に伝わる話であろう。しかし他の書物に証拠となるものがないため、付記して考察に備える。)後に本国の二宮(にのみや)と称された。(注:峯相記・神名帳頭注による。)

兵主神社(ひょうずじんじゃ)。(注:現在は岡村にある。)

古奈為神社(こないじんじゃ)。(注:国内帳には子動明神とある。現在は小苗村にある。)

加都良乃命神社(かつらのみことじんじゃ)。(注:一書には「命」の字がない。国内帳には縵明神とある。現在は間子村にあり、高田郷六村の氏神である。)おそらく大己貴命を祀る。その黒葛(つづら)を投げた故事にちなんでこの社を名づけたのである。(注:播磨風土記による。○葛は「かつら」と訓む。)

大津乃命神社(おおつのみことじんじゃ)。(注:国内帳には大津明神とある。現在は島村にある。)

天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)。(注:国内帳には天一目草上明神とある。現在は的場村にある。)天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀る。(注:姓氏録・神代巻口訣による。)  延喜の制で、六座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**賀茂郡(かもぐん) 八座**

崇健神社(すたけじんじゃ)。(注:現在は加西郡下道山村にあり、磯崎社と称するものが、あるいはこれに当たるか。)

石部神社(いそべじんじゃ)。(注:国内帳には賀茂西郡磯部明神とある。現在は加西郡在田村にあり、磯部明神という。)

坂合神社(さかあいじんじゃ)。(注:現在は加東郡社村にある。)

住吉神社(すみよしじんじゃ)。(注:現在は加東郡垂井荘喜多島村にある。垂井とはすなわち古くの河内里(かわちのさと)である。)住吉三神を祀る。この神がかつてこの地に降臨し、百姓が農事を祈願して霊験があったため、これを祀ったという。(注:播磨風土記による。)

菅田神社(すがたじんじゃ)。(注:国内帳には賀茂東郡菅田明神とある。現在は加東郡菅田村にあり、山王権現と称する。)おそらく菅田首(すがたのおびと)の祖である天目一箇命を祀る。(注:姓氏録・延喜式による。)

木梨神社(きなしじんじゃ)。(注:国内帳には賀茂東郡木梨明神とある。現在は加東郡木梨村にある。)

垣田神社(かきたじんじゃ)。(注:国内帳には賀茂東郡垣田明神とある。現在は加東郡上小田村にある。)

乎疑原神社(おぎわらじんじゃ)。(注:国内帳には賀茂西郡荻原明神とある。現在は加西郡繁昌村にあり、天神宮と称する。)伝えて少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀るという。(注:土地の人々の説による。)  延喜の制で、八座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(播磨)**

酒見神社(さかみじんじゃ)。現在は加西郡にある。(注:郡名は播磨事始による。○酒見北条村にあり、酒見明神と称する。あるいは式内の坂合神社がこれに当たるともいうが、まだ明証は得られておらず、ひとまず付記して考察を待つ。)大同元年、本国に封戸三戸を定められた。(注:新抄格勅符による。)後に本国の三宮(さんのみや)と称された。長久年間(1040〜1044年)以降、国司が代々田園を奉納し、四十余町に及んだ。おおよそ毎年四月上の丑の日に、神輿を飾磨津(しかまつ)まで奉じて祭を行った。建武二年(1335年)、社殿を改築し、山氏(やまし)が代々神主を務めた。(注:峯相記による。○もとの書には、一宮・二宮とともに正一位を授けられたとあるが、年月が明らかでないため付記しておく。)

足速手速神社(あしはやてはやじんじゃ)。所在は今は分からない。文徳帝(もんとくてい)の即位の年、従五位下を授けられた。(注:文徳実録による。)

速素戔嗚神社(はやすさのおじんじゃ)。所在は今は分からない。

速風武雄神社(はやかぜたけおじんじゃ)。飾東郡にある。(注:国内帳には早風武男命明神とある。)貞観八年(866年)、二神ともに従五位下を授けられた。

射目崎神社(いめさきじんじゃ)。飾東郡にある。(注:一説には、もとは飾西郡青山村桜木山にあり、山の北に小さな流れがあって射目埼川といった。中世、洪水で社が流され稲岡山に漂着したため、稲岡の祠に合祀したという。しかし地理が合わず、疑わしい。付記して後の考察を待つ。)貞観十年(868年)、正六位上から従五位下を授けられた。

姥女神社(おばめじんじゃ)。所在は今は分からない。元慶元年(877年)、正六位上から従五位下を加えられた。

英賀彦神社(あがひこじんじゃ)・英賀姫神社(あがひめじんじゃ)。ともに飾西郡にある。(注:国内帳によれば、二神は同じ社殿に祀られているという。現在は英賀村にある。)阿賀比古(あがひこ)・阿賀比売(あがひめ)の二神を祀り、ともに大己貴神の子である。(注:「祀る」以下は播磨風土記による。)元慶五年、ともに正六位上から従五位下に昇進した。(注:三代実録による。郡名は国内帳による。)

**美作(みまさか)**

**大庭郡(おおばぐん) 八座**

佐波良神社(さわらじんじゃ)。(注:波良はまた原とも書く。美作国内神社記には美和郷にあるという。現在は社村谷口の地にあり、四宮と称する。)おそらく美作・備前(びぜん)両国の国造(くにのみやつこ)に贈られた佐波良(さわら)、その玄孫である和気清麻呂(わけのきよまろ)が奉祀したものであろう。(注:日本後紀・尊卑分脈・宇佐託宣集による。○按ずるに、大化以後に国造の位を賜った者は、しばしば史書に見える。特にこの位号を賜って栄誉としたのであり、実際の封戸ではない。日本後紀によれば宝亀年間、和気清麻呂を美作・備前両国の国造とし、高祖父の佐波良以下、ともに国造を追贈された。清麻呂もまた実際の封戸を得た。旧事本紀には、和銅六年(713年)に備前国を割いて美作国造を置いたとあるが、人名を挙げていない。おそらくこのことによるのであろう。しかし吉備(きび)の地は、和気氏が代々居住し、その墳墓もみなそこにある。そのためこの地に祀ったのである。付記して考察に備える。)貞観六年(864年)、従五位下から従五位上を授けられた。(注:○もとの書には加佐美神とあるが誤りである。今は一本および神階記によった。)

形部神社(かたべじんじゃ)。(注:部はまた売とも書く。神社記には河内郷にあるという。現在は佐波良神社と同じ社にあり、五宮と称する。)貞観六年、従五位下から従五位上に進んだ。

壱粟神社(いちあわじんじゃ)二座。(注:神社記には久世郷にあるという。現在は社村にあり、六宮という。)壱粟(いちあわ)・大佐佐(おおささ)の二神を祀る。(注:神名は土地の人々の伝説による。)貞観六年、従五位下から従五位上を加えられた。(注:○もとの書には壱粟原とある。一本には「原」の字がない。今は延喜式によって訂正した。)

横見神社(よこみじんじゃ)。(注:神社記には大庭郷富西谷村にあるという。現在は社村にあり、十宮という。)

