卷之二百五十八 志十五

神祇十五 神社十

現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)

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上野国(こうずけのくに)

片岡郡(かたおかぐん) 一座

小祝神社(おぼりじんじゃ)。(注:現在は石原村にあり、小祝明神と呼ばれている。)元慶四年(880年)、正五位下から正五位上に昇進し、勲十二等を授けられた。(注:『三代実録』による。上野国内神名帳には従一位とある。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の七宮と称された。(注:『神道集』による。)

甘楽郡(かんらぐん) 二座

貫前神社(ぬきさきじんじゃ)。また抜鋒神(ぬきほこのかみ)ともいう。(注:『続日本後紀』による。現在は一宮村にある。「貫前」と「抜鋒」は訓が通じ、国内帳では「鋒」を「鉾」と書くが意味は同じである。後世、これを「ほこ」と読む説は誤りである。)布都御魂神(ふつのみたまのかみ)を祀り、大和国石上社(いそのかみしゃ)が祀る神と同一の神である。(注:『旧事本紀』および本社の伝説による。社司の磯部氏はこの郡の旧族である物部公の子孫で、布瑠宿禰(ふるのすくね)と同祖であり、詳細は氏族志に記す。本社はその分祀と思われる。『一宮記』が経津主命(ふつぬしのみこと)とするのは、石上社もまた布都奴斯神社と称されることによるものだろう。あわせて備考とする。)大同元年(806年)、本国の封戸二戸と定められた。(注:『新抄格勅符』による。)承和六年(839年)、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観元年(859年)、正五位下勲八等から従四位下に昇進した。同九年・十八年にも、それぞれ一階を加えられた。元慶三年(879年)、正四位上を授けられた。翌年、従三位勲七等に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜十六年(916年)、従二位を授けられた。(注:『扶桑略記裏書』による。)延喜の制の制定に及んで、名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。国内帳には正一位とある。)後世、本国の一宮と称された。(注:『神道集』『一宮記』による。)康和二年(1100年)、本国の目代(もくだい)平周真(たいらのちかざね)が宝剣一振りを奉じて雨を祈った。(注:『続本朝文粋』による。)寛喜元年(1229年)、将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)が使者を遣わして剣と馬を奉じた。(注:『東鑑』による。)物部公の一族である磯部氏が、代々祭祀を司った。(注:『続日本後紀』『羅山文集』による。)

宇藝神社(うげじんじゃ)。(注:現在は神成村にあり、宇藝明神と称される。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。国内帳には従一位とある。)

群馬郡(くるまぐん) 三座

伊加保神社(いかほじんじゃ)。(注:「加」は「賀」とも書き、国内帳には正一位伊香保大明神とある。現在は伊加保山にある。)伝えによれば大己貴神(おおなむちのかみ)を祀るという。(注:『神道集』および土地の人の説による。)承和二年(835年)、名神に預かった。同六年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観九年(867年)、従五位上から正五位下に進んだ。同十一年・十八年にも、それぞれ一階を加えられた。元慶四年(880年)、従四位上となった。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の三宮と称された。(注:『神道集』による。)

榛名神社(はるなじんじゃ)。(注:「榛」は本書では「椿」に作るが誤りであり、国内帳によって訂正した。現在は榛名山にある。)伝えによれば彦湯支命(ひこゆきのみこと)、および饒速日命(にぎはやひのみこと)・可美真手命(うましまでのみこと)を祀るという。(注:『上野国志』『榛名山志』による。この二書で「彦湯支」を「元湯彦」とするのは誤りであり、今は『旧事本紀』によって訂正した。国内帳には正一位とある。)

甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ)。(注:現在は川島村にある。)承和十三年(846年)、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)文徳帝の即位に際し、官社に預かった。(注:『文徳実録』による。)貞観九年、従五位上に昇進した。同十一年・十八年にも、それぞれ一階を加えられた。元慶四年、従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。国内帳には正一位とある。)

延喜の制で、この二社はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、甲波社を本国の四宮、榛名社を六宮と称した。(注:『神道集』による。)

勢多郡(せたぐん) 一座

赤城神社(あかぎじんじゃ)。また赤城沼神(あかぎぬまのかみ)ともいう。(注:『三代実録』による。現在は赤城山上の大沼の東の崖にあり、「沼神」と称されるのはこれによるものだろう。その南麓の三夜沢村にもう一社あり、赤城神という。これは後世に祀られたものと思われる。)伝えによれば大己貴神を祀るという。(注:『上野国志』による。諸神記によれば、本社には配祀二座があり、赤城三所明神と称される。しかし配祀の神が何であるかは分からない。『夫木集』に載る本社を詠んだ歌に「赤城韓社」の語があり、これによれば配祀は韓神(からのかみ)二座であろうか。付して備考とする。)承和六年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観九年、従五位上から正五位下に進んだ。同十一年・十六年にも、それぞれ一階を加えられた。元慶四年、従四位上に進んだ。(注:『三代実録』による。国内帳には正一位とある。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の二宮と称された。(注:『神道集』による。)

山田郡(やまだぐん) 二座

賀茂神社(かもじんじゃ)。(注:現在は下広沢村にあり、賀茂明神と称される。)おそらく山城国(やましろのくに)の賀茂神を祀るものであろう。(注:『延喜式』による。神名帳頭注には大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀るとあるが、『四季物語』『諸神記』によれば賀茂御二座の一柱を大山咋神とする。頭注はあるいはこれに拠ったものと思われるが、誤りであろうから採らない。)

美和神社(みわじんじゃ)。(注:現在は村松村桐生岡にあり、三輪明神と称される。)大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。(注:神名帳頭注による。)延暦十五年(796年)、二社ともに官社に列せられた。(注:『日本後紀』による。)元慶四年、ともに従五位上から正五位下に進み、勲十二等を授けられた。(注:『三代実録』による。国内帳には二社ともに従一位とある。)延喜の制で、ともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

那波郡(なわぐん) 二座

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)。(注:現在は下宮村にあり、火雷宮と称される。『神道集』によれば本社を上宮、九宮を下宮とするが、おそらく誤りであろう。)延暦十五年、詔により官社とされた。(注:『日本後紀』による。)

倭文神社(しとりじんじゃ)。(注:現在は上宮村にあり、倭文明神と称される。)貞観元年、正六位上から官社に列せられ、まもなく従五位下を加えられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制で、二座ともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。国内帳には二社ともに従一位とある。)後世、火雷社を本国の八宮、倭文社を九宮と称した。(注:『神道集』による。)

佐位郡(さいぐん) 一座

大国神社(おおくにじんじゃ)。(注:国内帳には従一位大国玉明神とある。現在は下淵名村にあり、大国明神と称される。)大国玉神(おおくにたまのかみ)を祀り、大和国の狭井神(さいのかみ)と同一の神である。(注:『延喜式』『国内帳』による。「狭井」と「佐位」は音訓が通じる。この社が狭井荒魂(さいのあらみたま)を祀りながら佐位郡にあるのには、必ず何らかの由来があるはずである。付して後考に備える。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

官帳に載らないもの

波已曾神社(はいそじんじゃ)。碓氷郡(うすいぐん)にある。(注:『国内帳』による。本書には従二位波古曾明神とある。現在は白雲山妙義権現堂の右側にあり、地主神という。本来は甘楽郡に属し、これが元々の祠であろう。その西南三十町ほどのところに中嶽といい、奥院があり、武尊権現(たけるごんげん)と称される。あるいは白雲山社もまた波古曾社と呼ばれる。これは後世に僧徒が私的に遷し祀ったものであろう。付して備考とする。)伝えによれば日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀るという。(注:土地の人の伝説による。土地の人は「神は蒜(にんにく)を好む」といい、社地に蒜畑があって、これを犯す者があれば必ず神罰があるという。これは日本武尊が蒜を投げた故事によってこう言われるのであろう。)貞観元年、正六位上から従五位下に昇進した。元慶三年、従五位上を授けられた。翌年、正五位下から正五位上勲十二等に進んだ。(注:『三代実録』による。)

