卷之二百五十四 志十一
神祇十一 神社六
現代語訳ステータス: AI一次翻訳(原文照合・専門家レビューは未実施)
¶伊賀国(いがのくに)
¶阿拝郡(あへぐん) 九座
¶敢国神社(あえくにじんじゃ)。別名を安部神(あべのかみ)といい、また敢国津神(あえくにつかみ)、あるいは敢国津大社神(あえくにつおおやしろのかみ)とも称する。(注:『三代実録』にみえる。敢国安部・敢国津などは別の神のようにも見えるが、位階の昇進の様子から見て、おそらく同一の神であろう。そのため合わせて記す。社は現在、一宮村の南宮山にあり、一宮明神と称されている。)祭神は阿閉臣(あへのおみ)の祖である彦背立大稲輿命(ひこせたておおいなよりのみこと)とされる(注:『姓氏録』『延喜式』による)。貞観六年、正六位上から従五位下に叙せられた。同九年・十五年にも相次いで一階ずつ昇叙され、正五位下に至った(注:『三代実録』による)。延喜の制では大社に列せられた(注:『延喜式』による。ただし本書の異本には「大」の字がなく、東海道の下巻には大社五十一座とあるが、各国郡の下に注記された数を数えると一座余計になり、どの社が余分なのか分からない。あるいは、本国には大社はなく、『三代実録』に「敢国津大社神」と記されているのは尊称であって大小の別を示すものではないともいう。しかし後世の国人がこの記述に基づいて私に「大」の字を補い、この誤りが生じたのだという。参考として付し、後考を待つ)。後に本国の一宮と称された(注:『一宮記』による)。
¶陽夫多神社(やぶたじんじゃ)。(注:現在は馬場村にあり、高松祇園と呼ばれている。この社では二座を祀っているが、延喜式に載らない高松神という神があり、その一座はあるいはこの神を祀ったものかもしれない。そのため高松と称するのであろうか。参考として付しておく。)
¶宇都可神社(うつかじんじゃ)。(注:「可」の下に「之」の字がある本もある。土橋村の大堀山の中腹にある。後世、土地の人々が参拝に不便であるとして、波太伎社に合祀した。)貞観十五年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。
¶波太伎神社(はたぎじんじゃ)。(注:「太」は「多」とも書き、「伎」はまた「岐」とも書く。現在は府中郷土橋村にあり、三宮と称されている。)
¶須智荒木神社(すちあらきじんじゃ)。(注:現在は荒木村にあり、白鬚明神と呼ばれている。)伝えによれば、猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀り、武内宿禰(たけのうちのすくね)とその子の葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)を配祀するという(注:『直指抄』『伊水温故』による)。
¶佐佐神社(ささじんじゃ)。(注:もとは篠嶽にあったが、後に音羽村に遷り、佐佐明神と称されている。)文徳帝の即位に際して従五位下を授けられ(注:『文徳実録』による)、貞観十五年に従五位上に進んだ(注:『三代実録』による)。
¶穴石神社(あないしじんじゃ)。(注:「石」はまた「師」とも書く。現在は石川村にあり、その地には穴師川・穴師山がある。)貞観元年、従五位下に叙せられた(注:『三代実録』による)。
¶真木山神社(まきやまじんじゃ)。(注:現在は槙山村にあり、白石明神と称されている。もとは村内の白石山にあった。)
¶小宮神社(こみやじんじゃ)。(注:現在は服部村にあり、諏訪明神と称されている。)伝えでは、服部氏(はとりうじ)の祖を祀るという(注:『伊水温故』『伊賀式社考』による)。 以上の八座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶山田郡(やまだぐん) 三座
¶鳥坂神社(とりさかじんじゃ)。(注:現在は甲野村にあり、村内には鳥坂山があって、その麓には宝殿谷・鳥居河原などの地名があるが、これがその旧址であるという。)
¶阿波神社(あわじんじゃ)。(注:現在は下阿波村にあり、杉生明神と称されているのがおそらくこれであろう。)天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀る(注:『古語拾遺』『神祇宝典』による)。貞観三年、正六位上から従五位下を授けられ、同十五年に従五位上に進んだ(注:『三代実録』による)。
¶葦神社(あしじんじゃ)。(注:現在は平松村にあり、別府明神、また八王子とも称されている。) 延喜の制では、三座はいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶伊賀郡(いがぐん) 十一座
¶木根神社(きねじんじゃ)。(注:もとは長田荘木根村にあり、酒地明神といった。後に阿拝郡に属することになったが、今は失われている。)
¶田守神社(たもりじんじゃ)。(注:現在は阿我山の北麓の鍛冶屋村にある。)
¶比地神社(ひちじんじゃ)。(注:現在は比土村の比地森にあり、高土明神と称されている。)
¶大村神社(おおむらじんじゃ)。(注:現在は阿保駅の東の岡にあり、大森社という。)貞観五年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。
¶比比岐神社(ひひきじんじゃ)。(注:現在は大内上荘村にある。あるいは北山村にあるともいう。)
¶比自岐神社(ひじきじんじゃ)。(注:現在は比自岐森村にあり、大森明神と称される。比自岐四郷の民が祭祀を執り行っている。)伊賀比自支和気氏(いがのひじきわけうじ)の祖を祀るとされる(注:『令集解』『延喜式』による)。
¶依那古神社(いなこじんじゃ)。(注:もとは依那具村の高野河原にあった。現在は村内の小泉の祠に合祀されており、高野天満宮というのがこれである。)
¶猪田神社(いだじんじゃ)。(注:現在は猪田村の隣村である郡村にあり、住吉神と称される。郡・猪田など十七郷の民が祭祀に携わっている。)
¶乎美禰神社(おみねじんじゃ)。(注:現在は桂村にある。)
¶高瀬神社(たかせじんじゃ)。(注:現在は比土村の枝村である高瀬にあり、鑰取明神と称される。)
¶坂戸神社(さかとじんじゃ)。(注:現在は坂戸村にある。) 延喜の制では、十一座はいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶名張郡(なばりぐん) 二座
¶名居神社(なゐじんじゃ)。(注:『延喜式』による。「居」は「井」とも書く。現在は下比奈知村にある。)
¶宇流富志弥神社(うるふしみじんじゃ)。 延喜の制では、二座はいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶官帳に載らないもの
¶津神社(つじんじゃ)。現在どの郡にあるか分からない。文徳帝が即位した年に従五位下を授けられた(注:『文徳実録』による)。
¶高蔵神社(たかくらじんじゃ)。現在は阿拝郡にある(注:郡名は『伊水温故』による。西村にある)。
¶高松神社(たかまつじんじゃ)。現在の所在は詳らかでない。貞観三年、高蔵神とともに正六位上から従五位下を授けられた。
¶宇奈根神社(うなねじんじゃ)。現在は名張郡にある(注:郡名は『伊賀国図』による。梁瀬平尾村にある)。貞観三年、正六位上から従五位下を授けられ、同十五年に従五位上に進んだ。
¶応感神社(おうかんじんじゃ)。現在は阿拝郡にある(注:郡名は土地の人の説による。法華村にある)。貞観五年、正六位上から従五位下を授けられ、同十五年に従五位上を加えられた。
¶伊賀津彦神社(いがつひこじんじゃ)。現在の所在は詳らかでない。伊賀津彦(いがつひこ)は猿田彦神の子であるという(注:「蓋し」以下は『伊賀風土記』による。風土記には、猿田彦神の女(むすめ)である吾娥津媛(あがつひめ)が実際にこの国を治めたため「吾娥(あが)」と呼ばれ、後に「伊賀」と改められたのはその音が転じたものだとある。これによれば伊賀津彦は吾娥津媛の兄弟であろう)。貞観六年、正六位上から従五位下を授けられた。
¶鹿高神社(かたかじんじゃ)。現在は名張郡にある(注:郡名は『三国地志』による。矢川村にあり、鹿高明神と称される)。貞観十五年、正六位上から従五位下を授けられた(注:『三代実録』による)。
¶伊勢国(いせのくに)
¶度会郡(わたらいぐん) 五十八座(注:大神宮以下の四座は、上巻に見える。)
¶朝熊神社(あさくまじんじゃ)。また小朝熊社(こあさくましゃ)ともいい(注:『大神宮儀式帳』による)、あるいは大歳神社(おおとしじんじゃ)とも称する(注:『大神宮儀式帳』『大神宮年中行事』を参照した。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも宇治郷にあるとするが、現在は郷内の朝熊村の北、鹿海村の東の山上にある)。桜大刀自神(さくらのおおとじのかみ)・苔虫神(こけむしのかみ)・朝熊水神(あさくまのみずのかみ)を祀り、いずれも石を神体とする。桜大刀自は大歳神の子であり、朝熊水神は大山祇命(おおやまつみのみこと)の子である。垂仁帝の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が祝(はふり)を置いて祀った。延暦の頃、瀧祭(たきまつり)・園相(そない)・鴨(かも)などの社と合わせた二十五座が、いずれも官社に列せられ、大神宮の管轄となった。本社は特に夏・秋の季節の月の二十日に祭りを行うのが恒例となっている(注:『大神宮儀式帳』による。恒例であることは『大神宮年中行事』による)。延喜の制では瀧祭を除き、あらためて本社と園相・鴨・田乃家・蚊野・湯田・大土御祖・国津御祖・朽羅・伊佐奈弥・津長・大水・大水(注:原文のまま重複)・大国玉比売・江・神前・粟皇子・久久都比売・奈良波良・棒原・大神乃御船・坂手国生・狭田国生・多伎原・川原の二十四社を摂社と定めた(注:伊佐奈弥社については、『大神宮式』にのみ記載があり、『神名式』には見えない。また『斎宮式』には本郡に伊佐奈岐・伊佐奈弥の二社を挙げているが、『神名式』は伊佐奈岐宮二座を挙げるのみで、別に二社を載せておらず、疑わしい。『大神宮儀式帳』を考えるに、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神は、はじめ月読宮の中に祀られ、別に社を設けてはいなかった。『神名秘書』によれば、仁寿二年に大水で月読宮が壊れ、斉衡二年にあらためて社殿を造って神体を遷し奉った。おそらくこの時に二か所に分けて伊佐奈岐・伊佐奈弥の二社を建て、大神宮に摂させたのであろう。貞観九年、社を陞せて宮とし、翌年、伊佐奈岐宮を改修して二座を合祀した。しかし伊佐奈弥社はなお旧のまま存続し、小殿と号したという。『大神宮式』にいう伊佐奈弥社とは、あるいはこれを指すのであろうか。ただし『神名式』は伊佐奈岐宮二座を月読宮の上に載せ、別に二社を載せていないのは、おそらく貞観以後に改められた、実際に定まった説であろう。『大神宮式』『斎宮式』の二式は、おそらくまだ訂正を経ていなかったため、食い違いが生じたのである。『神名秘書』の伊佐奈弥社の条に「伊佐奈岐宮これに同じ」とあるのは、おそらくすでに陞せられて宮となり、別にその社がなくなったことをいうのであろう。そのため今はこれを下に重ねて録さない。ただしこれを除けば、延喜の頃に摂社とされたのは実質二十三社となる。さらに『儀式帳』を考えると、葭原社(よしはらしゃ)は延暦中にはまだ官帳に入っておらず、大神宮の摂社とされていたが、天安に至って初めて官社に列せられた。これは摂社に加えて二十四社とすべきところ、本書もまた改めていない。おそらくいずれも記載漏れによるものであろう。あわせて参考として付しておく)。祈年祭・神嘗祭にもあずかり、その幣帛には座ごとに絹・木綿・麻などの物を供える。大神宮司がこれを分け充て、禰宜が検分・受領し、社に赴いて分け与える。