久刀神社(くとじんじゃ)。(注:刀はまた止とも書く。神社記には横田郷にあるという。現在は社村にあり、八宮という。)

菟上神社(うながみじんじゃ)。(注:神社記には布勢郷社村にあるという。現在はその村の和佐の地にあり、三宮という。)

長田神社(ながたじんじゃ)。(注:神社記には布勢郷下長田村にあるという。現在は社村にあり、九宮という。以上の八社は、神社記によればもとはそれぞれの郷にあったが、今は同じ一つの村にある。これは後の人がそうしたものである。しかし土地の人の説によれば、八座それぞれに神官がおり、祭儀も古式を保ち、仏事を厳しく忌むという。おそらくみな和気氏の一族の神であろう。そのため後にこれらを一つの村に祀ったのにも理由があるのだろう。付記して考察に備える。)貞観六年、四社ともに従五位下から従五位上を加えられた。(注:三代実録による。○もとの書ではこれら八社をすべて美濃国に属させているが誤りである。今は一本および延喜式によった。)  延喜の制で、八座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**苫東郡(とまひがしぐん) 二座**

中山神社(なかやまじんじゃ)。(注:中はまた仲とも書く。神社記には苫田郷西一宮村にあるという。現在は西北条郡に属し、中山明神と称する。)祀る神は備中(びっちゅう)の吉備津彦社(きびつひこしゃ)と同じ神である。(注:中山神社記による。○按ずるに、三備(備前・備中・備後)はともに吉備津宮を一宮としている。本国は和銅六年に備中から分かれて新たに置かれたのであり、当時この神も分けて祀ったのであろう。中山の号もまた吉備中山の名を襲ったものである。世俗ではあるいは古歌「真金吹く吉備中山」の詞によって鏡作りの祖である石凝姥(いしこりどめ)のことだとし、あるいは美濃の中山に付会して金山彦(かなやまひこ)のことだとするが、いずれも誤った説である。)貞観二年(860年)、正五位下から従四位下に進んだ。六年、官社に列せられた。翌年、従三位を加えられた。十七年(875年)、正三位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮と称された。(注:神名帳頭注・一宮記による。)古くは祭祀に必ず生贄(いけにえ)を供えるのを慣例とした。(注:宇治拾遺物語による。○按ずるに、古くは神を祀るのにしばしば鳥獣を用い、これを生贄といった。和名抄に「犧牲」を「いけにへ」と訓むのはこれである。しかしもとの書ではこれを生きた人間を用いる事のように誤って伝えているが、まったく根拠のない説で論じるに値しない。)毎年正月十六日に、必ず雌雄の鹿を供え、これを神鹿祭(しんろくさい)と呼んだ。(注:社記による。)

高野神社(たかのじんじゃ)。(注:伯家部類には「野」を「屋」に作る。神社記には田中郷二宮村にあるという。現在は西西条郡に属し、高野明神と称する。)貞観六年、従五位下から従五位上を加えられた。十七年、正五位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の二宮と称された。(注:神名帳頭注による。)古くは祭祀にやはり生贄を用いたという。(注:宇治拾遺物語による。)

**英多郡(あいだぐん) 一座**

天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)。(注:神社記には川会郷宮地村にあるとされ、現在も同じである。十一宮という。)おそらく神皇産霊尊(かみむすひのみこと)の子である天石都倭居命(あめのいわとわいのみこと)を祀る。(注:姓氏録・延喜式による。○按ずるに、旧事本紀によれば、大伯(おおく)・吉備中県(きびのなかつあがた)の国造は、ともに神皇産霊の後裔である。本国および備前でこの神を祀るのは、あるいはこれによるものか。付記して考察に備える。)貞観五年(863年)、従五位下から従五位上を加えられた。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(美作)**

奈癸神社(なぎじんじゃ)。(注:癸はまた美とも書く。)勝田郡(かつたぐん)にある。(注:神社記には広岡郷成松村にあるとされ、現在は勝北郡に属する。伝承によれば、社はもと村中の奈義山(なぎさん)の上にあったが、後にその山の麓に移されたという。)

大佐佐神社(おおささじんじゃ)。苫東郡にある。(注:神社記には高倉郷大佐佐村にあるとされ、現在は東北条郡に属する。大篠山にあり、大築社と称する。)貞観五年、二社ともに従五位下から従五位上に昇進した。

前社神社(さきしゃじんじゃ)。所在は今は分からない。貞観六年、従五位下から従五位上を加えられた。

御鴨神社(みかもじんじゃ)。真島郡(まじまぐん)にある。(注:神社記には美甘郷美甘村にあるという。伝えるところでは、もとはその村の中の宮座山にあったが、後に二か所に分かれた。一つは美甘村町頭に、一つは新荘村梨瀬虫身壇にある。)伝承によれば味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀るという。(注:神名は土地の人々の説による。)貞観十七年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。郡名は神社記による。)

御鴨神社。真島郡にある。(注:神社記には美甘郷美甘村にあるという。伝えるところでは、もとはその村の中の宮座山にあったが、後に二か所に分かれた。一つは美甘村町頭に、一つは新荘村梨瀬虫身壇にある。)伝承によれば味耜高彦根命を祀るという。(注:神名は土地の人々の説による。)貞観十七年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:三代実録による。郡名は神社記による。)

**備前(びぜん)**

**邑久郡(おくぐん) 三座**

安仁神社(あにじんじゃ)。(注:現在は藤井村にある。)承和八年(841年)、名神にあずかった。(注:続日本後紀による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:延喜式による。○備前国内神名帳では正二位とされる。)

美和神社(みわじんじゃ)。(注:現在は須恵郷東須恵村にある。社のそばに榊谷(さかきだに)があり、谷の中に美和井(みわい)がある、これを証とすることができる。)大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る。(注:日本書紀・土地の人々の伝説による。○按ずるに、旧事本紀によれば、大昔、大物主神が茅渟県(ちぬのあがた)に降り居て、大陶祇(おおすえつみ)の娘を娶ったという。日本書紀によれば、陶(すえ)とはすなわち邑の名で「すえ」と訓む。今この社は須恵郷にあり、これもまた由縁があるように思われる。付記して考察に備える。国内帳では従三位とされる。)

片山日子神社(かたやまひこじんじゃ)。(注:国内帳には従二位賀多山大明神とある。もとは国府山の上にあった。山の麓に一つの村があり、これもまた社の名によって片山家(かたやまけ)と呼ばれた。後に土師村(はじむら)と改められ、社をここに遷したという。)伝承によれば賀茂片山御子神(かものかたやまのみこがみ)を祀るという。(注:土地の人々の伝説による。小右記を参酌した。○按ずるに、備前国誌には大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀るとあるが、まだ明証は得られていない。ただし山城国上賀茂の摂社に片山御子社があり、片山日子とその名が近く、これと同じ神ではないかと思われる。付記して考察に備える。)  延喜の制で、二座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**赤坂郡(あかさかぐん) 六座**