小高神社(おだかじんじゃ)。利根郡(とねぐん)にある。(注:『国内帳』による。天正年間の棟札には沼田総社小高諏訪宮とある。現在は神戸郷後閑村にある。)伝えによれば穂高見命(ほたかみのみこと)を祀り、建御名方命(たけみなかたのみこと)を配祀するという。大昔、国中に大きな湖があり、穂高見命は建御名方命とともに岩を掘り水を切り開いて、これを平地に治め、民が安住できるようにした。今の沼田などの地がこれである。それゆえ祠を立てて祀ったという。(注:土地の人の伝説による。信濃国には穂高社があり穂高見命を祀る。「小高」と「穂高」は訓読みが近く、これによればこの伝説には必ず由来があるのだろう。)貞観五年、正六位上から従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。国内帳には従一位とある。)

若伊賀保神社(わかいかほじんじゃ)。群馬郡にある。(注:『国内帳』による。本書には従四位上若伊香保明神とあり、現在は伊香保山の東南、有馬村にある。)貞観五年、正六位上から従五位下を授けられた。元慶三年、従五位上に進んだ。翌年、正五位下から正五位上に昇進した。(注:『三代実録』による。本書の元慶三年の条には「若伊賀」とあるが、おそらく「保」の字が脱落したものであろう。)後世、本国の五宮と称された。(注:『神道集』による。)

丹生神社(にゅうじんじゃ)。甘楽郡にある。(注:『国内帳』による。現在は下丹生村にある。)おそらく丹生都比売神(にうつひめのかみ)を祀るものであろう。(注:『延喜式』および土地の人の伝説による。)貞観十七年、正六位上から従五位下を授けられた。(注:国内帳には従三位とある。)

稲裏地神社(いなうらじじんじゃ)。現在は甘楽郡にある。(注:郡名は『上野国志』による。栗山村稲含山の山上にあり、稲含神社と称されるものが、これであろう。)元慶四年、正六位上から従五位下勲十二等を授けられた。(注:『三代実録』による。)

下野国(しもつけのくに)

都賀郡(つがぐん) 三座

大神社(おおみわじんじゃ)。(注:現在は総社村にあり、室八島明神という。)伝えによれば大物主命(おおものぬしのみこと)を祀るという。(注:神名帳頭注、『下野国誌』による。『延喜式』によれば、大物主を祀る社は必ず「大神神社」と書かれる。「大神社」と書かれるものは多氏(おおうじ)の祖神である。しかし多氏とこの国との関わりは見当たらない。また現行の訓は「おおみわ」とされている。これによれば、あるいは「神」の字が一つ脱落しているのかもしれない。今はひとまず頭注に従う。)

大前神社(おおさきじんじゃ)。(注:現在は大埼村にあり、大埼明神と称される。)伝えによれば大己貴命を祀るという。(注:『下野国誌』による。)

村檜神社(むらひじんじゃ)。(注:現在は小野寺村八幡山にある。)

延喜の制で、三座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

河内郡(かわちぐん) 一座

二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)。(注:現在は都賀郡の二荒山上にある。)おそらく毛野国造(けぬのくにのみやつこ)の祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀るものであろう。(注:『日本書紀』『古事記』『旧事本紀』『神社考』による。神名帳頭注や『性霊集抄』など諸書には事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀るという説、あるいは大己貴・建御名方の二神を祀るという説もあるが、いずれも根拠が明らかでない。)承和三年(836年)、従五位上勲四等から正五位下に進んだ。同八年にもさらに一階を加えられた。(注:本書のこの条には勲七等正五位下とあるが、いずれも誤りである。今は前後を参考にして改めた。)嘉祥元年(848年)、従四位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)後に従三位を加えられた。天安元年(857年)、封戸一烟(いちう)を充てられた。(注:『文徳実録』による。)貞観元年、正三位に進んだ。同七年・十一年にもそれぞれ位階を進め、正二位に至った。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の一宮と称され、(注:『一宮記』による。)二荒権現(ふたらごんげん)と号された。(注:『続古事談』『回国雑記』による。)

建仁三年(1203年)、源頼家(みなもとのよりいえ)が神馬を奉じた。(注:『東鑑』による。)神田はおよそ千町あり、国司はこれに検注を加えなかったという。(注:『続古事談』による。本書によれば、二荒神社は二荒山上にあり、別宮は宇都宮にあるという。『下野風土記』によれば、宇津宮神社は河内郡宇都宮にあり、もとは二荒山太郎嶽にあったが、後にこの地に遷し祀られ、示現太郎(じげんたろう)と号された。これがすなわち別宮である。源頼朝(みなもとのよりとも)は左衛門尉藤原朝綱(ふじわらのともつな)を社務職に補し、平氏を滅ぼせたことに感謝の意を表した。その後、陸奥を討つに際しても幣を奉じ、「もし勝利を得れば、捕虜一人を神職とする」と言った。事が平定されると、荘園を付し、樋爪俊衡(ひづめとしひら)の一族を社務とした。源頼家もまた引き続いて崇め奉じた。これらの事はいずれも『東鑑』に見える。本社は非常に壮大であったため、世間では式社とみなす者が多く、それに従う説もある。しかし『続古事談』の説は明確で信じるに足る。よって付して誤りを正す。)

芳賀郡(はがぐん) 二座

大前神社(おおさきじんじゃ)。(注:現在は東郷村大前の地にあり、大前権現と称される。)伝えによれば大己貴命を祀るという。(注:『下野国誌』による。)

荒樫神社(あらかしじんじゃ)。(注:現在は小井戸村にあり、荒樫明神と称されるものが、これであろう。)

延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

那須郡(なすぐん) 三座

健武山神社(たけぶやまじんじゃ)。また武茂神(むものかみ)ともいう。(注:『続日本後紀』による。現在は武茂荘武部村にあり、武部山社と称される。)おそらく日本武尊を祀るものであろう。(注:『日本書紀』、および『和名抄』『下野国志』を参考にした。)承和二年、従五位下を授けられた。これは山から砂金を産したためである。(注:『続日本後紀』による。)

温泉神社(おんせんじんじゃ)。(注:現在は那須山下湯本村にあり、湯泉明神と称される。)伝えによれば大己貴命・少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀るという。(注:『下野国志』『陸奥式社考』による。)貞観五年、従五位上勲五等から従四位下に進んだ。同十一年、従四位上に昇進した。(注:『三代実録』による。)屋島の戦いで、国の人である那須宗隆(なすのむねたか)は東軍に属し、この神に祈って弓の名声を著した。(注:『源平盛衰記』『平家物語』による。)

三和神社(みわじんじゃ)。(注:現在は三輪村宮元にあり、三輪明神と称される。)大物主神を祀る。(注:『延喜式』『下野国志』による。)承和五年、官社に預かった。元慶四年、従五位下から正五位上に進んだ。仁和元年(885年)、従四位下を加えられた。(注:『三代実録』による。)

延喜の制で、三座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

寒川郡(さむかわぐん) 二座

阿房神社(あわじんじゃ)。(注:現在は都賀郡粟宮村宮内にあり、粟宮明神と称される。)天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀る。(注:『古語拾遺』『延喜式』による。)