神嘗祭には特に斤税(きんぜい)十束を本社に供える。斎宮寮もまた諸々の摂社に祈年祭を行い、別に楯や魚菜などの物を供える(注:『延喜式』による)。延暦の頃、本社以下、湯田社以上の六社は、神宮使を遣わして造営・修理させた。それ以外の諸社は、国司・郡司が正税をもって修営した(注:『大神宮儀式帳』による)。延喜の制では、神宮を改造するたびに六社もあわせて改修し、それ以外の社は宮司が修理することとなっている(注:『延喜式』による)。後世、本社を鏡宮(かがみのみや)と称する(注:『大神宮年中行事』、康永元年の『大神宮参詣記』による。本国の地図によれば、本社の西、川を隔てて一つの祠があり、鏡宮という。あるいは本社は廃絶して久しく、近世になって再興されたが、誤って前社の一宇をここに建ててしまったのだともいう。参考として付しておく)。長寛元年、御樋代(みひしろ)・御鏡などが自然に失われた。朝議によって軒廊(こんろう)の御卜(みうら)を行い、大神宮に幣を奉ってこれを謝した。まもなく御樋代・御鏡などを改めて造り、これを奉り、鑰(かぎ)を社司に付して厳重に守らせた。本社にはさらに前社が一か所あり(注:『大神宮儀式帳』による)、ともに山上にある。その西南、山の下、水を隔てたところに石巌があり、上古以来、神鏡二面をその上に安置してきた。祭日を除いては、社の祝(はふり)であってもみだりに参拝することは許されない。正治元年、その一面が自然に失われた。この事が朝廷に聞こえ、朝議によって大神宮司に命じてこれを調べさせた。祭主の大中臣能隆(おおなかとみのよしたか)は「旧記によれば朝熊水神は石を神体とする。しかし神鏡のほかに別に御体はなく、神鏡そのものが御体である」と述べた。大外記の清原良業(きよはらのよしなり)は「本社は山腰にあり、神鏡を巌の上に安置している。その時代は詳らかでないとはいえ、すでに格別な神異があった。今、長寛の先例に準じようとしているが、あちらは神宝であり、こちらは御体であって、軽重が等しくない。どうして安易に改造してよかろうか。誠意を尽くして祈り謝し、神鏡がもとの座に復することを期すべきである」と議した。これに従った(注:『小朝熊社神鏡沙汰文』による)。寛喜二年、ある者が「僧が神鏡を盗み、これを山城国の稲荷山に埋めた」と奏上した。そこで勅使と祝らを遣わして迎え、これを安置した(注:『百錬抄』『皇帝記抄』『明月記』『神鏡沙汰文』による)。天福元年、神鏡二面がまた盗人に盗まれたが、ほどなく自然に戻った。文永六年にも一面が失われたが、翌年になって自然に座に戻った。世の人はその霊異を語り伝えているという(注:『神鏡沙汰文』、弘安九年の『大神宮参詣記』、『神名秘書』による)。
¶園相神社(そないじんじゃ)。(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも沼木郷積良村にあるとする。あるいは、現在の沼木郷に円座村があり、村の南に曾奈布(そなふ)と称する地があって、これが園相の遺称であるとも、また円座もおそらく園相の音が訛ったものだともいう。『神鳳抄』に衣佐御園(えさのみその)とあるが、衣佐もまた園相の転音である。これによれば円座村にある産神社がおそらくこれであろう。参考として付し、後考を待つ。)祭神は大水上(おおみなかみ)の子である曾奈比比古命(そなびひこのみこと)で、これを園作神(そのつくりのかみ)といい、石を神体とする(注:園作神については『倭姫命世記』による)。大水上とは大山祇命の別名である。倭姫命(やまとひめのみこと)が大神を奉じてこの地に到った際、曾奈比比古が園地を献上した。そのため社を立てた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝(はふり)を置いて祀った。
¶鴨神社(かもじんじゃ)。(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも城田郷山上村にあるとするが、現在は村の南の釜谷にある。あるいは村の西にあって産神社と称されているのがおそらくこれであろう。)祭神は大水上の子である石已呂和居命(いわいろわけのみこと)で、石を神体とする。倭姫命が祝を置いた。
¶田乃家神社(たのえじんじゃ)。(注:また田辺とも書く。おそらく古くは田辺郷田辺村にあり、後に城田郷矢野村に移ったのであろう。)大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)と称し、鏡を神体とする。雄略帝の時代に祝を置いた。
¶蚊野神社(かのじんじゃ)。(注:現在は田辺郷蚊野村の加奈森にある。)大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)と称し、鏡を神体とする。雄略帝の時代に祝を定めた。
¶湯田神社(ゆだじんじゃ)。(注:現在は湯田郷湯田村にある。)大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)を祀り、鳴震電(なるいかづち)と称する。雄略帝の時代に祝を置いた。
¶大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ)。また大土社(おおつちしゃ)ともいう(注:現在は宇治郷楠部村にある)。国生神(くにうみのかみ)の子である大国玉命(おおくにたまのみこと)、および水佐佐良比古命(みずささらひこのみこと)・佐佐良比売命(ささらひめのみこと)を祀り、石を神体とする。倭姫命が祝を定めた。大国玉は別名を大土神といい、また土之御祖神(つちのみおやのかみ)とも号する。国生神とはすなわち大歳神のことである(注:「一名」以下は『古事記』を参酌した)。
¶国津御祖神社(くにつみおやじんじゃ)。(注:現在は大土社の境内にある。)国生神の子である宇治比売(うじひめ)・田村比売(たむらひめ)の二神を祀る。宇治比売は石を神体とする。倭姫命が大神を奉じて神淵(かみふち)の河原に到った際、苗を背負った老女が来て謁見した。これが宇治比売である(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による。世記には宇遅都日女(うじつひめ)とある)。そこで祝を置いて祀った。
¶朽羅神社(くちらじんじゃ)。あるいは久麻良比社(くまらひしゃ)とも書く(注:現在は田辺郷東原村にある)。大歳神の子である千依比売命(ちよりひめのみこと)を祀り、石を神体とする。倭姫命が祝を定めた。
¶津長大水神社(つながおおみずじんじゃ)。また津長社(つながしゃ)ともいう(注:現在は宇治郷宇治畑町にある)。大水上の子である栖長比女命(すながひめのみこと)を祀り、石を神体とする。倭姫命が祝を定めた。
¶大水神社(おおみずじんじゃ)。(注:現在は津長社の南にある。)大山祇御祖命(おおやまつみのみおやのみこと)を祀る。倭姫命が祝を定めた。
¶大国玉比売神社(おおくにたまひめじんじゃ)。延暦の頃に宇治山田社と称したのは、おそらくこれであろう(注:現在は宇治郷中村にある。長寛の検録文には「大国玉比売社には宝殿も社地もない」とあり、おそらく長寛の頃にはすでにその所在を失っていたのであろう。しかし『神名秘書』には沼木郷にあるという。これは臆測による言葉であろうか。現在の所在と合わないので、ひとまず参考として付しておく)。大水神の子である山田姫命(やまだひめのみこと)を祀る。倭姫命が祝を置いた。大神宮の管轄となり、官社に列せられている。
¶江神社(えじんじゃ)。(注:現在は二見郷江村の西にある。あるいはここは旧地ではなく、中古に大江寺があった所がその地であり、『儀式帳』の四至(しいし)と合致するので、おそらく寺を建てた後に社を今の地に遷したのであろうともいう。)天須婆留女命(あめのすばるめのみこと)の子である長口女命(ながくちめのみこと)、および大歳御祖命・宇加御玉神(うかのみたまのかみ)を祀る。宇加御玉は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子である(注:素戔嗚尊の子であることは『古事記』による)。倭姫命が大神を奉じて五十鈴川(いすずがわ)の後江(しりえ)に至った際、佐美都日子(さみつひこ)という者が迎えて謁見したので、これにより本社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶神前神社(こうざきじんじゃ)。(注:現在は宇治郷松下村の北の神埼にある。あるいは村の中にはさらに天王の祠があり、『儀式帳』の四至によればこれがおそらく本社であって、今の社は神埼の名にちなんで誤られたものだともいう。どちらが正しいかは分からない。)国生神の子である荒前比売命(あらさきひめのみこと)を祀り、石を神体とする。倭姫命が五十鈴川に至った際、荒前比売が来て迎えたので、これにより本社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶粟皇子神社(あわみこじんじゃ)。(注:「皇」はまた「御」とも書く。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも伊気郷伊介島にあるとするが、かつて絶えてしまい、後人があらためて松下村伊介浦に建てたという。一説には、現在小浜村にあって土宮(つちのみや)と称されているのが古社であるという。)道主命(みちぬしのみこと)、すなわち素戔嗚命の霊を祀り、石を神体とする(注:『日本書紀』によれば、筑紫の宗像三神は実は素戔嗚尊の女(むすめ)であり、道主貴(みちぬしのむち)と号したという。これによれば道主を素戔嗚尊の霊とするのには必ず由来があるはずである。参考として付しておく)。倭姫命が御贄所(みにえどころ)を定めようとして伊気浦に到ったところ、海水が淡く甘かった。たまたま一柱の神が来て謁見し饗応を奉ったので、淡海子(あわうみこ)という名を賜り、社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による。粟皇子と淡海子は訓読が相通じる)。祝を置いた。
¶久久都比売神社(くくつひめじんじゃ)。また久具社(くぐしゃ)ともいう(注:現在は城田郷上久具村にある)。大水上神の子である久久都比女(くくつひめ)・久久都比古(くくつひこ)の二神を祀り、石を神体とする。倭姫命が大神を奉じて久求小野(くぐのおの)に幸(いでま)した際、久久都比古が出迎えたので、これによりその社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶奈良波良神社(ならはらじんじゃ)。(注:また楢原とも書く。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも城田郷宮子村にあるとするが、現在は上宮子村にあり、産神社と称されているのがおそらくこれであろう。)大水上の子である那良原比女命(ならはらひめのみこと)を祀り、石を神体とする。倭姫命が祝を定めた。
¶棒原神社(はりはらじんじゃ)。(注:「棒」は「榛」とも書く。現在は田辺郷田辺村朝久田の邑にある。)天須婆留女命の霊を祀る。奈良朝廷の時代に祝を置いた(注:奈良朝廷がどの帝の代を指すかは詳らかでない。ひとまず旧文による。また棒原の神は、土地の人が須岐波良(すきはら)と読み、須婆留(すばる)と音が近いので、これにも必ず由来があるのであろう)。