鴨神社(かもじんじゃ)三座。(注:現在は仁堀西村鴨谷にある。)おそらく賀茂御祖神(かものみおやのかみ)および別雷神(わけいかづちのかみ)を祀る。(注:神名帳頭注による。)山城国の賀茂社の社司が代々この社の祭務を管掌したという。(注:備前国誌による。)

宗形神社(むなかたじんじゃ)。(注:現在は是里村にある。)伝えるところでは胸形三神(むなかたのさんしん)を祀るという。(注:土地の人々の説による。○国内帳では従四位上とされる。)

石上布都之魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)。(注:国内帳には従四位下布津明神とある。現在は石上村にあり、そのまま布津明神と称する。)おそらく素戔嗚尊が大蛇を斬った剣、いわゆる蛇の麁正(おろちのあらまさ)、またの名を天羽羽斬(あめのはばきり)というものを祀る。(注:日本書紀・神名帳頭注による。またの名は古語拾遺による。○按ずるに、日本書紀には、大蛇を斬った剣は今吉備の神部(かんべ)の許にあるとし、これがすなわちこれである。また石上にあるともいい、これもこの地のことである。古語拾遺には石上神宮にあるというが、おそらくこれもこの社を指すのであろう。後世には大和国の石上社がとりわけ著名になったため、古語拾遺の説を大和の石上のことだと疑い、かつ崇神天皇の朝にこの大蛇を斬った剣をここへ遷したとするのは、おそらく誤りであろう。)

布勢神社(ふせじんじゃ)。(注:国内帳には従二位布施大明神とある。もとは中勢実村龍天山にあったが、後に仁堀西村に遷った。)おそらく布勢君(ふせのきみ)の祖である意富富杼王(おおほどのみこ)を祀る。(注:古事記・吉備温故による。)  延喜の制で、六座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**和気郡(わけぐん) 一座**

神根神社(かんねじんじゃ)。(注:現在は神根保神根本村にある。)貞観七年(865年)、正六位上から従五位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。○国内帳では従二位とされる。)

**上道郡(じょうとうぐん) 四座**

大神神社(おおみわじんじゃ)四座。(注:現在は四御神村にある。社地の東北に松山地があり、これがその旧跡であるという。)伝えるところでは大物主(おおものぬし)・少彦名(すくなひこな)・三穂津姫(みほつひめ)・大己貴(おおなむち)の四神を祀るという。(注:社家の伝説による。○按ずるに、大三輪社の鎮座次第によれば、大物主とはすなわち和魂(にぎみたま)であり、大己貴とはおそらく荒魂(あらみたま)の称であろう。付記して考察に備える。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**御野郡(みのぐん) 八座**

石門別神社(いわとわけじんじゃ)。(注:国内帳には従二位天津石門別大明神とある。現在は田住村にあり、もとは石門神社と称した。)おそらく天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を祀る。(注:古事記・延喜式による。)

尾針神社(おばりじんじゃ)。(注:現在は伊福郷上伊福村に属する邑の別所にあり、栗岡宮と呼ばれる。宝徳年間、神像を納めた匣の銘には尾針神大明神とある。)おそらく尾張連(おわりのむらじ)の祖である天火明命(あめのほあかりのみこと)を祀る。(注:古事記・旧事本紀・延喜式を参酌した。○按ずるに、姓氏録によれば尾張氏の一族に伊福部(いふくべ)の姓がある。そして和名抄にはこの郡に伊福郷があり、邑久郡には尾張郷がある。これによればこの一族はこの国に居住した者がいて、その祖神を祀ったのであろう。国内帳では正五位下とされる。)

天神社(てんじんじゃ)。(注:国内帳には従四位上天許明神とある。「許」は一本には「津」とあり、これが正しい。社は今三野村天神山にある。)

伊勢神社(いせじんじゃ)。(注:現在は岡山小畑村にあり、伊勢宮という。国内帳では従四位下とされる。)

天計神社(あまはかりじんじゃ)。(注:国内帳には従二位下天許明神とある。「二」はおそらく「四」の誤りで、「許」は一本には「計」とあり、これが正しい。社は今北方村にあり、八幡宮と称する。)伝えるところでは手置帆負(たおきほおい)・彦狭知(ひこさしり)の二神を祀るという。(注:土地の人々の伝説による。)この二神は天祖(あまつみおや)に仕え、天御量(あめのみはかり)をもって宮室や諸々の器物を造ったので、(注:古語拾遺による。)この名があるという。

国神社(くにじんじゃ)。(注:国内帳には従四位下国津明神とある。現在は下伊服村に属する邑三門にある。)

石門別神社。(注:国内帳には一本に天津石門別とある。現在は大供村にあり、戸隠宮という。)

尾治針名真若比女神社(おわりのはりなまわかひめじんじゃ)。(注:国内帳には従四位下尾張針田明神とある。「針田」の下に一本には「真若比女」の四字がある。社はもと北方村に属する邑四日市花園の地にあったが、後に廃れた。それによってこれを村中の御崎宮の境内に建てた。あるいはいう、郡の北に半田山(はんだやま)があり、「半田」はすなわち「針田」の訛りで、おそらく旧社地であろうと。)おそらく尾張連の祖である建稲種命(たけいなだねのみこと)の娘である尻調真若刀婢命(しつきまわかとべのみこと)、およびその孫である尾治針名根連(おわりのはりなねのむらじ)を祀る。尻調真若刀婢はまたの名を志理都紀斗売(しりつきとめ)といい、景行天皇(けいこうてんのう)の皇子である五百木之入日子命(いおきのいりひこのみこと)の妃である。(注:古事記・旧事本紀を参考にした。)  延喜の制で、八座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**津高郡(つたかぐん) 二座**

鴨神社。(注:現在は賀茂郷上加茂村にある。)おそらく笠臣(かさのおみ)の祖である鴨別命(かもわけのみこと)を祀る。(注:日本書紀・姓氏録・延喜式による。)応神天皇(おうじんてんのう)の御代、鴨別がこの地に食封(じきふ)を得て、その子孫である笠氏(かさし)が代々ここに居住した。そのためこれを祀ったのである。(注:日本書紀による。○国内帳では従四位下とされる。)

宗形神社。(注:現在は大漥村にある。)  延喜の制で、二座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**児島郡(こじまぐん) 二座**

鴨神社。(注:現在は賀茂郷長尾村にある。)

田土浦坐神社(たつちうらにますじんじゃ)。(注:現在は田之浦村にある。「土」はおそらく「之」の誤りであろう。)  延喜の制で、二座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**備中(びっちゅう)**

**漥屋郡(くぼやぐん) 三座**

百射山神社(ひゃくしゃさんじんじゃ)。(注:もとは神戸村百射山にあったが、後に三輪村に属する邑小屋に移った。)

足高神社(あしたかじんじゃ)。(注:現在は篠沖村奥津島山にある。)

菅生神社(すごうじんじゃ)。(注:現在は子位荘村祐安小丸山にある。)元慶二年、従五位下から従五位上を加えられた。(注:三代実録による。)  延喜の制で、三座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**賀夜郡(かやぐん) 四座**

吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)。(注:現在は宮内村吉備中山にある。山頂を茶臼山といい、すなわち王墓である。それに臨んで祠を建てたのである。)大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を祀る。(注:日本書紀・古事記・延喜式・吉備津社記による。)吉備津彦は、崇神天皇(すじんてんのう)の朝に、弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)とともに吉備国を平定した功があった。(注:日本書紀・古事記による。)そのため社を建てて祀り、明神とした。(注:続日本後紀・延喜式による。)承和十四年(847年)、従四位下を授けられた。翌年、従四位上に昇進した。(注:続日本後紀による。)仁寿二年(852年)、四品に進んで官社となり、封戸二十戸を充てられた。斉衡二年(855年)、神庫の鈴と鏡がひとりでに鳴ったことにより、使者を遣わして幣帛を奉らせた。天安元年、三品を加えられた。(注:文徳実録による。)貞観元年、二品に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮と称され、(注:一宮記による。)吉備津宮(きびつのみや)と号した。(注:百錬抄・一宮記・諸社根元記による。)天慶三年、一品を加えられ、承平年間の海賊平定祈願に報いた。(注:長寛勘文による。)社司の賀陽朝臣(かやのあそん)は稚武彦命の子孫として、代々奉祀した。(注:扶桑略記所引の善家秘記・元亨釈書による。稚武彦の子孫であることは日本書紀による。)正平六年(1351年)、社殿が火災に遭った。二十二年(1367年)に至り、雑掌の賀陽宗勝(かやのむねかつ)が上言して、「速やかに守護所に命令を下し、武士で神地を侵している者を停止させ、その財賦を徴収して修営し旧に復されたい」と願い出た。(注:貞治六年の文書による。宗勝の姓は吉備国史による。)

古郡神社(ふるごおりじんじゃ)。(注:現在は八田部村に属する邑西山宮山にある。永仁六年の服部郷古図によれば、村の東に古郡里があり、社名はこれによる。)伝えるところでは吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)を祀るという。(注:社伝による。)

野俣神社(のまたじんじゃ)。(注:現在は八田部村総社境内の天神山にあり、沼田天神と称する。「野俣」とはすなわち「沼田(ぬまた)」のことである。)伝えるところでは大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)を祀り、大物主・少彦名の二神を配祀するという。(注:社伝による。)上古、この地は水がたまって沼となっていたが、次第に変じて田となり、ついに肥沃な土地を得た。そのためこの地に社を建てたという。(注:沼田神社記による。)

鼓神社(つづみじんじゃ)。(注:現在は上高田村にあり、二宮と称する。)伝承によれば高田媛(たかたひめ)を祀り、吉備津彦命を配祀するという。高田媛は、国人である楽楽森彦(ささもりひこ)の娘で、吉備津彦の妃である。(注:土地の人々の伝説による。)  延喜の制で、三座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**下道郡(しもつみちぐん) 五座**

石畳神社(いしだたみじんじゃ)。(注:現在は秦下村にある。社地に巨岩があり、幾重にも積み重なって高くそびえ、世の人はこれを石畳と呼ぶ。社名はこれに基づく。)

神神社(みわじんじゃ)。(注:現在は下原村に属する邑八代にある。)おそらく大物主神を祀る。美和首(みわのおびと)の一族でこの国に居住した者が奉祀したものである。(注:姓氏録・延喜式・東大寺正倉院文書を参考にした。○按ずるに、文書によれば、天平十一年(739年)、この国の漥巫郡美和郷の戸主である美和首広床(みわのおびとひろとこ)、神首伯(かんのおびとはく)、神人部赤猪(かんとべのあかい)とある。今、国の地図を検すると、漥屋郡は下道郡と隣接し、その地に三輪村があり、おそらく古くの美和郷で、美和氏が居住した地であろう。)

麻佐岐神社(まさきじんじゃ)。(注:現在は秦下村正木山にある。)

横田神社(よこたじんじゃ)。(注:現在は久代村横田の地にある。)伝えるところでは天穂日命(あめのほひのみこと)を祀るという。(注:横田社記による。)

穴門山神社(あなとやまじんじゃ)。(注:現在は川上郡高山市村にあり、赤浜権現と称する。社の後ろに石門があり、深さは五丈ほどである。土地の人はこれを一の木戸と呼び、また二の木戸・三の木戸がある。いわゆる穴門とはこれのことである。)  延喜の制で、五座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**小田郡(おだぐん) 三座**

在田神社(ありたじんじゃ)。(注:現在は有田村にある。)伝承によれば宗像三神(むなかたのさんしん)を祀るという。(注:有田社記による。)

神島神社(かみしまじんじゃ)。(注:現在は神島外浦にあり、興世明神と称する。もとの社地は高島の王泊にあった。)伝えるところでは太祖(たいそ)の霊を祀るという。(注:神島社記による。)天皇が東征したとき、吉備の高島宮に行幸し、三年間留まった。それがこの地である。(注:日本書紀による。)

鵜江神社(うのえじんじゃ)。(注:現在は宇内村に隣接する邑河面村にあり、鵜宮という。「宇内」はおそらく「鵜江」の転訛であろう。)おそらく楽楽森彦命を祀る。吉備津彦命が賊を討ったとき、賊の一人が水に飛び込んで逃げ、楽楽森彦がこれを追って捕らえたが、その様子が鵜(う)が水に潜るようであったため、こう名づけたという。(注:一宮社伝記による。)  延喜の制で、三座は同じく小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**後月郡(しつきぐん) 一座**

足次山神社(あしすきやまじんじゃ)。(注:現在は廃絶している。東西の吉井村は、古くの足次郷の属地である。二つの村の間に一つの山があり、その上に阿佐宮(あさのみや)の地があり、おそらくその旧跡であるという。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**英賀郡(あがぐん) 二座**

比売坂鍾乳穴神社(ひめさかかなちあなじんじゃ)。(注:現在は赤馬村にあり、日売宮明神という。)

井戸鍾乳穴神社(いどかなちあなじんじゃ)。(注:現在は井尾村井戸野にあり、岩山明神という。)貞観元年、典薬頭(てんやくのかみ)の出雲朝臣岑嗣(いずものあそんみねつぐ)を遣わして石鍾乳を採らせた際、二社の所在がすなわちその地であった。(注:三代実録による。)  延喜の制で、二座は同じく小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(備中)**

宮原神社(みやはらじんじゃ)。現在は賀夜郡にある。(注:郡名は備中神社考による。○下足守村にある。)貞観六年、正六位上から従五位下を授けられ、まもなく従五位上に進んだ。(注:三代実録による。)

**備後(びんご)**

**安那郡(やすなぐん) 二座**

多祁伊奈太伎佐耶布都神社(たけいなだきさやふつじんじゃ)。(注:現在は山野村原谷にある。おそらく本社は奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・素戔嗚尊を祀るのであろう。延喜式によれば、山城国には健伊那太比売社(たけいなだひめしゃ)があり、能登国には久志伊奈太伎比咩社(くしいなだきひめしゃ)があって、ともに奇稲田姫命を祀るとされ、「多祁伊奈太伎」の称はこれと近い。「佐邪布都」とはおそらく利剣(りけん)ということであろう。素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)で大蛇を斬り、宝剣を得たので、これにも剣神の称があるのだろうか。付記して考察に備える。)