胷形神社(むなかたじんじゃ)。(注:現在は寒川村胸形の地にある。)筑前国の宗像三神(むなかたさんしん)を祀る。(注:『日本書紀』『延喜式』による。)

延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

官帳に載らないもの

伊門神社(いかどじんじゃ)。現在その所在は不明である。貞観十七年、従五位下から従五位上に進んだ。

賀蘇山神社(かそやまじんじゃ)。現在は都賀郡にある。(注:郡名は『下野国誌』による。加蘇郷加園村の隣村である上久我村の石裂山にあり、尾鑿権現(おざくごんげん)と称されるものが、これであろう。)元慶二年、正六位上から従五位下に進んだ。

綾都比神社(あやつひじんじゃ)。現在は都賀郡にある。(注:郡名は『下野国誌』による。大橋村にあり、綾津日八幡宮と称される。)大綾津日神(おおあやつひのかみ)を祀る。(注:祭神以下は『日本書紀』を参考にした。)元慶三年、正六位上から従五位下を加えられた。(注:『三代実録』による。)

陸奥国(むつのくに)

白河郡(しらかわぐん) 七座

都都古和気神社(つつこわけじんじゃ)。(注:現在は八槻村にあり、近津明神という。)伝えによれば味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀り、日本武尊を配祀するという。(注:神名帳頭注、『一宮記』、八槻大善院縁起による。)日本武尊が東征してこの地に到った時、八人の土蜘蛛(つちぐも)が害をなしていたので、八目の鳴鏑(なりかぶら)でこれを射殺した。それゆえ配祀されたのだという。(注:大善院所伝の『陸奥風土記』、本社伝記による。)承和八年(841年)、勲十等により従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。本書のこの条は正月癸巳の日に記されているが、三月癸巳にも重ねて記されており、おそらく衍字であろう。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の一宮と称された。(注:『一宮記』による。)

伊波止和気神社(いわとわけじんじゃ)。(注:一説に石波止和気天神とも書く。本社の所在は今は明らかでない。二枚橋村磐戸嶽にあるという説、あるいは馬場村にあり近津明神と称されるという説があり、後者の説がより近いようである。)おそらく天石戸別命(あまのいわとわけのみこと)を祀るものであろう。(注:『古事記』『延喜式』による。神名帳頭注には手力雄命(たぢからおのみこと)を祀るとあるが、これは神が天の岩戸を押し開いた故事によって誤ったものと思われるので、採らない。)宝亀四年(773年)、本国の封戸二戸を充てられた。(注:『新抄格勅符』による。)承和十年、勲九等により従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)

白河神社(しらかわじんじゃ)。(注:現在は白河駅にあり、鹿島神という。)おそらく常陸国の鹿島大神(かしまのおおかみ)を分祀したものであろう。(注:『鵞峰文集』『白河故事考』による。)宝亀四年、本国の封戸二戸を充てられた。(注:『新抄格勅符』による。)

不八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)。また八溝黄金神(やみぞこがねのかみ)ともいう。(注:『続日本後紀』による。現在は常陸国久慈郡八溝山上にあり、八溝明神と称される。)伝えによれば大己貴・事代主の二神を祀るという。(注:『八溝山社記』による。)承和三年、これより先、勲十等により従五位下を授けられていたが、この年に封戸二戸を奉じられた。これは神山に砂金を多く産し、遣唐使の資に役立てたためである。(注:『続日本後紀』による。)

飯豊比売神社(いいとよひめじんじゃ)。(注:現在は飯豊村にあり、鹿島大神宮という。)

永倉神社(ながくらじんじゃ)。(注:現在は長坂村にあり、神明宮と称される。もとの名は長倉という。)斉衡二年(855年)、官社に列せられた。(注:『文徳実録』による。)

石都都古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)。(注:現在は石川郡南須釜村筒子山にあり、八幡宮という。)

以上の六座は、延喜の制でいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

苅田郡(かったぐん) 一座

苅田嶺神社(かったみねじんじゃ)。また苅田神(かったのかみ)ともいう。(注:『新抄格勅符』による。現在は小苅田山の頂である熊野嶺にある。嶺は苅田・柴田および出羽国置賜(おきたま)の三郡にまたがり、水源が三郡の田を潤すため、人々は崇め敬い、参拝が絶えることがなく、苅田峯詣(かったみねもうで)と呼ばれる。)伝えによれば天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)の二神を祀るという。(注:土地の人の説による。)宝亀四年、本国の封戸二戸を充てられた。(注:『新抄格勅符』による。)承和十一年、勲九等により従五位下を授けられた。嘉祥元年、正五位下に進んだ。(注:『続日本後紀』による。)貞観十一年、正五位上から従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。この年の昇進は十二月辛卯の日に記されているが、また戊申の条にも記されており、そのいずれかは衍字であろう。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

名取郡(なとりぐん) 二座

多加神社(たかじんじゃ)。(注:現在は富沢村にある。)

佐具叡神社(さぐえじんじゃ)。(注:現在は笠島村と塩手村の間にある。)岐神(ふなとのかみ)を祀り、世に道祖神(どうそじん)と称される。(注:『日本紀纂疏』『神代巻口訣』『源平盛衰記』による。)一条帝の時代、藤原実方(ふじわらのさねかた)がこの国の守となり、笠島を馬で通り過ぎる際、道端に神社があるのを見ながら礼をせずに通り過ぎた。まもなく馬が斃れ、実方も間もなく亡くなったため、人々は神の祟りであると考えた。これがすなわちこの社である。(注:『源平盛衰記』による。)

延喜の制で、二座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

宮城郡(みやぎぐん) 四座

志波彦神社(しわひこじんじゃ)。(注:現在は岩切村岩切川の北にあり、冠川明神、または志波道上宮という。)岐神を祀り、(注:『塩竈社縁起』による。)これは塩竈社(しおがましゃ)に付属する神である。藻塩場彦神(もしおばひこのかみ)・藻塩場姫神(もしおばひめのかみ)と号される。(注:『塩竈社記』による。本書によれば、社地に志波道上という地名があり、これは塩竈の大神が塩を蓄えた遺跡であるという。この神はおそらく塩を煮ることを司ったため、志波彦の号があるのだろう。付して考えの参考とする。)貞観元年、正五位下勲四等から従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

鼻節神社(はなぶしじんじゃ)。(注:『朝野群載』には「鼻」を「早」に作る。現在は塩竈社の東、花淵浜にあり、花淵神社と称される。もとは垂水山保崎から五里ほど東にあったが、宝亀年間にその神霊を花淵浜に遷した。土地の人の伝えでは、旧址は保崎の海底にあり、東宮・西宮と呼ばれ、互いに二町ほど離れており、大根明神と称される。今なお宝殿や玉垣などがあり、潮が引いた時にはかすかに窺うことができるという。現在、本社の東にある二つの小さな石の祠は、その遥拝所であるという。)伝えによれば岐神を祀るという。(注:『塩竈社縁起』による。)承和十一年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

伊豆佐売神社(いずさめじんじゃ)。(注:「売」は「咩」とも書く。現在は飯土井村にあり、伊津薩姫社と称される。)仁寿二年(852年)、正五位下を加えられた。(注:『文徳実録』による。)

多賀神社(たがじんじゃ)。(注:現在は市川村にあり、奏社明神という。)延暦十五年、従五位下を授けられた。(注:『日本後紀』による。)

延喜の制で、二座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

黒川郡(くろかわぐん) 四座

須伎神社(すきじんじゃ)。(注:現在は駒場村にあり、赤埼明神という。)