¶大神乃御船神社(おおかみのみふねじんじゃ)。また御船社(みふねしゃ)ともいう(注:「乃」の字がない本もある。現在は多気郡有爾郷土羽村にある)。大神御蔭川神を祀る。倭姫命が大神を奉じて御船を寒河(さむかわ)に留めたので、これによりこの社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶坂手国生神社(さかてくなりじんじゃ)。また坂手社(さかてしゃ)とも称する(注:現在は田辺郷上田辺村にある)。大水上の子である高水上(たかみなかみ)を祀り、石を神体とする。倭姫命が大神を奉じて度会(わたらい)に至った際、高水神が来て謁見し、田上(たがみ)の御田(みた)を献上したので、これによりその社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いて祀った。
¶狭田国生神社(さたくなりじんじゃ)。また狭田社(さたしゃ)とも称し、あるいは速河狭田社(はやかわさたしゃ)ともいう(注:「あるいは」以下は『倭姫命世記』による。現在は湯田郷佐田村にあり、波伊古社(はいこしゃ)と称する)。須麻留女神(すまるめのかみ)の子である速川比古(はやかわひこ)・速川比女(はやかわひめ)、および山末御玉(やまずえのみたま)を祀る。倭姫命が大神を奉じてここに至ると、速川比古が来て謁見した。倭姫命がその国の名を尋ねると、「狭田国」と答えた。そこで佐佐上(ささがみ)の神田を献上させ、そこでその社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶多伎原神社(たきはらじんじゃ)。(注:「多伎」はまた「瀧」とも書く。)また御瀬社(みせしゃ)ともいう(注:「また」以下は『倭姫命世記』による。現在は三瀬村の河原にある)。麻奈胡乃神(まなごのかみ)を祀り、石を神体とする。倭姫命が大神を奉じて大河に至り、渡ろうとしたが、水の流れが速く激しかった。たまたま麻奈胡神が来て迎えたので、ついに渡ることができて瀧原(たきはら)の地に至った。そこでその渡った所を麻奈胡御瀬(まなごのみせ)と名づけ、そこにその社を定めた(注:「倭姫」以下は『倭姫命世記』による)。祝を置いた。
¶川原神社(かわらじんじゃ)。(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも沼木郷佐八村にあるとする。現在、村の中に千眼社(せんがんしゃ)と称されるものがあり、これがおそらくそれであろう。川原と千眼は音が近いため誤られたのである。)月読尊(つきよみのみこと)の霊を祀り、倭姫命が祝を定めた(注:『大神宮儀式帳』による)。
¶月夜見神社(つきよみじんじゃ)。(注:「夜見」はまた「読」とも書く。現在は沼木郷山田宮後町にある。)月読命(つきよみのみこと)を祀り(注:『日本書紀』『延喜式』による)、鏡を神体とする(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。延暦の頃、本社は草名伎(くさなぎ)・大間国生(おおまくなり)・度会国御神(わたらいくにみかみ)・度会乃大国玉比売(わたらいのおおくにたまひめ)・田上大水(たがみおおみず)・志等美(しとみ)・大川内(おおかわち)・清野井庭(きよのいば)・川原坐国生(かわらにますくなり)・川原大社(かわらのおおやしろ)・川原淵(かわらぶち)・山末(やますえ)・宇須乃野(うすのの)・小俣(おまた)・御食(みけ)、あわせて十六社とともに官社に列せられ、度会宮の摂社となった。延喜の制でもこれを踏襲した(注:『止由気宮儀式帳』『延喜式』による)。祈年祭・神嘗祭は、いずれも大神宮の摂社に準ずる(注:『延喜式』による)。本社および草名伎・大間国生の三社の修造は朝熊社に準じ、それ以外の社もまた大神宮の摂社に準じる(注:『止由気宮儀式帳』『延喜式』による)。承元四年、勅によって本社を陞せて宮とし、度会別宮(わたらいべつぐう)と称した。建暦元年、神殿を改造し、旧来の制を増した(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。
¶草名伎神社(くさなぎじんじゃ)。(注:「名伎」はまた「奈支」とも書く。現在は沼木郷山田村の大間社の西にある。)垂仁帝が大若子命(おおわくごのみこと)を遣わして越(こし)の賊を討たせた際、標剣(しるしのつるぎ)を賜った。凱旋の後、その剣を神として祀り、草名伎と号したという(注:『豊受宮禰宜補任次第』『度会系図』『神名略記』による)。
¶大間国生神社(おおまくなりじんじゃ)。(注:現在は沼木郷山田村の大間広にある。)大若子命・乙若子命(おとわくごのみこと)を祀る(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。大若子は垂仁帝の時代に神国造(かみのくにのみやつこ)となり、大神主(おおかんぬし)を兼ねた(注:『神宮雑例集』が引く『大同本記』による)。乙若子は景行・成務・仲哀の三朝に仕え、大神主の職を襲った。ともに度会氏の祖神である(注:『豊受宮禰宜補任次第』による)。
¶度会国御神社(わたらいくにみかみじんじゃ)。(注:「会」の下に「之」の字がある本もあり、「国」の下にはさらに「都」の字がある本もある。「御」はまた「見」とも書く。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも沼木郷山田村にあるとするが、現在は本宮の境内の西北にあり、おそらく旧址ではないであろう。)大国玉命を祀る。太祖(初代天皇)が天日別命(あめのひわけのみこと)を遣わして本国を征させたところ、大国玉命は帰順した。天日別はそこでその女(むすめ)の美津佐佐良比売(みつささらひめ)を娶り、彦国見賀岐建与束命(ひこくにみかきたけよつかのみこと)という子を生んだ。そこでこの子にその外祖父の祀りを奉じさせた(注:『倭姫命世記』が引くある書による。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも彦国見賀岐建与束命を祀るというが、これは誤りである)。
¶度会乃大国玉比売神社(わたらいのおおくにたまひめじんじゃ)。(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも継橋郷宮山にあるとするが、現在は郷内の大国谷にある。)大国玉命および美津佐佐良比売命を祀る(注:『倭姫命世記』が引く『伊勢国風土記』、および『神名秘書』『神祇本源』による)。天日別命が伊勢に至り、賀利佐嶺(かりさのみね)を望むと烟気があったので、「この地には必ず邑長(むらのおさ)がいるであろう」と言い、使者を遣わしてこれを検分させた。使者は復命して「邑長がおり、大国玉という」と言った。天日別が進んで賀利佐に至ると、大国玉はあらかじめ人を遣わしてこれを出迎え、自ら子の佐佐良比売を率いて天日別と一所で相会した。そのためその地を度会と名づけたという(注:『伊勢国風土記』による)。
¶田上大水神社(たがみおおみずじんじゃ)。また田上社(たがみしゃ)ともいう(注:『止由気宮儀式帳』による。現在は継橋郷宮崎村丸山にある)。度会神主小事(わたらいのかんぬしおこと)の霊を祀る(注:『豊受宮禰宜補任次第』による)。
¶志等美神社(しとみじんじゃ)。また蔀野井庭社(しとみのいばしゃ)ともいう(注:『止由気宮儀式帳』による。『神名秘書』『神祇本源』はいずれも沼木郷山幡村にあったが後に廃絶したとする。現在は山幡の畠上山に建てられている。)伝えでは木神(このかみ)を祀るという(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。大治三年、正五位下から従四位下に進み、度会河堤(わたらいかわつつみ)の守護神とされた(注:『神祇本源』による)。
¶大川内神社(おおかわちじんじゃ)。(注:現在は志等美社の東にある。)大山祇命を祀る(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。大治三年、正五位下から従四位下に進み、度会河堤の守護神とされた(注:『神祇本源』による)。
¶清野井庭神社(きよのいばじんじゃ)。(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも沼木郷山田村にあるとするが、現在は詳らかでない。山田村の下中郷町には清川(きよかわ)があり、清森堤(きよもりつつみ)があって、おそらくいずれも清野の遺称であろう。その地には一つの祠があり、伊麻社(いましゃ)という。伊麻と井庭は音訓が相近い。これがあるいは本社であろうか。参考として付しておく。)屋船神(やふねのかみ)を祀る(注:『神祇本源』が引く『上代本紀』による)。すなわち木神(このかみ)の句句廼馳(くくのち)である(注:『延喜式』により、『日本書紀』を参酌した。『神名秘書』は草神とし、『神祇本源』は草野姫とする)。
¶川原坐国生神社(かわらにますくなりじんじゃ)。また高河原社(たかかわらしゃ)ともいう(注:『止由気宮儀式帳』『延喜式』による。現在は山田宮後町の月読宮の東にある。『儀式帳』によれば、度会宮(注:原文「杜恵宮」)の摂社に高河原・川原・川源淵の三社があり、いわゆる高河原とはすなわち本社であり、川原とはすなわち川原大社である。『神名秘書』の高川原社の注もまたこの説と同じである。今はこれに拠る。ただし『秘書』が本社を月読神とするのは、前文の川原神社と混同したものであるから採らない。)国生神を祀る(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』による)。
¶川原大社(かわらのおおやしろ)。(注:「川」は「河」とも書く。「大」の下に「神」の字がある本もある。)また川原社ともいい(注:『止由気宮儀式帳』による)、あるいは三津社(みつしゃ)とも称する(注:本書には箕曲郷勾村にあるとあるが、現在は新開村にある。あるいは竹鼻村の西南に小さな祠があり、川原社というのがこれであるともいう。社のあたりには今も川原の地名が残っている。)
¶川原淵神社(かわらぶちじんじゃ)。(注:本書には勾村の川原社の南にあるとあるが、現在の川原淵大社の西南に一つの祠があり、土地の人はこれを曾禰社(そねしゃ)と称している。社地を淵と呼び、その西北にはさらに不遅賀宇(ふじかう)という地があって、淵河と訓が通じる。この祠はおそらく本社であろう。参考として付し、後考を待つ。)沢姫神(さわひめのかみ)を祀る。
¶山末神社(やますえじんじゃ)。(注:本書には継橋郷宮山にあったが後に廃絶したとある。現在、井足の南の宮山の下にあるのは、後世に建てられたものである。)大山津姫神(おおやまつひめのかみ)を祀る(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。
¶宇須乃野神社(うすののじんじゃ)。(注:現在は高向郷高向村にある。)
¶御食神社(みけじんじゃ)。(注:また御饗、あるいは水饗とも書く。)また水戸御食都神社(みなとのみけつじんじゃ)ともいう(注:『止由気宮儀式帳』による。現在は箕曲郷神社村にある)。水戸神(みなとのかみ)・速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)を祀る(注:『神名秘書』『神祇本源』による)。倭姫命が大神を奉じてこの地に至った際、一人の老翁が清水を供したので、これにより本社を建てた(注:『倭姫命世記』による)。
¶小俣神社(おまたじんじゃ)。(注:現在は湯田郷小俣村にある。)宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る(注:『鎮座本紀』『神名秘書』『神祇本源』による)。
¶磯神社(いそじんじゃ)。(注:現在は伊蘇郷磯村にあり、八王子という。)垂仁朝、倭姫命が大神を磯宮(いそのみや)に奉じたのは、すなわちこれである(注:『大神宮儀式帳』『倭姫命世記』による)。