天別豊姫神社(あめわけとよひめじんじゃ)。(注:現在は神辺駅川北村黄葉山にある。)元慶二年、従五位下から従五位上に昇進した。(注:三代実録による。)延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**深津郡(ふかつぐん) 一座**

須佐能袁能神社(すさのおのじんじゃ)。(注:現在は品治郡江熊郷戸手村にある。)素戔嗚尊を祀る。またの名を疫隅国社(えのくまのくにしゃ)という。伝えるところでは、この神はかつて北の海に住み、南の海の神の娘のもとへ行こうとしたという。その地に兄弟二人があり、兄は貧しく弟は富んでいた。ある夜、神が弟の家を訪れて宿を求めたが、許されなかった。そこであらためて兄の家を訪れたところ、兄は粟の茎を敷いて席とし、粟を炊いて饗応した。その後、神はその八人の子を率いて兄の家に至り、「お前の家の者はみな無事か」と尋ねた。「私の妻と娘がおります」と答えると、神はこれに教えて、腰に茅の輪(ちのわ)を着けさせた。そして弟の家に至り、その一族を滅ぼした。そこで兄に向かって「私は素戔嗚神である。もし疫病が流行ることがあれば、自分の子孫と称して腰に茅の輪を着けている者は、その害を免れさせよう」と告げた。本社の起こりはここにあるという。(注:釈日本紀・古事記裏書、ともに備後国風土記を引く。○按ずるに、風土記および日本紀纂疏では、素戔嗚尊を武塔神(むとうのかみ)とし、兄弟二人を蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)としている。神名・人名ともに疑わしい。おそらくその書はもとより古老の伝聞を記録したもので、誤り伝わることがないとは言えない。そのため今はただその大意のみを取る。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**奴可郡(ぬかぐん) 一座**

爾比都売神社(にひつひめじんじゃ)。(注:按ずるに、九代村に高野権現の祠がある。その地を爾比都山という。おそらく旧社の所在地で、後に西城町に遷り、今は廃絶している。)おそらく紀伊国の丹生都比女社(にうつひめしゃ)と同じ神であろう。(注:釈日本紀所引の播磨風土記・延喜式による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**沼隈郡(ぬまくまぐん) 三座**

高諸神社(たかもろじんじゃ)。(注:現在は今津村町前の地にあり、剣明神という。)伝承によれば素戔嗚尊を祀るという。(注:備後式社考による。)貞観九年(867年)、従五位上から正五位下に進んだ。(注:三代実録による。)

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)。(注:現在は鞆浦にあり、渡明神という。)おそらく和多須神(わたすのかみ)を祀る。(注:延喜式・神社啓蒙・福山志料による。○按ずるに、諸書には本社は船玉神(ふなたまのかみ)、すなわち猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀るとあるが、おそらく誤りであろう。神功皇后が海路の安全を祈願し、渡明神と名づけたのであり、これが海神であることは明らかである。「渡」を「わたす」と読むのは、隠岐国の海神社で「和多須神」と称するのと同じであり、おそらく海神である豊玉姫を指すのであろう。付記して考察に備える。)神功皇后が韓を征伐した日、御船をこの浦に泊め、鞆(とも)を神璽として奉り、この神を祀って海路の安全を祈願した。(注:神社啓蒙・和漢三才図会・八幡宮本紀による。)

比古佐須伎神社(ひこさすきじんじゃ)。(注:現在は長和村彦山にあり、彦明神という。)  延喜の制で、三座は同じく小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**品治郡(ほんじぐん) 一座**

多理比理神社(たりひりじんじゃ)。延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**葦田郡(あしだぐん) 二座**

賀武奈備神社(かむなびじんじゃ)。(注:あるいは甘南備とも書く。現在は出口村三室山にあり、神南備明神と称する。)伝承によれば大己貴命・少彦名命・事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀るという。(注:福山志料による。)貞観九年(867年)、従五位上から正五位下に進んだ。元慶二年、正五位上を加えられた。(注:三代実録による。)

国高依彦神社(くにたかよりひこじんじゃ)。(注:現在は藤尾村父尾市町鉱山にある。)  延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**甲奴郡(こうぬぐん) 一座**

意加美神社(おかみじんじゃ)。(注:現在は稲草村伊賀美谷にある。)高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。

**三上郡(みかみぐん) 一座**

蘇羅比古神社(そらひこじんじゃ)。(注:現在は本村鍬崎山下にある。)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祀る。

**恵蘇郡(えそぐん) 一座**

多加意加美神社(たかおかみじんじゃ)。(注:現在は向泉村宝蘇山にある。もとは宮内村八国見山にあったが、後に今の地に遷り、八国見明神という。)高龗神を祀る。(注:日本書紀・延喜式・土地の人々の説による。)

**御調郡(みつきぐん) 一座**

加羅加波神社(からかわじんじゃ)。

**世羅郡(せらぐん) 一座**

和理比売神社(わりひめじんじゃ)。(注:現在は本郷村にある。)

**三谿郡(みたにぐん) 一座**

知波夜比売神社(ちはやひめじんじゃ)。(注:現在は三良坂村御箱山にある。あるいは高杉村に二宮千早彦明神があるというが、これを「二宮」と称するのは、おそらく三良坂社に対していう呼び方であり、三良坂社がもとの社であることは疑いないようである。)

**三次郡(みよしぐん) 一座**

知波夜比売神社。(注:現在は下布野村布野山にあり、振社と称する。あるいは、もとは姫嶽宮壇にあり、郡中総鎮守と称したという。今もその付近を千早垣内と称する。後に祠が壊れたため、これを高尾山八幡祠の内に遷し、さらにその祠の後ろに遷した、これが今の地であるという。)

**官帳不載者(備後)**

大蔵神社(おおくらじんじゃ)・神田神社(かんだじんじゃ)。二社とも現在は品治郡にある。(注:郡名は福山志料による。○大蔵社は現在岡村小池谷にあり、神田社は雨木村にあり、岩塁神社と称する。雨木村に神田という地名があり、社名の由来はおそらく和名抄に載る神田郷の名残であろう。)貞観二年(860年)、ともに正六位上から従五位下を加えられた。

大神神社(おおみわじんじゃ)・天照真良建雄神社(あまてるまらたけおじんじゃ)。二社とも今は所在が分からない。貞観三年、ともに正六位上から従五位下を加えられた。

隠島神社(おきしまじんじゃ)。(注:按ずるに、和名抄・芸藩通志によれば、本社は御調郡にあるはずで、「因島」と「隠島」は音訓が同じであるが、所在は今は分からない。付記して考察に備える。)元慶二年、従五位下を授けられた。(注:三代実録による。)

