卷之一百三 列傳第三十
皇女四
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
【白河】六女
¶(本項には白河天皇の六女についての本文記載がなく、原文は項目名「【白河】六女」を繰り返すのみである。)
【堀河】二女
¶媞子内親王(ていしないしんのう)は、藤原氏出身の中宮を母として生まれた(注:『扶桑略記』『皇胤紹運録』『今鏡』による)。承保三年、内親王となった(注:『一代要記』『女院小伝』による)。承暦二年、准三宮となり(注:『女院小伝』による)、伊勢斎宮に卜定された。応徳元年、母である中宮の喪に遭い、斎宮を辞した(注:『玉海』治承二年条、『女院小伝』による)。寛治元年、堀河天皇の准母となった(注:『一代要記』による)。同四年、病を患い、白河上皇は五壇法を修してこれを祈った(注:『中右記』による)。同五年、皇后に立てられた(注:『中右記』による。ただし『一代要記』『扶桑略記』および『後二条関白記』院号の条は、いずれも中宮としている。しかし『関白記』奉号の条に載る宣命文には皇后とあるため、ここでは本書の記述に従う)。同七年、郁芳門院(いくほうもんいん)の院号を奉られ(注:『後二条関白記』『扶桑略記』『一代要記』による)、封戸は元のままとされ、年分の受領を給わった(注:『扶桑略記』による)。この年、端午の節句に門院は大いに歌人を集め、菖蒲の根合わせを催した。世に語り伝えられる盛儀であった(注:『百錬抄』『帝王編年記』『今鏡』による)。嘉保元年、病を患い、上皇は宮中で不動咒を修してこれを祈った。翌年、上皇に従って法勝寺(ほっしょうじ)の円堂に赴き、愛染明王像を拝し、快復を祈った御礼参りをした(注:『中右記』による)。永長元年八月、六条院(ろくじょういん)において崩じた。享年二十一(注:『百錬抄』『一代要記』による。六条院の所在は『一代要記』による。○『紹運要略』『簾中抄』は享年二十二とするが、誤りである)。上皇は門院を深く寵愛し、常に同じ宮に住み、外出の際も同じ車に乗った(注:『栄花物語』による)。門院が病んだ際、世間では僧の頼豪(らいごう)の祟りであると噂した。上皇は当代随一の高僧に命じてこれを祓わせたが、効験はなかった(注:『愚管抄』による)。この崩御に上皇は深く悲しみ嘆き、その年のうちに剃髪した(注:『一代要記』『愚管抄』『百錬抄』『今鏡』による)。堀河天皇は三日にわたって政務を執らなかった(注:『園太暦』貞和二年条による)。この夏、京の都で田楽が大流行した。都の人々は身分の上下を問わず奇抜な装束を競い、贅を尽くした。昼夜を分かたず騒ぎ立て、街路にあふれた。門院はこれをことのほか好み、たびたび院中に田楽衆を召したため、一時は誰もがこれに倣った。文武の臣下も先を争って新奇な趣向を凝らし、制度の限度を超えたため、当時の人々はこれを不吉な兆しと見なした(注:朝野群載所収の「洛陽田楽記」および『今鏡』を参照した)。翌年、堀河天皇は園城寺(おんじょうじ)の法華院を落慶供養し、門院の生前からの願いを果たした。上皇は円光院(えんこういん)を落慶供養し、また門院のかつての御所を仏閣に改め、冥福を捧げた(注:『百錬抄』による)。
【鳥羽】九女
¶善子内親王(ぜんしないしんのう)は、女御藤原道子(ふじわらのみちこ)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『中右記』『栄花物語』による)。承暦三年、内親王となった(注:『一代要記』による)。寛治元年、伊勢斎宮に卜定された(注:『中右記』『一代要記』『帝王編年記』による。○『栄花物語』は応徳二年とし、『貴女鈔』は承保四年とする)。同三年、伊勢に赴いた(注:『斎宮記』による)。堀河天皇の崩御により斎宮を退き、その後准三宮となった(注:『帝王編年記』による)。長承元年十二月、薨じた(注:『一代要記』、『山槐記』治承二年条による)。享年五十六(注:『中右記』による)。六角斎宮(ろっかくさいぐう)と称された(注:『帝王編年記』『斎宮記』『貴女鈔』『簾中抄』による)。