¶榎村神社(えのむらじんじゃ)。古くは堅田杜(かただのもり)といい、また東方堅田社(とうほうかただしゃ)と称されるのがおそらくこれであろう(注:『大神宮儀式帳』による。「田」は「多」とも書く。『儀式帳』には堅田とあって榎村の名はなく、『延喜式』はすなわち榎村を挙げて堅田を載せていない。おそらく一社に二つの名があったのであろう。社は現在、二見郷三津村・東江村にある。)佐見都日女命(さみつひめのみこと)を祀る(注:康永元年の『大神宮参詣記』に佐美明神(さみみょうじん)とあるのがおそらくこれである。また榎と江は訓が通じ、榎村はおそらく古くこの地の大きな名であった。前文の江神社の条に佐美都日子とあるが、おそらく佐見都日女と同族で、ともにこの地に住んでいた者であろう。参考として付しておく。)倭姫命が大神を奉じて二見の国に幸した際、佐見都日女は耳が聞こえず口もきけなかったが、ただ堅塩(かたしお)をもって饗応を奉った。そこで社を定めた(注:『倭姫命世記』による)。祝を置いた。延暦の頃、大神宮の摂社となった。
¶雷電神社(らいでんじんじゃ)。(注:また伊加津知(いかづち)とも書く。)
¶荻原神社(おぎはらじんじゃ)。(注:「荻」は「葭」とも書き、訓が通じる。また「荻」とも書くが、恐らく誤りであろう。現在の所在は諸説一致せず、疑いを残しておく。)大歳神の子である佐佐津比古命(ささつひこのみこと)、および宇加乃御玉御祖命(うかのみたまみおやのみこと)・伊加利比女命(いかりひめのみこと)を祀る。佐佐津比古は石を神体とする。倭姫命が祝と神田を奉った(注:『大神宮儀式帳』による)。倭姫命がかつて大神を奉じて佐佐牟江(ささむえ)の行宮(あんぐう)にいた際、鶴が飛び鳴いた。倭姫命は足速男命(あしはやおのみこと)にこれを見させた。復命して「佐佐牟江の葦原に嘉禾(よきいね)が生え、一本の茎に百の穂がついています。鶴がその穂をくわえて鳴いております」と言った。倭姫命は喜んで「大神がここにおいでになるので、鳥までも嘉禾を奉るのであろうか」と言い、竹連吉比古(たけのむらじよしひこ)らに穂を採らせ、細税(ほそちから)と名づけた。また、その半分を裂いて大税(おおちから)とし、これを宮の前に懸けて奉献した。祝詞ではこれを称え、そこで八握穂社(やつかほしゃ)を定めた(注:『倭姫命世記』による)。おそらくこの社がそれである。この時、木を鑽(き)って火を取り、これを斎火(いみび)と名づけ、稲を炊いて飯とし、大神に供えた。神嘗祭で税(ちから)を懸ける儀式は、これより起こったのである(注:『年中行事秘抄』が引く旧記による。穂を懸けることは『大神宮儀式帳』による)。延暦の頃、田社(たしろ)として大神宮の摂社とされた(注:『大神宮儀式帳』による)。天安二年、正六位上をもって官社にあずかった(注:『文徳実録』による)。 以上の四十三座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている。おおよそ度会・多気の二郡の小社は、特に斎宮の祈年祭にあずかる(注:『延喜式』による。本書の『斎宮式』には、荒御玉命(あらみたまのみこと)・伊佐奈岐・伊佐奈弥の三社を本郡に載せて四十六座とする。伊佐奈岐・伊佐奈弥の二社は、『神名式』にいう伊佐奈岐宮二座である。荒御玉命はすなわち月読荒御魂命(つきよみのあらみたまのみこと)であり、いずれも大社に列せられている。それを『斎宮式』が小社の中に収めているのは、おそらくまだ訂正を経ていなかったのであろう。参考として付しておく。)
¶官舎神社(かんじゃじんじゃ)。また中臣氏祖神社(なかとみうじそじんじゃ)ともいう(注:『園太暦』『神宮雑例集』による。現在は湯田郷小俣村にある。)天児屋命(あめのこやねのみこと)および比売神(ひめがみ)を祀る(注:本書が四座を祀るとするのは、おそらく後に春日社に倣って四神を合祀したのであろう。説は摂津国寿久久社(すくくしゃ)の条に見える。)天平勝宝八歳、宮司の津島朝臣子松(つしまのあそみこまつ)が「摂津の寿久山(すくやま)から本郡の津島埼(つしまさき)に遷したい」と奏請した(注:『神宮雑例集』による。『園太暦』には筒岡(つつおか)とある)。延暦十六年、神宮の御厨(みくりや)および官舎を湯田郷宇羽西村に移した際、あわせて本社もその西南に遷し建て、これにより官舎の名を社の名とした(注:『園太暦』『神宮雑例集』による)。延喜の制では小社に列せられている(注:『延喜式』による)。おおよそ大神宮司の大中臣氏の一族は、春秋二季に本社で氏神祭を行うという(注:『大神宮司神事供奉記』による)。
¶多気郡(たきぐん) 五十二座
¶須麻漏売神社(すまろめじんじゃ)。(注:「漏」は「留」とも書く。現在は佐奈谷平谷村にあり、一之大宮というのがおそらくこれであろう。)天須婆留女命を祀る(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』による)。
¶佐那神社(さなじんじゃ)二座。(注:現在は佐奈谷仁田村にあり、大森社という。)一座は天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)を祀り、いわゆる佐奈県神(さなあがたのかみ)がこれである(注:『古事記』による)。世に御戸開神(みとひらきのかみ)と称する(注:『鎮座本紀』『鎮座次第紀』による)。もう一座はおそらく佐奈県造(さなあがたのみやつこ)の祖である御代宿禰(みよのすくね)を祀るのであろう(注:『大神宮儀式帳』による。『天照大神天降記』を考えるに、手力雄には二柱あり、天立柄男(あめのたちからお)、国立柄男(くにのたちからお)という。天立柄男は伴氏(とものうじ)の神であり、国立柄男は佐伯氏(さえきうじ)の神である。これによれば本社はあるいはこの二神を祀るのであろうか。しかしこの説は他の書には見えないので、ひとまずここに付しておく。)倭姫命が大神を奉じて飯野高宮(いいのたかみや)に幸した際、御代宿禰が神田・神戸(かんべ)を献上した(注:『倭姫命世記』による)。その子孫は今なお禰宜となり、本社を奉祀しているという(注:古老の伝説による)。
¶櫛田神社(くしだじんじゃ)。(注:現在は飯野郡櫛田郷櫛田村の西にあり、大社といい、櫛田三郷の総社と称される。)倭姫命が大神を奉じて飯野高宮に幸した際、御櫛(みくし)を地に落としたので、これによりこの社を定めた(注:『倭姫命世記』による)。
¶加須夜神社(かすやじんじゃ)。(注:現在は度会郡柏西にあり、村の領内に加須夜森と称する地がある。)
¶竹神社(たけじんじゃ)。一つには竹田社といい、また竹上社(たけがみしゃ)とも称する(注:『延喜式』による。竹田は一本による。上社はおそらく仲社に対する称であろう。現在は竹川村にあり、檜木宮(ひのきのみや)という。)竹田臣(たけだのおみ)の祖を祀るとされる(注:『姓氏録』、および『倭姫命世記』の大意による)。倭姫命が大神を奉じて野代宮(のしろのみや)にいた際、大彦命(おおびこのみこと)が来て謁見し、神田・神戸を献上した(注:『倭姫命世記』による)。大彦の子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は、すなわち竹田氏の祖である(注:『姓氏録』による)。
¶仲神社(なかじんじゃ)。また竹仲社(たけなかしゃ)ともいう(注:『延喜式』による。現在は上野村にあり、天王と称されているのがおそらくこれであろう。社のかたわらには今も中畑と称する地がある。)
¶麻続神社(おみじんじゃ)。また河崎社(かわさきしゃ)ともいう(注:現在は井手郷井口村にある。)倭姫命が大神を奉じて飯野高宮にいた際、機殿(はたどの)を長田郷に立て、これにより社を建てて尊霊を奉祀し、麻続社と名づけた(注:『神名秘書』が引く『機殿儀式帳』による)。
¶服部伊刀麻神社(はとりいとまじんじゃ)。(注:現在は出間村にある。出間はすなわち伊刀麻の訛りである。)
¶相鹿牟山神社(おうかむやまじんじゃ)二座。(注:現在は櫔原村にあり、産神と称されているのがおそらくこれであろう。櫔原はおそらく古くの相可郷の地である。)
¶奈奈見神社(ななみじんじゃ)。(注:現在は飯野郡上七見村にあり、下杉宮という。)倭姫命が大神を奉じて白浜真名胡国(しらはままなごのくに)に至った際、真名胡社(まなごしゃ)を建てた(注:『倭姫命世記』による)。おそらくこの社がそれであろう(注:三宝院所蔵の応安二年の『大般若経』跋に「飯野郡七見郷英胡村云々」とある。七見はすなわち奈奈見であり、英胡はすなわち真名胡であって、同じ社であることが証せられる。)
¶魚海神社(うおみじんじゃ)二座。(注:現在は飯野郡魚見村の北の川島村にある。)豊玉彦(とよたまひこ)・豊玉姫(とよたまひめ)の二神を祀る(注:『神名秘書』が引く『機殿儀式帳』による)。倭姫命が大神を奉じて御船に乗り、櫛田河(くしだがわ)の後江(しりえ)に至った際、河の魚が自ら跳ねて船に入った。これによりこの社を定めた(注:『倭姫命世記』による)。天武帝の丙子(ひのえね)の年、月読荒魂神(つきよみのあらみたまのかみ)を本社に合祀し、鏡を神体とした(注:『神名秘書』『神祇本源』による。本書には丙子を丙寅と作るが、この帝の在位中に丙寅の年はないため、今これを訂正する。丙子はその四年にあたる。)
¶林神社(はやしじんじゃ)。(注:現在は相可郷林村にある。)
¶相鹿上神社(おうかかみじんじゃ)。(注:現在は上相鹿村にあり、上宮というのがおそらくこれであろう。)
¶守山神社(もりやまじんじゃ)。(注:現在は神坂村にあり、産土神と称される。)
¶宇爾桜神社(うにさくらじんじゃ)。(注:現在は宇弐郷中村の北にあり、天王社という。山の北の田に桜後(さくらご)の名が残っている。)
¶宇爾神社(うにじんじゃ)。(注:現在は宇爾蓑村にある。)おそらく土師物忌(はじのものいみ)の祖神を祀るのであろう。土師物忌とは、すなわち宇爾の埴土(はにつち)を取り、天平瓫(あめのひらか)を造って神宮の祭祀に供えた者である(注:『倭姫命世記』による)。
¶服部麻刀方神社(はとりまとかたじんじゃ)二座。(注:「方」は「万」とも書く。現在は垣内村にある。一座は末都加多社(まつかたしゃ)といい、一座は都褒加多社(つほかたしゃ)という。)
¶大海田水代大刀自神社(おおうみだのみずしろおおとじじんじゃ)。(注:「大」は「天」とも書くが、誤りである。)また大海田社(おおうみだしゃ)ともいう(注:本社はもと斎宮村の南の宇田村にあったが、今は廃絶している。宇田はすなわち海田の略語である。『大神宮儀式帳』に佐那県造御代宿禰とあり、「御」と「水」は訓が通じる。水代大刀自はおそらくその配偶であろう。ひとまず参考として付しておく。)
¶相鹿木太御神社(おうかきたのみじんじゃ)。また相鹿中社(おうかなかしゃ)ともいう(注:『延喜式』による。現在は相可村の磯部寺の前の林の中にあるのがおそらくこれであろう。)
¶紀師神社(きしじんじゃ)。(注:現在は飯野郡荘村にあり、天神宮と称される。社の東には岸野林がある。)倭姫命ははじめ機殿を長田郷に建てたが、後にこれを岸村に移し、そこに社を立てて岸社(きししゃ)と名づけ、大神の霊を奉祀した(注:『神名秘書』が引く『機殿儀式帳』による)。すなわちこの社がそれである。
¶宇留布都神社(うるふつじんじゃ)。(注:現在は内座村にある。村の中に宇呂大日堂(うろだいにちどう)があり、おそらくその旧址であろう。)
¶天香山神社(あめのかぐやまじんじゃ)。(注:現在は宇爾郷上村香山の西北にある。度会元長(わたらいもとなが)の『神祇百首』には、昔、天香山の竹を斎宮に移し植え、百枝刺竹(ももえさすたけ)と称したとある。そのため竹都(たけつ)と号したという。郡の名はおそらくこれに由来するのであろう。すなわち天香山社の名にも必ず由縁があるはずである。参考として付しておく。)天香山命(あめのかぐやまのみこと)を祀る(注:『神代巻口訣』による)。
¶穴師神社(あなしじんじゃ)。(注:天暦七年の『近長谷寺資材帳』には、本郡に穴師子寺(あなしこじ)があったとある。藤波氏所蔵の文書には、普賢寺・穴師寺の二寺があったとある。現在は穴師寺はないが、普賢寺はすなわち左奈谷神坂村にある。寺の西に今、金剛坐寺があり、これがあるいは古の穴師寺で、本社もまたこの地にあったのであろう。しかし今は詳らかにできないので、参考として付し、後考を待つ。)