石神山精神社(いしがみやまだましいじんじゃ)。(注:現在は吉田村にあり、社の後ろに巨石があって高さ十余丈、その様子は非常に奇異であり、これを神として祀っている。今は岩上明神(いわがみみょうじん)と呼ばれる。)延暦九年(790年)、官社とされた。(注:『続日本紀』による。)

鹿島天足別神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)。(注:現在は大亀村亀国山にある。文明年間の棟札には亀国山明神とある。)すなわち鹿島の苗裔の神である。(注:『三代実録』による。)大昔、武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二神が岐神を道案内として暴れる神々を掃討し、その功績は遠く東国にまで及んだ。(注:『日本書紀』による。)辺境で効力を発揮したのは一代のことではなかったため、この国ではしばしばこの二神を祀り、その神の系譜を留める神社が諸郡に多く残り、後にいずれも祠を建てて祀られた。香取御子神(かとりのみこがみ)は牡鹿・栗原の二郡にあり、鹿島苗裔神(かしまびょうえいのかみ)と称されるものはおよそ三十八社あり、本社や亘理郡の伊都乃比気神(いつのひけのかみ)・緒名太神(おなたのかみ)・天足和気神(あまたらしわけのかみ)、牡鹿・行方二郡の御子神などがそれである。その中でも最も著名なものは、霊威が顕著で辺境の風俗を鎮め、後世に至っても衰えることがない。(注:『三代実録』『延喜式』を参考にした。)

行神社(ぎょうじんじゃ)。(注:現在は志戸田村にあり、志波明神と称される。「行(ゆき)」は「悠紀(ゆき)」と読み、およそ大嘗祭で悠紀・須伎(すき)の国郡を卜定し、その地に斎場を建てるものである。今、この郡にこの社と須伎社があるのは、古い斎場の遺址ではないかと思われる。しかし史書には考証がなく、付して備考とする。)

延喜の制で、四座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

賀美郡(かみぐん) 二座

飯豊神社(いいとよじんじゃ)。(注:現在は小栗山村船形山にあり、船形権現という。)

賀美石神社(かみいしじんじゃ)。(注:現在は小野田本郷にある。社の傍らに一丈八尺四方の巨石があり、賀美石神と呼ばれる。)

延喜の制で、二社はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

色麻郡(しかまぐん) 一座

伊達神社(いだてじんじゃ)。(注:現在は賀美郡四竈村にある。)おそらく播磨国飾磨郡(しかまぐん)の射楯社(いたてしゃ)と同一の神であろう。(注:『播磨風土記』『延喜式』による。播磨の射楯社は五十猛命(いたけるのみこと)を祀り、「飾磨」と「色麻四竈」、「射楯」と「伊達」は音訓がそれぞれ通じており、同一の神であることは明らかである。しかし社伝では郷取明神とされ、経津主命を祀り、塩竈神を合祀するというが、これは「四竈」を「塩竈」と誤ったためにこの説が生じたのであろう。また大同年間に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が創祀したともいうが、これも疑わしい。田村麻呂はあるいは修造を加えただけであろう。今はいずれも採らない。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

玉造郡(たまつくりぐん) 三座

温泉神社(おんせんじんじゃ)。(注:現在は鳴子村湯本にある。)大己貴命を祀る。(注:神名帳頭注による。出雲国意宇郡(おうぐん)に玉作湯神社があり、大己貴神を祀るとあり、本社もまた玉造郡にあることから、これには由来があるのだろう。)貞観五年、従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。本国の磐城郡にも温泉神社があり、位を授けられたのがどちらの社であるか実際には分からない。今はひとまずこちらに当てておく。)

荒雄河神社(あらおがわじんじゃ)。(注:もとは上宮村荒雄岳の麓、荒雄川のほとりにあったが、現在は栗原郡鬼首村に移り、三十六所明神と称される。)

温泉石神社(おんせんいしがみじんじゃ)。また玉造温泉神(たまつくりのおんせんのかみ)、あるいは玉造塞温泉石神(たまつくりのさえのおんせんいしがみ)ともいう。(注:『続日本後紀』による。現在は大口村川度の地にある。)少彦名命を祀る。(注:神名帳頭注による。)承和四年、石神が震動し、その音は雷のようであった。温泉が沸騰し、その色は米のとぎ汁のようであった。天皇の勅により国司に災異を謝させた。同十年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)

延喜の制で、三座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

亘理郡(わたりぐん) 四座

鹿島伊都乃比気神社(かしまいつのひけじんじゃ)。(注:現在は小山村鹿島山にある。)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)。(注:現在は伊都乃比気社の境内にある。)

安福河伯神社(あぶくがはくじんじゃ)。(注:一説に阿福麻水とも書く。現在は田沢村にあり、阿武隈川明神と称される。)おそらく速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の二神を祀るものであろう。(注:『古事記』『延喜式』、および土地の人の説による。)貞観五年、勲十等により従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)。(注:現在は鹿島村小山の上にある。旧址は神宮寺村三門山にあった。天慶四年(941年)、これを北鹿島村に遷し、その後さらに現在の地に遷した。)

延喜の制で、四座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

信夫郡(しのぶぐん) 五座

東屋沼神社(あずまやぬまじんじゃ)。(注:もとは大笹生村五輪山にあったが、現在は余目郷入江野村に移った。郷中の二十余村がともに祀っている。)おそらく日本武尊を祀るものであろう。(注:『陸奥式社考』『奥州紀行』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

鹿島神社(かしまじんじゃ)。(注:現在は鳥谷野村鹿島森にある。)伝えによれば武甕槌命を祀るという。(注:『続日本紀』および土地の人の伝説による。)延暦元年(782年)、賊を討つ祈りに験があったとして、勲五等および本国の封戸二戸を授けられた。(注:『続日本紀』『新抄格勅符』による。)

黒沼神社(くろぬまじんじゃ)。(注:現在は御山村信夫山の麓にあり、黒沼明神と称される。)伝えによれば黒沼大神および石姫命(いしひめのみこと)を祀るという。(注:本社の伝説による。)

東屋国神社(あずまやくにじんじゃ)。(注:現在は中野村天沼にあり、東屋国三社明神と称される。旧址は村中の著岬の地にあった。)伝えによれば橘姫命(たちばなひめのみこと)を祀るという。(注:『東陬探奇』『奥州紀行』による。)

白和瀬神社(しらわせじんじゃ)。(注:もとは大笹生村烏帽子岳にあったが、後に居都山に遷った。『奥州紀行』によれば、本社と東屋沼・東屋国の三社は、もとはいずれも信夫嶺にあったが、後に三か所に遷し祀られたという。)伝えによれば宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)を祀り、日本武尊を配祀するという。(注:『東陬探奇』『巡礼旧神祠記』、土地の人の説を参考にした。)大昔、伊達・信夫の二郡の地はすべて広大な湿地であった。日本武尊が東征した際、神に祈って水を切り開かせ、これを平地に治めた。それゆえ祠を建てて祀ったのだという。(注:『東陬探奇』による。)延喜の制で、四座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

志太郡(しだぐん) 一座

敷玉早御玉神社(しきたまはやみたまじんじゃ)。(注:現在の新沼村に敷玉森があり、これがその旧址である。『旧事本紀』によれば、信夫・白河など近隣の国造(くにのみやつこ)はいずれも天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)の出であり、その子孫に飽速玉命(あきはやたまのみこと)がいる。思うにその一族の人々がこれを神として祀り、敷玉早御玉と号したのではないか。付して備考とする。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

磐城郡(いわきぐん) 七座

大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)。(注:現在は磐前郡菅波村にあり、大国魂明神と称される。)大物主神を祀る。(注:『磐城名勝略』『神名帳考』による。)後世、郡中の平窪・矢野目・国魂などの地を神領として充てられた。正平十六年(1361年)、北朝はそのまま貢税を免除し、神主に専ら祈祷を行わせるよう命じた。(注:『多賀摹本古文書』による。)