**安藝(あき)**

**佐伯郡(さえきぐん) 二座**

速谷神社(はやたにじんじゃ)。(注:現在は佐西郡上平良村にあり、二宮速田明神という。)おそらく本国国造の祖である飽速玉命(あきはやたまのみこと)を祀る。(注:旧事本紀・土地の人々の説による。○土地の人々の言い伝えでは、上古、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が最初にこの地に降臨し、神の烏(からす)がこれに従ったという。当時、磐木翁(いわきのおきな)という者がいてこの神烏を養っていた。後に祠を建てて祀ったのが、この社であるという。その近くの地に磐木社があり、「磐木」と「飽」とは訓が通じる。「速玉」「速谷」「速田」もまたいずれも訓読が通じる。その説にもいくらか根拠があるようである。付記して考察に備える。)弘仁二年(811年)、名神に列せられ、四時の幣にあずかった。(注:日本後紀による。)貞観元年、従五位上から従四位下に進んだ。九年、従四位上に昇進した。(注:三代実録による。)延喜には、なお弘仁の制のままに、あわせて大社に列せられた。(注:延喜式による。)天慶三年、正四位下を加えられ、承平年間の海賊平定祈願に報いた。(注:長寛勘文による。)厳島(いつくしま)社の社司が代々祭事を管掌したという。(注:安芸式社考・芸藩通志による。)

伊都伎島神社(いつきしまじんじゃ)、厳島神社(いつくしまじんじゃ)。(注:現在は佐西郡宮島にある。)市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る。(注:一宮記・神名帳頭注による。)田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を配祀する。(注:諸社根元記・厳島道芝記・芸藩通志による。○道芝記・通志にはともに、社殿の内にはまた国常立尊(くにのとこたちのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・素戔嗚尊を祀り、また別殿に天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)・天穂日命・天津彦根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)を祀るとあるが、これはおそらくすべて後世に付け加えられたものであろう。そのため今はこれを採らない。)伝承によれば、推古天皇(すいこてんのう)の御代に恩賀島(おんがじま)、すなわち今の厳島に祠を創建し、佐伯鞍職(さえきのくらもと)が初めて祭祀を奉じ、その子孫が代々社務を管掌したという。(注:厳島社文書・諸社根元記による。○厳島道芝記に載る伝説によれば、はじめ鞍職が恩賀島にいたとき、たまたま錦の帆をかけた船が西の海からやって来た。船の中に三柱の神女があり、「私は厳島の大神である。百代の王をお守りすると誓おう」と言った。鞍職は驚き怪しんでこれを奏上した。ちょうど京にも吉兆があり、天皇もこれを不思議に思い、勅命により社を建ててこれを祀らせたという。付記して考察に備える。)弘仁二年、名神に列せられ、四時の幣にあずかった。(注:日本後紀による。)貞観元年、正五位下から従四位下に進んだ。九年、従四位上を加えられた。(注:三代実録による。)延喜の制で、なお旧のごとく名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮と称された。(注:源平盛衰記・一宮記による。)

天慶三年、承平年間の海賊平定祈願に報い、正四位下を授けられた。(注:長寛勘文による。)久寿元年(1154年)、高田郡三田郷を神領に充てられた。仁安元年(1166年)、神領志道原荘の券契を定めた。三年、神主の佐伯景弘(さえきのかげひろ)が上言して、「本社が損壊した場合、必ず上奏を経て、宣旨を賜って修造するのを慣例としてまいりました。しかし今、景弘は先祖の遺志を継ぎ、私財をもって修営し、旧来のものを改めてさらに壮麗にいたしました。ひそかに恐れますのは、この後もし損壊することがあれば、修復する人がいなくなることです。伏してお願い申し上げますのは、今後は諸社の例に準じ、破損があるたびに本国の官吏に重任・遷任の功を募らせ、その修造を遂げさせ、永く廃れることのないようにされたい」と願い出た。嘉応二年(1170年)、壬生荘(みぶのしょう)を奉り、朝家および建春門院(けんしゅんもんいん)の祈祷料に充てた。安元元年(1175年)、春木市折の二村の田十三町余りを定めて神供田とした。二年、中原業長(なかはらのなりなが)が高田郡七郷を奉納した。(注:厳島社文書による。)承安四年(1174年)、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が建春門院とともに社に行幸した。平清盛(たいらのきよもり)がこの神を崇敬したことによる。(注:玉葉・百錬抄・源平盛衰記による。)治承二年(1178年)、中宮のご懐妊により幣を奉った。まもなく安徳天皇(あんとくてんのう)が誕生した。(注:山槐記による。)翌年、朝廷の議で本社を二十二社に列することが議論されたが決まらなかった。特に春・冬の中の月の上の申の日に祭を行い、内蔵寮(くらりょう)の幣を奉ることと定められた。(注:玉葉・百錬抄・源平盛衰記による。)この年、清盛の弟である平頼盛(たいらのよりもり)が安摩荘の輸物を奉って日供料に充てた。(注:厳島社文書による。)四年、高倉上皇(たかくらじょうこう)が再び行幸し、宸筆の願文を奉った。(注:百錬抄・古今著聞集・源平盛衰記による。)

はじめ清盛が本国の国司であったとき、神殿を修営した。夢の中で神が薙刀(なぎなた)を賜り、「お前はこれをもって朝廷を守護せよ。もし無道を行えば、子孫は必ず絶えるであろう」と戒めた。後に果たしてその通りになった。(注:平家物語による。)文治五年(1189年)、源頼朝(みなもとのよりとも)が内部荘を奉って神楽料に充て、奥羽での戦勝を祈願した。正治元年(1199年)、朔幣(さくへい)および御供などの田を定めた。承元元年(1207年)、社が火災に遭ったことにより、勅命により国務に付して社司に修造させた。(注:厳島社文書による。)貞応元年(1222年)、藤原頼経(ふじわらのよりつね)が本国の千与末地頭職を本社に充てた。(注:東鑑による。)嘉禎元年(1235年)、これより先に社が火災に遭い、国司に修造させたが、久しく成らなかった。ここに至って国務に付し、一切を社司の営作に任せた。仁治二年(1241年)に及んで、社司が上言して、「本社の造営は、承元の例に考えれば、内宮一所だけでもなお一万七千五十余石の費用がかかります。しかし今造る内・外二宮は、節減に従うといっても、費用はかえって倍かかります。本国の年間の済物(さいもつ)は一千六十余石ですが、国用に二百石を要し、残るところは八百六十余石にすぎません。官吏の職務で得られるところはわずか五千百六十余石にとどまります。これをもって費用に充てるには、何代もかけなければ、事業を終えることができません。今、長官の親実(ちかざね)は年すでに七十歳で、命は旦夕に迫っております。まだ土木の工事を終えていませんが、速やかに遷宮の礼を行いたいと存じます。かつ任期が満ちて去任すれば、造営は完全にできません。もし両任が満年となれば、国務は抑留を免れません。進退窮まり、伏して天裁を仰ぎます」と述べた。その後二年、神領の井原村を造営料に充て、その地は半ばを輸ぜしめた。これに至って永くすべてを本社に給することとなった。延元以後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が造営を奉じ、果たして已斐村(えいむら)にまで及んだ。弘和の初めに至り、大内義弘(おおうちよしひろ)が志芳荘を献じ、あわせて営繕料に充てた。(注:厳島社文書による。)後世、祭日は正月下の亥の日を用い、国司が使いを遣わして幣を奉ったが、後に廃れた。(注:拾芥抄による。)そのほか仲春・仲冬の二祭は、治承の例によるもので、仲冬のものを鎮座祭と名づけ、その儀礼が最も重んじられた。国司が属官を率いて幣を奉ったので、また国祭とも称された。社司には棚守(たなもり)、(注:また社奉行とも称する。)上卿(じょうけい)、(注:二員あり、一人は奉幣使代、一人は神主代と称する。)祝師(はふりし)、大行事、(注:また御貢奉行とも称する。)検校(けんぎょう)、横竹(よこたけ)、修理行事、小行事などの職があった。そのほか舞人・楽人・内侍・神楽男・祝者なども数多くいた。(注:厳島道芝記・芸藩通志による。)