¶流田神社(ながれだじんじゃ)。(注:現在の柿木原村は、すなわち流田郷の故地である。村の中に旧祠があり、土地の人の伝えでは、昔洪水があって一つの社が流れてこの地に留まったため、これを祀ったのだという。おそらく俗に「流田」を漂流の意と解して、この説を付会したのであろう。しかしこれによって考えると、旧祠はおそらく本社の遺跡であろう。ひとまず参考として付しておく。)
¶畠田神社(はたけだじんじゃ)三座。(注:現在は中藤原村にあり、産神社と称される。もとは三座を祀っていたが、現在は二座を南藤原村・中村の二か所に分けて祀っているという。)
¶流田上社神社(ながれだかみしゃじんじゃ)。(注:「上」の下に「社」の字がない本もある。現在は流田郷神守村にある。上社と神守は訓読が相通じる。)
¶石田神社(いしだじんじゃ)。(注:現在は飯野郡高木村の北の産神社の境内にあるのがおそらくこれであろう。村の西に石田と称する地があり、これがその旧址であるという。)
¶火地神社(ほちじんじゃ)。(注:現在は乙部村にあり、産神社と称されているのがおそらくこれであろう。魚見の宏徳寺の旧記に、飯野郡長田郷三条四里火所里(ひどころのさと)とある。火地・火所はいずれも「ほと」(保度)と訓む。今、条里から推すと、火所里はすなわち乙部村にあたり、乙部はおそらく火所部(ひどころべ)の転訛したものであろう。)
¶佐佐栗栖神社(ささくりすじんじゃ)二座。(注:現在は志貴村にあるのがおそらくこれであろう。)
¶竹大与杼神社(たけおおよどじんじゃ)。また大与杼社(おおよどしゃ)ともいう(注:『延喜式』による。現在は度会・多気二郡の境にある大淀村にあり、二天八王子という。)倭姫命が大神を奉じて、佐佐牟江宮(ささむえのみや)より海路に出た際、風も波もなく、潮の水が大いに集まった。そのため社を立てて大与度(おおよど)と名づけた(注:与杼(よど)とは水が集まる所をいう。)
¶竹佐佐夫江神社(たけささぶえじんじゃ)。(注:現在は笹笛橋の東南の山、大淀村にある。)倭姫命が大神の御船を佐佐牟江に停めたので、これによりこの社を定めた(注:『倭姫命世記』による)。
¶棒屋神社(はりやじんじゃ)。
¶伊佐和神社(いさわじんじゃ)。(注:現在は飯野郡射和村にあり、上社と称される。伝えでは、旧址は村の中の射和寺の境内にあったという。)
¶牟礼神社(むれじんじゃ)。(注:現在は飯高郡山室村にある。)
¶有弐神社(うにじんじゃ)。(注:現在は下有弐本郷村の金林寺の境内にあり、八王子と称される。)
¶国生神社(くなりじんじゃ)。
¶大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)。(注:現在は飯野郡六根村にある。)国生神の子である大国玉命を祀るとされる(注:『大神宮儀式帳』『延喜式』による)。
¶大分神社(おおきだじんじゃ)。(注:現在は兄国村にある。村の中には旧族があり、大北氏(おおきたうじ)という。北と分は訓が通じるので、おそらく地名にちなんで氏としたのであろう。すなわちこの地は古くあるいは大分と称されたのである。)
¶国乃御神社(くにのみじんじゃ)。また相鹿社(おうかしゃ)ともいう(注:『斎宮式』を見ると、本郡の神社をことごとく挙げているが、本社は載せず、代わりに相鹿社を載せている。すなわち本社はまた相鹿とも称されることが知られる。おそらく相鹿下社(おうかしものしゃ)であろう。)
¶櫃倉神社(ひつくらじんじゃ)。(注:『近長谷寺資財帳』を見ると、当恵里(とうえのさと)の田地の四至を挙げた中に「東は櫃倉社を限る」という文がある。今その記載された条里から推すと、鍫形村(くわがたむら)にあたる。村の中に天神の祠があり、これであろうかと疑われる。)
¶伊蘇上神社(いそかみじんじゃ)。(注:「上」の下に「乃」の字がある本もある。現在は上相可村の磯辺寺の境内にあり、磯宮という。)
¶伊呂上神社(いろかみじんじゃ)。(注:『神鳳抄』には飯野郡伊呂上御園(いろかみのみその)が載せられており、おそらく本社の所在であろう。しかしその地は詳らかでない。)
¶櫛田槻本神社(くしだつきもとじんじゃ)。(注:現在は飯野郡櫛田村にあり、槻本御櫛社(つきもとみくししゃ)という。)
¶牛庭神社(うしにわじんじゃ)。(注:現在は飯野郡伊勢場村にあり、産神社と称されているのがおそらくこれであろう。『神宮雑例集』『神鳳抄』にはいずれも牛庭御園(うしにわのみその)が載せられているが、『神領目録』には伊勢庭御園(いせにわのみその)とあり、伊勢場がすなわち牛庭であることが証せられる。)
¶大櫛神社(おおくしじんじゃ)。(注:現在は飯野郡豊原村にあり、袖引社(そでひきしゃ)という。) 以上の五十二座は、延喜の制ではことごとく小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶飯野郡(いいのぐん) 四座
¶意非多神社(おいたじんじゃ)。(注:津沢氏所蔵の文書に、飯野郡二条一里指保里(しほのさと)とある。指保と意非多は訓が相近い。『神鳳抄』には多気郡四藺生御園(しいのみその)とあるが、これも同じ地である。現在、古井村があり、二条一里にあたる。村の中に産神の祠があり、おそらくこれであろう。)
¶神山神社(かみやまじんじゃ)。(注:現在は山添村神山の北にあり、鑰取明神(かぎとりみょうじん)という。)伝えでは伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)を祀るという(注:『神山社記』による)。
¶石前神社(いわさきじんじゃ)。(注:現在は阿波曾村にあり、岩埼宮(いわさきのみや)と称される。俗に川原宮というのがおそらくこれであろう。)
¶神垣神社(かみがきじんじゃ)。 延喜の制では、四座はいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶飯高郡(いいたかぐん) 九座
¶立野神社(たてのじんじゃ)。(注:現在は立野村にあり、立野明神と称される。)物部氏族の立野連(たてののむらじ)の祖を祀るとされる(注:『旧事本紀』『延喜式』による)。
¶大神社(おおじんじゃ)。(注:「神」の下にさらに「神」の字がある本もある。社は現在、深長村の泉森にあり、大和明神、また泉明神とも称される。)
¶物部神社(もののべじんじゃ)。(注:現在は伊勢寺村にある。)伊勢飯高君(いせのいいたかのきみ)の族である物部首(もののべのおびと)の祖を祀るとされる(注:『姓氏録』『延喜式』による。飯高の族については『古事記』による)。
¶加世智神社(かせちじんじゃ)。
¶意悲神社(おひじんじゃ)。(注:『伯家部類』には於非(おひ)と作る。現在は松坂四十五森にあり、八幡の祠と称される。)
¶丹生神社(にうじんじゃ)。(注:現在は丹生村にあり、丹生明神と称される。)紀伊国の丹生都比女神(にうつひめのかみ)を分祀したものとされる(注:『釈日本紀』が引く『播磨風土記』、および『神名帳頭注』による)。
¶丹生中神社(にうなかじんじゃ)。(注:現在は丹生村にあり、金山御前社(かなやまごぜんしゃ)と称される。)
¶堀坂神社(ほっさかじんじゃ)。(注:現在は伊勢寺村の西南、堀坂山の麓にあり、堀坂明神と称される。)
¶久爾都神社(くにつじんじゃ)。(注:現在は郷津村にあり、郷津社というのがあるいはこれであろう。) 延喜の制では、九座はともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶壱志郡(いちしぐん) 十三座
¶阿射加神社(あざかじんじゃ)三座。(注:現在は大阿坂村にあり、竜天明神(りゅうてんみょうじん)と称される。)猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。この神はすでに皇孫を奉迎した後、伊勢に還り着いた(注:『日本書紀』『古語拾遺』による)。阿邪訶(あざか)の地に居り、海で漁をして溺れた。その神霊を、底度久御魂(そこどくみたま)、都夫多都御魂(つぶたつみたま)、阿和佐久御魂(あわさくみたま)と称する(注:『古事記』による)。垂仁帝の時代、倭姫命が大神を奉じて安濃(あの)に幸した際、安佐賀山(あさかやま)に祟りをなす神があると聞き、そこで幣帛を奉って神霊を和め、その地に鎮祭した。すなわちこの社がそれである(注:『倭姫命世記』による)。承和二年、従五位下に叙せられた(注:『続日本後紀』による)。文徳帝の即位に従五位上に進み、斉衡二年、名神(みょうじん)に列せられ、従四位下を授けられた(注:『文徳実録』による)。貞観元年、従四位上に陞り、同八年、従三位に進んだ(注:『三代実録』による)。延喜の制では、三座はともに名神大社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶波多神社(はたじんじゃ)。(注:現在は八太郷波多村にある。)
¶物部神社(もののべじんじゃ)。(注:現在は新家村にある。)物部連(もののべのむらじ)の族である新家連(にいのみのむらじ)の祖を祀るとされる(注:『日本書紀』『旧事本紀』『延喜式』による)。
¶稲葉神社(いなばじんじゃ)二座。(注:現在は稲葉郷多野田村にあり、穂落明神(ほおちみょうじん)という。)伊佐波登美神(いさわとみのかみ)・於保止志神(おおとしのかみ)を祀る(注:宝徳二年の『稲葉社縁起』による)。
¶須加神社(すかじんじゃ)。(注:現在は須加村の南、権現前村にあり、須加権現と称される。)
¶波氐神社(はてじんじゃ)。(注:「波」は「須」とも書くが、誤りである。『神宮雑例集』『神鳳抄』にはいずれも波氐御厨(はてのみくりや)が載せられており、すなわちその地である。社は現在、波瀬村にあり、矢頭権現(やずみごんげん)という。)
¶小川神社(おがわじんじゃ)。(注:現在は小川村にあり、日天八王子(にってんはちおうじ)と称されているのがおそらくこれであろう。社の中には応永十一年の棟札があり、古社であることが証せられるという。)
¶射山神社(いやまじんじゃ)。(注:もとは射山にあったが、現在は七栗郷榊原村に移り、湯山神(ゆやまのかみ)という。射と湯は音が近く、社のかたわらには温泉があって、これが『枕草子』にいう七栗の湯である。)
¶川併神社(かわあいじんじゃ)。(注:現在は矢野村にあり、落合社というのがおそらくこれであろう。)
¶敏太神社(みんだじんじゃ)。(注:現在は民太郷戸木村にあり、風早明神というのがおそらくこれであろう。一説には美濃田村にあるという。) 以上の十座は、延喜の制ではともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶安濃郡(あのぐん) 十座
¶置染神社(おきそめじんじゃ)。(注:現在は産品村にある。村の東には長谷場村があり、西南にはさらに長谷村があって、その北の山の東の岬に産神の祠があり、おそらくこの社であろう。)長谷置始連(はせのおきそめのむらじ)の祖である大新河命(おおにいかわのみこと)を祀るとされる(注:『姓氏録』『延喜式』による)。
¶大市神社(おおいちじんじゃ)。(注:現在は妙法寺村にある。村には妙法寺があり、大市山と号する。また大市川がある。伝えでは、この地は古くは大市村であったという。)大山祇神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)である大市姫命(おおいちひめのみこと)を祀る(注:『古事記』『延喜式』『神祇宝典』による)。
¶志夫弥神社(しぶみじんじゃ)。(注:現在は渋見村の西にあり、八王子と称される。)
¶小丹神社(おにじんじゃ)。(注:現在は奄芸郡大部田村の西、小丹塩屋(おにしおや)の地にある。)