二俣神社(ふたまたじんじゃ)。(注:現在は下小川村にあり、二俣八幡宮と称される。)

温泉神社(おんせんじんじゃ)。(注:現在は磐前郡湯本村にあり、温泉明神と称される。)伝えによれば大己貴・少彦名の二神を祀るという。(注:『巡礼旧神祠記』『神社覈録』による。)

佐麻久嶺神社(さまくねじんじゃ)。(注:現在は磐前郡住吉村にあり、住吉明神と称される。)住吉三神を祀る。(注:『日本書紀』『延喜式』『磐城名勝略記』による。)

鹿島神社(かしまじんじゃ)。(注:現在は磐前郡上矢田村にあり、鹿島明神と称される。)

子鍬倉神社(こくわくらじんじゃ)。(注:現在は磐前郡平町揚土台にあり、子鍬倉稲荷明神と称される。)

延喜の制で、七座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

標葉郡(しねはぐん) 一座

苕野神社(くさのじんじゃ)。(注:「苕」は一説に「蒭」とも書く。もとは請戸村苕野小島にあったが、現在は村中の東向きの地に遷った。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

牡鹿郡(おしかぐん) 十座

零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)。(注:もとは湊村箱崎山の上にあったが、現在は山の下に遷り、箱埼明神と称される。土地の人の話によれば、山上に高さ三尺ほどの石があり、箱石、または手箱石と呼ばれる。山の北にもう一つの山があり円形で、下に径五尺ほどの小池があって鏡池と称される。おそらく古い墳墓であり、それに合わせて神の祠を設けたものであろうが、神の名は伝わっていない。)貞観元年、正五位下勲五等から従四位下を授けられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

香取伊豆乃御子神社(かとりいずのみこじんじゃ)。(注:現在は桃生郡和淵村にあり、和淵明神という。)おそらく経津主命の御子神を祀るものであろう。(注:『延喜式』による。)伝えによれば、大昔、経津主命が東征した際、常陸の浦に舟を泊め、和淵山の西の船島に至り、さらに東の船沢山に至って、ついに宮を構えて鎮座した。船沢はすなわち本社の旧址であるという。(注:社伝による。)

伊去波夜和気命神社(いごはやわけのみことじんじゃ)。(注:一説に伊具波別とも書き、「波」の下に「夜」の字が脱落しているのではないかと思われる。現在は遠島尾浦浜にあり、羽黒権現という。)おそらく垂仁天皇の皇子である伊許波夜和気命(いこはやわけのみこと)を祀るものであろう。(注:『古事記』『延喜式』による。)宝亀四年、本国の封戸二戸を充てられた。(注:『新抄格勅符』による。)

曾波神社(そばじんじゃ)。(注:現在は蛇田村曾波神山にあり、俗に蕎麦神山明神と称される。)

鳥屋神社(とやじんじゃ)。(注:現在は蛇田村鳥屋崎山にあり、鳥屋崎明神と称される。)

鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)。(注:現在は門脇村好日山の西北、鹿島台にある。)伝えによれば、武甕槌命・経津主命の二神が石の船に乗ってはじめてこの地に至り、大きな碇(いかり)を巻き上げて投げ入れた。それによってその地を石巻と名付けたという。経津主命はその後鹿又の地に赴き、武甕槌命はこの地にとどまり鎮座したという。(注:土地の人の伝説による。)本社はおそらくその御子神を祀るものであろう。(注:この二神が奥地を経略した経緯は古い史書には考証がないが、事跡はしばしば土地の人の言い伝えに残っている。塩竈社がこの二神を祀るのもその最も著しい例であり、『三代実録』『延喜式』によれば、本国には鹿島苗裔神や香取御子神社が一か所にとどまらない。土地の人の伝えは、あながち根拠のないものではないのだろう。)

大島神社(おおしまじんじゃ)。(注:現在は鮎川村金華山にある。古老の伝えによれば、昔、金華山の神に参拝することを「大鳥詣(おおとりもうで)」といったという。これはこの社が大島神であることの証となるだろう。)貞観五年、勲九等により従五位下を授けられた。(注:本書には神の名を「飯大島神」とするが、「飯」の下に「豊」などの字が脱落しているのは明らかである。しかし本国で「飯」の字を冠する神社は四か所あり、それがどの神であるかは分からない。付して後考を待つ。)

久集比奈神社(くじひなじんじゃ)。(注:現在は高木村浄峯山にあり、上品権現と称される。)

計仙麻神社(けせまじんじゃ)。(注:現在は本吉郡気仙沼村釜前の地にあり、竜神社と称されるものが、これであろう。)貞観元年、正五位上勲四等から従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)

以上の八座は、延喜の制でともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

桃生郡(ものうぐん) 六座

計仙麻大島神社(けせまおおしまじんじゃ)。(注:現在は本吉郡気仙沼海上の大島村亀山にあり、島明神と称される。)伝えによれば湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀るという。(注:土地の人の説による。)貞観元年、従五位下から従五位上を授けられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

飯野山神社(いいのやまじんじゃ)。(注:現在は飯野村飯野山宮森にある。土地の人の言い伝えによれば、稚産霊神(わくむすびのかみ)・大山祇神(おおやまつみのかみ)・保食神(うけもちのかみ)の三神を祀るといい、昔、日本武尊が東征してこの地に至った時、食糧が尽きたところ、神が軍をねぎらったため、祠を建てて祀った。「飯野」の名もこれに由来するという。ひとまず付して備考とする。)

日高見神社(ひたかみじんじゃ)。(注:「見」の下に「乃」の字があるものもある。現在は大田村日高見山にある。)貞観元年、正五位上勲五等から従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)

二俣神社(ふたまたじんじゃ)。

石神社(いしがみじんじゃ)。(注:現在は牝鹿郡大浜村石峯山にあり、石峯権現と称される。山上の東南に高さ四丈ほどの巨岩があり、舟を倒立させたような形をしている。今にも倒れ落ちそうな勢いで、見る者は自然と畏れの心を抱くという。)仁寿二年、従五位下を授けられた。(注:『文徳実録』による。)

小鋭神社(こえいじんじゃ)。(注:現在は本吉郡柳津村東南の小鋭森にある。この社は現在廃れており、虚空蔵仏を安置する寺があるが、これがその旧址である。)延喜の制で、五座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

行方郡(なめかたぐん) 八座

多珂神社(たかじんじゃ)。(注:「珂」は「河」とも書く。現在は高村にある。)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀る。(注:『日本書紀』『延喜式』、土地の人の説による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

高座神社(たかくらじんじゃ)。(注:現在は押釜村高座嶺にあり、高座明神と称される。押釜はもとの高倉村の地である。)

日祭神社(ひまつりじんじゃ)。(注:現在は大亀村にある。)おそらく日奉連(ひまつりのむらじ)の祖である高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祀るものであろう。(注:『姓氏録』『延喜式』による。『姓氏録』によれば日奉氏は大伴宿禰(おおとものすくね)と同族であり、『続日本紀』には、この郡に住む大伴部が大伴行方連(おおとものなめかたのむらじ)の姓を賜ったとある。これによれば本社はあるいはその一族が奉祀したものであろう。付して備考とする。)

冠嶺神社(かんむりみねじんじゃ)。(注:現在は櫪久保村にある。)

御刀神社(みはかしじんじゃ)。(注:現在は北右田村にあり、御剣明神と称される。)伝えによれば経津主命を祀るという。(注:古人の説による。)

鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)。(注:現在は鹿島村にあり、鹿島神社と称される。)鹿島の神子である武速雄命(たけはやおのみこと)を祀る。(注:本社の縁起による。)

益多嶺神社(ますたみねじんじゃ)。(注:現在は大井村益多嶺にある。)

押雄神社(おしおじんじゃ)。(注:現在は押釜村にある。)

以上の七座は、延喜の制でいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

栗原郡(くりはらぐん) 七座

志波姫神社(しわひめじんじゃ)。(注:現在は桜目村にある。)おそらく宮城郡で祀られる志波彦神と同族の神であろう。貞観元年、従五位上勲四等から従四位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

表刀神社(ひょうとうじんじゃ)。(注:現在は小野村花鳥山にある。)

雄鋭神社(おえいじんじゃ)。(注:現在は築館村雄鋭山にある。)伝えによれば淤騰山津見神(おどやまつみのかみ)を祀るという。(注:『奥州紀行』による。)

駒形根神社(こまがたねじんじゃ)。(注:一説に「根」の字がないものもある。現在は吾勝郷沼倉村駒形山の上にあり、嶽宮(だけのみや)と称される。その東の麓に一社あり、里宮(さとみや)と称され、すなわち遥拝所である。おおよそ栗原・磐井および出羽の雄勝の三郡、合わせて百十六村が本社を総鎮守としている。土地の言い伝えでは、天照大神および吾勝尊(あかつのみこと)、膽澤郡の駒形社が祀る神も同じであるという。)

和我神社(わがじんじゃ)。(注:現在は萩沢村にあり、新山権現と称される。)

香取御児神社(かとりみこじんじゃ)。(注:現在は築館村青野の地にある。)

遠流志別石神社(おるしわけいしじんじゃ)。(注:現在は石越村にあり、建部明神という。『続日本紀』によれば、元正天皇の時代、陸奥の蝦夷である邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべつのきみうそみな)が香阿村に郡家を建てることを願い出て、編戸の民となった。「遠流」と「邑良」は音が近く、「石」と「君」は字形が似ている。思うに邑良志別氏があるいはその祖を祀ったのではないか。付して備考とする。)

延喜の制で、六座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

膽澤郡(いさわぐん) 七座

磐神社(いわじんじゃ)。(注:現在は上衣川村石神の地にあり、荷石明神と称される。)

駒形神社(こまがたじんじゃ)。(注:現在は西根村駒形山の上にある。)仁寿元年、正五位下を授けられた。(注:『文徳実録』による。)貞観四年、従四位下に進んだ。

和我叡登挙神社(わがえとあげじんじゃ)。

石手堰神社(いしでせきじんじゃ)。鎮守府にある。(注:現在は江刺郡黒石村にあり、黒石明神、または二宮明神という。)貞観四年、正六位上から官社に預かった。(注:『三代実録』による。)

膽澤川神社(いさわがわじんじゃ)。(注:現在は廃絶している。旧址は若柳村膽澤川のほとりにあった。)

止止井神社(とどいじんじゃ)。(注:もとは都鳥村にあったが、現在は中畑村に遷った。)

於呂閉志神社(おろへしじんじゃ)。(注:現在は若柳村下嵐江の地にあり、猿山明神という。)

延喜の制で、七座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

新田郡(にいたぐん) 一座

子松神社(こまつじんじゃ)。(注:現在は栗原郡新田村坂戸の地にあり、小山神と称される。)おそらく下総国の子松社が祀る神と同一であろう。(注:『延喜式』、下総神埼社文書による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

磐瀬郡(いわせぐん) 一座

桙衝神社(ほこつきじんじゃ)。(注:現在は桙村亀居山の中腹にあり、鹿島神社と称される。)伝えによれば日本武尊を祀り、鹿島大神を配享するという。(注:『巡礼旧神祠記』、土地の人の説を参考にした。)日本武尊が東征してこの地に至った際、携えていた比比羅木(ひいらぎ)の矛を立てて休んだ。それゆえその地を桙衝(ほこつき)と名付け、その山を神居(かみい)と呼んだという。(注:土地の人の説による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

会津郡(あいづぐん) 二座

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)。(注:「須」は「酒」とも書く。現在は大沼郡高田村にある。)伊弉諾尊・伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀る。(注:神名帳頭注、『会津風土記』による。)承和十年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の二宮と称された。(注:『会津風土記』引用の神体銘による。)

蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)。(注:現在は若松蚕養口町にある。)稚産霊神を祀る。(注:神名帳頭注、『会津風土記』による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)土地の人は養蚕が終わるたびに新しい繭を奉じて本(もと)に報いる礼を行い、今に至るまで絶えないという。(注:『観迹聞老志』による。)

小田郡(おだぐん) 一座

黄金山神社(こがねやまじんじゃ)。(注:現在は遠田郡涌谷村黄金迫の地にある。世間では牡鹿郡金華山の祠を本社とするが、これは誤りである。)天平勝宝元年(749年)、小田山ではじめて黄金を産した。(注:『続日本紀』『万葉集』による。)それによって祠を建て山の神を祭った。延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

瑘磨郡(いわまぐん) 一座

磐椅神社(いわはしじんじゃ)。(注:「磐」は「石」とも書く。もとは磐梯山の上にあったが、後に見禰村見禰山に遷った。)斉衡二年、従四位下を授けられた。(注:『文徳実録』による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

斯波郡(しわぐん) 一座

志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)。(注:現在は桜町村にあり、赤石七社明神という。)仁寿二年、正五位下を加えられた。(注:『文徳実録』による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

気仙郡(けせんぐん) 三座

理訓許段神社(りくこだんじんじゃ)・登奈孝志神社(となこしじんじゃ)・衣太手神社(きぬたでじんじゃ)。(注:三社は現在いずれも高田村氷上山の上にあり、西殿・中殿・東殿と称される。互いに十余町ずつ離れており、合わせて氷上三社権現と称され、一郡の鎮守とされる。土地の人によれば、氷上から北へ五十余町のところに一つの山があり、これが理訓許段の旧址であるという。その西北七、八町のところにもう一つの山があり、これが登奈孝志の旧址であるという。その西十六、七町のところにさらに山があり、衣太手峯と称され、これもその遺址であるという。今なお小さな祠が残るものがある。)仁寿二年、登奈孝志神に正五位下を加え、理訓許段・衣太手の二神に従五位下を授けた。(注:『文徳実録』による。)延喜の制で、ともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

安積郡(あさかぐん) 三座

宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)。(注:「和気」は「別」とも書く。現在は八幡村にあり、八幡宮と称され、郡中三十三郷の鎮守とされる。その旧址は社の西、高幡山にあったという。一説にはもとは久良山にあり、宇奈明神と称されたが、後に安達郡本宮駅菅山の麓に移されたという。)承和十四年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観十一年、従五位上から正五位下に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

飯豊和気神社(いいとよわけじんじゃ)。(注:もとは安達郡安達太郎山の上にあり、甑明神(こしきみょうじん)と称されたが、後に本宮駅菅山の麓に移され、宇奈己呂和気、および禰宜大刀自(ねぎのおおとじ)・飯津売(いいつめ)・陽日温泉神とともに安達太郎明神と称され、安達郡の総鎮守とされる。)伝えによれば、大昔、飯豊和気命(いいとよわけのみこと)が土地を開墾し邑(むら)を分けて定め、大いに功績を挙げたため、これを祀ったという。(注:本社の伝説による。)醍醐天皇が即位した年、正六位上から正五位上に昇進した。(注:『日本紀略』による。)