【後白河】六女
¶令子内親王(れいしないしんのう)は、媞子内親王と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』『今鏡』『栄花物語』による)。承暦三年、内親王となった(注:『一代要記』『水左記』による)。翌年、別に五百戸の封戸を賜った。応徳元年、准三宮となった(注:『一代要記』による)。寛治三年、賀茂斎院に卜定された(注:『中右記』『帝王編年記』『斎院記』『貴女鈔』による。○『栄花物語』は二年とする)。承徳三年、斎院を辞した(注:『帝王編年記』による)。嘉承二年、鳥羽天皇の准母となった(注:『一代要記』『中右記』による)。天皇の即位に際し、本来ならば后に立てられるべきところであったが、上皇は先例として郁芳門院を准母から后位に加えた際、その享年が長くなかったことを踏まえ、群臣に議論させた。ある者は、諒闇(りょうあん、服喪中)の時期に后を立てるのは不適切であると述べた。権中納言藤原宗忠(ふじわらのむねただ)は、「今上帝はまだ幼く、御輿に単独でお乗せするわけにはいかない。しかも皇太后が不在である以上、准母を后に立てることに何の差し支えがあろうか」と述べ、結局皇后に立てられることとなった。天仁元年、二条第(にじょうてい)に退出して住んだ(注:『中右記』による)。長承三年、太皇太后となった(注:『中右記』『一代要記』による。○『帝王編年記』は五年とする)。皇后から直接太皇太后になったのは、これが最初の例である(注:『中右記』による)。大治五年、剃髪して尼となった(注:『一代要記』『歴代皇紀』による)。天養元年四月、崩じた(注:『台記』『一代要記』『歴代皇紀』による)。享年六十七(注:『一代要記』『歴代皇紀』による)。石陰(せきいん)に葬られた(注:『台記』による)。二条大宮(にじょうのおおみや)と称された(注:『一代要記』『貴女鈔』による)。鳥羽法皇は喪服を著て深く哀悼した(注:『台記』、『玉海』文治五年条による)。
¶禛子内親王(ていしないしんのう)は、媞子内親王と同母の妹である(注:『貴女鈔』『栄花物語』による)。後冷泉天皇の皇后藤原氏の養女として育てられた(注:『水左記』『兵範記』による)。永保二年、内親王となった。応徳二年、別に三百戸の封戸を賜った。承徳元年、准三宮となった(注:『一代要記』による。○准三宮となった時期について、本書では一説に応徳元年ともする)。康和元年、賀茂斎院に卜定された(注:『斎院記』『貴女鈔』、『兵範記』嘉応元年条による)。嘉承二年、病により辞職した(注:『帝王編年記』による)。禛子は仏法を篤く信じ、たびたび僧を招いて説法を聴いた。また和歌を好んだ(注:『今鏡』による)。保元元年正月、法住寺殿(ほうじゅうじどの)において薨じた。享年七十六(注:『兵範記』『一代要記』による。法住寺殿の所在は『一代要記』による)。土御門斎院(つちみかどさいいん)と称され(注:『斎院記』『一代要記』『貴女鈔』『簾中抄』による)、また枇杷斎院(びわさいいん)とも称された(注:『兵範記』による)。
¶恂子内親王(じゅんしないしんのう)は、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『中右記』『皇胤紹運録』『今鏡』による。○本書では他の箇所でいずれも「侚子」と表記するが、ここでは『一代要記』に従う)。天仁元年、内親王となり、伊勢斎宮に卜定された(注:『中右記』『一代要記』『歴代皇紀』『今鏡』による。内親王となったことは『中右記』による。○『簾中抄』『貴女鈔』は嘉保元年とするが、誤りである)。天永元年、伊勢に赴いた(注:『中右記』『一代要記』による)。保安の初め、病を患い、上皇は大神宮に幣帛を捧げてこれを祈った。長承元年十月、薨じた(注:『中右記』による)。樋口斎宮(ひぐちさいぐう)と称された(注:『一代要記』『貴女鈔』『帝王編年記』による)。