¶美濃夜神社(みのやじんじゃ)。(注:現在は雲林院村の美濃塩川(みのしおかわ)の上流にあり、溝淵明神と称される。)
¶阿由太神社(あゆたじんじゃ)。
¶小川内神社(おがわうちじんじゃ)。(注:現在は河内谷の南、垣内村にあり、御霊明神と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶比佐豆知神社(ひさづちじんじゃ)。(注:現在は建部郷塔世村の西北にあり、愛宕神と称される。)天久比奢母知神(あめのくひざもちのかみ)・国久比奢母知神(くにのくひざもちのかみ)を祀るとされる(注:『古事記』『延喜式』による。世俗では愛宕神を火の神とし、また防火の神ともするが、本社は水神を祀っており、実は防火の神であるのに、世俗がその音の似通いに慣れ親しんで誤って愛宕としたのである。参考として付しておく。)
¶加良比乃神社(からひのじんじゃ)。(注:現在は壱志郡藤方村にある。)上代、土師部(はじべ)の族が本国の藤形村に居住した(注:『日本書紀』による)。この社はおそらくその祖である可美乾飯根命(うましからいねのみこと)を祀るのであろう(注:『姓氏録』『延喜式』『菅家伝記』による)。
¶船山神社(ふなやまじんじゃ)。(注:現在は船山村の北にあり、伊豆権現と称される。) 延喜の制では、十座はともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶奄芸郡(あんきぐん) 十三座
¶伊奈富神社(いなふじんじゃ)。(注:『朝野群載』には稲生(いなふ)と作る。現在は稲生村にあり、稲生明神と称される。)貞観七年、正五位上から従四位下を授けられた(注:『三代実録』による。本書には稲葉神と作るが、今は一本と『神階記』によりこれを訂正する。)後に大宮・三大神宮・西宮の三か所に分けて祀られた。大宮は郡江大国道命(こおりえのおおくにみちのみこと)を祀り、西宮は地主姫神(じぬしひめのかみ)を祀り、三大神宮は雷電神(らいでんのかみ)を祀る(注:『稲生明神講式』が引く『伊勢国風土記』による。三社の社殿はいずれも宏壮で、本国第一と称される。)嘉承二年、社司が「本社の四至(しいし)にはすでに定まった境界があり、その地の利をもって吉田明神の祭料に充てているが、栗真荘の民らが神地・神民を妨害し、その乱行がはなはだしい。速やかにこれを停止していただきたい」と訴えた。摂政の藤原忠実(ふじわらのただざね)が下文を出してこれを制禁した(注:『朝野群載』による。忠実については『公卿補任』による)。
¶加和良神社(かわらじんじゃ)。(注:『大安寺資財帳』には寺領城上原(じょうじょうばら)の墾田の南にあるとある。現在は塩屋村にあり、花木社と称される。社の北には高良と称する地がある。)
¶多為神社(たいじんじゃ)。(注:現在は山田井村にあり、西宮という。)
¶大乃已曾神社(おおのいそじんじゃ)。(注:現在は大吉曾村の隣村である中野村にあり、大古曾明神(おおごそみょうじん)という。)
¶事忌神社(こといみじんじゃ)。また伊賀事忌社(いがのこといみしゃ)ともいう(注:現在、赤部村に天王の祠があり、おそらくこれであろう。あるいは森村に産神があり、これがこの社であるともいう。詳らかでない。)出雲神(いずものかみ)の子である出雲建子命(いずもたけこのみこと)を祀る。一名を伊勢都彦命(いせつひこのみこと)といい、また櫛玉命(くしたまのみこと)とも号する。この神はかつてこの地に石城(いわき)を築き、阿倍志彦神(あべしひこのかみ)と戦ってこれに勝った(注:『日本書紀私見聞』が引く『伊勢国風土記』による)。太祖(初代天皇)が中国(なかつくに)を平定するに及んで、この地を去って信濃に移ったという(注:仙覚の『万葉抄』が引く『伊勢国風土記』による)。
¶酒井神社(さかいじんじゃ)。(注:現在は郡山村にあり、郡山明神という。村の南には酒井河がある。)伝えでは伊奈富神を遷し祀ったものといい、そのため稲生新宮(いなふしんぐう)ともいう(注:『稲生明神縁起』による)。保延五年、高階朝臣(たかしなのあそみ)某という者が服部郷の田二町八段を本社に献じた。安貞三年、国領をもって祭費に充てることが許された(注:郡山社所蔵の古文書による)。
¶尾前神社(おざきじんじゃ)。(注:現在は大別保村の尾崎浦にあり、土御前(つちごぜん)という。)
¶比佐豆知神社(ひさづちじんじゃ)。
¶石積神社(いしづみじんじゃ)。(注:現在は安濃郡河辺村の石立山にある。社の南には石積谷があり、おそらく社名の遺称であろう。)
¶弥尼布理神社(みねふりじんじゃ)。(注:現在は北黒田村の稲降山(いなふりやま)にあり、稲降明神という。社地は非常に広く、山上には平らな道があり、往来に用いられている。社の名はおそらく嶺を経る意味を取ったものであろう。)
¶服織神社(はとりじんじゃ)。(注:現在は服部郷郡山村にある。)
¶横道下神社(よこみちしものじんじゃ)。(注:現在は越知村の久礼森にあり、春日明神というのがおそらくこれであろう。越知は「おほち」と読み、これは横道の訛った訓である。社のかたわらの地名に志毛知(しもち)があり、これもまた「下」の意である。)
¶久留真神社(くるまじんじゃ)。(注:現在は栗間荘白子村の栗間の地にある。) 以上の十三座は、延喜の制ではともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶鈴鹿郡(すずかぐん) 十九座
¶那久志里神社(なくしりじんじゃ)。(注:現在は名越村にある。)
¶倭文神社(しとりじんじゃ)。
¶川俣神社(かわまたじんじゃ)。(注:現在は枚田郷中富田村にあり、川又八王子という。)川俣県造(かわまたのあがたのみやつこ)の祖である大比古命(おおひこのみこと)を祀るとされる(注:『大神宮儀式帳』『続日本後紀』による。『続日本後紀』の承和十三年の条に、本郡枚田郷の戸主である川俣県造藤継女(かわまたのあがたのみやつこふじつぐめ)とあり、おそらくその氏神であろう。)
¶真木尾神社(まきおじんじゃ)。(注:もとは真木山にあったが、現在は阿野田村に移ったという。)
¶志婆加支神社(しばかきじんじゃ)。
¶県主神社(あがたぬしじんじゃ)。(注:現在は英多郷川埼村にあり、八島明神という。)
¶椿大神社(つばきおおかみやしろ)。(注:現在は山本村の椿山の麓にある。西南に古い塚があり、前方後円の形をしていて、これをこの神の墓と改めて称するという。)猿田彦神を祀る(注:『椿大神社略記』による)。貞観七年、従五位上勲七等から正五位下に進んだ(注:『三代実録』による)。後に本国の一宮と称された(注:『類聚既験抄』、本社所蔵の『大般若経』跋、『神祇宝典』による。『一宮記』は河曲郡の都波岐社を一宮とするが、これは誤りである。)
¶小岸大神社(おぎしおおかみやしろ)。(注:現在は小岐須村にあり、岸明神という。)
¶大井神社(おおいじんじゃ)二座。(注:現在は奄芸郡三宅村にあり、千力明神という。)
¶江神社(えじんじゃ)。
¶布気神社(ふけじんじゃ)。(注:現在は野村の東南、鈴鹿川の北にあり、白鬚明神という。社の北には布気林がある。)
¶石神社(いしじんじゃ)。(注:現在は小岐須村にあり、石大神という。)
¶長瀬神社(ながせじんじゃ)。(注:現在は長瀬郷長沢村にあり、白鳥明神という。)相伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀るという(注:『熱田社縁起』、『深広寺略縁起』、慶長六年の棟札による)。日本武尊は東国より還る途中に病を得て、鈴鹿河の中流に至って薨じた。そのためその場所を能知瀬(のちせ)と名づけた。能知とはすなわち命が終わることをいい、後世これが訛って「長」というようになった(注:『熱田社縁起』による)。そこで社を建ててこれを祀ったという。
¶忍山神社(おしやまじんじゃ)。(注:現在は野尻村にあり、皇館明神(こうたちみょうじん)という。)倭姫命が大神を奉じてこの地に至った際、大比古命(おおひこのみこと)が宮を奈具波志忍山(なぐわしおしやま)に築いてこれを奉祀した。すなわちこの社がそれである(注:『倭姫命世記』による)。
¶片山神社(かたやまじんじゃ)。(注:現在は古厩村の片山の地にあり、八王子と称される。)
¶弥牟居神社(みむこじんじゃ)。 以上の十九座は、延喜の制ではともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶河曲郡(かわわぐん) 二十座
¶高市神社(たけちじんじゃ)。
¶弥都加伎神社(みづかきじんじゃ)。(注:現在は玉垣村にあり、土御前と称される。社地は広大で、溝の水がめぐり、その形が垣のようであるため、水垣の名があるという。)
¶貴志神社(きしじんじゃ)。(注:現在は岸岡村にあり、十九社権現という。)
¶鬼太神社(きだじんじゃ)。(注:現在は木田村にあり、八王子と称される。)
¶川神社(かわじんじゃ)。(注:『和名抄』を見ると、本郡に川部郷があり、本社の所在ではないかと思われるが、現在は詳らかでない。)
¶矢椅神社(やばしじんじゃ)。(注:現在は矢橋村にあり、八王子と称される。)
¶岡太神社(おかだじんじゃ)。(注:現在は鈴鹿郡岡田村にあり、六社明神と称される。)
¶奈加等神社(なかとじんじゃ)。(注:現在は中戸村にある。)中跡直(なかとのあたい)の祖である天椹野命(あめのくぬののみこと)を祀り、本国の国造(くにのみやつこ)らが奉祀するところである(注:『旧事本紀』『延喜式』『中戸社記』による)。
¶小川神社(おがわじんじゃ)。(注:本社は久しく廃絶していたが、近時、南若松村に建てられたという。)
¶都波岐神社(つばきじんじゃ)。(注:現在は北長太村の八王子の祠の中にあり、津荻明神(つおぎみょうじん)と称される。)猿田彦神を祀る(注:『一宮祭』『神祇宝典』による)。
¶飯野神社(いいのじんじゃ)。(注:もとは飯野郷西条村にあったが、後に神戸村に移った。)
¶久久志弥神社(くくしみじんじゃ)。(注:現在は下箕田村にあり、福隅明神(ふくすみみょうじん)と称される。福隅と久久志弥は音訓が相近い。)
¶高岡神社(たかおかじんじゃ)。(注:現在は高岡村にあり、新熊野社と称される。)
¶大木神社(おおきじんじゃ)。
¶須伎神社(すきじんじゃ)。(注:現在は北長太村にあり、棒宮(ぼうのみや)と称される。また八王子ともいう。棒は今、音読みで用いられているが、棒を須伎と訓むことは前文に見え、これによって本社であることが証せられる。)
¶深田神社(ふかだじんじゃ)。(注:現在は北若松村にあり、神明社と称される。社の西には深田と称する地がある。)
¶阿自賀神社(あじかじんじゃ)。(注:現在は須加村にあり、八幡と称されているのがおそらくこれであろう。あるいは現在安家村にあり、神明社と称されるともいう。社はもと飛鳥森にあった。)
¶夜夫多神社(やぶたじんじゃ)。(注:現在は中土師村にあり、大宝天王という。)
¶大鹿三宅神社(おおかみやけじんじゃ)。(注:『神宮雑書』の建久三年の注進状には、「山辺御園(やまべのみその)の給主(きゅうしゅ)である大鹿国忠(おおかのくにただ)が、御園の大鹿村を国分寺領と号して院宣を下されるよう申請した」云々とある。山辺御園はすなわち今の本郡山辺村であり、その北に国分村があって、おそらく古の大鹿村であろう。村の中には今、天神の祠があり、これがこの社ではないかと思われる。ひとまず参考として付しておく。)伊勢大鹿首(いせのおおかのおびと)の祖を祀るとされる(注:『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『大神宮雑事記』『東鑑』による。社のかたわらに二つの大きな塚があり、一つを大鹿塚といい、おそらく大鹿氏の古い墓であろう。) 以上の二十座は、延喜の制ではともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶三重郡(みえぐん) 六座