**安藝郡(あきぐん) 一座**

多家神社(たけじんじゃ)。(注:現在は府中村にあり、三宮、また総社明神と称する。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられ、まもなく従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(安藝)**

大麻天神社(おおあさてんじんじゃ)。山県郡(やまがたぐん)にある。(注:郡名は和名抄・安芸国内神名帳による。○もとは大麻村にあったが、後に祠が廃れた。それにより威徳天神社(いとくてんじんじゃ)に合祀された。)

伊都岐島中子天神社(いつきしまなかごてんじんじゃ)。今は所在が分からない。

水分天神社(みくまりてんじんじゃ)。現在は安藝郡にある。(注:郡名は芸藩通志による。○府中村杣原にある。)

天社天神社(あまのやしろてんじんじゃ)。沼田郡(ぬまたぐん)にある。(注:郡名は国内帳による。)貞観元年、四座ともに正六位上から従五位下に進んだ。(注:○国内帳によれば、二位大麻明神、正二位水別明神、三位天津社明神とある。ただし島中子天神の位階は欠けている。)

天磐門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)。現在は山県郡にある。(注:郡名は土地の人々の説による。○岩戸村に隣接する邑宮迫村奥岩戸にあり、磐田宮という。)おそらく豊磐窗神(とよいわまどのかみ)・櫛石窗神(くしいわまどのかみ)を祀る。(注:神名は古事記による。)

在屋神社(ありやじんじゃ)。沼田郡にある。(注:郡名は国内帳による。)貞観五年、ともに正六位上から従五位下に進んだ。(注:○国内帳によれば、三位有屋明神とある。ただし天磐門別神の位階は欠けている。)

安藝津彦神社(あきつひこじんじゃ)。今はその所在が分からない。

生石神社(おいしじんじゃ)。沼田郡にある。(注:郡名は国内帳による。)

伊都島宗形小専神社(いつしまむなかたおせんじんじゃ)。(注:「島」の上に「岐」の字が脱けているのではないかと思われる。)所在は今は分からない。

榅樌神社(うつぎじんじゃ)。所在もまた分からない。  貞観九年、四座ともに正六位上から従五位下に昇進した。(注:○国内帳によれば、正二位阿芸都彦明神、四位生石明神、従三位宗方小専明神、正三位榅樌明神とある。)

風伯神社(ふうはくじんじゃ)。安藝郡にある。(注:郡名は和名抄・国内帳による。)元慶七年(883年)、正六位上から従五位下に進んだ。(注:三代実録による。○国内帳には四位風伯明神とある。)

**周防(すおう)**

**熊毛郡(くまげぐん) 二座**

熊毛神社(くまげじんじゃ)。(注:現在は呼坂村勝間の地にあるものが、おそらくこれであろう。)天平九年(737年)、神託があったことにより、春祭の酒料として稲四十束を充てられた。(注:東大寺正倉院文書による。)

石城神社(いわきじんじゃ)。(注:現在は塩田村岩城山上にあり、岩城権現と称する。)おそらく石城(いわき)・周防(すおう)二国の国造の祖である天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀る。(注:古事記・旧事本紀・延喜式を参考にした。○按ずるに、旧事本紀によれば、石城国造が置かれたのは成務天皇(せいむてんのう)の朝であるが、本国(周防)では応神天皇の朝であるという。おそらくその石城国造の一族を分封したことにより、その祖神を祀って石城神と称したのであろう。ひとまず付記して考察に備える。)貞観九年、正五位上から従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)  延喜の制で、二座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**佐婆郡(さばぐん) 六座**

玉祖神社(たまのおやじんじゃ)二座。(注:現在は大岐村居合の地にあり、玉祖明神と称する。)玉祖宿禰(たまのおやのすくね)の祖である天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、またの名を櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、また羽明玉命(はあかるたまのみこと)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の孫を祀る。天降(あまくだ)った五部の神(いつとものおのかみ)の一柱である。(注:日本書紀・古事記・姓氏録・古語拾遺・神名帳頭注による。○土地の人々によれば、一座は天鏡命(あめのかがみのみこと)を祀るというが、まだ明証は得られておらず、付記して考察に備える。)天平九年、神税稲三千八百三十余束があり、そのうち八百三十余束を社の費用に充てた。また神託があったことにより、神田の租穀三十九斛余りを免除し、禰宜(ねぎ)や玉作部(たまつくりべ)に五百背稲(いおせいね)二百束を給した。(注:東大寺正倉院文書による。)大同元年、本国に封戸十戸を定められた。(注:新抄格勅符による。)貞観九年、従四位下から従三位に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮と称された。(注:今昔物語・一宮記による。)康保元年(964年)、正二位から従一位に進んだ。(注:日本紀略による。)神の子孫である玉祖・玉作の二氏が代々神宮司・禰宜を務めた。(注:東大寺正倉院文書・今昔物語・元亨釈書による。)

出雲神社(いずもじんじゃ)二座。(注:現在は二宮村にあり、二宮と称する。)伝承によれば大己貴・事代主(ことしろぬし)の二神を祀るという。(注:土地の人々の説・神名帳考による。)霊亀元年(715年)、創建された。(注:本社の記録・八幡社伝による。)天平九年、神託があったことにより、穎稲(えいとう)二十束を奉り、春秋の祭費に充てた。(注:東大寺正倉院文書による。)貞観九年、正五位上から従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)後に本国の二宮と称された。(注:伯家部類・神名帳考による。)

御坂神社(みさかじんじゃ)。(注:御はまた三とも書く。現在は岸見村樋口の地にある。)おそらく大己貴命を祀る。(注:播磨国風土記・社伝による。)天平九年、神託があったことにより、春秋の祭料として稲二十束を奉った。(注:東大寺正倉院文書による。)承和六年(839年)、従五位下を授けられた。(注:続日本後紀による。)貞観九年、従四位下から従三位に進んだ。(注:三代実録による。)天慶三年、承平年間の海賊平定祈願により、正三位を加えられた。(注:長寛勘文による。)