¶官子内親王(かんしないしんのう)は、宮人源氏を母として生まれた(注:『中右記』、『台記』久安二年条、『一代要記』『今鏡』による。○『皇胤紹運録』は「宮子」と表記する)。天元元年、内親王となり、賀茂斎院に卜定された(注:『一代要記』『歴代皇紀』『帝王編年記』『貴女鈔』『中右記』による。内親王となったことは『中右記』による)。清和院斎院(せいわいんさいいん)と称された(注:『皇胤紹運録』『一代要記』『貴女鈔』『斎院記』『簾中抄』による。○『今鏡』は勢賀院とする)。
¶悰子内親王(そうしないしんのう)は、宮人王氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『斎院記』『貴女鈔』による)。保安四年、賀茂斎院に卜定された(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』『貴女鈔』による)。大治元年、母の喪により辞職した(注:『歴代皇紀』『帝王編年記』による)。応保二年十一月、薨じた。享年六十四(注:『一代要記』による)。大宮斎院(おおみやさいいん)と称された(注:『帝王編年記』『皇胤紹運録』『貴女鈔』『今鏡』による)。
¶喜子内親王(きしないしんのう)は、母の氏を欠く。仁平元年、内親王となり、伊勢斎宮に卜定された(注:『一代要記』による。○『皇胤紹運録』の一本には、帝の皇女に懐子内親王があると記すが、他の諸書には見えないため、ここでは採用しない)。
¶禧子内親王(きしないしんのう)は、藤原氏出身の中宮を母として生まれた(注:『中右記』『歴代皇紀』『帝王編年記』による)。保安三年、内親王となり(注:『歴代皇紀』『一代要記』による)、一品に叙せられ(注:『中右記』『皇胤系図』による)、准三宮となった(注:『中右記』『歴代皇紀』による)。長承元年、賀茂斎院に卜定された(注:『歴代皇紀』『貴女鈔』による)。同二年九月、病により辞職し(注:『中右記』『長秋記』による)、月を越えて薨じた(注:『一代要記』『今鏡』による)。享年十二(注:○『一代要記』は享年十四とするが、ここでは本書の記述から生年を推して従う)。崇徳天皇は三日にわたって朝政を廃した(注:『今鏡』による)。一品宮(いっぽんのみや)と称された(注:『中右記』『長秋記』『貴女鈔』による)。
¶統子内親王(とうしないしんのう)は、初め恂子(じゅんし)と名乗った(注:『皇胤紹運録』『紹運要略』『女院小伝』による。○『百錬抄』『簾中抄』『今鏡』は統子を「綩子」と表記する。『紹運録』の一本には、統子のほかに別に詢子内親王を載せ、待賢門院の所生とするが、他の諸書には見えないため、ここでは採用しない)。禧子内親王と同母の妹である(注:『帝王編年記』『中右記』『今鏡』による)。大治元年、内親王となった(注:『女院小伝』『今鏡』による)。同二年、准三宮となり、賀茂斎院に卜定された(注:『中右記』『女院小伝』による。○『貴女鈔』『斎院記』は三年とし、『後宮略伝』は伊勢斎とするが、いずれも誤りである)。長承元年、病により辞職した(注:『帝王編年記』『女院小伝』による)。保元三年、天皇の准母として皇后に立てられた(注:『後宮略伝』『今鏡』による。○『女院小伝』は二条天皇の准母とするが、誤りである)。平治元年、上西門院(じょうさいもんいん)の院号を奉られた(注:『由槐記』による)。永暦元年、法金剛院(ほうこんごういん)で剃髪し(注:『女院小伝』『紹運要略』による。法金剛院の所在は『後宮略伝』による。○『今鏡』はこれを二年の出来事とする)、法名を真如理(しんにょり)といった(注:『皇胤紹運録』『女院小伝』『簾中抄』による。○『後宮略伝』は金剛観とするが、誤りである)。文治五年七月、六条院において崩じた。享年六十四(注:『帝王編年記』『女院小伝』『紹運要略』による。