¶江田神社(えだじんじゃ)。(注:現在は西坂部村の江田の地にあり、春日明神と称される。)
¶加富神社(かふじんじゃ)。(注:『伯家部類』には賀福(かふく)と作る。もとは宮原加富森にあったが、後に小山田村に移った。『大安寺資財帳』を見ると、本郡赤松原の四至を記した中に「男甲社、山道」とあり、甲社はおそらくこの社であろう。)伝えでは饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀るという。社司の秦忌寸氏(はたのいみきうじ)は、神の裔(すえ)として代々その職を継いでいるという(注:土地の人の伝説による)。
¶神前神社(かんざきじんじゃ)。(注:現在は高角村にあり、高角東宮と称される。)
¶小許曾神社(おごそじんじゃ)。(注:現在は小古曾村にあり、五社神明と称される。)
¶足見田神社(あしみたじんじゃ)。(注:現在は葦田郷水沢村にあり、葦見田明神と称される。)
¶椿岸神社(つばききしじんじゃ)。(注:現在は鈴鹿郡山本村の椿大神社の東北にある。古老の言では、もとは本郡の椿尾山にあったという。)伝えでは天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀り、椿大神社の摂社であるという。祭日には、椿大神を奉じて本社に詣でるという(注:『椿大神社略記』による)。延喜の制では、六座はともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶朝明郡(あさけぐん) 二十四座
¶伊賀留我神社(いがるがじんじゃ)。(注:現在は北鵤村にあり、斎宮明神と称される。)相伝では天大比古命(あめのおおひこのみこと)を祀るという(注:土地の人の伝えによる。大比古はすなわち大彦であり、「天」の字を加えたのは、おそらく祭祀の際の称であろう。あるいは『神鳳抄』に鵤神厨(いかるがのかんくりや)とあり、これがこの地であるともいう。)
¶能原神社(のはらじんじゃ)。(注:現在は萱生中村にあり、牛頭天王と称されているのがおそらくこれであろう。)天慶三年、従五位上から正五位下を授けられた(注:『日本紀略』による)。
¶伎留太神社(きるたじんじゃ)。(注:現在は切畑村にある。)
¶石部神社(いそべじんじゃ)二座。(注:現在は員弁郡石槫南村にあり、山王宮と称されているのがおそらくこれであろう。)度会神主(わたらいのかんぬし)の族である石部氏(いそべうじ)の祖を祀るという(注:『豊受宮禰宜補任次第』による)。
¶菟上神社(うなかみじんじゃ)。(注:現在は員弁郡宇賀村にあり、妙見宮と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶太神社(おおじんじゃ)。(注:現在は員弁郡片樋村にあり、三輪明神と称されているのがおそらくこれであろう。あるいは現在東大鐘村にあり、諏訪明神というともいう。)
¶多比鹿神社(たひかじんじゃ)。(注:現在は田光村にある。)
¶鳥出神社(とりでじんじゃ)。(注:現在は東富田村にあり、飛鳥明神という。)伝えでは日本武尊を祀るという(注:『古事記伝』『神社覈録』による)。日本武尊が薨じた際、能褒野(のぼの)に葬られたが、その神霊は白鳥と化し、墓域から出て飛び去った(注:『日本書紀』『古事記』による)。社の名はおそらくこれに由来するのであろう。
¶八十積椋神社(やそつみくらじんじゃ)。(注:現在は豊田郷豊田村にあり、神明社と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶志氐神社(してじんじゃ)。(注:現在は羽津村にあり、高御前と称される。この村の近くの地には、今も志氐崎・志泥野などの地名がある。)
¶耳利神社(みみりじんじゃ)。上宮と称する(注:現在は広永村にあり、川島明神という)。
¶耳常神社(みみつねじんじゃ)。下宮と称する(注:『神鳳抄』による。現在は下宮村にあり、春日明神、また舟木明神という)。二社はともに伊勢船木直(いせのふなきのあたい)の祖を祀るとされる(注:『古事記』、西脇氏旧記の大意による)。その後裔の舟木氏(ふなきうじ)が代々祭祀を掌るという(注:西脇氏旧記による)。
¶移田神社(うつしだじんじゃ)。(注:現在は図田郷埋縄村にある。)
¶櫛田神社(くしだじんじゃ)。(注:現在は員弁郡島田村にあり、蔵王の祠と称されるのがこれではないかと思われる。)
¶井手神社(いでじんじゃ)。(注:現在は井手郷永井村にある。)
¶殖栗神社(えくりじんじゃ)。(注:現在は保保郷市場村と西村の境にあり、殖栗明神と称される。)殖栗連(えくりのむらじ)の祖を祀るとされる(注:『続日本紀』『姓氏録』『延喜式』による)。
¶布自神社(ふじじんじゃ)。(注:現在は山村にあり、富士宮と称される。村の中には富士山・富士谷・富士森などの名がある。)
¶穂積神社(ほづみじんじゃ)。(注:現在は穂積荘田口村にあり、氏神と称されているのがおそらくこれであろう。)穂積朝臣(ほづみのあそみ)の祖神である饒速日命を祀る(注:『姓氏録』『延喜式』『神祇宝典』による)。
¶桜神社(さくらじんじゃ)。
¶井後神社(いじりじんじゃ)。(注:現在は大矢知村にある。あるいは柿村にあるともいい、いずれも井戸後(いどじり)の名が残っている。)
¶長倉神社(ながくらじんじゃ)。(注:現在は桑名郡安永村の長倉野にあり、天神宮と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶苗代神社(なわしろじんじゃ)。(注:現在は縄生村にあり、大吉天神と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶長谷神社(はせじんじゃ)。(注:現在は大矢知村にあり、八幡と称されているのがおそらくこれであろう。祠の東南には長谷町があり、おそらくその旧址であろう。) 以上の二十四座は、延喜の制ではいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶員弁郡(いなべぐん) 十座
¶鴨神社(かもじんじゃ)。(注:現在は丹生川中村にあり、八幡神明という。)
¶石神社(いしじんじゃ)。(注:現在は石加郷石川村の東南にあり、八幡の祠と称されているのがおそらくこれであろう。)
¶平群神社(へぐりじんじゃ)。(注:現在は志知村の平群山にあり、平群神明と称される。社の後ろには小さな丘があり、その形は陵墓に似ていて、池がこれを囲んでおり、平群池という。おそらく味酒氏(うまさけうじ)の墳墓であろう。)味酒首(うまさけのおびと)の祖である平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)を祀るとされる(注:『三代実録』『延喜式』による)。
¶多奈閉神社(たなえじんじゃ)。(注:現在は中上村の田辺垣内にあり、田辺明神という。)本国の国造(くにのみやつこ)、および田辺宿禰(たなべのすくね)らの祖である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀るとされる(注:『姓氏録』『旧事本紀』『延喜式』による)。
¶猪名部神社(いなべじんじゃ)。また員弁大神(いなべのおおかみ)とも称する(注:『三代実録』による。現在は北大社村にあり、八王子と称される。東南の戸上川の東に猪名部寺の遺址がある。また社の北には古い墓があり、猪名部氏の墓かと思われる。この地はおそらくその旧貫の地であろう。)猪名部造(いなべのみやつこ)の祖である伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を祀るとされ(注:『姓氏録』『三代実録』『延喜式』による)、その一族が氏神として奉じている。貞観元年、従五位下から正五位下に進み、同八年、従四位下を授けられた。同十五年、掌侍(ないしのじょう)の春澄朝臣高子(はるすみのあそみたかいこ)が本社に幣を奉った。詔によって官稲を賜った。春澄氏は実は猪名部造から出た氏であるという(注:『三代実録』による)。
¶鳥取山田神社(ととりやまだじんじゃ)。(注:現在は南山田村にある。)
¶鳥取神社(ととりじんじゃ)。(注:現在は北山田村にある。一説には梅戸村にあるという。)鳥取連(ととりのむらじ)の祖である天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)を祀る(注:『古事記』『姓氏録』、土地の人の説による)。
¶大谷神社(おおたにじんじゃ)。(注:もとは大泉村の神貝の地にあったが、後に村内の東一色の春日の祠の中に移り、大谷春日という。)
¶賀毛神社(かもじんじゃ)。(注:現在は治田郷垣内村にある。)鴨県主(かものあがたぬし)・治田連(はるたのむらじ)らの祖である彦坐命(ひこいますのみこと)を祀るとされる(注:『姓氏録』『延喜式』による)。
¶星川神社(ほしかわじんじゃ)。(注:現在は星川村にあり、星川明神と称される。)星川朝臣(ほしかわのあそみ)の祖である武内宿禰を祀るとされる(注:『古事記』『姓氏録』『延喜式』による)。 延喜の制では、十座はいずれも小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶桑名郡(くわなぐん) 十五座
¶多度神社(たどじんじゃ)。また多度大神宮ともいう(注:『続日本後紀』による。現在は多度村にあり、多度明神と称される。)伝えでは天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀るという(注:『神名帳考証』『伊勢地志』による)。桑名首(くわなのおびと)が奉祀するところとされる(注:『姓氏録』の大意による)。延暦元年、従五位下に叙せられた(注:『続日本紀』による)。仁明帝の即位に正五位下に進み、承和六年、さらに一階を加えられ、同十一年、従四位下に陞った(注:『続日本後紀』による)。文徳帝の即位の初め、官社にあずかった(注:『文徳実録』による。本書には官社にあずかったことがすでに九月甲申の条に書かれているが、また十月癸丑の条にも重ねて書かれており、おそらく一方に誤りがあるのであろう。)貞観元年、従三位から正三位に進み、まもなく従二位に陞り、官を差して神宝を奉らせた。同五年、正二位を加えられた。仁和三年、勅使を遣わして幣を奉った(注:『三代実録』による)。延喜の制では名神大社に列せられている(注:『延喜式』による)。宮のかたわらに小さな社があり、一目連社(いちもくれんしゃ)という。相伝では大神の子である天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀るという(注:『神名帳考証』による)。すなわち伊勢忌部(いせいんべ)の祖である(注:『古語拾遺』による)。
¶桑名神社(くわなじんじゃ)二座。(注:現在は桑名駅にあり、三埼明神という。)桑名首の祖を祀るとされる(注:『姓氏録』『延喜式』による)。
¶佐乃富神社(さのふじんじゃ)。
¶尾津神社(おつじんじゃ)二座。(注:現在は尾津郷小山村にあり、尾津宮と称される。)日本武尊および稚武王(わかたけのみこ)を祀るとされる(注:『旧事本紀』『延喜式』による)。日本武尊が東征の際、尾津浜に至って食事を進め、一振りの剣を松の下に遺して去った。還る際、その剣はなお存していた。そこで歌を作って松を賞でた。やがて病を得て能褒野で薨じた(注:『日本書紀』による)。その子の稚武王は、すなわち尾津君(おつのきみ)の祖である(注:『旧事本紀』による)。
¶小山神社(おやまじんじゃ)。(注:現在は北小山村にあり、牛頭天王と称される。)