隠津島神社(おきつしまじんじゃ)。(注:現在は安達郡内木幡村木幡山にあり、弁才天と称される。)おそらく瀛津島姫命(おきつしまひめのみこと)を祀るものであろう。(注:『日本書紀』『延喜式』『陸奥式社考』による。)

延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

柴田郡(しばたぐん) 一座

大高山神社(おおたかやまじんじゃ)。(注:現在は平村韮神山の西南にあり、大高宮、あるいは白鳥明神と称される。この郡の総社とされる。)伝えによれば日本武尊を祀るという。(注:本社の伝説による。)承和九年、従五位下を授けられた。(注:『続日本後紀』による。)貞観十一年、従五位上に進んだ。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

宇多郡(うだぐん) 一座

子眉嶺神社(こまゆみねじんじゃ)。(注:現在は駒嶺村にあり、総前宮と称される。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

伊具郡(いぐぐん) 二座

熱日高彦神社(あつひたかひこじんじゃ)。(注:現在は藤田村にあり、日高明神という。)

鳥屋嶺神社(とやみねじんじゃ)。(注:現在は丸森村鳥屋館の地にあり、鳥屋明神と称される。)

延喜の制で、二座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

磐井郡(いわいぐん) 二座

配志和神社(はいしわじんじゃ)。(注:現在は山目村磐座山にあり、梅宮と称され、西磐井郡の総鎮守とされる。社伝によれば瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・高魂命(たかみむすびのみこと)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀るという。付して備考とする。)

儛草神社(まいくさじんじゃ)。(注:現在は舞草村舞草山にある。)仁寿二年、二神ともに従五位下を授けられた。(注:『文徳実録』による。)

延喜の制で、ともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

江刺郡(えさしぐん) 一座

鎮岡神社(しずめおかじんじゃ)。(注:「鎮」は「値」とも書く。現在は餅田村神岡にある。一説には国見山に鎮岡観音祠があり、これがそれであるという。鎮岡は今では片岡と書かれる。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

官帳に載らないもの

多允都神社(たいんつじんじゃ)(注:「允」は「久」とも書く。)・八牡姫神社(やめひめじんじゃ)・小結神社(こゆいじんじゃ)。三社は現在いずれもどの郡にあるか分からない。承和十年、多允都神に従五位下・正五位下を授けた。(注:『続日本後紀』による。)貞観五年、八牡姫・小結の二神にともに従五位下を授けた。(注:『三代実録』による。)

安達嶺禰宜大刀自神社(あだちみねねぎのおおとじじんじゃ)・安達嶺飯津売神社(あだちみねいいつめじんじゃ)(注:「売」は「賀」とも書く。)・陽日温泉神社(ひなたおんせんじんじゃ)。三社はともに安達郡にある。(注:郡名は宇奈己呂和気社の由緒書による。三社は安達太郎山の上にあり、船名神(ふなのかみ)、矢筈明神(やはずみょうじん)、剣山明神(けんざんみょうじん)という。後に本宮駅菅山の麓に遷った。)伝えによれば、温泉神は大己貴・少彦名の二神を祀るという。(注:祭神は土地の人の伝説による。)醍醐天皇が即位した年、禰宜大刀自・飯津売の二座はともに正六位上から正五位上に進んだ。温泉神は正五位下を授けられた。(注:『日本紀略』による。)

塩竈神社(しおがまじんじゃ)。現在は宮城郡にある。(注:『観迹聞老志』『封内風土記』による。もとは塩竈村塩竈浦にあったが、後に千家山の上に遷ったという。)武甕槌神・経津主神、および岐神を祀る。(注:『元要記』『春日験記』による。)四つの大釜があり、径は四尺八寸以下四尺以上で、すなわち大昔に塩を煮た釜であり、これを崇めて神体としている。(注:『都乃津登』『観迹聞老志』による。後世、本社を遷造した際、神釜を旧址に留め、あらためて玉垣を設けて神竈社と称した。それゆえ神体と神宮が離れているのだという。)大昔、武甕槌・経津主の二神が岐神を道案内として妖神を駆逐し、ついにこの地に至って大いに威霊を顕した。(注:『日本書紀』『元要記』『春日験記』を参考にした。)岐神はそこで民に塩を煮ることを教え、生業の助けとして人々を安んじ撫でたので、その功績は非常に盛んであった。それゆえ後の人々は三神を合祀し、塩竈神と号したという。(注:『塩竈社縁起』『和漢三才図会』による。岐神は大己貴命が二神の道案内として薦めた神であり、猿田彦神(さるたひこのかみ)も天孫を天の八衢(やちまた)に迎えたことから衢神(ちまたのかみ)と称されることがあり、名義が似通っている。また塩土老翁(しおつちのおじ)にも皇孫を海宮に導いた故事があるため、諸書ではこの三神を同一の神とすることがある。また「塩竈」の名から本社を塩土老翁を祀るものとするのも、いずれも誤りである。また『和漢三才図会』には味耜高彦根神を祀るとあり、この神がはじめて塩を作ったというが、これはおそらく世間で本社を陸奥国の一宮と称することがあり、それによって本来の一宮である都都古和気社が祀る神と混同され、この誤りが生じたのであろう。よって今はいずれも採らない。)延喜の制で、祭料として稲一万束を充てられた。(注:『延喜式』による。)その祭りは毎年七月十日、潮が満ちる頃を待って神膳を供える。神釜の古い水を除き、新たに汲んだ潮水を注ぎ入れる。常陸国の鹿島社でも、この日に祭りを行うという。(注:『塩竈社縁起』、『鹿島志』を参考にした。)本社に付属する社は非常に多く、冠川・鼻節など十余社があり、社司には禰宜・祝(はふり)など二十余人がいる。(注:『観迹聞老志』による。)

出羽国(でわのくに)

飽海郡(あくみぐん) 三座

大物忌神社(おおものいみじんじゃ)。(注:もとは鳥海山の上にあったが、後に山麓の吹浦村に遷った。)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。(注:『一宮記』、忌社家の説による。)承和五年、従五位上勲五等から正五位下に進んだ。同七年、これより先、本国から「この神宮の上、雲の中に戦いの声が聞こえる。まもなく隕石の鏃(やじり)が落ちた」との報告があった。折しも遣唐使が帰朝して「南蛮の地に漂着して賊の難に遭い、寡兵をもって敵に勝てたのは、神の助けがあったかのようであった」と奏上し、その日が符合した。朝廷は驚き、「神霊の助けによるものである」として、従四位下を授け、封戸二戸を充てるよう勅した。(注:『続日本後紀』による。)貞観四年、正四位下から官社に預かった。(注:本書には「下」を「上」に作るが誤りであり、今は下文によって訂正した。)同六年、正四位上に進み、まもなく従三位を加えられた。