剣神社(つるぎじんじゃ)。(注:現在は高井村山崎の地にある。)伝承によれば素戔嗚尊を祀るという。神功皇后が韓を征伐した日、八握剣(やつかのつるぎ)を神体とし、この神に戦勝を祈願したという。(注:本社の伝説による。)貞観九年、正五位上から正五位下を授けられた。(注:三代実録による。)  延喜の制で、四座もまた同じく小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**吉敷郡(よしきぐん) 一座**

仁壁神社(にかべじんじゃ)。(注:現在は宮野下村にあり、三宮と称する。)天安二年(858年)、正六位上から従五位下を授けられた。(注:文徳実録による。)貞観九年、従四位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**都濃郡(つのぐん) 一座**

二俣神社(ふたまたじんじゃ)。(注:現在は大向村二俣の地にある。)伝承によれば大物主神を祀るという。(注:式内神考・土地の人々の説による。)天安二年、官社となった。(注:文徳実録による。)貞観九年、従五位上から正五位下に進んだ。(注:三代実録による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(周防)**

比美神社(ひみじんじゃ)。現在は都濃郡にある。(注:須万村秋尾の地にある。上宮・中宮・若宮の三社があり、合わせて露島宮(つゆしまのみや)と称する。社のそばにはなお比美村がある。)貞観九年、正五位上から従四位下を授けられた。

赤田神社(あかたじんじゃ)。現在は吉敷郡にある。(注:吉敷村赤田の地にあり、四宮と称する。)

山田神社(やまだじんじゃ)。現在は都濃郡にある。(注:鹿野上村宮山にあり、山田権現社と称する。)  元慶二年、ともに正六位上から従五位下を加えられた。(注:三代実録による。郡名は土地の人々の説による。)

**長門(ながと)**

**豊浦郡(とようらぐん) 五座**

住吉坐荒御魂神社(すみよしにますあらみたまじんじゃ)三座。またの名を御蔭社(みかげしゃ)という。(注:延喜式・類聚国史による。○按ずるに、三代実録には貞観十七年の条に「住吉荒神御魂」と記されているが、類聚国史では「魂」を「影」に作る。「影」と「蔭」は意味が同じであり、御蔭社がこの本社であることは明らかである。社は現在豊西郡山田村にあり、住吉明神と称する。)住吉三神の荒魂(あらみたま)を祀る。神功皇后が韓を平定して帰還した際、神託によって穴門(あなと)の山田邑に祠を建て、穴門直(あなとのあたい)の祖である践立(ほむたち)を祭主としたのが、これである。(注:日本書紀による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。十七年、正五位下に昇進し、まもなく従四位下から従四位上に進んだ。仁和二年(886年)、正四位下を加えられた。(注:三代実録による。)延喜の制で、三座はともに名神大社に列せられた。おおよそ摂津国住吉神の封戸で本国にあるものは、封戸の傜夫(えきふ)に租穀を運送させたが、そのうち本郡の封戸の傜夫だけは本社に留めて充てた。(注:延喜式による。)後に本国の一宮と称された。(注:本社文書・一宮記による。)おおよそ本社は、吉母村吉永荘を神領とした。吉永荘は、文治年間に源頼朝が奉納したものである。後に外寇の事があったことにより、神領を警固所に属させた。延元の初め、社司が上言して、「もとに復されたい」と願い出た。旧例では本社の修造は本国の正税をもって供された。当時、嘉暦年間に仮殿を設けて遷宮を行ったが、年を経て破損した。社司はまた上言して、「例によって修営されたい。さもなくば別に用度を給い、社家に営作させられたい」と述べた。(注:本社文書による。○按ずるに、道行夫里・行囊抄などの諸書によれば、本社は毎年十二月の晦日に祭を行う。この夜、早鞆浦(はやとものうら)の海水がひとりでに退き、社司は燭を執って海底に下り海藻を採って元日の神膳に供える、これを稚海藻刈神事(わかめかりのしんじ)というと。その潮の引くことが毎年時日を違えないため、世の人はこれを神異とするという。)

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)。(注:現在は豊東郡長府にあり、社の東に豊浦浜がある。)神功皇后を祀る。(注:本社所蔵の足利尊氏(あしかがたかうじ)の和歌の序、諸社根元記、道行夫里による。○八幡宮本紀・豊府志略にはともに、本社は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)を祀り、神亀年間に至って神功皇后を配祀したとある。その後、皇后を中殿に祀り、左に仲哀天皇、右にまた応神天皇を祀ったという。何に基づくか分からないが、付記して考察に備える。)はじめ仲哀天皇が西征したとき、皇后とともに豊浦宮(とようらのみや)にいたが、それがこの地である。(注:日本書紀・道行夫里による。)貞観十五年(873年)、従五位下から従五位上を加えられた。(注:三代実録による。)後に本国の二宮と称された。(注:伯家部類・諸社根元記・八幡宮本紀による。)正平十一年(1356年)、右馬権頭(うまごんのかみ)の源範光(みなもとののりみつ)が筑後国竹野荘の私田五十町を本社に奉った。(注:本社文書による。○按ずるに、道行夫里・八幡宮本紀などの諸書によれば、本社は毎年十二月一日から十五日まで、社司は潔斎をとりわけ厳しく行った。里の民はみな鐘や太鼓、歌舞を禁じられ、あえて騒がず、夜も灯をともさなかった。これを御斎神事(おんさいしんじ)と呼んだという。おそらく古の遺風であろう。)

村屋神社(むらやじんじゃ)。(注:現在は黒井村にある。)おそらく大和国城下郡の村屋社(むらやしゃ)で祀られるのと同じ神であろう。(注:日本書紀・土地の人々の説による。)  延喜の制で、二座は共に小社に列せられた。(注:延喜式による。)

**官帳不載者(長門)**

鹿集神社(かづめじんじゃ)。(注:現在は厚狭郡村梶浦鹿集崎にあり、宮崎神社と称するものが、おそらくこれであろう。)

福賀神社(ふくがじんじゃ)・磨能峯神社(まのみねじんじゃ)。ともにどの郡にあるか分からない。(注:按ずるに、現在の美弥郡大嶺村八幡祠の地を臼乃嶺(うすのみね)というが、あるいはもとはこの社の所在地であり、後に八幡神を合祀したのであろうか。付記して考察に備える。)

壬生神社(みぶじんじゃ)。現在は美禰郡にある。(注:喜万村下郷堅田にある。)仁寿元年(851年)、四社ともに従五位下を授けられた。(注:文徳実録による。)

武智石打命神社(たけちいしうちのみことじんじゃ)。(注:現在は美弥郡伊佐徳定村にあり、杉森石打神と称するものが、おそらくこれであろう。)

意久神社(おくじんじゃ)。所在は今は分からない。

土地神社(とちじんじゃ)。現在は阿武郡にある。(注:川島荘の旧城地にある。)  貞観十五年、三社ともに正六位上から従五位下を加えられた。

宮城神社(みやぎじんじゃ)。(注:現在は阿武郡嘉年堂免村三明原にあり、三明原明神と称するものが、おそらくこれであろう。「三明」と「宮城」は訓読が近い。)仁和二年、従五位下から従五位上に進んだ。(注:三代実録による。郡名は土地の人々の説による。)