六条院の所在は『歴代皇紀』による。○『皇紀』は享年六十五、『後宮略伝』は六十一とするが、いずれも誤りである)。後鳥羽天皇は三日にわたって朝政を廃した(注:『百錬抄』、『園太暦』貞和二年条による)。後白河法皇は喪服を着け、十日を過ぎてもこれを脱がなかった。摂政藤原兼実(ふじわらのかねざね)はこれを諫めて、「王者は傍系の親族のための服喪期間を短く切り上げるべきものです。今、陛下の哀悼は礼を過ぎ、旬日を経てもなお群臣に会わず、政務の奏上が滞っております。どうか御心を抑えて哀しみを節し、朝廷の望みに応えられますように」と述べた。法皇はこれに従った(注:『玉海』による)。
¶妍子内親王(けんしないしんのう)は、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『今鏡』による)。康治元年、伊勢斎宮に卜定され(注:『一代要記』『帝王編年記』による)、准三宮となった(注:『皇胤紹運録』による)。後に尼となった(注:『今鏡』による)。応保元年十月、薨じた(注:『一代要記』による)。吉田斎宮(よしださいぐう)と称された(注:『一代要記』『貴女鈔』『今鏡』による)。
¶叡子内親王(えいしないしんのう)は、藤原氏出身の皇后を母として生まれ(注:『台記』『皇胤紹運録』『今鏡』による)、高陽院(かやのいん)の養女として育てられた(注:『台記』『今鏡』『十訓抄』による)。保延二年、内親王となった(注:『一代要記』による)。同三年、准三宮となった。本来の封戸のほかに千戸を加えられ、家司の任命や叙爵も、みな先例と同様であった(注:『夕拝至要鈔』による)。久安四年十二月、高陽院において薨じた。享年十四(注:『台記』『一代要記』による。高陽院の所在は『一代要記』による。『要記』は二月のこととするが、ここでは『台記』によって訂正する)。高陽院宮(かやのいんのみや)と称された(注:『一代要記』による)。近衛天皇はこれがため朝政を廃した(注:『台記』による)。
¶暲子内親王(しょうしないしんのう)は、叡子内親王と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』『今鏡』による)。保延四年、内親王となった(注:『女院小伝』による)。鳥羽上皇は暲子をことのほか寵愛し、宮中で養育した。近衛天皇がまだ皇太子であったとき、暲子は上皇に、「若宮(近衛)が東宮になられるなら、私は東宮の姉ということになります」と申し上げた。当時、暲子はわずか三歳であった。上皇はその聡明さを喜び、笑って、「世にどうして『東宮の姉』などという肩書があろうか」と言った(注:『今鏡』による)。久安二年、准三宮となり(注:『台記』『女院小伝』『後宮略伝』による)、年官・年爵を給わり、本来の封戸のほかに千戸を加えられた(注:『台記』による)。近衛天皇が崩じるに及び、上皇は暲子を皇位に即かせようとしたが、関白藤原忠通(ふじわらのただみち)がこれを諫めて思いとどまらせた(注:『愚管抄』『古事談』、および『今鏡』を参照した)。保元二年、剃髪した(注:『一代要記』『女院小伝』『後宮略伝』による)。法名を金剛観(こんごうかん)といった(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『簾中抄』による。○『帝王編年記』は金剛覚とし、『女院小伝』の一説には金剛性ともする)。二条天皇の即位に及び、准母となった。応保元年、八条院(はちじょういん)の院号を奉られた。皇后とならずに院号を加えられたのは、これが最初の例である(注:『女院小伝』『今鏡』による。『一代要記』『皇胤紹運録』も参照した)。建暦元年六月、崩じた(注:『百錬抄』『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)。享年七十五(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。仏法を篤く信仰し、かつて蓮花心院(れんげしんいん)を創建した(注:『仁和寺諸堂記』による)。