同十三年、国司が「本社は山上にあり、巌石が切り立って人跡の絶えた地である。冬も夏も雪があり、草木は生えない。今年四月、山頂に火が発し、土石がともに焼け、その音は雷のようであった。泥水が激しく沸き立ち、色は青黒く変わり、臭気は近寄れないほどで、川の魚はすべて死んだ。二匹の大蛇が流れ出て海に入り、無数の小蛇がこれに従った。川に沿った苗や作物の多くが損なわれた。古老は『これほどの異変はかつてなかった』という。弘仁年間にも火があり、まもなく兵乱があった。もし鎮祭しなければ、再び兵乱が起こることを恐れる」と報告した。そこで詔して国司に禱り謝させた。同十五年、正三位に進んだ。元慶二年、封戸二戸を加えられた。これは軍事のたびに国司の祈祷に験があったためである。出羽権守(でわのごんのかみ)藤原保則(ふじわらのやすのり)は「大物忌・小物忌・月山の三神は、古来、戦いのたびに特に著しい霊験を示してきた。去る五月、賊徒が来襲した際、たまたま雲霧が立ち込めて咫尺(しせき)も分からず、陣営は混乱し官軍は敗れた。これを亀卜(きぼく)で占ったところ、『神階を進めなかったため祈祷に応えがなかった』とのことであった。どうか爵位を増して神の心を慰められたい」と申し上げた。そこで大物忌神に勲三等を授ける勅が下された。同四年、従二位を加えられた。仁和元年、秋田城および郡中に石の鏃が雨のように降った。神祇官は「大物忌などの諸神の祟りである」と奏上した。そこで国司に敬い祭らせ、あわせて警備を慎むよう勅した。(注:『三代実録』による。)後に正二位に進んだ。(注:『外記日記』による。)延喜の制で名神大社に列せられ、月山・大物忌の祭料として稲二千束を充てられた。(注:『延喜式』による。)後世、本国の一宮と称され、(注:『一宮記』、兵家茶話引用の福浦社文書による。)出羽鎮守神と号された。天慶二年(939年)、神山に火が上がり、これを占った。(注:『外記日記』による。)承久二年(1220年)、藤原頼経が使者を遣わして神殿を修造させた。正平十三年、前内大臣某(なにがし)が由利郡小石郷の地を奉じ、朝廷の再興を祈った。(注:『福浦社文書』による。)本社には大物忌・神主・社家・神楽男などが置かれ、(注:『出羽風土略記』による。)毎年正月と十月、第三の寅の日から始めて七日間齋祭を行い、これを大物忌という。社の名はおそらくこれに由来するのであろう。(注:『鳥海山由来記』『出羽風土略記』による。)

月山神社(がっさんじんじゃ)。(注:もとは鳥海山の上にあったが、後に吹浦村の大物忌神社の西に移った。古くからこの二社は並び立っており、それゆえ併せて両所名神と称される。一説には田川郡の月山にあるというが、おそらく誤りであろう。)月読命(つくよみのみこと)を祀る。(注:『日本書紀』『延喜式』『出羽風土略記』による。)宝亀四年、本国の封戸二戸を奉じられた。(注:『新抄格勅符』による。)貞観六年、正四位上勲六等から従三位に進んだ。同十八年、正三位に昇進した。元慶二年、軍事を祈って霊験があったとして封戸二戸を加えられ、まもなく藤原保則の奏請により勲四等に進んだ。同四年、従二位を加えられた。仁和元年、石の鏃が雨のように降る異変があったため、国司に敬い祭らせるよう勅した。(注:『三代実録』による。)延喜の制で名神大社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

小物忌神社(おものいみじんじゃ)。(注:「小」は「袁」とも書く。現在は飛島の浦村にあり、大宮と称される。)伝えによれば級長津彦命(しなつひこのみこと)を祀るという。(注:大物忌社の伝説、『出羽風土略記』による。)元慶二年、従五位下勲九等から勲七等に進んだ。これは藤原保則の奏請によるものである。同四年、従五位上を加えられた。(注:『三代実録』による。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)毎年正月と十月、酉の日から始めて三日間祭りを行い、これを小物忌という。社の名はおそらくこれに基づくのであろう。(注:『出羽風土略記』、土地の人の説による。)

田川郡(たがわぐん) 三座

遠賀神社(おがじんじゃ)。(注:後世、井岡権現と称される。現在は井岡村遠賀野井山にある。)大山祇命を祀る。(注:長禄四年(1460年)の扁額による。)

由豆佐売神社(ゆずさめじんじゃ)。(注:「佐」の下に「乃」の字があるものもある。現在は月山山中の温海村温海嶽にあり、熊野権現と称される。山中に温泉が湧き出るため「温海」と名付けられた。「由豆佐」はすなわち「湯出沢」の意であるという。)伝えによれば豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀るという。(注:『出羽風土略記』による。)仁和元年、石の鏃が降る怪異があったため、国司に特別に祭らせるよう勅した。(注:『三代実録』による。)

伊氐波神社(いではじんじゃ)。(注:現在は羽黒山にあり、羽黒権現と称される。古くは皇野にあり、その後阿久谷に移り、さらに大堂、すなわち現在の地に遷った。羽黒山はもとの名を伊氐波山といい、後世修験者に崇め奉られるうちに、次第に古い名を失った。『出羽風土略記』によれば、本堂にはかつて古い額が伝わり、「伊底波神社」と記されていたといい、これもまた証拠となるだろう。)伝えによれば玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀るという。(注:『出羽風土略記』による。)

延喜の制で、三座はいずれも小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

平鹿郡(ひらかぐん) 二座

塩湯彦神社(しおゆひこじんじゃ)。(注:現在は八沢木村鳴見沢御嶽山にあり、御嶽権現という。)

波宇志別神社(はうしわけじんじゃ)。(注:現在は八沢木村保呂羽山にある。この郡および雄勝・由利の三郡の民が氏子と称し、祭祀を供奉しているという。)

延喜の制で、二座はともに小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

山本郡(やまもとぐん) 一座

副川神社(そえがわじんじゃ)。(注:現在は浦大町村高嶽山にあり、山本宮という。)延喜の制で小社に列せられた。(注:『延喜式』による。)

官帳に載らないもの

熊通男神社(くまつうおじんじゃ)・石通男神社(いしつうおじんじゃ)・真蒜神社(まひるじんじゃ)。三社は現在いずれもどの郡にあるか分からない。貞観四年、三神はともに正六位上から従五位下に進んだ。

城輪神社(きのわじんじゃ)・高泉神社(たかいずみじんじゃ)。二社は現在ともに飽海郡にある。(注:郡名は土地の人の説による。城輪社は宮形村にあり、二宮と称される。高泉社は北境村にある。)貞観七年、ともに正六位上から従五位下に進んだ。元慶四年、勲七等を加え、城輪神を従五位上とした。

白磐神社(しらいわじんじゃ)・須波神社(すわじんじゃ)。おそらく建御名方命を祀るのであろう。(注:「蓋」以下は『古事記』『延喜式』による。)

利神社(としじんじゃ)・酢川温泉神社(すかわおんせんじんじゃ)。以上の四社は、所在が現在明らかでない。貞観十二年、白磐・須波の二神に従五位下を授けた。同十三年、利神を正六位上から従五位上に進めた。同十五年、温泉神もこれに準じた。

矢向神社(やむきじんじゃ)。(注:本書には「矢作天」とあるが、今は『類聚国史』『神階記』に従う。)現在は最上郡にある。(注:郡名は『出羽風土略記』による。鮎貝村にあり、矢向明神と称される。)貞観十六年、正六位上から従五位下を授けられた。(注:『三代実録』による。)

齶田神社(あぎたじんじゃ)。現在は秋田郡にある。(注:郡名は土地の人の説による。土地の人によれば、現在は小繋村にあり、七座山天神といい、秋田・能代・綴子の三村の鎮守神であるという。この三村はすなわち『日本書紀』にいう飽田・渟代・肉入籠(ししりこ)の地である。)斉明天皇四年(658年)、阿陪臣比羅夫(あべのおみひらふ)が蝦夷を討って降伏させた。齶田の蝦夷である恩荷(おが)は進み出て「私どもが弓矢を持つのは、ただ肉を得るためです。もしこれを取って官軍に抗う者があれば、齶田の神が必ず罰するでしょう」と誓った。翌年、比羅夫は再び蝦夷を征し、齶田・渟代などの夷酋を大いに集め、船一隻と五色の綵帛(さいはく)を与え、その土地の神を祭って帰った。(注:『日本書紀』による。)これがすなわちこの社である。