¶野志里神社(のじりじんじゃ)。(注:現在は野代郷の郷下野代村にあり、神明と称されているのがおそらくこれであろう。)倭姫命が大神を奉じて桑名野代宮(くわなのしろのみや)に四年間いた際(注:『倭姫命世記』による)、本社はすなわちその遺址である。
¶尾野神社(おのじんじゃ)。(注:現在は東方村の東の尾野山にあり、船着明神という。)
¶深江神社(ふかえじんじゃ)。(注:現在は深江郷下深谷部村にあり、県明神と称される。)伝えでは天穂日命(あめのほひのみこと)を祀るという(注:土地の人の説による)。
¶額田神社(ぬかたじんじゃ)。(注:現在は桑名駅の西、額田郷糠田村にある。)相伝では額田部氏(ぬかたべうじ)の祖を祀るという。後宇多帝の時代、額田部実澄(ぬかたべのさねずみ)という者があり、その祖先の代からこの祀りを奉じてきたという(注:伊勢大福田寺の文亀元年の勧進帳による)。
¶宇賀神社(うがじんじゃ)。(注:現在は柚井村の宇賀石垣の地にあり、天田社という。)宇迦御魂神を祀る(注:『神祇宝典』による)。
¶中臣神社(なかとみじんじゃ)。(注:現在は桑名駅にあり、春日明神と称されているのがあるいはこれであろう。)中臣伊勢連(なかとみのいせのむらじ)の祖を祀るとされる(注:『続日本紀』『延喜式』による)。
¶長谷神社(はせじんじゃ)。(注:現在は桑部村の長谷の地にある。)
¶立坂神社(たてさかじんじゃ)。(注:現在は東方村の立坂の地にあり、神明社と称されているのがおそらくこれであろう。) 以上の十四座は、延喜の制ではともに小社に列せられている(注:『延喜式』による)。
¶官帳に載らないもの
¶瀧祭神社(たきまつりじんじゃ)。大神宮の北の河辺にあり、祠宇(しゃう)を設けない(注:旧址は水害で崩壊し、現在は子良館(こらのたち)の南に石壇があり、柴垣で囲んで祭神の場所としているという。)延暦の頃、官帳に入って大神宮の管轄となった(注:『大神宮儀式帳』による)。延喜に至ってこれを停止し、ただ瀧祭物忌(たきまつりのものいみ)を置いてその祭を主宰させた。神嘗祭には斤税十束を供える(注:『延喜式』による。本書がこの社を載せないのは、おそらく神殿がないためであろう。)
¶鴨下神社(かもしもじんじゃ)。(注:現在は城田郷狩田村にあり、下社という。)大水上の子である石己呂和居命(いわいろわけのみこと)、鴨比古命(かもひこのみこと)、鴨比売命(かもひめのみこと)を祀る(注:本書の神名には脱誤があり、今はひとまず前後の文によって補訂した。)
¶津布良神社(つぶらじんじゃ)。(注:現在は城田郷積良村にある。)大水神の子である津布良比古(つぶらひこ)・津布良比売(つぶらひめ)の二神を祀る。
¶小社神社(おごそじんじゃ)。(注:現在は湯田郷小社村にある。)大水上の子である高水上命を祀り、石を神体とする。
¶許母利神社(こもりじんじゃ)。(注:もとは宇治郷松下村にあったが、現在は廃絶している。)粟島神(あわしまのかみ)の霊を祀る(注:粟島神は、おそらく志摩の伊射波神(いざわのかみ)であろう。)
¶新川神社(にいかわじんじゃ)。(注:古市町久世戸坂の南の岬に二河山法泉寺(にがさんほうせんじ)があり、その前庭に二河堂(にがどう)がある。おそらく「二河」はすなわち「新川」の訛りであろう。二河堂はあるいは本社の旧址であろうか。)大水上の子である新川比売命(にいかわひめのみこと)を祀る。
¶石井神社(いわいじんじゃ)。(注:現在は宇治郷岩井田山にあり、山神社という。)高水上命を祀る。
¶宇治乃奴鬼神社(うじのぬきじんじゃ)。(注:現在は宇治郷楠部村の西の牟幾多森(むきたのもり)にある。牟幾多はおそらく奴鬼(ぬき)の訛りであろう。)高水上命を祀る。
¶加努弥神社(かぬみじんじゃ)。(注:現在は宇治郷鹿海村大森にあり、大宮、また氏神と称される。)大歳神の子である稲依比女命(いなよりひめのみこと)を祀る。
¶川相神社(かわあいじんじゃ)。(注:現在は風日祈宮(かざひのみのみや)の西にある。)大水上の子である細川水神(ほそかわのみずのかみ)を祀る。新川社以下の五神は、いずれも石を神体とする。
¶熊淵神社(くまぶちじんじゃ)。(注:現在の五十鈴川の上流、雲出谷の南に小さな祠があるのがおそらくこれであろう。)大水上の子である多支大刀自神(たきのおおとじのかみ)を祀る。
¶荒前神社(あらさきじんじゃ)。国生神の子である荒前比売命を祀る。
¶那自売神社(なじめじんじゃ)。(注:『大神宮雑事記』には奈宇志禰(なうしね)という地名がある。文永の『遷宮沙汰文』には岡田納米(おかだのうめ)という地名がある。奈宇志禰・納米は、いずれも那自売と同じである。現在、岡田中切町に納米産神社があり、おそらく本社の遺址であろう。)大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)、およびその霊である御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)を祀る。
¶葦立氐神社(あしたてじんじゃ)。宇治郡比女命(うじこおりひめのみこと)の子である玉移良比女命(たまうつらひめのみこと)を祀る。右の三神も、いずれも石を神体とする。
¶牟弥神社(むみじんじゃ)。大水上の子である寒川比古(さむかわひこ)・寒川比女(さむかわひめ)の二神を祀る。以上の十四社は、いずれも度会郡にある。倭姫命が祝と神田を充て、大神宮の管轄となったが、祝(はふり)の徭役(ようえき)は免れなかった。延暦の頃には官社に列せられず、田社(たしろ)と号したという(注:『大神宮儀式帳』による)。
¶伊我理神社(いがりじんじゃ)。(注:『神祇本源』には大国玉比売社の南の迫(さこ)にあるという。現在は宮山の大国谷にある。)
¶県神社(あがたじんじゃ)。(注:「県」は「懸」とも書く。現在は高向郷高向村の宇須乃野社の境内にある。)
¶井中神社(いなかじんじゃ)。
¶打懸神社(うちかけじんじゃ)。(注:「打」は「撫」とも書くが、おそらく後人が斎宮の忌詞(いみことば)に基づいてこれを改めたのであろう。『神祇本源』には山幡大河内社の東にあったが、後に山田の也婆古山(やばこやま)に移ったとある。)大治三年、正五位下から従四位下に進み、度会河堤の守護神とされた(注:『神祇本源』による)。
¶赤崎神社(あかさきじんじゃ)。(注:一本には志等美と作る。『神祇本源』には智久私島(ちくしじま)にあったが、後に志摩国答志郡(とうしぐん)鳥羽藤郷に移ったとある。)
¶毛理神社(もりじんじゃ)。(注:現在は箕曲郷新開村の河原大社の境内にある。)
¶大津神社(おおつじんじゃ)。(注:現在は高向郷王中島村にある。)
¶士売屋神社(しめやじんじゃ)。(注:「士」はまた「志」とも書き、一本には「土」とも書く。現在は高向郷大湊の西にある。)
¶以上の八社もまた、いずれも度会郡にあり、度会宮の摂社である。延暦の頃、禰宜・内人(うちんど)が祝(はふり)らを率いて年中三度の祭を供奉し、後にこれを恒例とした(注:『止由気宮儀式帳』による)。
¶忍坂神社(おしさかじんじゃ)。現在その所在は詳らかでない。大同元年、本国および但馬国に封戸(ふこ)三戸を定められた(注:『新抄格勅符』による)。
¶村上神社(むらかみじんじゃ)。
¶簀乃波神社(すのはじんじゃ)。二社の所在もまた詳らかでない。仁寿三年、村上神が名神にあずかった(注:『文徳実録』による)。貞観五年、簀乃波神が正六位上から従五位下に進んだ。
¶火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)。現在は三重郡にある(注:郡名は『伊勢地志』による。「火」はあるいは「大」とも書く。采女郷八木村にある。)貞観八年、従五位下に叙せられた(注:『三代実録』による)。延喜の制では、斎宮の月次祭(つきなみのまつり)にあずかる(注:『延喜式』による)。
¶大奈保見神社(おおなおみじんじゃ)。現在その所在を失っている。延暦の頃、神衣祭(かんみそのまつり)の日に蓑笠(みのかさ)一具を献じることを恒例とした(注:『大神宮儀式帳』による)。
¶風神社(かぜのじんじゃ)。また風日祈社(かざひのみしゃ)ともいう(注:弘安九年の『大神宮参詣記』、『神名略記』による)。度会郡にある(注:現在は大神宮の西南、五十鈴川の南にある)。級長津彦(しなつひこ)・級長戸辺(しなとべ)の二神を合祀する(注:『神名秘書』『神祇本源』『元元集』による)。延暦の頃、神衣祭の日に蓑笠一具を奉ることを恒例とした(注:『大神宮儀式帳』による)。文治三年、源頼朝が神馬一匹を奉り、弟の義経を逮捕できるよう祈った(注:『東鑑』による)。建保の頃、朝廷は本国朝明郡の岩田御園(いわたのみその)を風日祈祭の祭料に充てた(注:弘安九年の『大神宮参詣記』による。郡名は『神鳳抄』による)。外宮の末社にもまた風神社がある(注:現在は度会宮の東南、多賀山の麓にある)。これも二神を祀る(注:『神名秘書』『神祇本源』『元元集』による)。弘安四年、蒙古の難を祈って二社に幣を奉った。大神宮禰宜の荒木田尚良(あらきだひさよし)、豊受宮禰宜の度会貞尚(わたらいさだひさ)らが「二宮の末社である風社は、震動がやや久しく続いております。七月六日に至り、紅雲(こううん)が簇がり起こり、大風が激しく吹き荒れました。人々はみな『海の賊の敗亡の兆しである』と申しております。もしこの事が事実であれば、宮号を賜り、神威を増していただきたく存じます」と奏上した。ほどなく賊の艦船は果たして漂没し、溺死する者がほとんどであった(注:『太平記』、弘安九年の『大神宮参詣記』による)。永仁元年に至り、二社を陞せて宮とし、官幣にあずかり、二宮の別宮とした。嘉元の頃、殿舎を改造し、旧来の制を増した(注:『神祇本源』『元元集』による)。
¶土神社(つちじんじゃ)三座。度会郡にある(注:『神名秘書』『神祇本源』はいずれも豊受宮と多賀宮の二宮の間にあるとし、現在も同じである)。大年神・宇賀魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、土御祖神(つちのみおやのかみ)を配祀する。大年神・土御祖神は、いずれも鏡を神体とし、宇賀魂神は宝瓶(ほうびん)を神体とする(注:『神名秘書』による)。これは豊受宮の地主神(じぬしのかみ)である(注:『長秋記』『神名秘書』による。『止由気宮儀式帳』に、九月十七日に大宮地神(おおみやどころのかみ)に酒を献じるとあるのは、おそらくこの社を指すのであろう。)大治三年、社をあらためて宮とし、官幣にあずかり、神殿を改造して旧来の制を増した(注:『長秋記』『神祇本源』による)。
¶志摩国(しまのくに)
¶答志郡(とうしぐん) 三座
¶粟島坐伊射波神社(あわしまにますいざわじんじゃ)二座。また粟島神ともいう(注:東大寺正倉院文書、『新抄格勅符』による。現在は磯部荘上郷村にある。)その一座はおそらく伊佐波登美神を祀るのであろう(注:『大神宮本源』、『倭姫命世記』の大意による。世には、伊雑(いぞう)と伊射波(いざわ)は音が相近いために混同して一所とする説もあるが、宮と社はもとより別であり、また東大寺正倉院文書に載る本国の解文(げぶみ)や『新抄格勅符』には粟島神戸(あわしまのかんべ)・伊雑神戸(いぞうのかんべ)という語があって、両社が別であることは明らかである。そのためこの説は採らない。)神亀の頃、本国の神戸(かんべ)の課丁(かちょう)六人があった(注:東大寺正倉院文書による)。大同元年、封戸二戸を定められた(注:『新抄格勅符』による)。延喜の制では、ともに大社に列せられている(注:『延喜式』による)。後に本国の一宮と称された(注:『一宮記』による)。
¶粟島坐神乎多乃御子神社(あわしまにますかみおたのみこじんじゃ)。(注:現在は伊射波社の南の山上にあり、高宮という。)延喜の制では小社に列せられている(注:『延喜式』による。『大神宮儀式帳』には、佐美長社(さみながしゃ)の祭物は伊雑宮からこれを充てるとある。「長」は「をさ」(乎左)と読み、「神乎多」と訓が相近く、おそらくこの神であろう。)