¶妹子内親王(まいしないしんのう)は(注:『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』『紹運要略』による。○『台記』『簾中抄』は「姝子」と表記する)、初め壽子(じゅし)と名乗った(注:『台記』による)。叡子内親王と同母の妹である(注:『女院小伝』『後宮略伝』『紹運要略』による)。二条天皇の中宮となった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。
¶頌子内親王(しょうしないしんのう)は(注:『皇帝紀鈔』『一代要記』『帝王編年記』『皇胤紹運録』による。○『紹運録』の一説には瑱子とし、『今鏡』『皇胤系図』には項子とする)、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『台記』『皇胤紹運録』『今鏡』による)。承安元年、賀茂斎院に卜定された(注:『皇帝紀鈔』『一代要記』による)。八月、病により辞職した(注:『皇帝紀鈔』『帝王編年記』による)。承元二年九月、薨じた。享年六十四(注:『百錬抄』による)。五辻斎院(いつつじさいいん)と称され(注:『帝王編年記』『百錬抄』による)、また春日姫宮(かすがのひめみや)とも称された(注:『今鏡』『簾中抄』による)。
¶阿夜御前(あやのごぜん)は(注:『今鏡』による)、宮人紀氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『今鏡』『紀氏系図』による)。剃髪して雙林寺(そうりんじ)に住み(注:『今鏡』による)、雙林寺宮(そうりんじのみや)と称された(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『紀氏系図』『今鏡』による)。
¶高松宮(たかまつのみや)は名を失い、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『帝王編年記』『今鏡』を参照した。○考えるに、『今鏡』には勢賀院姫宮・斎院姫宮の記載があるが、いずれも他の諸書には確認できない。また『編年記』には花園宮の記載があり、伊勢斎になったとするが、母の氏や斎宮となった年月は記されていない。ここに付記して考証に備える)。
¶【後白河】六女
¶亮子内親王(りょうしないしんのう)は、従三位藤原成子(ふじわらのなりこ)を母として生まれた(注:『吉記』『皇胤紹運録』『皇胤系図』『今鏡』による)。保元元年、内親王となり、伊勢斎宮に卜定された。同三年、天皇の譲位に会い、ついに伊勢へは赴かなかった(注:『一代要記』『女院小伝』による)。永寿元年、天皇の准母であったことから、皇后に立てられた(注:『一代要記』『歴代皇紀』『女院小伝』による)。後鳥羽天皇の即位に及んでも、また准母となった(注:『玉海』文治三年条による。『一代要記』『女院小伝』も参照した)。文治三年、殷富門院(いんぷもんいん)の院号を奉られた(注:『一代要記』『歴代皇紀』『女院小伝』『後宮略伝』による)。建仁三年、剃髪して尼となり(注:○『帝王編年記』は建久二年とし、『後宮略伝』は建久三年とする)、法名を真如観(しんにょかん)といった(注:『女院小伝』による。○『後宮略伝』は真性理とする)。建保四年四月、崩じた。享年七十(注:『仁和寺日次記』『帝王編年記』『女院小伝』『後宮略伝』による。○『歴代皇紀』は享年七十四とする)。法金剛院の東新御堂に葬られた(注:『女院小伝』による。○『仁和寺日次記』は安井法華堂とする)。かつて蓮花光院(れんげこういん)を創建した(注:『仁和寺諸堂記』による)。
