卷之三百五十八 志第一百十五
陰陽一
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶上古の人々や物事は素朴であり、知恵や才覚もまだ開けていなかった。そのため、暦法や占い・測定の術についても、その頃すでに存在したとは聞いていない。
¶三韓が内属するに至って、中国の律暦の説や、天文・五行の術が、おそらくこの頃初めて我が朝に伝わったのであろう。ただし、これまでの史書に記されているところでは、太祖(神武天皇)以来、建寅の月を正月として、年月や干支をきわめて詳しく記しているが、実際にどの暦法を用いていたのかは分からない。ある説には、「後世の人が暦法を定めてから、それを過去に遡って推算したのだ」ともいう。とはいえ、千年余りも昔の出来事について、年を編み月日をつなげ、書物に記して誤りのないのは、どうして拠るところもなくそうできようか。
¶そもそも天の神妙な道理を観察すれば、四季は狂うことなく、寒暑は行き来し、陰陽が代わる代わる盛んになる。昔の聖人が年紀を定めたのも、あるいは何か簡易な方法によって日月を数えたのではなかろうか。太占(ふとまに)の法のようなものは、神代から伝わると聞く。そして允恭天皇の時代の、羹(あつもの)に張った氷の変事のようなものについて、占い師の言葉は、中国の儒者が説く五行の伝説にかなり似ている。思うに、災いや瑞祥・吉凶についても、我が国独自の説があったのに、後世には伝わらなかったのではなかろうか。
¶推古天皇の時代以降になると、暦法・天文・方術の学問は、すべて専門の役人(疇官)の職務となった。そして日月星辰の異変や、不吉な気の現れ、また妖しい前兆や災いの類は、史書に絶えることなく記されている。大宝令が定められるに至って、およそ天文・暦書の学問や、風雲・気色の占いは、すべて陰陽寮がこれを管掌することとなった。そして後世になると、天文はもっぱら陰陽家の職業となり、学者はもはや観測や天体運行の推算に努めることをせず、いたずらに陰陽五行の説を講じるだけとなり、些末な数にこだわって、みだりに自分勝手な説を唱え、ついには暦の道を乱すに至った。まことに甚だしい迷妄と言うべきである。
¶そもそも圭表によって日影を測るのは、万物の宜しきを助け、調和した気を発揮させるためである。暦日を正すのは、天の象(かたち)に親しみ従い、つつしんで人々に時を授けるためであり、それゆえに王者はこれを重んじたのである。昔の聖人が史書を作るにあたっては、異変は記しても、その理由や解説までは書かなかった。災いや瑞祥がどのような報いを招くかについては、思うに、見識ある者はあれこれ論じないところである。
¶昔、崇神天皇は疫病の災いに遭い、恐れつつしんで、神々に罪を請うた。精を励まして政治に努め、よく先代の功業を再興したので、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称された。これに対し後世に至っては、君主の中には災異を口にするのを嫌い、わずかな瑞祥があれば符瑞の説を引き合いに出して一時を取り繕う者もあったが、それが政治の助けになった例は見られない。要するに、災いや瑞祥は陰陽の測り知れないところによるものであるが、吉凶はおそらく人の行いの是非にかかっている。史官がつつしんでこれを記すのも、また後世への戒めを残すためである。
¶そもそも我が朝は異国の暦学が伝わってから暦日を行うようになり、貞観の頃に至るまでに、その暦法は五度改められた。いわゆる元嘉暦・儀鳳暦・大衍暦・五紀暦・宣明暦がこれである。しかしこれらはみな宋・唐の旧来の暦法であって、独自に改め作ったものではない。また疇官が伝えてきた天文・五行の説も、おおむね中国から出たものであるから、ここに改めて詳しく述べることはしない。ただその暦を用いた順序と、当時の博士たちの議論だけを記す。
¶そして暦術の由来を著すにあたり、天災地妖の類ですでに本紀に見えているものは、省略して簡略にした。まだ記載されていないものについては、すべて調べ集めて、この陰陽志を作った。