¶式子内親王(しょくしないしんのう)は、殷富門院と同母の妹である(注:『一代要記』『皇胤紹運録』『斎院記』『貴女鈔』による)。和歌に秀でていた(注:『斎院記』による。○勅撰集に入集した歌はおよそ百五十七首に及ぶ。『新古今和歌集』はその歌を、「玉の緒(たまのを)よ 絶えなばたえね ながらへば 忍ぶる事(しのぶること)の 弱(よ)わりもぞする」と載せている)。平治元年、賀茂斎院に卜定され(注:『一代要記』『歴代皇紀』『斎院記』による)、准三宮となった(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』『貴女鈔』による)。嘉応元年、病により辞職した(注:『皇帝紀鈔』『帝王編年記』による)。建久八年、蔵人橘兼仲(たちばなのかねなか)・僧観心の一件に連座し、都の外へ追放されるべきところであったが、そのまま不問に付された(注:『皇帝紀鈔』による)。後に剃髪し、法名を承如法(しょうにょほう)といった。大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)と称され(注:『斎院記』による)、また高倉宮(たかくらのみや)とも称された(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による)。
¶好子内親王(こうしないしんのう)は、殷富門院と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による)。保元三年、内親王となり、伊勢斎宮に卜定された(注:『一代要記』『帝王編年記』『貴女鈔』による。内親王となったことは『一代要記』による)。永暦元年、伊勢に赴いた(注:『斎宮記』による)。
¶休子内親王(きゅうしないしんのう)は、殷富門院と同母の妹である(注:『皇胤紹運録』による)。仁安元年、伊勢斎宮に卜定された(注:『一代要記』『帝王編年記』『貴女鈔』による)。同三年、天皇の譲位に会い、斎宮を罷めた。承安元年三月、薨じた。享年十五(注:『一代要記』による)。
¶惇子内親王(じゅんしないしんのう)は(注:『皇胤紹運録』『百錬抄』『貴女鈔』『今鏡』による。○『一代要記』は惇を「悰」とし、『歴代皇紀』は「偅」、『帝王編年記』は「淳」とする。◎「偅」の本字は、心偏に重と書く字である)、宮人藤原氏を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『皇胤系図』による)。仁安三年、伊勢斎宮に卜定された(注:『一代要記』『帝王編年記』『貴女鈔』による)。嘉応二年、伊勢に赴いた(注:『一代要記』『斎宮記』による)。承安二年五月、斎宮寮(さいぐうりょう)において薨じた(注:『百錬抄』『一代要記』による。○『歴代皇紀』『帝王編年記』は六月とする)。享年十六(注:『一代要記』による)。堀河宮(ほりかわのみや)と称された。
¶親子内親王(しんしないしんのう)は、従二位高階栄子(たかしなのえいし)を母として生まれた(注:『皇胤紹運録』『百錬抄』『女院小伝』による)。文治五年、内親王となり(注:『女院小伝』による)、准三宮となった(注:『一代要記』『女院小伝』『後宮略伝』による)。建久二年、宣陽門院(せんようもんいん)の院号を進められ(注:『玉海』『一代要記』『女院小伝』による。○『簾中抄』は建久元年とするが、誤りである)、年官・年爵を給わった(注:『院号定部類記』による)。後白河上皇はことのほかこれを愛し、六条殿(ろくじょうどの)に同居した(注:『玉海』『院号定部類記』による)。元久二年、剃髪し(注:『明月記』『歴代皇紀』『帝王編年記』『女院小伝』『後宮略伝』による)、法名を性円智(しょうえんち)といった(注:『女院小伝』『後宮略伝』による)。建長四年六月、伏見殿(ふしみどの)において薨じた(注:『百錬抄』『一代要記』による)。享年七十二(注:『一代要記』『女院小伝』による。○『後宮略伝』は六十とするが、誤りである)。